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初夜

ナサ ◆QKZh6v4e9w氏

広い部屋だ。
隅々にまでたてられた燭台の蝋燭の炎に揺らめく、金装飾の天井や壁が遠い。
磨き抜かれた羽目板の時と手間のかかった深み、厚いカーテンの隙間からのぞく透き通ったガラスがはめ込まれた窓枠全てに沈み彫りが施されている贅沢からもわかるようにここはありふれた金持ちの館の一室などではなかった。
王都の中心、王宮の二階。
王の息子の寝室である。

部屋の主の姿はない。
そのかわり部屋の中央に据えられた天蓋つきの大きな寝台の真ん中に、金糸銀糸で縁取られたいくつものクッションに埋もれるようにして、三日前に王子妃になったばかりの若い女性がぽつんと座っていた。
膝のうえに置いた細い指で落ち着きなく、クッションと同じく複雑な草花パターンの刺繍を施した純白のカバーをつかんだりはなしたりしている。
着ているのはくどいほど手の込んだ刺繍の施された、同じく純白の絹の寝間着だ。
その上には繊細なレースで縁取られた夏用の、同色の美しいガウンを纏っている。
長い巻き毛は少し前に女官たちに丁寧にブラシで解きほぐされた。
溶けた黄金のような滑らかさで肩にうちかかり、蝋燭に暗く輝いている。
唇には淡く紅まで差された。
本人は遠慮したかったのだが、有無を言わさずそうされたのである。



『公的に』イヴァンと寝るのがこれほどまでに面倒な事だとは。

ナタリーは、皺一つなく整えられたベッドカバー、さらにその上にふんだんにまき散らされた新鮮なばらを、呆然と眺めた。
何もやる事がないままここにこうして座っているからついつい確認してしまったのだが、ばらは注意深く選り分けられた虫食いの痕ひとつない香り高いものばかりで、しかもその茎にはどのような細い棘も見当たらなかった。
一本一本、細心の注意を払って棘が折られているに違いない。
ばらばかりではなく、さきほど寝支度の最中に王妃様が緊張をほぐすだの心をくつろがせるだのと効用を教えてくれたのだが、束ねられた小さな香草の束も混じっている。
ナタリーをとりかこむようにそれらを美しく配置し、蜜蝋製の蝋燭を全て灯して、王妃様と女官たちは口々に祝福と励ましの言葉をかけたあと扉から出て行ってしまった。

それからもう半時間。
いったいイヴァンは何をしているのか。

密閉された部屋に溢れかえる蝋燭と花々の甘い香りが強すぎて落ち着かない。
まるで自分が箱の中に詰められた菓子にでもなったような気がするのは気のせいか。
ここまで美々しく飾りたてられると、うっかりみじろぎもできぬ。
なによりも、早く楽になりたい。
婚儀のあとの足掛け三日に渡る盛大などんちゃん騒ぎを思い出し、ナタリーはベッドカバーに吐息を落とした。
もちろんずっと起き続けだったわけではなく、合間合間できちんと睡眠を補ったが、本当はぐっすりとまとまって眠りたい。
イヴァン抜きで寝たい。
このばらやブーケを全て払い落とし、蝋燭を消し、シーツを皺だらけにして身も世もなく中に潜り込みたい。
だがそれはまだ許されない。
なぜならば、これから婚儀の最も重要な儀式、最後の『初夜』が始まるのである。



「疲れたわ…」

口に出してみると、押し隠していた疲れが躯の中心からじわじわとにじみでてきたような気がしてナタリーは目を閉じた。
普通の結婚がどんなものだか想像もつかないが、国王の後継者と結婚するのがこれほど大変なものだとは知らなかった。
知っていたらどんなにイヴァンに苛められようと口先うまくまるめこまれようと結婚なんかしなかったかもしれない。
婚儀前の目の回るような忙しさや緊張も相当なものだったが、この三日間でとどめをさされたような気がする。
最初は自然に笑顔を見せていた自信があるが、昨夜あたりからかなりに意識しないと口の両端があがってくれなくなった事をナタリーはしみじみと思い出した。
今朝からはもう、疲労からくる眠気との戦いで消耗しつつも、生まれついての負けず嫌いと根性で顔に微笑をはりつけていたのだ。
結婚だの新婚だの花嫁だという言葉からくる甘いイメージとはかけ離れた、ほとんど修行の趣きの最後の一日であった。
してみるとイヴァンは立派なのかもしれない。
最初から最後まで、にやにや──ではなかった──満面に笑みを絶やすことなく、国内外にむけて目出たい慶事をアピールしていた。



王族に入ったという、覚悟がまだ足りないのかもしれない──。

生真面目なナタリーは反省し……つつもがくりと金褐色の頭が胸元に垂れ下がりそうになり、急いで顔をあげた。
いけない。
目を閉じているとそのまま寝いってしまいそうだ。

思い切って寝台から出、床を歩き回ってみたかった。眠気退散には躯を動かすのがいい。
だが…。
ナタリーは、彩りも美しく配置されている花と、完璧に整えられている目にもまばゆい純白のベッドカバーを、再び気怠気に見渡した。
これを崩さずに抜け出すことなどもはや不可能だ。
ガウンの袖のレースまで、クッションに優雅に流れるよう、念を入れた計算の上に整えられているのである。
ああ本当に、花婿のイヴァンはいったい何を……

寝室の、廊下に通じる居間への扉のむこうから、ざわざわとたくさんの人の気配が伝わってきた。
ナタリーはさっと顔をあげ、急いで髪を胸元から肩へと振り払った。
いよいよ最後の戦い、ではない、最後の儀式の始まりである。



扉が両側にうち開き、ナタリーよりは装飾の少ない寝間着にガウン姿のイヴァンを先頭にしてどっと人々が部屋に入って来た。
王、重臣、聖職者、侍従、大使や使節とその従者、議員に、貴族たち。
打ち寄せる人波に、あっというまにさしも広大な寝室も、足の踏み場もなくなった。
人々は明るく美しく飾り立てられた豪華な寝室に目を見張り、巨大な寝台の真ん中で陶器の人形よろしく端然と座っている若く初々しい王子妃を見ると糸のように目を細めた。
視線が一斉に注がれて、ナタリーは思わず身を竦めそうになったが耐えた。
ガウンが薄すぎるような気がするが、ベッドカバーを胸元まで引き上げているから躯つきを探られるはずもないだろう。
だが、見せ物になった気分だ。
…と思う間にもやたらに執拗に撫でてくる視線を一つ感じて、つつましく伏せた瞳をちらりとむけるとそこには案の定イヴァンが居た。
いつもの如く、にやにやしている。

(いまさら珍しくもないでしょうに。そんなにじろじろ見ないで欲しいわ)

疲れていると何でもかんでも癇に障る。
胸の中でイヴァンに毒づいていると、幸いにも彼は首に腕を巻かれ肩を抱かれ、友人たちに部屋の隅に連れていかれてしまった。

ナタリーがほっとしていると、近侍に手助けされながら、彼女の義父となった老王が人をかきわけて寝台に近寄って来た。
「綺麗だの、ナタリーや。わしは今、新婚の頃の王妃を思い出しておったよ」
王の皺のよった頬は新たに噴き出した涙でぐちゃぐちゃである。
「イヴァンは我侭なたちだが、あれでちょっとはよいところもあるのだ。愛想をつかさんでいておくれ」
ナタリーがこれまでにも夫に愛想をつかしたことがあるに違いない、という怖れを抱いている様子である。
父だけにさすがに息子の性質を把握しているが、ナタリーは曖昧に微笑して頷いてみせた。
「ご心配はいりませんわ」
たぶん、と心の中で付け加える。王はすこしだけ安心したようだった。
「そうかそうか。では、一日も早くよい跡継ぎに恵まれるように、王妃と共に祈っておるからの」
「ありがとうございます、陛下」
ナタリーはひやひやして王に手を差し伸べた。
自分のことでもないのに心臓発作を起こしそうなくらい感動している様子なのである。
その小さな指先をそっと握ると、王は急いで枕元の脇に避けた。

後ろからこれも豪華に着飾った総大司教が人垣を押し分けて勢いよく現れ、ぎょろりと部屋の隅に目をやった。
「殿下。お妃様の傍らにおこしくだされ」
歓声に押し出されるようにイヴァンが現れた。
皺ひとつなかったカバーをひっぱってはねのけ、彼は新妻の横に収まった。
重々しい指輪をたくさんはめた指を動かして指示し、大司教は新郎新婦の手を重ねさせ、祝福した。
「睦まじくあれ。多くの子に恵まれ、互いに末永く慈しみ合うよう」
一斉に部屋中の人間が唱和した。
事が事なので、浮かれた気分が漂う陽気な唱和になった。
羞恥を抑え、厳粛な顔を保っているのが精一杯のナタリーには、隣のイヴァンの表情を盗み見る余裕もなかった。



笑ったり喋ったりしつつ、徐々に移動が始まった。
開いたままの扉の外の居間から入りきれなかった人々と押し合いつつ、少しずつ人数が減っていく。
最後に残った従者たちも、みんなの躯で蝋燭が傾いていないかを確認したあと頭を下げて寝室から出た。
ようやくのことで、音をたてて扉が閉まった。
居間からも人の気配が失せていき、そして、やっと静寂が戻った。



「……………」
ナタリーはがくりと、カバーの上につっぷした。
もう大丈夫だ。
これ以上、見知らぬ人々に見せ物よろしく晒されることもない。
笑顔を意識しなければいけないこともない。
自分のしたいようにできる自由な時間が、明日の朝までの数時間、まるまる確保できたのだ。
完璧なベッドカバーも、さっきイヴァンが入るとき皺をつくったからもはや怖れることはない。
レースの襞の美的な角度も計算された花の配置も知ったことか。
思えば長かった…!

「おい、どうした」
そのまま意識が心地よく遠くなりかけたナタリーの肩を誰かががくがくと揺すっている。
ナタリーは、閉じようとする瞼をおしあげた。
隣のイヴァンが気遣わし気に彼女を覗き込んでいる。
「あ、イヴァン様…」
「なにが、あ、だ」
イヴァンは、きっちりおり込まれたままのナタリー側のベッドカバーを腕をのばしてひっぱった。
「これがきつすぎるんじゃないのか。緩めてみろ」
「ありがとうございます」
ナタリーはなんとか上体をたてなおし、顔にかかった髪をかきあげた。
「でも違うの、カバーのせいじゃないわ。…緊張が緩んだんです」
「そうか」
イヴァンは頷き、ナタリーの肩をそっと引き寄せた。彼女は尋ねた。
「これで終わったのよね?」
「おおよそはな。明日にはここを出るから、また当分は離宮を整える仕事で忙しいが」
彼は掌で、妻の滑らかな髪を撫でた。
「ややこしい行事のほうはとりあえず終わりだ。可哀相にな。よくがんばった、と思うぞ」
「イヴァン様……」
ナタリーはほっとして目を閉じた。
大きな掌の温もりが肌に伝わってくる。
このくらいで、と呆れられるかもしれないと、頭の片隅で考えていた。
この数ヶ月、イヴァンが花嫁に負けず劣らず婚儀の種々に忙殺されていたことは理解しているつもりである。
なんといっても彼は、同時に日頃の仕事も抱えていることだから。
こんなに優しく労ってもらえるなどとは期待していなかっただけに、その温もりが嬉しかった。

閉じている瞼にイヴァンの唇が触れ、キスされたのを感じた。
キスは額にかかった巻き毛をかすめ、こめかみに移り、耳の前から首筋に降りてゆく。
肩を抱いていたはずの手も、触れるか触れないかの柔らかさでガウン越しの腕の線を辿り始めた。
ナタリーは、いやいやながらも褐色のきれいな目を開けた。



……もしや。

「イヴァン様…」
口を開くと同時に、イヴァンが強く抱きしめてきた。
「…あっ、ちょっと、待って!」
眠気がいっぺんに吹っ飛んだナタリーは、夫の腕に指をかけた。
「どういうおつもり」
「どうもこうも」
イヴァンは興奮を滲ませた声で囁いた。
「『初夜』は婚儀の大事な儀式じゃないか」
「でも…」
ナタリーは身悶えした。

どうしてこの男は、ちょっと見直すとすぐにこうなのだ。

「わ、私たち、もう、とっくに、その。だから、しょ、初夜といっても特別には…」
「そんな事をいうが、今夜はひどく張り切ってないか?実に色っぽいガウンだ」
イヴァンがじろじろと、二重もの薄いレースに覆われた肩の肌を眺めつつ呟いた。
「私が張り切ったんじゃないわ。よってたかって着替えさせられたのよ」
ナタリーは叫んだ。
「よくがんばった、って仰ったじゃない。眠いの、このまま放っておいて」
「だが、『初夜』だぞ。その格好を見るまではそうしてやってもいいと思っていたが」
イヴァンはにやりとした。その笑顔にこもった底意を感じてナタリーはどぎまぎした。
気まぐれな男だということはわかっているが、ここまでころころ変わらないでほしいものである。
「じゃあこんなもの着ない。着替えてくるわ」
急いで彼女はカバーから這い出た。
まつわりつく長いレースの裾に膝をとられてつんのめった腰を後ろから掴まれた。
その勢いで、花が床にいくつも落ちた。
「着替えるのなら、手伝ってやろう」
にやにやしながらイヴァンがひき倒すと、ナタリーは憤慨した。
「手伝うなんて嘘だわ。脱がせたらそのままのくせに」
「賢くなったなぁ。ちょっと前までは簡単に騙せていたのに」
イヴァンは高笑いして、彼女の上にのしかかった。

重みにつぶされて動けなくなったナタリーを覗き込み、彼はちょっとだけ笑いを消した。
「…言ったろう、今夜は特別なんだ、ナタリー」
イヴァンは肩を竦めた。
「明日は恒例の『シーツ改め』もある。さっきも助平な連中がわざわざオレに耳打ちしたぞ。けしからんことに、楽しみにしているようだ」
「…なんですって?」
ナタリーは褐色の瞳から怒りを消して、夫に向けた。
いやな感じだ。その言葉はどこかで聞いた覚えがある。
「事の翌朝みんなの前でシーツを広げてだな、確かに結ばれたか、それに花嫁が処女だったかどうか確認するんだ」
ナタリーは真っ青になった。
「……え」
イヴァンはしれっと言った。
「安心しろ、お前が処女だったことはオレが確認している」

ナタリーは彼を睨んだが、辛うじてコメントは控えた様子だった。
「でもみんなにはそんな事わからないわ。……いろいろ、知っているひとたちもいるし」
だんだん、口調が非難がましくなっていく。
愛人期間を知っている離宮の関係者は言わずもがなだ。
王宮に仮住まいするようになってからもイヴァンがなにかと部屋に押し掛けてくるので──さすがに正々堂々は入り浸ったり泊まり込んだりはしなかったが──傍付きの人間たちにはとうにバレているに違いない、とナタリーは諦めていた。


イヴァンは鼻を鳴らした。
「安心しろというのに。事実はどうでもいいんだ、形式だから」
ナタリーを放して肘をつき、果物や水を載せた傍の台からナイフを掴みとる。
「だが、シーツだけで済むんだからいいほうだぞ……床入れを覗くならわしがなくなっただけ、ありがたいと思えよ」
「え?」
「寝室で立会人が、新郎新婦が確かにやったかどうかを見届けるんだ。祖父の頃まではあったらしい」
ナタリーは震え上がった。
イヴァンはナイフの柄を弄びながら、妙にしみじみと言った。
「じいさんとばあさんは偉かった。オレはそういうのはごめんだな」

私も──と言いかけてナタリーは悲鳴を押し殺した。
自分の左手を仰向けにしたイヴァンが、中指の腹にナイフの刃を当てがったのだ。
眉をしかめながら、彼はそのまま刃をひいた。
よく研いであったらしく、動きに沿ってすぐに赤い線が浮き上がった。

「イヴァン様、なになさってるの?」
ナタリーがとびつこうとしたのでイヴァンは声をあげた。
「こら、じっとしていろ。余計なところまで汚れる」
ナイフを台に投げ捨てると、彼はナタリーを肩で押しのけてカバーをさらに剥ぎ取った。
「結婚する女が全員残らず処女なものか、出血しない女だっている。伝統ある小細工を弄してるんだ、黙ってみていろ」
左手の指先を下にさげて、真面目な顔で寝台をじっと眺めているイヴァンの意図が、やっとナタリーにも読めた。
ぱた、ぱたと赤いものが落下した。
「こんなものだろう」
二三滴落としたところでイヴァンは掌を上にあげ、甲でシーツを適当にこすった。
「…本当に、小細工だわ。何の意味があるのかしら」
ナタリーはようやく呟いた。
「だから、形式だからな。少なくとも血は本物だ」
イヴァンはにやりとして、傷口を確かめはじめた。
「見せてください」
ナタリーは、ガウンの袖を肘までおしあげると、イヴァンの左手を掌で包んだ。
力は浅くとどめたらしく、傷に沿って赤い玉が新しく浮かんではいるが、流れを作るまでには至らないようだ。
安堵して、ナタリーは彼の中指をそっと撫でた。
「……びっくりしたわ」
「これで一件落着だ。…目が覚めたかな?」
ナタリーは顔をあげた。
「え?」
イヴァンは珍しく、にやにやせずに彼女を見下ろしていた。
「お前が厭でなければ、ちゃんと『初夜』をしたいんだがな」



ナタリーは素直に彼の腕におさまった。
確かに眠気も、それからついでに疲れもどこかにすっとび、断る理由がなくなっていた。
まだ少し腹がたつが、イヴァンにあれこれ教えてもらっていると彼に腹をたてる筋合いでもないような気がしてきた。
儀式がややこしいのは彼のせいではない。
結局いつものごとく言いくるめられただけなのかもしれないが。
こうしてイヴァンにくっついて、その匂いや体温に包まれている時間も、共に味わう快楽も、彼女は決して嫌いではない。
…どころか、大好き、かもしれない。

「ナタリー、あまりそっちには寄るなよ。乾くまでは」
イヴァンは、『証拠物件』のある寝台の中央部分からナタリーの躯を引き寄せた。
寝台は広いから、たいして苦労はない。
「蝋燭はあのまま?匂いがきついと思わない?」
「ああ」
ちらりと、イヴァンは明るい色の目を、甘い香りを放ちながらあかあかと燃えている燭台に向けた。
「あのままでいい。初夜らしいだろ?」
ナタリーはその胸に額を押し当てた。脇腹に腕をまわし、深々と吐息をつく。
髪にするりと潜り込んでくる指先を感じて、ナタリーの胸は幸福感で一杯になった。


「…でも、明るいと恥ずかしい」
「目を閉じてればいい」
ナタリーは、イヴァンの寝間着に柔らかい頬を擦り付けた。撫でてもらうのも優しくしてもらうのもたまらなくいい。

初めての時にはこんなに甘い雰囲気などなかった。
蜜蝋の匂いも花の香りも、レースも化粧も関係なかった。
祝福も愛の言葉も、ただの会話すらなかった。
あったのは欲望と辱めと喘ぎだけ。温かく力強いイヴァンの躯は、彼女にとって恐怖以外の何者でもなかった。

だが、今傍らにいる男は怖くない。
辱められるのではなく可愛がられるのだとわかっているから、甘えたくてたまらなくなった。
悩まし気にかすかな吐息を漏らして、彼女はイヴァンの膝のあたりにガウン越しの脚を絡めた。
「おい」
イヴァンが小さな声で笑った。
「さっきまで怒っていたのに、なんだ?そんなに簡単に態度を変えていいのか?」
ナタリーはくすくす笑った。
「だって、変な気分になってきたんですもの」
髪を撫でていた掌の動きがやんだ。彼の抑えた興奮を感じ、ナタリーは嬉しくなった。
イヴァンの鼓動は少し速めだったが、自制を覚えた彼が好ましかった。

動きのとまったイヴァンの掌を捉えて彼女は頼んだ。
「さっきの傷を見せて」
半ば凝集した赤い粒はそのまま乾いていきそうだ。
甲をひっくり返してみると、しっかりとした腱にそってわずかに流れた跡が見えた。
ナタリーは口づけし、舌でその跡を舐めた。生臭く強い鉄の味がした。
「痛かった…?」
イヴァンは答えなかった。睫の影から見上げると、これも滅多になく神妙げな顔をしてじっと彼女を見つめていた。
「ナタリー…」
イヴァンは囁いた。
「変な気分のままか?」
「そうよ」
ナタリーは囁き返した。
「明るいのに?いつもは厭がるじゃないか…」
イヴァンはナタリーの頭を長い巻き毛ごと掴むと近寄せてキスを始めた。
舌が絡み合い、しばらく言葉が途切れた。

唇を放してイヴァンは告げた。
「嘘つき呼ばわりされるのもいやだから言っとくが、お前が目を瞑っていてもオレは開けてるからな」
「じゃあ」
ナタリーは、胸元に伸ばされたイヴァンの手をぎゅっと捕まえた。
「脱ぐのは嫌」
「……そうくるか」
イヴァンは少し酔っぱらったような目つきで、ふざけた、意地の悪げな微笑を浮かべて襟を押さえている彼女を眺めた。
「わかった」
「本当?」
イヴァンは、ガウンに包まれたままの彼女の細い腰を両手で軽く掴んだ。
「抜け道はいくらでもある」
その意味がわかって、ナタリーは目の縁をかすかに赤らめた。
このままで抱く、とイヴァンは言っているのだ。



仰向けにした彼女の胸の、絹地とレースの複雑なパターンに覆われた膨らみにイヴァンは視線を落とした。
袖に覆われた掌を探り当てて指を絡め、シーツにはりつけるように抑えると顔をおろしていく。
目を閉じたナタリーが喉の奥でくぐもった声をあげ、躯が小さく跳ねた。
細い刺繍糸のかすかな凹凸が唾液を吸い取り、互いの熱を伝え合う。
舐めても繊維の味しかしなかったが、その内側の絶妙なカーブは舌にわかった。
肌にも味があることをイヴァンは改めて知り、じれったさに少々眉を寄せた。
耳の上であやふやな声が漏れる。
繊細な舌の感覚にはあまりにも荒々しいレースの模様を、それでも丁寧に舐めてみると、ナタリーが今度はくっきりとわかる喘ぎをあげた。



唾液でぴったり張り付いた頂きの部分を舌の先で彫り上げはじめる。
彼女の腰が揺れた。くねるようにイヴァンの腹にすりつけてくる。
「ん…や…あん…」
控えめだがうっとりとしたその声が甘く鼓膜に響き、イヴァンはおもむろにもう一方に移った。
しゃぶりたて、舌全体で持ち上げてレースに支えられた重みを揺らすと、ナタリーは躯を波打たせて、ぞくぞくするような声をあげた。
たっぷり唾液を吸い取った絹は先端の赤みを透かせてしっとりしていたが、やはり実際の感触との差は天と地ほどの違いがあった。
「だめだ、じれったくてつまらない」
一息つきがてら、染まった耳元に教えてやる。ナタリーの睫が揺れ、褐色の瞳が現れた。呼吸が荒い。
「そ、そう…?」
「お前は良さそうだな」
イヴァンは、襟もとから潜り込ませた指先で乳房の熱さと柔らかさを楽しみながら囁いた。やはり、布越しより断然いい。
ナタリーはかすかに頷いて躯をまたくねらせ、顔を背けた。首がなだらかに弧を描き、上気した肌が露になる。
誘ってるじゃないかとイヴァンは思い、布地相手で欲求不満を訴えていた舌を満足させるべくそこに吸い付いた。
「あー……!」
うねる肩を押さえつけ、わざと音をたてて吸い、舌で唾液を塗りたくってやると彼女はとてつもなく淫らな声を漏らした。
「そこ、ダメ…あ…」
「黙れ」
地金の出た一言を囁き、イヴァンはうなじからレースに隠れかけている鎖骨まで、時間をかけて愛撫を続けた。
肌の柔らかさ、熱、そしてしっとりとした感触が、極上のレースも及ばない官能的な甘さを舌に届けてくる。
すべすべとしたなめらかさ。
唾液に潤い、舌に溶ける芳醇な香り。
ばらや蝋燭の刺激ではない。ごくごくかすかに塩の味の混ざったそれはナタリーのものだ。
「…よーくわかった」
イヴァンは顔をあげ、じっとできずに悶えているナタリーに言った。
「ナタリー、このガウンは脱いでしまえ。一つもいい事はない」
ナタリーは染まった顔をイヴァンに向けた。
潤んだ目の蕩け加減は、新婚初夜の新妻のものとは思えない。
「でも、約束したわ、このままって…」
イヴァンはいらいらと、胸のレースを閉じているリボンを外そうとした。
「約束がどうだろうとガウンを脱がない理由にはならん。まだその下に寝間着もある」
「それはそうだけど」
ナタリーは少々怯んだようだった。イヴァンの言葉は間違ってはいない。

「……でも……あ、ちょっと…!」
イヴァンが脇腹を掴んで指を素早く動かしたので、彼女はそのまま笑いの発作に襲われた。
「やっ、やだ、いやっ、あっ、だめ、イヴァ…」
躯を丸めて離れたとたんにガウンの袖を掴んだイヴァンに肩から抜き去られた。
くすぐってくる指を避けながらもとの位置に戻ろうとすると反対側の袖もあっという間にすり抜けていった。
彼女の夫はこういう反則技に長けている。
「このほうがいい」
イヴァンは満足げに囁き、レースの割合が減少して妨害物は薄い絹の寝間着だけになったナタリーの躯を抱え込んだ。
「わかったわ」
ナタリーは、降ってくるキスの合間に妥協した。
「でも…これは…脱がないから……わかった?」
「ああ」
イヴァンは頷いたが、指はまだ胸のあたりをまさぐっている。
ナタリーはイヴァンの顎を押し、息を弾ませながら指摘した。
「…脱がしてるじゃない」
「ちがう、ずらしてるだけだ」
襟もとをほどき、一方の肩を露にした。純白のシーツの上だと、上気した淡い色がよくわかった。
段々興奮を抑えるのが難しくなってきたイヴァンは、その肩に大きくかぶり付いた。
もちろん傷をつけないように、だが。
「やん…!」
ナタリーが声をあげた。あからさまに、甘えた声だった。
いつもはたとえ感じていてもなんだかどこかおさえぎみなのに、今夜はとても反応がいい。
照明の明るさは重要だな、とイヴァンは思った。
見られている恥ずかしさが大きくて、声を抑えるほうにまで注意が行き届いてないのだろう。



今後はどんどん灯りをともすことにしよう。
もう、下手をするとすねて口をきかなくなったり逃げたりされかねない愛人だの婚約者だのではない。
灯りがいやだの見られるのは恥ずかしいだのといっても簡単に離婚なんかできるものではない。妻には従順の義務がある。
ナタリーの綺麗な顔が羞恥に染まる様子を、イヴァンはその気になれば毎晩でも見て遊べるのである。
やっぱり正式に手にいれてよかった。彼は自分の判断に満足した。

可能な限り引き下ろした襟首の隙間から顔を突っ込んで、絹地の薄暗がりに隠れている小さな乳首に舌をかすめさせる。
肌の柔らかさともともまた違う、とても薄い感触は溶ける一歩手前のゼリーでできた菓子のようだ。
直接銜えることはできないので何度も舌を送り込むと、ナタリーは反らした背をシーツにこすりつけた。
その背を抱き上げるようにして、イヴァンはねっとりと舌を絡めて舐め続けた。
ナタリーの反応も可愛いし、舐めれば舐めるだけその結果がつぶらかに立ち上がり、震える。
楽しすぎる。
散々ナタリーをくねらせ、その躯が薄く光る汗にまみれはじめた頃、やっとイヴァンは顔をあげた。
濡れた口元をぐいと拭い、起き上がると彼は寝間着の裾を捲り上げた。
下着をおろし、硬くなったまま我慢させているものをつかみ出すと、半裸のナタリーをからかった。
「可愛いなぁ、お前の胸は。………ナタリー」
耳元に囁く。ぴくんとナタリーが反応し、喘ぎながらイヴァンを見た。
「裾をあげろ」
彼女は吐息を漏らしたが拒否はしなかった。
「…はい」
ナタリーは胸を弾ませ、イヴァンの視線をさけるよう顔を横にむけた。
イヴァンの腕から手をはずし、すんなりした指を自分の寝間着に絡めた。
繊細な絹の襞が揺れ、顔を伏せながら、彼女は裾を一巻き、するりとひきあげた。
ひきしまった膝までが露になった。
手で触れると一瞬背すじがこわばったが、彼が指の腹でほぐすように膝の周りを撫で回すと、すぐに余計な力は消えていく。
その様子を見ていると、イヴァンは頬が緩むのを我慢できない。

『初夜』がこんなに楽しいものになるとは想像もつかなかった。
相手次第では楽しくもあるのだろうが、そうでもない場合の可能性を考えると、イヴァンには、あまり期待できる儀式とは思えなかった。
好きな相手との結婚を望み、現実にそう努力するといった事を、彼女を手に入れるまでは想像もつかなかったのだ。
ナタリーが手中にとびこんできて彼の人生はかなり変わった。
付け加えるならば、彼女が今夜、右も左もわからないおかたい処女でなくて良かった。
もっとも、馴らしたのが自分だからこうも満足なのであって、そうでなければ相手の男を細かく刻んで殺しているところだ。

すんなりと伸びた太腿が半分露になったあたりでイヴァンはナタリーの手を掴んで誘導した。
彼女は目を開け、イヴァンがじっと自分の顔を眺めているのに気付くと再び視線を伏せた。
指のかたちの熱が昂りをなぞり、絹の重みを落としながら滑らかな脚が絡み付いてくる。
彼の腰の寝間着を、ナタリーのもう片方の手の指がたくしあげた。甘い声が震え、イヴァンの名を呼んだ。
彼女の名を囁きかえし、イヴァンは躯を傾けた。細い躯の背に腕をまわして絹地もろとも抱き寄せた。
片手で躯の線をこすりあげながら金褐色の長い髪に指をつっこみ、ぐしゃぐしゃに掻き回しながらキスをした。
期待通りに優しく彼を迎えた場所はこの上なく熱かった。

イヴァンは露になった彼女の肌に隙間なく唇を這わせ、絹に覆われた肌に指先を食い込ませた。
喘ぐ唇を吸い、舌を舐め、互いに吐息を交換しあいながら夢中で名を呼び合った。
苦痛ではなく快楽を分け合い、ナタリーの至福を垣間見た。
宥めも優しくもしなかった。煽り合い、求め合い、愛し合った。
彼女が何度絶頂に達したのか、何度声をあげたのか、数えもしなかった。

──ただ、イヴァンを求めて絡み付く、彼女の欲望だけを感じていた。




広い部屋は再び静寂を取り戻してうすい闇に沈んでいる。

寿命を全うした蝋燭と、潰れた花びらと香草と女の肌の甘い匂いがかすかに漂っていた。
天蓋に覆われた寝台の乱れたカバーとシーツの襞の合間には、もっと濃厚な、精と蜜の香が淀んでいる。
イヴァンは手探りで、乾いた血液の感触を確認した。
初夜を愉しんだことが一目瞭然のシーツの淫らがましい有様を眺め、彼は軽く眉をあげた。

「…別に、要らんかったかな」

その肩に、長い髪を放恣に雪崩れさせたままナタリーはぐっすりと眠りこけていた。
幸せそうな安らいだ顔はイヴァンと愛を交わしたからか、それとも深刻な睡眠不足を癒しているからか、その双方か。
手はしっかりと夫の腕に絡み付いたままだ。
上気の色の残る頬に唇をつけると、イヴァンはベッドカバーを自分と妃の上に引っ張り寄せた。
夜明けまでもうあまり時間がない。
怒濤の儀式は『全て』終わって今日は離宮に引っ越しだ。

満足の溜め息を漏らし、イヴァンはゆっくりと目を閉じた。





おわり


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