低く霧が這っている。
躯が重く、疼痛に似た感覚がときおり意識を現実へとゆり戻した。
頬や顎の感覚が遠い。水面に浸した四肢も頭蓋の内側も例外ではない。
唯一熱を帯びた液体が外界の光を求めて、細く開いた目から脈打つように滴り落ちてゆく。
ミシェルが泣いているのではない。
危険を感じた『これ』が泣いているのだ。
泣いたって何の役にもたたない。
この数ヶ月でただ一つ学んだ現実を教えてやりたい。
だが、その機会を持つことを自分は望んではいない。
躯に脈打つ感覚が激しいものへと貌を変え、反射的に腹の下へと重い手足を引き寄せた。
小さく丸く、外界から身を隠そうとするかのように。
ミシェルは目を閉じ、何の役にもたたない流れを断ち切った。
*
用足しの口実が長くなった。
ジェイラス・ダジュールは、腰に括りつけた兎の重みを確かめた。
(いい事もひとつぐらいはなくてはな)
乾いた藪の小枝をかきわければ小気味よく音をたてて折れていく。
灰色の濃淡に沈んだ森の中を、縦横に刻むけものみちを利用すれば楽だろうに、彼はわざと薮を選んで進んでいた。
狼罠を怖れたわけではない。
戻る場所のつまらなさを考えれば、誰に迷惑をかけるわけでもないこれくらいの時間稼ぎは許されてしかるべきだろう。
行く手にひときわ大きな茂みがあらわれた。彼は喜び勇んで突っ込んだ。
手前の小枝の差しかわす角度が、シラー『閣下』の、体躯に似合わぬ尊大な口ひげそっくりに見えたせいもある。
薮は小鳥を数羽吐き出し、ジェイラスの手の甲にささやかな擦り傷をつけるとあえなく陥落した。
彼は笑いながら──二十九にもなるのにと兄やジャックが見れば呆れることだろう──獲物を揺らして立ち止まり、破壊の痕へと満足げに振りかえった。
その灰色の目が丸くなった。
惨めな藪の奥に、灌木に囲まれた池が見えた。水面を挟んだむこうは小さな空き地になっている。
その縁に、水の中に半分浸かり丸まっている人間の姿があった。
ショールが巻き付いているから女だと知れるが、その色がなければ目にはとまらなかったことだろう。
彼は急いで薮痕に再突入した。
池の縁を周り、倒れている女の傍にひざまづく。顔を寄せるとかすかな呼吸を感じ取った。
ジェイラスは兎が潰れるのを無視して剣帯を引き下げ、弓を首に廻し、力を込めて女を抱き上げた。
スカートはたっぷりと水を含んで重かった。
今度ばかりは薮は敬遠し、灌木の隙間をけものみちへと踏み分けはじめる。
*
野営地はジェイラスが出て来た時と比べると幾分活気を呈していた。
食器や毛布を抱えて荷車から荷車へと動き回る者、調達した薪を割る者。主人のおまるを抱えてもったいぶって歩く従者、汲んできた水を瓶に詰め直している男。
飼葉を担いだ馬番、同じ籠を背負ってついていく若い助手、焚き火の傍で横着に下着姿を晒している兵士、天幕の垂れ布を巻き上げて空の様子を窺う従軍坊主、道具を点検する大工の群。
塔に柊が絡まる意匠の連隊旗が垂れ下がる天幕の向こうの低い丘陵は、晴れかけた朝靄でまだらな灰色に塗りつぶされていた。
馬の尻からひり落とされる湯気がひときわ濃いことを除いては、いつもの朝の情景である。
ジェイラスは抱えたドレス姿に目を落とした。
女と名のつくものが入れば目立つ事この上ない男所帯に、死にかけているとはいえこの者を巧く隠しておけるとも思えない。
堅物の副官の顔があたりにない事を確認して安堵する。クレドーにみつかるとややこしくなるにきまっている。
(ジャックに任せるしかない)
彼は決心してほっとした。実は、決心するもなにも、最初から従者の助太刀を期待していた。
常設王軍の『塔に柊』連隊長という要職にあるジェイラスだが、戦場を離れればただの人である。
自分ではちゃんとしているつもりでも、ジャックがいないと場に相応しい衣服も選べておらぬらしいのだ。
もっとも、ジェイラス自身が(そのようだ)と弁えている点は救いといえるかもしれない。
彼はシラーの、『赤い木に金色の稲光が落ちかかっている』派手な家紋のついた天幕を避け、そろそろと野営地を迂回しはじめた。
シラーの天幕の傍ら──よりは『すこし』…いや、正直言って『だいぶ』…はっきり言うと『かなり』に離れた場所に設営された天幕の我が連隊旗──塔に柊──目指して歩みを進める。
幸いシラー『閣下』の天幕の傍は大量の荷物や随行者のための天幕で埋め尽くされており、野営地中央の広場にたむろしている兵士達の目からは、彼の不審な動きは隠されていた。
あと一息だ。
最後の柵に隠れるように、重く垂れ下がろうとする女のドレスを指でたぐり寄せて周囲の様子を窺っていると、天幕の後ろからせわしない呼吸の音がして、愛犬のマルメロとジッドが現れた。
短く口笛をふいて伏せさせる。主人にしっぽをふりつつも、彼らはうさんくさ気にスカートから滴り落ちる水の匂いを嗅いだ。
と、
「都まで用足しにお行きになったんですかい!」
聞き慣れた怒声がとんできてジェイラスは反射的に首を竦めた。
竦めた自分に腹をたて、怒鳴り返そうとして──口元を引き締める。いけない、今回はジャックと遊んでいる暇はない。
「静かにするんだ、ジャック。森でこんなものを見つけた」
天幕の杭に靴をひっかけないように腿を高くあげながら、童顔の眉間に皺を刻んだジャックが現れた。
主人の腕で意識を失ったまま丸まっている女に気付くと忙しく視線を上下させた。
「大きな兎ですな」
「冗談を言っている場合か」
「『もの』だなんて仰るから」
ジャックはぶつぶつと言った。手にはチーズの小さな塊とナイフを握ったままだ。朝食の支度を整えていたらしい。
チーズを傍らにいた犬に放り投げ、従者は黒っぽい目で素早く周囲を窺った。
「人目についてはいませんね」
「そのつもりだが」
「中へ」
ジャックはご馳走を一口に呑み込んだ犬たちを先にたて、ジェイラスを急かした。
*
ドレスの状況を見て取ったジャックが、急いで洗濯物用の布袋を重ねた。
「……………」
「……………」
袋の上に女を横たえさせ、それから主従はゆっくりと顔を合わせた。
「弱りましたな」
ジャックが口を開いた。ジェイラスは急いで言い訳をした。
「死にかけていたのだ、ジャック。冷たい池に半分はまってな。放ってはおけないだろう…」
「わかってますよ」
ジャックは主人の台詞を、面倒くさそうにさえぎった。
「そうじゃなくて、これは女です。女で、濡れ鼠です。この服を着替えさせるのはいったい誰なんですか」
「お前だ」
間髪いれず指名され、従者ジャックの暗い童顔はますます暗くなった。
「確かにジェイラス様よりは上手くやれそうです。ですが、私たちのような見も知らぬ中年男に介抱されるのは、この娘さんとしてはできれば避けたい事態でしょうな」
「一緒にするな、中年はお前だけだ。……なに?娘…?」
ジェイラスは灰色の視線を、横たわったままぴくりとも動かない影に向けた。
つやのないこけた頬はかすかに赤らんでいる。
言われてみれば確かに娘だ。おそらくまだ相当に若い。
池に浸かっている姿を見たときには、ジェイラスには到底娘とは思えなかったのだが。
「若い娘だったか…。うーむ、困ったな」
腕を組んだ主人を見上げ、ジャックはきれいにあたった顎を撫でた。
「しかし、こりゃ熱が出ますよ。顔が赤い。早く着替えさせませんと」
溜め息をつき、ジェイラスは組んだ腕を揺すった。
「仕方ない。麓の村に行って適当な女を探して来い」
「かまわんですかね」
──『閣下』に知られると、ジェイラス様のただでさえ芳しくないご評価が一層下がりますよ。
従者の黒っぽい目はそう語っていた。簡単に読み取れてしまう付き合いの長さに少々うんざりしてジェイラスはじろりと童顔を睨む。
「ここまで連れてきておいて、見殺しにはできんだろう」
「もちろんです」
ジャックは垂れ布を撥ね除けて冷たい朝日の溢れ始めた外へととびだしていった。
*
娘と判明した身元不明の女、加えて二疋の犬と共に天幕に残されたジェイラスは所在なく鎧櫃に腰を下ろした。
ざわざわと広場からざわめきが聞こえてくる。兵士たちはみな朝飯の時間なのだ。
従者の早い仕事ぶりを期待しながら待つうちに、うなり声とともにマルメロの耳があがり、それにあわせてジッドの鼻先がひくりと動いた。
娘が咳き込み、身じろぎをしている。
ジェイラスは立ち上がり、そわそわとあたりを窺ったが何も役に立ちそうなものがない。
それでも軍用の重い襟立マントが天幕の柱から下がっているのを発見した。鷲掴みにして娘に近づいてみる。
娘の頬ははっきりと赤くなっていた。呼吸のリズムも変な具合に乱れている。
ジェイラスは思い切ることにした。ジャックと村の女を待つ間に、少しでも思いつくことはしておこう。
彼女の喉の周りにはりついているうす汚れたショールを──もちろんたっぷりと水を吸っている──ぐいとひいた。マントを被せようとして、灰色の目が薄く細まった。
娘の耳の下に、かさぶたがはがれて間もない新しい傷跡が見えた。
その下に隠れるように、白く変色した古い傷も。
濡れた髪の束の影に回り込んだ複数の傷は、つやのない肌にひどく目立った。
「ジッド。マルメロ」
ジェイラスは犬を呼び、マントですっぽりと娘の躯を覆い尽くして傍らに座りこんだ。
警戒しながらも寄って来た犬たちを、娘の両脇に臥させた。
*
間もなく天幕に戻ってきたジャックは、犬と輪になって娘の足元に転がっている主人の姿に目を丸くした。
「ジェイラス様、マルメロとジッドに乳でもおやりになるんですかい」
ジェイラスは顔を顰めた。言うに事欠いてなんと失礼な事を言う奴だ。
「うるさいぞジャック。こうして全員で囲んで、少しでも娘の周りの空気を暖めるべきだと思ったのだ」
「そんなあほうな真似をするくらいなら、男らしく抱きついてやるべきさ」
ジャックの躰をつきとばす勢いで小さな老婆が入って来た。
「全く騎士様がたのなさる事はわしらにはわからない。これが病人かね。ほれ、さっさと外に出てくださいよ」
「こら婆さん、俺のご主人様にあまり無礼な事を言うなよ」
ジャックが自分の台詞を棚に上げて窘めたが、老婆は聞くそぶりも見せず、曲がった腰で娘の上にかがみ込んだ。
無視された形となり、従者は急いでジェイラスを捕まえると天幕の外に出た。
「なかなか早く連れてきたな」
ジェイラスが褒めるとジャックは当然という顔をした。
「村でまじない師をやっとる婆さんです。病人も診るし産婆も得意らしいです」
「いくらで買収した」
「口止め料をいれて銅貨を三枚。それと婆さん相手ですからね、フロマンテ用にとっておいた小麦を桝に半分ほど」
よくやった。そんな顔をした主人に、ジャックは肩を竦めてみせた。
「ジェイラス様の分けぶんからですよ。私のじゃありません」
だがジェイラスは、老婆が出てくるのを待つ間、従者としみったれたいがみ合いを楽しむことはできなかった。
「ジェイラス・ダジュール様」
かけられた声に振り向くと、赤い木に金の稲妻のついた緑のお仕着せを着た小姓が立っている。
「シラー様がお呼びです」
それだけ伝えると小姓はすぐに立ち去った。慇懃無礼な切り口上がこの野営地でジャックの主人が上官から受けている扱いを物語っている。
ジャックは小姓の背に反感と侮蔑を送りつけたが、もちろん口は挟まなかった。
「『閣下』がお呼びのようだ。あとは頼むぞ」
ジェイラスは水に濡れていささか色の濃くなった上着の前面に親指で触れた。ジャックが小姓に怨念を送るのに忙しくてそれに気付かないのを見て取って微笑した。
そのまま気の進まない足取りで、緑のお仕着せのあとを追っていく。
*
垂れ布を引き上げられて足を踏み入れると、やはり今回も、ここは野営地だったはずだがというとまどいがジェイラスの胸に淡くきざした。
彼のそれとは比べ物にならない規格の天幕には、ほの暗い柱の上部から、タペストリーまがいの長い極彩色のしきりが、何枚も重なり合って流れ落ちている。
正面を右に折れると──信じられないことに内部はいくつも仕切られた房になっているのだ──正面に、いつ見てもぴかぴかに磨き上げられている鎧と具足が据えてあった。
思わず顔を近づけてみたくなるようなその表面は冴え冴えとして美しく、歪みもへこみも何一つない。
最高級のサラク製品ではあるが、果たして持ち主はこれを何度身に纏ったことやら。
そうジェイラスは考えてかすかに唇の端を震わせた。
(あの体躯、いや、あの腹では相当な苦行だな)
「来たのかジェイラス」
不愉快そうな声と水音がクジャク模様のタペストリーの向こうからした。
ご自分が呼んだ事をもうお忘れのようで──と言ってしまいたい誘惑を堪え、ジェイラスは一瞬にして部下らしい表情を装った。
だんだん嫌になってきた作業だが、毎日繰り返していればかける時間も短くなってくる。だからといって楽しいわけでもないが。
しきりの向こうはこれまた華やかな色合いに溢れていた。異国の絨毯が、踵が沈むほど敷き重ねられている。
タペストリーはいわずもがなだが、ただし、房中央に据えられた大きな風呂桶から濛々とあがる湯気でそこらじゅうがぼやけてみえた。
多少時代遅れだが豪華なサーコートや衣服が順に衣裳櫃にうちかけられており、お気に入りの高そうな杖を傍に置き、彼を呼びつけたシラーは小姓に背中を流されて入浴の真っ最中だ。
──目が腐るぞ、この小男め。
ジェイラスは腹の中で罵った。『閣下』は、人を呼びつける時機も選べぬらしい。
*
シラーはこの野営地におけるジェイラスの唯一の上官である。
富裕な男爵家の当主と貧乏子爵家の次男に生まれた結果常設軍叩き上げの連隊長となった男との間にはそれ以外何の接点もない。
見た目も気質も、おそらくは考え方にも類似と呼べるものは何一つ見あたらない。
ジェイラスは体躯魁偉な血筋のダジュール家にあって珍しく中肉中背の体つきであるが、短躯出っ腹のシラーに比べると所作の全てに無駄がない。
鍛え方が違う。くぐり抜けた経験が違う。生き方が違う。
シラー司令官とダジュール連隊長の仲がしっくりいかないのはやはりそのせいなのだろうか。
人の心と行動との捩じれ加減を他人が窺い知ることは難しい。
たとえば小男のシラーが重々しく杖を振り、連隊長を従えて歩いていると、滑稽な違和感が強烈に周囲に漂うらしい。
そのたびに周囲の兵士たちがなにげなく目を逸らすからだ。ひどい奴になるとかみ殺した笑いに咽んで肩を大きく奮わせていたりする。
それを察知したシラーは包囲が初まってわずか二日で人前でジェイラスと並ぼうとはしなくなった。
だがそういう気まずさはともかくとして、シラーは国王の命でレヴュルの城を包囲する軍勢を率いる司令官である。
包囲軍はジェイラスの『塔に柊』、それから四十半ばのアルチュール・ゴラールが率いる『青猪』の二連隊で構成されている。
『青猪』連隊長はジェイラス同様経験豊富な軍人だが、年齢のせいかそれとも郷士の出だからなのか、圭角のとれた物腰の男だ。
連隊の構成規模は『塔に柊』が『青猪』より六百名ほど多かった。
司令官の滞在する本陣にはジェイラスの連隊のほうがふさわしかろう、とアルチュールは打ち合わせの時穏やかに言った。
というわけで彼とその隊はここではなく、城を挟んだ向かい側の狭い丘陵を本拠地として布陣している。
ジェイラスは連隊長として同格の彼ともども司令官を補佐するのが仕事だが、正直言ってアルチュールにしてやられたと思うのだ。
年の功だ。あいつはうまく『お守り』から逃れおった。
もっともジャックの意見では智恵は年齢には関係なく、ジェイラスのような人間には百年たってもつく見込みは少ないそうだが。
*
レヴュル城が包囲されたのは、城主である財務官クレール・ダンジェストの巨額の横領が発覚したためだ。
クレールは富裕な商人であり、名士として都の議員を務めているうちに有能な仕事ぶりが王の目にとまった。
強い引き立てを受けながら順調に頭角をあらわし、ついには王国の首席財務官にまで上り詰めた、立志伝中の人物である。
それが、であり、まさか、でもあり、人によってはやっぱり、との耳打ちが王国中を駆け抜けた。
ことによると横領だけなら、大様なところのある王に対してまだ申し開きができたかもしれぬ。彼の才能は非常に寵愛されていたからだ。
だが粉塗のための計画的な書類改竄の証拠があがってみると、その書類処理の杜撰さが、信頼を裏切られた一刻者の王の怒りをかき立てた。
いやしくもこの自分の任を受けた人物であるからにはもっと巧妙に立ち回るべきではないのかという、まことに理不尽な怒りである。
もちろん即座に王の召喚がかかったがクレールは現れなかった。
そればかりか彼は妻子や一族を都に見捨て、王に賜った東部の城へ留守居の防御隊とともに閉じこもった。しかも翻意を促す使者すら門内に入れず、自らも会いもしないという横着さである。
相当腹をたてたのだろう。王はついに城の攻略と財務官の『生きての』捕縛を命じた。
人は見かけによらぬもの、の言葉を地でいくような、人品才覚ともに高いと噂されていた財務官の凋落は王国にひとかたならぬ震撼を及ぼした。
だが、それはそれでありこれはこれである。
常設王軍が実際にやるべきことはいつもと何のかわりもない。
包囲戦ならなおのことである。高みを選び野営地を築き、街道と間道を全てかため、密接な連携を保ちながら徐々に補給を絞っていく。
それというのもレヴュルの城は古来からの要害にあたる切り立った尾根にあり、大人数で攻めたてればそれで終了といった物件ではなかった。
規模からいうと小城ではあるものの、もとは南部への街道を護る堅固な砦であったのだ。
だがいつかは備蓄物の費えに耐えかねて陥落するであろうし、囲まれたからといって城方が押し出してくることもない。
防御隊は少人数で、しかも城主は軍人ではないのだ。
だから一応体裁を整えてジェイラスたちの野営地を囲っている柵なども役立たずな事このうえない。
現に、おそらく使うことのない攻撃と防衛に関する施設の種々を作成したあと、大工たちは修理に必要な人員を残して明日から、少しずつそれぞれ近在の故郷の町に戻ることになっている。
正直言ってジェイラスにとってこの任務はさほどの感興のあるものでもなかった。
なにも自分がついている事はないと思う。
国境での小競り合いに事欠いているわけでもないし、もっと凶悪な反乱者だって、こうしている間にも現れないとは限らない。
ジェイラスが傲慢なわけではない。
彼のこれまでの経歴、つまり軍歴を見れば誰にも明らかなはずである。
だからこそたいしたコネもない場所で、貧寒の田舎貴族の次男の身でありながらそれなりの頭角を現しているのだ。
だがジェイラスがつけられたその理由は、都出発の五日前になって明らかになった。
アルチュールと並んだ目の前に包囲戦の司令官だと紹介されたその小男は、大きな口ひげをつけて腹の出た──そう、シラー男爵であった。
挨拶に引き続く三秒間で、連隊長の二人には全ての事情が呑み込めた。
「バナレット侯爵と私の母はいとこでね」
この小男は常設軍名誉元帥の親族なのだ。シラーは、戦場ではとりあえず閣下とでも呼びたまえと鷹揚に言った。
「君たちが一番…なんといったか…そう、よけいな係累が少なくて邪魔になら、ではない、頼りになる軍人だと聞いていたので頼んだのだよ」
ジェイラスとアルチュールは小男の頭上で、互いにだけ通じる温度の視線を交わした。
彼らとてこの手の上官にあたるのはこれが初めての経験ではない。
豪奢と贅沢に甘やかされた体型のこの男に限らず、名ばかりの騎士のくせに暇を持て余したあげく自分専用の名誉を求めはじめる富裕な貴族は多い。
その場合彼らが欲しいのは華やかに目立つ役回り──今回の、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった首席財務官の捕縛劇は、願ってもない大舞台だろう。
恣意的な人事の典型ゆえ今回も面白くもない目にあうに違いない。
こういう上司は気位が高く戦場の常識を知らず分を弁えず部下の権限を侵し上官風をふかしたがるものだ。
ジェイラスもアルチュールも、互いの目の中に新しい上官への嫌悪を認めた。
まともな連隊長なら当然だろう。
*
「…村に従者をやったそうじゃないか」
不快げにシラーが口を開いた。
ジェイラスが黙って突っ立っているだけなので、自分から話を始めなくてはいけないのが面白くないのだろう。
先刻の事がもう知れている。
ジェイラスはたいして驚かなかった。朝食時で広場には兵士が多く出ているのである。誰一人ジャックを見ていなければある意味危うい。
ただ、シラーも知っている点だけには少々感銘を受けた。当たり前にできる事もあるらしい。もっともこの感想は上官に対して無礼なものかもしれないが。
「熱い。もっとゆっくり注ぐのだ」
シラーは風呂桶に湯の壷を傾けている小姓を怒鳴りつけ、湯気で垂れ下がった口ひげの角度を気にしながらジェイラスに目を戻した。
「問題は、ふたつある。まじない師の婆さんらしいな」
「よくご存じですな」
ジェイラスはぬけぬけと頷いた。
「私用のクリームを村まで調達に行く召使いが知っておったのだ。ここには軍医がいるだろう、何故わざわざそのような者を呼ぶ。それにもう一つだが」
シラーは湯に波をたててジェイラスに向き直った。
「あそこは城の麓だぞ。こんな朝っぱらから、もしや、あの元財務官めになにか関わりがある事なのではなかろうな」
「ほう」
ジェイラスはかすかに眉をあげた。
「『元』ですか」
クレール・ダンジェストが王と評議会の名において職を解かれたとはまだ聞いてはいなかった。シラーは鼻から太い息を吐きながら湯船に沈んだ。
「『元』で当然の扱いだ。あの成り上がりの反逆者めが」
「何も関わりはありません。今朝がた、森で行き倒れを見つけたので救いました。それだけです」
シラーは湯気の奥の目を光らせた。
「行き倒れ?どんな奴だ」
「農民です」
ジェイラスはうす青いショール、荒い生地のドレスを脳裏に甦らせた。あれはたぶん、自作農の娘だろう。
「年は。年よりか。若者か」
「十五・六かと」
痩せた頬のせいもあるが、よくよく見れば顔つきはまだ未熟だった。あの娘の髪を覚えていないことにふと思いあたる。何色だったろう。
「若くとも油断はならんぞ。間諜やもしれぬわ。で?軍医を呼ばなかった理由は」
シラーは不満そうだった。
ジェイラスはわずかに目を逸らした。富裕貴族の例に漏れず、この小男も人後に落ちぬ女好きだと聞いている。
「軍医というものは傷兵の手足を切り落とすのは得手ですが、病人の世話には向いておりません。それが理由です。では失礼」
返事を待たずに踵をかえすと、シラーの、湯気で拡散した声が追いかけてきた。
「ジェイラス」
足をとめる。
「この件で、私には一切迷惑をかけるなよ。いいか」
「ご心配には及びません──閣下」
ジェイラスは答えた。むかむかしていた。
「責任は私がとります」
*
二十歩の距離を十四歩で突破したジェイラスの眉根を寄せた顔を迎えたのは、負けず劣らずの渋をまぶした三十男の面構えだった。
「死んだのか」
思わず尋ねたのはジャックの暗い視線のせいだ。彼の従者がこんな目をするときはろくなことがない。
「縁起でもない。熱は高いですが生きてますよ」
ジャックは主人の袖を引っ張って天幕を裏手に回った。ひょろひょろとした頼りなげな木が二・三本絡み合っている。
その下で、ジェイラスは従者の手をふりほどいた。
「なんだ」
「婆さんは、街道の出外れまで送りました」
ジェイラスは頷いた。従者がなんとなく視線を伏せているのが不吉な感じだ。
「よし。で、どうした。なにか気に掛かることがあるのか?」
「はあ。あの娘、身ごもっているようですよ」
いきなり耳元で大声を出されたように、ジェイラスはびくりとした。
「なに?」
「痩せ細っているからわかりにくいが、腹に赤ん坊がいる、と」
ジャックは無愛想に言い直した。
「しかもその腹も背中も刃物でつけた傷だらけだそうで」
脳裏に、さきほど確かに見た、折れそうなうなじをとりまく傷跡が浮かんだ。胸が悪くなってジェイラスは木の幹に寄りかかった。
「そんな躰で池に浸かっていたのか」
「……ふしだらのあげくの、身投げですかな」
ジャックが鼻の付け根に筋を入れた。そうであってくれという寄せ方である。
ジェイラスは首を振った。
「身投げにしては思い切りが悪かった。上半身からのめるように浸かる方法はあまり聞いたことがない」
「それでは、どこかの農家の若奥さんが山賊にでも襲われて気を失って倒れていたというのはどうです?」
ジャックは自分でも全然信じていないだろう筋書きを繰り広げた。
ジェイラスは首を振った。
「あの娘の服は血で汚れてはいなかった。それに確かに痩せ細っている。お前も見たはずだぞ、ジャック」
主従は無言で、天幕に視線を向けた。
「私は思うのだが」
ジェイラスはためらいながら付け加えた。
「婆さんの見たその腹の傷は幾重にも重なっていたはずだ。…首と同じならな」
「…荒んだ人間のやる事ってな、どいつもこいつも代わり映えのないもんですなぁ」
ジャックが重いため息をついた。いやいやながらもいつも通りに現実を見つめることに決めたらしい。口調が厳しかった。
「傭兵だかなんだか、きっとろくでもない獣どもにとっ捕まったに違いありませんや。連れ回されて虐められた挙げ句、病気になっんだか飽きがきたんだかで捨てられたんでしょう」
「………」
ジャックの推測は当たらずといえども遠からずといったところだろうとジェイラスも思った。
常設軍は金を喰う。
近隣諸国では群を抜いて裕福なこの国においても必要な兵力全てを王軍だけでまかなうことはできず、大規模な戦時には未だ傭兵を雇っている。もちろん他国は言わずもがなだ。
そして戦時の傭兵は平時には民にとっては迷惑なものである。国境付近の農村地帯で略奪行為を働く傭兵は多い。なにかあればすぐに国境の森に逃げ込むのだ。
傭兵ばかりではない。世の中には野盗もいえばならず者もいる。
また、領主への納税や疫病戦その他の理由で農耕地を維持しきれず遺棄者となり、生きながらえるために悪事に手を染める者たちもいる。
彼らは食糧や衣服や家財や装飾品、家畜や女などを奪う。凶暴なのになると必死の抵抗を試みる共同体に、腹いせや嫌がらせに火を放ったり皆殺しにしたりする。
抱き上げた時は重いと感じたが、あれは荒い布地が滴るほどに吸いこんだ池の水のせいだったのだろう。
虐待の証らしき傷だらけのやせ衰えた躰で身ごもり、氷水の中に倒れ込んでいた娘。
この時代、あかの他人がすぐにでも見当をつけられるほどにありふれた悲劇の生き見本が、今あの天幕の下で横たわっている。
「都にいてはわかるまいな…」
ジェイラスは呟いた。脳裏に一瞬シラーの顔が浮かんだのが我ながら嫌だった。
ジャックが咳払いし、主人の注意をひきつける。
「で、どうなさいます。婆さんは解熱薬を置いていきましたが」
「薬か」
彼はジャックの顔を見た。
「急に呼んだにしては手回しのいいことだ」
従者は素知らぬ顔で、朝日を浴びて立っている。
「ジェイラス様」
天幕を見ながら中年男は囁いた。
「…またご病気が出そうなんでしょう?」
「お前がこうやってそそのかすからだ」
そう答えたジェイラスの灰色の目に、肩を竦めるジャックの童顔が映った。
「ですが今回も、拾っていらしたのはジェイラス様なのですよ」
*
ぽっかりと浮かび上がった場所はひどく明るい。
純白の光が四方八方から降り注いでいる。瞼を閉じているのたが、それでもまだ眩しかった。
ミシェルは息を潜めて明るい瞼の中で周囲の気配を窺った。じっと、じっと、そのまま身を潜めてみる。
誰も近寄ってこない。何も伸びてこない。私は一人だ。
安堵のあまり力が抜けた。そのまま糸が切れたようにミシェルはまたうす闇に呑まれた。
次には目を開けている自分に気付いた。
まばゆいほどの光は失せ、視界を穏やかに照らしているのはなにかの台にのせられている、蝋燭の安定した炎だった。
おかしい、とミシェルは思う。男たちが使っていた安物のそれはいつも炎が歪んでいた。保ちも悪ければ煤もひどかった。
なのにここにはいやな臭いも燻す煙も立ちこめてはいない。
どういう事だろう。
そう考えてミシェルの意識は途切れた。
次にまた唐突に目を覚ました。蝋燭の数が増えているようだった。
「まだ目を覚まさぬかな」
男の声だ。びくつきながらミシェルは辛うじて意識を立て直そうとした。
いつも、寝たふりをしていると必ず殴られた。
ミシェルの望みは一人で横たわっている事だけだ。殴られたくなかった。何もしないから、殴らないで欲しい、何もしないから……。
「熱はまだ高いようです」
他の男の声がした。ミシェルは怯え、瞼をおしあげる努力は続けつつも心の殻に閉じこもった。
怯えたまま、何かが起こるのを待った。何かが起こるはずだった。ミシェルはいつも誰かと一緒にいさせられたからだ。
だが何も起こらない。いくら待っていても誰も彼女に近づこうとはしなかった。
ミシェルは再び安堵した。
途端に意識がほどけはじめ、彼女は辛抱強く背後で待っているうすい闇に倒れ込んだ。
*
最後に目が覚めると、唇が乾ききっているのがわかった。
ミシェルはぱちりと目を開け、自分の上の天井に初めて焦点を合わせた。伸びやかな波のように、ほの白い布が優雅なカーブを描いている。
その波が不規則に揺れていた。天井が布『だけ』であるらしいことにミシェルは気付いた。
風の音が低く唸っており、荒れ模様を思わせた。
背に感じるのは寝台……なのだろう。洗い晒したシーツをかけただけの狭くて硬い藁マットだが、生まれてこのかたそれ以上のものに横になった事のない彼女には随分立派に思えた。
動こうとして背中や肩がすっかりこわばっている事を知り、躰の上に厚手の毛布が掛けられていることに驚いた。
ここはどこ。
ミシェルは声を出そうとしたが、妙にかすれた音しか出ない。
焦っていると布が擦れる音が軽く宙に響いた。ひたひたといくつもの柔らかい音が近づき、せわしない呼吸がするところをみるとその主は人ではなく動物らしい。
犬か、猫か、それとも…考えている彼女の耳に、布が擦れる音が再び響いた。
「ジャック!気がついたぞ」
ぼんやりしている時に聞いた声とは思い出せなかった。だが絶対にあいつらではない。
深く安堵し、発音と抑揚から、身分の高い人のようだ、とミシェルは感じ取った。
頭を巡らせて声の方へ視線をやろうとしたがひどく億劫でそれができない。
足音が近づいてくる。酔っぱらった人間の重いそれではなく、頭に血が上った人間のそれでもない。
足音はふたつあった。きびきびしたものとややゆっくりとしたもの。
その音は寝台の傍で止まった。
大ぶりではないが肉厚の掌が額に触れた。乾いた表面から漂う匂いはあたたかかった。
一瞬全身に力が入ったが、その掌が動こうとしないことで彼女の躰の緊張はほぐれていった。
熱を吸い取るかのようにしばらくミシェルの額を癒し、その掌の圧力はふいに去った。
「さきほどよりは下がってきたように思います」
「そうか、良かった」
一人の声は、細かな点は違うもののミシェルにも馴染みのある感触だった。ミシェルは思わず唇を動かした。声は出なかった。
(とうさん…)
「何か言っているようです」
「何だ?水か?ジャック、砂糖水をやってくれ」
いつのまにかまた瞑っていた目をおそるおそる開けてみた。のぞき込む二つの顔が見えた。
丁寧に剃りあげた顎が童顔を一層若く見せている、少しくたびれた印象の男と、灰色の目が穏やかげな印象の青年。
他にも視線を感じて目を動かすと、耳が大きく垂れ下がったのと鼻がピンクの斑のと、二疋の犬が彼らの下に控えている。
ここはどこですか。そう言おうとしたミシェルはかすれた音をたてて咳込んだ。
「無理に喋ってはいけない」
弱々しく跳ねる躰を押しとどめられたミシェルは反射的に硬直した。
慌てて力を抜き、所在なげに、灰色の目の青年が犬の頭に両の掌を置いた。
大きな掌だ。親指の関節にたこができている。剣を扱う軍人の掌だ、滑らかで強そうな皮膚をしている。
さっきの重みのある掌ではない。あれは農夫の手のように、もっと乾いてかさついていた。
「ほら、こちらを向いて」
童顔の男が、ひんやりと冷たくて甘い棉を唇に押しつけてきた。ひび割れた表面を覆った潤いに、ミシェルは夢中で吸い付いた。
「大丈夫だ、まだたくさんあげるから。ゆっくり」
青年の声は役にたたなかったようで、ミシェルはすぐにむせて激しく咳込み始めた。
それでもわずかながら摂取した水分が喉を開いたのだろう。やっとまともな音がでた。
*
「ここはどこですか」
どこか北部訛りを感じさせる発音に、童顔の中年男と灰色の目の青年、つまりジャックとジェイラスは顔を見合わせた。
娘は漠然と想像していたよりも遠くの出身らしかった。
「レヴュル城を包囲している『塔に柊』連隊の陣中だ。私は連隊長のジェイラス・ダジュール。これは盾持ちで従者のジャック」
「レヴュル…?」
娘が途方に暮れたように眉をよせる姿に確信を抱きながらジェイラスは頷いた。
「王国東部の南寄りの行政区だ。国境に近い」
「…………」
娘は瞼を伏せた。次に目をあげた時には質問は変わっていた。
「私はどうしてここにいるんですか?」
「森の池の傍に倒れていた。それよりもう少し飲みなさい」
ジャックが次から次に差し出す綿の砂糖水をおとなしく含み、やがて娘は吐息を漏らして謝絶した。
「君は朝からずっと目を覚まさなかったのだ。そうだ、腹は空いていないか?」
娘は、熱に染まった痩せた顔をさらに赤らめた。ジェイラスの言葉に応えるように腹が鳴ったからだ。
中年男が心得顔でそっと立ち上がり、垂れ幕の向こうに消えて行った。
「そうだろうと思って、ちゃんとジャックがフロマンテを煮ている」
ジェイラスは微笑した。
こけた頬だが熱で血の色がのぼっているせいか、この娘が非常に若い事がよくわかった。
寝台に広がっている、もつれたままに乾いた長い髪は赤みのかった茶色だった。
「……あの」
娘が顔を巡らせてジェイラスに目を向けた。
大きく張った目は皮を剥いたブドウの玉のような緑色で、力に欠けた視線はただただひたすらに不思議そうだ。
「どうして、私はここにいるんでしょうか」
さっき説明した。…そう言いかけてジェイラスは思い直した。相手は兵士ではなく若い娘である。
犬たちを床に伏せさせ、床几に腰を据え直した。
「そうだな。うむ…おそらく、まだ死ぬべき時期ではなかったのだ。そうだろう?」
──冗談が下手な人間は無理に喋らなければいいんですと、ジャックは軽蔑するに違いない。席を外してくれていてよかった。
だが意外なことにその回答を聞いた娘は、ひどく驚いたような様子を見せた。
「……」
横たわったままの彼女の片方の手が動き、毛布に覆われた腹のあたりをおずおずとさするのをジェイラスは見ていた。
そして、遅ればせながら心づいた。
「そういえば、君の名前は?」
娘は、不思議そうな視線に戻って彼を見上げた。瑞々しい色に我にもあらあずうろたえて、動揺を隠すべく早口にジェイラスは付け加えた。
「呼びかけるのに困るのだ。難しい名前でなければ覚えるから、良ければ教えてくれないか」
娘のひびわれた唇が歪んだ。
歪んだ、と見えたが緑色の目には涙の気配も怒りも見えない。
「ミシェル」
彼女はゆっくりと発音した。
その名を呼ぶのが難しそうだった。決して複雑な名ではないのだが、忘れかけていた知人の名を久しぶりに呼んだような、そんなぎこちなさがあった。
盆を持って入って来た中年男にジェイラスは呼びかけた。
「ミシェルというそうだ」
「そりゃ良いですな。そのまま呼ぶ事ができます」
「うむ」
匙と、湯気のあがる深皿を載せた盆を毛布の端に置きながら、ジャックが咳払いした。
「…その、お前さん…ミシェル。どこか、居場所を連絡しておきたいところはあるかね」
娘──ミシェルはじっと天幕の上の波をみつめ、のろのろと首を振った。
連絡したい人も、心配してくれる人ももういない。あの襲撃のあった夜、生まれ育った小さな村ごと一人残らず奪われてしまった。
何をどう説明すればいいのか。全てを今説明しなければならないのか。
強い不安がぐっと、ようやく再び動きはじめた心にのしかかる。
命を助けてくれたこのふたりの恩人には聞かせる義務がありそうだが、今の自分に到底それができるとは思えない。
「そうかね」
ジャックは頷いた。不満げではない。
彼は寝台の後ろから小さな樽を転がしてきた。そこに腰を据え、盆から匙を持ち上げる。
「まあ、それより今は力をつける事だよ」
ジェイラスが立ち上がった。
「すまないが食べさせてやっていてくれ、ジャック。クレドーを連れて会議に行く。そろそろアルチュールが来る時間だ──ミシェルの事以外は、今日も動きのない一日だったな」
「お任せください。若い娘が相手です。アルチュール様や『閣下』とお話をするよりは随分楽しい」
いけしゃあしゃあと言いきる従者に顔を顰めてみせ、青年は犬たちの頭をそれぞれ叩くと天幕から出て行った。
ミシェルからちらりと見えた垂れ布の外の空は遅い夕刻といった趣だった。ずっと向こうの広場の端にはかがり火が焚かれている。
──まだ死ぬべき時期ではなかったのだ。
ジェイラスのさきほどの言葉が、新しい驚きをはらみながら躯の奥に沈んでいく。
ジャックの差し出された匙から鼻孔に届いた香ばしい匂いに全てを忘れた。
ミシェルはジャックが唇にあててくれた薄い粥を、久々の固形物に狼狽している喉をなだめながらなんとか一口呑みこんだ。
あたたかかった。
そして甘かった。
ミシェルは次の匙を、自分から口に含んだ。
なめらかな粥が食道から胃に流れ落ちると、そこから躯が暖かくなっていくのがわかった。
「急いで食べてはいけない。さっきの水と同じだよ、少しずつ口にするんだ」
中年男は辛抱強くつきあって、用意した深皿の粥を半分以上ミシェルに食べさせ終えた。長い間食べていなかったせいか、ミシェルのおなかはすぐに一杯になった。
残った皿を床に置くと犬たちが喜んで寄ってきた。
ミシェルは、顔をあげたジャックの腕先を見た。がっしりとした肉厚で指先が荒れている。
「あの……」
ミシェルはやっと声をあげた。
「…ありがとうございます」
ジャックはどぎまぎしたように、その掌で顎を撫でた。
「お礼はジェイラス・ダジュール様に言うがいいよ。お前さんを拾ったのはあの方だ。俺はただの従者だから」
「ジェイラス・ダジュール様…」
ミシェルは繰り返した。
「どんな方なんですか」
ジャックはこころなしか誇らし気に胸をはり、黒っぽい目を埋め込んだ童顔を輝かせた。途端に言葉に熱が入った。
「俺のご主人のジェイラス様はダジュール子爵家の次男様だ。十五の年に、常設軍に入られた。ご立派な、心根のよい方だよ」
ダジュール家は権門の家柄ではない。元々の出は王国西部の辺境地方である。
かつてはその領地に小さいながらも銀の鉱山を所有していた。それなりに羽振りも良かったらしい。
かなり昔に子爵位を得ていたらしいのだが、先々代の頃に鉱脈が尽きて以後、家運も年々没落気味なのだそうだ。
貧乏な田舎貴族の子弟が食い詰めて軍隊に入るという話は聞かぬわけでもない。
曖昧にミシェルが頷く傍ら、ジャックは首を振った。
「今では伝統ある『塔に柊』の連隊長だ。ご主人様は常設軍でご出世なさって、王国中の辺境の町や村の余計な苦労を軽くなさるおつもりなんだ。……昔、俺と約束なさった」
「約束…?」
ミシェルがうった相づちに、ジャックは我にかえった様子だった。
「あ、いやいや。思わず興奮して」
その照れくさ気な口ぶりにミシェルは引き込まれた。主人をひどく慕っているらしいこの従者に好感を抱いた。
ジャックは腰をかがめて床から皿を拾い上げた。
「この調子でしっかり食べるんだ。次の粥はもっとかたくしてあげよう」
皿は洗ったようにぴかぴかだった。
「…まだ、ちゃんと洗う。心配しなくても大丈夫だよ」
童顔の横目でミシェルを見て言った。
錆び付いたような微笑がミシェルの口元にのぼった。
皿を樽の上に置き、ジャックは胸をつかれて動きをとめた。
目の前で笑った娘は、やせた頬、血色の悪い肌にもかかわらず、もとはおそらく器量良しなのだろうと思わせる表情を一瞬だけ取り戻していた。
毛布を掴んだ指先は荒れている。袖口から覗く手首にはうっすらと黄色く褪色した痣が見えた。そこから目を逸らし、ジャックは急いで言った。
「──そうだ。お前さんの服だけど、濡れてたし傷んでいたから、外から婆さんを呼んで着替えさせたんだ」
ミシェルが手をあげ、袖を眺めた。灰色の、ジャックが着ているものよりもずっと上等な男物のシャツだった。
「ジェイラス様のだよ。おれのよりは小さいから」
ジャックの注釈を受けてミシェルは少し赤くなった。では、貴族のシャツを着ているらしい。
「…いいんでしょうか」
急に緊張したそぶりで、彼女は毛布に肩を竦めて潜り込んだ。ジャックは手を振った。
「気になさらない。それより、お前さんが眠っている間にご主人様と相談したんだが──」
急いで戻るところがないのなら、まだ動かないほうがいい。包囲軍はたぶんしばらくはここから動かないから大丈夫である。
だがひとつ問題がある。ミシェルは若い娘だが、ここにはほとんど男しかいない。軍隊だからだ。
中には女癖の良くないものもいるし、ジェイラスの立場もあるから余計ないざこざは望ましくない。
だから、躯の調子が戻るまでは寝台にいても油断せず、何があってもばれないように男の格好をし、男のふりをしていてほしい。
着ていた女ものの服はこのまましまっておく。目立つのでたびたび洗濯もできないから。
男ものの衣服は、もっとぴったりとあうものをジャックが調達する。明日まで、おさがりで我慢して欲しい。
ジャックの言葉をミシェルは夢の中のお告げのように聞いていた。さっきから、状況を理解するので精一杯だ。
ただ、着ていた衣服の話になると彼女は躊躇いなく言った。
「…要りません。捨ててください」
よく動く中年男の唇を眺めながら、彼女は毛布の上からぼんやりとお腹を撫でていた。
彼の目が、ふと、細すぎるその手首に止まった。
「──とにかく、もう少し肥らないといけないとあの婆さんは言ってたんだよ。一人の躯じゃないんだから」
──え?
氷の塊を呑み込んだように胸の奥が冷たくなる。ミシェルは我知らず緑色の目を見開いた。
がつんとジャックの言葉が胃の腑を強打し、その衝撃を彼女は一拍遅れて受け止めた。
この人たちは知っているのだ。
お腹に『これ』がいることを。
「……………」
ミシェルは唇を結んだ。
……咄嗟に。何をどう言えばいいのかわからない。どう受け流せばいいのかわからない。
さらに肩をよせ、ジャックの視線を避けるように彼女は毛布の中に首を竦めた。このまま消えてしまいたい。
毛布に半分顔を埋めたところで、不快な刺激を目の奥に感じた。歯を食いしばる。
泣いたって何の役にもたたない。
辛うじて涙を食い止めたものの、ミシェルは石のようになったままもう指一本動かせなかった。
親切な中年男が寝台の傍で困っているだろう。早く動かなければ。
そう思っても腕はこわばったまま、ぴくりとも持ち上げられなかった。
──面白くねぇ
谺がした。
──泣けよ
──動け
──死体を抱いてるんじゃねぇや
ミシェルは浅くなった呼吸を感じて眉を歪めた。また息ができなくなる。
「どうした、大丈夫かい」
谺の向こうから遠く声がした。耳の奥に響く罵り声の輪郭とは違う、それだけはわかった。
──やめとけ。あまり血が出ると死ぬぞ、この変態
──この時だけ反応しやぁがるからだ
──おい、顔にゃ傷つけんなよ。取り柄はそれだけだ
息ができない。背中や胸までこわばって、肺を膨らませることができない。
ミシェルは毛布に隠れた緑色の目を見開いて、執拗に耳の奥から泡立つ谺を振り払おうとした。
目に涙が溢れていないのだけはわかった。
ミシェルは唯一の事実に縋り付いた。
泣いたって何の役にもたたない。
──やめろ、娘を、ミシェルを放してやってくれ──
「しっかりしろ」
毛布が顔からひきはがされた。
目の前にジャックの切羽詰まった顔があったが、ミシェルには見えていなかった。
固まった仮面のような表情に彼は眉根を寄せた。
「お前さん──ミシェル。ミシェル、聞こえるか?」
やつれた頬を軽く叩き、ジャックは急いで毛布を捨てると薄い肩を掌で包んだ。
「息をしてないじゃないか。ミシェル!」
勢いよく娘の背中を撫で擦る。がくがくと躯が揺れ、その力のなさにジャックは焦った。
「ミシェル!わかるか?」
緑色の瞳は放心したように開き、唇はぶつぶつと、おそらく残りわずかな空気を濫用してかすれた言葉をつむごうとしていた。
ジャックは耳を近づけ、辛うじてその響きを聞き取った。
──とうさん
「とうさんだ!」
ジャックは耳元に叫んだ。なんでもいいからこちらに気付かせなくては。
「とうさんだぞ!ミシェル!大丈夫だ、しっかりするんだ!!」
ミシェルの顎がひくりと動いた。胸がひとつだけ呼吸を取り戻した。
「とうさん──」
せっかく吸った空気で彼女は一言呟いた。目に焦点が戻り始めた。
「息をしろ、そうだ、もう一度ゆっくり──」
「どうした、ジャック」
中年男は娘を抱えたまま振り向いた。定例会議を終えた彼の主人が入り口で立ちどまり、すぐに急いで駆け寄ってきた。
「ジェイラス様、この娘を励まして息をさせていてください。私はすぐにあの婆さんを呼んでまいります!」
細い躯を毛布ごと主人に押しつけたジャックは、入れ替わりに垂れ布を揺らせて飛び出して行った。
*
「よし、急げ」
ジェイラスはその背に声を投げかけ、ミシェルの様子を観察した。
ぜいぜいと、呼吸はひどく浅く早い。緑色の瞳がのろのろと動いて、ジェイラスの顔を捉えた。
「とうさん──」
とうさん?
ジェイラスは戸惑ったが、即座に調子をあわせた。
「そうだ、とうさんだ。しっかりするんだ、ミシェル」
瞳に光がゆるく戻り、彼女はあやふやな表情でジェイラスを眺めた。
ぎこちなく周囲を見回す。その指がさまよって、上腕を支えているジェイラスの掌に触れた。
はっとしたようにミシェルは尋ねた。
「とうさんはどこ」
「……ジャックか?あいつなら婆さんを呼びにいった。大丈夫だ、すぐに戻る」
「…………」
ミシェルは瞳を閉じた。がくんと力が抜け、彼女はジェイラスの腕に沈んだ。
慌てて顔を覗き込むと、楽になったような表情で気を失っている。呼吸は早いが、さっきよりは穏当なものに変わっていた。
「ミシェル?」
声をかけたが応答はなかった。だが、とにもかくにも命に別状はなさそうだ。
ジェイラスはそう判断し、娘を寝台に横たえて毛布をしっかりと喉元までかけてやった。
ジッドとマルメロが鼻を鳴らしながら主人の脚にすりついてきた。両方の頭を撫でてやり、ジェイラスは床几を寝台に寄せ、座りこんだ。
どうも、まだ油断ができない。
ジャックが連れて来た老婆に、彼ら主従は再び天幕から揃って追い出された。
「どうやら様子がなおったらしくてようございました」
ジャックは吐息をついた。
「気付いたばかりだったのに。私が悪かったんだ、厭な事を思い出させたに違いない」
「そうだ。あの娘は、さっきお前に何と呼びかけたんだ?」
ジェイラスは心づいて従者に訊いた。
「は?はあ、さて。えーと…」
ジャックは暗く眉間に皺を寄せた。
「たしか……『とうさん』とか呼ばれましたな」
「何故だろうな」
ジェイラスは頷いた。
「……私もさっき、間違えてそう呼ばれたぞ」
ジャックはじろじろと、自分より若い主人の隠しきれぬ仏頂面を眺めた。大いに心が慰められた様子である。
「なるほど。ではこうなりますな。私だけが親爺くさいというわけではない、と」
「それは私がお前と同じくらい親爺くさいという意味か?」
「それはどういう意味ですか?」
「そっちこそどういう意味なんだ?」
「旦那がた、もういいよ」
非生産的なやり取りは天幕からの声に断ち切られた。
「よく眠れる薬を飲ませといたさ」
ちょこちょこと歩み出て来た老婆は不機嫌そうだった。
「大事な時なんだから静かにさせとかにゃ。腹の中が流れちまったら命とりだよ」
「そうなのか?」
ジェイラスの声に老婆はじろりと目をくれた。
「見たらわかりなさるだろう。そんだけ弱ってんだよ」
主従は顔を見合わせた。くれぐれも、当分の間はあの娘の取り扱いには注意しなければ。
「わかった。いや、助かった。また明日も頼みたい」
ジェイラスが言うと、老婆は顔をしかめた。
「なに、もとは結構丈夫そうだし、あとはいいもん食わせて肥らせるだけさ。薬は持ってきといたから、もう迎えにこんでくれんかね」
「なに?」
「ばあさん、それは冷たくはないか」
老婆に負けじと、ジャックは童顔をしかめた。
「ジャックの言う通りだ。私たちは男だし、妊婦の事など全くわからない」
ジェイラスが従者に加勢すると、老婆は目を逸らしてもじもじとした。すかさずジャックが追求した。
「報酬が少ないかね?」
「違うよ」
老婆は首を振り、上目遣いに斜め上を見上げた。二人がその視線を追うと、視界に『赤い木に金の稲光』の紋章のついた天幕が飛び込んで来た。
「…あれからすぐ、あの紋章のついた服を着た人がきてさ。お城やこの子のことをしつこく訊いたんだ。やっかい事はごめんだよ」
戻した直後にシラーの使用人が訪れたらしい。ジェイラスのかくまっている行き倒れに、根深く間諜疑惑を抱いているのだろうか。
ジャックが暗い声で言った。
「婆さん、まさか、あれが女だという事は…」
「安心しとくれ。あんたに貰った小麦にかけて、ちゃーんと、貧弱な小僧っこだって言っといたよ」
老婆はジャックに首を振った。
「でも客でもない偉そうなお使いに家まで押し掛けられるのは嫌なもんさ。お城とわしらは関係ないし」
「……城?」
ふとジェイラスは聞きとがめた。
「旦那様方が囲んでなさるお城だよ」
老婆は無表情に補足した。
「ご城主様の顔も見た事ないってのに、迷惑な話さね」
クレール・ダンジェストがレヴュル城とその裏手の切り立った尾根に広がる森を賜ったのは、財務官になってからの話である。
城を取り巻く平地は交通の要所だけに王の直轄地になったり公家の領地になったりと昔から変遷が激しく、代官でもない彼と地元民とが繋がりに欠けるのは無理からぬ話だろう。
「ほう。城についてどんな事を?」
レヴュル城は前々から食糧や物資を用意していたのではとしか思えぬほどの余裕で、水も漏らさぬ厳重な包囲網のただ中をしのいでいる。
シラーの使いは村からの食糧の密かな拠出などを調べたのではないか。
そう思ったジェイラスが職業柄つい真剣に訊ねると、老婆は鼻を鳴らした。
「なんだったっけね…しょうのない、つまんない事だよ。夜、崖に不審なものが見えんかと」
「………」
ジェイラスは天幕ごしの彼方に聳え立つ城の尾根に目をやった。平地への正面は剣で断ち切ったような崖になっている。
片側はびっしりと生い茂った灌木で覆われ、その合間には大きな岩が露出していかにも脆い。もう片面が城への唯一の道であり、そこは城から突き出た砦で塞がれている。
何度かあの砦に近づいてみたが、兵士が一列にしか並ぶことのできない斜面に砦から岩や熱湯を撒かれると簡単に手が出せるとは思えなかった。
「あの崖が…?」
「変なもんは何も見えんし、そんな噂も昔話も昔から村では聞かんと言ったんだよ。ただの岩だらけでな」
老婆はジャックが新たに握らせた銅貨をそそくさとどこかにしまい込み、かわりに、布ベルトに吊るしていた干涸びた薬草の束を押し付けた。
「半分にわけて鍋で煎じるんだよ。寝る前に一杯。なくなる頃にゃ元気になるさ」
*
五日が過ぎた。
レヴュルの城は手強かった。
尾根にも城にも村にも王軍の陣にも、一様に薄く初雪が降った。
すぐに溶けたが、真冬に入る前に早々に片がつくと思われていたこの一件の長引きように、ジェイラスの機嫌は悪くなる一方である。
南部に近い地方だからこの程度の雪で済んでいるが、本格的な降雪が始まれば、包囲を維持するだけでも大変になる。
動きのない日々に兵士達の士気はだらけはじめ、近くの森に繰り出して兎狩りをして遊ぶ(先日のジェイラスのような)不届きものが出てくる始末である。
これはいけない、そうジェイラスは思った。なにより自分自身、あまりの退屈に腐りそうだ。
シラーの許可を得、兵士の訓練を兼ねて本格的な狩りを行った。
だが、一体自分はこんなところで何をしているのだろうと獲物のシチューを部下たちと囲みながらふと考えてしまう。
城がいくら峻険な要害にあるといえども護るのは人間だ。
城主も軍人ではないし、賜った城を熟知してもおらぬはずだ。それなりの攻めようもある。
しかも、そろそろ積極的な手に出るべきだと主張するジェイラスを彼の上官は何故か抑えるのだ。
「待つことで成果が転がり込んでくるのがわかっているのだ。無理をする必要はない」
これだから血の気の多い叩き上げは。
そう言いた気に口ひげを蠢かすシラーの注意を、ジェイラスはひいてみた。
「ですが、そもそもは包囲が目的ではないはずです。あまり引き延ばしますと…」
視線を落とす。
かつて、身内である凶悪殺人者の引き渡しを頑強に拒み篭城した、とある結社の砦に踏み込んだ体験がある。
…王軍が入ったときには内部に立てこもっていた者のほとんどが餓死寸前の有様だった。
食糧と名の付くものはなにも残されてはいなかった。
柱も燃料として燃やしたらしく、残ったものは壁と石材と骨と皮の人間ばかり。太鼓の皮まで消え失せていた。
あのような惨状を再び見るのは、できれば避けたい。
任務を果たすのが軍人の義務だがそれにしてもああいった光景は後味が悪すぎるものである。
幸い城主の財務官、クレール・ダンジェストは商人の出だ。事の理を糾せばあるいは、それほどせっぱつまらぬ今なら話が通じるのではあるまいか。
そう進言すると、シラーは冷たい目で連隊長を眺めた。
「甘い。君はそれでも有能な軍人か?…下賎な成り上がりめに理など通じるものか。
陛下より預かった大切な兵士たちを一人残らず無事に故郷に戻すのも私の大事な役目ではないか。君は、私に逆らうのか」
それを言われると二の句が継げず、ジェイラスはおし黙って上官の天幕を後にする。
野営地の広場の隅で立ち止まり、先日の狩りの獲物を塩漬けにしている部下たちの作業を目に映しながら、彼はむしゃくしゃする気持ちを抑えられなかった。
シラーの考えは一方では正しい。
だがその正論の裏には我が身の栄誉を求める小心者の巧みな計算が見え隠れしているような気がする。
翻るに、ジェイラス自身の一見温情的な意見の裏にも、本当は、このようなつまらない場所から早々に逃れたいという軍人の欲望が隠されている。
まあ、どのような理屈も結局は運用する人間次第という事になるのだろうが、それにしても気に食わない。
「ありがとう、グラン・ルシ。ジャックが喜ぶ」
塩漬け肉を押し付けられ、赤ら顔の古参兵に礼をいいながらジェイラスは思った。
シラーはあのような綺麗ごとをいってはいるが、実際、例えばこの兵士グラン・ルシが別の戦場で飢えたとしても口ひげどころか眉の毛一本も動かすまい。
ジェイラスにとってこの兵士は同じ連隊の、顔と名前の一致した一人の人間だ。
グラン・ルシが戦死したとしてシラーは痛くも痒くもあるまいが、ジェイラスにとってはそうではない。
…あちらの防衛隊にも、グラン・ルシのような男がいるに違いない。
城主に従って現在背いてはいるものの、彼らももとを糾せば王国の兵士たちのはずである。
一時が万事その伝だ。つまりはシラーには味方にも敵にも情がない。
シラーは、可能な攻撃のタイミングを見逃すよう強制し、相手方を無駄に苦しめるやり方を強いてくる。
宮廷において今をときめく威勢にあった頃の首席財務官クレール・ダンジェストとは、おそらくシラーは顔見知りであったろうに。
シラーの言動の端々に、クレール・ダンジェストに対する侮蔑を感じるたびに、ジェイラスはなぜかひどく腹が立つのだ。
(クレールが成り上がりだからだ。奴にとっては成り上がり者などはどこまでいっても人間ではない)
ジェイラスは我が天幕に向かいながら胸の中で呟いた。
(私も奴にとっては貧乏貴族の成り上がりだ。兵士も下賤の者だ。……うむ、道具だな。名誉と賞賛を浴びるための道具だ)
だから、道具が何を考えていようが興味も関心もないのだ。
自分の邪魔さえしなければ──そこまで鬱々と考えて、ジェイラスははたと視線をあげた。
唯一、シラーがジェイラスのやる事に興味を抱いた、とある事例を思い出したのだ。
わざわざ城の麓の村にまで主人同様もったいぶった使用人を派遣した。
(そういえば、あの婆さんが妙な事を言っていたな)
*
薬草の束を煮詰めた怪し気な臭いの漂う鍋を布で巻いた手で捧げ、ジャックが天幕に入ってきた。
ちょうど、ジェイラスが軍用マントを掴んで立ち上がるところだった。
従者は急いで鍋を置いた。
「ジェイラス様、どちらに?もう夕刻ですぞ。コウモリでもお狩りになるんですかい」
「うむ。『閣下』やクレドーからなにか訊かれたらそういう事にしておいてもらおうかな。ジッドとマルメロは置いていく」
ジェイラスはミシェルの寝台についている犬たちを眺めた。彼女はすやすやと眠っている。
あれからミシェルの様子がおかしくなることはない。
ジャックがせっせと食べさせる滋養に富んだシチューや甘い粥のお陰で、削げたようだった頬もやわらかみをうっすら取り戻し、このごろ肥ってきたようだ。
といってももとがもとだけにやっとやせっぽちにも人心地ついたといった趣きだったが。
「私は犬と一緒に留守番ですか?」
弓を手に取る主人を眺めながらジャックは口を尖らせた。
「お前が必要になったら連れて行く。ちょっと気になることがあるのでな、今回は確かめるだけだ」
ジェイラスはきびきびと入り口に向かった。肩の向こうで頬の線を歪めたのが従者の目にも見えた。
「ミシェルも、お気に入りのお前が傍にいるほうが安心だろう?」
ばさりと垂れ幕が落ちた。
あっけにとられていた中年男の眉間にもの思わしげな皺がよった。
「………………」
首を振り、踵を返そうとして置きっぱなしだった鍋にけつまづきそうになる。
慌てて大股を広げて踏みとどまった。幸い、蓋をしていたので少し溢れただけで済んだ。
この薬でおわりなのだ。あの老婆の言いつけ通り、ちゃんと最後まで娘に飲まさねば。
変な格好で足をふんばっているジャックを、寝台の傍で腹這いになったままのジッドがうさんくさそうに見上げた。
マルメロも頭をあげ、今では嗅ぎ馴れた臭いが強く溢れた気配に、小さく唸った。
「なんでもない、ジッド。マルメロ。静かに」
ジャックは制した。犬たちは興味を失ったように再び前肢の上に顎を置いた。
(──何を仰るやら。ジェイラス様らしくない…)
ジャックは口の中で呟きながら、身を屈め、鍋を持ち上げた。
ジェイラスは何か勘違いしているのではないか。なにせジャックは『とうさん』なのだ。
──お暇なのが良くないのかもしれない。
城はいつまでも陥ちないし、シラー閣下はジェイラス様の具申には聞く耳もたないし、大掛かりな狩りも所詮は遊びだし。
(なんだあの肉は)
ジャックはミシェルの枕元の木台の上に置かれた塩漬けの塊肉を発見した。
犬たちが素知らぬふりをしているという事は、ジェイラスが置いたものに違いない。こんなところに置かず、ちゃんとジャックに渡してくれればいいのに。
「ジャックさん」
突然背後からかけられた声にジャックは飛び上がりかけた。
鍋を辛うじて肉の隣に置き、中身が溢れてないのを見てほっとした。
「やあ。目が覚めたかね」
寝台に向き直ると、ミシェルの緑色の目がぱっちりと開いていた。白い部分が、よく眠ったしるしの透き通った青みを帯びている。顔色もいい。
「何をぼうっとしているんですか」
「いろいろ考え事をしていたんだ。こう見えても私は忙しいんだよ」
ミシェルは申し訳なさそうに首を竦めた。
「…ごめんなさい」
「あ、いやいや」
ジャックは急いでかぶりを振った。
「お前さんのせいで忙しいわけじゃないよ、ミシェル。ご主人様がこうやって肉でもなんでもそのへんに置いておくから」
ミシェルはほっとしたように微笑した。わずかにふくよかになった頬が盛り上がり、温かな微笑になった。
「ええと、吊るすための紐と──瓶が要りますね」
ジャックは頷いた。
「そうなんだ、汁が垂れるから。よく気がついた」
ミシェルは寂しそうに口元を歪めた。
「豚を屠ると塩漬けにするでしょう…きっと猪も同じだと思って」
ジャックは彼女のこの表情をこの五日で何度か見かけて知っている。笑っているつもりなのだ。
彼女が農家の出身ではないかと思っているのだが、交わすわずかな言葉の端々にジャックはその思いを確かにする。
冬は家畜の屠殺の季節だ。きっとミシェルは家でその作業の手伝いをしてきた娘なのだろう。
だが、実家の話を彼女はしない。身の上を語ろうとはせず、当たり障りのない言葉をぽつぽつと口にするのみだ。
躯の調子が戻るまでは無理に喋らなくてもいい、とジェイラスが禁止したせいもある。ジャックも素知らぬふりをしている。
無理に喋らせても──困るだけだ。
「なあ、ミシェル」
ジャックは鍋から小さな瓶に煎じ薬をうつし、塩漬け肉を天幕の柱に吊るしてしまうと、とりあえずマルメロの餌皿をその下に受けた。
犬たちはじっと肉を見上げている。
「お前さん、……髪、本当によかったのかい」
「ああ──」
ミシェルはか細い腕をあげた。ぱらぱらと茶色の髪の先を弄ぶ。耳のあたりで断ち切った長さは少年のようだった。
「心配しないで、ジャックさん──楽になりました」
本気かな、とジャックは不安だった。男のふりをすると聞くと、ミシェルは自分から髪を切ってくれと言い出したのだ。
切ったのはジャックだ。
ジェイラス用の散髪用具を借用し、寝台に身を起こせるようになったミシェルの髪をほぐした。
汚れて縺れた髪を梳くと随分と長かった。櫛がかかり、軽く引っ張られるたびにミシェルは震えた。
緊張したジャックは巧く揃えることができず、しまいになんとか整えると随分と短くなってしまった……。
──頭巾で隠すだけでいいと言ったのに。なにを一所懸命なんだか、どうもなんだか可哀相になぁ、とジャックの腹の底が少々熱くなる。
しまった、これでは本当に『とうさん』になってしまう。
急いでジャックはジッドの鼻先に手をやった。
「ああ、こいつらがいつも一緒だけど、犬は…その、好きかね。それとも嫌いかね」
唐突に振られた話題に、ミシェルは少し躊躇ったようだった。
「……本当は、あまり好きじゃなかったけど──」
マルメロがぴくりと顔をあげ、抗議のしるしに黒い唇の端を曲げた。
「──でも、この子たちは好き。ごめんね、マルメロ」
ミシェルは腕をのばして、おっかなびっくりマルメロの耳を撫でた。犬は満足したげに寝台の端に首を載せた。
「こどもの頃、大きな犬に追いかけられたことがあって」
ミシェルは小声で言った。
「でもジッドとマルメロはお行儀がいいのね。上手にしつけてもらったんだわ」
「ジェイラス様と私でね」
ジャックは得意そうに聞こえぬよう、控えめに言った。
「こいつらは捨てられてたんだ。三年前くらい…雨の日だったか、ご主人様が拾ってきなすったのさ」
「子犬の頃に?」
「いや」
顔をしかめてジャックは首を振った。
「もう大きくなりかけてた。ぐるぐる巻きに首に縄をつけられて、どっかの墓地の生け垣の中に繋がれていたそうだ」
ミシェルの手がとまった。マルメロが愛撫の継続をせがんで唸った。
「飢え死に寸前だったよ。えらく人間を恨んでてな、無理もないが。触ろうとすると二疋とも牙を剥くんだ」
「……………」
ジャックは肩を竦め、上品に構えている犬たちの頭を、がっしりとした掌で撫でた。
「…………」
ミシェルはマルメロの黒い目を見つめている。考え込んでいるのを見て、なにかまた余計な事を言ったのだろうかとジャックは内心汗を感じた。
「さ、無駄話は終わりだ。夜になる。お前さんは、あの薬を飲んでよく休まなきゃ」
杯に注いだ煎じ薬をミシェルはおとなしく飲み、寝台に横たわった。
毛布を整えてやるジャックの掌を見つめていた彼女は、ふいに、こう言った。
「──ジッドとマルメロが死ななくて、本当に良かった」
何を言うのかとそちらに向けたジャックの目に、真剣な表情をしているミシェルの顔が映った。
緑色の瞳には、一途な頑さに似た色をたたえている。
「ジェイラス様とジャックさんは、きっと一所懸命、ジッドとマルメロを助けようとしたんでしょう」
「いや……」
ジャックは言葉に詰まった。
「きっとそうです……」
彼女は唇を噤んだ。
堪えるように瞬きをすると、短い髪の娘はジャックにくるりと背を向けた。
*
闇が濃くなりまさり、かがり火が寒い夜気の中、野営地のあちこちで揺らめいていた。
ジャックはぼんやりと主人の天幕の入り口近くに座っていた。
手にはフェルト布を握っていたが、膝の間の肩当てはあまり動いてはいない。
「──どうした、ジャック」
闇の中からぬっとジェイラスが現れた。灰色の目が遠くかがり火の灯りを反射して煌めいた。
「ぼんやりとして。ミシェルに何かあったのか?」
「いえ。ぐっすり眠っています。お戻りなさいまし、ご無事で」
ジャックは反射の動きで立ち上がった。
「お気になさってらしたことはいかがでしたか」
「話は中だ」
ジェイラスは冷たい空気をマントごと持ち込んだので、ジャックは急いで入り口の垂れ布を下まで落とし、火桶の埋み火を掻立てた。
「何でこんなに膝が汚れてなさるのやら」
ジャックはぶつぶつと──ミシェルの眠りはさまさぬよう──主人のズボンを点検した。
「どこの巣穴に潜り込んだんですかい」
「レヴュル城だ、ジャック」
ジェイラスも小声だった。
「村の裏手の丘の天辺から、崖の中腹に灯りが見えた。城の真下だ」
仰天して、ジャックはまじまじと主人の顔を眺めた。ジェイラスは頬をかすかに紅潮させている。
いい兆候ではない。ジャックの主人は、なに事か非常に緊張している。
「城の下にあるものといえば何だ、ジャック」
「倉か──牢屋でしょうね」
常識的に考えるとこの線である。ジェイラスは頷いた。灰色の目が鋭く瞬いた。
「いいぞ。だが、倉なら灯りは不要だろう。あの灯りは牢に違いない」
なぜ言い切るのか。
ジャックは異議を唱えてみることにした。今夜のご主人様は結論をやけに急いておられるようだ。
「よっぴいて何かの作業をしているのかもしれませんよ」
「それはない」
ジェイラスはきっぱりと首を振った。灰色の目がますます輝いた。中年男はため息をついた。
「降参です。どうしてそんなに牢屋にしたいのか、その理由を教えてくださいよ」
ジェイラスはさらに身を従者に近づけた。種明かしをする曲芸師の顔つきで、ジャックの主人は囁いた。
「あそこにいるのがクレール・ダンジェスト財務官だからだ」
*
中年の従者はジェイラスの期待通りの反応を見せた。
目と口がぽかんと広がった。
「まさか!」
「確かだ」
ジェイラスの目は冗談を言っている色ではない。
「下の岩場の縁にしかとりつけなかったが、本人と声を交わすことができた。私のような者でも彼の声くらいは知っているからな」
それでこのお膝か、とジャックは納得したが、主人につられてひそひそと反論した。
「でもクレール・ダンジェスト様はたてこもってるあの城の主じゃないですか。そのご城主様がどうして自分とこの牢屋なんかにいるんですかい。酔狂にもほどがあります」
「幽閉されておるのだ」
ジェイラスは、はばかるようにちらとミシェルに視線を送った。
「離れていたし、上に聞こえるといかんのでこみいった話はできなかった。だが事のおおよその次第はつかめた気がする。整理がてら聞いてくれないか、ジャック」
言わずもがなである。ジャックは思わず姿勢をただした。
「ひと月ほど前の事だ」
ジェイラスは脱ぐのを忘れていたマントの襟を指でほどいた。
「都のクレールの館に憲兵隊が踏み込んだ。横領が発覚したと言われてクレールは無実を主張し、国王への面会と釈明を望んだ。もちろん断られたがな」
とんでもない疑惑だが何かの間違いに違いない、と当然クレールは思った。
憲兵隊本部で一旦身柄を拘束されると告げられたが、特徴のない馬車に乗せられた直後、事態は思わぬ進展を見せた。
本部は王城を囲む堀のすぐ北口にあるはずだった。だが、馬車はそこを通り過ぎても止まらなかった。
昼も夜も走り続け、二日後に行き着いた先は、ここ、レヴュル城だった。
そしてそのまま投獄され、──現在に至る。
「待ってください。じゃあ、その踏み込んだ憲兵隊ってのは」
「偽物だったという事だな」
ジャックは呆れた顔をした。
「クレール・ダンジェスト様ってのは目端がきくと巷で評判のお方じゃありませんかね。それがそんな簡単に」
「そこが人間の面白いところだ」
面白さはみじんも感じていない様子のジェイラスはもの思わし気にマントをまとめると、櫃の上に放り投げた。マントはずるずると床に落ちた。
「でも横領の証拠はあるんでしょう」
「王陛下の前に出されたものがある。私が思うに、それも偽物ではないかな…考えてもみろ、疑い通り財務官殿が横領をしていたとしてそんな書類を残しておくかな」
「ははぁ」
ジャックは納得した。
「抜け目のない方がそんな明々白々な証拠を残すとも思えませんね」
「そうだ。なにより…」
ジェイラスは頷いた。
「生きて捕縛せよとの王陛下のご命令がある。おそらく、陛下も財務官殿の横領や、都合よく出て来たあの数々の証拠を疑っておられるのではないかと思う。そうだろう?」
「ははあ。そういわれればその通りです」
「だが、とすると」
ジェイラスは腕を組んだ。
「クレール・ダンジェストの命は危ういのだ」
「なぜですか。生きて捕まえろとの王様のご命令じゃないですか」
「シラーはなぜ包囲をしつこく続けようとすると思う?」
「こっちの兵士が無駄死にしないようにとの事なんじゃないですかい」
「そうだ。シラーはそう言っておるが、だがそれは建前だ。どうやら『閣下』は財務官殿をどうにかする腹づもりらしい」
「なんでです。王様にこっぴどく叱られるじゃないですか」
ジャックが口を尖らせるとジェイラスは顔をしかめた。
「ジャック。お前、役にたつ男だと思っていたが案外鈍い奴だったんだな」
「なんとでも言ってください。で、なんでシラー閣下が王様のご命令を無視なさるんですか」
「陛下の面前でクレールの疑惑がはれては困るのだ。これも私の想像だがな、ジャック。あの横領には閣下とそのご一族が噛んでいるのかもしれない。一石二鳥という奴でな」
「……いくら気が合わないといってもそこまで上官を侮辱してちゃいけませんや、ご主人様。もっとも」
ジャックは掌で顎を撫で、童顔を暗くうつむけた。
「シラー閣下がいかにもやりたがりそうな計画ですがね」
ジェイラスは微笑した。
「現に、クレール本人の話では包囲が始まってからは見張りから水しか与えられていないそうだ。城主が牢獄で腹を空かせておるのが何より怪しいではないか」
「それもそうですね。王様に叱られても、『餓死するまでとは思いませんでした』で言い抜けることもできます」
ジャックは顔をしかめた。
「ジャック」
ジェイラスは従者に顔を寄せた。
「急ぎグラン・ルシを都に送ろうと思う。本当ならクレドーをやりたいところだが目立つから」
「王様へ告げ口ですな」
ジャックは頷いた。
「でも、グラン・ルシがとんぼ帰りしてる間に、今、もうおおかた一週間以上水っ腹の財務官様が餓死しちまったらもともこもありませんぜ」
「うむ。そこでお前の出番だ、ジャック。急いで、村の崖から食糧をクレール・ダンジェストに差し入れてほしい」
「…おやすいご用ではありますがね」
ジャックは眉をひそめた。
「私はご主人様の従者だからシラー閣下に目をつけられてますよ。こないだも婆さんとこに行く時にあの派手な従者がいやーな目つきで見てた」
「そういえば、そんな事を言ってたな」
ジェイラスは組んだ腕を無意味に揺さぶった。
…できれば、グラン・ルシがなんらかの国王の意を受けて戻ってくるまでは音無しの構えでいきたい。
急げば往復四日で済むが、一兵卒が、たぶんこの陰謀に一枚噛んでいるはずの名誉元帥の目を避けて国王への面会を叶えるのは容易なことではない。
連隊長として国王の信任は厚いジェイラスにしても、上官を通さぬ使者を直接王城に送り届けるわけにもいくまい。
「兄を頼る。末のサディアスが王宮衛兵隊に入るんだと言い張って聞かなかっただろう。今、あいつの試験に付き添っているはずだ」
都に嫁いだ娘の家に滞在中の兄のもとにルシがたどり着けば、知り合いが多くもない田舎出の一族ではあるがそれでも腐っても子爵家である。
親子ほどに年が離れているせいかジェイラスを可愛がってくれている兄のことだから、なんとか首尾良く取りはからってくれるだろう。
だがいくら兄が急いでも半日程度はかかるかもしれない。
十日近く水だけの財務官にとっては半日も惜しい時間である。
「……私ではいけませんか」
小さな声が割り込んだ。
ぎょっとして顔をあげた主従の目に、おずおずと見返す毛布越しの緑色の目がみえた。
毛布をずらして起きあがり、少年のような娘は頬を赤くして喋り始めた。
「私ならまだここの誰にも姿を見られていません。今夜、これからこっそり抜け出して、村に…」
少し考え、彼女は頷いた。
「あのお婆さんのところに、お使いの人が戻ってくるまで泊めてもらいます。そして、そのご城主様に食べ物を差し上げ…」
「だめだ!」
ジェイラスは娘をにらみつけた。
「盗み聞きをしていたのか、ミシェル」
「ごめんなさい。でも…きっと、お役に立てます」
ミシェルは身を竦めた。太い息を吐き、ジェイラスは首を振った。
「お前は死にかけていたんだぞ」
「でも、お役に立てます!」
ミシェルは繰り返した。
「ジャックさんがうんと美味しいものを食べさせてくれたから、ずっと元気になりました。もう、一昨日から少しずつ、燭台を磨いたり、そのへんの片づけだってやってます」
ジェイラスは従者の童顔に灰色の目を据えた。ジャックは気弱げに頭をふった。
「やると言って聞かないんですよ。止めても勝手に起き上がって始めるし」
「寝台に縄で縛り付けておけ」
「嫌です!」
ミシェルは毛布を握ったまま寝台から降り立った。確かに足元はしっかりしていた。
「皆さんが困ってらっしゃるのに、自分だけ寝ているのは嫌です。お願いです、お手伝いさせてください」
ジェイラスは怒鳴った。
「あの崖は危険なんだ。私でも何回も滑った」
「ジェイラス様、お声が」
ジャックがたしなめた。ジェイラスはむすっとして声を低めた。
「あの崖は岩だらけだ。落ちると腹の子ともどもお前も死ぬぞ。せっかく元気になってきたのに、そんな事は許さぬ」
ミシェルはすぐに言い返した。
「下から牢まで…そう、矢かなにかを使って細い丈夫な紐を渡していただければ、その端に籠をつけます。軽い食べ物を入れて、ご城主様に引き上げていただけばいいと思います」
ジェイラスがぽかんと口を開けた。ジャックも唖然としてミシェルを見た。
「人の出入りは無理でもそれくらいはできるんじゃないでしょうか。…お願いです。恩返しがしたいんです」
少しやわらかみを帯びた輪郭の細面に必死の色を滲ませてミシェルは懇願した。
「…そういえばこの二・三日」
ジャックがぼそぼそと呟いた。なにを言い出すかとジェイラスは従者の童顔に視線を突き刺した。
「クレドー様が、ジェイラス様が助けなすった行き倒れはもう元気になった頃だろう、軍に関係のないものはとっとと追い出せとうるさくてですね」
「あいつは救いようのない石頭なのだ。気にするな」
「クレドー様のお考えは正しいと思います」
きっぱりとミシェルが言った。
「ジェイラス様に助けていただかなかったらあのまま無くしていた命です。私が村に行くのが一番いいんです」
「……えー、どうでしょうジェイラス様。実際いい考えだと思いますし」
ジャックがおずおずと言い始めた。
「あの婆さんは事情を知っております。言われてみれば、今後しばらく養生するには悪くない場所ですな」
「ジャック!お前はどっちの味方だ」
ジェイラスがこめかみに筋を浮かせて立ち上がるとミシェルがびくりとした。ジェイラスの灰色の瞳に反射的な後悔の色がよぎった。
この娘が暴力的な雰囲気に怯えることは最初からわかっていたのに。
ジャックが急いで両手を振った。
「ジェイラス様、お静かに、ジェイラス様」
「………」
ジェイラスは腰を下ろした。
躰の前で握りしめた拳を重ねて、ミシェルが落ち着こうとしている。その震えがおさまるのを待って彼は呟いた。
「……好きにするがいい。だが、まだ躰が完全ではないんだ。無理はするな」
「はい」
ミシェルの顔が輝いた。
「城主の件はアルチュールにも伝えておかねばならんな。あいつも『閣下』には心底うんざりしている」
マントを掴んで、彼はひっそりと立ち上がった。
「夜中までに準備だ。ミシェルを村まで送れ、ジャック。気をつけていけよ」
*
森の朝を染め付ける単色の濃淡はもう見飽きた。狩りも兎もどうでもいい。
ジェイラスは藪に突っ込む憂さ晴らしをやる気もおきないまま、気がつけば小さな池の縁に突っ立っていた。
一週間前にミシェルを見つけた池だ。いつの間にここまで来てしまったのだろう。
野営地にジャックはまだ戻っていまい。
ジャックには副官のクレドーを付けた。食糧綱の細工をするように命じてある。
石頭に事情をあらかた呑み込ませるのは予想以上に大変だったが。
相も変わらずつまらない景色だ。灰色に染まった、彼自身の目の色のように面白くもない無味乾燥な。
ジェイラスは霜と雪で痛めつけられつつもわずかに残った枯れ草の上に、情け容赦なくブーツの踵を踏みおろした。
従者のくせに主人よりもミシェルの味方をするジャックに腹が立つ。
手厚い看病をして世話をやいてやり、いつもミシェルと一緒にいるジャックに腹が立つ。
とうさんなどと呼ばれてやにさがっているジャックに腹が立つ。ついでに言えば、ジャックと一緒にとうさん呼ばわりされたのにも腹が立つ。
クレドーの奴、ミシェルに会うのは初めてだが、あの石頭めは短い髪の女がこの世にいるとは気付くまいな。
ジャックの冗談口やクレドーのしかめつらしい挨拶に楽しそうにしているかもしれないミシェルに腹が立つ。
そしてなにより、面白みもなく、うまく冗談を言って笑わせてやれない自分に腹が立つ。
ミシェルを怯えさせないジャックの技が欲しい。
…いや。
ジェイラスは灰色の目を、静まりかえった水面に遊ばせた。
ジャックが悪いのではないし、ミシェルが悪いのでもましてやクレドーが悪いのでもない。
自分が悪いのだ。
イライラしているのはシラーとこの仕事のせいだと思いこんでいるうちは幸せだった。
それは一週間前までは確かにそうだったのだが、今の自分の苛立ちはそれとは無関係であることに気付いてしまった。
気付いたのは夕べミシェルをジャックが村まで送っていってからのことだ。
ミシェルが天幕にいなくなってしまった。
いつもと違う場所にある布や、きれいに垂れを掃除して磨いた蝋燭立てに気付いた。
ミシェルがいたのはたった一週間だけのことだというのに、その姿が寝台にないのがひどく…
寂しい。
ジェイラスは立ち上がり、草むらを歩き回った。
あんなやせっぽちの娘がいなくなったからといってどうしてジェイラス・ダジュールともあろう者がこうも落ち着きがなくなるのだろう。
しかもミシェルはたいして綺麗なわけでもない。
いや、ジャックは元にもどればミシェルはきっと器量よしですよとか無責任なことを言っていたな。
違う違う、ジェイラスは片手で髪をかきむしった。
そうではないのだ。ミシェルはまだ完全な大人ではないのにあんなひどい目にあっている。
まだ詳しいことは何もわからないが意に染まぬ無体な目にあった事だけは間違いない。
しかも子供を身ごもっているのだ。誰の子ともわからぬ、望んだわけでもない子を。
なのにあの強さはなんなのだろう。あの気力はどこから出てくるのだろう。
横になっている間も弱音を吐かず、起きることができるようになると掃除まで始めた。恩返しができると主張した。
どうしてあんなに強いのだろう。加えて彼女には頭もあるのだ。食事籠の工夫には感心した。
ミシェルの、皮をむいたブドウの玉のような瑞々しい目の色が脳裏をよぎった。あの目が天幕にないととても…
寂しいのだ。
ジェイラスは草むらの上をしつこく歩き回った。
本当の怒りはジャックにもミシェルにも腹の子にも自分にもないのだとわかっていた。
彼が深く憎んでいるのは顔も名も知らない連中だ。ミシェルをあんな目に遭わせた奴らだ。
今どこにいるのだろう。奴らが無事でいる確証はないが、無事だとすれば許せない。
もしそうであればこのジェイラス・ダジュールが許さない。
グラン・ルシが都から戻り次第いかようにも事態は動き、この仕事は終わるはずだ。
そうすれば王国中の災難にあった村や町を調べ上げ、ミシェルを連れ去り陵辱し虐待した者たちを草の根わけても探し出し──。
だが、この決意は彼女が彼に望むことだろうか。それはジェイラス・ダジュール一人の義憤に過ぎないのではないか。
ジェイラスの、マントに包まれた肩が下がった。
彼は視線を水面に向けた。
枝の隙間の、彼の目と同じ色の空から薄片が舞い降りて、波紋も残さず溶けていった。
*
ジャックは、天井からあやしげな匂いのする束が滝のようにぶらさがっている部屋で老婆と向かい合っていた。
同行した副官のクレドーは首尾良く任務を果たしたあと、一足先に野営地に戻っている。
「わしは弟子にとると言った覚えはない。この娘と……うんにゃ」
ジャックの視線に口を噤んで老婆は咳払いした。
「この子ときたらゆんべから、目に付いた順に薬草の名前と効きめを知りたがるだろ。面倒くさいんでつい口が滑っただけだよ」
ジャックは小屋の暖炉の脇で夢中になって薬草をよりわけているミシェルを眺めた。
短い髪が上気した顔を彩っている。炎のせいではなく興奮のためらしい。
「面白いのかい、ミシェル?」
ジャックは婆さんが押し出した白湯を啜りながら尋ねてみた。今日は特別に高価な粉砂糖も握らせてやったので婆さんの機嫌は悪くないらしい。
「面白いです」
ミシェルは満足そうにきれいにわけた薬草の束を眺めた。
「アディールさんは本当に物知りなんです。納屋に干してある束も、きちんとわけたら、もっといろいろ教えてくださるそうです」
唐突に出てきた美しげな響きにジャックはきょとんとした。
「誰だ、そのアディールさんというのは」
老婆がじろりとジャックを見た。
「わしさ。悪かったね」
彼の握っていた素焼きのカップを奪い取ると、老婆はつんとして小さな洗い場に消えていった。
ジャックは身をかがめてミシェルに囁いた。
「本当に弟子入りする気かい。あの婆さん、お前さんを使ってこの家のゴミを全部片づけさせる気だぞ」
「はい。それにゴミなんかじゃありません、薬草です」
「俺にはゴミに見えるね」
ジャックは疑わしげに、天井ばかりか柱から壁まで覆っている乾燥物を眺めた。
ミシェルは分けた薬草に目を走らせた。
「えーと……発熱…寒気のする時。血が足りない時にはこれはあまり服んではだめ……」
「なあ、ミシェル」
ジャックは童顔を心配そうに傾けた。
「お前さん、このまんまこの村に居着く気かい」
「……私、行くところもありませんし」
ミシェルは顔をあげた。少年のような髪と衣裳の彼女は真剣な目をしていた。
「助けていただいたからといって、そのままお世話になるわけにはいきません。寝ている間、身の振り方を考えていたの」
「にしても、せめてもう少しくらい…」
ジャックは肩をすぼめた。
「ちょうどお役にも立てるんです。願ってもない機会だわ。それに…」
きっぱりとミシェルは言った。少々大きめの毛織物の上衣に覆われた腹に目を向けた。ベルトはゆるやかに締めてあった。
「…お産も見るってアディールさんが約束してくださったの」
クレドーとジャックが崖で作業をしている間にこの家では着々と話が進行していたらしい。
「そうかね。…あー……その…」
良かった、と言うべきか。
本来ならそう言うものなのであろうがミシェルの場合どこまで気持が整理されているものだか、ジャックには想像が難しかった。言えない記憶もあった。
彼はカップがなくなって手持ち無沙汰になった指を机の上で組み合わせた。
「……ミシェルは偉いなぁ」
思っていたことがそのまま口から出てしまった。耳にしたミシェルが急いで首を振っている。真っ赤になっていた。
「えらくなんか、ありません。私……」
また首を振った。
「……ジェイラス様…と、ジャックさん…に助けていただかなかったらきっと……」
言葉が途絶えた。ジャックはミシェルを横目で眺めた。上気した顔を伏せて、ミシェルは肩を竦めた。
「……えらくなんかないです」
ジャックはのんびり首を振った。
「いやいや。いろんな奴がいるからね」
喋りながら目の裏に浮かぶ母親の顔を見極めようとした。別れたのは随分昔だったから、細かな顔立ちはもう判然としなかった。
彼女は、当時西部の国境を荒し回っていた傭兵の集団に乱暴されて望まぬ息子を産んだ後はいつでも酔っぱらっていた。まれに素面の時にはジャックに恨み言を言った。
父親がどこの誰だか、だからジャックには未だにわからない。
母親は、まだジャックが小さかった頃川に落ちて死んだ。いつものように酔っていた。仕方なく引き取った祖父は、娘を不幸にした獣の息子には母以上に冷たかった。
少しでも楽しく生きるには悪い仕事と仲間のほうがジャックにはやさしかった。そのままだったらたぶん見知らぬ父親のようなろくでなしになっていたはずだ。
強盗に失敗し、仲間に見捨てられ、袋だたきにされた半死半生の姿で道ばたに転がって、どうもろくでもない人生だと考えているところを拾われた。
拾ったのはジェイラス・ダジュールだった。
「…いつかね。その、お産は」
「春の終わりごろだそうです」
「あー……そうか」
短い沈黙が降りた。
「あら、ジャックさんのカップはどこに行ったんですか?お茶、淹れますね」
さっと立ち上がるミシェルの表情が一途な親身さに溢れているのを、ジャックはくすぐったいような気分で見た。
(そういえば、あの時のご主人様もこのくらいの年頃だったかなぁ)
──立ち上がれるか、とジェイラスは訊いた。
──がんばれ。
腕や肋が何カ所も折れている事はわかっていたが、相手の真剣な目と口ぶりに、なけなしの気力を振り絞って立った。
あの時のジェイラスはやっぱり一途な目をしていた。ジャックが生まれて初めて見る系統の目つきだった。
「ジャックさん?」
ぼんやりしたらしい。
我に戻ると、ミシェルが不審そうに湯気のたつ新しいカップを差し出しているところだった。
老婆アディールも、いつの間にか暖炉の傍の椅子に戻って居眠りをはじめている。
「どうしたんですか」
「いや…」
ジャックは掌で顎を撫でた。
「お前さんを見てて、昔、初めてお会いした時のジェイラス様を思い出してたんだ。似てるのかな」
「昔のジェイラス様…?」
ミシェルは顔を傾けて興味を示したが、ジャックは急いで手を振った。
「──いやいや、別にたいした話じゃない」
「そうですか」
少しふくれて、ミシェルは床に戻った。
*
ジャックが戻ってきた時、彼の主人は天幕にいた。
疲れたような横顔でなぜか燭台を弄っている。マルメロとジッドが構ってもらいたげに周囲をうろうろしているが目を向けてもらえないようだ。
赤毛の生え際にはちらほらと白くなったものが見え隠れし、額には考え事をしている時の癖皺が現れている。
……苦労してなさるせいか、歳を取んなすったなぁ。
ジャックは思った。
ミシェルを見てきたばかりだからそう思うのかもしれない。とはいうものの彼の主人はジャックよりかなり年下なのだが。
「遅かったな」
じろりと灰色の目で睨まれた。ご機嫌斜めだ。ジャックは急いで垂れ布を落とした。
「ただいま戻りました」
「一体、どうなっているんだ」
「うまくいきました。クレドー様の弓矢の腕は大したもので」
ジェイラスはむっつりと首を振った。
「クレドーがさっき自慢にきたから首尾は知っている。そうではなく…」
「クレール・ダンジェスト様ですか。無事食糧をお届けできましたよ」
「そうか。で……」
「ご安心ください。シラー閣下様の小姓の派手な衣裳は村では見かけませんでした」
ジェイラスは音をたてて燭台を置いた。
「ジャック…。お前はあれか、わざとミシェルの話を避けてでもいるのか」
ジャックは呆れて主人を眺めた。
「ご主人様の一番心配してらっしゃるのがその件だとは思わなかったんですよ。元気ですよ。それがなにか」
童顔の凝視にジェイラスは気色悪げな顔になった。
「…お前は心配じゃないのか?あれだけ集中的になつかれていたくせに。ミシェルの様子はどうだった。落ち込んだりはしていないのか?」
「ミシェルは見た目はぴんぴんしてますよ。麗しのアディールの言ってた通り、もともと丈夫なたちみたいですな」
「見た目?どういう意味だ」
『麗しのアディール』の謎にジェイラスは食いつかなかった。ジャックは残念に思った。
「あの婆さんに弟子入りして修行するつもりらしいです」
「弟子入りだと。婆さんは了解したのか」
「そのようです。ミシェルはやる気ですよ。春には婆さんの介添えで子を産むとか」
ジェイラスがびくりとした。
「………」
「えー……余計な事かもしれませんが」
ジャックは主人の顔から視線を逸らし、小さな声で言い添えた。
「ミシェルは、あのままで大丈夫でしょうか」
ジェイラスは肩をいからせたが黙っていた。ジャックはおそるおそる続けた。
「なんとかやっていくんでしょうか」
ジェイラスは燭台に視線を向けた。
「………自分が決めたのだ。好きにさせてやれ」
「私は心配です」
ジャックは呟いた。童顔にはめこまれた黒い目が年齢相応の陰を帯びた。
「いくらしっかりしているようでもあの娘は一人です。負けてしまうかもしれません。覚悟はどこまで続くでしょうか」
「…………」
ジェイラスは従者を眺めた。灰色の目がかすかな光を放った。ジャックは視線を伏せた。
「私の母親がそうでしたからね」
「もういい、ジャック」
ジェイラスは影のように立ち上がると入り口に向かった。
マルメロとジッドが主人の背とジャックの顔を見比べた。
どこへ行くと、今回従者は尋ねなかった。
*
三日が過ぎた。
グラン・ルシと王の使いの姿は未だ現れず、包囲軍は相変わらず積極的な作戦を検討しないまま城の包囲を続けている。
城主の現況とジェイラスの推理を聞かされたアルチュールは案の定張り切って、『閣下』の野望を転覆させるべく模範的な部下役を続けることを約束した。
そういうわけで二人の連隊長は息を潜めてシラーの動向を監視し、籠の食糧に文を入れ、ミシェルを通じて幽閉中の財務官とも連絡を取り合った。
クレール・ダンジェストは籠の中身とともに希望と勇気を取り戻し、「見張りに怪しまれぬよう、いつも弱った振りをしている。なかなか上手くなった」などと茶目っ気を窺わせる手紙をよこしてきた。
「それはいい。財務官殿はやはり頭の切れるお人らしいな」
『定例会議』の後、ジェイラスの天幕を単身訪ねてきたアルチュール・ゴラール連隊長が言った。
「このごろ『閣下』は機嫌が悪いと思わないか、ジェイラス」
「財務官がなかなか死なないので退屈してきたのだろう」
ジェイラスは辛辣に言った。
「華の都は遠く離れ、女もいない。見るものといえばお前や私の仏頂面にむさ苦しい兵士たち、こんな田舎の冬景色だからな」
「そっくりそのまま、奴に言い返してやりたいな」
アルチュールは唇をめくって唸った。
温厚な男だと思っていたが、ここに来てから──いや、正確にいえばシラーの部下にされてからというもの、アルチュールの物腰が変わった。
事あるごとに、ことさらに、より『成り上がりの連隊長』らしい態度を選択するようになった。シラーへのいやがらせかもしれない。
いや、シラーとつきあっているとついついそうしたくなる、というだけのことかもしれない。自覚があるのでジェイラスには何とも言えぬ。
「グラン・ルシはまだ戻ってこないのか?」
「見張りからはまだ連絡が来ない。そうだな、クレドー」
傍らに控えていた堅物の石頭が頷いた。
「はい。…あの、ジェイラス様。実はさきほど、いつも卵を届けてくる農夫が村から私宛の伝言をもって来ました、ミシェルからです」
ジェイラスはさっと頭を巡らせた。クレドーは思わず一歩身を退いた。
「伝言?」
「はい。ミシェルは字が書けるのですな。たいしたものです。このごろミシェルは婆さんから毒草の集中講義を受けていて、それで心づいたらしいのですが……」
アルチュールが怒鳴った。
「余計な事はいいからさっさと教えんか」
ジェイラスは表情を変えずに膝の上で密かに拳を抑えた。クレドーは急いで懐から紙のようなものを取り出した。薬を小分けにするのに使う、木の皮を薄く削って整えた経木だ。
「は。……で、ミシェルが心配しているのは、財務官殿は毒殺されるかもしれないという事だそうです」
「毒殺?」
殴られるところだったとはつゆ知らず、アルチュールがまた唸った。
「だが食事を届けているのはそのミシェルなにがしだろう?」
「そうか…」
考え込んでいたジェイラスは目をあげた。
「クレール・ダンジェストがなかなか死なないと、幽閉側がしびれをきらして、水になにか混ぜるかもしれないということだな」
クレドーは頷いた。
「ミシェルは、あるいは食事を再開するかもしれないと書いております。味やにおいがごまかしやすいからと。種類によっては、怪しまれずに弱らせていくものもあるそうで」
「いかにも『閣下』の好きそうな、安全確実で嫌らしいやり方だな」
アルチュールは腕を組み、貧乏揺すりを始めた。
「だが、頭のきれる財務官殿がそんなもの食べるわけがなかろう。杞憂だ」
「いや、アルチュール」
ジェイラスは考えながら言った。
「頭がきれるからこそ、怪しまれぬようわざと牢番の前で口にするかもしれない。演技にも目覚めておられることだしな。そこまで考えていなかった。早速ミシェルに、私からの財務官への伝言を送れ」
「はい」
クレドーはかしこまった。
アルチュールは少し感心したようだった。
「そのミシェルなにがし、なかなかの男らしいな」
ジェイラスは微笑した。ミシェルを女だと知ったらアルチュールもクレドーもさぞかし驚く事だろう。
「私もそう思う」
*
自分の野営地に戻るアルチュールを出入り口まで見送り、戻ってきた副官は連隊長の天幕の前でジャックにがっちりと袖を掴まれた。
「なんだ、ジャック。私はジェイラス様に就寝前のご報告があるのだ」
「あの、クレドー様。ミシェルは元気でしたかね。私はわけあってあまり様子を見にいけないのです」
「伝言だけでそんな事わかるものか。放せ」
ジャックの指をふりほどき、天幕に入ると連隊長の声が迎えた。
「ご苦労。で、クレドー、ミシェルの伝言を持っていたな。私にそれを寄越せ」
「………」
クレドーは懐からはかなげな木の皮を取り出して上官に提出した。ジェイラスは字面に目を走らせると裏返して、ほかには何も書いてないことを確認した。
「……クレドー」
連隊長ががっかりした様子なのにクレドーは気付いた。
「で、この他にはなにか伝言はなかったか。……その、私にではなくとも、ジャックにとか」
連隊長の、目もとのあたりが赤く見えるのは気のせいか。
己の目を疑いつつクレドーは口を開いた。
「特にありませんでした」
「そうか……」
ジェイラスは首をかすかに振り、小声で尋ねた。
「…なにも?」
「はい、それだけです」
きっぱりと言うと、その口調に傷ついたように…傷ついた?連隊長が?……ジェイラスは投げやりに言った。
「わかった。もう下がって休むといい」
首をひねりながら垂れ布をくぐると、まだジャックが張り付いていた。
「クレドー様。それで、ミシェルは他には伝言を寄越しませんでしたか?アディール婆さんはあの子をこき使ってやしませんかね」
うんざりした副官とまとわりつく従者との言い争いに耳を傾けながら、ジェイラスはマルメロの頭を掻いていた。
ジッドが、自分も掻いてもらおうとしてマルメロを押しのけようとする。マルメロが怒って小さく唸った。
「こら、喧嘩をするな」
(…こいつらも運動不足だな)
ジェイラスはそう思った。
野営地が広く中を駆け回れるといっても、猟犬の血筋のマルメロもジッドも体力は有り余っているはずだ。
「……外に行くか?」
声をかけるとどちらも耳をそばだて、そわそわと頭を高く持ち上げた。尾が元気よく床に打ち付けられはじめた。
ジェイラスは立ち上がった。素早く剣をつけマントを羽織った。
「よし。行こう」
天幕を出ると少し離れたしょぼくれた木の下で、副官がジャックに質問責めにあっていた。めざとく主人の姿を見つけたジャックが叫んだ。
「ジェイラス様、どちらへ?」
「こいつらの散歩だ」
「それでしたら私が…」
最後まで聞かず、ジェイラスはマルメロとジッドの後を追い、マントを翻らせて駆けだした。
引き離すなら今のうちである。ジャックは中年のくせにああみえて意外と足が速いのだ。
………クレドーにはあとでそれとなく埋め合わせをしてやろう。
*
「今夜は特に冷えるみたいだし、早く寝ちまいな」
アディール婆さんは頭巾とショールをかぶった上にマントをきつく巻き付けた完全防備の姿で、道具や薬草の入った籠を手にし、戸口に立った。
「このまま朝まで戻れないと決まってるのさ。ペリョのおかみさんは毎回長引くから。火の始末には気をつけるんだよ」
ミシェルは頷いた。彼女の師匠は村の反対側の農家まで赤ん坊をとりあげに行くのだ。
遠ざかるアディールに手を振って家に戻ると、ミシェルは老婆が早めの腹ごしらえをしたスープとゆで鳥の残りで夕食を済ませた。
皿を片づけ、暖炉の脇の小机によりわけておいた薬草の束を床にひろげた。覚えたいことは山のようにある。
「吐き気止め……ええと、この花と葉は……」
ミシェルは、もとは白や桃や紫色なのだと老婆が教えた、今は黒っぽく見える乾燥花を指先に拾った。
「そう。胸が苦しいとき…で、こっちは」
どのくらい熱中していただろう。
ふと手を止め、彼女はさっと頭をあげた。
遠くで物音がしたような気がした。しばらく耳を澄ませ、ミシェルは急いで立ち上がった。
まだ早いがもう戸締まりをしておこう。村の中ではあるけれどこの家の周囲は林に区切られているから用心に越した事はない。
立ち上がるとミシェルは床の薬草を避ける暇も惜しんでまっすぐに扉に向かった。
戸締まり──と思うと歯止めが効かなくなった。どこかに消えたと思っていたどす黒い不安が頭を擡げ、周囲を見回しているのがわかった。
どうして今の今まで忘れていたのだろう。忘れることができたのだろう。
ミシェルは必死で扉に辿り着いた。狭い部屋なのに、暖炉からそこまで沼の中を進んでいるようにもどかしかった。
指が震えている。その指に力を込めて無理矢理閂をかけようと──途端に扉が叩かれた。
ミシェルは悲鳴をあげ、閂にしがみついた。
いや。
いや。
いやだ、『あいつら』が入ってくる。
軋む扉が内側に勢いよく押し開けられ、ミシェルははねとばされるようにしてよろけ、後ずさった。
冷たい風に雪が混じり、暖炉まで薬草を吹き散らしながらどっと吹き込んできた。
「なにをしている」
「すぐに開けないか」
二人の派手な緑色のお仕着せをつけた従者たちが威丈高に怒鳴りつけた。ミシェルは目を見開きながらその胸についた紋章を見た。赤い木に落ちかかる稲妻──。
従者たちを押しのけて、尊大な口ひげをつけた小男が現れた。
「おやおや。なんというむさくるしい小屋だ」
シラー男爵だった。
*
シラーはうさんくさげに、直線という直線が薬草に覆われた部屋を見回した。
火に飛んだ葉や花がくすぶって、一種異様な臭いが漂いはじめている。
「臭い。さっさと用事を済ませよう」
従者の一方がミシェルに進み出た。
「あのまじないの婆さんはどうした?いないのか」
ミシェルは呆然と突っ立ったままだった。なぜジェイラスの上官がこんな場所に現れたのか、その理由が掴めなかった。
なによりも心臓が波打ち、さっき一瞬甦りかけた恐ろしい記憶に怯えていた。
ミシェルと妹のコレットと父が住んでいた小さな家は村の外れに近かったから最後に襲われた。
あの時も夜だった。夏の終わりで、戸締まりに気をつかっていなかった。村の誰もが日中の労働で泥人形のように眠りこんでいた。
「婆さんはいないのか?お前は口がきけないのか?答えぬと…」
従者の、苛立ちをのせた詰問をシラーはおさえた。
「誰でもいい。用事が済めばな。おい、小僧」
口ひげが蠢いて、シラーはひどく卑しい目をした。
「よく効く薬をよこせ。邪魔者の命を、後々知られぬように奪えるような」
ミシェルの理性が火花を散らした。要求とその具体的な内容が即座に結びついた。
ジェイラスに知らせた通りに──ミシェルが予測した通りに、クレール・ダンジェストの命に危険が迫りつつある。
だがミシェルは動けなかった。遠く感じる理性とは別に、かすかに震えながら、ミシェルの心は数ヶ月前の悪夢の中を彷徨っていた。
扉を叩く音がして──何事かとミシェルがあけると押し入って来た男に手首を掴まれた。外に引きずり出されて殴られた。
数瞬気が遠くなり、気付くとミシェルの上に男がのしかかっていた。抵抗すると容赦なく殴られ、また気を失った。
誰かが叫んでいた。その声で目覚めると、げらげらと笑いながら誰かが火になぶられた家の中に妹を投げ込んだ。
コレットはまだ十歳にもなっていなかったのに。
「シラー様にお答えせぬか、小僧が!」
従者がミシェルの膝を蹴った。ミシェルはよろけて床に座り込んだ。緑色の目は開ききり、顔色が吹き込む雪のようになっている。
「聞こえてはおらぬか、それとも頭が変なのではないか?」
シラーは顔をしかめて従者に顎をしゃくった。
「それはそれで始末が楽で良いがな。…毒物ならそれなりに保管してあるはずだ。家捜ししろ」
従者の一人は床に這いつくばり、もう一人は暖炉の傍の小机の抽出をかたっぱしから落とし始めた。
シラーは退屈そうに傍らの椅子に座り、持っていた杖の先で床のミシェルの肩を強く小突いた。
ミシェルはがくりとのけぞり、絶叫した。
コレットの影が火の中で崩れ落ちても男は離れようとしなかった。一人が起き上がると別の男がすぐにミシェルをおさえつけた。
誰かが泣いていた。叫んでいた。娘を放せ。ミシェルを。やめてくれ、やめて──逃げて、とミシェルは祈った。とうさんだけでも逃げて。
腹から下が麻痺していて何もわからなかった。
自由になるのは目だけで、その目でミシェルが見たのは、顔中を腫らし、首に縄をつけられた父と、その縄の先を繋がれた馬が鞭で殴られるところだった。
「な、なんだこいつ」
「男のくせになんて声を出すんだ」
従者たちが仰天して飛び上がった。シラーも驚いたようにまじまじと床の貧弱な小僧を眺めた。
「待て」
黙らせようとミシェルに飛びついた従者たちをシラーは怒鳴りつけた。退いた彼らの間にしゃがみこみ、一声叫んだあとは身を揉んで低く呻き続けているミシェルを観察した。
その視線が細まり、シラーは杖の先を持ち上げた。胸を突くと、ミシェルはまた小さく叫んで縮こまった。
口ひげの下の唇が薄く伸び、シラーはにんまりと笑った。
「ほう。ほうほう。……これは驚いた、やせてはおるがこの感触。しかもよく見ればそう悪くもない顔立ちだ。これは面白い」
「…女、でございますか。しかし、男のような格好ですぞ、ご主人様」
従者たちは驚きとあきらめの目を見交わした。シラーは立ち上がり、杖を投げ捨てた。
「そんな事はどうでもいいわ。お前達、汚い納屋が見えただろう。あちらをしばらく探しておれ──ゆっくりな」
主人の病的な女好きに馴れきっているらしい従者たちは急いで小さな流し台傍の戸口を潜って姿を消した。
「あまりに退屈なのでついてきたが、正解だったの。ふわはははは」
シラーは高笑いし、ミシェルの胸ぐらを捕まえて引き寄せた。虚ろな目にちょっと顔を顰めたが、手はとめなかった。
ミシェルの上着の合わせ目をむしるように引っ張りながら、シラーは彼女がぶつぶつ呟いている声に気付いた。
「……さん……とうさん………逃げて……やめ……」
「何を言っておるのだ。うるさい、黙らんか!」
シラーは怒鳴りつけ──はっと後ろを振り向いた。
強い風が吹き込み、きちんと閉じていない扉が雪を散らせながら勢いよく開いた。
さえない中年男が立っていた。
怒りに青ざめた童顔に、いつもは埋まりがちの黒っぽい目が飛び出すように見開かれていた。
「──ミシェル!」
ジャックは叫んで部屋に飛び込んだ。シラーの手からやせた躯を奪い取って揺さぶった。
「ミシェル、大丈夫か、ミシェル!」
ミシェルの、茫洋とした視線と、喉から漏れるぜいぜいという、細い、途切れがちの呼吸音にジャックは半狂乱になった。
「ミシェル!俺だ、ジャックだ!」
「何をするか、無礼者!」
突き飛ばされて床に腹這いになったシラーがわめいた。
「ど、どこかで見た顔だ。たしか、えーとお前は確か、連隊長めの従者ではなかったか?なぜこんな所にいる!」
ジャックはシラーに視線をやりもしなかった。
「ミシェル!ジャック──いや」
ジャックはミシェルの頬を掌で軽く叩いた。
「とうさんだ!とうさんがいるぞ!とうさんは、お前のとうさんは大丈夫だ!」
ミシェルの喉がひゅっと音をたてた。振り絞るように彼女は呼んだ。
「とう──さん」
「そうだ!しっかりしろ!ミシェル!!」
ミシェルの緑色の目に、中身が戻って来た気配を感じたジャックは安堵し、次の瞬間後ろ頭に炸裂した痛覚に一瞬視界が狭まった。
ミシェルを投げ出し、ふりむいたジャックに覆い被さるようにして腹の出た小男が重そうな杖を手にしている。
「この私にどんな無礼を働いたのか、その身で思い知れ!この身の程知らずめが!」
意外な素早さでシラーは手首を翻し、ジャックをめった打ちにし始めた。
「お前は!お前のような者が貴族を突き飛ばすなど、許される振る舞いと思っておるのか!主人が無礼なら従者も無礼だわい。ええい、死ね死ね死ね」
ジャックは目を燃やして起き上がろうとしたが、シラーの叫びに固まった。
「おもしろい、下郎の分際で私に逆らうつもりか。お前の主人めのゆく末に気をつけろよ。私はゆくゆくは常設王軍の元帥にもなる身なのだぞ」
*
野営地を出たジェイラスと愛犬たちは街道を大回りして森の端を抜け、尾根側のぎりぎりから村に入った。
シラーの尾行がないか確認していたので思ったよりも時間がかかってしまったが、村に入ると小川の向こうに苔むした屋根が見えてきた。
小さな草葺きの納屋のついた古い民家。まじない師の婆さんの住処である。
だがここまで来ておいて、橋に近づくに連れてジェイラスの足取りは鈍り始めた。
小川に木造の小さな橋がかかっている。そこから道は緩やかに曲がって、そこまでいけば家全体が見渡せるはずだった。
「………………」
散歩のついでに様子を見に行くだけなのだ。別にやましい事はないのだ。
マルメロとジッドが亀よりも鈍くなった主人に焦れて先に橋を渡り始めた。…犬が先に行くから、仕方がないのだ。
ジェイラスは迷う足で橋を渡り終え、緩やかな曲がりにさしかかり、立ち止まった。
灰色の目が、村から合流する道にうっすらと積もった雪の上に消えかかる複数の足跡を見つけたからだ。マルメロとジッドが唸りながらうろうろ臭いを嗅いでいる。
ジェイラスの視線は上に流れ、家の扉がわずかに開き、雪まじりの風に揺れているのを見て取った。内側から灯りが漏れていた。
犬たちが吼え、一目散に家に向かって駆けはじめた。
ジェイラスは剣の鞘を後ろに廻し、全速力で後を追った。
*
ミシェルは咳き込みながら、震える腕に力を込めた。
「この愚か者が!貴族に手をあげおった罪はその薄汚い血で償うのだ。そら!そら!」
短い風切り音と共に肉がうたれる響きが伝わってくる。縮こまろうとする躯をミシェルは必死に押しとどめた。
とうさん──逃げて──とうさん。
中年男は逃げようとしなかった。しっかりと頭をおさえ、躯を丸めて、シラーの執拗な暴行にただひたすら耐えている。
シラーは指が疲れたのか、杖を投げ捨てた。だがそれでやめたわけではなく、今度はジャックに乗りかかって直接殴り始めた。
ミシェルは、目の前の床に転がった重そうな杖を見た。金のめっきで覆われた石突きに黒く血が跳ねている。手を励まして、その柄を握りしめた。
がくがくと震えながら、ミシェルは杖を頼りに立ち上がった。
泣いたって役に立たない。
ミシェルは目の下で揺れている父親の躯と、その上に乗りかかって殴りつけている男の頭を見下ろした。
とうさんは逃げない。いつまでも逃げない。逃げられないのだ、いくら多勢に無勢でもコレットとミシェルを見殺しにできなかったから。
とうさんの掌はいつもあんなに温かだったのだから。
ミシェルを守ろうとして、それから──ジェイラスを──守ろうとして、ジャックはこの場を動けない。
──二度と大事な人たちを失いたくない。
ミシェルは大きく息を吸い込んだ。信じられないくらい深い息ができた。
「やめて!」
叫んだ。振りかざした杖を、ぎょっとして振り向いた男の額に、思い切り打ち込んだ。
「やめなさい!」
額をおさえた男の手首にもう一度ミシェルは打ち込んだ。
「とうさんにもコレットにも触らせない!ジャックさんにもジェイラス様にも、あんたなんかには触らせない!」
たまらず丸まったシラーの背に、ミシェルは三度目の杖をうち下ろした。
「あんたなんかっ!怖くない!弱い相手にしかなにもできないくせにっ!」
「ミシェル!」
大きな掌がミシェルの手を掴んだ。二疋の犬が吼えながら駆け込んできて、シラーの尻に噛み付いた。
涙を散らせてミシェルが振り仰ぐと、灰色の目が覗き込んでいた。
「シラーがなぜここにいるんだ。それにどうしてお前が──」
そこまで言ってジェイラスは、頭を抱えて丸まっているジャックと、猟犬の鋭い牙でしたたか噛み付かれた痛みに悶絶したシラーと、ミシェルの手の中の見覚えのある杖に気付いた。
「──いや、もう少し殴ってもよかった。ジャック!大丈夫か!?」
「………いててて。ああ、この閣下はとんでもない野郎だ」
ジャックがもぞもぞと動いて顔をあげた。童顔の額にはびっしりと汗を、こめかみには血を浮かべていたが、ミシェルを見ると急いで起き上がった。
腕の中のやせた躯がくたくたと崩れ落ち、ジェイラスは慌てて膝をついた。
「…ジェ…ジェイラス様」
「ミシェル」
ミシェルは緑色の目でジェイラスを見上げた。震えていたが、言葉は明晰だった。
「わたし、私──とうさんを助けました。で、できました。ジェイラス様みたいに」
ジェイラスはその目に涙が盛り上がるのを見て、急いで片手の手袋を噛み抜いた。目尻を指で拭うと、ミシェルは錆び付いたような微笑を漏らした。
ジェイラスはかすかに息を呑んだ。ジャックは別として、彼がミシェルの微笑を見たのはこれが初めてのことだった。
ジャックが這うように近づいて来て、ジェイラスの傍に肘をついた。
「ミシェル、本当に偉かったよ」
その声が聞こえたのか聞こえなかったのか、ミシェルはジェイラスを見上げていた。
「……あの時、躯が重くて、もう死ぬんだと思いました。嫌ではありませんでした。死んでもいいと思っていました」
うわごとのように囁き続ける。
「ずっとずっと死にたかった。見張られていたからできなかったけど、ずっととうさんや妹のところにいきたかった。あ、あいつらに捨てられた時、これでようやく一人で死ねると思いました」
聞くしかできそうになく、それは彼にとって苦痛以外のなにものでもなかったがジェイラスは黙ってミシェルの涙を拭い続けた。
涙はあとからあとから、言葉と同じに転がり出てくる。
「こんな躯、いらない。あいつらが触った髪も、ドレスもいらない。自分も死んで、こ、この子も死ねば一番いいと思ってました」
ミシェルの指が、ジェイラスの手を握った。
「だからあの池の水に入ろうとしました。池の底は、岸の近くで深くなるから。でも──」
涙で歪んだ目が、緑色を増してジェイラスを見た。
「死ねませんでした。さ、寒くて、冷たくて、勝手に涙が出るんです。し、死にたくなかったんです。本当は、あんな奴らのために死にたくなんかなかったんです。わ、私も、この子も──」
語尾は嗚咽で聞き取れなかった。
「とうさんも──い、妹も─村の、ともだち…………」
「もういい、ミシェル」
ジェイラスは、腕に力を込めてやせた娘を抱きかかえた。今回は水を含んだスカートはなく、軽々と彼は立ち上がった。
マルメロとジッドが足元に駆け寄って来て、ジェイラスは従者に言った。
「立てるか」
「当たり前です」
ジャックは痛みに引き攣った笑いを浮かべた。
「昔ご主人様に助けて頂いたときにゃもっとひどい有様でしたさ」
ジェイラスは頷いた。
「戻るぞ」
ジャックは机に掌をつき、顔を顰めた。視線の先に、破れたズボンの尻から血を流したシラーが転がっている。
「『閣下』はどうします」
「あの者たちがなんとかするだろう」
ジャックは小さな戸口の影から恐る恐るこちらの様子を窺っている四つの目を見つけた。気絶したままの主人を介抱しに駆け寄ってくる気配はない。
童顔の従者は吐き捨てた。
「きっと、気付いて喚き出すまではできるだけ放っておきたいんじゃないですかね」
*
野営地に戻ってみると、寝ているはずのクレドーと向こうの丘にいるはずの『青猪』連隊長アルチュールが血相変えてジェイラスを探しまわっていた。
「どこにいらっしゃったんですか、ジェイラス様!グラン・ルシが戻りました!」
副官がとびついてきて、腕の中の少年に気付いた。
「…ミシェル?ジェイラス様、この子はどうしたのですか」
「病気だ。ジャックと一緒に、私の天幕に頼む」
クレドーが急いでジャックとミシェルを連れて行くと、ジェイラスは近くにいた別の兵士を呼び止めて手早く村への伝言を命じた。
ミシェルの師匠が留守だったのはおそらく仕事のためだろうが、万が一にも今夜は我が家には戻らないほうがいい。
兵士が復唱して飛び出して行くのと入れ替わりに、アルチュールに伴われてグラン・ルシが現れた。
「ただ今戻りました、連隊長。国王様のお使者をお連れしています」
「よくやった。で、使者はどなただ」
赤ら顔の古参兵はにやっと笑った。
「正真正銘の憲兵隊長殿のご一行です。シラー閣下の天幕にご案内しています。…国王様のご決断の早い事、連隊長の兄上様も、今回私をお目見えさせなさるのにたいしたご苦労はおありではありませんでした」
「憲兵隊長か」
ジェイラスも思わず頬を緩めた。クレールの話が真実ならば──真実だろうが──憲兵隊もこのたびの大掛かりな詐称のネタに使われているのだ。
憲兵隊長が今の時点でどれほど事情を知っているかは判らない。
だが、財務官の証言を得た暁にはきっとシラーをはじめとする関係者に対する訊問は厳しいものになるだろう。
「で、ジェイラス」
アルチュールが割り込んだ。
「あの小男めがどこにもいないのだ。まさか風向きが怪しくなったことを悟って逃げ出したのではなかろうな」
ジェイラスは肩を竦めた。
「村のまじない師の家に行ってみろ。犬に尻を咬まれて泣いている」
「またまた」
アルチュールは眉をあげた。
「本当だぞ。咬んだのは私の犬だ。マルメロとジッドだ」
ジェイラスのマントの下で、二疋の犬がちぎれるほどに尾を振った。
温厚なはずのアルチュールは不謹慎なほどの大声で笑い出した。
「よくやった。後でこいつらに、『青猪』から干し肉を贈る。牙を消毒してやっておけよ。……わかった、上官殿が現場にいないんじゃ仕方ないな。打ち合わせを始めよう」
ジェイラスは頷いた。国王の使者が来た事を城方に悟られる前に、一刻も早く財務官の身柄を確保しなければならない。
久方ぶりの本気の仕事だ。
自分の天幕をちらりと見て──かがり火に照らされ、雪をまぶしてひっそりと佇むそれを灰色の目で穏やかに見て──ジェイラスは大声で、兵士達にシラーの身柄の確保を命じた。
*
天幕の布は変わらず高く白い優雅な波を描いて寝台に横たわるミシェルを包んでいた。
ぐっすり眠ったからだけではないようなスッキリとした心地で、彼女は短い茶色の髪に覆われた頭をもたげた。
寝台の傍で樽に座ったまま舟をこいでいるのはジャックだ。あちこち血がこびりついた顔がいたいたしいが、思ったほど腫れてはいない。
ミシェルは視線を巡らせた。ジャックの足元で伏せている二疋の犬が耳をあげてミシェルに視線を合わせた。
「…ジェイラス様は?」
ミシェルはマルメロに囁いた。
「ご主人様はどこにいらっしゃるの?」
マルメロはジッドと相談するように鼻先を触れさせたが、二疋とも尾を軽く振っただけだった。
外は彼女の記憶にないほど賑やか、というより慌ただしげな足音や話し声でざわめいている。この明るさからいくと、おそらく午前中半ばといったあたりだ。
ジェイラスに似た声が近づいてきた。ミシェルは思わず撥ねたままの毛先に手をのばした。
一言二言何事かを命じた後、垂れ布を払いのけてジェイラス本人が入って来た。
「ジェイ──」
言いかけたミシェルに軽く手を振ってみせた。ジャックが眠っていることを思い出し、ミシェルは口を噤んだ。
寝台の脇までくると、ジェイラスは床几を引き寄せて座った。
「気分は?」
心地よく低い小さな声だった。
唐突に、ミシェルはその声を何度も聞いていた事を思い出した。この天幕の中に浮かびあがる度に囁き交わしていた声のひとつ、ジャックの掌と同じく何度も彼女を気遣っていた声だ。
ミシェルは口元をおそるおそる綻ばせた。ジェイラスが灰色の目を促すように細めた。
「──ミシェル?」
ミシェルは視線をジェイラスの目に合わせた。なにか言わねばならず、言いたくもあった事がたくさんあるような気がしたが、何も言えないような気もした。
彼は呟いた。
「無事で良かった」
「…………」
「ジャックも大丈夫だ。マルメロもジッドもがんばった。お前も──良くやったな。その調子だ」
ミシェルは上気した顔を思わず伏せた。
ジャックの気持ちがわかるような気がした。
ジェイラスはいつまでも次の言葉を紡がなかった。天幕の中には外からのざわめきとそれに紛れたジャックのかすかな寝息の音、それと犬たちの尾が床を叩く音だけが響いている。
「──そういえば、財務官殿だが」
ジェイラスが唐突に会話──と呼べるものなら──を再開した。
「救出したぞ。城は落とした、夜明けにな」
ミシェルは問うように緑色の目をジェイラスに向けた。彼は頷いた。
「ご無事だ。しばらく休養すれば、すぐに元通りにおなりだろう」
真面目な口ぶりで付け加えた。
「お前のおかげだな」
ミシェルは急いでかぶりを振った。
「自分を見誤るな、ミシェル。お前には勇気がある。お前は──」
ジェイラスは周囲を見回した。樽の上のジャックを見つけて肩をそびやかした。
「──ジャックに、娘のように大切に思われている。マルメロとジッドにも。こいつらが人の尻を咬んだのは昨夜が初めてだ」
微笑を期待した灰色の目を見返さず、ミシェルは毛布の上に再び面を伏せた。
「…それは、きっと、みんなジェイラス様が好きだから」
今度はジェイラスが黙り込んだ。
ミシェルはかすれそうになる喉をはげました。
「ジェイラス様は、私とこの子に命をくださいました。だから、みんなは私を護ろうとしてくれたんです」
「……その理由をお前さんは知っているのかい、ミシェル」
従者の声にジェイラスは、娘につられ、伏せ勝ちになっていた顔をはねあげた。
樽に座って目を閉じたままのジャックが呟いた。
「いーや、知らないから出て行ったんだ。一番反対なすったのは誰だね。せっかく行儀よくしつけたマルメロとジッドを閣下の尻にけしかけなすったのは誰だ」
「けしかけたんじゃない」
ジェイラスは唸った。
「それより、寝た振りをするのはミシェルだけかと思っていたのに」
「…みんな似た者同士なんでさ」
ジャックは横着に目を閉じたままにやっとした。
「それよか忘れてなさりますよ、ご主人様」
ジェイラスはむすっとして立ち上がった。
「何の事かわからぬ。忙しいからまた後でな、ミシェ…」
「差し出がましいようですが、ご主人様はどうなんです」
ジェイラスはマントを翻らせて立ち去ろうとしたが、床几に脛をぶつけてよろけた。目の前に滑ってきた床几の足を避けて、ジッドが唸った。
「私と犬たちがミシェルを気に入ってるのはその通りです。ジェイラス様は?──命を助けて男の格好をさせただけでご満足なんですかい」
「だから!」
ジェイラスは怒鳴った。
「勇気があると褒めている。勇気があるのは人間として一番大事なことだ」
ジャックは腕をほどいて樽から立ち上がった。
「その大事な勇気を今、もうちっとだけ振り絞ったらどうですか。だから戦場以外じゃ役立たずとか人様に言われるんです」
「言っているのは主にお前だ」
ミシェルは呆然として主従のやり取りを聞いていた。
その前に自分の主人の肩を押し出して、ジャックは痛そうに口元を歪めつつ犬たちに「さあ、一緒に来な」と呼びかけた。
「一世一代の正念場の邪魔はしちゃなんねえよ。いいですか、ジェイラス様。ちゃんとお言いなさいよ」
「行くなジャック。──何を──どう──言えというのだ」
ジェイラスが小さな声で言った。頬が赤くなっていた。
「後でひどいぞ」
「喜んでお叱りを受けますよ。お言いなすったらね」
ふと、ジャックは寝台の傍らで足をとめた。混乱しているミシェルに、彼は囁いた。
「嫌でなけりゃ、これからも俺たちと一緒にご主人様を護って差し上げないかね。お前さんには充分その資格がある──なにせ」
ジャックは痣のできた童顔をほころばせた。
「今回も、拾って来たのはジェイラス様なんだから」
***
「──とにかく遠慮のない奴だったがいい従者だった。六年前の秋に流行病で死んだが。そうだ、お前はジャックは覚えているな?」
ジェイラスは目の前の椅子に目を向けた。
椅子に座っていても嵩高い彼の甥──現在の、北部駐屯軍の中心である『塔に柊』連隊長──は青い目を懐かしそうに瞬かせて頷いた。
「覚えております。ですが、私にはいつもよい従者に見えました。館に伺ったおりにはよく犬たちと遊ばせてくれました」
ジェイラスは白い筋の太くなった頭を、肘掛けに置いた手に凭れさせた。
「マルメロもジッドも、生きておればジャックと一緒にお前の祝言に連れていってやるのだが。あれらも、長生きはしたがやはり犬だからな」
「そうですね……で、その……そ、そ、そういうわけでして」
サディアスは居心地悪気に、執務机の上に置かれたミニアチュールに目をやった。
彼の従妹にあたる、叔父の長女が生き生きと描き出されている。
彼の叔父の将軍は笑って、片手をのばすとそれを伏せた。
「いやいや、この件は忘れてくれ。かねてから目をつけていたつもりだったが、お前がとうに婚約しているとは知らなかったのだ。で、いつその相手を紹介してくれる?」
大男の甥は恐縮してかしこまった。
「あ、あ、あの、実はその。予定ではもう少し先のつもりだったのですが、そ、そ、その。この夏までには式をあげようかと」
ジェイラスは眉をあげた。
「それは急なことだな。なにかあったのか」
甥は赤毛の根元まで真っ赤に染めた。
「叔父上に言うのは恥ずかしいのですが、そ、その。こ、こここ………こどもができまして」
ジェイラスの灰色の目がいたずらっぽく見開かれた。
「そう、かしこまらんでもいいだろう。……私も妻に求婚した時には、モリーが腹にいた」
「そ、そうでしたか…」
サディアスが上体を硬直させた。王国中の青少年と彼の憧れの星であるジェイラス・ダジュール将軍の意外な話に仰天したらしい。
「だが、それはよかったな。大事な者と一緒にいると勇気が湧くぞ」
ジェイラスは年齢よりもはるかに滑らかな動作で立ち上がった。
机の上のミニアチュールを懐にしまい込むと、口の中でなにか呟いた。
「……となると……第二候補だな」
叔父の将軍には娘ばかりが五人いる。
長女から末の娘まで揃って叔母によく似て気だてのいい美人揃いだし、なによりジェイラス・ダジュールの娘であるしで、サディアスが辞退したとてすぐに良縁に恵まれそうだ。
だが、叔父の腹づもりでは跡取り娘の婿の第一候補だったらしいことにサディアスは驚いたものの悪い気はしなかった。
実は、美人のモリーはともかく、この叔父と親子になれなかった事だけは正直なところ残念だ。
これもクロードに知られたらむくれられるだろうか。
叔父が窓の外を見ている。晴れた北の空に翻るそれは塔に柊が絡まる意匠の連隊旗だ。
「サディアス、あれはいい旗だろう」
前任者オベルの何代か前の連隊長は叔父だった事を思い出し、サディアスは頷いた。
「はい」
叔父は灰色の目を懐かしそうに細めた。
「…ジャックもあの旗が好きだったよ。私が初めて勇気を振り絞った時の旗だといってな」
きびきびと扉に身を翻した叔父を見送ろうと、サディアスは巨体を揺るがせて椅子から立ち上がった。
おわり