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ス・ロゼ

ナサ ◆QKZh6v4e9w氏

メルの住むス・ロゼは、とても大きい町の一部なのだそうだ。

一度はのぼってみたかった、教会の鐘楼のてっぺん。
風の吹き込むくりぬき窓からは、えんえんと続く屋根の連なりの果てに、かすかに、周囲を取り巻く灰白の平らな稜線が見えた。
きっとあれが話に聞く『山』というものなのだろう、とメルは目をみはりながら考えた。
「そこにいるのは誰だ?危ない、おりろ」
ほどいた鐘の紐を腕に巻きながら、気配に振り向いた老いた寺男が怒鳴った。
「なに、大きな山が見える?ばかな子だ。あれは市壁だ」
壁。
…ほんとうだろうか。
ス・ロゼの楼門が穿たれた壁はもっと低いし、家家と同じ濃淡のばら色をしているのに。
メルが驚いていると、都の壁だからずっと大きいに決まっとる、と老人は仏頂面で付け加えた。

「たくさんの屋根……」
メルは口ごもりながら、広い光景に見蕩れた。
寺男の老人は紐にとりついているから、闖入者を叱りつけたもののすぐには実力排除を行えそうにない。
彼はじろりとメルを睨んだ。
「どのうちにも、全部、人が住んでいるの…?」
「当たり前だ」
見える限りのこの屋根の下には、ス・ロゼ中の住人を全員あわせた何百倍もの人間が住んでいるのだ、と寺男は吐き捨てた。
そして、不思議な生き物を見る目つきで、小さなズボンをはき、シャツの裾をはみ出させているメルの顔を眺めた。
「待てよ。お前さんはたしか、となりで養われている子だったか」
「…うん」
「いくつになる」
メルは片手を出し、それからもう一方の指を一本付け加えた。老人は呟いた。
「大きくなったもんだ。だが、女に囲まれとるせいか、なんだか女の子みたいな顔になったな」

メルが返事に困っていると、烈火のごとく怒ったマダムが、館の下男を引き連れてはしごの下に現れた。
すぐさま鐘楼から引きずり下ろされた。
寺男に鐘の紐をひかせてもらえるかもと、ほのかに期待していたのだが。
あの、どっしりした壁に護られてどこまでも広がる屋根の波をもっとゆっくりと見たかったが、無断で教会に行き、無断で寺男とおしゃべりしたというのでマダムにきびしく叱られた。
「でも…」
メルは細々と主張した。
「あの人は、お坊さまじゃなかった……です」
マダムは眉を吊り上げた。棚の上から細い樺の枝を探り下ろす。
「寺男も同じです。それから口答えをしたね。手をお出し」

心躍る眺めに再び臨むことのできないまま三年がたち、メルは今年の冬には十歳になるはずだ。




教会のコウノトリの巣が見えるの見えないのの議論が、どうやって、自分の唯一のささやかな冒険である三年前のその話に移ったのかがメルには定かではなかった。
「たしかに、市壁はとても長いらしいわ」
それぞれの下着を配るメルのために躯を反らしながら、『お姉さん』の一人であるアンヌが上手に相づちをうってくれた。
メルはほっとして彼女に微笑んだ。
話が得意でないのは、自分でもよくわかっている。
「全部回りきるのに一日ではとても足らないんですって。馬でなきゃ無理って、いつかお客さんが言ってたわ」

「そんなのちょっと考えればわかるでしょ、だってここは王様がいらっしゃる都なんだもの」
同じく『お姉さん』のトリクサが、遠慮なく鼻をならした。
若くてきれいな娘だけどずばずばものを言うから、メルはトリクサが苦手だ。
「ス・ロゼなんて、ハンカチに刺繍針で突いた穴みたいなものよ。でも、ま、メルの場合、楼門から外は一人じゃ覗いた事もないんだったっけね」
都から少々離れた農村からこの館にきたトリクサは、事あるごとに物知らずのメルをからかうのが面白いらしい。
といっても『外』から来たのはトリクサだけではない──ス・ロゼしか知らないのは、確かにメルくらいのものだろう。

メルはへどもどして押し黙り、手にした籠の底から衣装棚に、今度は丁寧に畳んだハンカチを移しはじめた。
こんな時に、さっと気の利いた事が言い返せない性質である。

「しかたないじゃない。メルはまだ小さいんだから、トリクサ」
トリクサの横で、長い黒髪をブラシでときほぐしていた、同じく『お姉さん』のアリシャが口を挟んだ。
「もちろん、知ってるわよ。ある意味羨ましいわ」
メルの、ズボンの裾から踝が覗く細っこい素足を馬鹿にしたように眺めてから、トリクサは化粧を落とした唇を突き出した。
化粧台の自分の抽斗をあけてひっかきまわしながら、ぶつぶつ言った。
「あら、髪のリボンがまたどこかにいっちゃった。えーと、どこに置いたかしら」
「トリクサ。またなくしたの」
アンヌが吹き出した。アリシャがブラシを振った。
「しかも、いつもいつも、目立つリボンなのにねえ」
「そうよ。きっとしばらく使ってると足が生えてくるんだわ。でもいい、夜までに『外』に新しいのを買いにいくから」

メルも吹き出したいのをこらえて籠を抱え直し、化粧部屋からそっとすべり出る。
トリクサほど小さなあれこれをいつもなくす『お姉さん』はいやしない。
そのうっかり癖は他でも発揮されて、彼女はお代をツケにした後よく忘れているから、ス・ロゼ界隈の小間物屋から敬遠されている。
そしてトリクサのほしがるような田舎じみたリボンは、そもそも、王都でも名高い歓楽街であるス・ロゼには少ない。



メルの、正しい名前はメルロゼとか言うらしいのだが、誰も呼ばないしほとんど誰もがそれを知らない。
第一、それとても本名とは言えない。
彼女の本名は、『お姉さん』たちははおろか、実はマダムすら知らないのだ。
実際、メルの産みの母親が、我が子の名をつける暇があったのかどうかすら疑わしい。

九年前の冬の早朝、地区の境界ごしに隣接する教会と濃いばら色の壁の館の間の路地で泣いている生後数日の赤ん坊を、遊び帰りの男が見つけた。
鼻白んだ顔で赤ん坊を抱えた男が向かったのは、当然のごとく教会のほうだった。
だが司祭は、同じ教区の司教選出にむけた自薦活動に勤しんでいてあいにくの留守であり、
「捨て子だと?そんな事いって実はおまえさんの子だったりするんじゃないのか、この遊び人め。司祭様のお留守中に、勝手な事はできん。帰れかえれ」
と、まあ、寺男のくせにたいそう無慈悲な老人に、こう拒絶されてしまった。

腹がすいたらしく泣き声がだんだん大きくなっていく赤ん坊を、往生きわまった男が次に持ち込んだその先は、路地を挟んだ、一夜の夢を結んだばかりのばら色の壁の家である。
館の女将であるマダムも、およびではない赤子の世話の依頼など、即座に断った。
「うちの娘たちのならともかく、なんで、見も知らない赤ん坊の面倒を見なきゃいけないんですかね」



「うちの娘たちのならともかく、なんで、見も知らない赤ん坊の面倒を見なきゃいけないんですかね」
昨夜の客とはいえども一歩もひかぬとの勢いで男と渡り合うマダムをよそに、泣いている赤ん坊に群がり集まったのは仕事を終えた女たちだった。
「捨て子ですって、この寒いのに」
「かわいそうに」
「でも、かわいい」
「みて、小さな指」
女たちの暖かい腕に次々に抱かれると赤ん坊は環境が変わったのに気付いて泣きやみ、ぽっちりとした唇をさかんにもぐもぐさせはじめた。
「おなかが減っているのね。ねえジョアン、お湯を沸かしてきて。ミルクに混ぜて薄めるから」
「いいわ。ああ、誰か、おむつになる布を持ってない?」
女たちは子だくさんの家の出身者が多く、赤ん坊の面倒など、弟妹たちを世話してきた経験ゆえ手慣れたものであった。

お定まりのように、口論ではたちうちできなくなってきた男がロビーを抜けて逃げ出し、逃がさじとマダムが追いすがった。
鬼ごっこの体力勝負に移行すると、分がいいのは今度は男のほうだった。
玄関の大扉から、朝陽の中をみるみる遠くなっていく背にマダムが罵詈を投げつけ始めた頃には、赤ん坊はミルクを与えられ、色っぽい高価なレースのショールにきっちりとくるみこまれていた。
心地よさそうに天井を眺めている大きな瞳は遠い春の空のような水色で、女たちが我勝ちにあやしているのに気付いたマダムは卒倒しそうになった。
が、さすがに、厳寒の路上に戻せとは命じなかった。

赤ん坊は女たちの手厚い保護のもと、五日間幸せな日々を過ごした。



だが五日後、となりの教会に、留守をしていた司祭が戻ってきた。

早速、マダムは晴れ着を着込むと、その住居へと突進していった。
「たしかにうちとの間の路地だけれど、あの子は教会の壁際に捨てられていたんですよ。正確にはス・ロゼじゃない」
彼女は声高にまくしたてた。
「それを客が、こっちに断られたといって無分別にもうちに連れてきて。私の店が無垢な赤子を育てるに相応しい場所だとは、ご寛容な司祭様でもさすがに仰らないでしょう。
さあ、一刻も早く、こちらでひきとってくださいな。あの赤ん坊に必要なのは神様のお恵みです」

マダムの一方的な説明で片がつくと思いきや、あいにくなことにこの司祭は冷静な処理能力に恵まれた男だった。
彼は、息巻くマダムに、無理矢理に一旦お引き取り願った。
そして寺男の老人に当日の詳しいやりとりを聞き、老人と男のいざこざを窓から見ていた館の女たちそれぞれにも証言を求めた。
同日夕刻に改めてマダムを呼んだ司祭が語ったのは、かの赤ん坊が一人前の者になるまではそちらで養育費を負担するのが順当と思われる、という見解である。
「冗談じゃありません」
マダムは吠え猛った。
「絶対に、この教会の敷地にあの赤ん坊はいたんです。なんでそんな理不尽な」
「ほう。では、どうやらあなたの主張なさる境界と、当教会の認識しとる境界にはたっぷり路地一本分の隔たりがあるようですな。これは聞き捨てならぬ」
じろりと欲深げな目に晒されて、マダムは震え上がった。

この司祭は、自ら司教に立候補するのを見てもわかる通り、お上品が習い相場の聖職者にしては傍目を気にしないやり手として評判の男である。
下手をすると、この事件を奇禍として、言い分を逆手にとったあげく強引に館の一部を奪いかねない。
マダムは、ほほと笑ってごまかしつつ、急いで交渉の見通しを百八十度反転させた。
切り替えのはやい彼女の脳裏には、問題の赤ん坊の愛らしい色白の頬、濃い水色の目に、淡い金色の巻き毛が浮かんでいる。
考えてみればあの赤ん坊は素地がいい。
むすめになった暁にはきっとかなりの上玉に──いや、飾り立てれば、さらにさらに、上玉にできるはずだ。
押しつけられると思うから腹が立つ。
あの赤ん坊なら、娘になるまでにかかるだろう衣食住の費えの、元をとっておつりがくるくらいの見返りだって望めるだろう。
これは十数年後に花開く、いけ好かない強欲司祭からの滅多にない贈り物ととるべきだ。
……俗世で逞しく生き抜いている、マダムの思考は柔軟であった。
あるいはこれも、神様のお恵みであろう。


マダムは楚々として、質素な木の椅子に座り直した。
「…わかりました。あの子はうちでひきとりましょう」
司祭は眉を寄せた。
掌を返すがごとくあまりにも急に隣人の態度が変わったものだから、興味をそそられたらしい。
「なにかたくらんでおられるな」
彼は、机の上で組んでいた指を順番に動かした。
なんといっても歓楽街として名高いス・ロゼに隣接する教会を取り仕切る抜け目のない男は、マダムの気の変わった理由に即座に思い当たったと見えた。
「──いかぬ。肝心な事を確認するのを忘れておった」
太い声に、マダムは都合のいい未来の夢想から我にかえった。
「その赤子の性別は、マダム?男子ならばよし、養子にするも徒弟に出すも、あるいは下男にするもお好きになさるがよろしかろう。
だが、ただ生まれてすぐに捨てられただけが咎の無垢の女子を、成長後、万が一にもそちらのご商売に従事させるおつもりならばこちらとしても立場上むざと見過ごすわけにも参らぬ。
しかるべき尼院を紹介してもよろしいが」

マダムの笑顔が消えた。
だが彼女は一歩も退かなかった。
「ご心配は無用です、司祭様。あの赤ん坊は男の子ですよ。顔は綺麗ですけどね」
滑らかに言い放ち、マダムはドレスの襞をととのえつつ立ちあがった。
そうと腹を括ったからには、不毛な会話はとっとと切り上げるに限る。
「ご迷惑をおかけしました、司祭様。ではご機嫌よう」
司祭は声と同じく太い首を傾け、鋭い目を細めた。
彼の視線にこもる疑惑をひしひしとマダムは感じ、次の別れの言葉でそれは確信となった。
「その慈悲深い志を日々弁え直しておいきになるように。当教会も隣人のよしみとして、その赤子の行方はさやかながら末永く見守ることにしましょう。
代々の後任の者にもこの事は心にかけるよう、特に言い伝えることとします。そう、神に仕える我々に相応しい仕事だ──ご安心をな、マダム」



さて、この司祭は猛烈な活動の甲斐あって望み通り教区の司教へと昇格し、堂々隣の教会から去っていった。
後任の男はうってかわって学者肌のもの静かな坊主、とマダムはみたが、それでも、きっちり監視役を引き継いだらしい。
それとなく、メルと名付けられた赤子の様子を気にかけている様子である。
その背後に前任者の、今は司教の目がひかっているのは疑いの余地がない。

メルが女の子である事は館中の女たち誰もが知ってはいたが、マダムの厳しい通達で、彼女を男の子として扱わねばならない、というしきたりが生まれることになった。
そしてそのしきたりは、メルが愛らしい赤ん坊から天使のような幼児となり、さらに美しいこどもへと、
マダムが司祭の館で夢見た白昼夢、『ス・ロゼきっての美女』への過程を順調に歩む気配濃厚となっていくに従って、不文律ながらも鉄の掟となっていった。
館に入る新入りは掟を守ることを誓わされたし、出る時にも特にマダム直々、これを言いふらしてはいけない、と言い含められた。
同様の不文律に、『メルは一人で裏の教会に近づいてはいけない』、『特に坊主と口を利いてはいけない』などの、理解に苦しむものがいろいろあった。
が、女たちが年ごとに少しずつ入れ替わるにつれ、マダムしか承知していないその理由など、ますます定かではなくなった。
今では、メルが男の子、という扱いはほとんど習慣のようになっている。
だがそれでもメルが市壁を覗いた時のようにいいつけを破るとマダムは怒る。
そのたびに全員が──本人も含めて──なんでメルだけ、とは思うものの、いまさらその理由を根ほり葉ほり探るものなどいなかった。

九年という月日が過ぎ、教会の責任者はあの司祭から数えて三代目になった。
そろそろ監視の目が緩まぬかと期待してマダムは今度は助祭のこの聖職者を観察したが、どうやらもとは騎士の家の出身らしく、二代目よりもさらに隙のない男である。
天敵の司教は今ではなんと大司教に昇進して王都にどっかり腰を据えているし、マダムはその執念深い指示を考えると、最近むしゃくしゃするったらない。
メルが一人前の娘として初潮を迎える前に、短い金色の髪を美しく伸ばし、加えて、館の女としての教育も始めたいのだが。
ある日いきなりメルの見た目が変わったら、裏の教会から、尼院への招待状が届くような気がしてならぬ。

そういうわけで、いまだにメルは『館の雑用係の男の子』のままだ。
このごろ急に背はのびたけどまだこどもこどもしているし、胸もお尻もほとんど直線でできている。
館に出入りしている客の誰一人として不思議に思ってもいない──

──はずで、あったのだが。




小さな広場を人の後ろを選るようにして、手足の長い金髪の男の子が急ぎ足で横切っていく。
躰の前で組んだ両腕で大事そうに抱えているのは大きな紙袋で、中には色とりどりの砂糖菓子がぎっしりと詰まっていた。

メルは、広場の中央に位置する小さな水場で一息いれることにした。
『お姉さん』たちは砂糖菓子を買う時には必ずメルにわけてくれるから、このお使いは大好きだ。
あそこで買うのよと指定されている、ス・ロゼ界隈で一番美味しいと評判の菓子店は、館からかなり離れた場所にあるから、少々道草をする楽しみもある。
ここが、菓子店から館への道のりの最後に位置する広場だ。
メルは水場を観察した。
いつもにぎわう場所だが、まだ暑い時刻のせいか、水汲みをしている先客の女が二人ほどいるばかりである。
メルは順番を待ち、紙袋をぬらさぬよう上手に水を飲んでから、脇の段差に腰を下ろした。

この時刻、この場所から眺める広場の眺めを、メルはとても気に入っている。
ぐるりと円形に広場を取り巻いた建物は、窓枠を除き、ス・ロゼの他の町並みと同じく濃淡のばら色の石材やレンガで覆われた美しいもので、それぞれの商売を示す意匠を凝らした看板がつきだしていて目にも楽しい。
西に行くともっと大きな広場があってそちらには毎日市もたつが、メルは、館に近いこの小さな広場のほうが好きだ。
自分も小さいからかもしれない。
傾きゆく午後遅くの熟した陽が建物に当たり、広場全体が淡いばら色に輝き始めた頃、メルはふと、その声に気付いた。

水場の後ろには区分けをされた枡を支える低い壁があるのだが、その向こうでぼそぼそと誰かが話し込んでいる。
ちらりとそちらを覗き込むと、夏の短めのマントをつけ、その下に剣を帯びた騎士が二人、そして彼らの従者とおぼしき、こちらは夏にも関わらずフード付きのマントの男が一人。
ス・ロゼで騎士や貴族を身近で見ることなど珍しくもなんともないが、メルが興味をひかれたのは彼らの見た目と、実際に交わされている言葉使いのそぐなわさだった。
騎士のほうが、従者にひどく遠慮がちなのである。



「しかし、ナタリー様」
「オリヴィエ、その名を呼ぶなってば」
フードの影で編み込んだ金褐色の頭を振って、ナタリーは呼びかけた騎士を小さくたしなめた。
上から下まで地味な色合いの男物の衣裳をまとい、この暑いのに、顔を隠すマントをすっぽりとかぶっている。
きびきびとした口調までが堂に入っていた。

オリヴィエと呼ばれた若い騎士は、急いで周囲を見回した。
水場の段差で紙袋を抱えた子供が一人ぼうっと座っているだけなのを確認して、安堵したように、間もなく王子妃になる予定の貴婦人に向き直った。
衛兵の漆黒の制服を着ていなくとも、素性を知る者にはさもありなんと頷かせるような姿勢の良さである。
「…ナサニエル様、ここまで来てたしかに残念ではありますが、戻るには案外時がかかるものです。そろそろお戻りになるべきです」
「だが」
ナタリーは白い拳に視線を落とした。
色とりどりのビーズにびっしりと覆われた、一風変わった趣味の女物の財布が握られている。
「こんな珍しい財布をなくしたらさぞがっかりするだろう。もう少しだけ、オリヴィエ」
「ですが、実際にあの女が落としたのかどうかも定かではございません」
「わたしは見たのだ。確かにあの派手な緑色のドレスの人だった」
ナタリーは広場の一方の通りを指さした。
「あちらのほうに行ったと思う。…パトリスが鞘の先でさっきの陶器売りの棚を払わなければ確認できたのに」
「謝罪に手間取りましたからな」
ナタリーとオリヴィエから非難の波動を感じたのか、一歩控えていたもう一人の若い騎士、パトリスが頬をかすかに赤らめた。
「お言葉ですが、さきほどの路地はとても狭うございました、ナタ…」
「ナサニエル」
ナタリーはじろりとパトリスを一瞥した。
パトリスは慌ててさきほどの同僚の行動を繰り返した。
周囲をみまわし、相も変わらず少年しかいないのを見て安心した様子である。

「では」
同様に若いものの、パトリスよりは貫禄のあるオリヴィエが提案した。
「こう致しましょう。そこに食堂があります。その主人にでも落とし主探しを言付けて…」
「その主人の人品をお前は直接知っているのか?この財布はかなり重い。猫ばばしないという保障はどこにもないではないか」
ナタリーは身分には不似合いな疑い深さで提案を一蹴し、広場を一面に染める夏の陽射しに目をやった。
刻限が近づきつつある。
門に詰める兵士長との約束の時刻までには戻らねばなるまい。


「だが、確かにオリヴィエの言う通りだな。そろそろ戻らないと、アランに迷惑がかかる」
ふたりの騎士は勢いよく首を振って同意した。
ナタリーは声をひそめた。
「…最後に、あの通りだけ、探してもいいか。もしそれでだめならば無理はしない、必ず戻るから」
「そのお言葉を信じます」
目に見えてほっとしたようなオリヴィエに、ナタリーは頬をゆるめた。
凛としていた表情がみるみるやわらかくほどけた。
「ふたりとも、何度も我が儘を言って、すまないね」
「いいえ」
二人の騎士は、広場の陽射しに染まったように、少々目元を赤くした。



あの財布、トリクサのに似てる…。

メルは従者の若者が握っているごてごてとしたビーズの財布を気にしていた。
ビーズの財布なんてどこにでもありそうなものだが、トリクサの持っているような目が悪くなりそうな多色使いの財布はたぶんス・ロゼ中探しても二つとはないだろう。
水場の音に邪魔されたが、若者の、「派手な緑色のドレスの人」という言葉だけはメルにもしっかりと聞き取れた。
落ち着いた大人っぽい衣裳が好みの娼館の娘たちが多いこの界隈で、わざわざ派手な緑色を好んで着るのはやはりトリクサくらいのものだ。
メルはもう一度若者の手に水色の瞳を凝らした。
……同じ財布だ。
トリクサは、リボンを買いに『外』に行くとか言っていたのだし、きっとどこかで落としてしまったのだ。
『お姉さん』たちにもらえるはずの砂糖菓子を残らず賭けてもいい。

メルは顔を戻し、頷いた。
紙袋を抱き直して、立ちあがった。
知らない人に声をかけるための勇気を急いでかき集めた。
だから振り向いた時にはあの三人はとっくに水場から20歩も離れていた。

幸い、彼らの足は館へ通じる通りの方に向かっている。
「あ、あの」
メルは段差から飛び降り、慌てて後を追った。



まだ灯りを入れるには早く、かといって広場ほど潤沢に陽射しが入るわけでもなく、通りにはどことなくうらわびしい気配が漂っていた。
両脇に並ぶ建物の、それぞれの優雅なカーブを描いた入り口横に色ガラスのカンテラが用意されてあるのを見てナタリーが声をあげた。
「随分贅沢な町だね。表の作りも贅沢なら、どこもかしこも色ガラスだ」
「は、はぁ」
オリヴィエは気のない声を出し、困惑したようにパトリスと顔を見合わせた。
双方が同じ疑問を相棒の目に発見した。
(……ナタリー様は、ここがどういう町かを本当にわかっていらっしゃるのだろうか)
色ガラスを観察しながらさっさと足を進めるその細めの後ろ姿を観察するぶんには、わかっているようでもあり、全くわかってないとも言い兼ねた。
もっとも、わかっていないとしてもそれは無理からぬ話だ。
良家の子女がこのモレ地区こと通称『ス・ロゼ』に足を踏み入れることなぞ滅多にないし、だいたい今現に彼らがここをうろついているのも偶然のなせるわざである。



二ヶ月ほど前から、王子イヴァンの婚約者ナタリー・ド・ノシュワール公爵令嬢は王宮に部屋を与えられ、都に仮住まいしていた。
結婚した後継者は妃とともに国王王妃とは別居するのが古来からの決まりだ。
が、都における、婚儀までの手続きの準備と練習と本番、事前の顔見せや挨拶回りなどの行事量が半端ではない。
そのため、婚儀前の婚約者の仮住まいも、それに付随する伝統となっている。
王宮付衛兵隊長の命により、仮住まい中の未来の王子妃の護衛に割り当てられたジョン以下四名の衛兵は、あっという間に彼女の『騎士』に変身した。
もともと騎士身分の彼らに、重ねて騎士という言い方はおかしいかもしれない。
しかしこの公爵令嬢は清楚な美貌といいしっかりとした気性や優雅な振る舞いといい、下手をすると、夫となる王子殿下よりも王族に相応しい女性に見えたので、ジョンたちの単純な反応とても無理からぬ話である。


だが、二週間がたち三週間がたち、王宮内を犬のごとく忠実についてまわる彼らの目には、王子の婚約者の疲労が蓄積していく様子がはっきりとわかった。
王国有数の旧家の娘といえど(養女ということだが)、勝手の違う王宮で連日苛酷な日程をこなすのだ。
当然ではあるのだが、それでもナタリーは辛抱していた。
彼女の婚約者、つまりイヴァン王子がしっかりフォローできていればそのまま辛抱しきれたかもしれない。
だが、彼には彼単独の仕事や結婚の報告などの行事が渦を巻いて待ちかまえており、それもうまくいかなかったらしい。

五週間目、婚儀まで残るところ一週間のある日の午後、ついにナタリーの自制の限界がきた。
昼食後、ジョンや侍女を供に王宮の自室への長い廊下をドレスの裳を引いてしずしずと歩いていた時のことである。
ふいに絨毯の上でたちどまり、侍女を先に部屋に追いやると、彼女は振り向いて口を開いた。
「ジョン。みんなを呼びにやってください」
同じような年齢ではあるが一番衛兵としての経歴が長いため、ジョンがこの一団のリーダーということになっていた。
命令どおりに彼女の小さな衛兵隊全員が急いで集められ、自分よりかなり背の高い四人の顔を見渡して、ナタリーは小さな声で囁いた。
「…少し抜け出して乗馬でもしたいのだけど、だめかしら」
衛兵たちの顔に驚きの色が浮かぶのを見て、ナタリーは急いで訴えた。
「乗馬でなくてもいいわ。散歩でも買い物でも。なぜか知らないけど、なんだか、このごろ、真綿で喉をしめつけられてるような気がするのよ。夜もあまり眠れないわ」

確かに三日ほど前から彼女の顔色が悪いのは、彼ら全員気がついていた。
ジョンがおそるおそる言った。
「お言葉ですが、ナタリー様、ご婚儀は一週間後です。そのような暇はございません」
ナタリーは指を口元に持っていっていらいらと関節を咬んだ。
「わかってるわ。でもこのままだとわたし、今すぐあなたたちを連れたまま、吠えながら中庭を駆け回りそうよ」
ジュストという名の衛兵が吹き出しかけて、同僚たちに睨まれて口を押さえた。
一番若いパトリスがおずおずと視線を送るのでジョンは発言を促すよう首を振る。
「あの…私には、二年前に嫁に行った姉がおりまして」
「それがどうした」
「姉も結婚前にひどく沈みこんでいる時期がありました。前日になって、いきなり結婚をとりやめたいとか言うのです」
「なぜだ?」
「まあ!」
オリヴィエ衛兵の声をナタリーの叫びがうち消した。ぐっと小柄な身を乗り出し、パトリスに矢継ぎ早に質問する。
「それで?お姉さまはどうなさったの?結婚をとりやめたの?」
「いえ」
パトリスはどぎまぎして漆黒の制服の胸を反らした。
「家族全員で説得してなんとか結婚させました。今は義兄とむつまじく暮らしております」
「そう」
ナタリーは再び関節を咬みはじめた。

その様子をちらと心配げに見やり、オリヴィエが声を潜めてジュストに囁いた。
「その手の話は俺も聞いたことがある。…もしや、ナタリーさまは、“花嫁の気鬱”にかかられたのではないのか」
その囁きが聞こえたのか聞こえぬのか、ナタリーは指を咬みながら衛兵たちの前を気ぜわしくいったりきたりしはじめた。
ぶつぶつなにか呟いているので耳をそばだてると、
「…やっぱり、イヴァン様なんかと結婚したくないわ。今さら無理かしら。無理よね。わかってるわ。ええ、無理よ。でも……」
などと聞こえてジョンたちは青ざめた。
当然、無理だ。
いや、まさかこの優雅な女性が今更全てをぶち壊しにするとは思えないし、彼女の迷いが一過性である事は明かである。
ナタリーは、放蕩で評判だった王子殿下がこれまでの人生最大に惚れ込んで、成年に達する以前から連日の如く国王から押しつけられていた縁談も見合い話も顧みなかったのが嘘のように、めったやたらに婚儀を急いだ女性だ。
そしてナタリーのほうも、衛兵の傍目にも王子とは睦まじげに見え……
見えたのだが…
………。


上の身分の人の気持ちは、特に王の家族のそれは今ひとつわからない彼らである。
言うも畏れ多くあたりをはばかることながら、賢く治世を行う勇猛な国王様は、私生活では変人だ。
特に朝食の際に嫌いなゆで卵が出てくると片っ端から壁に投げつけている姿を見てしまうと、議会で天蓋つきの玉座に座ってヒゲをひねりつつ睥睨しているのと同じ人物とは思えない。
優しく良識的でおっとりしているような王妃様も、常時仕えてみるとわかるのだが、多少怪し気な点がある。
誰彼かまわず身近な者に自ら考案した素性の知れないハーブ茶をお薦めになるのだけは、できれば勘弁してほしい。先月は衛兵が二人腹を壊した。
聡明で頼もしい後継者だと重臣たちに期待されているイヴァン王子も、婚約するまでの傍若無人なアレさ加減はいわずもがなだ。
いったいどれほどの数の衛兵が、煙のごとく王宮を抜け出す王子に撒かれて護衛の任務を果たせず、生きた心地もせずに朝まで都を探しまわったことか。
一番上のコリーヌ姫様は病弱を除けば唯一まともに見えるのだが、もうすぐ北部の修道尼院に院長としてお去りになる。
できればずっと都にいらして、御一家をこれまでのように静かに抑えておいて戴きたいというのが、王宮付衛兵隊一同の忌憚なき、叶わぬ密かな願いである。
残りの王女様がたは同じく御病弱のうえいらっしゃるんだかいらっしゃらないんだかわからないくらい影が薄いので性格の把握もできないし、こんな一家に嫁として加わらざるを得ないナタリー様のお気持ちなど、どうも一介の衛兵ごときには理解できぬ。
彼女は女性で、彼らは男性でもあることだし。

だが、王族ではなく、男としてのイヴァンのほうの気持ちは彼らにもいささかはわかる。
あと一週間で待望の妃に迎えるまで彼女を追いつめ、いや──待ちかまえ──もとい、逃がさぬようおびき寄せ──。
…どう表現すれば主君に対して無礼にならないのかわからないのだが、とにもかくにも、たぶん天下晴れての婚儀を非常に楽しみにしている王子に今のナタリーの姿は見せられない。
我儘勝手が不治の病のイヴァンは当然、自分と同じように楽しみにしない彼女に対して腹をたてるだろうし、敏感になっているナタリーも過剰にそれに反応し、すったもんだの修羅場になるかもしれない。
そうなったらここは王宮であるから、当然、国王王妃の両陛下が介入してきて、混乱に拍車がかかるに決まっている。
冗談ではない。

ジョン以下四人の衛兵たちははらはらしながらナタリーの旋回運動を見守った。
ゆっくり100数えるほどの間は歩き回ったあげく、しおれた花のように首うなだれて、ナタリーは立ち止まった。
「…男の格好をすれば、危険も少ないわ」
泣くまいとしているかのように唇が震えている。無理を承知で言わずにはいられないらしい。
「この午後は礼儀作法のお勉強だけだし、それは夜にとりかえせると思うの」
衛兵たちは、ナタリーの哀しそうな顔から目を逸らそうとしたが失敗した。
「遠くにはいかないし、すぐに戻るから…一生のお願いだから……」
「ナタリー様、いけません」
ジョンがなんとか反対した。同僚たちの視線が一斉に彼の横顔に突き刺さった。
だが、一呼吸おき、彼は情けなさそうにその背を丸め、小さく付け加えた。
「……どうしてもいらっしゃるのならば、せめて我々をお連れください」
沈みこみかけたナタリーの顔色が一気に明るくなるのを、残りの衛兵たちもジョン同様、ほっとしたような、だが複雑な面持ちで眺めた。



偉丈夫揃いのジョンたちの私服では無理だったが、幸か不幸か年少の小姓の中に、ナタリーと背格好の似た者がいた。
調達された地味な衣装を着込んだナタリーは、フード付きのマントを羽織ると一見少年めいた若者のように見えてジョンたちは目を丸くした。
しかも妙に着慣れた風情なのが妙だ。
振る舞いもそれまでの楚々とした仕草が影を潜め、えらくあっさりとおおまかなものに変化している。
「ああ、そうだ。言葉遣いも揃えるから、みんな驚かないようにね。“男”なんだから」
ナタリーは、陰謀の仲間にひきこまれたお付きの侍女が急いで編み込んだ金褐色の長い髪を器用にフードに押し込みながら、間もなく王太子妃になる女性にしてはためらいのない表情でにやっと笑った。
その溌剌とした口調に、ジョンたちは丸くしたままの目を見交わした。
ナタリーの受けてきた変則的な教育などそうそう世間にあるわけもないから、深窓の姫君だと思いこんでいる衛兵がとまどうのも無理はない。


ぞろぞろと歩くわけにもいかぬから、怪しまれぬよう、四人の衛兵のうち若いほうから順に、パトリスとオリヴィエが供に選ばれた。
責任重大ではあるものの、現在の王宮衛兵隊は血筋だけではなく武芸に秀でたものでなければ選抜されない。
よって彼らは若くとも護衛に関しては実力者揃いであり、しかも今回の外出は非常に突発的なものなので、計画的に何者かに狙われる心配などもない。
ジョンとジュストと侍女たちは、ナタリーの数時間の不在に気付かれぬよう、部屋の前や内側を固めて場をとりつくろう役割を引き受けた。
都合のいい事に王宮の門を護る兵士長は、オリヴィエの父の数多い兄弟の一人──つまり、実の叔父にあたる男だった。
おかげで、出門の風体改めを受ける際、兵士達がフードをかぶったナタリーの顔を暴くことのないよう簡単に手配できた。
もっともたとえ親族といえども彼女の素性はあかせない。
よんどころない事情があり、絶対に叔父に迷惑はかけない、とだけ告げるにとどめた。
兵士長は、オリヴィエたちがなにか秘密の御用でも果たしにいく宮中の侍女を護衛するのだろうと勘違いしたらしく、帰城時刻厳守を条件に了承してくれた。

彼らが出門したのは午後半ば、あまり遠くに行けるはずもないがかといって王宮近くでうろうろするのもまずいということで、王宮前広場の片隅の馬車溜まりで一台を雇った。
都の中西部の河沿いに位置する植物園で降りた。
八月にも関わらず涼やかに晴れ上がった気持ちのよい日で、大樹の下に屋台がいくつも出ている。
パトリスに金を借りて自ら飲み物を物色しつつ、店番の軽口にナタリーが声をたてて笑うのを、私服の衛兵ふたりは周囲に気を配りつつも嬉し気に見守った。
傍目には、騎士のために従者が飲み物を買っているように見える。



一時間ほどして、そろそろ戻ろう、と言い出したのはナタリー本人だった。
「気が晴れた。ありがとう」
我侭を聞いてくれた衛兵たちに気を使ったのは明らかだったが、確かに彼女の表情はずっと明るくなっていて、オリヴィエたちは一も二もなく賛成した。
馬車を拾いに植物園北側の門に向かっている途中、ふいにナタリーが立ち止まった。
「あ」
衛兵たちは彼女の視線を追い、昼間にしてはきらびやかな緑のドレスに身を包んだ赤毛の若い女性が花壇の花をひとつ摘みとったのを見た。
甲虫を連想させる光り具合のドレスはともかく、顔だちは悪くない。
だが、全体の雰囲気はどこからどうみても貴族の子女ではない。
「…ご存知の方、でしょうか?」
オリヴィエの質問にためらいがあったのはそれが理由だ。
「いや」
ナタリーは答え、マントを翻して駆け出した。
そのあいだに、若い女性はきらめくドレスを揺らせながら、意外な素早さで北門から出て行ってしまった。
衛兵が素早く追いつくと、ナタリーが花壇の下生えから煌めくものを手に拾い上げている。ごたついた色合いの、総ビーズの財布だ。
「あの人、これを落としたようだ。パトリス、呼んであげて」
「は。……ええと」
若い衛兵は名も知らぬ若い女に咄嗟にどう呼びかけていいか迷い、門の外に光る後ろ姿を睨んだ。
「……と……止まれ!そこの、アオカナブンのようなドレスの、赤い髪の娘!お前だ!…こら!聞こえぬのか!」
緑のドレスはとっくに通行人の影に紛れかけている。
周囲の人々は、両手を握り顔を赤くして叫んでいる若い騎士を遠巻きにし、好奇に満ちて見守った。

ナタリーが軽く舌打ちして(オリヴィエはまた目を丸くした)、立ち尽くしているパトリスに囁いた。
「パトリス。……女性とつきあったことが、一度もないんじゃ?」
「は。なぜそれを」
我にかえったように言葉を返してくる衛兵に、ナタリーは唇をひき結んでみせた。
「正反対の人を一人知っているからね。わかるんだ」
オリヴィエが礼儀正しく割り込んだ。
「ナタリー様、娘が楼門を潜ったようです。あの先はス・ロゼですが…」
「ナサニエルと呼べ、オリヴィエ。…『ス・ロゼ(秘密を護る)』…?」
ナタリーの眉が問うように上がり、オリヴィエは目もとにちらりと狼狽の色を浮かべた。


「…通称です。本来は、モレ地区といいますが、その。えー、…通常、あまり、女性は立ち入らぬのです」
「ふうん」
ナタリーは、赤くなったパトリスをちらりと見た。
「幸い今はわたしは“男性”だし、急げばそう時間はかからぬだろう。追うよ、いいかい?」
いいかいもなにも、ナタリーの褐色の瞳は門の外の人ごみに向かい、手は握った財布を無意識のうちに軽く放り投げては受け止めている。
追う気まんまんだ。
オリヴィエとパトリスは視線を交わし、すっかり気鬱が治ったらしい彼女の歩みに粛々と続いた。



さかんにきょろきょろしている若者とそれに従者のごとくくっついて歩いている騎士、という奇妙な三人組に見え隠れについていきながら、メルはまた思い悩みはじめた。

さっきはトリクサの財布だと思ったけれど、もし…違ったらどうしよう。
あの人たちの様子は変わっているけれど、どうも領地から出て来た田舎騎士のようではない。
随分目の配りや身のこなしが厳しいし、もしかしたらなにかの役目についている人たちなのかも。

メルはマダムから「いーかい、余計な事に頭つっこむんじゃないよ。兵隊や坊主には気をつけるんだよ。お前は目立つんだから」と日頃口うるさく言われていることを思い出していた。
例の不文律というほどではないが、彼女を男の子と偽っているという弱みから、マダムはメルの行動を昔からびしびしとりしまりたがるのだ。
おかげで、メルは年齢のわりに引っ込み思案な性格である。
見た目もロマンティックな天使そのものの、線の細い容姿なのでいかにも弱々しい風情にみえ、時々館の客にからかわれている。
「捨てられていた?」……「あの子、男の子かね、マダム?」……「女の子でも、あんな顔をした子は滅多にいない」………「マダム、メルが男で残念だろう」
客の軽口がメルの性別に及ぶたびにマダムは壁越しに教会のほうを一瞬見上げ、慌てて笑ってごまかしているのだが、メルはその振る舞いが自分を護るためなのだと思っていた。
マダムはメルを、トリクサやほかの『お姉さん』たちのようにお客をとる仕事につかせる気はないのだろう。
どちらかというと誰かと話すことが苦手なメルは、それをありがたく思った。
お使いだの掃除や炊事の手伝いだの洗濯物の仕分けだの、雑用や小さな仕事を果たすだけの半人前の自分を養ってくれるマダムには感謝の念すら抱いているといってもいい。
まさか、正反対の理由で現在男の子のような格好をさせられているとは夢にも思っていない。

すれ違ったこどもが率いたうるさいがちょうの群れを踏まないように道の端によけて、メルが顔をあげてみると、奇妙な三人組は館の前で立ち止まっていた。
路地や別の方角にも目をやりながら、額を集めて相談している様子である。
従者の若者が館に顔をむけ、財布を握った腕を振りながら何かを熱心に提案しており、騎士たちはその主張にはあまり乗り気でないらしい。
トリクサは中にいる。
あの若者の勘は正しい。
メルは思い切って、彼らのそばに駆け寄ろうと──して、いきなり、ぐいと腕をひかれた。
その強さに驚いて、思わず悲鳴をあげようとした口を下顎ごと、骨張った掌で塞がれた。
驚きのあまり、大事に抱えていた砂糖菓子の紙袋が落ちてしまった。
滝のように石畳に流れた菓子を残し、半ば抱きかかえられるようにしてそばの路地にひきずりこまれた。

メルは水色の目を見張り、首をねじって、自分をおさえている人物を見た。
こざっぱりとした服に身を包み、細面にあごひげを蓄えた商人ふうの男だ。神経質そうな口のあたりに見覚えがあった。
館で何度か見たことがある。
『外』のどこかで、馬具かなにかの店を開いている男だという。
あの人は金払いはいいらしいけど、ところかまわずごみを落とすからあたしゃ迷惑だ、と、一緒に階段の手すりを磨いている時に掃除婦の老婆が愚痴っていたので覚えている。

路地の後ろの暗がりには、男同様、なんだか見覚えのあるような男たちが数人で立っていた。
腕を組んだり腰に手をあてたりしてにやにやしている。
通りからの斜めの陽射しに淡く輝く、メルの金髪に目をやって、あごひげの男が言った。
「お前は、あの館にいる雑用係の子だろう」
口を開くとかすかに酒臭かった。
まだ夕方にもならぬうちからもう一杯ひっかけてきたらしい。
たとえ顎をおさえられていなくても内気なメルには答えられなかったろうが、後ろの仲間たちが短く笑った。
彼らも全員、気分よく浮かれているらしいのに、混乱しつつもメルは気付いた。


「名前はなんといったかな。メル…マル…?」
「暗くてよく見えん。どれ、顔を通りに向けてみろよ、フランソワ」
男は頷き、メルの顔をさらに斜めにねじった。
仲間たちは相変わらず笑いながら近づき、じろじろと観察している様子である。
ぶしつけな視線が顔中にまとわりつくのが、メルにもわかった。
「うむ、見ればみるほどわからんな、こりゃ」
一人がうなった。仲間たちが口々に同意する。
「男の子にしてはどうも色が白すぎないか。よくよく見れば顔立ちも」
「これは、もしかしたらこいつが正しいかもしれんが。奢るのはごめんだ、フランソワは底なしだからな」
「だがマダムは男だと言っていたぞ」
メルを抑えつけているあごひげの男が鼻を鳴らした。
「触ってみると本当に細っこい子だ、ますます怪しい。マダムが勘違いしているか、あるいは嘘をついているかだと俺は思う」

彼らの会話が頭の上をとびかうのを聞きながら、メルは、なんとか自分のおかれている状況を推測した。
この男たちはどうやら全員館に来たことのある客で、ちょろちょろしているメルを見かけて、その性別に疑問を持ったらしい。
今日、一杯ひっかけて早々と館に乗り込む景気付けに、通りすがりのメルをつかまえて常日頃の疑問氷結を計ることにしたのだろう。
迷惑な話だ。
メルが男の子ならともかく、実際、本当は女の子なのだから。

「こうして見ていても埒があかん。早くすませて館に行こうや」
一人が口ひげをひねりながら言った。
「フランソワ、確認してみろ」
促されたあごひげのフランソワが頷いた。
顎から手が離れたので、ほっとしたメルは大きく空気を貪った。
次の瞬間、男の手が下腹部に滑ったのを感じた。
ズボンごしに握りこもうとするのを感じとり、メルは肺一杯に吸い込んだばかりの空気を、今度は勢いよく吐き出した。
笛のようにかん高い悲鳴がほの暗い路地の空気をつんざき、あごひげ男はその衝撃でのけぞった。
股間から手が離れ、急いでメルは身をもがき、腕を掴んでいた反対側の手をもぎはなした。

脱兎のごとく身を翻すメルの肩を、たちなおった男が再びつかもうとする。
またもや大きな悲鳴をあげ、メルは必死で腕をふりまわし、なんとか路地から飛び出した。

「待て、こら!」
誰が待つものか。

通りに飛び出したメルの瞳に、ものすごい早さでこちらに駆け寄ってくる騎士のマントが翻るのが見えた。
悲鳴をあげながら、メルも騎士を目指した。
本能的に、あの騎士は自分を助けてくれるつもりなのだとわかった。
とびついてきたメルの細い胴をひきさげるようにして自分の後ろに隠し、騎士はマントの裾を跳ね上げた。
剣の柄に手をかけたのだろう。
笑いながら路地からばらばらと踏み出してきた男たちの顔が、そのままに固まったのだから間違いない。

震えているメルの肩にそっと、誰かの掌が触れた。
振り返った潤んだ水色の目に頷いたあの従者の若者が、メルの躯をさらにうしろへと引き寄せた。
メルは急いで若者のフードマントにしがみつき、しゃがみ込んだ彼の温かな掌が肩から離れないのを感じて安堵した。
もう一人の騎士が、若者とメルを護るように、前の石畳に場所を占めた。
後ろからみる彼のマントが肘のかたちに張り出しているのを見て、この騎士も剣の柄を握っているのだとメルは思った。
通行人はまだあまりいなかったが、そろそろ玄関の灯火をいれようと出て来ていたあちこちの娼館の使用人たちがこの騒ぎに気がついた。
彼らはボロ布だの火打石だのを握りしめたまま、男たちを遠巻きにしはじめた。

「なんだ、今のただならぬ悲鳴は。こども相手に、おまえたちは何をしておるのだ」
男たちに対峙している騎士が低い声で尋ねた。
「かどわかしか。それとも強盗か」
「違います、旦那さま」
男たちの一人が慌てて首を振った。
「そのような怪しいものではありません!我々はただ…」
「ただ?」
「ただ……その……えー…」
男たちはもじもじとして互いの顔を盗み見るようにした。
説明しようとして、自分たちの行動が褒められたものではないことに初めて思い至ったらしい。


まだ震えているメルの小さな耳に、柔らかな響きの声が囁いた。
「大丈夫?」
メルは、自分を引き寄せてくれている若者の顔を至近距離から初めてみた。
ほの暗いフードの内側からじっと覗きこんでくる褐色の瞳と、美形の少ないわけでもない娼館育ちのメルにして生まれて初めてみるような繊細な造りの凛とした美貌に、彼女は震える事を忘れた。

この人、男の人の格好をしているけど、この人…
                                                         ……『も』、女の人だ。

若者、いや、若者の姿をした若い女性は、メルが濃い水色の目を見張ったのに気付いて微笑んだ。
「やっぱりわかる? ……どこか、変?」
メルは一所懸命首を横に振った。
変ではない。
その事自体は、たぶんメルがそうであるのと同じように変なことなんだろうけど、でも変じゃない。その人にはこの格好がひどく似合っていた。
「いい子ね。…叫んだのはどうして? あの人たちに、なにかされた?」
メルは、やはり一所懸命、今度は縦に頷いた。
目の奥から熱いものが溢れそうになり、我慢できずにしゃくりあげながら小さく訴えた。
「か、からだ、…触られて…」
女性の瞳がきゅっと細まった。
こどもにしても華奢な首筋に絡む半端な長さの金髪を撫で、線の細さに納得したように優しく抱きしめた。
メルは安堵に泣き出した。
この人に触られるのは全然怖くない。

宥めるように泣いているこどもの背中を撫で、やがて白い顔をあげると、若い女性は傍の若い騎士に囁いた。
「パトリス、この子は女の子だ。…憲兵を呼ぶべきではないか?」
騎士は、女性が立ち上がったのを目顔で抑えた。
「いけません、ナタ──ナサニエル様」
咳払いをし、ごく低く付け加える。
「…お微行が、ばれますよ」
「………」
彼女は、野次馬を背景に突っ立っている酔っぱらい男たちを睨みつけた。
「だが、癪に触る」
「ナサニエル様。正義の騎士の我々にお任せを」
前面の騎士が一瞬だけ振り向いた。落ち着きのある表情が崩れ、わずかににやりとしたようだ。
彼は大声で喋りはじめた。
「剣で手足の一本ずつも叩き折ってやれば、当分はこどもを怯えさせる気などおこらぬはず。手伝え、パトリス」
より若いほうの騎士が肩をすくめ、調子をあわせて大げさに溜め息をついた。
「何人ずつだ、オリヴィエ?」
「こちらの三人が私、お前は残りの二人でよい」

「だ、旦那がた…ご冗談……」
男たちの顔色が面白いくらいにどこかに失せた。
そこに騎士たちが、柄を握り直してこれみよがしに一歩足を踏み出した。
追いつめられたように素早く互いの顔を見合わせた男たちは、わっと悲鳴をあげると踵を返して逃げ出した。
こどもをからかったくらいの事で大事な手足を折られてはたまらない。
両腕をつきだして野次馬の垣根をかきわけかきわけ、彼らは酔っぱらいとは思えぬ速度で消えて行った。
もはやほろ酔いなどどこかに消し飛んでしまったのかもしれない。

「なんだい、あいつら」
「メル!おまえ、弱っちいんだから、酔っぱらいには気をつけるんだぞ」
野次馬から一斉に拍手と笑い声があがり、メルは若い女性のマントに隠れたまま泣き笑いの顔をあげた。
二人の騎士が彼女らの傍らに戻って来た。
「ところで、ナサニエル様」
オリヴィエの顔がいつもの表情を取り戻した。有能な衛兵のそれである。
「あのような者たちが出始める時間になりました。これ以上の寄り道はなりません。次々と脱線をしていては、叔父がやきもきいたします」
門番の兵士長のことだ。


ナタリーは、掌に握ったままの財布を思い出したように持ち上げた。
「だが、これは?」
「あ、あの、それ……」
三人の視線が、ナタリーのマントの畝に埋もれている金髪の頭に注がれた。
メルは注目され、はにかんだように頬を赤くした。
「…それ、トリクサのお財布です」
「まあ」
ナタリーはかがみこみ、メルの前で掌を開けた。
「知っている人のもの?」
メルが頷くと、ナタリーはさらに尋ねた。
「おうちはどこか、知ってる?」
すぐさきの濃いばら色の壁の館を指差すメルの肩に手をかけ、彼女は身軽に立ち上がった。
その勢いで空気をはらんだフードが肩にずれ落ち、メルのそれよりもずっと濃い、編み込んだ金褐色の髪が露になった。
「では、一緒に行きましょう。事情も説明しなければいけないし」
パトリスが急いで、ナタリーの注意を促した。
「ナタリー様、フードが…」
「ナサニエルだというのに、パト…」

「顔を隠せ、ナタリー」

騎士たちとは別の声が街路を渡り、ぎょっとしたメルは思わず若い女性──ナタリーというらしいが──にしがみついた。
大きくも威嚇的でもない低い声だったが、それを聞いたナタリーの躯がかっと熱くなったのをメルは感じ取り、心配げに騎士たちを見上げた。
愕然とした彼らの顔が同じ方向にむいている。
メルは視線を転じ、何者がそれほどナタリーと騎士たちを驚かせたかを知ろうとした。



全員の視線の先には、二人の男が立っていた。
さっきの酔っぱらいではない。
ひと騒動終わったとみてそれぞれの仕事にもどりつつある野次馬の後ろに、彼らは静かに佇んでいた。
明らかに主人とわかる上等な身なりの長身の騎士は、ナタリーと同じく、夏に似合わないフードつきのマントを纏っているので影になった顔はここからはみえない。
護衛と思しきもう一人の男はやはり長身の騎士姿だったが、こちらはメルを助けてくれた二人とよく似た気配を発散している。

メルを取り巻く三人が声もないのを見て取って、フードの騎士のほうがかすかに笑いを含んだ声を続けた。
「何を驚いている。迎えにきてやったぞ、ありがたく思え」
「イヴァ…」
ナタリーが声を漏らし、すぐに口を噤んだ。
メルの手を握り、彼女は、さっと身を乗り出した。
「オリヴィエとパトリスは叱らないでください。それに、そこのジョンも、それからジュストに、それから……」
「門番の兵士長と、それから口裏を会わせた侍女たちもだろう……随分たくさん泣き落としたものだな」
「まだ三時間くらいしか経ってないわ。どうしてこんなに早く案内してきたの、ジョン」
情けなさそうに金褐色の頭を振り、ナタリーは、相手の護衛の騎士にちらりと目をやった。
ジョンと呼ばれた騎士は慌てふためいた。
「申し訳ございません、ナタリー様、イ…いえ、その、……様が非常に早めにお戻りに…」
「案内役はこの男だけではないぞ」
ぴしゃりとフードの騎士が遮った。
「その格好は悪くないが、残念ながらお前には微行の才能がない。馬車溜まりで車を拾うなど言語道断だ」
言いながら大股に歩み寄ってくる。
「拾うなら流しだ。植物園でもすぐに屋台の親爺が証言した」
ナタリーの片方の腕を掴んで引き寄せかけ、そこでやっと彼女の反対側にメルがくっついているのに気がついた様子をみせた。
「なんだ、まだいたのか。こどもは早く家に戻れ」
「そうだわ。イ…、………あの」
相手の名を言いよどむナタリーに、メルは自分が部外者である事をひしひしと認識した。
誰もがこのフードの騎士の名前をあからさまに呼ぼうとしない。
なにか事情のある身分の男なのだろうか。


ナタリーは男の腕をさりげなく振りほどき、メルの肩に掌を置いた。
「お願い、この財布を届けて事情を説明して、そのあとこの子だけ家に送れば戻るから、もう少しだけ」
「オレには泣き落としはきかんぞ」
機嫌を損ねたらしく、フードの男の声が険悪なものになった。
素直に従わない彼女の態度を不快に思っているらしい。
メルは急いでナタリーのマントの裾を引っ張った。
身をかがめた彼女の耳に、つっかえながら囁く。
「あの、わたしの家は、ここです。……けんかをしないで」
「ここ?」
フードの男が耳聡く呟いた。
「それは都合がいい。ほら、その財布を受け取ってさっさと戻れ。早く行け」
「…あなたって方は、どうしてそう私の言う事を聞いてくださらないの」
ついにナタリーの声にも暗雲の気配が混じり始めた。
「こんなに簡単に私を捕まえたんですもの、それくらい許してくださってもいいでしょう」
「おい。オレがなんのために、無理をして早く戻ってきたと思っているんだ」
男の声も彼女の口調に反応して、いっそう低くなった。
「お前と一緒に夕食をとろうと思ってたんだ。このところ忙しくて、あまりいっしょにはいられなかったから」
「ありがとうございます」
ナタリーはつんと頭を持ち上げた。
「でも、一週間もすれば、いやでも毎日顔をあわせることになりますわ。そんなに急ぐ必要もないんじゃなくて」
「この物知らずめ」
男はイライラと口早に呟いた。
「式のあとは三夜ぶっつづけで外国の使節だの坊主だの議員だのとの宴会が続くんだ。簡単に二人っきりになんかなれるものか」
ナタリーは赤くなるとフードを被りながら身を翻し、メルの肩をそっと押して、館の方角に向き直った。
「さ、こんな人は放っておいて、早くお財布を届けに行きましょう」
「待て!」
周囲ではらはらしているらしい騎士たちの案じ顔を横目で見、怒りも露に頭からフードを払いのけた男の形相を見て、メルも心配になってきた。
が、こどもの上にとても内気な彼女には、当然ながらうまく口を挟む勇気も経験もない。



大扉から駆け込んできたメルとフード付きマントをかぶった若者を見て、ロビーに灯す蝋燭の配置を指図していたマダムは思わず声を荒げた。
「メル!お客様のご案内はお前の仕事じゃないし、一緒に玄関から入っちゃダメじゃな……」
だがその語尾は、メルたちに続いて竜巻のように踏み込んできた背の高い騎士の一団が目に入るや、口の中でもごもごと消えた。

「主人!」
先頭の、明るい色の目をした若い男が大音声に呼ばわった。
他人を支配しつけた人間にしかありえないような傲慢そのものの声音に、嫌も応もなく従わざるを得ないような気になったマダムはその前に転がり出た。
「女将か。失礼」
男は、ちっとも失礼とは思ってないような態度で呟き、腕をのばして、メルと一緒にいた若者の首根っこをむんずと掴んだ。
「この家で一番上等の部屋はどこだ」
「に、二階の、西の端の部屋でございます」
「二時間ほど借りる。女は要らん、誰も近づけるな。おい、ジョンだったか、部屋代はお前が立て替えておけ」
男は言い放ち、後も振り返らずに若者をひきたてて、ロビー中央の優雅な階段をどんどんあがっていってしまった。

「あ、あの…!旦那様、女は要らないって、その、うちは宿屋じゃ…!それに、その人、お、男…?」
あっけにとられ、マダムはその後を追おうとしたが、三人の騎士が素早くその前に立ち塞がった。
「なんの真似です!」
階段下に強固な壁ができたのを見て取ったマダムはヒステリーをおこしかけたが、騎士の一人がごそごそと懐から革袋を出して、無言で彼女の手に押し込んだ。
マダムは掌で革袋の重みをはかり、唇を歪めた。
「これじゃまだ足りませんよ。あの部屋だけならともかく、開店前で、三階にだって一人も客をあげちゃいないのに」
残りの騎士たちが、やはり無言で、揃って懐から革袋を出した。
合計三つの重みで、ようやくマダムは口を噤んだ。
うさんくさげに直立不動の騎士たちを眺め、マダムはロビーの端にたちつくすメルの涙で汚れた頬と、床に転がっているビーズの財布に気がついた。
「なんだいメル。あれ、それトリクサの財布に似てるね」
「そうです、マダム。あ、あの綺麗な人が、拾って届けてくださって…」
「綺麗な人?…さっきの、若い男の人?」
「いいえ、あの人、わたしと同じです。女の人……」
言いかけたメルにとびついて、重い革袋を押し付けて口を塞ぎ、マダムは後ろで聞き耳をたてている騎士の壁に愛想笑いをしてみせた。
「ほほほ、何を言ってるんだか、この子は」


「マダム」
壁の一人が声を発した。一番若い騎士である。
「その子はどうして、男の子の格好をさせられているのですか?」
マダムはメルの口を塞いだまま、たじろいだ。
「この子は男の子ですよ」
「いや。ナタ…いや、確かな筋から、その子は女の子だと聞いたのですが」
もう一人、一番背の高い騎士(ジョンである)が興味をそそられたように口を挟んだ。
「そうか。そういわれれば、女の子だな」
マダムは、メルの口を塞いでいた革袋を取り落とした。
若い騎士の言葉に衝撃を受けたらしい。
「確かな筋ですって…?」
マダムが反射的に、西側の壁の上をちらりと眺めたのが若い騎士──パトリスの目には、奇妙に映った。
彼女は視線を戻し、気もそぞろな様子で、結い上げた自分の髪を撫で付けた。
「それは、どちらからですか?……騎士様がたは、なにかあてにならない噂をお聞き及びで?」
「………」
パトリスとオリヴィエとジョンは、並んだまま互いに視線を交差させた。
マダムの様子はなんだかおかしい。

彼らが無言でいるのを見て、マダムの、髪を撫で付ける手の動きが早まった。
「……あの、騎士様がた……まさかとは思いますが、裏の教会に……お知り合いか、なにか……」
「ス・ロゼの裏手の教会?サノー地区のサノールヴァン教会だな」
オリヴィエが口を開いた。
「父の一番下の弟が、たしかこの春から助祭として赴任しておるが、それが?」
ジョンが感心したようにオリヴィエを見た。
「アラン兵士長だけではないのか。おまえの叔父はあらゆるところに入り込んでおるのだな」
オリヴィエは胸を張った。
「父は十二人兄弟、母とても五人兄弟だからな。だがルノー叔父は幸運だった。助祭の身にも関わらず、この教区の大司教様の信頼をとりつけることができ…」
その言葉が終わるのを待たず、パトリスは一瞬ふらついたマダムに急いで駆け寄った。
「大丈夫ですか、マダム」
マダムは差し伸べられた腕を押しのけ、オリヴィエを食い入るように見た。
呼吸が早い。
「大司教……じゃ、じゃあ、やっぱり…!」
「しっかり、マダム。…一体、どうしたというのだろう」
パトリスは困惑したようにオリヴィエとジョンを見上げた。

オリヴィエとジョンは眉をしかめた。
男の子の格好をさせられている女の子といい、それを隠す様子といい、異様にサノールヴァン教会を怖れる様子といい、さきほどからどうもこのマダムの言動は怪しい。
王宮に戻り、イヴァン王子とナタリー様のご婚儀が無事終わったらばすぐにルノー助祭と大司教に連絡をとり、事情を詳しく追求することにしよう。
彼らはそう決意した。




鎧戸の隙間から見えるのは、教会の薔薇窓の一部らしい。
藍色に染まりつつある空を背景に、背の高い尖塔の影が重なって見えた。

喘ぎをますますあおられながら、彼女は、イヴァンの頭を抱く腕に力を込めた。
鎖骨のあたりに鋭く吐息があたり、イヴァンはナタリーを抱いた腕に力を返してきた。そのまま耳朶に息の暖かさが伸び、首筋にキスが移った。
ナタリーは甘く声を漏らし、うねるイヴァンの背の肉に爪をたてた。
「……この強情者が…やっと諦めたか」

諦めたとか、そういうのじゃなくて。

抗議するのも難しいくらい集中力が乱れているのに、あまり物を喋らないでほしい──ナタリーは、ゆっくりと突き上げられながら、潤んだ瞳をぼんやりと天井に向けた。
複雑な梁と漆喰のコントラストの中に、夕映えの名残のばら色がまつわりついて揺れている。
「気持ちいいな、ナタリー……」
「………」
行為の最中にからかうのも、やめてほしい。
ナタリーは思わず反応した。目の前の彼の肩にかすかに舌を這わせ、もっと溺れたいと訴えた。
イヴァンが、喉の奥で小さく笑った。
「いいぞ」
イヴァンが腕をずらし、彼女の腰から太腿に掌を動かした。
掴んでひきあげ、腰に絡み付かせて、彼はナタリーの上に被さるように顔を近づけてきた。
「……もう、逃げるなよ」
でも、すぐ捕まるのはわかっていた、と彼女は思った。この行為と同じだ。
本気でその下から逃げたいわけではなく、だが、時折逃げてその気持ちを確かめたくなるような男に、人生を捕まえられている。
一週間もすれば、二度と逃げられなくなる。でもそれでも、もういい。
不安も、苛立ちも、憂鬱も、イヴァンが街路に立っている姿を見たあの瞬間に、全て蕩けて流れてしまった。

イヴァンが動きを再開する前に、ナタリーはその首にしがみついて、囁いた。
「ねえ、イヴァン様、ご存知ですか──」
「なにを?」
「秘密を護ると、お約束なさるなら、教えて、さしあげます」
イヴァンはナタリーの鼻の先にキスをした。
「よし。『ス・ロゼ』」
ナタリーは微笑を浮かべた。
「愛してるわ」
「なんだ」
イヴァンはにやにやした。
「オレのと同じだ。言ってやるから、お前も誓え」
ナタリーは、脚に力をいれながら、イヴァンの明るい色の瞳に囁いた。

「『ス・ロゼ』」



館を染めた夕暮れの最後の光は教会のばら窓に集まって、日中の余韻を聖堂の宵闇にとけ込ませていた。
これも神様の思し召しかもしれない。






おわり


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