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独占欲

ナサ ◆QKZh6v4e9w氏

肩や腿に痛いほど当たっていた枝先や葉がすっかり消え失せ、身軽になったところでナタリーは手綱を引いた。
森の隙間に差し込んだ日溜まりはいかにも明るく、見上げた空は円蓋のようにぽっかりと頭上を小さく覆っている。
ここはどこだろう。
遠乗りも遠乗り、館からずいぶん離れたところまできてしまった事だけはわかる。
ナタリーは手綱を握った拳を鞍におろし、馬の好きに前進させながら、イヴァンが早々に追いついてくるかどうかちらりと背後を確認した。
ナタリーの馬は騎手にあわせて小柄だから倒木が乱雑に隙間を生んだ地帯でずいぶん有利だったわけだが、抜け駆けされた彼が後で盛んに悔しがることだろうと思うと、とても楽しい。

なにごとであれ、彼女がイヴァンに勝つのは珍しい。
今日は乗馬用ドレスでではなく、イヴァンにねだって(彼女だってそれくらいの駆け引きはできる)遠駆け用に誂えた男と同じ服装なのだが、それが功を奏したのかもしれない。
おっとりとした横がけでなく、思い切りよく跨いで馬を駆るのはやはり気分が爽快だ。
ナタリーはわけあって昔から男のような乗り方で練習をしてきたので、そちらのほうが得意でもある。
だが、実際イヴァンは相当の馬術の名手である事だし、今日のささやかな勝利は僥倖だったと思っていたほうが良いだろう。



だらだらとしばらく森を抜けているうちに、ふいに薄暗い木々の壁は途切れた。
出た場所は昼も間近な陽の溢れかえるなだらかな丘陵地帯であり、黄金に色づきかけた小麦やこれから盛りにかかる豆の畑が延々と風に吹かれている。
はるか向こうの小高い丘に、小さな教会と城を頂いた村が見えた。
ナタリーはふと褐色の目を細めた。
どこにでもありそうな凡庸なこの景色に、なぜか見覚えがある。
森を出たナタリーは村への細い街道に踏み込んだ。
イヴァンはまだ来ないし、今日は二人だけだから従者を気にする必要もない。
久々の完全なる自由行動の楽しさに、ナタリーはかたちのいい唇を綻ばせた。

王の後継者の愛人としての生活は、楽に見えても楽ではない。
愛人といってもただの囲われ者ではなく、正式な婚約に先立っての彼女の旧家との養子縁組は終了している。
にしても実家が反乱軍の一羽であった事は変わらぬし、まだ堂々と人前で紹介される立場にはない。
髪もなんとか正式に結えるほどまで伸びたけれども、正式に議会の承認を受けるまであと一・二ヶ月は待たねばならない。
こういう曖昧な立場というのはそこにいるというだけで結構なストレスになる。
常に身を潜めていなければならないような、理不尽な感覚を受けざるを得ない。



田舎道をこうやって、五月の青空の下に胸を張り、風に髪をなびかせて馬に乗っていると非常に愉快だった。
畑沿いの長い下り道を降りながら、再びナタリーはどうもこの風景は見たことがあるという既視感を覚えた。
亡き父の領地ではない。そうたびたびではないが連れて歩いてもらったことがあるから大体の場所はわかっている。
ここがどこらへんになるかはわからぬが、イヴァンの領地の付近には実家のそれは確かになかった。
ではどこで見たのだろう。
この、もどかしい感覚は最近の記憶ではない。

かなり昔。
忘れかけているような、ほんの小さな頃の記憶…?

眉をひそめて馬に揺られていたナタリーは、前方の丘から馬が二騎下りてくることに気がついた。
かなり森から離れてしまっていることに気づき、後ろを振り返る。
まだイヴァンの馬の気配はなかった。
もしかしたら、倒木地帯を突っ切るのは諦めて大きく迂回をしているのかもしれない。



顔を戻すと、みるみる近づいた先頭の馬の足取りがすこしゆるんでいるところだった。
半分かた農道のような狭い道なので、どちらかが譲らねばこの速度でもすれ違うのは難しかろう。
ナタリーはたまたま近くに迫っていた掘っ建て小屋の手前の空き地に入って馬を止めた。
相手は会釈をし、足を速めて行き過ぎようとして……、急に立ち止まった。
先頭の騎手がじっとこちらを窺っている。
ぶしつけなその視線に居心地の悪さを感じ、ナタリーは気づいた。

今日は髪をまとめていない。
イヴァンと二人だけの森の遠駆けだと言うことで、油断をしていた。
男のような服を着ているのに髪だけは長い女の髪。
それは、見る者は、さぞかし奇異の念を持つだろう。
ナタリーは恥ずかしくなって顔を伏せた。



早くすれ違って、行ってくれればいいのに。

だがその騎手は、手綱を置くとなんと馬から降りた。
後ろの騎手…おそらく従者…がとまどっている。
近づいてきた男は、のみならず、少々自信なげに彼女に呼びかけた。

「………ナタリー?」

知り合いだろうか?
ナタリーは顔をあげ、じっとその男の顔を見た。
彼女より五・六歳年上らしいその男は、小さな口髭を生やしていた。
灰色の目にこれといって特徴のない平凡な顔がつばの巻上がった帽子の下から見上げてくる。
覚えがない。
困惑が表情に出たらしく、その男はますます自信なげな口振りで繰り返した。
「もしも違っておりましたら失礼。……コルトス伯爵家のナタリー嬢では?」
いきなり実家の名を出されたナタリーは目を見張った。
今では叛乱荷担により実際には爵位は格下げになっているのだが、家名を知っているということは確実に知り合いのはずである。
…だが、見覚えはない。
ナタリーは仕方なく口を開いた。
「ごめんなさい。私は確かにコルトスのナタリーだけれど、あなたを思い出せませんの」
「無理もない」
男は帽子をとった。
「最後にお会いしたのはあなたが八つにも満たぬ頃だった。モロー家のフィリップと言えばおわかりか?」

途端、彼女の頭の中でその名と凡庸な風景が見事に一致した。
「フィリップ!」
ナタリーは叫んでまじまじと男の顔を眺めた。
「でもフィリップは可愛い子で、そんな口髭を生やしてはいなかったわ」
「それは、子供だったから」
フィリップは笑った。
「あなたのその髪は昔と変わらず豪華だね。それで気づいたのだが」
金褐色に波打つ髪を眺め、彼は不思議そうに尋ねた。
「そういえば、どうして未だにそんな格好をしているんだい?ナタリー」




フィリップは、父の旧友であるモロー男爵の一人息子だった。
ナタリーより確か六つくらい年上で、幼い頃よく父に、兄と共に遠く離れた領地に遊びに連れていってもらった事を彼女は思い出した。
見覚えがあるも当然、この景色は彼女の幼い頃の記憶と同じだったのだ。
「跡を継いだんだよ。先々月に父が亡くなったもので」
指摘された口髭を撫でながら、フィリップは言った。
口調が、幼馴染みらしくすっかり柔らかいものになっている。
これから従者を連れて村周辺の畑の様子を見に、領地を一巡してくるのだという。
「知らなかったわ。ごめんなさい」
ナタリーが謝ると、彼は苦笑した。
「こちらこそ。昨年の時にも何もできなかった」
叛乱時の事である。
モロー男爵家は国王側についた。ゆえに現在も安泰の模様だ。
兄の暴走がなければ当然彼女の実家もそうだったはずで、現在も伯爵のままだったろうがまさしく明暗さまざまである。
フィリップは残念そうに続けた。
「父も忠告したんだけれど、アンリは聞いてくれなくて」
ナタリーの兄の名だ。
「いいのよ。終わった事ですもの」

ナタリーが首を振ると、フィリップはじっと彼女の見事な栗毛の馬を見た。
小柄だが、いい馬であることは誰にもわかる。
フィリップは昔から馬が好きだった事を彼女は思いだした。

「今、どうしているんだい?実家にはいないって聞いたけど」
ナタリーは悟られぬように小さくため息をついた。
「……説明しかねるわ」
どこをどう、しかもどういう案配に話せば今彼女の置かれている状況をうまく彼に説明できるのか、ナタリーには自信がなかった。
フィリップは馬から目を離し、鞍上の彼女をやや眩しげに見上げた。
「ナタリー、その格好でもやっぱり綺麗に見えるよ。大きくなったんだなぁ」
「……そ、そう?ありがとう」
いつも綺麗だ美人だと煩く誉める男が身近にいる癖に、過去の風景からひょっこりと現れたフィリップに褒められると妙に気恥ずかしかった。
「昔は髪以外はすっかり男の子みたいだったのに。勉強も運動もよくできて、アンリや僕をよく馬鹿にしてたよね」
「してません」
ナタリーは口を尖らせた。
フィリップは笑った。
「あんまりいろいろできる女の子が傍にいるとね、男の子は意味もなくいじめられてるような気になるんだよ」

ふと視界に動くものを感じてナタリーは森に目をやった。
森から逞しい葦毛馬が現れ、足を止めた。
騎手の顔は遠くて見えないが、イヴァンである事は彼女にはわかっている。
フィリップに言った。
「連れが来たようだわ」
彼は森を見上げ、短い口笛を吹いた。
「大きくて立派な馬だな。お連れは一体どこの貴族なんだい?」
「……秘密」
ナタリーは曖昧に微笑して答えなかった。
どうせいつかは公然とバレるにしても、自分がこの国の王子の愛人兼婚約者だなどという話を、実家の状況を知っている幼馴染みにこんな道端で話すのも気が引けた。
「まあ、無事でなによりだよ」
フィリップは鷹揚に頷いた。
「あえて嬉しかった」
「私も」



イヴァンの馬が動き出した。
風に小麦の波打つ斜面を駆け降りてくる。

「ご主人様」
フィリップの従者が控えめに促した。
「そろそろ参りませんと、全部周り切れません」
「そうだな」
ナタリーの幼馴染みは頷き、彼女を見上げた。
「久しぶりなのに、残念だがもう行かなければならないんだ。またこのへんに来たらぜひ城まで遊びに寄って欲しい。歓迎するよ」
「わかったわ」
フィリップは栗毛馬に近づくと手綱を握ったままのナタリーの指をとって接吻し、馬の見事な毛並みも楽しそうにひと撫でしてから踵を返した。
自分の馬にまたがり、従者に合図するとナタリーに挨拶を投げた。
「では。ナタリー、元気で」
「あなたもね、フィリップ」

フィリップと従者の馬が走り出す。
ナタリーはちょっとためらったが、声をあげた。
「お願い!…お兄さまとお母さまにも、どうかお元気でと、伝えてくださる?」
フィリップは前を向いたまま片手をあげた。
そのさりげない仕草に、何事かの事情を彼が察してくれているらしい様子が窺えた。
才気はほどほどだが、人の気持ちを大事にする優しい男の子だったとナタリーは遠く思い出した。

小屋を行きすぎたあたりのさらに狭い道、その両側から背の高い小麦の穂が垂れている中に、彼らの馬はするすると消えていった。
細かな農道がまだいくらも隠れているらしい。



その後ろ姿を眺めていると、疾走してきた大きな葦毛の馬が土埃をあげて空き地に到着した。
つい今遠い森の縁に居たというのに、恐るべき速度である。

「ナタリー!」
怒鳴りながらイヴァンが馬の背から飛び降りた。
手綱を空き地の柵に巻き付けて、栗毛馬に大股で近づいてくる。
「今の男はどこに行った!」
「フィリップですか?」
ナタリーは小麦畑を眺めた。二騎の馬は影もかたちもなかった。
「もう行ってしまいました」
「フィリップ?」
イヴァンが陰険な表情でその名を繰り返した。
「会ったばかりでもう名前を知っているのか」



彼女はまじまじと目の前の男を眺めた。
イヴァンは眉をよせ、神経を尖らせた顔つきで彼女を見上げている。
彼の目はもともと明るい色なのに、いつにも似ず今は妙に暗めだった。
ナタリーは首を振った。
「会ったばかりではありませんわ。フィリップは…」
「とにかく馬から降りろ」
イヴァンに促され、慌てて馬の背から滑り降りる。
彼は自分の馬と並べてその手綱をくくりつけると、ナタリーに向き直った。
なぜか居心地が悪く、彼女は身を竦めるようにしてその前にかしこまった。

イヴァンが怒っているような気がする。
なぜだろう。

「では」
イヴァンがゆっくりと腕を組んだ。
「そのフィリップとやらの事をオレに教えろ。細大漏らさずな」
ナタリーは思わず顔をあげた。
ねちっこい口ぶりはこれまで、まあ何度も耳にしたが、イヴァンがよりによって男に興味を持つところなど見た事も聞いた事もない。
あり得ない。

「なんだ、その顔は」
イヴァンの眉間に深い筋が彫り込まれた。
「隠し立てするつもりだな」
「違います」
ナタリーは慌てた。
イヴァンはひどくイライラしているらしい。
「フィリップは私の幼馴染みです」
「なに」
イヴァンが身を乗り出した。
いきなり安堵した口振りになる。
「そうか。それなら……」
が、ふと、また声が暗くなった。
「…あいつはお前の手に接吻をしていた」
「普通の挨拶でしょう?」
「男の格好をしているお前にか」
「彼は私が女という事はちゃんと知っていますわ」
「…………どうやって?」
イヴァンの声がますます暗くなった。

ばかばかしさにナタリーは思わず声を荒げた。
「当たり前でしょう?髪はこの通りだし、それに幼馴染みなんですもの」
「どの程度の幼馴染みかが問題だ」
イヴァンは顎に掌を当てて物思わしげに綺麗な愛人を眺めた。
「許嫁だったとかいう事はないのか」
「そんな事。あるはず…」



その途端ナタリーの記憶に、自分でも忘れかけていた情景がぽかりと浮かんできた。
大きな椅子に座ったフィリップの父がナタリーを膝に乗せ、大きくなって綺麗になったら息子の嫁になってくれないかとからかっている。
ナタリーはからかわれるのが気にいらず、降りようとしてむくれている。
どうやら冗談のようだったが、傍らで笑っていた父は嫌がってはいなかった。
爵位に違いはあるが、愛妾の娘を旧友が一人息子の嫁にとほしがるのに悪い気はしなかったらしい。
正式な約束などは聞いたこともないが、もしかしたら、あのまま父が生きてさえいればそうなったのかもしれない。
いつの日か。

ごくわずかのナタリーのためらいに、イヴァンは敏感に反応した。
「そういう話があったんだな」
「でも」
ナタリーはすこし赤くなった顔をあげた。
「親同士のたわいもない冗談ですもの。私も忘れていたくらいよ」
イヴァンはぐいと顔を寄せた。
ナタリーが頬を染めたのが気に入らない様子だ。
「相手が覚えていたらどうする」
「まさか」
ナタリーは一笑に付した。
「さっきもそんな事、言ってませんでした」
「だが、あの男は楽しそうだったぞ」
さすがに呆れて、彼女はイヴァンの目を見返した。
「あんな遠目で何が見えるの?」

「……………」
イヴァンは口元をぐっとひき結ぶと、ナタリーの腕を掴んだ。
引っ張りながら歩き出す。
掘っ建て小屋の扉を蹴りつけて、イヴァンは中に彼女を連れ込んだ。

鍵がかかっていないはずである。
中に何もない。
壁もあちこち隙間だらけで、ところどころから外の小麦の穂が揺れている様が細く見える。
農具やくず藁を収納するだけが目的の小屋らしい。
イヴァンは片手でナタリーを掴んだまま刺し叉や鋤の放り込まれた重い木の箱を移動させ、扉の前に置いた。
彼女を連れて小屋の隅に向かう。
乾燥した古い藁が不格好に重ねられている傍らで、彼はナタリーの躰を強く引き寄せた。
「忘れるな」
イヴァンは低く囁いた。
「おまえはオレの女なんだ」




何を言い返す暇も与えられず、ナタリーは口を塞がれた。
イヴァンの指が鷲掴みにナタリーの顎と頬を捕え、たまらず開けた口腔に舌が踊りこんでくる。
最初から煽るのと絡み合うのが目的のキスで、すぐにイヴァンは彼女の舌を捕まえた。
吸い寄せる力に舌先が痺れ、必死で背を仰け反らせて呼吸を貪ろうとするがうまくいかない。
イヴァンの胸に両掌をつきその強引さを押し返そうとするが、圧倒的な力と意思に負けてしまった。
ナタリーの抵抗が弱まり、イヴァンはわずかに唇を離した。
明るい色の視線がじっとナタリーに注がれている。
彼女は濡れた唇を半ば開けたままでイヴァンを見返した。
イヴァンを嫌いではない。
…きっと、好きだ。
いや、正直に言うと今では確かに好きになっている事を彼女は知っているし、それをイヴァンも知っている。
イヴァンとするキスも好きだし、それ以上の事も───好きだ。
嘘をついても仕方がない。
多分これからイヴァンがしようとしていることは、もうナタリーにとっては忌まわしいことでも奪われるだけのものでもない。

イヴァンの瞼が閉じ、彼は再び顔を近づけた。
四枚の唇が絡み合い、柔らかな水音をたてる。
舌が、唇が、内壁が、歯の先が、互いのそれを求め合って擦り合う。
唾液で潤滑された熱さと滑らかさが動きの性急さを一層増し、廻した腕に力が籠っていく。
舐め回していた──舐め回された?──もの、から解放され、あるいは解放して、ナタリーは仰向けた喉から、そのまま燃えてしまいそうなほどに熱い塊を吐き出した。
イヴァンの片腕がそのしなやかな背を支えている。
彼はナタリーの喉元に顔を埋め、マントの留め金のピンを噛みしめると勢い良く首をあげた。
先留めの金具がその勢いでどこかに飛んでいってしまったが、ナタリーもイヴァンも気付きもしない。
長いピンを吐き捨て、滑り落ちていこうとするマントをイヴァンは行儀悪く乗馬靴を履いたままのつま先にひっかけた。
藁に被せて落とす。
「オレのも外せ」
染まった耳朶に命じられて、ナタリーは掌をイヴァンの肩にあげた。
イヴァンのマントは彼女のものとは違ってかたい襟首のたてられた、止め帯で合わせる方式のものだ。
かすかに震えている彼女の指先はもたもたとして、帯をとめてある固めのボタンをなかなか巧く外せなかった。
自分で命じておいて、イヴァンは作業しにくくなることを百も承知だろうにナタリーを強く抱きしめた。
また唇を貪りはじめる。
焦らしもせずに自分が満足するまで舌で嬲る。
なんとかイヴァンのマントが彼女のマントの上に重なり落ちる頃には、二人とも息があがりかけていた。



掴まれている躯を捻って離れると、ナタリーはイヴァンを見つめた。
潤んだ明るい色の目が傲慢と欲望と懇願とを滲ませている。
きっと自分も同じような目をしているに違いない。それは予想ではなく確信だ。
イヴァンがまた彼女に覆い被さった。
とは言ってもまだ二人ともさっきまでの位置と寸分狂わぬ場所で、しかも絡み合って立ったままである。
きっと、イヴァンは押し倒すのも忘れているのだろうと彼女はどこか遠くで思った。
貪っているはずなのに、相手を煽ろうとしているはずなのに、イヴァンの舌は柔らかく、ナタリーの口腔は熱かった。
溺れこんでいくうちに、だんだん舌と口腔と唇との境が消えていく。
互いの内側を共有しているような、とてつもなく原始的な感覚だった。
ほとんど性交に似ていたが、息遣いが直接伝わり、相手の漏らす声そのものが粘膜に響くところが決定的に違う。



イヴァンはやっと彼女から顔を離した。
相当の思い切りが必要だったようで、彼のこめかみには薄く汗が滲んでいる。
彼女も体中が熱く汗ばんでいた。イヴァンの熱が離れると、ひどく寂しかった。
「…もっと」
自分が囁いた言葉にナタリーは頬を染めた。
はしたない懇願だった事に気付いたが、それを受けたイヴァンの顔が白く細い首すじに落ち、彼女は声もなく喘いだ。
熱い肌に、自分でない熱が触れる心地よさ。
仰け反ると金褐色の髪が斜めに流れて、彼に負担をかけている事にやっと気付いた。
ナタリーは彼の胸に押し当てていた掌を滑らせ逞しい腕を掴むと、なんとか体勢を立て直す。
その合間にもキスは続いていて、耳から露になっている首すじまでがイヴァンの唾液でぬるぬるしはじめた。
濡れて潤った肌に滑る舌も唇もひどく滑らかで、ただキスを落とされ、吸われることの何倍も彼女を煽る。
キスというより、唇と舌で彼女を食べているようだ。

どうして今日に限ってイヴァンはこんな行為をするのだろう。
……どうやら、彼はああ見えて普段はかなり遠慮しているらしい、と喘ぎながら彼女は思った。
どうにも声にならない声が喉から漏れ、意味をなさないその喘ぎを彼女はイヴァンの耳にあげ続けている。
もしかしたらナタリーが恥ずかしがったり怖がったりするので、いつもはもっと洗練された方法、彼女に許容されそうなやり方を選択して自分の欲望をも消化しているのだろうか。
いつも散々好き放題しているように見えた。
これだけ自分勝手な男はないと思っていたのだが。

突然細い腰を引っ張られ、ベルトを引き抜かれる摩擦を感じた。
上着を掴んだ掌がそのまま潜って肌に触れた。
背中を熱い掌が這い始め、もう片手も滑らかな脇腹を掴む。
さすがに同時に首すじを攻めるのは諦めたらしく、彼は顔をあげた。
ナタリーが自分を見ている事に気付き、さっとその頬に赤みがさした。
顎をぐいとあげ、彼女から離れようとした彼に、ナタリーは縋り付いた。
「やめちゃ、いや」
イヴァンの瞳が瞬いた。
「好きにしていいから、続けて」
「できない」
イヴァンが喉に絡まった声で吐き捨てた。
「最初、好きにした挙げ句──おまえに嫌われた」
ナタリーは叫んだ。
「今は違うわ」
イヴァンの躯にすり寄って、明るい瞳を必死の勢いで見つめる。
「あなたを愛してるわ。違うのよ、まだ、あなたを全部はわからないけれど──」
イヴァンが低い声で遮った。
「愛してる?」



彼の躯に腕をまわし、ナタリーは全力を振り絞って身を捻った。
背の高い躯は揺るがなかったが意図は伝わったらしく、イヴァンは彼女の顔を見つめたままゆっくりと膝を折った。
落とされたマント越しに、乾燥した麦わらがかさかさと鳴った。
その上に膝でたち、ナタリーはイヴァンの胸に額をあてて距離をわずかにあけた。
金褐色の豊かな髪に彼が鼻先を埋めた。
ふい、と彼女の躯から腕を外し、掌がナタリーの耳元をかすめ、指先でイヴァンは、木の葉の一部を摘みとった。
森で馬を走らせていた時に絡まったのだろう。
ぽいと捨ててもう片方の腕もあげた。両手の指先を綺麗な髪に突っ込んだ。
まだわずかに半端な肩を覆うあたりまでに伸びた巻き毛をほぐし、波打つ滑らかな流れを指に絡めると改めてぐしゃぐしゃにし始めた。
ナタリーはイヴァンの上着のボタンを外しながらかすかに微笑した。
彼のその癖が妙に好きだった。
イヴァンの上着を広い肩から腕まで落とし、彼女は次にシャツに取りかかった。
彼は止めなかった。髪から指を抜くと腕を交差するようにして、自分も彼女の上着のボタンに手をかけた。
黙々と、互いの衣服をひたすら取り去る時間が過ぎた。
饒舌なイヴァンが黙っているというのは珍しい事で、いつも閨でもなんのかのと彼女を苛めたりからかったり遊んだりしているのに、沈黙している彼の真剣な顔を見ているのはナタリーにとっても新鮮だった。

ズボンを尻の曲線に沿って落とし、くびれた腰に腕を廻してイヴァンはやっと口を開いた。
「あいつはおまえに触れた」
半裸のナタリーは瞬きをしてイヴァンを見た。
咄嗟に誰の事を言っているのかを理解できなかった。
「……フィリップのこと?」
「そうだ。手にキスをして──」
イヴァンは彼女の柔らかな手を掴むと唇に押しあて、顔を彼女の肩に落としながら掌を躯に沿って滑らせた。
太腿に熱い掌を感じて、ナタリーは目を閉じた。
「──馴れ馴れしく膝も触っていた。オレは見た」
「……………」
我慢できなくて彼女はくすくすと笑い出した。
イヴァンの頭がさっとあがり、彼は憤怒を押し殺した視線を彼女に強くあてた。
「あなたが見たのは、あの人が私の馬を撫でていたところよ。フィリップは昔から馬が大好き──」
「ナタリー」
イヴァンが遮った。
「黙れ」
「……はい」
ナタリーは小さく囁いた。
逆らわないほうがいい、ような気がした。

彼がぐいと体重をかけた。
腕で背を支えてくれたが、それでもあまりに急激な動きだったのでナタリーはほとんどひっくり返るようにして後ろに倒れた。そっと腰を浮かせて膝を伸ばし、痛みをやり過ごす。
イヴァンが顔を近づけてきた。
「──オレのだ」
左の鎖骨に吸い付かれた。
骨の細さを探るように舌を滑らせ、イヴァンは強く吸ってきた。
ドレスを着ると襟ぐりから見えてしまう場所に、普段の彼は決して痕がつくような真似をした事はなかった。



──少し、おかしい。

ナタリーはやっとその事に気付いた。
わざと痛くしたり、喘がせるよう嬲ったり、そんな事はよくやる男だがこんな嫌がらせはした事がない。
身じろぎをしようとしたが彼の脚に挟まれていて動けない。
ナタリーは短く息をついた。
力を抜き、マントに覆われた麦藁に身を沈め、イヴァンの肩に脇の下から掌を預けた。
イヴァンが何を考えているとしても、彼女にはどうしようもない。
次に彼はナタリーの肩に顔を伏せた。
口を開き、まろみを帯びた細いその曲線に斜めに歯をあててゆっくりと沈めた。
「…………」
ナタリーは唇をぎゅっと噤んで、耐えた。
しっとりと柔らかな肌は鋭い犬歯を弾力の限界まで受け止め、彼女が苦痛の声をあげる直前、イヴァンは口を離した。
すぐに舌を這わせて舐め始める。
労っているのだということが本能的にナタリーに伝わる仕草だった。

やがてイヴァンは静かに躯を起こし、自分のつけた痕を眺めた。
眉をひそめ、口元をかすかに歪めている。
嬉しそうではなかった。

「イヴァン様」
ナタリーが小さく声をかけると、彼は目を瞬かせた。
「ああ──」
呟いて、彼はナタリーの背に廻していた腕に力をこめた。
「───痛かったか」
その口調は、多少落ち着き過ぎていることを除くと彼女が知っているいつものもので、ナタリーは安堵した。
「いいえ」
甘えるように囁くと、イヴァンは彼女の瞳に、明るい色の視線を向けた。
「なあ」
無言の瞳で問い返すと、彼は言った。
「オレを愛していると言ったな」
勝手に頬が赤らむのがわかったが、それでも視線を逸らさず彼女は頷いた。
イヴァンの目に淡く微笑が浮かんだ。
身を屈め、彼は囁いた。
「信じさせてくれ」




細い躯に腕を絡め、イヴァンは大きく口を開けて甘やかにふくらんだ果実を頬張った。
腕と肩に彼女の指がひっかかっているが力は入っていない。
指にも増して力の入らない喘ぎが不規則に漏れ、ナタリーはまた細く啼いた。
最初の頃は敏感な先端への愛撫を痛がってあまり反応しなかった彼女だったが、何度も何度も抱いているうちにそこが気持ちいい事を知ったらしい。
乳房の下から先端に向かって優しく大きく舐め上げられる愛撫にも彼女は弱い。
放射状に、幾筋もイヴァンの舌が這うと、そのたびごとに啼き声があがり、震えはじめた。
最後にぱくっと、硬く尖った小さな実を銜えて、とどめのように吸い上げる。
抱かれたナタリーの背がのけぞり、ひきしまった腹が波打った。
小さな声と共にくたりと沈みこもうとする彼女を揺すり上げ、イヴァンはとろりと光る唾液の糸をもう一方の乳房の頂きまで張った。
同時に掌を背中から前に動かしてゆく。

「…あ…ちょっと…待って……」
声は弱い。
本気で止めたいわけではなく、少し休ませて欲しいというだけの牽制だ。
イヴァンはまだ柔らかなもう一方の先端をすっぽりと口に含んだ。
心地よげに彼女の脇腹から腰へと指を踊らせている。
「そ──そこ、触らないで──」
ナタリーはじっとしておられず、躯をくねらせ、彼の髪に吐息を絡めながら訴えた。
「気持ち…良すぎて……あ」
脚の付け根から一気に手を滑らせて、イヴァンは顔を彼女の乳房から離した。
曲線を余さずなで下ろしながら両方の足首を掴み、引き上げる。
赤ちゃんのような姿にされたナタリーが呆然と、紅潮した顔のまま硬直した。
両脚は大きく開き、曲げられた腹部は隠れてしまっているが太腿の間の悩ましい場所は丸見えだ。

何か言いかけて、ナタリーはひくんと喉が詰まったように声を途切れさせた。
歪めても──たぶんそれで余計にめりはりが美しいとわかる躯をイヴァンは抑えつけた。
彼女の膝の間に顔を入れて、ナタリーの目をじっと見つめている。
かたちのいい乳房は両方とも彼がたっぷりと絡ませた唾液で濡れ、その下の鼓動を伝えて先端の紅がふるふるとかすかに震えていた。
イヴァンはしばらく太腿の裏を撫でていたが、ぐいと掴むとその狭間に右の掌を寄せた。
ナタリーは身悶えし、肩を竦めた。
指が、彼女の花びらに潜り込んできた。
他の指が広げられて彼女の尻を掴んだので、親指だと知れた。
そのあからさまに他の指と違う太さは、まといつく花びらを分けながら芯の奥にぬめりこんだ。
ナタリーは喘ぎを押し殺した。
潤っていることに気付かされるのもだが、なによりもイヴァンが反応を観察している事が恥ずかしかった。



彼の声が聞こえた。
「──目を開けてこっちを見ろ」
ナタリーは思わず閉じてしまった目を開けた。
唇をわななかせ、真っ赤になって頷いた。
イヴァンは指をそれ以上進めず、動かさなかった。狭い場所に挿れたまま、じっと彼女を見つめている。
やがてイヴァンは首を傾け、握っている彼女の右の足首をさらにあげた。
ふくらはぎにキスをして、彼は舌を這わせ始めた。膝へ。そしてその上の腿へ、さらにその奥へ。
親指が、それ以上なにもせぬままゆっくりと引き抜かれた。
段々彼の重みがかかってきて、両脚を限界に近いくらい大きく押さえ込まれた。
身を起こしたイヴァンが腰を押し付けてきた。
ナタリーがさきほど脱がせた彼の下半身はきちんと彼女に密着しなかった。
邪魔物の先端を彼は無造作に彼女の花びらで覆われた入り口におしあて、すくいあげるようにして侵入させた。
あっという間にそれは深々とその先の奥まった狭い洞を埋めてゆき、これ以上ないほどイヴァンを彼女に密着させた。
彼はナタリーの腰を抱いてさらに強く引き寄せた。

「愛している」

イヴァンが呟いた。
低く、興奮を露にしたその声はナタリーの背を刺激するような不穏を備えている。
不穏はすぐに現実になった。

ずるりと彼は腰を退き、全て引き抜くことはなくすぐにまた押し入ってきた。
動きは強く圧倒的で、これが始まるとナタリーはいつも息が少し難しくなる。
彼がこれを途中でやめる事は滅多にない。
最後まで、加熱していくばかりの、もしかしたら終わらないのではないかとすら思える責め苦──たしか、最初の頃はそうだった。
今では責め苦ではない。
彼が退くごとにナタリーは悲しさで喘ぎ、攻め入ってくるたびに歓喜で呻いてしまう。
到底抑えられず、それどころかもっと気持ちよくなろうと腰が勝手に動きはじめて、どんどん思考が真っ白になっていく。
一切他の事は考えられず、ただ、イヴァンの動きと声と熱さ、そして躯を抉られ内側が蕩ける感覚に酔いが昂っていくばかりだ。
もう、何を自分が叫んでいるのかわからない。
彼の髪に指を絡め、首に爪をたて、躯を挟んだ膝で彼の脇腹を挟もうとしているが、イヴァンの動きはとても強くておとなしく挟まれてはくれない。
汗ばんだ彼の躯が太腿を擦り、濡れきった音をたてて躯がぶつかり合い、ナタリーは背をしならせて大きく喘ぐ。
イヴァンがしっかり抱いていてくれなければ恐ろしいことになる予感が体中を貫いて、彼女は必死で彼の躯に縋り付く。
その力を奪いながら、馴染みの快楽がイヴァンから彼女をひき攫い、ナタリーは高みから崩れ落ちた。


「ナタリー」

イヴァンに名を呼ばれ、彼女は弛緩した力を励ましてゆるやかにまぶたを開ける。
汗まみれのイヴァンが顎をあげて呻き、それから彼女を見下ろした。
その明るい色の目はただ明るいだけの空っぽだ。
この瞬間、彼はたぶん自分すら目に入ってないのではないかと彼女は思う。
繋がっている場所から伝わってくる、射精のリズムにナタリーは集中した。
きっと、すっかり蕩けている彼女の内側をさらに肥沃に潤わせている、彼の欲望の果て。

強い収縮がやがて穏やかで間遠になり、しばらくして彼は太い吐息をついた。
瞬いて彼女を見たその視線には、もう普段通りの意思の力が戻ってきている。
ナタリーは無言でイヴァンを引き寄せた。
イヴァンの腕に穏やかな力が籠り、彼も自分を抱きしめてくれている事を感じて、彼女は深く満足する。

「………ナタリー…」

名を呼ばれる事が快楽だと教えてくれたのもこの男だ。
彼はナタリーからなかなか躯を離そうとしなかった。



熱さの残るイヴァンの重みを感じながら、ナタリーは壁の隙間から伝わってくる、麦の穂を時折揺する風の音を聞いていた。
余韻を味わい尽くしたあときっとイヴァンはあっさり起き上がってフィリップについてなんのかのと喋り始めることだろうが、それまではほんの少し、この淫らな雰囲気を楽しみたかった。

彼の彼女への独占欲と彼女の彼へのそれが交錯できるわずかな時間。
ナタリーはのびやかな吐息を落とし、幸せそうに瞼を降ろした。








おわり


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