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土曜日の情事 二ヶ月と一週間目

8838氏

 瑞希はぼんやりと仏壇をながめた。 
 祖父が亡くなって一ヶ月が経つ。瑞希は祖父がなくなってから初めて、実家に戻ってきていた。
(おばあちゃん)
 彼女はゆっくりと語りかけた。骨壷はまだ仏壇の下に仕舞われている。そのため、彼女にはまだ、祖母がすぐそこにいるように
感じられる。
(結局、お爺さまとはほとんど話せなかったよ)
 線香の煙がくゆって彼女の鼻腔をくすぐった。隙間風の多い家は殆ど風の無い日でも時たま微風が入ってくる。
(私は結局、お爺さまと少しでも家族になりたくて、男だって偽ってまで、お爺さまに会いに行っただけだった。
だって、自分が男でないと会ってもらえないんじゃないかって――)
 涙が滲みそうになり、彼女は頭を振った。 
(私、おばあちゃんのことを言い訳にして、自分を誤魔化してた。ごめんね、おばあちゃん)
 謝罪と共に手を合わせる。祖父の葬儀を思い出し、祖母の葬儀とはなんと違うものだろうと唖然とし、それでも同じ仏教なら
魂も同じところへ行くのだろうかと思う。二人が互いをどう思っているかにもよるだろうが――出来れば生きているうちに、祖母に
会いに来て欲しかったと思う。
でも、会いに来てくれなかったということは、きっと祖父の心はもう、祖母には無かったに違いない。彼女はうなだれた。それは
肉親の死とは違い、純粋に哀しいものだった。
 彼女は立ち上がった。もうそろそろここを出なくてはならない。今日は次の予定がある。
 祖父の葬儀の時、ひとつ、瑞希には気になったことがあった。
 祖父の式は盛大だった。しかしその中に、実質的な跡継ぎであるはずの龍司が参加していなかったのだ。
 あきらかにおかしいと思ったが、彼女は法律的には近親者ではないため、一般での参加だった。そのため当時直接詳細を尋ねる
ことはできなかった。参列者にはそれとなく尋ねてみたが、理由は誰も知らないようだった。
 妙は通夜や葬儀、征二郎が亡くなったことに関することをこなしていたため、詳しく話を聞くことはとてもではないが
出来なかった。最近もう一人話を出来る人物ができたが、おとなしく穏やかそうな彼女にそういったことを尋ねるのはためらわれた。
 そして一週間前、妙から連絡が入った。話したいことがあるため、訪ねてきてくれという。
(龍司さんのことだ)
 瑞希は直感した。会うのはこれからだ。双方の都合が合わなかったため連絡から間が空いてしまったが、今日やっとはっきりする。
 龍司が何故、突然公の場所から姿を消したか、はっきりすればもう気にすることもなくなる。――そうしたら、少なくとも私的には
もう二度と会わなくなる。確証があるわけではないが、瑞希はそう感じていた。
 瑞希はポケットに入ったアパートの鍵に手をやった。これを返されたとき、瑞希は龍司が自分を二度と解放しないと思って
いただけに、少なからず驚いた。一体これは何の気まぐれだろうか。もう私に飽きたのか。それとも好きな人でも出来たか。
これまでの彼の様子からすればいずれも信憑性は低いと思っていたが、結局自分の勘は当たらないというだけのことなのだろうか。
 いずれにせよ、瑞希にとっては歓迎すべき事柄である。実際、彼はあれから二度と彼女のアパートへは来ていない。
 しかし何故か彼女はそうなっても、開放されただとか、あるいはただ単純に嬉しいとか、そういった感慨は微塵も沸いて
こなかった。ただ「ああ、そうですか」とその事実を受け入れて、ぼんやりとここまで来ているだけだった。
 何事も無く普通に暮らしていると、まるでこれまでもずっと何事も無かったかのように錯覚する。しかし時折、幾度か抱かれた、
そのどうしようもない身体の名残が彼女を襲い、そこで初めてふと、私はもう以前の自分には戻れないのだとも感じる。
 そして何故か、どちらの時も等しく、瑞希はわずかに虚しい気分になった。本来なら対極にあるその二つが同じような気分を
呼び起こすことが疎ましかった。
 最近、休日は以前ほど外へ出なくなった。龍司が訪ねてくるようになる前は毎週来ていたはずのここにも、祖父の不幸があったとは
いえ今日やっと来られたのだ。本来ならもっと早く報告に来るべきだったのだが。
 何処へ行こうとしても何だかやる気がおきない。ふとぼけっとして、気付いたら三十分経っていたなどという事もあった。これが
「気が抜けた」ということなのだなあと他人事のように思う。
 何が自分をこんなに空虚にさせるのか、彼女は解らず首を振った。 
 ただあの表情の無い顔が、時折脳裏をちらつくのだ。



「失礼します」
「どうぞ」
 喪中である。黒いスーツとネクタイで、瑞希は大鐘家に招き入れられた。
 妙は広い居間に瑞希を案内すると、程なく茶を淹れ、瑞希の前に差し出した。一口啜る。しばらくの間当たり障りの無い話を
した後、合間を見て瑞希は切り出した。
「お話というのは何でしょう」
妙は自分も茶に口をつけると口を開いた。
「龍司さんのことについて何か聞いてる?」
「……いいえ」
 ただ首を振る瑞希に、妙はゆっくりと話し始めた。
「ではそのことについてお話をするわね。あの子のことで今大きな問題が持ち上がっています」
「問題ですか?」
 何かあったとは思っていたが、問題とは一体何なのだろう。目を丸くした瑞希に向かって妙は言った。
「龍司さんがね、本当は麻紀枝さんの子供ではなかったというの」
「……えっ」
 あまりに突拍子も無い話に、瑞希はぽかんと口を開けた。そして固まった。 
「まさか、そんな」
 三文小説みたいな話があるのだろうか。やっとのことで一言二言を発した瑞希がそれきり固まったままでいるのを見ると、妙は
ひとつ頷いた。
「どうやら本当らしいの。葬儀の前々日、急にそういった話が会社側から入ってきたわ。話によるとね、何ヶ月か前の健康診断で
龍司さんの血液が病院側のミスで別口の鑑定に回ったそうなのよ。それで判明したっていうの」
 妙はそこですっと目を細めた。
「でも私はそれは眉唾ものだと思っています。病院でDNA鑑定なんてごく一部の病院でしか実施していないし、されたとしても
照合が必要でしょう?龍司さんだけの血液ならともかく、麻紀枝さんのDNAと照合されて出てくるのはどう考えてもおかしいわ。
それに征二郎が危篤状態だった当時、家の中で一時的に征二郎の立場を受けていた私のところに真っ先に話が来なかった」
「……」
「話の出所はまだくわしくはわからないけれど、会社の中であることはわかってるわ。仮に出所が全くわからなかったとしても
おそらく社内でしょう。家でどれだけ立場が保障されていても、社内ではそういうわけにはいかないもの」
 ごく普通の老婦人という印象の妙の口からさらさらとそういった単語が発されるのを見て瑞希はふと、祖父が亡くなる前日
平気な顔をして周囲と会話していた龍司を今の妙とをダブらせた。
 今の妙の顔は夫の喪に服す妻の顔ではなかった。家をまとめる一家の長としての顔だった。
「でも家の人間としては、出て来た経緯がどれだけ不自然でも関係ないの。その結果が確かであるかどうかが重要なのよ」
 そしてそれは出所はともかく、本当だったというわけだ。瑞希は驚きのあまり適当な言葉が出てこなかった。
「……龍司さんが葬儀に出席していないのには気付いてました。でも、そんなことになっていたとは」
 実感がわかず、彼女はただ瞠目した。妙は続けた。
「参加するには周囲の反発が強すぎたわ。もちろんその場では確かめようが無かったから通夜にはなんとか出席できたけれど、
葬儀はね……準備はいろいろと引き受けてくれていたんだけれど、それは私と、征二郎の兄弟が継いだわ」
 ということは彼が出席したのは告別式のみで、それも近親者の席ではなく、仕事関係者の席でもなく、つまりは自分と同じ一般での
参加だったのだろう。頭から親族の席にいると思い込んでいたため、見当たらなかったのだ。 
「龍司さん、今はどうしてるんですか?」
「今は自宅で謹慎しています。会社での地位も家の力によるところが大きかったから、場合によっては今の仕事も続けられないかも
しれません」


「でも、取締役なんでしょう?」
「株式会社では、取締役は必ず三名以上と決まっています。だから仮に、いつ誰かが抜けても大丈夫なの。ダメージは確かにある
けれど、いずれ全てが元通りになってしまうわ。会社というのはそういうものよ」
「……」
 瑞希はしばらく押し黙っていたが、ふと思いつき、尋ねた。
「龍司さんは、自分がお爺さまと血が繋がっていないって知っていたんですか?」
「ええ。自分で認めたわ」
「……そうですか」
 瑞希は何とも言えずにそれだけ答えた。顔を上げると、ここに来る前から思っていた疑問を口にする。 
「どうして俺にそんなことを?」
 妙はゆっくりと向き直った。居住まいを正し、こちらを見る。
「征二郎と私が、あなたのことを他の親族に最小限のことしか知らせていない理由がわかる?」
「……いえ」
 瑞希が首を横に振ると、妙はゆっくりと話を始めた。
「混乱を招かないためよ。征二郎は早い時期から龍司さんを傍につけて勉強をさせていた。
後を継がせるのはこの子だと決めていたのね。ここからはあなたを責めるつもりは無いとわかった上で
聞いて頂戴。あなたが出てきたことで、これまではっきりしていた力関係が、急に二分化するのを防ぎたかったのよ。
あなたの希望では、皆にあなたの存在を知らせないわけにはいかなかったしね」
「……」
 瑞希は呆然とその話を聞いた。
 自分が彼らの目の前に出て行くことがどういうことか。少し考えればわかることに、自分は全く気が付いていなかった。
ただ無闇に手紙を書いて送り返し、半ば強引に出向いた。はっきりと口に出されたことで急に彼女は、その時自分が
征二郎や妙にどう見られ、考えられていたかを認識した。
 瑞希は発作的に畳に手を付いて平伏した。
「……ご迷惑をおかけして申し訳ありません……」
 押しつぶしたような声しか出てこなかった。自分はあまりに何も考えていなかったのだと悔やまれた。
 妙は頭を振ると、瑞希に頭を上げるように言った。
「気にしないで。でも、龍司さんとこの家の人間とが実際には血縁関係が無かったことで、それは覆されてしまった。
これからあなたはいろいろ大変だと思うわ。これまで龍司さんの方を向いていた人たちの殆どがあなたの方を向くように
なるかもしれない。それを覚悟しておいて欲しいの」
「……」
 それがどういうことか、瑞希にはまだよくわからなかった。しかし僅かながらでも公での龍司の立場を見ていると、
相応の覚悟は要るものと思われた。 
「私としてはこれまでどおり、龍司さんに皆をまとめていって欲しいと思っています。あなたが今から何もかもを覚えるには
大変すぎるし、今のところあなたにそのつもりは無いのでしょ?」
「はい」
 それは最初から征二郎と妙に告げていたことだった。
「でも、状況によってはそうなるかもしれないわね。あなたが法的に家族でなくても親族に紹介されたことからわかるように、
この家では血の繋がりが何よりも重要視されるわ。後を継ぐためにずっと勉強を続けてきた龍司さんが排斥されそうになる
くらいにね。征二郎が生きているうちに判明していれば、良くも悪くもはっきりと結論が付いたでしょうけれど。征二郎の力は
それほど強かったのよ。でも征二郎は亡くなったから、今のところはどう転ぶかわからない。あなたには取り敢えず、
それを承知しておいて欲しいの」
「はい……」
「どうにもね……私も、こんな時は不甲斐ないわね」
 そんな事を言う妙の顔はとても哀しそうだった。


「あの子ね、征二郎をすごく慕っていたのよ。だから今回のことは……取り返しのつかないことだから、可哀想だわ」
「慕っていた……」
 瑞希は睫を伏せた。
「俺には、龍司さんがそんな風には見えませんでした……」
 瑞希は控えめにそう言った。妙は瑞希の感情を理解しているのか、責めることはなかった。
「あの子ね、征二郎がもう治らない病気だって知ったとき、随分荒れたのよ。あの頃、あなたには随分良くない態度をとって
いたようね。そのことは私からも謝らせてください。でもね、お願い」
 妙はあっさりと、瑞希のそうした欺瞞を打ち倒した。妙は瑞希の目を見て言った。
「龍司さんの事を誤解しないであげて欲しいのよ。龍司さんにはまず立場というものがあったから。あの子はそれを
ようくわきまえていた」
「……」
「能力はともかく性格的には、あの子は本来、今の仕事に向いている子じゃないのよ。それでもあの子はここまでがんばって
きてくれたわ。それくらい征二郎の事を尊敬してたのよ。わかってやって頂戴」
 妙の視線に、瑞希は目をそらすしかなかった。妙の言うことなら本当なのかもしれない。だがそれでも、瑞希は妙の言う龍司を
認めたくはなかった。
 認めてしまったら、自分が病院で彼に言ったことが、全部間違いになってしまう。それは自分が、無意味に龍司を――他人を
傷つけたことになる。それも単なる自分の浅慮で。それを認めたくはなかった。



 私は自分勝手なのだろうか?
 電車の中、彼女は自分の中でそう繰り返し続けていた。
 龍司に「お前は人に意見を押し付けすぎる」と言われた。それはまだ、自分の中では納得できていない。だがその前に、病院に
来るなと言われながら行ってしまい、龍司の危惧したとおりになったことは事実だった。そして妙に、自分のせいで家に多大な
混乱を招いたことを教えられた。あの妙に気にするなと言われただけに、今の彼女の中で、それは大きなしこりになっていた。
 私は自分の考え方が正しいと信じてきた。でも、それは間違っていたんだろうか?私はただ単に我侭で自分勝手な
だけなのだろうか。
(もし私が、それで周りに迷惑をかけていたのなら――)
 瑞希は顔を上げて車外を見た。ビルとその谷間と電柱やわずかな緑が流れて消えていくが、彼女の印象に残るものは
何一つなかった。
(その時私は、どうすればいいんだろうか)
 今日は咲子と会う約束をしていた。特に用事というわけではないので、一瞬断ろうとかとも考える。今は気が重かった。
それでも、と彼女は考え直した。彼女と話をするのは楽しかった。一見おっとりとしていながら打てば響くような話し方をする
咲子は、瑞希にとっては非常に話し易い相手だった。少しくらい気が重くても、彼女と話せばきっと心持ちも軽くなるに違いない。
 彼女は結局待ち合わせの駅で下車をした。



「…………」
 瑞希は絶句した。
「養子……!」
「そう」
咲子はいつもの笑みを浮かべてそう言った。
「私の子供になってはくれないかしら」
 入った喫茶店は三時を過ぎてなかなかに込み合っており、絶えず人の話し声や食器の触れ合う音が聞こえてきた。小さいが居心地の
いい佇まいのそこは隠れた名店として有名らしく、咲子に教えて貰って初めて入った時はテーブルは満席だった。


 こうして咲子と会うのは今月だけで何度目かになる。彼女は何かと瑞希を気に掛け、機会があれば会いたがった。瑞希もそれに
同調しており、彼女らは職業等に特に繋がりのない成人同士としては非常に多い回数、雑談のための時間を設けていた。
 運ばれてきた紅茶に口をつけたとき、その会話は始まった。瑞希は突然の申し出に面食らって目の前の相手を見た。紅茶の味は
満点だったが、彼女はすぐにそれを失念した。
 咲子はそんな瑞希の様子を見ながら、相変わらずににこにことしていた。
「お話したと思うけれど、私は息子を亡くしているんですよ。あなたみたいな子が来てくれたらと思うんですけどねえ。
今はご家族はいらっしゃらないのでしょ?」
「……はい」
「急な話でごめんなさいね。でもこうやってお話していると、まるで息子が帰ってきたように思うのよ」
 微笑しながら言う咲子の表情を見ていると希望に沿いたいという思いが首をもたげるが、彼女はすぐにそれをとどめ、
ティーカップをソーサーに戻した。
 逡巡したのは一瞬だった。彼女はすぐに口を開いた。  
「……申し訳ありません。そのお話、お受けすることは出来ません」
「まあ、どうして?」
 大仰に驚く彼女を見つめる。その視線に気付いたのだろう、咲子は静かに表情を戻して『聞く体勢』になった。こういうところも
瑞希彼女に好感を持てる原因のひとつだった。 
「これからお話することを、誰にも言わないでいただけますか?」
「大事なことなのね?わかりました」
 咲子は鷹揚にうなずいた。瑞希は口を開いた。本来ならこれは誰にも知られてはいけないことの筈だった。だが瑞希は彼女に対して
既に警戒心を持っていなかった。
 彼女はひとつ息を吸った。こういったことはもったいぶってはいけない。
「私、女なんです」
 間があり、咲子は皺だらけの顔の真ん中にあった円らな瞳を精一杯まん丸くして、一言言った。
「……まあ」
「大鐘家の中では隠していますが……」
 瑞希は姿勢を正した。 
「ですから貴方の息子さんの代わりにはなれないんです。ごめんなさい」
 率直に頭を下げると、咲子は「そうなの」と短く言った後、黙考した。そして言った。
「私はかまいませんよ」
「え……」
「私はあなただから養子に欲しいと言ってるんです。あなたが男でも女でも、私はまったくかまいませんよ」
「……」
 瑞希は顎を落としかけた。
 家の中で男女を偽っているということは、祖父の思考もあり相当顰蹙を買うことのはずだったが、咲子はそれは重要な問題では
ないわ、とあっさりと言ってのけた。
 瑞希の驚く顔を楽しそうに眺めて、彼女は言った。
「でも、男のふりをしているからには理由があるんでしょう?」
「はい。それは」
 口を開きかけた瑞希を制し、
「言わないで結構ですよ。人それぞれ、理由があるものでしょう」
 にっこりと笑う。 
「その時は男として、私のところへ来てくれて構わないのよ。そのほうが都合がいいのでしょう?それに一度男として名乗り出た
からには、それを明かすのは余計な反発を招くことになります。こんな家だと、なおさらね」
「で、でも」
 消え入りそうな声で瑞希は言った。琥珀色の液体に視線を落とす。


「私は少しの間男でいられればよかったんです。このまま、嘘を貫き通す自信は私にはありません……」
「大丈夫。私も出来る限りあなたを助けます。事情は知らないけれど、これだけ女の多い家系ですもの。征二郎さんの意向ももう
何年かすればだんだんと変わってくるはずですよ。そうしたらたぶん、それほど問題にされなくなるとは思うわ。女に戻るのは
それからの方がいいかもしれないわね。ここはひとつ、しばらくの間男を続けてみるつもりはない?」
 その状況は大鐘家に龍司がいないことが前提での仮定だったが、瑞希はそれに気付かなかった。
「あなたが可愛いのよ。ぜひ、うちに来てもらいたいの」
 瑞希は思わず視線を外して赤面した。臆面なくそんな台詞を言ってしまえる咲子を少しうらやましく思いながら、彼女は紅茶の
カップを両手で包むようにして持った。
「その……」
 瑞希はそのままうつむいて小さく言った。
「少し、考えさせてください……」


(男になる……)
 瑞希はアパートに戻った。靴を脱ぎ、郵便物を確かめ、部屋に上がる。ここまでひたすら考え事を続けながら来ていた為、
靴は脱ぎ散らかしたまま、書留の不在通知書は読みもしないまま放り出し、おまけに部屋に入るところでつまずいて
転びそうになった。
 それでも彼女は考え事をやめなかった。クローゼットを開けてジャケットを脱ぐとハンガーに掛け、続けてネクタイに手を掛ける。
「……」
 瑞希はネクタイの結び目を解きながら物思いに耽った。 
 中学校の頃からずっと男になりたいと思っていた。それが高じて男の真似ができるまでになっている。今ではそれに以前までの
執着は無いが、それでも男として生きていくことが出来るのなら、それは憧れながらずっと叶わなかったことに手が届くような
ものだ。なにより咲子のような女性の養子になることができるというのは、祖母を喪ったばかりの瑞希にとっては魅力的だった。
咲子との食事は、祖母と一緒に過ごす時間を連想させた。
 亡くなった祖母とは、よほどの事情でもない限り、別々に食事を取るということは無かった。祖母は必ず瑞希と共に食卓を囲み、
何やかやと話しかけてきた。それは何ものにも変えがたい大事な時間だった。もう一度、そういう時間を取り戻せるかもしれない。
 祖母がなくなってからこっち、家で誰かと食事をしたことは無い。彼女はそれが淋しかった。いつもたった一人での夕食だった。
 ――否。
 瑞希は顔を上げた。一度だけ、二人のときがあった。
 今日は土曜日だ。 
 
 彼は今どうしているだろうか。

 ふと至ったその考えに彼女は妙との会話を思い出した。
「……」
 彼女はジャケットを羽織りなおし、箪笥の小引き出しを開けた。そこには以前、龍司に渡された小箱があった。
(確かめよう)
 震える手で中身を確かめ、彼女は箱をジャケットのポケットに入れた。彼がもうここに来ないというなら、私に合わせて買った服は
ともかく少なくともこれだけは返さなくては。
(私が龍司さんを傷つけたのなら、私は彼に謝らなければならない)
 他に何も思いつかないが、とにかくそうしなければならない。そうしないと自分の気が収まらなかった。しかし、
(――)
 彼女は心臓の辺りを手で押さえた。心臓が、破裂しそうなほど鼓動を打っていた。
 怖い。
 それが正直な感想だった。あの記憶がまだ鮮烈に、彼女の脳裏に焼きついていた。
 そしてそれ以上に、彼に最後に会った夜言った自分の言葉が、あの日の記憶とはまったく別の恐怖を彼女に与えていた。
それは妙に迷惑をかけたことにも繋がっている仮定だった。
 それは自分の言葉が誰かを傷つけたことだった。自分が自覚の無いまま誰かを傷つけることは時折、他人に自分が傷つけられる
ことより大きな恐怖になる。そしてそれを認めることはさらに、自分の中の恐怖を大きくするものだった。


 それでも、彼女は電話に向かった。祖父の家の電話番号を叩く。今の時間なら妙がいる可能性が高い。
 予想通り、三、四コールで妙が電話に出た。
「妙さま、俺です」
『まあ、瑞希さん?何か御用?』
「あの」
 瑞希は一度唾を飲み込み、声を絞り出した。 
「不躾で申し訳ありません。龍司さんの家の住所を教えて欲しくて――」



 雨が降ってきた。
 そういえば昼間から雲が厚かった。しかし瑞希はそんなことはすっかり忘れていた。
 手荷物は薄っぺらい財布ひとつと住所を記したメモ紙、そして例の小箱だけだった。電車を降りたところで、ぽつりぽつりと
雨が降ってきた。
(まずいなあ)
 しかし彼女にはビニール傘を買う余裕もない。仕方なく傘のないまま彼女は走った。しかし空は、彼に較べれば蟻のような
人間のことなど一向に気遣うことなく盛大に泣き始めた。
 雨はやがて、バケツの水をひっくり返したような土砂降りになった。今更ながらスーツのまま来なければよかったと
彼女は後悔したが、全て後の祭りだった。閑静な住宅街に到着する頃には、彼女は文句の付けようもない濡れ鼠になっていた。
 広いきっちりとした区画にどれも似たようなこぎれいな家と庭がひとつずつ収まり、それが長く続いている。開き直った瑞希は
自分のいる場所をしっかり確認し、一軒一軒の住所と表札を確かめながら目的の家に向かった。この雨の中、すれ違う人は一人も
いなかった。
 やっと目的の家が見える頃にはかなりの多さで降水量の安定した雨は歩道を煙らせ、低い場所に大きな水溜りを作り出していた。
しかしその家に近づくにつれ、瑞希の足は急速に重くなった。長らく雨に打たれた寒さと、何よりずっと縛られ続けていた恐怖が、
彼女の髪を引き、思いとどまらせようとした。
瑞希はその家から随分はなれた場所で足を止めた。
 その家も他の家とそれほど変わらない一軒家だった。塀が敷地の周囲を取り囲み、中央に四角い建物が鎮座している。その家も
また、降り続く雨に打たれて暗い表情を見せていた。
「……」
 瑞希は急激に自分の身体が震え始めたのを感じた。
 瑞希は無意識に胃の辺りに手をやった。キリキリとねじれるように痛い。いまだかつてそんな経験の無かった彼女はそれが何なのか
しばらくわからなかった。ストレスによる胃痛だった。しばらく痛みに耐えるようにそうしていた後、彼女はようやく雨に濡れた
顔を上げた。これから龍司と話をするのなら、また気力が要る。これ以上寒さで体力を消耗しないほうがいい。そう判断した末、
彼女は一歩、前へと足を踏み出した。
 自分の肺が、気管を通して冷たい空気を吸い、小刻みに呼吸をしているのがわかった。何故か深く息を吸えない。唇がはっ、はっ、
と短く苦しげに息を吸ったが、吸い込んだ空気はは殆ど肺に届いていないようで、苦しくなるばかりだった。
 疲れからか殆ど前が見えなくなり、片足がふらついて水溜りに突っ込んだ。革靴に流入してきた水が激しい不快感をもたらした。
足を引き抜くとがぽと音がして革靴が足から離れかけ、彼女は顔をしかめてとにかく足を戻した。
 その時だった。
「ちょっと、ボク、大丈夫?」
 この場にそぐわない甘ったるい声が聞こえた。瑞希の肩を打っていた雨が急に遮られ、代わりに傘を打つ雨のやけに大きい音が
耳に飛び込んできた。
 見上げると、後ろから傘をさし掛けてくれている女性と目が合った。
 背の高い女だった。紛う事なき美女だったが、まるで年齢の読み取れない顔をしていた。十代といわれても三十代といわれても
信用しそうだ。色を抜いた豪奢な髪を背中まで垂らしている。瑞希も女としてはそれなりに背が高いが、女はそれ以上だった。


履いているピンヒールを差し引いても大柄で、肉感的な体つきのくせ、ウエストは引き締まっていて細かった。この土砂降りの中
フェイクにしては艶の良すぎるファーのジャケットを纏って立っている。雨に濡れたら本物の毛皮は一発でおじゃんだ。
寒い気候などものともせず、マイクロミニのスカートにピンヒールのブーツ。ファッション雑誌から抜け出てきたような格好だった。
「あ……ありがとうございます」
 瑞希はボクと呼ばれた手前、咄嗟に男の口調で返した。女性はしばらくこちらを見て目を丸くしていたが、
「……」
 近眼の人が遠くのものを見ようとするような目つきでこちらを凝視し、やがて言った。
「ありゃあ、失礼。ボクじゃなかったわね。どうしたの、キミ」
 その言葉に瑞希ははっとし、身づくろいをしたが、襟は特にはだけたりはしていなかった。びしょ濡れとはいえジャケットを
着ているから肩や体の線が見えているということも無い。
 なのにこの人は私が女だとわかった。瑞希は目の前の女を見上げた。女は瑞希のにわかに警戒するような視線を受けておやと
肩をすくめた。
「あー、傘さしてあげてるのに酷いなぁ」
「す、すみません」
 慌てて姿勢を正すと女は笑った。
「あー、やっぱ女の子だあ。可愛いね。でもどうして男のカッコなの?」
 おおらかに言う。瑞希はあっけに取られて目の前の女性を見た。女性は飄々と龍司の家を見上げた。
「どうしたの。この家に用事?」
「あ……」
 しばらく言葉を止め、瑞希は逆に問い返した。
「あなたは……?」
「んー、あたしはそう」
 瑞希は飛び上がりそうな心臓を抑えながら言った。
「……私も、です」
 瑞希の言葉を聞いた女性は悪戯っぽい笑みを見せた。
「キミ、リュージのカノジョ?」
「か」
 瑞希はたちまち赤面して頭を横に振った。
「わ、私、そんなんじゃ……!」
 縮こまるようにして返答する瑞希に、女は面白そうに笑った。
「ふーん。いいや」
 彼女は手の中でくるくると傘を回した。その表情はまるで童女のようだった。
「あたしはね、リュージが今会社で大変だって聞いたから励ましに寄ってやろうかなーと思って。まあ、陣中見舞いって感じ?」
 微妙に違うと思う。が、訂正はせず瑞希は目の前の女を見上げた。
「キミは?」
「……」
 戸惑いながらも、瑞希は口を開いていた。自覚の無いまま、瑞希は女に気を許していた。相手は自分と全く違うタイプなのに、
何か親近感のようなものを感じる。
「私、龍司さんに酷い事を言ってしまったかも知れないんです」
 瑞希は両手を握り締め、口元に持っていった。息を吐き掛けて少しでも暖めようと苦心するが、まるで効果が無い。
「自分では自覚していなかったけれど、もしそうなら、私は彼に謝らなくちゃいけない」
「ふーん。律儀なんだね」
 女は内容まで深く尋ねる事は無く、ただそう言っただけだった。瑞希にはそれがありがたかった。聞かれたところで上手く説明
できないし、伏せなければならない部分もある。それ以上に認めたくない事柄というのは口にもあまり出したくは無いものだ。
「いいえ……彼の人格まで傷つけてしまったかもしれないから」


 やっとのことでそれだけ言うと、瑞希は再び両手に息を吐きかけた。
「リュージが女々しいだけよ」
 女は突き放すように笑った。
「よくあれに付き合えるねえ。あたしには無理だわ」
 瑞希はその台詞を聞いて初めて、この人は一体龍司さんの何なんだろうか、という疑問にぶつかった。
「……」
 瑞希は恐る恐る唇を開いた。
「あの……貴方は」
 龍司さんとはどういう関係なんですか。言い終わらないうちに、女が突然顔を上げた。
「しっ」
 彼女は瑞希を鋭く制止し、瑞希の肩を掴んで数歩下がり、他の家の塀の影に入った。そこは龍司の家の玄関先からはちょうど
死角になっており、塀は女の差す傘まですっぽりと隠して見えなくした。
「ど、どうしたんですか」
 思わず小声になって尋ねると、女はわずかにこちらを振り返って言った。
「誰か出てきた」
「えっ」
 塀の影の、更に女の影からわずかに身を乗り出した瑞希が見たのは、玄関のドアを開けて傘を差して出てくるいつか見た
一人の女性だった。あの人は――瑞希ははっとして目の前の女を見たが、彼女は特に驚きもせずじっと成り行きを注視していた。
 そしてその後から玄関先へと出てきたのは、
(龍司さん……)
 瑞希は一瞬息をすることも忘れてその姿を凝視した。
 たった一ヶ月会わないうちに、龍司は遠目でも一目でわかるほど、極端に精彩を欠いていた。表情まではわからないが、その姿勢。
立ち方。ドアの開け方。足の踏み出し方。そんなものが全て、彼の今の状態を鮮明に表している。気のせいか、幾分痩せて
いるようにも見えた。陰鬱な空気を身にまとい、簡単なワイシャツとスーツパンツだけでそこにいる。
「離縁は私からしておくよ」
 麻紀枝は以前瑞希が見たときと全く変わらない表情と声で言った。その目は息子を見る表情ではありえなかった。まるで物でも
見るような――それを見た途端、瑞希はさっと身を戻した。彼女にとって、彼らの姿は見るに絶えなかった。瑞希にとって
彼らの関係は彼女の知っている家族のものではなく、ましてや親と子のものでもなかった。それを家族と知ってなお見ている事は、
今の彼女には出来なかった。よろけた背中が塀にぶつかった。
「……ああ」
 返事をする龍司の声には感情が無かった。彼が無表情でいる時の喋り方だと瑞希は気付いた。 
「全くここまで来て足元をすくわれるとは滑稽じゃないか。まさかあんたがこんな失敗をするとは思わなかった。当てが外れたよ」
 この大降りの中、麻紀枝の声はいちいち良く通るのではっきりと聞こえるが、先ほどの龍司の声はぼそぼそとしか聞こえなかった。
いまいち距離が遠いせいか、龍司が痩せたせいか、低い声だったせいか。
 たぶん全部だろう。
「……」
 その龍司が全く反応しないことに、瑞希は激しい不安を覚えてじっと身をすくめた。
「兄さんの財産どころか、この先の権威も失うとはね。お前はお前で勝手にするがいいさ。私は行くよ。もうこんなところに
いる必要も無いしね。何のためにあの女からお前を貰い受けたのかわかりゃしないよ。これじゃただの骨折り損だ」
「……俺の……」
 瑞希は顔を上げた。押さえ込まれた声が雨の空気に漣のように滲むように拡がるのを彼女は聞いた。
「本当の母さんはどこにいる?」
 瑞希が目を見開いた時、麻紀枝の無遠慮な声が漣をかき消した。
「さあね。おおかたお前の親父とよろしくやってんじゃないかねえ。あの男とは離婚を条件にお前を譲り受けたけど、
それからは会ってないね。知りたくも無いしね」


(――)
 瑞希は耳を塞ごうとして、出来なかった。聞きたくないのに、聴覚は二人の会話に神経を集中させてしまうばかりだった。
 視線が宙を泳いだ。彼女はゆっくりと座り込んだ。女が彼女の動きに合わせて傘と自分の立つ位置を移動し、継続して雨を
被らないようにしてくれたが、気付くこともできなかった。
「……あんたが」
 震える声で龍司は言った。
「あんたさえいなければ、俺は……」
 その台詞はこれまでで一番小さな声だったにもかかわらず、その言葉は息遣い一つにいたるまではっきりと聞こえた。
 瑞希は最早無言で両手を胸のところで握り締めてうずくまっているだけだった。対して女は瑞希に傘を差しかけながらも
何の感慨もなさそうな全く平坦な表情で立っていた。 
「ふん」
 龍司の、負の感情をおおよそ詰め込んだような言葉を、麻紀枝は本当に何の感情も抱かなかったのだろう、即座に切って捨てた。
「あたしとしてはあんたにこそ、あんたに掛けた私の金と手間と苦労を返して欲しいけどね」
 そして立ち去った。



「……キミ。キミ、大丈夫?」
「――っ」
 肩をたたかれ瑞希はびくりと身を震わせた。顔を上げると女と目が合った。
 女は腰を落として瑞希と目線を合わせた。
「何にも知らなかった?」
「……私、は」
 瑞希はがちがちと歯を鳴らしながら声を出した。
「知りませんでした……何も……」
 殆ど知らなかった。そして知ろうともしなかった。これまで目の前にいた彼が、どんな生活をしてきて、どんな考え方をして、
どんな風に思っているのかを。
「じゃあびっくりしたよね。キミ、ああいう話に免疫なさそうだし。龍司が引っ掛けるにはちょっと初心過ぎるな」
 女はひょいと傘を差し出した。受け取れというように目の前に出された傘を見て瑞希は不思議そうに目を瞬かせ、受け取った。
 女は背筋を伸ばすと身を翻した。長い髪が遅れて後を付いていった。
 彼女は堂々と龍司の前に姿を現した。
「だからあんたは子供なのよ」
 女は毛皮のジャケットごと雨に濡れながら口を開いた。
「……お前」
 龍司はわずかに驚いて彼女を見、そして、
「――」
 慌てて彼女に傘を差しかけた瑞希を見て絶句した。
 一方、彼の姿を間近で見た瑞希は表現しがたい感情に襲われた。確実に、彼は痩せていた。一ヶ月も会っていなかったのに
一目でわかるくらいだから、体重は相当減ったろう。目の下にわずかながら隈がある。それは単純な寝不足によるものとは違って
消えにくそうなもののように見えた。髪は整えられておらずところどころ跳ねていて、今までとまるで印象が違う。
「あ……」
 自分の知っている彼とはあまりに違う彼に、瑞希は言葉を失くした。それでも息を呑み、名前を呼ぼうとした時、
女の声が割り込んだ。
「バカね」
 瑞希がぱっと女を見た。その視線に気付いていないはずは無いだろうが、女は彼女の視線など気にも留めなかった。
「自分からさっさと追い出すなりなんなりしてれば、ここまで嫌な思いすることもなかったでしょうに」


 返答までにはかなりの間があった。       
「……お前には関係ないだろ……」
「そうね。無いわね。でもあんたと関わってる限り、どうしても視界に入ってくるのよ、あんたのそのうざったさ」
 やっと吐き出した様子のその言葉を女は一蹴した。
「あんな母親に一体何を期待してたの?呆れるわ。いつもいつも、そうやって他人に何かを期待して待ってるだけ。そのくせ
裏切られたら恨みごとばっかりほざいてさ。悔しかったら自分から動いてみなさいよ」
「やめて、お姉さんっ」 
 瑞希は女に傘を差しかけながら叫んだ。
「そんな言い方あんまりだわ」
「キミはちょっと黙ってな」
 その声には他人に口を差し挟ませないだけのはっきりとした芯が通っていた。瑞希はそれ以上何も言えずに口を噤んだ。
龍司に目をやると、彼はじっと彼女を見つめ、そして、
「わかってるよ、そんな事は!」
 爆発した。
 彼がここまで感情を剥き出しにしてものを言うのを、瑞希は始めて見た。彼女は怯え、女の陰に半ば隠れるように身を寄せた。
「だがもう期待するものさえ俺には無い!おふくろは出て行った!叔父さんは――」
 龍司は瑞希が目に入っていないのか、それとも単に無視しているだけか、続けた。
「叔父さんは亡くなった……俺にとって唯一尊敬できる人はもういない!俺だってただ待ってたわけじゃないさ。叔父さんの後を
継ごうと必死でやってきた。それに人生の殆ど全部注ぎ込んだ様なもんだ!それでも、それでも」
 よほど言い難い感情があったのか、言葉は詰まるようにそこで止まった。数拍の間の後、やっと言葉が聞こえた。
「失うのは一瞬だった」
 歯軋りするように呟く。彼は顔を伏せたが、どんな顔をしているかは瑞希にも容易に想像が付いた。
「やられたよ。あそこまで事態が早いとは思わなかった。気付いたときにはもう手の打てない段階になってた。俺が元の役職に
戻るのはまず不可能だろう。俺は叔父さんがなくなったことより、叔父さんの遺したものを継げなかったことが痛い。
家族として見送ることも出来なかった」
 その台詞には無力感だけがあった。
 聞きながら、瑞希は呆然と傘の柄を握り締めていた。感覚のなくなり始めた指先が今にも傘を取り落としそうだった。彼女は
悲しさに裏打ちされた表情で沈痛に目を伏せた――やはり私は彼を傷つけていたのだと。
 女は剣呑な瞳を龍司に向けた。頭を軽く振る。濡れた髪がばさりと重い音を立てて翻った。彼女は言った。
「あんた、もうあたしん家来んな」
「――」
「あたしの言いたいことはそれだけよ」 
「待って……!どうしてっ」
 瑞希は血の気の引いた顔で口を開いた。
「貴方、龍司さんの恋人なんでしょう!なのに――」
 いくらその手の話に疎い瑞希でも、二人の会話を聞いていれば龍司とこの女性がそういった関係であることは容易に想像ができた。
必死で引き止めると女は瑞希をも馬鹿にしたような仕草でわずかに首を傾けた。
「フったでしょ?たった今。だからもう、あいつとあたしは恋人同士じゃないの。赤の他人」
 肩をすくめて平然と言ってのける。
「あんなのに付き合うなんてもう真っ平。キミも早く見切りつけたほうがいいよ?」
 軽やかに踵を翻して彼女は微笑んだ。傘のほかに手荷物が無かった彼女の足取りは本当に軽くなったように見えてしまい、
瑞希は自分の邪推にはっきりと嫌悪をもよおした。
「傘はあげる。もしまた会う機会があったら返してくれればいいよ。じゃあね」
「お姉さんっ」
 尚も追いすがる瑞希を呼び止めたのは低く暗い声だった。
「やめろ」
「でも!」
 振り返る瑞希に龍司は無言で頭を振った。瑞希は二人の仲に自分が直接関与していない以上それに従うしかなかった。長身を
惜しげもなく雨に晒しながら女が雨靄に消えていくのを、瑞希は歯噛みする思いで見送った。 
「それより何でお前がここにいる」
「――」


 目を丸くして立ちすくむ瑞希に龍司は言った。彼はよく出来た人形のように玄関先に立ち、いつの間にか感情の無い瞳に
立ち戻ってこちらを見ていた。
「どうしてこんなところまで来た。俺とお前はもう――何の関係もないはずだ」
 瑞希は底知れなさを感じて一歩退いた。彼に対して瑞希はあまりに人間の感情を顔に出しすぎる人間だった。丸くした目が
たちまち動揺の気配を帯びていった。
「あ……」
 何度も口を開閉させるがなかなか言葉が出てこない。何度も瞬きをし、焦って胸元を握り締め、彼女はようやっと口を開いた。
「私……私、龍司さんに謝りたくて……」
 こうして彼に会う理由はちゃんとあったはずなのに、いざ話す段になると、言葉が全くといっていいほど出てこない。 
「私、酷い事を言ったわ……だから」
 さっきからずっと歯の根が合わない。たどたどしくなってしまった言葉遣いで喉から懸命に声を押し出す。傘を持つ手を握り締め、
吐き出すにはまだ苦しい言葉を彼女は必死で口に出した。
「その……本当は貴方だって、お爺さまのことを心配していたのに……私は、そうじゃないって頭から決め付けて、貴方の話も
聞かないで……散々、自分勝手な事を言って……」
「で?」  
「だから……私、貴方のことを誤解していて……」
 瑞希はやっとのことで搾り出すように最後の言葉を言った。
「……ごめんなさい……」
 龍司は即答した。
「そんな事はもういい。取るに足るようなことじゃない」
 その口調はわずかながらにでも期待したものを得られなかった不満を帯びていたが、瑞希はそれに気が付かなかった。
「そんな――」
 言うべき言葉を失くして彼女は立ち尽くした。私が気にしていたことは、彼にとってはどうでもいいことだったのか。
呆然と龍司を見ていると、龍司は邪魔だとでも言いたげに掌を振った。
「用件がそれだけならもう帰れ」
「龍司さん!」
 瑞希は食い下がった。
「どうしてこんなことになってしまったの!貴方がそんなにまで守ろうとしていたお爺さまの跡目が、こんなに突然に――」
 叫んで彼女は身を乗り出した。
「妙さまが仰っていたわ。誰かが故意に、貴方を陥れたって!一体何があったの!どうして、誰が、こんなことをっ」
「知ってどうする?」
「――」
 言葉を奪われ、彼女は乗り出していた身体を退いた。言われるまで、知ってどうするかという具体的な考えはひとかけらも浮かんで
いなかった。ただ反射的に尋ねたという自分自身の心理の得体の知れなさに戸惑いながら、それでもある限りの理由を引っ張り出して
彼女は声を出した。
「き……聞いておきたいの……私も、もしかしたら正式に、家の一員になるかも知れないから……」
 もっともらしい理由をつけながら、彼女の心には何故か二律背反に似た引き裂かれそうな感情が生まれて渦を巻いた。その感情を
頑なに無視して彼女は続けた。
「咲子さんにね……養子にならないかって誘われてるの……咲子さんは息子さんに私を重ねているから、もしそうなるなら、
私は可能な限り、男として養子に行きたいと思ってるの。だから私、今度こそ、本当に男として家に入ることになるかも知れない」
 龍司が言葉を返してくるまでに若干の間があった。
「そうか」
 目を閉じ、彼は息を吐いた。そして言った。
「良かったじゃないか」
 ついぞ聞いたことのない優しい口調だった。
「――――」
 何か大切な糸が一本切れたような感覚がした。
 排水溝が排水しきれない雨水が量を増やして彼女の足元まで迫ってきていた。瑞希は傘を力なく握り締めた。


「許してくれないの?」
 震えながら彼女は言った。
「私の言った事は貴方にとってはどうでもいいことだったの?私、どうしても貴方に謝りたくて……」
「ああ。どうでもいいことだ」
 龍司ははっきりとそう言った。 
 瑞希は呆けてすとんと肩を落とした。気付いたのか気付かなかったのか、龍司は背中を向けた。家に戻りながら最後であろう
言葉を投げてくる。
「さっさと帰れ。これからもっと降るぞ。天気予報でそう言ってたから」
 瑞希は指一本動かせないまま呆然と立っていた。最後に一瞥をくれた龍司の目を見て、瑞希の脳はあることについてようやく
理解の兆しを見せた。
 これまで、彼が無表情になるときは決まって、何かとても激しい感情を抱えながら、それを抑えている時だった。
 瑞希は直感した。今、彼は怒っているのだ。それもとても激しく。
「――」
 その事実に彼女は愕然とし、失望し、そして哀傷した。どうしていいかわからない。私は彼に、どうすればいいのかわからない。
彼女は歩み去る背中を眺めて眼を見開いた。
 ああ。
 行ってしまう。
 彼女の手から傘が落ちた。開いた傘が横に傾いで落ち、アスファルトに跳ねた。びしょぬれの革靴が水音を立てて地を踏み、
主を運んだ。
「待ってっ」
 叫ぶ。大きな背中が立ち止まった。瑞希はその背中に向かって一直線に駆けた。
 気付いたときには、瑞希は龍司の背に身を預けていた。言葉が勝手に唇を割り、流れ出てきた。  
「――何でもする」
 自分でもわからないうちに、彼女はそう呟いていた。
「何でも言うことを聞くわ。だから許して。お願い――」
 瑞希は懇願した。あたたかい身体を抱きしめ、その背に顔を埋める。このまま行って欲しくないという感情だけが彼女を支配
していた。引き止められれば何でも良かった。とにかく全身で行って欲しくないと訴えるしか出来ることはなかった。
 それに感づいたのか、龍司は彼女を引き剥がすことはしなかった。ただ、
「……なんでもすると言ったな」
 それを聞いた瑞希はびくりと身を震わせた。
 龍司の声は怒りに押し潰され、ひどく歪んだ声になっていた。その声はこれまで以上に彼が怒っていると確信させるのに
十分だった。自分の行動は間違っていたのかと恐ろしくなり、彼女は細かく震え始めた。
 腰に回っている震える小さな手を握り締め、彼は一瞬躊躇したようだった。だがやがて短く、やはり無表情に言った。
「なら抱かせろ。今すぐにだ」



 その後、玄関まで連れられてきた瑞希は、とにかくその濡れた衣類をどうにかしろと言われて脱衣所に招き入れられた。
 与えられたバスタオルで髪を拭きながら、彼女は必死で考えた。私は間違っているのではないか。こんなことで、彼の怒りを
鎮めることはできないのではないか――しかし何も考え付かなかった彼女にはこうするしかなかった。こうしなければ彼をそのまま
見過ごし、自分がそれに対する後悔をずっと引きずりながら過ごさなければならなくなることはわかりきっていた。それだけは嫌だと
彼女は思った。傷つけてしまった人に対して責任を負わないままでいることは自分には出来ない。しかし同時に、どうしていいか
わからないまま状況に流されていってしまうのにはどうしても不安が拭いきれない。
 ジャケットを脱ごうとした時、ポケットに入れたままのものに気付いて彼女はそれを引っ張り出した。小さな箱は揺れた拍子に
中のものとぶつかり合って小さな音を立てた。一番外側の紙の箱は完全に駄目になっていたのでそこから中の小箱だけを取り出す。
 彼女はそれをとりあえず洗面台の上に置き、濡れた服を脱ぎ始めた。ワイシャツ、パンツに続き、サラシも逡巡した後、解く。
どちらにしろこの濡れ方では付け続けているわけにはいかない。


「……」
 洗面台の小箱に指で触れる。彼女は再びそれを握り締めた。
 その時、ドアの向こうから声がした。
「終わったか」
 突然掛けられた声に驚き、瑞希は咄嗟に小箱ごとバスタオルを掴み、ショーツ一枚のみの身体に巻き付けて振り返った。返事も
待たずにすりガラスのドアが開く。
 龍司が立っていた。先ほど瑞希が抱きついた時に彼の服も濡れたため、先ほどと殆ど変わらない服装ではあるが彼も他の服に
着替えていた。瑞希は未だに表情の無い彼にはっきりと自覚を持って怯えた。
「待って、まだ」
「そこまで脱いでいればもういい。来い」
「待ってっ」
 後ずさりかけた彼女の空いた方の手を取り、龍司は廊下へ出た。引かれる手の大きさと熱と強引さに、彼女は思わず叫んだ。
「駅からここまで走り通しだったのっ。お願い、シャワーを使わせて――」
「それだけ水浴びしてれば充分だろ」
「そんな」
 尚も尻込みする彼女を、龍司はいらだった視線で見つめ、急に動いた。
 急激な浮遊感に彼女は声を出さずに呻いた。肩甲骨の辺りと太腿を太い腕に支えられ、彼女は抱き上げられていた。
「あ――――」
 降ろして。彼女は言いかけ、急に心胆の冷えた心地になって唇を引き結んだ。
「……」
 彼女は真っ青になって口を閉ざした。必死で縫い合わせた心の傷がまたいとも簡単に開きはじめているのを感じて身震いする。
いやだ――触らないで。彼女は辛うじてその言葉を飲み込んだ。今の彼女は自分が傷ついているのと同様に、相手も傷ついている
ことを知っていた。これ以上彼になにごとかの負の感情を呼び起こさせる行為を起こす事はためらわれた。しかし彼女の努力は
むなしかった。彼女は自分の感情を隠すのが下手であり、彼は相手の感情を読み取るのに長けていた。回された手に力がこもったのを
感じ、彼女は観念したように視線を落とした。目を合わせることは怖くて出来なかった。
 脇と腿に触れる掌の感触と抱き上げられた時に感じる独特の重力を異物のようにもてあましながら、彼女はそれきり黙り込んで
暴れることもせず彼に従った。階段を上って二階に上がり、寝室に踏み込んだ後やっと彼女は地に足をつけた。モノクロームカラーの
絨毯が素足を受け止める。
 龍司の寝室であろうその部屋は意外なことに、酷く地味な印象だった。ベッド、カーテン、テーブル、ソファ、テレビ、
オーディオ、その他のものらどれも統一されたモノクロームで、特筆できる特徴は無い。味気ない。それが彼女が最初に持った
感想だった。生活感もまた無く、ベッドですらろくに使われた形跡は無い。
彼女は立ち尽くして視線だけを動かした。
 私と同じだ。
 そう感想を持つ前に、肩に手が触れ、彼女ははっと振り返った。抱くように背中から手を回されそうになり、瞬間的に身体を離す。
振り返った直後龍司の何の感慨も無い目がごくわずかに揺らいだのを見て、彼女は罪悪感に「あ」と声を漏らした。気まずくなり、
彼女はとにかく何かしゃべらなくてはと口を開いた。
「龍司さん、あの……」
 彼女はバスタオルに隠れて握り締められていたそれを取り出すと、恐る恐る差し出した。
「これ。返さなくちゃって……」
 差し出された小さな宝石箱を彼は無感動に見つめたが、特に何を言うこともなく掌を出し受け取る。そのことに安堵の表情を
見せた瑞希の目の前で、龍司はその掌を傾けた。
 絨毯の上だったので音は殆どなかった。一直線に床に落ちた箱はわずかに跳ねて中身だけがぶつかり合って音を立て、それきり
静かになった。
「……」
 瑞希はショックに言葉を失った。そして何故自分がこんなにショックを受けているのかわからなかった。


 箱は横になり、路端の石のように床に転がっている。それが突然何の価値も無いものに成り下がった気がして、彼女は呆然とした。
拾うことはしなかった。何故と尋ねることもしなかった。なんとなく、そうしてはいけないという無言の圧力を感じた。
 ただ、素直に表情に出た疑問符は龍司に口を開かせた。彼はわずかに首をかしげた。
「もう要らないだろう」
「……」
 その通りだった。
 それでも瑞希はショックだった。彼女は頭を振った。何か大切なことを取り落としている気がして、彼女は口を開いた。
「私――」
 何かが言いたい。バスタオルで必死に体を隠しながら彼女はまとまらない言葉を懸命に繋ぐ作業に集中した。
「貴方に会う時、私、いつも怖かった。どうしてかわからないけど、怖かったの。今も」
「それはそうだろう」
 突然言葉を遮られて瑞希は驚き、目を瞬いた。龍司は彼女に背を向け、部屋の中心に向かって数歩進んだ。部屋の中心にある
テーブルに視線を落とすようにして彼は言った。
「俺はお前をレイプしたんだからな」
 あまりに直接的な言葉だった。
 一気に、体中の力が抜けた。決して聞きたくない言葉に、意識せず数歩後ずさる。
 身体が急に寒さを思い出した。主の意思を無視してがくがくと震え始める。肩も足も鳥肌を立て、何処でもいいから温かいところに
潜り込みたいと悲鳴を上げている。
 でも、違う。違う気がする。貴方のことを怖いと思うのは、もっと他に理由がある。しかし彼女はそれ以上言葉を継げず、言葉は
喉元に留まった。
 彼女が何も答えないのをどう思ったのか、龍司は背を向けたままで言葉を続けた。
「お前、おかしいぞ。普通だったら警察へ駆け込むなり、誰かに相談なりするもんじゃないのか。そういやいつか言ってたな。
叔父さんが亡くなったら全部暴露するって」
「それは……」
 確かに自分はそう言った。だがそれは龍司に提案を呑んでもらいたかったがためのブラフで、その時も今も、それ以上の意図は
ない。無意味に事を荒立てたくは無かった。それだけだった。だが彼はそうは思っていないようだった。
「それが終いにはわざわざ自分から来て抱かせてまでくれるのか。正気の沙汰じゃない」
「……」
 彼女は押し黙った。本当に、
〈何故、だろう!)
 瑞希はぽかんと口をあけた。彼女は自分の返答の異常さに今、初めて気が付いた。
 私は彼を傷つけ、それを贖いたいという気持だけでここまで来た。過去、相手が私を一方的に陵辱したことは忘れているわけでは
なかったが、それとこれとは自分の中でははっきりと線引きが出来ている。だからこそ、いくら何でもすると言っても、抱かせろと
いう要求だけは別のはずだ。これまでのことは、私の中でそんなに軽いものではない。
 しかし自分はそれを了承した。酔狂にもほどがある――彼女がそう理解すると同時に龍司が再び口を開いた。自嘲でもするような
口ぶりで、そのくせ酷く押し殺した声で彼は言った。 
「俺に同情でもしてるのか?同情だけで抱かせてくれるなんて、安い身体だな。それとも単なる淫乱で、相手は誰でもいいのか」
「――」
 ぐらりと視界が傾いだ気がした。
「違う……」
 屈辱に涙で目の前が霞んだ。私は――私は、そんな風に思われていたのか。
「違うわ。ただ、私……」
 何も考えられず、彼女はうわ言のようにそう繰り返した。眦が熱くなり、勝手に泣き出しそうになった。私は自分を安く見ても、
ましてや貴方を軽く見てもいない。
 誤解されるのは嫌。
「どっちでもいいさ。俺としては後者の方が面倒が無いがな」
「違う!」
 彼女は悲鳴に似た声を上げて否定した。誤解されるのは嫌――どうして私はこんなことを思うのだろう。でもその想いには
抗えなかった。怒らせるだけだとわかっていても彼女は叫んだ。
「違う、それだけは違うっ。違うわ!」
「ならどうしてこんなところまで来た!」
 それまで低調だった龍司の声が突然怒気をはらんだ危険と思えるものに変じ、瑞希は身を震わせて硬直した。
 そこには手足を数ミリかすこともできない緊張感があった。沈黙が氷山のように横たわった。それは二人の心理的な隔絶をあらわす
深い溝だった。
 龍司は怒気を解かないまま手を伸ばし、乱暴な手つきで瑞希の腕を取った。
「もういい。いずれにしろ、もう遅い」
 取られた手が突然引かれた。雨とストレスに体力を奪われた手足はなす術も無く引き寄せられた。足をもつれさせ、彼女は龍司の
胸に倒れこんだ。どんなに恐怖していても、その腕の中は温かかった。


 しかし龍司の次の行動にその熱は一気に冷めた。急激なあしらわれかたの変化に彼女は付いていけず、されるがままになった。
「……!」
 硬く冷たいテーブルの上に組み伏せられて彼女は目を見開いた。したたかに打ち付けたため身体に鈍い痛みが走る。
飛び上がりそうに冷たい金属の卓に背中から急速に体温が奪われていった。彼女は悲鳴じみた声をあげた。
「こんなところで、やめて……!せめて、ベッドにっ」 
「黙れ」
 彼はぼそりと呟いた。
「嫌なら抵抗すればいい」
「な」
「前みたいに俺に噛み付いて、逃げ出してみろよ。そうしたらやめてやるさ」
 瑞希は混乱した。自分から抱かせろと言っておきながら、逃げれば許してくれると言う。彼は皮肉げに口の端を歪めた。
「やめて欲しいんだろう?」
「……」
 瑞希は何故か泣きそうになった。
「……どうしてそんな事を言うの……?」
 返答はなかった。腰に潜った龍司の手がたった一枚まだ脱いでいなかったショーツに触れた。
「っ……」
 瑞希は怖気を覚えて呻いた。ずるりと湿ったショーツが嫌な感触を残して引き抜かれる。全身に鳥肌を立てながら反射的に
身を引いて逃げようとしたが、当然のように脚を太い腕に絡めとられ引き寄せられた。
「あっ」
 右脚を左腕に絡められ、右腕で腰を抱かれるような格好になる。前のめりに圧し掛かられ、鼻が触れるほどに近くまで、
龍司の顔が迫った。
 間があった。怖いのに、据わったその目から視線が外せなかった。右手が上がり、首筋から肩に触れられても、微動だにできない。
瞳だけを見開いて彼女は動かなかった。「怖い」という言葉が発せない。喉に引っ掛かってどんな事をしても取れない魚の小骨の
ようだった。その抵抗感が彼女の心を無遠慮に引っかき回してぐちゃぐちゃにしていた。
 言いたいことが言えない。跳ね除けたくても出来ない。噛み付きたくても逃げ出したくてもそれら全部が自分の中で不可能だと
断定されていて、さらにそれらが私を苦しめている。
 私の心理は矛盾している。
「ひ」
 最初からいきなり入り口に触れられ、瑞希は大きく喘いだ。陰裂を下から上に、ゆっくりとなぞっていく指をつぶさに感じて
びくりと身体をしならせる。
 彼女は顔を逸らした。精神的な抵抗感から力が抜けなかった全身が、嘘のように弛緩した。ひんやりしたテーブルに
片頬を付けて現状からも目を逸らそうとする。矢先、指が入ってきた。 
「っあ!」
 悲鳴を上げる。自分のものではない節くれだったごつごつとした指は無遠慮に彼女の中をかき回した。弛緩した四肢が一気に
硬直した。以前のように彼女の様子を見ながらのものではない、自分勝手な動きだった。そしてそれにも関わらず、
蜜壺はあっという間に潤み、その口を広げ始めた。
 逃避しようなんて土台無理な話なのだと、彼女は知った。口から勝手に声が漏れ出る。
「……あ、あ、あ……」
 隠しようの無い自分の艶声に彼女は絶望した。……これでは本当に、言われたとおり、私はただの淫乱ではないか。
 こんなのは嫌だ。嫌――なのに掻き回される度、体の中心は止めどなく蜜を吐き出し、身体はその刺激にまるで悦んでいるかの
ようにぴくぴくと震える。信じられない感覚に瑞希は泣き声を上げて身を捩った。嫌、なのに、どうしてこんなに感じるの……。
絶頂が近い、その兆しを感じるのは以前より明らかに早かった。身体がいうことを聞いてくれない。背筋に弦を張られたように
身体が弓なりに反り返る。
「ひ、あ、う、ああぁあ――――」
 怖い。
 怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
 病院での様々な負の感情が、今は全てひとつのものにすり替わっていた。白い肢体を仰け反らせて彼女は啼いた。
 目の前が真っ白になり、弾けた。
 


 龍司は瑞希の緊張の糸が途切れたのを感じて秘部から手を離した。
「……っ……ふ……あ……」
 涙を流しながら達した瑞希の弛緩した四肢を組み伏せたまま、龍司は片手だけで腰のホックを外した。既に硬く反り返ったものが
ひんやりとした空気に晒されたが、熱さはほんの少しも和らがなかった。  
「あ……」
 先端を瑞希の濡れた箇所に擦り付けると、彼女は今までにない艶っぽさで四肢を揺らした。
「駄、目……まだ、無理……」
 その姿は言葉とは裏腹に、誘っているように見えた。と勝手な解釈をし、龍司は力を込めた。  
 ずぶりと先端が入り込むと下敷きにした手足がびくんと波打った。バスタオルを握り締めるだけでは耐えられなかったのだろう、
硬いテーブルにを立てる細い指を見て、どうせなら自分の背中に立てればいいのにと八つ当たりのように思うと、腰を進める。
「っ、は」
 瑞希がまた仰け反る。圧倒的な苦痛と、わずかに快楽を覗かせる吐息をつきながら、やがて彼女は龍司の全てを受け入れた。
「――――」
 龍司は目を閉じ、眉をひそめて強烈な快感をやり過ごした。ろくに愛撫をしていない身体はきつく、狭い。最初の日の感覚を
彼は思い出した。
 嫌な記憶だ。
 瞼を開け、繋がり合ったままの少女に目をやると、彼女はかすかに身じろぎをした。痛みからの反射的なものか、それとも本当に
嫌がっているのか、それまで耐えていたらしい涙を瞳から溢れさせていた。よほど圧迫感があるのか、懸命に肺を膨らませて
息苦しさを逃がそうと浅く息を吐いている。肺が収縮を繰り返すたびに両手で庇った胸が大きく動き、嫌でもその下に隠されている
素の身体を想像させた。
 その桜色に染まった唇がかすかに動いた。
「…………いた、い……」
 かなりの間をおいて彼女は呟いた。涙を流しながらも抵抗はせず、眉根を寄せて懸命に耐えている。そしてその健気さが、以前とは
逆に龍司の怒りを掻きたてた。
「……こんな、の……」
 唇が動いて言葉を紡ぐ。
「こんなの嫌……龍司、さ……はう」
 少し腰を動かすだけでその言葉はいとも簡単に中断させることが出来た。彼女の手に自分の手をかけて硬く握り締められた拳と
バスタオルをどける。
 見慣れたというほどではないが、その身体は一ヶ月経ってもはっきりと覚えていた。全体的に脂肪が少なく、抱き心地がいいと
言える身体ではない。しかし白くなめらかな肌は初めて見た時から全く変わっていなかった。鎖骨はその骨の細さを象徴するように
頼りなく、だが綺麗な線を描いて伸びている。十八にしては未熟なふくらみが目に付いた。
「……」
 急激に、自分でも理解しがたい感情がせり上がってきて、龍司は突然白い乳房をわしづかみにした。 
「あ、つぅ」
 瑞希の声が痛みを訴える。その身体が跳ね、下半身が痙攣を起こしたように締めつけてきた。入れた時点ですでに彼女の中を
いっぱいに埋め尽くしていた彼自身は、わずかな締め付けでも相当の快感を受け入れなければならなかった。呻いてまた
性感に耐える。
「……」
 彼は自己嫌悪に顔をゆがめた。自分の身勝手さに吐き気すら覚える。周囲が思い通りにならないからと言って女に八つ当たり
するとは、俺はこんなに情けない男だったろうか。
 そしてそれを自覚してもなお、彼の手は彼女を徒に弄ぶ事をやめなかった。尖り始めた胸の頂を指で擦る。
「あう、あ」
 だらしなく口を開いたまま、彼女は息を吸うように呻いた。入り込んだままでいるため身体に力が入らないのか、ちょっとした
刺激にも耐えることができないようだった。それを見た龍司は頭の中で考えるよりも早く、行為をエスカレートさせていった。
腕にも腹にも脇腹にも出鱈目に手を這わせ、その後舌と唇でも同じようにした。 その間ずっと腰は動かさなかった。とにかく
長い間、彼女の中に入っていたかった。


 乳首を吸われると瑞希は特に大きく身を震わせた。声は無い。
「……」
 彼女はいやいやをするように頭を振った。もう泣いてはいなかったが眦にはまだ涙を残していて、今にもまた泣き出しそうだった。
眉間に皺を寄せ、
眉が哀しげに八の字を描いている。
 見ないふりをして執拗に舐め、痛みを感じない程度に歯を立て、更に強く吸う。
「――っはあっ」
 ぴく、と湿った肌が震えて仰け反った。一瞬だけ、ひきつけを起こしたようにその背中がくんとしなり、またぎゅうと締め付けた。
どうやらようやく達したようだった。が、達し方がよほど浅かったらしく、あまり気持ち良さそうではなかった。身体の芯から
達せないもどかしさにすぐに身じろぎを始め、彼女は震える声で哀願した。
「……抜、いて……お願……」
 ここまできても「動いて」と言えない彼女が愛しかった。
「お前が」
 その言葉は殆ど意識せず唇から漏れた。
「お前が悪いんだぞ、――お前が、俺を誘うような真似をするから」 
「――」
 彼女は声を失ったようだった。黒い大きな瞳が見開かれて、唇の動きだけが「まさか」と言う形を作った。
「……違……そんな、つもり、じゃ」
 必死に答える瑞希を見、そうだろうな、と龍司は苦く笑った。この少女に少しでもそんな器用な真似ができるのなら、自分など
とっくに篭絡されている。そしてそれならそれでよかったのだ。……もともと、愛してなどもらえないのだから。
 彼は彼女の細い腰に手をやり、テーブルに押さえつけるとゆっくりと律動し始めた。瑞希の台詞はすぐに喘ぎと悲鳴を混ぜたような
切羽詰った叫びに変わって行った。
  
 彼女をはっきりと「好き」だと自覚したのはいつだったろうか。 
 最初は抵抗されるのが楽しかった。楽しくて楽しくて、さらに犯してやろうと自分の欲望を一方的に叩き込み、屈服と反抗の間を
行き来する彼女を見て面白がっていた。痛めつけている相手に全うな権利はない。一方的に弄ばれながら反撃する力も逃げ出す力も
ない。それでも足掻き続ける。そしてそれを見て楽しむ。それは非常に子供じみた残虐な嗜好だった。
 しかしそれは長く続かなかった。子供じみた嗜好は時を経るに連れて彼自身も驚くほどの明らかな変化を見せた。次第に彼女の
反応を見定めるようになり、やがて激痛に身を捩る彼女よりも、感じて声を上げている彼女の痴態を見る方が楽しいと思うように
なった。そして今では、彼は他の何よりも、自分の愛撫によって悦ぶ彼女を望んでいる。今でも彼女をただの玩具だと
思っているならば、絶対にあり得ない思考だった。 
 この一ヶ月で、龍司は実に多くのものを失った。それは母親であり、叔父であり、叔父の遺産であり、彼女であり、
そして瑞希だった。程度の差はあれ、叔父に倣い力をつけてきたと自負していた彼は、どうにもならない件の多かった一連の難には、
最初は悔しさにひたすら歯噛みし、次第に唖然とし、最後には呆然と立ち尽くすばかりだった。特に、力を注いでいた叔父の跡継ぎと
しての地位が失われた際にはぽかんと呆けるばかりで、随分と長い間脳が理解するのを拒否し続けていた。理解を始めると次第に
目の前が真っ暗になり、何にも手を付けられなくなった。自分が麻紀枝と血がつながっていないとわかってからは自宅謹慎処分に
なってもいたから(これは取り敢えずの処置で、いずれはもっと厳しい処分が待っているだろう事は想像に難くなかったが、
叔父の後について勉強できたのは男である自分ただ一人だったから処分がここまで伸びているのだろうとも想像できた)余計に何を
する気も起きなくなった。しかし何より、謹慎となると自宅に篭らなければならず、毎日のように母親と顔を合わせなければ
ならなくなったことが、彼の憂鬱を倍化させた。
 かねてより、龍司は母親を捨て切れなかった。叔父の許に付いたのが小学校中学年の頃という中途半端な時期だったから余計に
そうなってしまったのかもしれない。
 良い親か悪い親かということに関わらず親の縛りというのは強力で、それが麻紀枝のような人間となればなおさらだった。
麻紀枝は何かにつけ龍司を縛りたがった。彼女は、龍司が言うことに従わなければ懲罰を加えることも厭わない、いわゆる圧力を
加えることで人を自分に従わせるタイプの人間だった。


 龍司は彼女の本当の子供ではなかったから、生来の気質が影響してしまったのか、考えが甘かった。母親が自分に愛情を
与えてくれることは望めないとわかっていながらそれでも心のどこかで期待してしまっていた。それを、叔父という人がありながら
この歳まで引きずってきてしまったのが何より悔しい。
 彼女の指摘は全くの正論で、自分の甘えを振り切るという意味でも、自分から母親をはっきりとした形で追い出してしまった方が
良かったのだろうと思う。それが実際にはああだ。情けなくもなる。彼女が自分を見捨てるのも当たり前というものだ。
 龍司は怒っていた。それは瑞希にではなく、自分自身に対しての怒りだった。不甲斐なさや無力感、それ以外の様々な小さい
要因もあるが、この一ヶ月の間にひたすら溜め込んだやり場のない怒りが、無防備に彼の前に姿を見せた瑞希に対して
向けられていた。彼女は自分を拒否した。この上も無くはっきりと嫌いだと言った。なのにどうして今更、自分の前に出てきたのか。
あまつさえ何でも言うことを聞くなどと言えば、こうなることは火を見るより明らかだったろう。
 本当は、龍司には今こうして彼女を抱くつもりなど今際の際まで全くなかった。一度拒否された以上、もう彼に瑞希を抱く
勇気はなかった。鍵を返したのもそのためだった。無理に抱くにはもう愛しすぎていた。無理に抱いてしまったら、自分が
傷つくだけだ。余計に嫌われる。余計に苦しい思いをさせる。今ではそれはそのまま、龍司にも苦痛として跳ね返ってくる
ものだった。
 彼女をもう二度と抱けないと思った時、龍司が取れた行動は、彼女に二度と会わないことだけだった。二度と顔をあわせなければ
忘れることも出来るだろうという、今にして思えばまったく無意味な行動をとり、そのまま謹慎に入った。
 しかしその思惑はあっさりと外れた。むしろ失敗と言って差し支えない。暗い部屋で一人でぼうっと考え事をする時、仕事のことや
叔父のことに混じってたびたび顔を出すのは瑞希のことだった。そして思い出すたびに、彼女と何を話し、何をしたかが鮮明に
蘇ってきた。それらは瑞希を諦めたつもりの彼にとって拷問に等しかった。一度手に入れながら自ら手放してしまったそれは、
欲しくても手に入らないものよりずっと激しく彼を苛んだ。

「やあぁ、あ、あああああっ、あ」
 一突きごとに瑞希の絶叫に近い泣き声が響き渡った。その悲鳴に自分の内臓が抉られるような心地を味わいながら、それでも龍司は
腰を打ちつけた。
 龍司が一番最初に彼女を奪ったとき、彼女は処女だった。それも無理に奪ったのだから、苦痛は相当なものだっただろう。それは
本来なら彼女自身が選んだ相手に捧げられるべきもので、彼女の意思を無視して自分が横から攫うような真似をしていいものでは
なかったと思う。
「あ、ああっ――――あっ――――」
 泣き声の響きが変わってきた。熱が籠もり、艶掛かって甘く高くなっている。組み敷いたとろんとした瞳が虚ろに宙を泳いでいる。
明らかに感じ、この陵辱を受け入れてきている。絶頂が近いようだった。もう痛みは全くといっていいほどないのだろう。そして
反比例するように快楽を得ている。耐え切れないほどの快感を流し込まれ、彼女は全身で啼いていた。この抱かれるという行為に
対して精神的にはともかく少なくとも身体的には抵抗をなくし、龍司を受け入れ始めている。
 しかし今の龍司にはそれすら厭わしかった。無理に奪い、しかもそれを幾度も繰り返して慣れさせていったことを、今度こそ彼は
後悔した。
 今の龍司は彼女を陵辱した人間であると同時に、彼女を愛する人間でもあった。彼女がいかに辱められ、苦しんで処女を
失ったかを、彼は目の前で見ている。その後彼女がこの行為に慣らされていく過程も決して彼女が望んだものではない。
 彼女を愛してしまった龍司にとっては、それは悔しく苦しいものだった。また、ありえない仮定ではあるがもし彼女と
正常なこれからがあったとして、それは既に彼女との様々な初期の過程を既に失ってしまったものになるだろうということが
想像できた――彼女を愛して初めて認識を始めたこれらの事柄は思っていたよりずっと深く彼を傷つけた。
 そしてそれらは全て、自分自身が引き起こしたことだった。彼にはそれが何より苦痛だった。
 それでも、龍司は彼女が欲しかった。この一ヶ月で自分の持てるほぼ全てを失った彼は、確かなものが欲しかった。
足場がなければ自分で立つことすらできない。
 そして目の前に瑞希が出てきた。彼に選択の余地はなかった――どれだけ傷つけようが、傷つこうが、
龍司にはもう彼女しかいなかった。


 瑞希は失神寸前の表情で揺さぶられていた。がくがくと痙攣しうわ言のようにひたすら「あ」の音だけを発音している。龍司は
壊れかけた様子の彼女をいっそ壊してしまおうとがむしゃらに突き上げた。
 壊れてしまえば、彼女はもう何も考えず、自分の傍にいてくれるだろうか?
「あ、あ、あぁあああああああああああ…………!」
 断末魔の叫びにも似た声を上げ、瑞希は絶頂を迎えた。
 身体を引き裂くほどのオーガズムに翻弄され、その身体はそれを忠実に反映した。四肢は伸び切り、硬直した腿は彼の腰を
挟み込んで締め付けた。腰が押さえつけられているために肩や頭をテーブルに打ち付けるかと思うほど激しくしならせ、
おとがいを限界まで逸らして、啼く。
 その表情に、今この瞬間だけでも求められているのだという昏い歓喜が込み上げ、彼は彼女の中に思いの丈を注ぎ込んだ。
焼け付くような熱さで絞り上げられる中、最後の一滴まで彼女に捧げようと、腰を限界まで深く沈ませる。
 そうしたまま、何分か経っていたかもしれない。ようやく自我が戻ってきた頃、衝動的な行為によって得た快楽はすぐに
激しい後悔に変わった。引き抜くと、自分の行動によってもたらされた結果を視界に入れる。
 ありていに言って、惨状だった。テーブルの上にはぐしゃぐしゃになったバスタオルが一枚だけで、そのほかに硬質のテーブルから
か細い少女の身体を守るものはひとつも無かった。それも言わずもがなの液体がべっとりと纏わりついて汚されている。彼が、憤りと
欲望を一方的にぶつけた少女は完全に気を失っていた。自分の意思に反して乱され尽くした身体をテーブルの上に投げ出している。
脱力した脚の間には紛れも無い彼の欲望の証が流れ落ち、濁った水溜りをつくっていた。彼はそれらをある種の諦観を持って眺めた。
どうせ自分などこの程度の人間だ。
 嵐のように激しい感情の後に残ったのは、後悔と自分に対する嫌悪感と、彼女に対する歪んだ愛情だけだった。
「……」
 身体が勝手に動いた。瞼を閉じきってぴくりとも動かない彼女を抱き上げ、抱き締める。細い身体が力なく彼に身を預けた。  
「ごめんな」
 聞こえていないだろう謝罪の言葉を口にする。しばらくの後、軋んだ歯と歯の間からその言葉が漏れた。
「好きだ」
 一生告げるつもりの無かったその一言が、本当は告げたくて告げたくて仕方なかったものだったと、彼は今になって気が付いた。
 一度口に出してしまうと止まらなかった。間違ってひっくり返した瓶から際限なく砂が零れるように感情が噴出した。
名前を呼ぶなといわれても、もう無理な話だった。
「瑞希」
 理性のたがが外れたかのように、彼は何度も何度も彼女の名前を呼んだ。
「好きだ。同情だろうが身体だけの関係だろうが、ただのごっこ遊びだろうが、もう何でもいい……俺の傍にいてくれ、瑞希」
 自分でも自由に取り出せない心の底のさらに底の本音の部分が、ようやく彼の意思に従って顔を出した。――遅すぎた、と
彼は痛切に思った。こんなに彼女を傷つけた後で、何を言ってももう足りるものではなかった。
 
 気を失っていたようだった。
 朦朧とした意識の中でわずかに瞼を押し上げた時、彼女は夢現にその言葉を聞いた。

「――――」
 腕の中の瑞希が微かに動いたのを感じて龍司はわずかに身体を離した。急に心臓が締め付けられるように痛んで、彼の腕が緩んだ。
 怖いと思った。もし彼女がこの告白を耳に入れていたとしたら、今すぐにでもこの場を逃げ出してしまいたかった。散々陵辱した
その後で「好きだ」などと告げて、彼女の立場をまるで無視した自分の言葉が一体彼女にどう届くのかを想像して彼は怯えた。
 彼女が虚ろな瞳を上げた。その視線が自分に固定されるのを感じて彼は恐ろしくなり、瞼を閉じた。  
 と、突然両頬に小さな手が掛かり、龍司は完全に虚を突かれて目を開けた。
 唇にあまやかな圧力が乗った。小さな柔らかいそれはすぐに離れた。目の前に、視線を合わせるようにして、瑞希の顔があった。
その表情は夢から覚めた夢遊病者のように、青ざめてはいたがはっきりとした思考を持った人間のそれだった。


 瑞希は彼の首に腕を回し、その頭をかき抱くようにして抱き締めた。
「……謝らなければいけないのは私だわ……」
 耳元で声が囁かれた。
「嘘をついてごめんなさい……」
 何を、と反射的に尋ね返そうとした直前、吐息のような声が言った。
「貴方が嫌いなんて本当は嘘……」
「――」
 その台詞に、咄嗟に彼女の顔を見ようと身体を捻ろうとし、そして強く抱きついてきた腕にその動きを阻まれる。
 瑞希は、龍司とは逆に、今の自分の顔を見て欲しくないと思っているようだった。それを感じ、龍司が瑞希の動きに逆らわない
ようにすると、その腕からは目に見えて力が抜けた。
「自分をちゃんと見て、考えていればすぐにわかったことなのに、考えるのが苦しくてどうしようもなくなって、
考えるのをやめてしまったの……」
 彼女はかすかな声で訴えた。もともと体力的には限界なのだろう、やっとのことで龍司にすがり付いているという様相だった。
「鍵を返してくれた時の貴方の顔を見たとき、私、すごく怖くなった……鍵が戻ってきて、もう来ないって言われて、やっと貴方から
解放されたってわかったのに、良かったとも嬉しいとも思わなかった。何故なのかずっとわからなかったけど、やっとわかった。私、
貴方が好きなんだわ。だから貴方が私をどう思っているのかわからないまま抱かれるのが、いつもとても怖かったの」
 今にも意識を手放しそうな力ない様子ながら、彼女はそれでも話すことをやめなかった。
「酷い事を言ってごめんなさい……」
 彼女は涙声になっていた。
「貴方の事を好きだって認めたくなかった……だって認めてしまったら、私」
「もういい」
 狂いかけるほど好きな相手に告白されたことより、彼女の身体が今にも倒れてしまいそうなほどに力の無いことが気に掛かり、
龍司は言い募る彼女を制してとにかくその髪を撫で、落ち着かせようと躍起になった。  
「もういい。何も言うな。お前は何も悪くない」 
 彼はその言葉をひたすら繰り返した。
「疲れただろう。だからもう、眠れ」
「……」
 首に回された手から完全に力が抜け落ちた。すとんと、崖から落ちるように眠りに落ち込んだ身体を咄嗟に抱きとめる。
 彼女の頬にはまた涙が伝っていたが、憂慮の取り除かれた安らかな寝顔をしていた。龍司はその表情と交わした会話に実感がわかず
しばらくその姿勢のままでそうしていたが、やがてふと口元に手をやり、まるでたった今ファースト・キスを体験した中学生のように
赤面した。そういえば、彼女からキスをされたのは初めてだった。
 わずかに姿勢を変えて腕の中に完全に彼女の身体を収める。と、彼女の頬に差す熱に初めて気付きその額に手をやってみた龍司は、
泡を食ったように彼女を抱えて立ち上がった。


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