それは金曜日のことだった。
書類の内容が一向に頭に入ってこない。
「ああ。くそっ」
唸って、彼は髪をかきむしった。ワックスで整えられた髪形は一瞬にして無駄になった。
龍司には稀に、随分前の事柄についての思考が今頃になってどっと押し寄せてくることがある。それは気になることがあるが
とりあえずは他にしなければならないことがある時、前者を一時的に忘れて後者に集中するという誰しもがやっていることを、
彼が時たまきわめて極端にやってしまうことの反動として、稀に現れるものだった。
随分前の事柄というのは、先週の土曜日のことだった。
あの後、瑞希はうって変わって一言も口をきかなくなった。あからさまではなかったが、避けるようなそぶりも見せた。
それは一概に嫌悪して、と言えない風ではあったものの、関係はあきらかにそれまでより悪くなっていた。彼女を家に送り返した
際、彼女は最低限の行動だけで車を降り、そして一度も振り返ることはなかった。
一旦普通に話せるまでになっていただけに、自業自得だとは言えこたえた。自分はこれほど短絡的であったかと今更になって
思う。頭の中と感情は水と油のように分離し合い一向に元に戻る気配がない。
彼は額に手の甲を当てた。熱っぽい気がするが休む気にもならない。何もせずに休んでいればもっとひどい状態になるのは
目に見えている。
彼はこれまでの人生で、まさか自分がこんなことで思い悩むとは微塵も考えたことがなかった。それゆえにどうしていいかも
わからなかった。否、正確にはどうすればいいのかはわかる。ただそれを実行できるだけの胆力を維持できる自信が、今の
彼には全くなかった。
先々週はまだ冷静に対処できたのだと言い訳してみてもどうしようもない。先々週はまだ、彼女を前にして冷静に考える
だけの余裕を持ち合わせていた。だが先週にはもうその余裕は失われていた。
こうなることがわかっていても踏み込むことが出来ない。自分が何を恐れているのかすら解らない漠然とした状態がずっと
続いている。そして事態は好転しない。
針の筵だ。
書類にひたすらサインするという単調な(実際には単調ともいえないが、とりあえずすること自体は単調である)作業すら
まともにこなせない。彼の上司がこれほど仕事に集中できなくなるなど珍しいことだ。
もっともこれまでそんなことが無かったわけではなく、この若い取締役が就任して以来ずっとその秘書を務めてきた彼は
そのまま自分の仕事を続けた。それが思いやりと言うものだ。なに、彼など前代社長の征二郎氏に較べれば何倍も――言い方は
悪いが――扱いやすい。今の取締役の下に付く前は社長秘書だった彼は平然とパソコンのキーを叩いた。
部屋中にばきりという音が響いた。一瞬沈黙が落ちる。
「……」
取締役が筆圧を掛けすぎて折ってしまったペン先を仏頂面で見つめている。書類は跳ねたインクでべっとりと汚れていた。
秘書は静かに執務机まで近づくと、黙って新しい万年筆を机の上に差しだし、汚れた書類と折れた万年筆を撤去した。取締役は
それも仏頂面で見つめていたが、程なく仕事に戻った。それまでよりは幾分冷静になったか、黙々と書類の束をめくり始める。
願わくばそのままで行って欲しいものだが、それにしてもさて、明日までに仕事はどれだけ押すだろうか。既に明日以降の
フォローの方法を頭の中で幾通りか組み立てながら、彼は万年筆のペン先を変えはじめた。一分程度を費やし、やっと自分の
デスクへ戻ったところで、今度は電話が鳴った。きっかり3コールで電話に出た彼は通常こういった職場にはあまり縁のない
場所からの電話であったことで表情を引き締め、内容を聞いたところでさっと青ざめて直ちに取締役に電話をつないだ。
目が覚めると、龍司は既に着替え終わり、ドリンクを飲みながら彼女が目覚めるのを待っていた。目が合った瞬間、彼女は
やっとのことで起き上がり、逃げるようにシャワー室に飛び込んだ。
スカートはもう履けなくなっていたので、身体を洗った後は服を買ってもらう前の格好に着替えた。着替え終わった後も脱衣所を
出るまでに十分もかかった。つまりは、龍司と顔を合わせたくなかった。眠っているときはあんなに見入っていたのに、いざ
こちらを見る瞳と目が合ってしまうと、怖くなって目をそらしてしまった。
その後はもう、口も利けなかった。
拒んでも話をしても駄目だった。龍司さんは私を手放してはくれない。それが何故かは解らなくても、その事実だけはわかった。
彼女は長く続いたストレスについに折れかけていた。それは自分でも認めざるを得なかった。怖くないとどれだけ言い聞かせても
もう駄目だ。もう、どうしていいかわからない。次に会うのは明日だ。明日、彼はまた来るのだろうか?来たとしたら、その時私は
どういう反応をすればいいのだろうか。たとえどうにもならなくても、拒み続けるべきだろうか。それとも観念して全てを
受け入れるべきだろうか――
「瀬戸さん、聞いてるの?」
「あっ」
延々と続けていた話を切って、同僚が訊いてくる。瑞希はぱっと笑顔を取り繕って頬杖をといた。
「あ、うん、聞いてる聞いてる」
「大丈夫?なんか最近、疲れてるっぽくない?」
身を乗り出す同僚に瑞希はあわててぱたぱたと両手をふって見せた。
「そう?大丈夫だよ。何でも聞いてあげるっていったじゃない、ほら、続けて続けて」
「ホントに聞いてたの〜?」
同僚はふふ、と笑った。
「じゃあテスト。先週私が行った合コンの場所はどこでしたか?ちゃんと言ったはずよ、さあ答えろ」
「う」
しどろもどろで瑞希は脳をフル回転させた。頭の中で知っている食事店の名前を片っ端から引っ張り出す。
「えーとえーと……『パンドラ』!」
「ブッブー」
顔の前に指で作ったペケマークを出されて瑞希はひるんだ。同僚はこれ見よがしにため息をつく。
「正解は駅前の『ボン・マルシェ』です。まったくもう!ふられた話を親身になって聞いてくれないなんて、トモダチ失格だあ」
「はは、ごめん」
ふられたとはいえ合コンでの話なので会話は軽い。週末、会社帰りのファーストフード店(この辺は学生とあまり変わらない)で、
事務員の同僚は頬をぷっくりと膨らませた。
「マジむかつくわ!本命は私の隣の子だったですってえ?ふざけんじゃないわよ!ちょくちょくその子のところに行ってたから
もしかしたらとは思ってたけど……あー、くやしいっ。じゃあ私は何よっ。保険?ざけんなって感じじゃない?」
恋多き同僚は憤慨した様子でそう述べた。その話はかれこれ三十分は続いているが一向に止む気配を見せない。これが、普段は
気のいいこの同僚の悪い癖だ。今日の瑞希は終業後も特に営業の約束はなかったので付き合っていたが、流石にいささか辟易して
いるところだ。
もちろんまだまだ彼女の舌鋒は止まない。
「たしかにあの子、可愛かったけどさあ。見た目で女判断するなんて最悪だと思わない?でもその子、たぶんあいつには興味
なかったわね。絶対無理だわ。いい気味よ。もしどこかでまた会うことがあったら腹いせに新しい男――あ、もちろんそいつより
いい男よ?――彼氏だって言って紹介してやるっ。あ、この際瀬戸さん、あなたでもいいわ。あなたホント外見男だもんね?
着てるものまで男だし。よし、これいいわ、これでいこうっ」
「合コンでふられた意趣返しでそこまでする?」
というか虚しいだけでは?という疑問は口に出さず、瑞希は苦笑した。同僚はひとしきり鬱憤をぶちまけた後、「あ、でも」と
疑問の表情を見せた。
「前から思ってたんだけどさ、瀬戸さん。スーツ、なんで男物なの?女の子にしては背高いから男物も着れるんだろうけど」
「うーん、便利なんだよね。裏地無いから洗っても早く乾くし。安いのも多いし。私貧乏だから、あんまり着数持てないんだ。それに
女だと利点も多いけど、なめられるんだよね、やっぱり。特に相手側が個人じゃなくて、企業だと。折角男みたいな見てくれしてるん
だから、どうせだったら男と間違えられた方が、相手もちゃんと話聞いてくれるの」
あらかじめ用意していた(入社時上司にも尋ねられたがその時には後者の理由を告げた。もちろんオブラートに包んだ言い方は
したが)説明をすると、彼女はあっさりと納得した。
「ふーん。営業は大変だよね、自前のスーツじゃないといけないもんねえ」
同僚はチキンナゲットをぱくついた。箱を瑞希のほうに差し出し、「一個どう?」と勧める。こういう場所に誘うのは大抵同僚から
だが、瑞希は金の無いなりに付き合うことにしている。常に百円シリーズのSサイズシェイクの彼女を同僚は理解し、自分の好きな
ように物を頼み、ぱくぱくと遠慮なしにほおばっている。普段はそんな同僚が時折あくまで押し付けがましくなく、気まぐれのように
「一個どう?」といってくれるのは、彼女がただの無遠慮な少女では無い証拠だった。瑞希はありがたく頂戴した。
「瀬戸さんって時々さ、本当に男みたいでびっくりするときある。どーんって喋って、すごくさばさばしてるの。性格が変わってる
わけじゃないんだけどさ、なんか、態度が男なんだよね、完っ璧に」
「うん。なんていうか、説明するの難しいんだけど」
瑞希は鼻の頭を掻いた。
「ONとOFFみたいに身体の中で男と女のスイッチがあってさ、それを切り替えるとそっちになるの。中学までは部活で演劇
やってたんだ。本当は体力付けたくてはじめた部活だったんだけど、そのころ私、いろいろあってすごく男になりたくってね。
男の役が好きで、男役ばっかり希望してて、それに沿うように練習して――いつの間にかそのスイッチが自由に切り替えられるように
なってたの。最初のうちは必死でやってたけど、なれると割と面白いよ。男な時に自分が女なこと思い出しちゃうともう駄目だけどね」
「うわー、わけわかんない。ビョーキかもよそれ」
「そうかもねー」
はははと笑うと彼女らは揃ってナゲットを齧った。
その時、何かが細かく振動する音が響き、瑞希は自分の鞄に目をやった。思い当たるものがある場所へ手を伸ばすと、果たして
振動する携帯電話があった。
「あれ?誰だろ」
「なあに?取引先?」
「そうかも。ちょっとごめん」
「んんー、いいよ」
席を立ち、店の外へ出ると、瑞希は液晶画面を覗き込んだ。知らない番号だった。顧客からいつ電話が掛かってきてもいいように
非通知設定はしていない。当然、知らない番号でも出るものだ。
しかし電話の向こうから聞こえた第一声はどこの取引先のものでもなかった。
『瑞希。俺だ』
彼女は飛び上がりそうになった。
「龍司さ――」
彼女は言いかけ、急に心胆が冷えたのを感じた。今この人と話すのは怖い。しばらくの間言葉を継げず、ようやくおそるおそる口を
開く。
「……なんでこの番号を知ってるんですか」
『いつだったかな』
龍司はこともなげに言った。
『帰り際に番号貰っといた。気付いてなかったか』
「……」
彼女はただため息をつき目を閉じた。貧乏で携帯電話など持てるはずのない彼女が今持っているのは会社のものだ。龍司ならそれが
解らないはずがない。その時ばかりは自分の恐れなどよりも一般常識が勝った。彼女は携帯に向かって叫んだ。
「私が持ってる携帯なんて、会社のだってわかるでしょう!?それにかけてくるなんてっ」
『こんな時でなきゃ使うつもりなんてなかったさ』
龍司の声音が緊張したものであることに彼女はようやく気付いた。
「何?何なの」
携帯電話に耳を押し付けて彼女は訊いた。龍司の答えはシンプルだった。
『叔父さんの容態が急変したそうだ』
「――」
番号を勝手に攫った龍司を責めることは頭から吹っ飛んだ。かわりに瑞希は携帯を握り締めた。
「すぐに行くわ」
『お前は来るな』
「えっ」
意外な言葉に瑞希は一瞬絶句した。
「どうして!」
『お前が来ても、話をややこしくするだけだからな』
龍司の言葉に彼女はむっとした。
「そんなことないわ」
『自覚がないからどうしようもない』
「――」
もう一度、そんなことはない、と言い掛け、彼女は押し黙った。やましくはなくても、確かに自分は物言いがいささかはっきり
しすぎている。自覚がないといわれれば一瞬考えてしまう。
彼女が黙り込んだその隙に龍司はもう一度繰り返した。
『来るな。おとなしくしてれば、後で俺が責任持って状況を教えてやる』
「……」
『お前だって自分の立場くらいわかってるだろう。これから病院には親戚中が集まる。今までお前を庇ってくれてた叔父さんが今
危ないんだ。お前が迂闊な事をすればお前の立場はすぐに危うくなるぞ。お前が来ないことについては俺からフォローを入れて
おいてやる。悪いようにはしない。俺を信じろ、瑞希』
驚くほど真剣な声音だった。その声を聞いた瞬間彼女は躊躇し、考えた。
『いいな?』
龍司は確認するようにそう尋ねてきた。
瑞希は無言だった。動揺から頻繁に瞬きをし、最後にぐっと瞼を閉じる。私はどうするべきか。行くべきか、それとも龍司に従う
べきか。
しかし立場や思惑の全てを超えた何かが彼女の背中を押した。彼女ははっきりと言った。
「嫌」
『なっ』
今度は龍司が絶句する番だった。瑞希は叫んだ。
「行きます!」
『おいっ』
瑞希は龍司の声を無視して一息に携帯を切った。彼女の中でかちりとスイッチが切り替わった。
龍司は苛々と踵を鳴らした。歩いているわけではなく陰鬱にその場で立ち尽くしているだけなのだが、それでもいらついて
いるとき自分にはこんな癖があったのかと彼はさらに陰鬱になってそれを止めた。
訪問者は予想外に多かった。週末なのが影響しているのだろう。その階の待合ホールを身内だけで占拠しているのは肩身が
狭いが、他にどうすることも出来ないので仕方がない。
狭いホールには実に十人以上の男女がひしめいていた――もっともそのうち男は自分一人だけだったが。いずれも龍司に
とってはよく見知った顔ばかりだ。みな一様に暗い顔だった。内心のところはどうだか知らないが。自然にいくつかのグループに
分かれ、懇意にしているもの同士だけでひそひそと何事かを囁き交わしている。
龍司は女という生き物のこういうところは大嫌いだった。つるまなければ何も出来ない。しかもどうしてこう、彼女らという
ものは陰湿なのか――人の事を言えた義理ではないが。彼は彼女らの事を考え続けるのはやめた。無意味だし、何より今はそんな
場合ではない。しかしこの状況では仮にここにいる全員が男だったとしてもこの状態はそうは変わらなかったろう。性別が問題
なのではない、結局は構造が問題なのだ。それをどうもしなかったことだけが、今死の床に伏せっている叔父の悪い部分で
あるのだろうと思う。
この中に母はいない。いたところでさらに自分が陰鬱な気分になるだけなのでいてくれないほうがいいが。どこかのグループに
入り込めるほど器用でも協調性があるわけでもないし、もともと兄である征二郎に何の感慨も抱いていなかった女だ。いたほうが
不思議だ。
龍司は時計を見た。夜の八時を回ったところだった。
面会謝絶。それが今の叔父の状態だ。
「……」
龍司はきつく目を閉じた。担当医にはよく保っている方だと言われた。つまり、これから先は全く予想がつかないということだ。
もともと心臓の病気で、いつ急逝してもおかしくない発症の仕方をする病気だったから、龍司も既に心の準備は済ませていた。
つもりだった。しかし実際には、今、彼の心中は穏やかには程遠い状態だった。叔父は厳しい人だが、愛情もあった。それは
単に自分が大鐘家の中でたった一人の男子であったから向けられていたのかもしれないが、少なくとも救いにはなってくれた。
その叔父が危篤に陥ったことは、思った以上に彼の心にさざなみを立てた。
そしてそんな中でも龍司には気がかりがあった。それは瑞希だった。彼女は口約束を反故にしたことはない。あの態度からして、
いずれ必ずここに来る。ついでに言うと、彼女は他人の神経を逆なでしやすい――特にこういった他人と協調することをよしと
する類の人間の。彼女は自分の考えを持てない、あるいはあらわせない人間に対して、意識しての事ではないのだろうが、冷たい。
それは彼女の美徳であり、それ以上に欠点だった。ここにいる誰一人としていい感情を持っていない――龍司とて表の顔は例外では
ない――瑞希がいざ現れたときどの程度の騒動になるかはひとえに瑞希の言動に掛かっている。おとなしくしていてくれれば
いいがと彼は不安な面持ちの口元を手で隠した。
叔父の病室のドアが開いたのはその時だった。
「妙さま」
「妙さま!」
何人かが病室から出てきた婦人の名前を呼んだ。
「皆、静かになさい。病院の中ですよ」
妙はホールまで出てくると言った。まとわりつく女たちを制止し、一歩引いて全員を見回す。
「心配をかけるわね」
彼女が女たちの思惑を把握していないはずは無いが、妙はまるで表に出さなかった。彼女も自分と同様、征二郎の急時を預かる
身である。同じ立場の人間として、改めて龍司は彼女を尊敬した。
「今夜が山だそうです。できれば皆にも面会させてあげたいけれど、無理だそうなの。本当にごめんなさいね」
妙は淡々としゃべった。
「今日は一旦解散するわ。峠を越えたとしても面会は出来ないだろうけれど、それでもよければ、また来て頂戴」
その言葉は征二郎の容態が予想以上に悪いことを感じさせる台詞だった。龍司は黙って視線を落とした。
かしましい女たちはてんでばらばらに移動を開始した。エレベーターに向かう者、階段に向かう者、あるいはその場に留まる者。
その中で妙は真っ先に龍司を見た。
「妙さん――」
「龍司さん」
妙はすっと龍司のそばに歩を進めた。
「気を落とさないで。ね?」
「……」
妙は自分がどういう風に育ってきたかをよく知っている。彼女は龍司の耳元でさりげなくそうささやいた。
「ありがとうございます」
かすれた声しか出なかった。一番つらいのは彼女だろう。そう思うと感情を堪える気にもなる。ぐっと口元を引き結んで、彼は
背筋を伸ばした。
「後は任せてください。妙さんは叔父さんの傍に――」
その時だった。階段の踊り場からその場に飛び込むようにして紺色のスーツ姿が現れた。靴を大きく鳴らして闖入し、たった今
出て行こうとした女性と鉢合わせになる。スーツの人物は女性を押しのけるようにして必死の表情でこちらに向かってきた。
「遅くなって申し訳ありませんっ」
瑞希はそう言葉を発して妙の元に駆け寄った。
「妙様っ!お爺さまはっ」
「瑞希」
龍司は短く呼びかけた。瑞希ははっとして龍司を見た。龍司にすらこの反応では、まさに妙だけしか目に入っていなかったようだ。
龍司はたった今、瑞希が押しのけてきた女性を視線で示した。
「お詫びくらいしろ。失礼だ」
瑞希は一瞬わけがわからないという風に瞬きをし、それからやっと気が付いたようにあ、という表情をした。瑞希は身を翻し
取り繕うように頭を下げたが、女性は機嫌を直した様子はなくついとそっぽを向いて立ち去った。
「……」
それ以上かける言葉を見失った様子の瑞希に、妙が声をかけた。
「瑞希さん」
妙は瑞希の肩に手を置いた。和むような表情を見せるが、すぐに険しい顔になる。
「征二郎は重態です。万が一のことも覚悟してね。でも、気はしっかり持って。頼りにしてますよ」
「――」
瑞希はしばらくの間言葉を詰まらせていたが、最後には、
「はい」
とかすかな声で呟いた。
「龍司さん。お言葉に甘えることにするわ」
妙は瑞希に椅子を勧めると龍司に向き直った。肩を落として待合室のベンチに向かう瑞希を見送る龍司を見上げる。
「私はもう少し征二郎についています。申し訳ないけれど後をよろしくね」
「はい」
妙はつと声をひそめ、もう一言付け加えた。
「感情的になっては駄目よ。くれぐれもね」
「――」
その台詞に、またも心の内を読まれた気分になり、彼は自省した。ひとつ深呼吸をする。ゆっくりと身体から力を抜き、彼は
答えた。
「わかっています、叔母さん」
昔の呼び方をすると彼女はにっこりと微笑してみせた。そのまま、叔父の病室へと戻っていく。小さな背中を見送り、龍司は
さて、と気を引き締めた。
「瑞希」
龍司は瑞希に目をやった。
「お前も帰れ。もうここにいる必要はない」
瑞希は頭を振った。
「遅れてしまいましたから。もう少し、ここにいます」
瑞希はそう答え、隅のほうで並んだ椅子に腰をかけた。広げた膝に肘を付き、手を組んで床に視線を落とす。こんな時でも
親戚の前ではきっちり男を演じている瑞希を見、龍司はわずかに舌打ちをして冷たく言った。
「好きにしろ」
自分はやはり、男の瑞希は好きではないようだ――女の瑞希を知ってしまった後では余計に。口調や立ち居振る舞いはともかく
性格は何ら変わっていないというのに、この落差は一体何なのだろう。
答えは簡単に出た。たぶん、男だと抱けないからだろう。
「ねえ、龍司さん」
若い、瑞希より一つか二つ程度年下に見える小柄な少女が龍司のそばにつと寄ってきた。可愛らしい少女で、不安げな表情を
纏っている今ははかなさを前面に押し出した雰囲気を持ち、男の保護欲をそそる類の魅力を振りまいている。クリーム色の
上品そうなワンピースを身につけた彼女は世間知らず特有の無邪気な仕草で小首をかしげた。
「お爺様が亡くなっても、私たち、大丈夫よね?」
龍司の腕に小鳥が止まるように纏わりつき、その手をとって包むように握る。細い眉をひそめて彼女はうつむいた。
「私、来年進学ですもの。これまでどおり支えていただけないと、志望の大学には通えないわ」
「大丈夫よ、美弥」
遅れて龍司の傍に近づいてきた赤いスリーピースの女性がそう言い、龍司に軽く会釈をした。
龍司も会釈を返した。女性は少女の柔らかそうなウェーブがかった髪を撫でた。
「征二郎さんが亡くなったら、龍司さんが後を継がれるんですもの。ねえ、龍司さん?」
「ええ、そうです」
龍司はうなずき、少女と視線を合わせた。
「心配するな、美弥。お前が大学に行く間、俺が責任もって助けてやる」
「ありがとう、龍司さん!」
華やかな笑顔を見せる少女に龍司は笑いかけ、年配の女性に向き直った。
「昭世さん、美弥の勉強をしっかり見てやってください。彼女には俺も期待しています」
「まあ。聞いた?頑張らなくては駄目よ、美弥」
「はい!」
小鳥のさえずるような声で少女は応えた。母親は娘の反応を見て満足そうに目を細めた。
「さ、もう帰りますよ、美弥」
「はい、お母様」
踵を返す娘を見ながら、彼女も「では」と龍司に頭を下げ、ふと付け加えるように龍司に言った。
「ごらんになりました、龍司さん?あの子、どうも龍司さんを好いているようですのよ」
「それは。光栄ですね」
「血縁としては無いも同然ですし、私としても咎めるつもりはございませんの」
「おや」
龍司は眉を上げて微笑してみせた。
「いいんですか?大事なお嬢さんを」
その問いには答えず、ほほ、と口元に手を当てて彼女は笑った。
その時がたんと大きな音をさせて、瑞希が椅子から立ち上がった。全員の視線が集まった。
「やめてください!」
仁王立ちになり目を伏せたまま瑞希は叫んだ。
「どうしてそんな話ができるんですか!こんな時にっ」
この場に相応しくない大きな声で、瑞希は彼らを責めた。場がしんと静まり返った。
その瑞希に、龍司は何の感慨も沸かなかった。龍司が向き直ったとき、ぱっと、ワンピースの少女が龍司の前に出た。
高いミュールを履きなれた様子の踵が高い音を立てる。
「あなたには関係ないわっ。口出ししないで下さらない?」
柔らかく少女らしい仕草で美弥は言った。
「関係はあります!」
瑞希はさっと顔を赤らめ、憤慨した様子で言い返した。
「俺だって――俺だって、お爺さまの孫だっ」
「本当はこの家にいられる人じゃないくせに」
無邪気に、さらりと美弥は言葉を発した。
「この家の男性は征二郎お爺さまと龍司さんだけで十分だわ。あなたはご自分のお家にお帰りになったら?」
「っ」
瑞希は一瞬言葉を詰まらせたが、再び顔を上げた。
「……そうすることはできません。この大変なときに――」
「黙ってろ、瑞希」
言葉と言葉の切れ目にタイミングよく入り込んできた言葉が二人の口論の糸をぷつりと切った。
龍司は
「この子のいうとおりだ。お前が口を出すことじゃない」
「……龍司さん?」
瑞希は目を見張って龍司を見た。動揺した様子のその瞳が一瞬、土曜だけのものに変わった。
「――」
龍司は不覚にもわずかに平静を欠いた――不意打ちをくらった気分で息を詰める。彼は精神に咄嗟に堰を下ろし、それ以上
厄介な情動が流入してこないようせき止めた。
龍司はきつく眉をひそめた。事情を知らない人間なら単に瑞希を忌々しく思っただけに見えただろう。もしかしたら、瑞希にも
そう見えたのかもしれない。彼女は明らかに戸惑っていた。そしてそれでも瑞希は口を開いた。
「しかし、今話していたことは!お爺さまが……お爺さまが」
「亡くなった後の話をしていたことか?」
「――」
あっさりと口にした龍司に、瑞希は血の気が引いたように真っ青になった。
「……」
龍司は無表情に瑞希から視線を外した。完全に冷えた目を取り戻し、彼は言った。
「お前にはわからんかも知れんがな。それとこれとはまったく別の問題だ」
「そんなことはありません!」
瑞希は言い募った。この時点で既に二人の論点がずれていることに瑞希は気付かなかった。そして龍司がそれに気付きながら
故意に論点を合わせずにいること、論点を合わせれば寧ろ、龍司は瑞希の意見に好意的であることも。
龍司は目を閉じた。
「お前は自分の価値観を他人に押し付けすぎる」
「でも」
「これ以上ぐだぐだ言うようなら、もう帰れ」
「…………!」
瑞希は唇を噛み締め黙って踵を返すのを、龍司はぼんやりと見送った。そして少しだけ瑞希を羨ましく思った。
おかしくなりそうだ。
瑞希は沸騰する脳をもてあまして廊下に立ち尽くした。
もうこんなところには居たくない。うんざりだ。この家の人たちはどこか大切な部分が壊れているんじゃないだろうか。
うすうす感じていたことをこの有事に見せ付けられ、彼女は形式というものの下らなさを呪った。疲れた表情で壁に背を預ける。
「……」
わかっていたことだ。彼女は繰り返した。こんなことはとっくにわかっていたことだ。こんなことは過去無かったわけではない。
むしろ親戚たちに会う度、こんな感情は何度だって味わってきた。そのうえで、自分は今もここにいる。今更これ位の事で
ショックを受ける方がどうかしている。
でも。
瑞希は我知らず深い溜息をついた。絶望の吐息を吐き終わると夜気で冷えた手を組み、熱くなった頭を冷やすように額に当てた。
(龍司さんも同じなんだろうか。お爺様のことより上辺だけの付き合いの方が大事なんだろうか?)
彼が時折叔父に対して見せていた、良い意味での執着のようなもの――瑞希はそれを好意、あるいは愛情と解釈した――
それらは全部嘘なのだろうか?龍司が瑞希の定期的な見舞いを、あくまで一面からのものではあるが心象を良くするためと
評したように、彼もまた、それだけの理由でそうしているに過ぎないのだろうか。
待合ホールで龍司に言われた台詞は、少なからず瑞希を打ちのめした。傍から見ていて薄ら寒くなるようなあの会話が、彼らに
とってそれほど大事なものなのか。皆自分の主張しか口に出さず、自分以外の人間を思いやる言葉や態度はひとつとして出て
こない。自分たちを支えている一番の存在が危ないという時に、取るに足らない家の中での立場ばかりを気にするのか――そして
彼もその中にいた。
「瑞希さん」
そうしてつらつらと考え事をしていると、知らない声に呼ばれ、瑞希はぱっと壁から背を離した。
廊下の暗いところにたたずむ小さな人影があった。
一人の老婆がいた。妙も随分な年齢だが、老婆はその妙よりもさらに年かさに見えた。背はひどく低く、真っ白な髪を結って
地味な紫の着物に木の杖を突き、大きく腰の曲がったその身体を支えていた。
「……あの」
この方は一体誰だったろうか。直接尋ねるのも不躾に思えて、瑞希は曖昧な返事だけをした。戸惑いを読み取ったか、老婆は
しわくちゃの顔を歪めるようにして笑った。
「わからないのね。無理も無いわ。紹介されたこともなかったものねえ」
彼女は歩を進めようとし、つまずいた。
「大丈夫ですか?」
歩き方さえ覚束ない女性を、瑞希は反射的に支えようとし、近づいた。手を貸すと、老婆は「やさしいのねえ」とまた笑った。
瑞希も、いえ、構いませんと返事をしながら知らず知らず微笑んだ。
(なんか、おばあちゃんと似てる)
自分の祖母と彼女を重ねあわせ、瑞希は昔祖母にしたように老いてやせた細い身体を支えてベンチのある場所まで連れて行った。
老婆は笑みを絶やさなかった。連れられるままにベンチに座り、杖にもたれ掛かりながら瑞希を見上げた。
「私は咲子と言いますよ。あなたと同じ、大鐘家の一員です。私の息子が大鐘家に婿入りさせていただいたのよ。息子は早くに
亡くなったけれど、今もお付き合いをさせていただいてるの」
「そうでしたか。失礼いたしました」
「いいえ、構わないのよ。あなたとはずっとお話したいと思っていたの」
頭を下げる瑞希を制すると彼女は「あなたもお座りなさいな」と瑞希を自分の隣へ導いた。瑞希が丁寧に辞退すると老婆は
それ以上は何も言わなかったが、代わりに別の話題を持ち出した。
「さっきのあなた。立派だったわ」
「え?」
瑞希が目を丸くすると、老婆は瑞希を見て言った。
「自分のことばかり考えている人たちをひとこと諌めたでしょう」
「あ……」
その言葉を聞き、瑞希は何のことを言われているかはすぐに理解したものの、照れが先に立ってすぐには返事を返せなかった。
彼女の言い方が、褒められる側としてはあまりにあからさまだったからだった。瑞希の様子を意に介せず咲子は続けた。
「毅然とした態度だったわ。流石は征二郎さんのお孫さんです」
「いえ……」
この家の女に良いものにしろ悪いものにしろここまで率直な意見を出されたのは、瑞希は初めてだった。恐縮し、また頭を
下げると、咲子は「そんなにかしこまらないで」と笑った。
「今、そのことで悩んでいたのでしょ?」
「……」
見抜かれていると感じ、瑞希は押し黙った。彼女は言った。
「貴方の言うことは間違ってなどいません。私が保証しますよ」
「咲子さん」
瑞希は思わず彼女の名前を呼んだ。
「私は家の中ではあまり立場の強いほうではないけど、またつらい目に会うようなことがあれば、遠慮なく言って頂戴。私で
よければ出来る限り力になりますからね」
「――」
思いがけない言葉に胸が詰まった。
「ありがとうございます」
嫌な人たちばかりだと思っていたが、こんな人もいるのだ。瑞希は何だか息苦しくなった気がして胸に手を当てた。妙だけは
例外だったが、彼女はあくまで全員の上に立つ立場であり、瑞希個人が自分の考えを無闇にぶつけられる人物ではないし、それを
やってしまえば妙の迷惑になる。家のことは基本的には第三者にはしゃべらないし、本音はなかなか出せないのが現状だった。
龍司との事が精神的にも身体的にも負担になっていることもあり、自分でも何を言おうとしているのかわからないまま、瑞希は
口を開こうとした。
わざとらしい靴音が聞こえたのはその瞬間だった。
「咲子さん」
「――」
瑞希は声も無く振り向いた。今度はよく知った声だった。咲子はおっとりと闖入者に声をかけた。
「龍司さん。わざわざこんな所へいらして、どうかなさいました?」
「いいえ」
月明かりに背を伸ばした長い影が瑞希の足元まで届いていた。瑞希は無意識に一歩下がってその影を避けた。影の持ち主は
淡々とした様子で低い声を発した。
「ただ、お話されるならもっと明るいところへいらっしゃればと思って声をお掛けしたまでです。瑞希。咲子さんはお体が
芳しくない。受付のロビーへでもお連れしたらどうだ。気が利かないぞ」
「あ……はい」
瑞希はそう応じながらもなかなか動けなかった。こんな話を人のいるところでしては咲子の立場が無いではないか。また肩を
貸そうとすると、咲子は相変わらずにこにこと笑みを浮かべて言った。
「私は大丈夫よ、瑞希さん。一人で戻れます」
「でも」
「いいのよ」
そう言い、彼女は小声で笑いかけてきた。
「またお話しましょう、ね、瑞希さん」
「はい」
瑞希がうなずくと咲子は嬉しそうに笑った。
「約束よ?」
咲子は慎重に立ち上がり、杖を支えにして病院の冷たい床を踏みしめた。今にも倒れそうな後姿を瑞希ははらはらと見送った。
龍司は咲子が完全に立ち去ったのを冷ややかな目で見届け、それから更にしばらくそうしていた後、瑞希へ向き直った。
「何やってるんだ、お前」
「何って……俺はただ、彼女と話をしていただけで」
何かおかしいかと問い返すと、龍司はゆっくりと腕を組んだ。わずかに溜息をつき、小さく頭を振る。
「本当に人を見る目が無いな、お前は」
「……どういう意味ですか」
「別に」
龍司は視線を逸らしてそう言った。
「そういう思わせぶりな言い方、やめてください。俺は嫌いです」
「いちいちお前に合わせてやるつもりは無いな」
「どうして貴方はそういう――」
「ひとつだけ聞かせろ」
急に話題を変えられる。龍司の表情が思いのほか真剣であることに瑞希は勢いを削がれた。
「……何です」
「どうしてここに来た?」
瑞希は肩を震わせると龍司を見た。龍司は冷徹な顔をしてこちらを見ていた。
「俺は来るなと言った。それが何故かは言った筈だな?なのに、どうして来た。俺の言い分は間違っていたか?」
「……いいえ……」
悔しいが、それは認めざるを得ない。そう答えた後、あれ?と瑞希は心中で首をかしげた。私はお爺さまの財産が目当てで、でも
本当はお爺さまにおばあちゃんと私の方をちゃんと見て欲しくて……
なら、どうしておとなしく龍司さんの言うことを聞かなかったんだろう。どうして私はこんな事を言っているんだろう。瑞希は
腹の底に泥のように溜まったそれらの言い訳を少しずつ取り除いていった。そして全ての泥を取り除いたとき、彼女の中でその事実は
泥の中に埋もれていた宝石の原石のように燦然と輝いていた。
「理由なんてありません。ただ、来ずには居られなかっただけです!」
はっきりと声にした途端、彼女はそれを初めて自分の本当の声と認識した。
「祖母が亡くなる前、いてもたってもいられなかった。何をしても無駄だってわかっていても、そこにいて、顔を見ていなければ
気がすまなかったんです!今日だって同じです。大事な人が危険なときに、どうして駆けつけずにいられる?貴方だってお爺さまが
心配でしょう!なのにどうしてあんな、あんな……」
祖父そっちのけで自分の立場ばかり心配している女たちと平気な顔をして話していられるのだろう。そう思うと突然目の前が
真っ赤に染まったような気がして、瑞希は息を詰めた。
瑞希は激昂していた。体中の血液が煮えたぎっていた。おそらくこれまでに無いほど、瑞希は怒り狂っていた。しかし今はそれを
開放する時ではないと思い、瑞希は歯軋りした歯と歯の間から必死に言葉を捻り出した。
「龍司さんは……本当はお爺さまのことが好きなんだと思っていました。花を届けていたり、お爺さまのことを尊敬しているような
話しかたをしたり……前は龍司さんのことを自分勝手で、冷たい人だと思っていた。でも財産とかそんなの関係なく、龍司さんも
誰かに思惑抜きで愛情を向けられる人なのかもしれないって、最近はそう感じられるようになってきていたんです」
瑞希は感情を抑えて吐き出した。
「でも違ったんですね。こんな時に、あんなくだらない会話が出来るなんて――」
そこまで言って、瑞希はふと言葉を止めた。
龍司の表情が先程までと違っていた。彼はまるで思いがけない言葉でも聞いたかのように目を丸くし、瑞希を見ていた。
それまでどんな罵倒を浴びせられても平気だったその顔が唖然とした表情を作っていた。
口を開いたその声はわずかにかすれていた。
「瑞希。お前」
少しは堪えたかと睨み返すと、龍司は少し苦しげに息を吐いた。
「……聞け。瑞希」
その声はわずかに揺れていた。
「何をです」
口ではそう問い返していながら、瑞希は全身で聞きたくないという態度を示していた。これまで平然としていた彼が今更何を
言っても私には届かないと瑞希は思っていたし、実際そうだった。
「瑞希。俺は」
「やめてください。もういい」
瑞希はかぶりを振った。
「しつこいですよ」
ぱっと髪を振り乱して、瑞希は強い口調で言った。それでも龍司は食い下がった。
「聞いてくれっ」
「嫌です!」
怒りが沸点を超えた。瑞希は殆ど反射的に手を閃かせていた。
ぶんと空気を切って平手が飛んだ。龍司の頬に向かって吸い込まれるように伸びる。しかし予想した衝撃は無く、すぐに腕に
制動がかかった。はっとして自分の手に目をやる。
「聞けと言ってるだろう!」
瑞希の手首を掴んだまま、龍司が怒鳴った。一瞬、時間が止まったような気がして、瑞希は目を瞬かせた。
自身の手首を大きな手が握り締め、血流を圧迫しながら動きを封じている。ごつごつした紛れもない男の手が瑞希の視界に入り、
瑞希はきょとんと呆けた。
刹那、すっと視界が暗転するように血の気が引いた。脳裏に星のように光が瞬いた。
「――――」
瑞希は言葉を失った。
ぱっと記憶がフラッシュバックした。
彼女は畳の上に押し倒され、声を上げていた。両手首は束縛され、来ているものはだらしなくはだけさせられている。鎖骨に
浮き上がっている赤いしるし。
瑞希は龍司に組み伏せられている自分を思い出していた。それも一番最初の、初めての時の記憶を。
最奥まで貫かれ、彼女は息を止めた。
無理矢理与えられた屈辱と身体が引き裂かれる痛み。脳裏で彼女は実際には無かった自分の絶叫を聞いた。
「――いやあぁっ!」
現実へと立ち戻った瞬間、瑞希は龍司の手を全力で振りほどき、がむしゃらに逃げ出した。突然のことに驚く龍司を跳ねのけ
無我夢中で距離をとる。廊下の壁に背中をぶつけて、身体はやっと止まった。
「……もう嫌……」
唇から自然に声が漏れ出た。発散し損ねた怒りが再び湧き上がってきた。悲しい。苦しい。辛い。腹立たしい。悔しい。
怖い。そんな感情が列挙され、焼きごてを押されるように彼女の心に染み入った。殆ど無意識に、彼女は叫んでいた。
「嫌い……貴方なんて嫌い!」
叫んだ瞬間、彼女はその言葉に縋りついていた。龍司に対して何が正しく、何が正しくないのか、考えても長らく答えの
出なかった彼女は、自分が発作的に発したその言葉に飛びついた。それは常に流動する相手に対して自分の立場を明確に
出来ないままずるずると引きずられてきた反動だった。彼女の忍耐力は限界であり、これ以上の疲労を防ぐために、精神が
最も単純な答えを選んだ。彼女は殆ど何も考えていない表情でぶつぶつと続けた。
「こんなわかりきったこと、どうしてはっきりもさせないでここまで来てしまったんだろう……!私、嫌い。貴方のこと、
本当に嫌い!あんなのは嫌。もうあんな思いをするのは嫌。もうやめて。もう……」
狂ったように繰り返して彼女はその場にずるずると座り込んだ。自身をかき抱き、怯え切った瞳で磨かれた床に視線を落とす。
「瑞希」
彼女は名前を呼ばれても気付かなかった。
「私が毎週、土曜日が来るたびにどんな気持ちでいたかわかる……?」
泣き出しそうな声で彼女は呻き続けた。呪詛に近い声が龍司にぶつかった。
「つらかった。いつもいつも、苦痛で逃げ出したくて仕方なかった!でも貴方なんかに負けたくないって思ってここまで来た。
だけどもう無理。耐えられないわ」
「瑞希」
再び名前を呼ばれた。今度は気付いた。そして無視をした。
「明日もまた来るの?明日もまた――」
「……瑞希」
三度呼ばれた。瑞希は言った。
「もう、私の名前を呼ぶのはやめて……」
一歩足を踏み出した龍司に、瑞希は捨てられて人間不信に陥った仔猫が手を差し伸べた人間を威嚇するように牙を剥いた。
「来ないで!」
壁に背中を押し当てて彼女は声を上げた。あの時はたしかこれに似た状況もあった――こんな時まで彼女は思い出したくも
無い最初の週を思い出していた。封じていた嫌な記憶がわずかな隙間からあふれ出して彼女の精神を侵食していた。
「……」
龍司は長いことそこで立ち尽くしていた。その顔が、時間をかけてゆっくりと色を失っていった。最後には、その顔は
まるきり無表情になった。
龍司は腰から鍵の束を取り出した。一度で目的のものを探り当てたらしい。そのひとつを一挙動で束から外す。龍司はそれを
ぎゅっと握り締めた。そして決心したように、リングに指を引っ掛けて彼女の目の前に差し出した。
「――」
瑞希は涙目を見開いてそれを喰い入るように見つめた。
「近づくなというなら近づかない」
龍司が手にぶら下げていたのは瑞希のアパートの鍵だった。
「これは返す」
それ以上近づけない彼は足元にそっと鍵を置いた。そのまま数歩下がる。瑞希は引き寄せられるように鍵に触れた。指先で
触れるとこつんと音がした。それは龍司の体温を受け取っていて、まだ温かかった。ひったくるように掴みあげるとリングと鍵が
擦れてチャラ、と音を立てた。
頭上で声がした。
「もう、お前のアパートには行かない。安心しろ」
弾かれるように顔を上げると目が合った。変わらず、龍司は無表情のままだった。あれ、この顔どこかで見たっけ、と瑞希は
一瞬状況を忘れ、見入った。ただそれはいつか見た時よりもずっと色を無くし過ぎていて、まるで死人のような顔だった。
死人はやはり色の無い唇を動かした。
「悪かった」
彼はそれだけ言って、瑞希の眼前から立ち去った。
「どうしました?」
高い靴音が響いた。階段の踊り場から看護士らしき女性の声がこちらに降ってきた。
「なにか言い争っている声が聞こえたんですが……どうかなさいましたか?」
慌てた声に突然我にかえり、瑞希は反射的に目尻に溜まった涙を拭った。それでも乱れた脈はなかなか平常に戻らず、
彼女は必死に平静な声を作って返事をした。
「だい、じょうぶ、です……転んでしまって」
苦しい言い訳をし、立ち上がる。瑞希はわずかに乱れた着衣を直した。
「言い争いも私です。知人と喧嘩をしてしまいまして……たいしたことじゃないですから、大丈夫」
「……本当に大丈夫ですか?」
看護士の言葉に、彼女はふと顔に手をやった。
「……私、そんなに大丈夫に見えませんか?」
「ええ。お顔が真っ青ですよ」
「そう、ですか……」
酷く気分が悪く、足元も覚束ない。看護師の言うこともあながち嘘ではないかもしれないとやっと自分の状態を認識し、
「帰らなきゃ……」
瑞希は胡乱に呟くと歩を進めて出口へ向かった。
「休んでいかれても構いませんよ?」
「いえ……大丈夫です」
親切な看護士にひとつ頭を下げると、右手の中の鍵を握り締め、瑞希は無理に笑顔を作ってみせた。
誰もいない待合室で、暗闇に埋もれるようにしてひっそりと、彼女はそこにいた。
龍司は立ち止まった。咲子の顔を見る。咲子も顔を上げ、龍司を見た。そして言った。
「さっきのあれ。マナー違反じゃないかしら?」
世間話でもするような口調だった。責めているような言葉の内容とは裏腹に、咲子は皺を深めてそう言った。
龍司は短い沈黙の後、唇を引きつらせて押し殺した声を出した。
「それは悪かったな。だがこの非常時に、とてもそのままにしておくわけにはいかなかったんだよ、俺としては。……まさか
あんたが、瑞希にちょっかい出すとはな」
「そうねえ」
咲子は瑞希に微笑みかけていた時と全く変わらない様子で、敬語を使わなくなった龍司に対しても微笑んだ。龍司は心中のみで
舌打ちをした。
彼女は自分と血縁が最も薄く、会う頻度はそれこそ年に何回かで、ろくに話をしたことすらなかった。龍司にとってこれまでの
咲子の印象は血縁関係のそのまま、最も印象の薄い人物だった。大人しく、控えめで、こうした組織の繋がりによって発生する
損益には、否、それ以外のものにもひとつとして興味の無い人物だとばかり思っていた。しかしこれが本来の彼女であるとすれば、
ここまで自分の目から思惑を隠していたことに関しては素直に賞賛する。
考えれば、実権が叔父から自分に移ることで、最も損害を被るのは彼女である。そういったことにももっと早く気付かなければ
ならなかった。
叔父の大病は思ったよりずっと自分の目を曇らせている。
「そのご様子だと瑞希さんを説得できなかったようね。あれだけ仲がお悪いのだから、当然でしょうが」
咲子はそう言い、ふと首を傾げるようにして龍司の来た方向を見やった。
「瑞希さんはいい子ね」
「あんたに都合がいいの間違いだろう」
「まあ。ひどい事を言うのね。私はただあの子ともっと仲良くしたいだけよ。祖母と孫のようにね」
「……」
この女は瑞希が女だということを知っている。あくまで勘だが、龍司はそう感じた。ただ、先程の台詞からすると自分が瑞希を
女だと知っていることまでは――そうなるともちろん関係までもは――知らないようだが。だがそれでは、咲子に瑞希を抱きこむ
意味は――
否。
瑞希が今、家の中で男と認識されていることが重要なのだと龍司は気付いた。つまりは彼女を男として押し通させるつもりか。
咲子が社内に何らかのパイプを持っていれば不可能ではない。
龍司は無意識に、乾いた唇に舌を這わせた。
いい度胸してやがる。
「……あんた、瑞希を養子にでもするつもりか」
「瑞希さんが承知してくれればね。大丈夫よ、きっと承知してくれるわ。あの子はとってもいい子だもの」
咲子は平然と言った。龍司は馬鹿にするように鼻を鳴らした。
「だが、抱き込んだところでどうやってあいつを俺と入れ換える?あんたもわかってるだろうが、俺は長い間叔父さんに付いて
勉強してきた。そして会社での地位にもそれと同じだけの時間をかけてる。その俺と今頃外部から入ってきた人間を差し替えよう
なんて容易なことじゃない。あいつが出てきても今まで誰もあんたのように声をかけなかったのはその所為だ。それに、あいつの
経歴は知ってるのか?使い物にならないくらい平凡だ。あんなんで俺に勝とうなんて」
「あら、経歴を知ってるの?案外仲がいいのかしら」
咲子は意外そうに目を見張り、でも、と続けた。
「私、あの子の経歴なんて調べていませんよ」
「……何?」
龍司は少なからず驚き、咲子の表情の読めない顔を見た。
「そんなことは必要ないの。あの子が確かに征二郎さんの孫だって事実があればそれでいいの」
その台詞に、龍司には耳に引っ掛かるものを感じた。
瑞希の経歴など関係ないというからには、瑞希がどれだけ平凡であろうと関係なく、自分と瑞希との立場を入れ替えられるという
ことだ。咲子はそれほどの要素を手にしているということだ。
瑞希を持ち上げる必要などない。つまりは、
「――」
龍司は目を見開いて咲子を見た。彼はジャケットの裾を翻し、咲子に詰め寄った。
「あんた、俺の何を知ってる」
威圧するように怒声を発する。
「答えろ!」
「あら」
咲子は小首をかしげた。電灯がおちて薄暗い中龍司を見上げ、
「お顔の色が宜しくないようね。身体にはお気をつけなさいな」
ころころと彼女は笑った。
眩暈がした。
「何が欲しい」
龍司は冷や汗を禁じえなかった。だがそれを拭くような仕草を見せれば彼女はそれに更につけいってくるに違いなかった。全身の
気力を総動員して穏やかにそう尋ねたが、咲子は龍司の用意したテーブルには着こうとしなかった。
「お金にあまり興味はないの。どちらかというと、社会的地位のほうが好みね。そちらの方は流石に、お願いしてもそう簡単には
譲ってくださらないでしょう?だからわざわざ瑞希さんとお話させていただいたのよ」
咲子はそう言い、何事も無かったかのように龍司から視線を外してゆったりとした表情で前を向き、実質的にそれ以上の会話を
拒んだ。
龍司は次に打つべき手を失い、立ち尽くした。龍司の予想通りであれば、彼女の手にしているそれはそれ一枚で彼が失脚するのに
充分な手札だった。そして咲子にはそれを最大限利用するつもりはなさそうだった。彼女には目的があり、その目的以外の事柄に
カードを切るつもりは無いようだった。
龍司は急に自分の足元が頼りなくなる感覚に慄いた。
「……正直に言おう。あんたを軽く見てたよ。もっと注意しておくべきだった」
龍司は長い時間をかけてようやく声を絞り出した。口の中はからからに乾いていた。
「見直してもらえたなら嬉しいわ」
「だが、ひとつ間違いを犯したな。強請るつもりでないのなら、大の男相手にこんな場所で、今手の内をひけらかすなんてどうか
してるぞ……状況的には、俺は」
一瞬言葉を止め、彼は低い声で唸るように言った。
「ここであんたの首を絞めることだって出来る」
不穏な台詞を聞いても、咲子は笑顔を崩さなかった。
「無意味ね。だって私、もう最後の手を指してあるもの。これで王手……いえ」
「…………」
完全に言葉を失った龍司に、彼女は言った。
「詰み、かしら」
咲子は頬に手を当てた。溜息をつく。
「残念だわ」
彼女の最後の言葉は、驚いたことに、紛れも無い本心のようだった。
「私、知ってるわ。本当はあなたも瑞希さんと同じくらいいい子だって事。でも立場が立場だもの、仕方が無いわよね。本当に残念だわ」
瑞希は眠れず、布団の中で何度目かわからない寝返りを打った。身体からも意識からも緊張が抜けきらなかった。
(お爺さま)
彼女は時計を見た。三時を過ぎていた。今はどうなっているのだろうか?容態は悪くなっていないだろうか?埒も明かないことを
考えながらただそうして過ごしていた時、電話が鳴った。
「……」
彼女はふと嫌な予感がし、すぐさま起き上がって受話器に飛びついた。
「はい」
『瑞希さん?』
妙の声だった。
「はい、妙さま。俺です」
答えると、少し間があった。
「妙さま?」
『……真夜中にごめんなさいね。征二郎が今、息を引き取りました』
「――」
瑞希は立ち尽くした。受話器がするりと掌から抜けた。