イヴァンの離宮は、王都の南東、深い森を控えた静かな場所にある。
狩猟や遠駆けの好きな彼やその妃にとっては絶好のロケーションだが都中心部の王宮からは結構離れているから、辺鄙といえば辺鄙でもある。
いつもはひっそりとしたその宮が、本日はやけに慌ただしい。
実は朝から微行で、イヴァンの父母である老王と王妃が訪れているのである。
たまには離宮の美しい景色を眺めつつのんびりとお茶を飲みたいという主張だったが、彼らの本音をイヴァンは知っている。
目的は茶会などではない。
彼らの興味の焦点は離宮にでも風景にでも息子にでもなく、妊娠三ヶ月目の終わりに入ったナタリーとそのお腹の赤ん坊だけに集中しているのだ。
週に一度は様子を知らせろと煩いので毎週使者をたてている。
そのたびにナタリーが義父母にむけて手ずから手紙を書いている。
イヴァンも宮廷に出るため王宮に行くと、必ず母の居室に引っ張り込まれナタリーの体調についてあれこれ質問攻めにあう。
その上、彼女の悪阻がかなり収まってきたと知ると、ついにはこうして押し掛けてくる。
いくら微行とはいえ従者は多いし、父母とはいえど仮にも国王と王妃である。そう無下に扱うわけにもいかない。
迷惑極まりない。
*
森に背をむけた離宮の正面は斜面になっていてその先には小さな湖があった。
すこぶるよい天気なので、眺望を望める二階のテラスにテーブルを出し、ロイヤルファミリーは水入らずでにこやかに雑談していた。
国王は自席に落ち着かず、なんのかのと嫁に果物をとってやったり椅子の傍をうろうろしては嬉しげに両手を軽く打ち合わせている。
きっと許しさえ出れば即座に、彼女のまだふくらみの目立たないお腹を撫でるに違いない。
王子妃手作りのゼラチン菓子を気に入った王妃が、一人だけ仏頂面をしている息子に声をかけた。
「美味しいお菓子ね。おや、イヴァン。食べないの?」
イヴァンはぶっきらぼうに答えた。
「後で残りを死ぬほど食べます。お気遣いなく」
王妃はナタリーに躯を寄せて囁いた。
「どうしたの、あの子」
編み込んだ金褐色の髪の輝く頭を傾けて、ナタリーは曖昧に微笑した。
彼女の夫はたまたま今日は時間のある日で、王と王妃が突然来るという知らせを寄越さなければ妃を連れて春の湖で小舟遊びをする予定だったのだ。お腹の子のため現在は乗馬を控えている彼女も、実はそれをかなり楽しみにしていた。
だが小舟遊びだとて、まだ生まれぬうちから孫馬鹿と化している王と王妃が知れば震え上がってやめさせるに決まっている。
今王妃が次から次へとつまんでいる色とりどりのお菓子も、みなその久々の気晴らしのために彼女が作ったものなのだ。
イヴァンの気持ちもわからぬではないが、平和のためにはとりあえず黙っているほうがいい。
それでなくともイヴァンの機嫌はこのところあまりいいとはいえない。
安定期に入るまでは絶対にあれこれ複雑な事を致してはならぬと侍医から厳しい指示が出た上、悪阻のためにナタリーにそのほかの愉しい事もしてもらえなくなってからというもの、彼はなにやらイライラしている。
彼女も夫を少し可哀相だとは思うが、少しでも変な匂いを嗅ぐと吐いてしまうのだから仕方ない。
やっと悪阻がおさまってそろそろ大丈夫かもという今、彼女の気分を盛り上げる手始めに予定していた小舟遊びが孫馬鹿の二人のせいでご破算になったのだから、今日のイヴァンを咎めるのは酷というものである。
「イヴァン、おい、イヴァンや」
老王が素っ頓狂な声をあげた。
白いレースのショールに覆われたナタリーの腹部を指差して目尻の皺をだらしなく下げている。
「見たか、今、孫が動きおったぞ」
「そんな馬鹿な」
王妃がさすがに経験者の貫禄を見せて窘めた。
「御子が動くのはまだまだ先ですよ。このテラスは湖からの風が吹いてきますでしょう、それでショールがそよいだだけですわ」
「風」
王の眉が不安げにひそめられた。
「ナタリーや。お前はそろそろ部屋に戻ったほうがよいのではないかな。躯を厭わねばならぬぞ」
イヴァンが、ぶすっとした口調で割り込んだ。
「今日は春先にしては珍しいくらいいい天気ですよ」
「いや、確かに良い天気じゃがそれでもまだ風は寒いからな。油断してもしものことがあったらどうする」
イヴァンはちらと、悪阻もおさまったためにこのところ青白かった頬にもいつもの艶を取り戻した彼女に視線をやった。
「オレの子ですから、丈夫に決まっています」
「お前だけは確かに昔から丈夫だったが」
王は溜め息をつき、ナタリーの可憐な姿を眺めて目を潤ませた。
孫と嫁可愛さに、最近非常に涙腺が緩くなっている。
「お前は、夫として、これをもっと案じてやらねばならんぞ、イヴァン」
「そうよ」
王妃が頷いた。
「殿方の優しさが、こういう時にこそ妻に伝わるのですよ。その点王陛下は良き夫でいらっしゃいましたね」
王はにっこりした。
「そちには苦労をかけたからのう」
「陛下」
なぜだか二人は片手と片手を握り合い、顔見合わせて来し方の記憶に胸を詰まらせている気配である。
基本的に仲がいい父母ではあるが、そういう事はわざわざここでなく王宮でやれと言いたい。
イヴァンは胸くそが悪くなって立ち上がった。
「茶ももうなくなったようですな。そろそろ従者を呼びましょう」
暗に帰れと言っているようなものである。
王は無造作に空いているほうの手を振った。
「よいよい、イヴァン。わしが呼ぶ。これ、誰か。茶の代わりを持って参れ!」
イヴァンのこめかみに筋が浮いたが、テーブルの影でナタリーが必死に上着の裾を引っ張っているので口の端をぐいと下げる。
「……………」
どさりと乱暴に椅子に腰掛けた息子を眺め、王妃だけは雰囲気の悪さに気付いたらしい。
召使いたちが熱い茶のおかわりを注ぎ終わり、皿を整えてひっこむと彼女は優雅に話題を変えた。
「そういえばイヴァン、以前から尋ねてみたかったのだけれど」
ナタリーが盛んに目配せするのでイヴァンはカップを掴みながら億劫げに、母の方角に顔を向けた。
「何ですか」
「あなたとナタリーとのなれそめよ。詳しく聞いた事がなかったわ」
*
かたっ。
がちゃ。
と、陶器がぶつかる音が同時に二つした。
ナタリーが指を滑らせて菓子の皿を取り落とし、イヴァンの手が緩んでカップが受け皿に触れた音である。
王がナタリーの皿を素早く取り上げ、慌ててその手を確かめた。
「危ない、気をつけい、ナタリー!大事な躯なのだぞ!」
「あらあら、どうしたの」
王妃は上品な眉をしかめたが、気を取り直して続けた。
「あなたがナタリーを見初めたのだと聞いたけど。細かな事情は教えてもらっていないわね」
「事情もなにも、特にこれといったものはありませんな」
イヴァンは、こぼれた茶の中にカップの底をつけた。
彼が動揺したのは一瞬だけで、口を開けばいつも通りの調子である事にナタリーは気付いた。
頼もしいというか憎たらしいというか。
「わしも聞いてはおらん」
王も身を乗り出してきた。
「どこで知り合ったのだ?どこかの晩餐会か?それとも狩猟の会かなにかか」
ナタリーが、飲んでいるふりをしている茶を今にも吹き出すのではないかとイヴァンは思った。
「王宮です。奥の庭で」
ナタリーはまだ吹き出してはいなかったが、急にこほこほと咳き込みはじめた。
むせてしまったらしい。
イヴァンは続けた。
「噴水のところでこれが涼んでおり──その、水に濡れたこれが──あまりに美しかったので」
俯いているナタリーの首すじが赤くなった。
彼が、顔だけではなく、水に濡れた衣装の上から窺えた躯の線のことを言っていることに気付いている。
「まあ……」
王妃がうっとりと視線を息子に向けた。
「実際に逢って見初める事ができたなんて、あなたがたは幸せね。私など、お話があってそのまま輿入れだったわ」
「わしは肖像画で初めて王妃を見たのだった」
王もなにやら羨まし気である。
「だから、これの到着まで、その肖像画に嘘偽りがないよう祈ったものじゃ。して、ナタリーや」
興味津々に国王夫妻は王子とその妃に迫った。
「イヴァンの印象はどうだった?」
「イヴァン、ナタリーにどうプロポーズしたの?」
「…………………」
「…………………それは、ですな」
言えぬ。
このお気楽夫妻に『印象は最低最悪、死ねばいいのにと思いました』とか、『弱みにつけこんで陵辱した挙げ句、自分勝手に求婚しました』とかの真実を言う事はできぬ。
そもそも、ナタリーがかつて叛乱側の刺客だったという事を彼らは知らないのである。
包み隠さず言ったとて、いや、かえって言えば言うほどに、冗談だと思われてさらなる追求を受けるに違いない。
それに、いくら息子の女癖の悪さを認識していたらしい両親でも、現在お気に入りの嫁であるナタリーにここまで悪辣非道な振る舞いをしていたと知ればその心証が悪くなるのは避けられない。
イヴァンとしても王位の後継者として、そういう事態はできれば避けたい。
イヴァンは腹を括った。
ここは嘘を並べてしのぐしかない。
「あれは舞踏会のあった晩だったかと。な。ナタリー」
「…そ、そうでしたわね。私…人いきれで、気分が悪くなって、涼んでいましたの」
イヴァンはナタリーに視線を走らせた。
多少こわばった笑顔だが、しっかりついてきている。
「噴水でこれが休んでいたので、どうしたのかと近寄り、声をかけたのです。だったな」
「そうよ。優しく介抱してくださったわね」
まさに嘘八百である。
王妃はロマンスを満喫している表情で頷いた。
「素敵だわ。その出逢いの時、お互いに好意を持ったのね」
違う。
彼が持ったのは助平心と好奇心、彼女が持ったのは警戒心だけである。
二人は共犯めいた視線を交わした。
「そうです」
イヴァンが答えると、王が吐息を漏らして首を振った。
「若いというのは良いものじゃの。で、それから?狩猟の会にでも誘ったか、イヴァン」
「いや…」
イヴァンは突如、話に意外な展開をさせた。
「微行で街に出ましたら、偶然、馬車で買い物に出ておりましたこれに逢いまして…乗せてもらいました」
ナタリーに同意を求めるように明るい色の目をむけるので、彼女も急いで頷いた。
「そ、そうなんです。……お乗りに、なりませんかって」
王妃が感心して頬を染めた。
「まあ、ナタリー、それはよっぽどイヴァンを気に入ってくれたのね?自分から誘うなんて」
「そ、そうですわね。あまり嬉しかったので、つい……は、はしたなかったかも…しれませんわね…」
ナタリーはひくつく頬を典雅なショールで抑えて隠した。
提案もなにも、馬車どころかナタリーの躯に勝手にお乗りになったのは彼であって、誘った記憶はかけらもない。
王妃は熱心にかぶりを振った。
自分の息子が魅力的だという話を聞くのは、母親にとっては微妙に愉しいものらしい。
「そんな事はないわ!ねえ、イヴァンや、あなたも嬉しかったでしょう」
イヴァンがしれっと頷いた。
「それはもう。まるで天国に居るようで、実に乗り心地のよい極上の品でした。……それで、一層想いが募りまして」
「うむ。馬や馬車は良いものに限るからのう」
老王がさかんに納得している。
もっとも王もイヴァンの言葉を額面通りにしか受け取っておらず、ナタリーが赤くなったり青くなったり、非常に居心地の悪そうな顔をしていることには気付いていない。
「そうでしょう。重要な問題ですからな。…それで、その経験が忘れられず、つぎにはこちらから訪ねていきました」
イヴァンは、この『遊び』を楽しみはじめたらしい。
これまでの不機嫌そうな喋り方が、いつもと同じものに変化している。
ナタリーは密かに歯ぎしりしつつ、このお調子乗りの男が次に一体何を言い出すかと段々心配になってくる。
ナタリーの実家が当時叛乱軍側についていた事を知っている国王は、大胆な息子の所業に目を丸くした。
「よく無事で戻ってきおったな」
「ああ、でもわかるような気もするわ。恋とはそのようなものでしょう」
王妃は首を振り、納得している様子である。
「常識の裏をかき、真っ昼間に参りましたから。これは驚いたようでしたが」
イヴァンはちらりとナタリーを見てほくそ笑んだ。
彼女は聞こえないふりをしてすっかり綺麗な人形のようなポーズになり、無感動に湖を眺めている。
だが頬と目のふちが赤い。
「だが、お前が来たと知られればただでは済むまい。危ない橋を渡ったものだ」
咎めるような王に、イヴァンはにこやかな顔を向けた。
「いえいえ。これも協力してくれましたので、愛を囁く声は誰にも聞かれることはありませんでした」
協力=厭がるのを脅して無理矢理、愛を囁く=エロく苛めた、と補正と変換を行えばイヴァンの言葉は嘘では──いや、やはり嘘の皮だ。
ナタリーは立ち上がった。我慢できない。
「私、ちょっと気分が……少しのあいだ、部屋に戻らせていただいてよろしゅうございますか」
「おお、それはいかん。ささ、送ってやろう」
老王は慌てて立ち上がり、嫁に駆け寄ろうとした。
イヴァンがその動きを遮った。
「それは私の役目です。父上はどうぞこのまま母上とおくつろぎを」
「そうですわよ、陛下」
息子と妻に引き戻されて残念そうな顔で、国王はナタリーに声をかけた。
「無理してこちらに戻ろうとするのではないぞ。しっかり休むのじゃ」
「ありがとうございます」
ナタリーは王と王妃に礼をして、イヴァンの腕に優雅につかまりテラスを後にした。
*
テラスから見えない場所に入るとすぐさま、ナタリーは夫の腕を振り放した。
そのまま憤然と歩いていこうとするので、イヴァンはその肘を掴んだ。
「待てまて、一緒についていってやるから」
彼女は前を向いたまま断った。
「付き添いは結構よ。それよりはあちらで私も知らないなれそめ話をしてらっしゃい」
「おまえがいないと面白くない」
ナタリーが勢いよく振り向いた。
来るぞ、と彼が思った通り、彼女は眉を吊り上げてイヴァンを罵り始めた。
「あなたって方は、よくまあ一秒も考えず、ああも口からでまかせに大嘘ばかりお喋りになるわね。しかも両陛下に向けて」
イヴァンは神妙に答えた。
「本当の事を言えば叱られるじゃないか」
「叱られて当然よ」
ナタリーは、ぷっと頬をふくらませた。
「一度くらい、こっぴどく叱られてみればいいんだわ」
「おまえにいつも叱られているじゃないか。これ以上は遠慮したい」
ふくれた頬に顔を寄せ、彼は素早くキスをした。
頬を抑えてナタリーはとびすさった。
「なにするの」
イヴァンはにやにやした。
「可愛い顔をしている」
「私、怒っているのよ。見てわからないの」
「あまり怒ると腹の子に触るぞ」
「……………」
ああいえばこういうのがこの男の特徴である。
ナタリーは言い争いが不毛な事に気付いたようだった。
黙って歩き、階段をゆっくりあがって自室の前に到着する。
ナタリーはイヴァンを見上げた。
「もういいわ。ありがとう」
イヴァンは立ち去ろうとしない。
ナタリーは促した。
「…もう大丈夫よ」
イヴァンは全く動かなかった。
仕方なく、ナタリーは尋ねた。
「どうなさったの」
彼は彼女を見下ろし、なぜかとてつもなく偉そうに目を細めて言った。
「キスをしてくれたら、行く。──頬じゃなくて」
「…………」
ナタリーは廊下の左右に視線を走らせ、イヴァンの腕を掴んで軽く伸び上がった。
唇が触れ、それから離れようとした彼女の躯をひっつかんでイヴァンは引き寄せた。
ぷっくりと柔らかな下側のふくらみを挟み、舌を軽く滑り込ませる。
蕩けそうな感触の口腔には、さきほど飲んだ茶の香りがした。
顔の角度を変えてもう少しだけ深く舌を差し込む。
小さな舌先を捕まえて吸いとり、自分のそれを絡めて優しく擦り、彼女の唾液を味わった。
すこし甘い。
ゼラチン菓子と彼女が重なった味。
イヴァンは唐突に顔を離した。
ナタリーを抱えたまま、彼はさっさと扉に手をかけた。
「…お戻りに、なるんじゃないの」
「ここではなく、落ち着いた場所でじっくりとしたい」
彼女はちょっと赤くなった。
「もうしばらくはだめだってお医者様が仰ったわ」
「…キスだけだ。このところキスすらまともにしてない」
ナタリーは、甘いキスでかすかに潤んだ目を伏せて、ぼんやりと考えた。
確かに、イヴァンと最後にまともなキスをしたのはかなり前のことになる。
悪阻だったから仕方ないとは言え、そう言われると無下にも断れない。
「……ほんとに、キスだけ?」
「…ん?他も期待していいのかな?」
イヴァンの声が嬉しそうになったので、彼女は失言に気付いた。
「でも、お医者様が」
切り札を持ち出すと、イヴァンはひどく狡猾な目つきで彼女を見た。
「安心しろ。絶対大丈夫なように優しくしてやる。挿れないし」
そういう問題ではない。
イヴァンはナタリーの輝く髪にキスをして活き活きと喋り始めた。
「愉しんだら一緒に戻ろう、な。オレ一人であの夫婦の相手はキツい」
それまで両陛下がおとなしくしていてくださればいいけれど、とナタリーは思った。
「ほら、早く入れ、ナタリー。鍵はかけとけよ」
やる気満々の夫を見ていると、どうもあまり早く戻れそうにはなかった。
扉が閉まり、廊下は再び静けさを取り戻した。
テラスから誰かが呼びに来る事がないよう祈るばかりである。
今日の晴天はまだしばらくは続きそうだ。
おわり