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土曜日の情事 四週間目

8838氏

 四週間目。
 事が始まって約一ヶ月だ。

 瑞希は部屋の中心で静かに正座していた。 
 先週よりは幾分落ち着いた。彼女は瞑想でもするかのようにじっと動かずにいた。
 朝日は顔を出してから数時間が過ぎ、時計は九時を刻んでいた。瑞希は七時に起き出し、食事と簡単な身づくろいだけ済ませて、
あとはひたすらそうして過ごしていた。
 彼女が考えているのはこれから会う相手――龍司のことだった。
 今の瑞希には龍司がどんな人物なのか、完全にわからなくなっていた。先週などは最早理解の範疇を超えている。何が楽しくて
貧乏食を要求し、食べて、ただ帰るだけなのか。
 もちろん、嫌悪しているあの男に抱かれないに越したことはない。先週の展開に彼女が安堵したことも事実だ。
 だが訳のわからない態度を取られても、それはそれで困るのだ。いや。
 怖いのだ。彼女は訂正した。行動が読めなければ彼が次に何をするのか全くわからない。穏やかに話をしていた次の瞬間、
掌を返すように襲われ、奪い尽くされるかもしれない。だから怖い。
 しかし同時に、彼女は自分が元から彼に対して持っていた嫌悪の感情が薄らいできていることも感じていた。嫌悪しても
嫌悪しても、そのわけのわからない言動に相殺されていってしまう。密接な関係になればなるほど、そのキャラクターが
わからなくなるのだ。
 嫌悪感は彼女が自分の中に必死に保とうとしているものだった――最初に抱かれたときからずっと。彼女は彼に
心を開かないことで自分を守ろうとした。それには彼を嫌うのが一番いい。そうすればいくら犯されても心だけは守れる。
だから自分が彼を「嫌い」でなくなることが怖い。
 しかし龍司は彼女の最後の防波堤すら超えようとしてきている。最近の彼はあまりに人間的に過ぎた。無理矢理女を犯すような
人間ならそれらしく、もっと暴力的で直接的でわかりやすい人間であって良さそうなものだし、そうあって欲しい。そうであれば、
今頃はとっくに彼を嫌いになれていただろうに。
 玄関の鍵を開ける音が聞こえた。瑞希はゆっくりと立ち上がった。笑いそうになる膝を制する。嫌い続ければ、あんな人は
怖くない。そう言い聞かせて立ち上がる。
 だが膝は一向に言うことを聞いてくれなかった。

 亀のような速度で玄関先に出て行くと、既に靴を脱いで玄関を上がっていた龍司と目が合った。
「な、何ですか」
 いつもの癖で、つい反抗するように視線を向ける。その反抗心にも翳りが見えているのが自分でもわかる。それをむきになって
補強するように、彼女は語調を荒くした。
 彼は普段どおりに、こちらの抗議を気にもしなかった。
「来い、瑞希」
「え?」
 その声は瑞希の目を丸くさせた。龍司はさっと手を伸ばして瑞希が拒否する間もなくその手を取った。どこか子供のような
瞳を見せて彼は言った。
「出掛けるぞ」

「待って、こんな格好で」
 瑞希は上着を肩に掛けただけの部屋着のままで連れ出された。ブランドスーツを着こなす男のプライベートカーは綺麗な流線型を
描いたスポーツカーだった。こんなところだけは非常に解りやすいキャラクターだ。
 強引に招き入れられ、仕方なく助手席に乗り込む(本当は隣同士なんて嫌なのだが、残念ながらその車に席は二つしかなかった)。
自分の格好とのそぐわなさにそんな必要も無いのになんとなく肩身の狭い思いをしながら、この絵って何だか警察に連行される
犯人みたい、と彼女は半ば現実逃避した思いを抱えた。
 今現在彼女は何も持っていない。普段なら外出の際には必ず見につける、中身の心もとない財布すら手許にないのだ。
そのことに急に心細さを感じる。
「どこに行くんですか?」
「着いてからのお楽しみだ」
 これだ。瑞希はむっとして言葉を止めた。こちらの不安をわかろうともしない。意地だけで心細さを吹き飛ばす。
「どうして教えてくれないんですか。窓から飛び降りますよっ」
「それは困る」
「なら教えてください」
「教えたらたぶん怒る」
「……」
 黙って窓の開閉ボタンに手を掛ける瑞希に、龍司は運転席に座る人間の特権である全座席ウインドウの開閉ボタンで対抗した。
「まあ落ち着け。大丈夫だから」
「龍司さん!」
「そう金切り声を出すな」
 ハンドルを握っていて耳が塞げない彼は顔をしかめて答えた。



 しかしこんなところを知人に、特に大鐘家の関係者に見られたらおしまいである。ありがたいことに車体が低いので窓の位置が
低く車内が見えにくいのでよほど身を乗り出さなければはっきりと姿を見られることも無いだろうが、彼女としては気が気で
しょうがない。身を縮めてそろりそろりと窓の外を窺いながら、彼女は「まだですか」と定期的に繰り返した。
 彼女がそろそろその台詞の回数を忘れかけてきたころ、車はようやく一軒の店舗前で止まった。一目見てファッション関係の
店舗とわかった。ショーウインドウには明らかに高級なものとわかる凝ったスーツやジャケットが連なっている。未だかつて
縁の無かった様相の店に、瑞希はいささか気後れした。
 しかし龍司は気楽な様子でひょいと運転席を出ると、車を回りこんで助手席のドアを開けた。
「出ろ。入るぞ」
「な、何!?」
 何で私がこんなところへ入るんだと言外に主張するが、それはそれとして彼女には他にどうすることもできない。仕方なく
車の外へ足を踏み出す。
「入ったら店員の指示に従えよ。いいな、瑞希」
「どうしてっ」
「どうしても」
「あ、貴方は?」
「俺が何かすることあるのか、こんなところで」
「……」
 その店はメンズを扱っているようには見えなかったので、彼女は沈黙した。駐車場から店へのわずかな距離でも誰かに見られは
しないだろうかと冷や冷やする。
「いらっしゃいませ」
 見事に唱和した挨拶が彼らを迎えた。その挨拶に一種圧迫感すら覚えて瑞希は怯んだ。サービス業というある種画一的な響きの
それにここまで訓練された応対を受けることは未だかつて無かった。自分の格好を改めて場違いなものと認識し、彼女はあまりの
恥ずかしさに半歩後ろに下がった。
 だが龍司はその彼女の肩を押し、あろうことか店員の真ん中に放り込んだ。女性の店員に「こちらへどうぞ」と奥のドアへ招かれ、
こんなときばかり店の外で言われたことを思い出しておろおろする。
「ちょ、ちょっと、龍司さんっ」
 瑞希はあせって後ろを振り返ったが、龍司はそ知らぬ顔で店員の一人に「適当に」などと告げ、あとは自身も適当にぶらつき始めた。
 瑞希はぽかんとした。やはり自分はここで服を買う、ということになるのだろうか。
 買う?彼女は頭の中だけで首をかしげた。
 ――ちょっと待て。彼女はやはり頭の中だけで絶叫した。
(お金は!?)
 こんな高価なものしか置いていないと確信できる場所でものを身につけるということがどれだけの自殺行為かということは、
金銭というものを人より持ち合わせていない彼女にとって非常に現実的な危機として身に迫ってきた。それもよりによって、
薄っぺらい財布すら持っていない状態で。
 真っ青になった矢先、こちらを向いた龍司と視線がぶつかった。
 その瞳は確かに彼女のうろたえを楽しんでいた。彼は自分を、彼にものを買ってもらうしかない状況に追い込んだのだ。
「――――――!」
 瑞希は憤激し、炎のような怒りを全身に纏わせて仁王立ちになった。その形相は般若を超えて蛇になりかかっていた。
龍司の笑った瞳が一瞬ひきつった。
 瑞希はばっと身を翻した。同じく異様な雰囲気にわけがわからないながら身を引いていた女性店員に、切腹する武士の表情で
「どうすればいいんですかっ」と据わった視線をぶつけた。

 数十分後、彼女はようやく解放され、ほうほうの体でまろび出た。
 足元が覚束ない。履きなれないものを履いていることもあり、足首ががくんと折れるように曲がる。前のめりに転倒しそうに
なったところを大きな手が支えた。
「きゃ」
 思わず小さく声を上げてしまい、しかもそれがどう聞いても少女のような悲鳴になってしまったことに赤面しながら顔を上げると、
細められた黒い瞳と目が合った。
「化けたな。想像以上だ」
 その顔には抑えきれない笑みが零れていた。声もいかにも楽しそうな調子がにじみ出ている。
「は、放して」
 恥ずかしさに慌てて立ち上がり龍司の手を振り払う。彼女の意思と関係なくこうなったこととはいえ、彼を喜ばせてしまうなど
甚だ不本意だ。瑞希は不安定な足元で必死にしゃんと立って見せた。


 生まれてからこっち、こんなに高い踵の靴は履いたことがない。というかミュールと言うもの自体に彼女は縁が無かった。もし
まだ祖母が生きていて今の彼女の格好を見たら、彼女はたった一人の孫娘がとうとう不良になってしまったかと泡を吹いて
卒倒するかもしれない。まず髪の毛は通常ではあり得ない状態に、つまりは数十分で数十センチ伸びていた。まあ簡潔に言えば
付け毛だということだ。オールタイプのウイッグである。毛先だけが不規則に巻いている鳶色のブリーズヘアは彼女自身としては
甚だ自分に合わないという感想を持ってはいたが、鏡を見た限りでは今のこの格好とあわせれば意外とそうでもなかったように思う。
サイドの巻き毛が内巻きなので多少頬を隠してくれていて知人と会ったとしてもそれほど気付かなさそうだということも救いだった。
上半身を覆うデコラティブなキャミソールはその上にジャケットが存在しているおかげで何とか自己主張が抑えられている。膝丈の
ティアードスカートは今年の流行なんですよとコーディネートをしてくれた女性が言っていたが、彼女には「はあ、そうですか」と
あいまいに応じるくらいしかできなかった――ファッション誌など年に数回しか立ち読みしない。化粧が地味めだったのが不幸中の
幸いだと思ったが(これが「ナチュラル」と呼ばれているのを聞いたとき、それってただの地味なお化粧とどういう風に
違うのだろう?と彼女は思った)、それでも化粧など殆どしたことの無い彼女にとっては幾重にも重ねられたファンデーションは
微妙に気持ち悪いものという感触がある。ファンデーションだけでなくグロスというものは彼女にとっては初めてで、口紅と違って
えらくべたべたしているのが気になって仕方無い。左耳にも違和感があった。彼女はそれに手で触れた。耳のやや上方に付けられた
輪から石の付いた鎖が同じく下方に付けられた輪へ繋がっている。指先で弾くと鎖が石の重みでゆらゆらと揺れた。イヤーカフスと
言うらしい。おそらく彼女がピアスを開けていないので耳飾りはこういうものになったのだろう。耳につけるものと言えば
イヤリングかピアスしか知らない彼女としてはまったく斬新なものだった。これだけには多少面白みを感じるが、それ以上に彼女は
この状況に戸惑っていて、それを単純に面白がることは出来なかった。
 綺麗なものは好きだ。こういう服やアクセサリーを可愛いと思ったこともある。先々週の件がいい例だ。でもいきなりここまで
やられてしまうと戸惑うしかない。だってこうして鏡に映っているのはどう見ても全く知らない人間なのだ。
 瑞希は眩暈さえ覚えてかぶりを振った。一体何がどうしてこんなことになってしまったのか……
「ありがとうございます」
「ああ。じゃあ」
 一時的に遠いところまで行っていた彼女の脳を現実に引き戻したのは龍司と店員の交わした言葉だった。店員から龍司が紙袋を
渡されているのを見てその中身が何であるか本能的に閃く。
「あ」
 私の服!その服装のままで外に出るのは恥ずかしかったそれに急激に執着を覚えて足を踏み出しかけるが、いかんせん人を
転倒させることに特化したという意味でそこには悪意があるとしか思えないヒールが彼女の行く手を阻む。
「くっ」
 苛立ちを抑えて声を上げようと息を吸ったところで、
「ほら、行くぞ」
 絶妙のタイミングで声をかけられ、吸った息は声になることも無く霧散した。手を引かれ、ろくに歩行もできない幼児のような
有様で後に続く。
 店を出たあたりでやっと自分で歩くということを(まだぎこちなくはあったが)習得し、彼女は掴みかからんばかりの勢いで尋ねた。
「龍司さん!どういうことです、これっ」
 瑞希としては龍司の意図を測るための問いかけだったが、龍司は別の意味に取ったようだった。
「心配するな。ここはよくわきまえてる店でな、客のプライベートを口外しないことは暗黙の了解だ。ましてや俺は上客だからな」
「そうじゃなくて……上客?」
 明らかに女性のためのその店を振り返ると、龍司はこともなげに言った。
「毎度違う女を連れて行ってるから」
「最っ低」
 紙袋を奪い取る。足首が悲鳴を上げるのも構わず先にたつと、引き離してやろうと(それも車までのことに過ぎないが)彼女は
ずんずんと歩を進めた。
 車の前まで来た時肩に手を掛けられ、憤然と振り返る。
「触らないで、この女たらしっ」
 その拍子に長いウイッグの毛先が跳ねた。彼女としては精一杯の凄みをきかせて睨みつけたつもりだったが、龍司に対しては
例によって全く効果をあげなかった。
「しかし」
 嫌味の無い口調で龍司は言った。


「そうしてると女に見えるな」
「――!」
 咄嗟に言葉が浮かばず、瑞希は押し黙った。本当ならこの男に女扱いされるのは嫌で嫌でたまらない。それも無理矢理女の格好を
させられてこんなことを言われるなど、普段であれば頬のひとつも張ってやりたくなるところだった――だが、こうまで率直に
言われたことはこれまで無く、彼女は何も言い返せなくなった。思ったより間近に相手の顔があることに気付き、慌てて顔を背ける。
だから不意に手を伸ばされても気付かなかった。
 急にむき出しの鎖骨に触れられる。彼女は驚いて飛び上がりそうになった。龍司は彼女の反応を気にもせず、指先で触れた場所を
見つめた。
「ここに」
 身動きできない彼女に言う。
「あれがあったらいいと思うんだがな。ほら、こないだ買ってやったやつ」
「――」
 ダブルリングのペンダントのことを言っているとわかった。それが腑に落ちたところで急に、かなり際どい部分に触れられ、
あまつさえそこを間近でじっと見られていることに気付き、彼女はぱっと赤面した。
 弾かれたように後ずさる。背中が車のドアにぶつかった。
 龍司は何事も無かったかのように長身を起こした。「その袋はトランクに入れろよ」と指示して運転席に回る。トランクが
ぱかりと口を開いた。瑞希はしばらく戸惑うように運転席を見つめていたが、結局紙袋を放り込み、トランクを閉めた。
 助手席に乗り込み、やけになって叫ぶ。
「服のお金、帰ったら必ずお返ししますからっ。おいくらですか?」
「馬鹿言うな、女に金出させられるか」
「おいくらですかっ!?」
「後悔するぞ」
 龍司は肩をすくめて金額を口にした。瑞希はひどく遠い目をしてそれを聞いた。具体的に言うと、六桁に乗っていた。
「……分割でもいいですか」
「だから気にするなってのに」
 その言い分にはとてもではないが同意する気にはなれなかった。少し青くなった顔を左右に振り、彼女は広く厚い背もたれに
身を預けた。

「で」
 瑞希は頬を膨らませた。最初の一時間で既に、もう何でも来いという気分になっていた。
「これからどうするんですか?一日と言っていたけど、何をする気ですか」
 龍司は車のハンドルを握ったまま、しかし発車はせずこう言った。
「別に決めてない」
「は?じゃあどうするんですか」
「行きたいところはあるか」
「えっ」
 唐突な台詞に、瑞希は首をかしげた。
「どこでもいい。遊ぶところ。連れてってやる」
「はあ」
 言葉の意味を飲み込めずあいまいな返事をする。
「遊ぶ、ですか」
 男女二人で遊びにいく。それは一般で言うところのデートというやつではないだろうか。そこまで考えたとき急に疑問符が
脳裏で急激に増殖し、彼女は目を白黒させた。
「ど、どうして!?」
 声を裏返して尋ねると、龍司は彼にしては珍しく「ん。ああ」と言葉を濁した後、
「別に。面白いかな、と」
 言葉少なに言った。
「……」
 瑞希は呆気に取られ、やがて憤慨した。この男は無理やり陵辱した女を捕まえていったい何様のつもりだろう。
「恋人ごっこですか?意外に女々しいんですね、龍司さん」
 あてつけるように言うと龍司は視線だけでこちらを見、やがて前を向いた。
「ごっこか。そうかもな」
 わずかに苦笑したその顔を見て、瑞希は少し身を引くようにした。私は何か悪い事を言ってしまっただろうかと同情する必要の
無いはずの相手に対して思う。誤魔化すように彼女は言った。
「――ええと。こういう時はやっぱり、あれなんじゃないでしょうか。遊園地とか」
「お前はいったいいつの時代の人間だ。いや、間違っちゃいないが。ディズニーシーとかならまあ、つりあうかな」
 その言葉に瑞希は厳しい視線をどこへとも無く投げた。


「……あそこだけは駄目。あそこは恐ろしいところよ」
「何故」
「お金が掛かるから」
 彼女は間髪入れず即答した。徹底した貧乏性に龍司は呆れきった様子で目を閉じた。
「その思考は何とかならないのか。いじましいぞ」
「いじましくなければやって来れない環境だったもので」
 彼女はすっかりと開き直って強い口調で言った。
「貴方にはわからないかもしれないけどっ。私はとにかく後腐れの無いようにしたいのっ。貴方がいつこれに飽きてもいいようにっ」
 これ、というのは、龍司が彼女を好きにすることだ。瑞希は責める口ぶりで彼を睨みつけた。
「――」
 龍司は尋ねてきた。
「飽きると思うか?」
「ええ。近いうちに」
 彼女はつんと顎を上げて答えた。
「貴方みたいな人が女性に困ってるとは思えないし。私のことなんてどうせ一時の気まぐれなんでしょ」
 そう言ってから龍司を見、普段と違う視線に気付いて思わず身を引く。
「な、何です」
「別に」
 彼は何故かふいと視線をそらした。
「ほら、さっさと行きたいところを言え。無いんなら俺が決めるぞ」
「あっ……えーと」
 変なところに連れて行かれては大変だと彼に対する疑問をあっさりと放り出し、彼女は必死で脳を回転させた。
「と、とりあえず景色の綺麗なところ」
 そう言った後、それだけでは不十分だと思い慌てて付け加える。
「後、えーと、開放されたところ。人がたくさんいるところがいいですっ」
「嫌われたもんだな」
 とにかく二人きりは嫌だという彼女の意図を簡単に読み取ったらしく龍司は笑った。
「ま、いいさ」
 そう言うとゆっくりと発車する。瑞希は憮然とした表情で窓を開け、車内に風を入れた。



「公園ですか」
 瑞希は広い芝生を見て唸った。芝生では子供や犬がフリスビーをして遊んでいる。周囲には杉が植えられていたが、まだ
作られて日が浅い公園なのか、背は低い。
「デートスポットとしては遊園地よりさらに古風なんじゃないでしょうか」
「条件を付けたのはお前だろう。人が多い、金が掛からない、後は出来るだけ知り合いに会わないような場所となると――って
お前、これがデートだって自覚はあるんだな」
「やめてください、状況的にそうなっているから便宜的に使っただけで、厳密には違いますから。少なくとも私には」
 きっぱりとはねつけると瑞希は歩きなれない踵を気にしながら、龍司と三十センチ以上の間を取り、石畳を踏みしめた。
多少よたよたとしながらも普通のスピードで歩けるようになり、彼女はなんとか龍司との距離を維持できるようになっていた。
 少し近づくと全く同じ距離だけすっと退く潔癖さに龍司は呆れたように肩をすくめて見せたが、強引に近づくことはしなかった。
ポケットに手を突っ込みサングラスをかける。
「似合わないわ」
「お前はその格好だからいいだろうが俺はこのままじゃ困る」
 半分本気、半分からかい交じりで瑞希が指摘すると、彼は真面目な口調で言った。
「誰に見られるかわからないからな。せめて遠目からならわからないくらいにしておかないと」
 確かに彼の場合会社の中での位置を考えれば顔を知っている人間に会ってもおかしくは無い。彼女は納得すると同時に、
もしかしたら今まで付き合った女性(もしくは現在進行形)に見咎められることで発生するトラブル避けでもあるんじゃ
ないだろうかと穿った見方もしてみた。
 休日だったが人はそれほど多くなく、静かに散歩が出来そうだった。瑞希はとなりの龍司を見上げた。この男と二人で
こうしているというのは瑞希にとってとてもとても気に食わなくはあったが、彼女しだいでそれなりとは言えないものの、
見返りもある。


 それは家に関する細かい情報を比較的簡単に得られることだ。もっともこういった古い家をろくに理解できない彼女の場合、
質問は自然と限られてくるが。
「お爺さまの容態、どうなんですか?」
 歩きながら彼女はそう尋ねた。
「いつもなら貴方に会う前に病院に行くけど、今日はこんな格好だし、行けないでしょう。明日行こうと思うけれど、
さすがにお会いしてからもう一週間経っているし。貴方が知っているなら聞きたいの」
「曲がりなりにも親族なら、噂のひとつやふたつ聞いてないのか?」
 瑞希は龍司から視線をそらした。
「家の中で、私が普通にお付き合いできるのは妙さまだけだわ」
 彼女は大鐘家の中では孤立している。もともと立場からして危ういところを、男として名乗り出たことで末席に
おいてもらっている状態だ。
「よほどの事があれば妙様も連絡をくださるでしょうけど、毎日通えない以上、私には普段はお爺様の細かい容態はわからないの」
「まあ、そんなもんか」
 龍司はそう言った後、それほどもったいぶることも無く質問に答えた。
「俺は担当医と連絡が付く。今は心配ないだろうと言われてる。小康状態だ」
「そう」
 瑞希は微笑んだ。
「よかったわ」
「……」
 龍司はそんな彼女を見て眉を少し上げた。
「お前が叔父さんのところへ見舞いに行ってるっていうのは知ってる。だが」
 煙草を取り出し、火をつける。煙をくゆらせて彼は言った。
「財産目当てなら、お前のその行動はおかしいだろう。目をつけてもらうにはいい方法だが」
「そんな。別に亡くなる事を望んでいるわけじゃないわ」
 瑞希は髪を揺らして振り返った。
「貴方こそどうなの?貴方だってお爺様の財産が欲しいんでしょう?前に私にはっきりそう言ったわ」
「そうだな。欲しいな」
 龍司は煙草を咥えたまま、言葉遊びでもしているかのような表情で答えた。「真面目に答えてっ」と言うと、
あっさりとした口調で彼は言った。
「金は欲しいさ。だがまあ、叔父さんが生きていてくれるなら、それはそれでいい。叔父さんがいなきゃ俺は会社で
あれだけの地位には就けなかっただろうからな」
「……」
 瑞希は瞬きをした。その返答の意外さにぽかんと龍司を見上げる。彼女は無意識に立ち止まろうとし、踵を石畳の隙間に引っ掛けた。
「おい」
 警告とともに肘を支えられる。煙草のにおいがわずかに届いた。
 瑞希は支えられた手に反射的にすがってしまい、直後「しまった」という顔をした。またしても助けられてしまった。
彼女は憤慨を通り越して自分の情けなさにかぶりを振った。
「気をつけろよ」
「わ、わかってます」
 動揺が声に出ていた。それはそのまま彼女の心境を表していた。龍司は煙草を口から離した。
「俺に、誰かに感謝するっていう人並みの感情があるなんて思っていなかったんだろう」
「いえ、別に、何と言うか、まあ」
 図星を指されたので、彼女は誤魔化すように繋がらない単語をもにょもにょと口の中でつぶやいた。彼女はスカートを翻して
逃げるように龍司から離れた。もともと煙草の匂いはあまり好きではない。そういえばこの人は煙草を吸うのかと彼女は
煙草をふかす彼を見た。これまでのキスでは気がつかなかったことを思うとヘビースモーカーではないだろうが――
 彼とのキスを思い出して急に赤面し、彼女は慌ててそっぽを向いた。龍司に表情を見られないように背中を向け、先を歩いて
周りの緑に視線を戻す。都内とはいえ景色はそれなりなのだから、楽しんでいかないと勿体ない。
 石畳の道の両脇に針葉樹が植えられ、その向こうに多少背の高い芝生が広がっている。ほぼ貸しきり状態で、男の子が大きな犬と
フリスビーをやり取りしている。
 少年がフリスビーを投げた。が、失敗したらしく、フリスビーは見当違いの方向へ――こちらの左手へと向かってきた。
「あれっ」
 フリスビーがすーっと近づいてきた。彼女は立ち止まり、それを目で追った。フリスビーは向きを変えわずかにこちらに
方向転換をしたので、彼女は二、三歩近づき、手を伸ばした。
 キャッチすると声が聞こえた。
「すいませーん!取ってくださいー!」
 芝生を見ると、遠目に手を振る十歳くらいの少年と真っ黒い大型犬がこちらを見ていた。彼女は手元のフリスビーを見、
それからもう一度彼らを見て、ぱっと目を輝かせた。
 高校卒業して以来彼女は運動というものに縁が無く、さりとてバイト三昧だったため考えるより身体を動かすことが好きな彼女は、
よってこれといったストレス発散も出来なかった。絶好の機会である。


 迷うことなく邪魔なミュールを脱ぎ、石畳にストッキングだけの足をつける。「おいっ」という龍司の声も効かず、
彼女は助走をつけて右腕を薙いだ。ウエーブがかった鳶色の毛先が弾み、上体がしなった。足の運びについていけなかった
ティアードスカートの裾が遅れてその脚に纏わり付いた。
 投げ放たれたフリスビーは見事な放物線を描いてまっすぐ宙を飛んだ。少年がさっと指を振る。主人の号令を受けた
ブラックラブラドールと思しき犬はこちらに走り、フリスビーにあわせて位置を調整し、タイミングを図って身をたわめ、跳んだ。
 着地した時には、彼はしっかりと投げ返されたフリスビーを口に咥えていた。
「すっげー!ねえちゃんやったことあんのー?」
 屈んで犬を褒めながら、少年が人懐っこそうな声を上げた。立ち上がり歩いてくる。瑞希もミュールを拾い上げると芝生に歩を進めた。
「無いけどー?」
「マジー?すげえじゃん」
「いいなーって思ってたの、フリスビー。だってカッコイイじゃない」
「うん、カッコイイだろ」
 少年は得意げに胸をそらした。よく訓練されたラブラドールが後ろに控えた。瑞希は芝生の上では流石に足が痛かったのか、
ミュールを履きなおした。
「上手いのね。大会とか出てるの?」
「ちょっとだけね。姉ちゃん、もっかい投げてみる?」
「え、いいの?やりたいっ」
 瑞希は手を叩いて喝采を上げた。彼女に完全に構われなくなった龍司はつまらなそうな表情で吸い終わりもしない煙草を
携帯灰皿に押し付け、勢いよく蓋を閉じた。衝撃で灰が舞った。サングラスを少し上げてそちらを見やる。
「新手のナンパじゃねえだろうな、ガキ」
 不機嫌に口を尖らせて彼はそうつぶやいた。



 公園での散歩を終えた二人は再び車上の人となっていた。龍司は車内の時計を見て唸った。
「あー」
 ラジオの中でLinkinParkが歌っている。
「飯時か。どうするかな」
 龍司は窓辺に頬杖をつきながら片手だけでハンドルを操作していた。横に座った瑞希は生死を共にする同乗者として再三
「危ないから両手で運転してください!」と訴えたが、一向に聞き入れてもらえなかった。
 龍司は車を繁華街に入れるとスピードを緩め、流れる景色に視線をやりながら運転を続けていたが、ある一点で視線を完全に横に向けた。
「俺の知ってるところでいいか?ここは美味い」
「ええっと、別にどこでも――あ、でも、高そうなところは嫌!」
 瑞希がそう叫んだときには、龍司はハンドルを切りその駐車場へと車を滑り込ませていた。大きな車体を一度で白線の中に
するりと収め、エンジンを切る。外観から既に高級ですと言わんばかりのフレンチらしきレストランを見上げ、彼女は呻いた。
「……高そうなところは嫌……」
「諦めろ」
 眉を八の字にしてぼそぼそと述べる瑞希を一瞥し、龍司はドアを開けてさっさと車外へ出た。瑞希も仕方なく車から降りながらも彼に追いすがる。
「待ってください。私フランス料理のテーブルマナーなんて知りませんよっ」
「ナイフとフォークは外側から使え。以上」
「そんなっ」
 そこまで言ったとき、龍司が突然立ち止まった。動かなくなる。いぶかしんだ瑞希が彼を見上げると、
その視線が一点で止まっていた。
 彼の視線の先を追った瑞希は一台の赤い車を見た。龍司がぼそりと言った。
「……ここはやめる」
「え?」
 言うなり身を翻す。龍司は瑞希の手を掴み、車へと戻りかけた。そして立ち止まった。
「龍司!」
 赤い車から降りた年配の女性の声が龍司を呼び止めた。
「お待ち」
 命令的な口調だった。
 龍司は観念したようにうつむき、声のしたほうに向き直った。瑞希は掴まれていた手を強く引かれ、たたらを踏んで龍司の背中
――声をかけられた女性から向かって後ろ――に下がった。
 瑞希は誰何の声を上げかけ、声の主を見て慌てて口を閉じた。龍司の意図を悟り、彼の影に隠れて身を縮める。数えるほどしか
会ったことはなかったが、知った顔だった。そして彼女の顔は龍司のほうが遥かによく知っているだろう。


「……おふくろ」
 龍司の声がわずかに低くなった。
 その女性は吾妻麻紀枝といった。彼女は瑞希にとっては祖父である征二郎の妹、龍司にとっては母親である。少々ふくよかな
体系を値の張りそうなブラウススーツに身を包み、髪形はパーマを掛けたショートヘアだった。身につけているものの値を除けば
典型的な中年婦人といった様相の女性だ。
 麻紀枝が厳しい目線でこちらを見たので、瑞希は必死に顔を伏せ、なるべく顔を正面から見られないようにした。ただそう
警戒しなくとも、幸いこの格好の所為で少なくとも見破られそうにはなかった。まさか目の前の女を、男(と思っている人間)と
繋げて考えることは無いだろう。しかし瑞希はその視線を受けて背筋が寒くなった。他人に対してとても冷たい目をしていると感じた。
 彼女はこちらを一瞥するとそれきり瑞希には興味をなくしたようで、龍司に向き直った。
「また女遊びかい。全く、お前はろくでなしの父親そっくりだよ」
「――」
 開口一番のその台詞に、瑞希は困惑して目の前の龍司を見上げた。龍司はその顔から一切の表情を消していた。麻紀枝は
それを見てひとつ鼻を鳴らした。
「遊んでばかりじゃ困るよ、龍司。わかってるんだろうね?あたしがあんたの遊び癖を許してやってるのも全部――」
「わかってるさ。こんなところでまで話さなくてもいいことだろう、そんなこと」
 龍司の遮る声を無視して麻紀枝は言った。
「ろくに家にも帰ってこない放蕩息子とはこんな時でなきゃ話も出来ないじゃないか!どうせわかってないだろうから、
ようく言っとくよ!あの瑞希をどうにかしないことには、兄さんの財産はそっくり半分、もしかしたらそれ以上あのガキに
持っていかれちまうんだ!あんたがしっかりしなきゃならないんだよ!」
「――――」
 瑞希は突然出てきた自分の名前に漏れかけた声を押し殺した。麻紀枝は当然のことながら龍司が後ろに庇った少女が
瑞希本人だとは露にも思わない様子で続けた。
「いくら直系だって所詮は愛人の孫なんだ、やりようはいくらでもあるだろ!いつまでものさばらせておくんじゃないよっ」
「――黙れっ」
 龍司は堪忍袋の尾を切らせた表情ではっきりと言った。
「俺の金で食ってるくせに、俺のことに口を出すなっ。叔父さんの財産はあんたが受け取るんじゃない、俺が受け取るんだ。
あんたには関係ない」
「いいや、あるね。あたしの老後はあんたに掛かってるんだ。口出すななんてよく偉そうにいえたもんだよ、お前をここまで
育ててやったのは誰だい」
 麻紀枝は苛立ちを吐き出すようにして喋りたてた。
「兄さんもどうして愛人の孫なんか認めちまったんだか!面倒なことになるのはわかりきってるだろうに、どうせ入院して
気弱になって、孫の一人も欲しくなったんだろうさ。馬鹿な兄貴だよ」
「叔父さんをどうこう言うんじゃねえ!」
 征二郎の名前が上がると、龍司はそれまで抑え気味だった口調を突然荒げた。
「あの状況だったら叔父さんだって認めざるを得なかったさ!それこそ何も理解してないあんたが口を出す問題じゃないっ」
「――」
 それには反論が出来なかったのか、彼女は押し黙った。それでもやがてついと顎を上げると背筋を伸ばし、龍司に嘲るような視線を向けた。
「本当に、生意気な子だよ!」
「……」
 龍司は尚も言いつのりたいのをぐっと抑えた様子だった。そのまま、踵を鳴らして店へ入っていく彼女を黙って見送る。
 麻紀枝が店に入ってしまってもしばらくの間、龍司はそこに留まったままだった。そのやりとりだけでまるでひとつやふたつ
年をとってしまったかのような表情で、彼は立ち尽くした。
 瑞希はゆっくりと横に回りこみ、その腕にそっと手を置いた。
「……龍司、さん」
 遠慮がちに声をかけると龍司は弾かれたようにこちらを見た。建物を見ると、
「――そういやここ、おふくろも知ってる飯屋だったか」
 そうつぶやいて彼はこちらを向いた。何を言おうかわずかに迷った様子だったが、結局、
「悪かったな」
と言って降りたばかりの自分の車に向かって歩いた。瑞希は何も言えずに後を追った。
 瑞希が彼女に会ったときの状況はいずれも親族がまとまって集まった時ばかりだったため、龍司と麻紀枝の仲が
良いか悪いかなどということは全く知らなかったし、想像もしたことが無かった。ごく普通の親子とばかり思っていた。


 逆にあまり接点のなさそうな祖父と彼の関係がどうなっているのかも、彼女はまったく知らなかった。彼が祖父の
仕事を継いでいることくらいしか聞いたことはなかったし、それほど興味も無かった。瑞希は急に彼が祖父の病室に
定期的に花を贈っていることを思い出した。
 この人はいったいどんな人間関係の中で暮らしているんだろうか。初めてそんなことを疑問に思い、
彼女は歩きにくいヒールの靴で必死に駆け寄った。
「待って、龍司さん」
 瑞希は車に乗ろうとした龍司の腕を取った。本当の恋人のように腕を絡める。面食らう龍司に彼女は笑いかけた。
「せっかくだからとことん安いもの、食べましょう。七十円引きですって」
 通りを曲がってすぐのところにある牛丼チェーン店を指差し、彼女は言った。



 食事を終えて車に戻ると、瑞希は切り出した。
「午後も、私の好きなところに行ってくれるなら――」
 彼女はそれまでよりは幾分柔らかい調子で言った。
「祖母の家に連れて行ってもらえますか?」
 龍司の視線に気付くと、わずかに照れた表情で顔を逸らす。
「以前は毎週戻って掃除をしていたけど、最近はなかなか帰れないの。その……土曜日がふさがってしまったから」
「……」
 龍司は一瞬黙した。瑞希の言葉はその内容にもかかわらずそれまでの険も皮肉っぽさも無かった。
「いいだろう」
 答えると彼は彼女にナビゲーションを促し、彼女はそれに応じて道順を示した。それほど近くない場所らしく、
スポーツカーは一時間ほど走り続けた。
 やがて、彼らはいかにも下町然とした界隈にたどり着いた。車が入れるかどうかの狭い道に、龍司は縫うように車体を入れた。
「うわあ」
 彼女は開けていた窓から三十センチ先に迫った木の塀に手を伸ばして感嘆の声を上げた。
「よく通れますね、こんなところ」
「必要なとき以外は自分で運転するからな」
「ふうん」
 無邪気な声だった。肉体関係が絡まなければ普段はこんなものらしい――もしかしたら彼女にあそこまで冷たい態度を
取られているのは自分ひとりではなかろうか。それもまた一興の自分にとってそれがいいことか悪いことかはわからないが。
しかしその柔らかい反応も悪くない。
 裏路地に入り込んで二十分もしたころ、彼女の「とめてください」という声にブレーキを踏み、龍司は左に見える古い建物を見上げた。
 木造の小さな、もしかしたら見る人によっては小屋と形容することもあるかもしれないくらいぼろぼろの、二階建ての建物だった。
「ここか」
「はい」
 瑞希は答えて「先に降りますね」とドアを開けた。家の前にある庭とも呼べないスペースを示し、
「ここ、車の一台くらいならなんとか止められますからどうぞ。私、先に行かせてもらいます」
 そう言い、待ち切れなかったかのように駆け出そうとし、踵の高い靴で庭の砂利にひっかかって難渋を始めた。
笑いを堪えながら、龍司は慎重に車をバックさせて植え込みと塀の間に車を止めた。
 玄関もやはり古く、彼女のアパートほどではないが狭かった。玄関先には例のミュールがきちんと踵をそろえて行儀よく
置かれている。龍司も倣って靴を脱ぎかけ、ふと自分が上がってもいいものかと躊躇したところへ、奥から声が聞こえた。
「どうぞ。上がってください」
「いいのか?」
「連れて来て貰いましたから」
 意外にあっさりとした返事に内心安堵して靴を脱ぐ。ここまできて彼女が掃除をしている間中車の中か家の外で
待っているというのはさすがにつまらない。
 足を踏み出すと、木製の床はぎしぎしと音を鳴らして彼を出迎えた。天井が低く、背の高い龍司は廊下と部屋との境にある
梁に幾度か頭をぶつけそうになった。内観は古くシンプルで、古きよき下町の古家を代表するような
もっともこの家はその中でも特に古く小さいものという印象はあったが)建物だった。


「どこだ」
「ここです」
 声に導かれて進むと台所らしき部屋へ出た。らしきというのはあるべき調理器具一式が見当たらなかったため、
構造だけで判断するしかなかったからだ。
 彼女は既に掃除に取り掛かっていた。ジャケットの裾を捲り上げて勇ましく埃に立ち向かっている。
箒と雑巾と水を入れたバケツ、そんなものが何も無い部屋の真ん中にまとめて置かれている。
彼女は踏み台に乗り布巾で上のほうの棚を拭いていた。一通り拭き終わると布巾を他の面を出して畳みなおす。
「一ヶ月も放ったらかしだと少し埃が溜まってますね」
 龍司には家の中が特に汚れているようには見えなかったが、邪魔をしないように黙っていることにした。
瑞希は棚を拭き終わると龍司を居間へ案内した。やはり何も無かった。否、たったひとつ、備え付けられるように存在しているものがあった。
 仏壇だった。小さいがれっきとした黒塗りの仏壇で、観音像が最も高い段の中心に悠然と立っている。
その横には小さな写真立てがあり、老婆の写真が置かれていた。笑い皺の強く出た、ふくよかな顔をしていた。
 彼女がおそらく瑞希の祖母だろう。
「座っててください。何も出ませんけど」
 バケツを持って通り過ぎざま彼女はそう言ってよこした。龍司は彼女を見送り、仏壇へ視線を戻した。

 一ヶ月経っていると言っても、人が住んでいないのだから埃だけの汚れなど可愛いものだ。さほど時間をかけず家中の掃除を終え、
瑞希が居間に戻ろうとしたとき、かすかに煙のにおいがした。
「……?」
 居間に入ると龍司が部屋の隅に立っていた。彼は目の前の仏壇に手を合わせていた。手前の灰受けには一本の線香が立てられていた。
煙の元はそれだった。
「――」
 思わず立ち止まり、彼女はその姿を食い入るように見つめた。していることと彼のイメージが繋がらず、一瞬これはだれだろう、
などとおかしな事を考えた。
 その横顔には戯れや気紛れの気配は一切無く、一種の真摯さすら見て取れた。瑞希は戸惑い、足を止めたまま声をかけようとした。
 その時龍司が動いた。彼はおそろしくスマートな動作で合わせていた手を下ろし、目を開けた。こちらを向く。
その表情からは彼女の目を引いた何かは消えて、すっかり元に戻っていた。
 瑞希は現実に引き戻され、目を瞬かせた。
「なんだ。掃除、もう終わったのか」
「え、ええ」
 どもってしまった。
「どうした」
「……いいえ、ただちょっと」
 こちらを向いている龍司と目が合う。瑞希は先ほどの彼の顔を思い出してしまい、目を逸らしつつ答えた。
「龍司さんがそんなことをするとは思わなかったので」
 彼女は、今度は午前中のように誤魔化すことはしなかった。歯に衣を着せずに正直に言うと龍司は彼にしては素直な疑問の表情を浮かべた。
「普通はこうするものだろう。おかしいか」
「いいえ」
 無難にそう答えると彼女も龍司の横に並んで同様にし、手を合わせる。たっぷり一分はそうした後、彼女は顔を上げて龍司を見た。
「でも、あまり、その」
「どうした」
「……何でもないわ」
 彼女はそう言って踵を返した。本当は、嫌いな龍司にあまりこういうことはしてほしくなかった。だが今の彼女はなんとなく
それをはっきりと言うことができなかった。
 いかに一ヶ月程度の埃が可愛いものだとはいえ、瑞希が掃除を終えるまでには三十分の間があった。しかし思わぬ龍司の態度に驚き、
彼女はその間龍司が何をしていたかまでに思いが至らなかった。だから三十分もの間ずっと、龍司が彼には似合わぬ仏頂面をして、
仏壇に手を合わせるべきかどうか悩んでいたということも知らなかった。



 戻るころには日はすっかり沈んで、電灯が夜の車道をくっきりと照らし出していた。連なっている無機質な機械の群れを
無意識に視界に入れながら、龍司はハンドルに肘を置いて身をもたせかけ正面の信号機が青になるのを待っていた。
 助手席の瑞希はうとうととして、小さく舟を漕いでいた。
「大丈夫か?」
 声をかけると彼女ははっと目を覚ました。我にかえったように真っ赤になり、口元に手を当てて恥ずかしそうにうつむく。
「あ……ごめんなさ……」
 目頭を押さえて彼女は必死に落ちかけた瞼を元に戻そうとした。相当疲れている様子だった。無理も無いだろうと龍司は思った。
俺と一緒にいるだけでもこの娘には結構な負担のはずだ。それを丸一日一緒にいたのだから仕方が無い。龍司は少し悲しくその事実を認めた。
「いいさ。寝ろよ。着いたら起こしてやる」
「……はい……」
 彼女は素直に頷き、その瞼を完全に落とした。すぐに寝息を立て始める。龍司はそれきり彼女に話し掛けないようにした。
「……」
 その寝顔を見つめる。
 薄くマスカラの塗られた長い睫が白い頬に影を落としている。頬に掛かったウイッグの毛先はわずかに散らばって彼女の頬を縁取り
見る者に普段とは全く別の印象を与えていた。オレンジのグロスが艶かしく彼女の唇を彩っているのに気付き、彼は硬直した。
これ以上見ているのはまずい。そう直感しながら、視線はまるで縫いとめられたように彼女の顔から動かなかった。
 そんな彼をいらついた様子のクラクションが直撃した。はっと顔を上げると信号機が青に変わっていて、目の前までの車は既に遠ざかり始めている。
「――あ、やべ」
 間抜けな声を漏らし、彼はギアを入れなおした。慌てて発車する。
 彼女の六畳間のアパートはもうすぐそこだった。線路沿いにこのまま直進すればもう十分と掛からず彼女は布団の上でゆっくりと
眠れるだろう。無論当初はそうさせるつもりはなかったが、あまりに安らかに眠っている彼女を見ていると、彼の強引さは
わずかばかり鳴りを潜めた。
 これから先、このまま無理に関係を強いたりしなければ、もしかしたら今日のように、彼女の態度は軟化していくかもしれない。
もし――もしだが、こちらがじっと耐えていれば、彼女はいつかこちらの思いを理解してくれるかもしれない。それに期待して――
あるいは純粋に彼女のためにそうすることも、彼の視野には既に入っていた。むしろそれが本来のやりかたで、正しい方法だということも理解していた。
 どうする、龍司。彼は自分に問いかけた。このまま何もせず彼女を帰すのか?まっすぐ彼女を家に送り返し、自分はこの思いを抱えたまま退散するのか?
 彼は一瞬目を閉じた。結論付ける。
 ――無理だ。
 彼は右へとウインカーを出した。車線を変える。
 悪い、瑞希。
 その謝罪は声にならず、結局彼の喉元に留まっただけだった。



 瑞希はゆっくりと目を開けた。
「――」
 見慣れない天井があった。クリーム色の天井の真ん中にある、丸く大きいランプカバーに覆われた白色灯が目に入った。
 そのまま周囲を見る。彼女はキングサイズの広いベッドに寝かされていた。ミュールは履いておらず、ベッドの下に並べてあった。
ジャケットも着ていない。ベッドの近くにある椅子の背に掛けられていた。おそらく身体にぴったりとしたタイプの、
リラックスして眠るには邪魔なそれを龍司が脱がせてくれたのだろう。ミュールも同様に違いない。ただ、上半身につけているものが
下着のほかには胸元から上が肩紐だけのキャミソール一枚というのには多少の不安を覚え、彼女はすこし冷えた剥き出しの肩をさすりながら身を起こした。
「……」
 知らない場所に自然に身体が緊張を始めて、彼女は視線を動かした。観葉植物や文机、いかにも普通のホテルですといった内装だった。
違うのはベッドがたった一つで、そこには枕が二つ。どういうホテルかは一目瞭然だった。
「起きたか」
 声をかけられ、瑞希は後ろを向いた。
 龍司がいた。ペットボトルを片手に持ち、もう片手には紙のコップを手にしていた。彼はコップを瑞希に渡した。瑞希は受け取り、
コップの中にミネラルウォーターが注がれるのを見つめた。


「ここ……どこですか?」
「想像はつくだろ?」
 龍司は水を注ぎ終わるとボトルの蓋を閉め、そう言った。
「……」
 彼女はコップを手にしたまま黙りこくった。答えるのはためらわれた。想像通りなら、これから彼女はまた、
望まない行為に身を投じなければならない。もちろんあのまま龍司がおとなしく自分を帰してくれるとは思っていなかった。
しかし先週のことと最近の龍司の人物像から、彼女が油断していたことは明白だった。だから無防備にこんなところへ
連れ込まれてしまった。彼女は自分の不明を恥じた。もっとも彼女が聡明だったとして、この展開を避けられたかどうかは疑わしいが。
 瑞希の手にしているコップに注がれたミネラルウォーターの水面が細かくさざなみを立て始めた。龍司はそれを目聡く認めた。
「瑞希」
 彼は言った。
「俺が怖いか?」
「……」
 瑞希はカップをサイドテーブルに置いた。
「私、貴方がわかりません」
 瑞希は自分の腕を握り締めるようにしてそう言った。
「貴方がお爺様の財産を欲しがるのはお母さんのためなの?それとも自分のため?」
「自分のためさ」
 龍司は即答した。
「……」
 瑞希は再び沈黙した。いくら目をすがめても、瑞希にはその心中はわからなかった。彼の内面を推し量ることは、彼女には到底無理な話だった。
 一部の設備を除けば一見ただのリゾートホテルに見えるその部屋のベッドに腰掛け、彼女は言葉をつむいだ。
「私をこんなところへ連れてきて何がしたいのかはわかります……」
 一呼吸置いた後、意を決したように続ける。
「貴方のことは――怖い。でも、今日の貴方を見てたら、私」
 彼女はそこまで言って言葉を切った。
「私……」
 言葉を続けられなくなり口ごもる。自分が何を言いたいのか急にわからなくなり、彼女はひとつ頭を振った。しばらく考え、彼女は顔を上げた。
「貴方が」
 別の言葉を口にする。
「貴方がこれから私にもう何もしないって言うなら、これまでのことは――水に流すとは言えないけど、少なくとも誰にも口外しません。私が女に戻ることになってもずっと、一生私の心の中だけに仕舞っておくわ」
「……」
 龍司の動きが止まった。瑞希はそれを見逃さなかった。身を乗り出す。
「約束します。だからもうこんなことは」
 瑞希はそう訴えた。
 彼が今現在行っていることはれっきとした犯罪だ。
 彼女はこの状況に流されかけている自分がいることに気付いていた。もしかしたらいつかこんな異常な状態を受け入れてしまえるかも
しれないという想像もしていた。もしかしたらそれは、いったん受け入れてしまえば一概に不幸とも言い切れないかもしれない。
 だがやはり、こんなことはやめるべきだろう。
 彼女の言外に含んだその結論は龍司にも伝わったようだった。人を見る目の疎い瑞希でも、龍司の他人の考えを推し量る能力については
よくわかっていた。たったこれだけの言葉の間からでも、こちらの考えは汲み取ってくれるだろう。
 龍司も瑞希に倣い、ボトルをサイドテーブルに置いた。
「本気か?」
「本気です」
 彼女は顔を上げて龍司を見た。龍司はこちらを覗き込むようにして立っていた。瑞希からはちょうど逆行になり、彼女は彼の顔をよく見ようと目を細めた。
 彼は身体を折って瑞希に向かい手を伸ばした。彼女が膝の上に置いていた手にそっと触れ、
「悪いな」
 そう言ってその手を取った。
「……?」
 彼の言っている意味がわからず、瑞希はぱちりと目を瞬いた。取られた手を見つめ、もう一度龍司を見る。
 逆光とはいえ、間近であるために龍司がどんな表情をしているかはわかった。
 龍司は全くの無表情だった。
「龍司さん?」
 ふと不安を感じ、彼女はそう呼びかけた。


 急に手首に圧迫感を感じ、彼女はそちらを見た。両手首を掴まれ持ち上げられているのを視認し、ぽかんと龍司を見上げる。
 ぐっと押される感覚の後、身体が一瞬無重力状態になり、天井が見えた。気が付くと背中を良質のベッドにふわりと受け止められていた。
 長い毛先がベッドの上に散ってでたらめな模様を描いているだろうことがわかった。
「――」
 その状態のまま、瑞希は随分とながいこと呆けていた。そしてやっと自分の提案が拒否されたことに気付いた。
 かっと頭に血が上った。
「龍司さん!」
 悲鳴に近い声を上げ、瑞希は龍司の手を跳ね除けようと滅茶苦茶に暴れた。しかし手首を押さえつける手は万力のように動かず、
最後には彼女のほうが息が上がり、自らベッドの上に沈み込む形になった。
「おかしいわ、こんなの!」
 彼女は鳶色の付け毛を振り乱して怒鳴った。
「私が財産を放棄して告発するって言っても?お爺さまが亡くなったら全部暴露するって言っても?」
「ああ」
「――」
 彼女は耳にした返答が信じられずに呆然と目を見開いた。わからない。彼がわからない。彼にとって自分との関係が彼の人生と
釣り合うものだとは、瑞希には到底思えなかった。こんな馬鹿なことをしでかして、彼はいったい何がしたいのか。何を求めているのか。
そのわからなさが苛立ちや腹立たしさを超えた何かを爆発させ、彼女は半狂乱になった。
「どうして!どうして、ねえっ」
「その質問に答えてやるつもりはない」
 龍司は低い声で強く言った。瑞希が暴れ、叫んでいる間、彼はただじっと瑞希の動きを制限しているだけだった。彼は瑞希の腕は
押さえつけていても足まで自由を奪うことはできなかった。そのため暴れまわった彼女の脚が何度も彼の脇腹や脚にぶつかっていた。
女の力とはいえ瑞希は全力で暴れていたのだから、その衝撃はなまなかなものではなかっただろう。それでも彼はそうしていた。
その辛抱強さが彼の声にただの言葉にはない全く別のものを付与していた。
「本当の事を言っても、多分お前は信じないだろう」
「そんなことっ」
 聞いてみなければわからないわ。そう言おうとした矢先、彼女は唇を奪われ、その奥の舌をも奪われていた。口内に入り込んだ
龍司の舌は的確に彼女の舌に絡みつき、人間の舌ではない、独立したひとつの生き物を連想させた。
「っ――」
 彼女はぎゅっと目を閉じたが、以前までは拒否しようと思えば出来たそのことが、今はまるでできなくなっていた。
顎を掴まれてもいないのに彼女の舌は一向に龍司から逃れることが出来ず、ついにはせめて耐えやすいようにと自分から首を傾けてキスを受けてしまう形になった。
「んー……ふ……」
 鼻にかかった吐息だけが薄暗い部屋にこだました。龍司の厚い掌が掴まれていた手首から彼女の掌へと移動し、
手と手が組み合わせられても、瑞希には何もできなかった。
 キスは以前よりも更に執拗になっていた。歯から歯へと順々に移動し、そのたびに歯の表から裏まで舐め尽くす。
瑞希には到底耐えられなかった。流し込まれて何度目かの唾液をとうとう飲み下し、彼女は背中を大きく震わせた。
 飲みきれなかった涎が幾筋も流れ落ちてベッドの上に落ち、染みをつくった。唇が離れると、瑞希は大きく喘いで深く息を吸い込んだ。
「あ……あ」
 彼女の心境の微妙な変化が、身体の反応にも如実にあらわれていた。憎みきれない相手が思わぬ形で心に入り込んできたこと、
それ以上に理由はどうあれ女としてここまで求められているという事実が、彼女が必死に築こうとしていた壁を極端に脆くさせていた。
 息が熱かった。目が潤み、涎を垂らした口がだらしなく半開きになって酸素を求めた。付けていたリップグロスは殆ど舐めとられてしまっていた。
 彼女の表情を見た龍司の目に危険な光が灯った。瑞希はそれに気が付かないままひたすら空気を貪った。
 龍司は完全に開き直った口調で言った。
「暴露だろうがなんだろうがすればいいさ」
 組まれた手に力が込められるのを感じて瑞希は我にかえった。
「代わりに俺の気が済むまで付き合って貰うぞ。泣こうがわめこうが、もう俺の知ったことじゃない」
「――」
 瑞希はさっと青ざめた。心臓に氷でも落とし込まれたような心持ちになる。それでも彼女は言った。
「私、泣いたりわめいたりしないわ」
 龍司はふと目を細めた。


「そうか」
 彼は眩しいものでも目に入ったような表情をして言った。
「ならそうさせてやる。別の意味でな」
 乱れた着衣の隙間を縫って、何度もキスが落とされた。特に鎖骨には端から端まで、線をひくように舌が這わされた。
「……!」
 瑞希はぎゅっと目を閉じ、声を上げるのを堪えた。声を上げたら負けだと思った。しかしそれも長く続きそうに無かった。
その根拠は確かにあった。組み合っていた右手を外されても、自分は一向に彼に抵抗できないのだ。
開放された右手は弱弱しく龍司の肩を押しただけに留まった。その手は龍司の舌が身体の上を動き回るたびにその肩を強く握りしめ、
彼女の敏感さをダイレクトに伝えてしまうことになった。唇を離すと、龍司は離した片手で瑞希の髪を撫でるように梳いた。
「いい反応だ」
「やめ……」
 髪を梳き続ける龍司の腕に必死に制止のための右手を伸ばして瑞希は呻いたが、その手が彼の腕を捉える前に彼の腕は彼女の髪からするりと逃げていた。
 逃げられた手にキャミソールを胸元までたくし上げられ、彼女は身体を強張らせた。
「こんなの付けてたのか。まあまあのセンスだ」
 龍司はそう言って小花柄の刺繍が施された淡いブルーのブラジャーの縁を指でなぞった。
「似合ってるな」
「――!」
 頬に朱を散らし、瑞希は反射的に横を向いて視線を逸らした。龍司の顔を直視できなかった。その手が背中に回された。
ホックを外される感触に背筋が粟立つ。
「駄目っ」
 制止の言葉は受け入れられなかった。ゆるんだブラジャーがずり上げられ、彼女の上半身が露わになった。
咄嗟に隠そうとした右手は押しのけられた。
 乳房を揉みあげられると背中が勝手に反った。その姿は腕を捻って逃げ出そうとしているようにも見えたが、
同時に快感に悦んでいるようにも見えた。
「っ、くぅ……」
 切なげに眉根を寄せて彼女は耐えた。恥ずかしさに身悶えする。柔らかいベッドは憎らしいほどに音を立てず、その行為を
何ら邪魔しようとしなかった。
「いいんだろう」
 言われて瑞希は頬を染めた。目を閉じ、咄嗟に頭を横に振る。
 嘘だった。龍司の手つきは優しかった。以前のように乱暴なことも無く、快感だけを引き出そうとする動きだった。
経験の少ない彼女はその狙い通りに快感だけを増幅させてしまっていた。
 否定すると、すでに薔薇色に染まりきっていた頂点を突然指で弾かれた。
「ひぁんっ」
 苦痛と快感をないまぜにした声が唇から漏れた。声を上げてしまったことに後悔しながらうっすらと目を開くと、龍司と目が合った。
「ほら。いいんだろう?」
「あ……はぁ……ちがっ……」
 蕩けかけた声は何の否定にもならなかった。胸の谷間から身体の中心に沿って指が下ろされていくと、彼女は耐え切れずにまた声を上げた。
「可愛いな」
 その言葉に、瑞希は反発すらできなかった。降りてきた指がへその上まで来て、おぞましさとそれを上回る感覚に彼女は慄いた。
「もっと声出せ。ここなら、周りに気を遣う必要も無いからな」
「嫌、嫌」
 辛うじて理性を保つと彼女はかすれた声で言った。
「もうやめて……」
 泣くこともわめくこともしないと言った手前、叫ぶことは出来なかった。一度は散っていった冷静さをかき集めて彼女はようやく一言二言言葉を発した。
「駄目」
 かすかに首を振る。
「だってこんなの、違うでしょう……?こんなこと、続けてたらいけない――」
「俺が今ここでやめたとして」
 龍司の声が急に硬いものに変じたのを彼女は聞いた。
 彼は彼女の腹に置いていた手を握り締めた。強張った拳を腹部に感じ、彼女は全身を硬直させた。


「お前は俺のものになるのか?」
 瑞希は靄の掛かった頭でその言葉を聞いたために、深い意味にとることは無かった。ただ、それでも解らない言葉だとは感じた。
 何を言っているの?彼女は問い返そうとしたが、その前に龍司が断定の口調で言った。
「ならないだろう」
「……」
 彼女は答えなかった。何故そんな事を聞くのか、その詰問の意味が彼女には全くわからなかった。なにより嘘のつけない彼女は
口をつぐむ以外にとる術がなかった。それでも龍司は数秒の間、まるで否定の言葉を待つような沈黙を彼女に提供した。無慈悲に沈黙が終わると龍司はただ目を伏せた。
「だったらもう何もいうな」
 短くそう言われて、瑞希はこれまで自分が必死に紡いできた全ての言葉を一蹴されたのを感じた。
今度こそどうしていいかわからなくなり、彼女は上げていた頭をすとんとベッドの上に落とした。
「――」
 全身の力が抜けた。左手が解放され、龍司の手がスカートに潜って太腿を這うのを感じても、瑞希にはどうすることもできなかった。
「あっ……あ」
 龍司の広く大きな手が内腿を撫でさするたびに彼女は震えて声を上げた。あれほど声を出すまいと思っていた気持ちが完全に萎えていた。
 内腿に触れていた手が外側に回りショーツに手が掛けられた。彼女は反射的に脚を閉じようとしたが、こんな状態ではろくに
太腿に力を込められず、下着は徐々に抜かれていった。ブラと揃いのブルーのショーツがスカートから覗いた。
それが湿っているのを見たとき、彼女は死にたくなって顔を逸らした。
 面倒だったのか、龍司は片足だけを抜かせると、後はほうっておいた。片方の足首だけにショーツが引っかかった形になり、
瑞希は羞恥に全身を赤く染めた。
 男性特有のごつごつした指が秘裂をなぞり、湧き出していた蜜を掬い取った。
「あ」
 瑞希は呻いて喉を反らせた。
「濡れてるな。キスが良かったか?それとも胸か」
「――あ――」
 どんなに恥ずかしいことを言われても、彼女には何も言えなかった。唇をぱくぱくと開閉させ、彼女は胸をかきむしるようにして
鎖骨にわだかまっていたキャミソールを引き下ろそうとした。せめて胸くらいは隠したい――これ以上の辱めは耐えがたかった。
しかし龍司はそれすら許さなかった。隠そうとした彼女の手に片手を添え、キャミソールから引き剥がす。彼はその手をそのまま彼女の顔の横へ押さえつけた。
「隠すなよ」
「っ――」
 涙目になって彼女は歯噛みした。敢えて抵抗するほどの気概は今の彼女には無かった。
 ぐちゅ、と指の腹が花弁の中心に当てられた。しかしそれはすぐに侵入せず、入り口のあたりで蠢き始めた。
「っは、あう、あっ」
 入り口と花弁を丁寧になぞられ、彼女は押さえられた手にすがりつくようにして声を上げた。強いわけでもない刺激にいちいち
腰が反応する。愛撫で蜜が溢れてくるのを感じ、羞恥心でさらに濡らす。それを自覚し、彼女は自分が知らない自分になって
しまったかのような錯覚に逃避しそうになったが、そうなる前に別の刺激が送り込まれてきた。
「ん、くう、あ!」
 急に別の部分に触れられ、彼女は腰を跳ねさせた。秘部の中でも最も敏感であろうそこを、二本の指が割るようにして顔を出させた。
 触れるか触れないかのところでゆっくりと擦られる。瞼の裏側に火花が散った。
「あああ、あっ、あ」
 これまでの愛撫など比べ物にならないそれに彼女はただ身悶えた。
「や、やめ、やめっ」
 悲鳴のように繰り返す。太腿に挟み込まれた龍司の手は位置をずらすことも無くそこに触れ続けた。
 快感を超えて刺すような刺激が彼女を襲った。瑞希は自分の身が依るものが無いこの状況に大きな不安を抱えたまま、強制的に高みへと登らされていった。
「まだ剥くのは可哀想だから、擦るだけにしておいてやる」
 龍司の声がひどく遠くに聞こえた。急にその身体にすがりたくなり、彼女は押さえられていない手を宙に泳がせたが、何も掴むことはできなかった。
 そこを摘まれ、擦るようにざらりと捻られた瞬間、瑞希は大きく身を仰け反らせて息を呑んだ。
「っ、ひ―――!」
 目の前が白く染まる。天まで持ち上げられた身体が地に落ちるように、彼女は達した。
 毛穴という毛穴から汗がどっと吹き出た。体中の緊張が切れ、限界まで反った背中が柔らかなベッドに着地する。
「あ……」
 沈み込んで、彼女はかすかに喉を震わせた。付け毛が汗を吸って頬に張り付いていた。あまりに悶えたのでウイッグが
外れかけているのではないかとぼうっと思ったが、髪はまだ地毛のように彼女の輪郭を縁取っていた。


(また……)
 彼女は観念したように睫を伏せた。呆けてはいたが、そこに酷い羞恥心はあっても以前ほどの嫌悪はなかった。
わずかに残った理性はそれがいかに危険なことかを懸命に訴えていたが、身体はその理性を無視して快楽の余韻に浸っていた。
 伸びてきた大きな手が頬の毛を払った。
「良かったか?」
 その質問にはとても答える気になれなかった。瑞希は潤んだ瞳だけを動かして龍司を見上げた。龍司は覆いかぶさるようにして
じっとこちらを窺っていたが、やがて安堵の表情を見せた。
 瑞希がその表情の意味をつかめないうちに、彼は身をたわめた。片足を持ち上げられる。龍司はその脚を自分の肩に掛けた。
「あっ」
 彼女は大きく脚を広げさせられた格好にたまらなく恥ずかしさを覚えて身じろぎしたが、身体を横にされ持ち上げられて
不安定な格好になっているために、両手をベッドの上について身体を支えるので精一杯だった。スカートが捲れかけて
いることにも気付いていたがどうしようもない。龍司の位置からは既にスカートの中は見えてしまっているだろう。
「……!」
 彼女はベッドに顔を埋めるようにして視姦に耐えた。やがてそこに指が入ってくると、彼女はシーツを噛み締めて声を押し殺した。
 人差し指らしき指はまず浅い部分から触れ、彼女の中を愉しむように一周した。それから一段階深いところへ潜り込み、
また探り始める。指はひどくしつこく彼女の中を掻き回した。一度達した身体は否応無く熾火を煽られ再び燻り始めた。
「ん……!」
 最も弱い部分に触れられ彼女は大きく反応した。そこを責められ続ければまた達してしまいそうだった。やめて、という意思表示に、
彼女はおおきくかぶりを振った。
 指はやめなかった。その代わりに動きがひどく緩慢になった。
「――」
 まだ感じさせられてはいるが、達するほどの刺激ではなかった。瑞希はほっとして身体の力を抜いた。
 その時、まさにそのタイミングで、入り込んだ指が一瞬くの字に折れ曲がった。
「ん、うう!」
 彼女はびくんと身を仰け反らせた。全身に緊張が戻る。
「やっ……」
 嫌、と言おうとして、彼女は咥えていたシーツを口から離してしまった。自分がわざと苛められていると気付いたときには
既に二本目の指が入ってきていた。
「あうっ、くぅ」
 圧迫感にすこし性感が薄れる。しかしその圧迫感に慣れ始めると身体の中心はまた疼いてきた。彼女の身じろぎを合図ととったか、
龍司はまた指を動かし始めた。ただし、あくまでゆっくりとした動きだった。
 二本の指を少し角度を変えて捻られるだけで、彼女の全身に耐え難い快感が走った。
「あ、ああ……」
 彼女は呻いて抱えられた脚をがくがくと震わせた。指はそれ以上の大きな動きを見せなかった。ゆるゆると抜き差しするが、
強い刺激は全く与えてこない。焦らされているのは明白だった。
「龍司、さ……」
 どういうつもり――何とか問いただそうとした時、声が降ってきた。
「辛いか?」
「――」
 瑞希は大きく肩を震わせた。
 無表情な声だった。一切の感覚を排除した抑揚の無い声だ。
 彼は言った。
「欲しいか」
「な――何、を……」
 一瞬は本当に何のことか解らなかった。瑞希は混乱しながら言いかけ、そこではっと気付いた。
 嫌な予感を証明するように龍司は続けた。
「俺が欲しいと言え。そうしたら挿れてやる」
「――――――」
 彼女は絶句して視線を彷徨わせた。
 今の今まで想像もしなかった台詞に何も考えられなくなる。言う?欲しいと。私が?
 頭の中が真っ白になった。彼女は動揺のあまり睫を細かく震わせた。
 突然指を抜かれる。その感触に彼女は身震いした。龍司は手早くベルトを外し、屹立した怒張を彼女の目にさらした。
「欲しいだろう?」
「やっ……」
 思わず悲鳴に近い声を上げる。自分がこの行為に慣れて行くことは想像できていた。だがあれを、自分から求めるなど
考えもしなかった。急に恐ろしくなり、彼女は身を引こうとし、そしてできなかった。身動きするだけで身体の芯に甘い痺れが走った。


「はあ、あっ……」
 再び指を入れられる。今度は二本一緒にゆっくりと埋められ、望まない快楽を彼女に与えた。今度は少し強く、
内壁を撫でるように円を描く。担ぎ上げられた脚を撫でられ彼女は悶えた。微弱な刺激は彼女の痛痒を長引かせるだけだった。
「やめ……」
 やめて。その言葉は続かなかった。ひくりと震える自分自身の四肢に彼女は絶望した。
 身体全体が汗ばみ、桜色に染まっていた。どこを触れられても快感を得られるくらいに感度が高くなり、
胸の先端は特に濃く色付いてつんと上を向き、どう見ても貞淑な娘の身体ではなかった。何より身体の中心。
燃えるように熱く、どれだけ喘いでも収まらない。
 欲しがっている。心はどうあれ、身体は誤魔化しようもなく、あれを欲しがっている。
 涙が溢れた。泣きも叫びもしないという自分自身の誓いを破って彼女は泣いた。掠れた声で繰り返す。
「ひどい……ひど、い……」
「そうだな」
 龍司は泣きじゃくる小柄な身体に覆いかぶさった。
「俺は酷い男だ」
 その言葉にそぐわない優しい仕草で彼女の涙を拭う。頬に手の甲を当て、髪を梳き、首筋にキスをし、ささやく。
「言うんだ」
 瑞希は長く口を閉ざした末、唇をかすかに震わせた。
「駄目……言えな、い……」
 彼女はぎゅっと目を閉じた。それは信念やあるいはそういった強いものからではなく、ただ羞恥心から出た言葉だった。
「……」
 龍司は一瞬だけ、その表情にわずかな怒りの色を覗かせた。
「強情だな」
 また少し指を動かす。瑞希はされるがままで、それでも頑なに口を割ろうとしなかった。
「あまり我慢してると本当にイけなくなるぞ」
「はあっ、あ……」
 彼は膣からは指を抜かないまま、一旦は責めを止めた陰核に指を這わせた。
「んん、はぁあっ!」
 瑞希は喘いだ。身体が驚き、咥え込んだ指を締め付けた。
 再び大量の愛液が分泌され始める。それは滴るほどに零れ落ち、龍司の指を伝ってシーツの上に落ちた。
「あぁ……やあぁ……」
「認めろ」
 厳然と彼は言った。
「一言でいい。俺が欲しいと言え」
「あ、あ――――」
 今や何も答えられず、瑞希はあまりのもどかしさに身を捻るだけだった。散々焦らされ苛められて、
彼女は肉体的にだけでなく精神的にも追い詰められていた。もう何も考えられない。
 おこりのように震えながら呻く。とても耐えられなかった。
「……し……の……」
 涙を流しながら、瑞希は懇願した。狂ったような声だった。
「龍司さんが、欲しいの……!お願いっ――」
 瞬間、指が抜かれ、直後に待ちかねたように秘肉を割り、猛々しいものが突き立てられた。
「ん、ぁあああぁあんっ――――!」
 それだけで彼女は達した。衝撃に強く背中を仰け反らせ、彼女は叫んだ。悲鳴のような声は長く響いた。
自分でも信じられないくらい、それは嫌らしい声だった。
 彼女には恥辱を感じる暇さえ与えられなかった。熱い塊はすぐにぎりぎりまで引き抜かれ、また勢い良く打ち付けられた。
それが何度も繰り返された。
「んは、あ、あん、あ、あ、あっ、あ」
 腰が叩きつけられるたび、肌を打ち付けあう音と水音、そして瑞希の嬌声が部屋中に響いた。ベッドが大きく軋み、
辛うじて彼女の身体を守った。
「あん、あう、くぅ、あっ」
「いい声だ……!」
 龍司は貫いている彼女を組み敷くように圧し掛かり声を上げた。瑞希にはもうその声を聞く余裕もなかった。
彼女の中心は咥え込んだものからひたすら欲望の証を取り込もうと収縮を続け、その代償としておびただしいまでの快楽を得た。
間をおかず、彼女はまたのぼりつめていった。
「ああっ、だ、だめっ、ダメ、私っ」
 これまでは考えられなかった艶かしい声音と台詞が口をついた。同時に龍司がさらに強く彼女の中に押し入ってきた。
龍司が彼女の声や姿に誘われてそうしたのだということが彼女自身にも解った。
自分が男を誘うことが出来るということ自体が彼女にはショックだった。龍司は彼女の言葉に最奥まで突き入れることで応じた。
「いいぞ、イけ、瑞希っ――」
「あっ――――――!」


 瑞希は背筋をぴんと仰け反らせた。同時に身体の中で熱いものが爆ぜた。
 限界を迎え、彼女はつくりものの髪を肌に纏わり付かせてびくびくと痙攣した。彼女の中心は一度だけとても強く
龍司のものを締め付けた後、ゆっくりと確実に蠢き吐き出され続ける液体を飲み込んでいった。


 時計を見ると夜中の二時だった。瑞希はただ黙って、眠っている龍司の顔を見つめた。
 情事では女のほうが体力を使うとはいえ、彼女は一度睡眠をとっていたので龍司よりも先に目が覚めた。彼女は起き上がろうとして、
三度目なのに今まででもっともひどい腰の痛みに愕然とし、しばらく考えたが結局横たわったままで身体の回復を待った。
そういえば一緒にこうして眠ったのは初めてだったか――
 気怠さを追いやり手を伸ばす。その指先が多少こわごわと、龍司の髪に触れ、頬に触れた。最後に瞼に触れようとし、彼女ははっと手を引っ込めた。
「……」
 私はいったい何をしてるんだろう。
 彼女は不安に瞠目した。ミュールは脱いでいるのに、それ以前に横になっているのに、急に自分の足元が覚束なくなったかのように
感じて落ち着かなくなり、彼女はゆるんで外れかけていたウイッグをめちゃくちゃな手順ではずし始めた。
 本当なら、私は彼を拒否しなくてはいけないのだ。嫌わなくてはならないのだ。道義的にも、それから理屈としても。
 それが、それが強制されたとはいえ、自分から求めてしまうなんて、私はなんてことをしてしまったんだろう――!彼女は自分が
いかに恥ずかしいことを叫び、ねだってしまったかを思い出して赤面した。頬の熱さは羞恥のためだけではなく、怒りのためでもあった。
 鳶色の髪をむしり取るとようやく本来の髪型と色に戻った彼女は、自分の女の部分を振り払うつもりですこし身体を起こして
いちど頭を振り、そこで力尽きてまたベッドに沈んだ。もともと体力は使い切っていたので、そこまでが限界だった。
なんとか動けるようになるにはもう一度眠らなくてはならないだろう。
 彼女はもう一度目の前で眠る龍司の顔を見た。
 彼は瑞希の苦悩も知らぬげに穏やかに寝息を立てていた。その顔を見ていても怒りも嫌悪もろくに沸いてこない自分自身に、
彼女はいらだった。
「――――!」
 悔しさに歯軋りし、彼女は両手で顔を覆った。こんなのは間違っている。なのにどうして私はこの男を拒否しきれないのだろう。
 目尻に涙が滲んだ。わかっている。――彼女は顔を覆う手に知らず知らず力を込めてそれを認めた。
 自分は自分が求められているという嬉しさから抜け出せないだけだ。その理由もわからないのに、それに溺れてしまっているだけだ。
だったら私がこんな思いをするのは自分の所為だ。私が弱いだけじゃないか。情けなくて涙が出てくる。道理も貫けずに、
私は何をやっているんだろう。
 そしてそれ以上に気にかかることがあった。
 それは会うたびに彼という人間の素顔を見てしまうことだった。どんな人間でも少なからず他人に隠している部分があるが、
龍司にはそれが特に多いように思う。彼がそうしてしまうのは何故だろう。いったいどんな理由があるのだろう。
「……」
 彼女はその考えを振り払った。だからといってこんなことを続けて良いはずがない。こんなふらふらした気持ちは
持ち続けるべきではない。彼女は断じた。偶然彼の内面に触れることの多かった自分が彼に勝手に同調しているだけだ。
自分があんな提案をしたこと自体が馬鹿げていると彼女は思った。受け入れてしまえるかもしれないが、やはり受け入れるべきではない。
今夜だって結局、その折衷案を蹴られて、あれだけ好き勝手されて辱められた。彼がひどい人間であることに代わりは無い。
 しかしそれでは、と彼女は思った。
 祖母の遺骨に手を合わせてくれた彼は誰なのだろう。祖父に花を贈り、擁護した彼は誰なのだろう。
 わからない。これだけ一緒にいても、結局何もわからない。彼女は朝と全く同じ事を心中で繰り返した。
 彼女はしばらくそのまま涙を堪えていたが、それも長くは続かなかった。嗚咽を抑えることにも疲れ果て、彼女は再び深い眠りの中へ落ち込んだ。


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