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耽溺

ナサ ◆QKZh6v4e9w氏

「…なあ」

甘えくさった声が落ちてきた。

ナタリーはぎゅっと、閉じた瞼に力を入れた。
返事をせず、決して後ろを振り向くことなく、聞こえていないふりをする。
躯をできるだけかたくして、指先ひとつ動かさず息を潜めていると背後の人物が身じろぎをした。
肩の後ろの粗末なシーツが沈む気配。
掌をついた彼の躯の温もりがじんわりと背中を覆う。

「起きているんだ〜ろぉ…ん?」

怪しげな節をつけながら、イヴァンがからかうように耳元に口を寄せた。
その抑揚がナタリーの背筋を凍らせる。
親しみをこめているつもりなら逆効果です、と臓腑を(可能なら)抉ってやりたいが、自分から話しかけるのはおぞましい。
逃げるのが無理ならば(それはこの一週間で思い知っている)、せめて一秒でも長い間、無益で不快な交流は避けたいものである。
ナタリーは無言で寝たふりを続行した。

シーツに散らばっている切り揃えた金褐色の髪の下に、長くてしっかりした、骨の太い指が潜り込んだ。
「こっちを向けよ」
耳朶に絡みつく声にも気付かぬ様で、ナタリーは睫を閉じたままでいた。
だが、その眉根が本人の意思を率直に反映しておもいっきりきつく寄せられている。
背後からそれを見てとったイヴァンは口元に笑みを浮かべた。

「…なあ、ナタリー」

ナタリーの背筋に震えが走るのがわかった。
馴れ馴れしい呼びかけにぞっとしたに違いない。
「…………………」
だが、彼女は声をあげず、それ以上の反応も返さなかった。
イヴァンはそっと首をのばしてナタリーの表情を探り、唇が歪んでいるのを見てとって明るい色の目を面白そうに踊らせた。
掌を滑らせて彼女の剥き出しの肩を抱き、薄く小さな桃色の耳朶に続ける。

「ナタリー──可愛いナタリー『ちゃん』」

嫌がらせのように呟きながら、掌を肩から胸に這わせる。
シーツに敷いた細い腕に載った柔らかな重量を捕え、イヴァンはいきなりそれを掌全体を使って大きく揉みしだきはじめた。
もう一方の腕も頭の下から抜くと強引にシーツとの間につっこんで、細い躯を抱き寄せる。

ナタリーは息を詰まらせ、急いで身悶えした。
「…や、やめてください!」
「なんだ。聞こえてたのか」
イヴァンは、首をねじまげて睨んできた褐色の綺麗な瞳に驚いた顔をしてみせた。わざとらしい態度に嫌みが満載である。
「寝ててもいいんだぞ。勝手にするから」
ナタリーは頬を紅潮させ、躰を抱いているイヴァンの手首を、カエルにでも触れるかのような手つきで掴みかけ、すぐに放した。
かわりに爪をたててひっかこうとするのでイヴァンはさっと、腕を引き抜いて肘をついた。
振り向こうとする彼女を抑えつけて素早くのしかかる。
体重差ゆえ楽勝だった。



「顔に似合わん猛々しさだな」
イヴァンがにやにやしているとナタリーは睨み殺そうとでもするような目つきで彼を見た。
「あなたのような男に、名を呼び捨てにされる覚えはないわ」
「まだそんな事を言ってるのか」
イヴァンは嘆息するふりをした。
「そろそろいろいろ諦めて、おとなしくしてくれてもいい頃じゃないか?」
「いやよ!」
ナタリーは叫んだ。
さも、楽しい会話をしているようなこの男の余裕がひどく気に障っているらしい。
「おとなしくしてても、また…ひ、ひどい事を、するくせに」
イヴァンはその怒りに染まった艶かしい目元を、そそられたような表情で見下ろした。
「暴れても結果は同じだと、いい加減気付いてもいい頃だが」
「そっちこそもういい加減飽きた頃でしょう?放して!」
ナタリーは押さえ込まれてびくとも揺るがない肩を揺らそうとした。
「飽きる…?」
男はちらと自分の唇を嘗め、呟いた。
「どうして?」
「どうして、ですって?」
ナタリーは一瞬呆然とし、それから、すっきりとした眉を逆立てた。
「だ、だって、もう、ずっと…」
「ずっと?」
イヴァンはにやにやした。

女癖の悪さには国王夫妻もお手上げらしいという噂のこの不良王子が、彼女、つまりナタリーを手に入れてちょうど一週間になる。
一週間とはいうものの、ナタリーの主観ではもう半月も閉じこめられているような気がしている。
最初の二・三日だけはそれでも抱いた後はそのまま部屋を出ていってくれたものの、四日目くらいから彼は入り浸りはじめ、この二日ほどというものはまさに密着、眠る時以外はほとんど彼女にべたべたとくっついている状態である。
二度ほどこの男が眠っている隙にこっそり塔から出ようとしたのだがいくら服を探ってもイヴァンは鍵らしきものを持っておらず、ちゃんと螺旋階段の途中の中扉は外から(彼の命令だろう)閉め切ってあり、そのそつのなさにも腹が立つ。
さすがに用を足す時には扉の外に出ていってくれるものの、朝の沐浴も一緒ならば食事も用意されたものをイヴァンが手ずから与えるといった案配で、これをなんといっていいのかナタリーにはわからないがほとんど卵を暖める親鳥とでもいった趣き。
よくも飽きもせずと彼女は嫌悪とストレスと苛立ちを感じる裏腹に半ば呆れているのだが、しかしこの男は至極楽しそうであった。

ナタリーはぐっと詰まって、真っ赤になると横を向いた。
「…と、とにかく…!!」
「そうだな。もう一週間ほどになるかな」
イヴァンは呟いた。
「我ながらたいした入り浸りようだ」
一応、多少常軌を逸しているという認識はあるらしい。
「よっぽど暇なのね。叛乱のただ中だというのに、大の男が」
ナタリーは罵った。ほんのわずかでも傷つけてやりたい。
イヴァンはナタリーの目を見た。
彼女の意図に反して口元に満足げな微笑が浮かんだ。
「当たりだ──暇なんだ。もう、なにもやる事がなくてな」



父王から、腹心の将軍の救出に成功したという伝言が一昨日来た。
イヴァンの献策が当たったらしく、彼は父と重臣たちに面目を大いに施したのだがそれは別にナタリーに言うべきことではない。
だが彼は上機嫌だったし、気に入りの女──いや、まだそう呼ぶにはあまりにも一方的な関係だが──の元に居続けても何の不都合があるわけもなかった。
ジェイラスを取り戻した今、まとまりを欠く叛乱軍のまぐれ当たりの高揚感は消え失せて早晩仲間割れのあげくに彼らが崩壊するのは時間の問題である。
その際の王軍の備えにはイヴァンは信頼をおいていた。

そういうわけで城内の臣下や兵士や女官たちの不審などものともせず、この二日間、まことに彼好みの美しい刺客とイヴァンは塔の部屋に籠りっきりである。
彼女を構っていると退屈することも飽きることもない。



「しかし、オレもおまえをよくよく気に入ったものだ」
人ごとのようにイヴァンは呟いた。
「なぜだ?」
ナタリーはまたぷいと視線を逸らせた。
イヴァンの理由など知りたくもないらしい。
その顎をつまんで顔を戻させると、イヴァンはじろじろと眺めた。
「綺麗な女は他にもいるだろうに」
ナタリーはつままれた顎を振ろうとしたがイヴァンは指の力を緩めなかった。

褐色の瞳が印象的な彼女の顔の造作は繊細で涼やかだった。
肌は白いが無機質な印象の白さではない。
初々しい淡い桃色をかすかに滲ませた透明感のある肌である。
スタイルも小柄で細身ながらバランスがとれていて、肌も滑らかで抱き心地もいい。
胸が充実していてなおかつツンとあがっているのもイヴァンの好みだ。
最初に一目見た時から間近に眺めているこの瞬間まで、彼女の容姿にいささかなりともイヴァンが失望した点はまだない。
全体的にうっすらとまだ少女めいた幼さが残っているが、その美貌には成長途中のうつろいやすい不安定さはあまりない。
おそらく近い将来に成人した暁には、暖かみのある豪華な色の髪を持つ、紛れもない美女になる事だろう。

イヴァンは訂正した。
「いや。やっぱりかなりの美人だな」
「顔で女を選ぶ男は相手にするなと、昔父に言われたわ」
ナタリーは陰気に呟いた。
「顔だけじゃない。躰も好きだ」
イヴァンは何の言い訳にもなっていない呟きを漏らした。
顎から指を離すとその頬に這わせ、顔も寄せた。
「躰……って…!」
ナタリーの怒りの声は途切れた。

彼女はイヴァンの肩に掌を置き、おしやろうとしたがあまりにもぴったりと彼が密着しているのでそんな余裕はどこにもなかった。
せめてイヴァンの肩の後ろを掴んで我が身から引き離そうと試みるが、滑らかに引き締まった筋肉のうねりを覆う青年の肌にはそんな弛みなどなかったし、ならばと丸ごと掴むには、男の二の腕は掌には余る逞しさだった。
イヴァンは裸のままだったしナタリーもそうだ。
ただし彼は自分から脱いだのだが彼女は違う。
寝台を除く塔の半円の床のあちこちに男物の衣裳が散らばっていて、彼女とイヴァンの抗争の跡が辿れる様になっている。
上着は寝台の近くだがスカーフは窓ぎわで、いくつかボタンの飛んだブラウスはその中間に力無く落ちている。
ズボン他は寝台の端にひっかかっている有様だ。
だがそれよりも今は、ナタリーの唇に触れている感触のほうが問題だった。

「んっ…」
ナタリーは声を漏らすまいと努力した。
声──というか、喘ぎ、もしくは反応をほんのわずかでもイヴァンに悟られたくなかった。
この男のするどんな事にも影響されたふうを見せたくない、なのに、そのキスはひどく熱くてナタリーの心を不安に陥れるのである。
彼女はこれまで男女のキスというものをした経験はなく、せいぜい父や兄や母などと挨拶のキスを交わす程度だった。
だからイヴァンのキスが果たしてどういうキスなのかどうか判断できない。
恋人へのそれか、陵辱する女へのそれか、それともただの気まぐれで遊んでいるのか、そんな区別すらつかない。
だがただ一つ、イヴァンの彼女へのキスは情熱的だった。
最初の陵辱の後に初めてされたキスですらそうだった。

舐められ、かたちを探られて、イヴァンの舌とその味で一杯になり自分の口とは思えなくなった頃、ようやく、彼は顔をわずかに離した。
ナタリーは顔を振り、胸を大きく上下させ、空気を貪った。
「…ぁっ、はっ…、はぁっ……!」
「……鼻で息をしててもいいんだぞ」
イヴァンが囁いた。目が面白そうに輝いている。
「…本当?」
つい尋ねると彼は真面目くさった顔で頷いた。だが目は活き活きとしていた。
ナタリーは彼を喜ばせる返答をしてしまった事に動揺して真っ赤になった。


「放して」
彼女は叫んだ。
「あなたなんか嫌い。こんなヘンなキスをして」
「ヘンなキスが好きなくせに」
イヴァンは目を細めた。絶句した彼女の唇をまた覆った。
「んーーー………!」
口腔を犯されながら、ナタリーの頭の中でイヴァンの言葉がぐるぐると回った。

好きなくせに?
どこが?
どうして?
なぜこの男はそんなふうに思ったの?

自分はなにかしら、イヴァンにそういう確信を与えるような反応を返してしまっているのだろうか。
その疑惑はナタリーを傷つけた。
実際には考え過ぎで、彼は単純にこの女を抱くことが楽しくて仕方ないだけなのだが、根が真面目な彼女には判りはしない。
ふいに、腰にざわつく感触を覚えてナタリーは呻いた。
イヴァンの手だ。
脇腹から腰にかけてゆっくりと探り、柔らかな肌を揉んでいる。
いや、と彼女は言いたかった。
やめて、と訴えたかった。
だが彼の唇と舌で塞がれた口は言葉を紡げず、抱きすくめられた躯はびくとも動かせなかった。



彼女の唇を堪能しながら、イヴァンは片手を滑らせてその細腰を掴んだ。
……とりあえず、可愛いがりたい。
抱くと最高に気持ちがいいのはわかっている。
この一週間で彼女の躯は少しイヴァンに馴れてきていて、辛そうではあるものの、もう最初の時のように泣きじゃくるという事もない。
生身の女だから、どんなに口では厭がっても、実際に挿れるとそれなりに濡れてしまう事も知っている。
だが、彼女はまだ本当に感じてはいるわけではない。
それが単に防御というか、生理的な反応である事も彼はこれまでの経験で知っている。
だが、それだけではイヴァンは満足できない。

太股がぎゅっと寄り合わせられ、彼女の躰がかたくなったのがわかる。
警戒している。
イヴァンの手が次に這う場所を彼女なりに予測したのだ。
ならば予測通りに動くつもりはない。それではつまらない。
イヴァンはキスを続けながら手を止め、反対側に滑らせはじめた。
とまどって揺らした彼女の肩を撫で、腕を掴み、肘のあたりでとどめる。
シーツに彼女を張り付けにしたも同然の姿勢になった。
「ん…」
ナタリーが怒ったような声を漏らした。
関節を押さえているので身動きがとれないらしい。
イヴァンはかすかに顔を離し、まだ呼吸に苦労している彼女に息継ぎの機会を提供した。
しっかり呼吸をしたのを確認し、彼は唇を開くと彼女の口をすっかり覆った。
顔を斜めに重ね、キスというよりは半分かたくわえているといった趣だ。
ナタリーが怯んだ。
イヴァンの勢いを避けようとすると顎を開かざるを得ず、思わず大きく開いた柔らかな口腔に彼は舌を遠慮なく挿れてきた。
「んぁっ…」
これまでは歯列で自然に遮られてあまり深いキスは避けられてきたことをナタリーは悟った。
舌先ばかりかかなり深くまで舐められて苦しい。
絡めようとするので逃げると、彼は軽く、押さえつけている肘を捻った。
(痛っ…)
また怯んだ彼女の口に男の唾液が滴り落ちて溜まっていく。


(いやだ…!)
これを呑み込むなど死んでも嫌だ。
そう思い、彼女は困惑する。
いっそのこと吐き出してやろうかとも思うがそんな勇気は出ない。
耐えているうちにすっかり潤った口腔でイヴァンは彼女の舌を愉しみはじめた。
「んっ…」
滑らかさの増した感触に彼女は震えた。

イヴァンの舌も絡みつくその感触も、とろりと熱い液体の中だと一層官能的だった。
舌の裏を柔らかく刻むようにもちあげ、そのまま彼の口腔に吸い込まれ、ナタリーは塞がれた口ではなく全身で喘いだ。
招いた彼女の舌をイヴァンは嬲り始めた。
合間に軽く顔を浮かして優しく唇を嘗めている。
そのたびにとろけあった唾液が溢れ、彼女の口角から瑞々しい頬の曲線に沿ってつぅ、と流れ落ちた。

「んっ、ん……んー…」
ナタリーは抗議の意思をこめて眉をよせた。
うまく動けないが、自分が嫌だと感じている事を伝えたくてたまらない。
圧倒されたままおとなしくしていればおそらくイヴァンがいい気になりそうで心配だった。
「ぅっ…ふ…ぅん…っ」
口角の内側を舐められ、ぞくりとした彼女は顎をかすかにあげた。
小さく呻くことで彼に抵抗しているのか、それとも新たに快感を提供してしまっているのか判然としない。
イヴァンがようやく離れた。
顔をそむけ、早い調子で喘ぐ彼女の耳朶がすっかり染まっているのを見、彼はその艶めいた色の美しさに満足したように微笑した。
掌で彼女の頬を撫で、伝わった流れをぬぐい去る。
彼の微笑を横目で見て、ナタリーは羞恥と恥ずかしさでますます躰が熱くなるのを感じた。首すじまで真っ赤になっているに違いない。

絶対に彼は気づいている。
ナタリーがこのしつこいキスに快感をそそられている事を知っている。
いやな男なのに、望みもしないのに、ひどく上手で彼女の弱みを射たキスをしてくるイヴァンが大嫌いだ。



「キスが好きなんだな」
耳元ではなく、もっと下のあたりで低い声がした。
急いで顔を戻しかけ、ナタリーはびくりと躰をのけぞらせた。
イヴァンが左肩の柔らかな肌に唇をつけていた。
相も変わらず両方の肘を掴まれているので肩をよじっても撃退はできなかった。
滑らかできめの細かな腕の内側に沿って肘までキスを繰り返し、イヴァンは呟いた。
「良かった。…オレもキスは好きなほうだ」
「良かったって」
ナタリーはようやく口を挟む。
「ど、どういう意味なの?」
「どうもこうも」
イヴァンは顔をあげると軽く彼女の首すじにキスした。
そのまま美しいラインに沿って撫でるように喉まで唇を滑らせる。
「気持ちのいいことで女を虐めるのが大好きでな」
「………やめて」
ナタリーは顔をすこし歪めた。
その白い胸がどきどきと不安げに波打っている震動がイヴァンの頬に触れる。
イヴァンは笑った。
「安心しろ、ひどい事はしない」
十分ひどい事だわ、とナタリーは惨めな気持ちで考えた。
彼は囁いた。
「オレの妃になる女だからな。大事に虐める」



大事に、虐める。

どういう意味だかさっぱりわからないが淫らな事を彼が言っているのは理解できたので、ナタリーは眉をつりあげた。
「わ、私は嫌。もうやめてください」
「オレが嫌いか?」
当たり前だ。
ナタリーはむっとして唇を噛んだ。
腰に当たっているかたくて熱いものが気に障る。
どうしてこんなものを押しつけられていないといけないのかと思うと情けない。
「私を処刑するつもりならひとおもいに殺してちょうだい。あなたの慰みものにされるのは嫌」
「誰が殺すものか」
イヴァンは意外そうに眉を寄せ、彼女の肘を放した。
そのまますこしずりあがり、掌で彼女の頬を挟むようにして顔を近づけてくる。

間近で眺めると性格の悪さにも関わらず意外に好ましげな顔だった。
美男子ではないが、若いくせに奇妙に風格と魅力のある顔つきである。
ナタリーはなぜか動揺した。
「…こ、殺さないの…?」
「殺さない」
イヴァンは彼女の唇に軽いキスをした。
「オレのにする」
オレのって、とナタリーは混乱した。
愛人にするという意味だろうか。
まさか本気で妃にするなどと考えているのだろうか。
よりによって自分の暗殺未遂の実行犯を?
「…心配するな」
イヴァンはにやりと笑った。
そういう笑い方をするとこの王子には陽気な雰囲気が漂う。
「実家とは縁を切ってノシュワール公爵の養女になるんだ。もう内々に話をつけている。そうなればもう誰も余計な詮索はせん」

ノシュワール公爵家は王国で一二と言われる旧家であり、古い王族から分かれた分家でもある。
ただ現在の当主の跡取りであった一人息子はかの有名なストラッド攻防戦で戦死し、家名存続が危ぶまれているという噂はナタリーも知っていた。

──ただただ呆れるばかりの展開である。
一週間前にああなってからもうそこまで手配している。
素早いというか実行力があるというか……本気なのだろう、か。
彼女が考えている間にもイヴァンは軽いキスを繰り返している。
また彼の頭の位置が下がってきていることに気付くが、さきほどと同じく肘を抑えられてしまったのでまたもや動けない。
求婚が本気だとしても、彼女の意思を尊重しないやり方には違いない。

なのに彼のキスはとてつもなく甘い。
多少嬲るようではあるが。

ナタリーの頭も感覚も混乱してきていた。
口ぶりは意地悪だし強引でしつこくはあるが、実際にはここ数日というものイヴァンは彼女を『可愛がって』いる。
時折凶暴なくらい激しい行為をしかけてくるがそれが本当に虐めているわけではないことはうぶな彼女にもわかった。
最初の日には死ねばいいと思ったのに、交わす言葉の端々に滲む諧謔や冗談に気付かざるを得ず、それを無視できずに密かに楽しみにしている自分を発見してしまう。
これ以上彼と一緒に居るのはよくない。
たった数日、いや一週間でここまで馴染んでしまう自分が怖い。
あれだけの事をされて、なぜその男と───。



「そうだ」
イヴァンがふいに顔をあげた。
「いつまでもこんな所に置くわけにもいかん。オレの離宮にこい」
「なぜ?」
イヴァンはナタリーの括れた腰に掌を廻した。
肘を解放されてほっとした彼女は我が身を抱きかかえた。
彼女の細い腕の間に現れた魅力的な谷間に視線を落として、イヴァンは続けた。
「婚約の前にとりあえず愛人から始めよう。まだいろいろやっかいな手続きがあるんだ」
「愛人ですって?」
ナタリーの険のある口調にイヴァンは明るい色の目を細めた。
「いや。恋人。…これなら満足か?」
ナタリーの頬は真っ赤になった。
「違います。言葉の問題じゃなくて──」
もどかしい。
この違和感をどう伝えればイヴァンは自分の感情をわかってくれるのだろうか。
「言葉は大切だ」
彼はじっと彼女を見つめた。
その視線に絡めとられたナタリーは目を逸らせなくなった。
「ナタリー……」
「……………」
イヴァンは薄い微笑を頬に刻んだ。
「……やめた。急ぐ必要もないから当分は言わないぞ、いいな」
なにを、という言葉は出てこなかった。代わりに彼女は小さく喘ぐ。
柔らかい双つのまろみにイヴァンがまたキスを始めたからだ。
「──離宮に──行ったら、もう──男の格好は──やめろ」
イヴァンのくぐもった声が切れ切れにする。
「髪ものばせ──勿体ない」
「舐めないで、ください…!」
ナタリーは懇願した。
実際抵抗ができないのだから懇願するしかない。癪にさわるが唯一の手段だ。
イヴァンはあっさりはねつけた。
「しっかり抱きついてろ」
「……〜〜っ…!!」
掌が腰から太腿に移動して持ち上げているのがわかったが、乳首を口中で転がされているナタリーはそれどころではなかった。
痛い、でもなく気持ちいい、ともまだ言いがたい未分化な感覚が背筋を這い、腰にわだかまってゆく。
音をたててしゃぶられると声が出てしまう。
とても微妙だが、たぶん快感に近い。

嫌、この人に反応するのは、嫌──
嫌、なのに───。

腿の間にイヴァンの躯が入り込み、背筋に掌が移動していく。
柔らかく撫で上げられて自分がかなり汗ばんでいることに気付く。
キスは遠慮がないくせにイヴァンの掌や指での愛撫は触れるか触れないかの微妙なものが多い。
激しく擦るよりもはるかに官能的に、かつ不穏に、女を昂らせていくやり方である。
もともと対抗するには、初心者のナタリーには分が悪すぎる相手なのだ。
「挿れるぞ」
わざわざ耳元で甘く囁く彼の意図は明らかで、ナタリーにはもうその企みが理解できていおり、彼女は唇を噛んで顔を背けた。
それでもできるだけ腰を退きながら、弱々しく懇願してみる。
「やめ──」
「──い、や、だ」
「っ……」
反応したくないと思ってもどうしても背中が仰け反る。
狭い入り口に押し当てられたそれに遠慮のない力が込められる。
一旦入り込むとぬるりと自然な動きが起こる。ひどく濡れていた。
それがたまらなく恥ずかしく口惜しく耐え難い。


「いや…ぁ…」
ナタリーは小さく呻く。
どこを見ていればいいのかわからず、イヴァンの勧めるままに彼にしがみつくのも嫌だ。
せめてしっかりと目を閉じ、肩を竦める。
目を閉じると生々しい肉の感覚がくっきりとしてしまうが彼の愉悦に満ちた表情を見るよりはましだ。
たぶん。
「ん…」
イヴァンがうっとりとした口調で呟く。涎が垂れそうなうわずった声だ。
「……いい…ナタリー……」
イヴァンは彼女を抱いていた腕を抜くと、掌をシーツにつく。

始まる、と彼女は緊張した。
脈打っている彼のものが動き出すのは時間の問題だ。
それが始まるのは怖いが──まだ痛いから──、反面、始まってしまえば終わるのも間近のはずだ。
避けられないのなら早く終わって欲しい。
「ほら……」
イヴァンが赤く染まった薄い耳朶に囁く。
「濡れてる……こんなに」
「言わないで」
ナタリーは小さく叫んだ。
「やめて」
「やめられるわけがないだろう」
イヴァンは幸せそうに呟いて腰を揺らした。
「ふ……!」
ナタリーは唇を必死の力で閉じた。
喘ぎたいのだがそれをしてはイヴァンがいい気になる。
イヴァンは挿れたままのそれを緩やかに円を描いて動かした。
敏感な芽のような場所を茎の硬さがぐいと押し上げるとナタリーの思考は火花を散らされたように、ほんのわずかの間白くなった。
「あっ」
ぴん、と足のつま先にまで緊張が走り、イヴァンもそれを感じ取ったらしい。
「反応が良くなったな」
イヴァンは呟いた。嬉しそうだった。
「もっともっと、ずっと良くなるぞ。早くそうさせたい──」
冗談じゃ、ない。
そう彼女は思ったがまた鮮烈な火花がその思考を散らした。
「あっ、あ…!」

「──のは、やまやまだが」
イヴァンは吐息をついて眼下の美しい娘を眺めた。
震えている上気して汗ばんだ躯、自分のモノを受け入れたまま、耐えるようにごくわずかにくねっている腰。
頬は染まり、嫌悪にひそめた眉まで艶っぽいといったらない。
もとが凛とした美貌なだけにこの羞恥に惚けた表情との落差がたまらない。
「…オレも限界だな」
イヴァンは自分に確認するように呟いた。
ナタリーの目が開いた。暖かみを帯びた褐色の魅力的な瞳である。
のぞきこんで囁く。
「動こうか」
彼女は軽蔑の視線で彼を見上げ、それでもひくひくとその躯は彼の微妙な揺れに反応している。
「やめてと言えば──やめ、やめて、くださるの──」
「始めてしまえば、たぶん無理だな」
イヴァンは、やはりうっとりと返した。
「…だから、もう少し我慢しよう」
彼女の意思とは関係なく彼をどこまでも引き止めようとするその躯の甘い反応に呻きながら、イヴァンは、堅く膨れあがったそれをぬちゅり、と引き抜いた。
樹液と蜜がたっぷりと絡みついた先端が、名残惜し気に彼女の太腿との間に艶めかしく光る糸を垂らした。


イヴァンは首を傾け、荒い息を吐いた。
「…はあ……」
「……どうして?」
ナタリーが真っ赤になったまま呆然と呟いた。
「どうして……やめたの…」
「勿体ないから」
イヴァンは呟いた。
びくびくと非常に不満げに動いている自分のそれをちらりと眺め、彼女の傍に躯をずらす。
「イくと気持ちはいいが、おまえとまだ遊びたい」
「遊ばないで!」
彼女は叫んだ。
「早く終わらせて、どこかに消えて!」
「それは嫌だ」
イヴァンは息を整え、軽く彼女の鼻を指の先で弾いた。
「一緒にいたいんだ」

「………………………」
ナタリーは、目の前の憎たらしい男を凝視した。
イヴァンの顔は辛そうなくせに幸せそうでもある。
彼は囁いた。
「嬉しいだろう?」
「……………」
ナタリーの半ば潤んだ瞳に苛立ちが走った。
もう我慢できなかった。
彼女は、イヴァンが躯をずらしたために自由になった左手を伸ばした。
熱く濡れそぼり、屹立したままのイヴァンのモノをためらいもせずに握りしめた。
「おい」
イヴァンが思わず叫んだ。
不自然な体勢なのでしっかりと指がまわっているわけでもないが、それでも握られているには違いない。
イヴァンが躯を丸めて防御しようとするが、ナタリーには許す気はなかった。
素早く小柄な躯をひねり、彼の片方の太腿を押さえつけるようにして滑らかな脚を絡ませた。

この一週間でもう、かなりそれの特徴は知っている。
知りたくもなかったが、事情はともあれ得た知識は有効に活かすべきだ。
今の状態になったそれは、イヴァンの意思とは関係なく、与えられた刺激に反応せずにはいられないはずだ。

「おい、ナタリー」
珍しくうろたえているらしいイヴァンの様子に、ナタリーは確信を持った。
頬にかかった豪華な色の髪を振り払い、彼女は指や掌に伝わる感触から意識をそらしてイヴァンを睨みつけた。
「……やめろ」
彼は不機嫌そうな声で言った。
口調とは裏腹にその明るい色の目の奥には面白そうな光が踊っていた。
が、頭に血の上っている彼女は気付かなかった。
「はしたないぞ」
「あら」
ナタリーは言い返した。
「よく、そんな事言えますね」
「狙いはいいが。……できれば、もう少し優しく握ってくれ」
イヴァンは要求した。
「ゆっくり前後に、な。結構繊細なものなんだぞ」



「……………………」
ナタリーはきょとんとして彼の目を見た。
彼の態度ががらっと変わったので驚いたらしい。
すぐにイヴァンがにやにやしているのに気付いた。
「………………………………」
彼女の耳朶は深紅になった。
ほっそりした指をぎこちなくそれから外し、急いで身を退こうとするのをイヴァンは捕まえた。
「続けろよ」
 耳元に言うと、ナタリーは羞恥と怒りに混乱した風情で喘いだ。
「い、いやよ…!!」
「ん」
イヴァンは頷いた。
「──では仕方ない」
潤んだ目もとにキスをすると、彼はナタリーを押し倒した。
「いや、なに…!」
「するのさ。おまえの望み通り」
「違うわ!したくなんかない!」
「そうか、だが」
イヴァンは彼女の脚を抱え込んだ。
「さっきのような事をされると、オレのほうがもう我慢できん」



イヴァンとつきあわざるを得なかったこの一週間、『逆効果だったのだ』という取り返しのつかない後悔に実によくぶつかることにナタリーは思い当たる。
彼女がなにをやろうとどうあがこうと、イヴァンは結局喜ぶ事が多かった。
いっそのこと何もしなければどうか。
いっそのこと彼の言う通りに従順にしがみついていればいいのか。
だがナタリーにはできない。
…そして、したくないのに、最後にはそうしなければいけない。

イヴァンが再び入ってきた。
気を持たせることのないそのやりかたは、本人の言うように多少せっぱつまった気配を感じさせた。
ナタリーは呼吸を潜めて、侵入される衝撃に耐えた。
背中がしなり、シーツに腰を押しつけられて少し喘ぐ。
イヴァンがその腕をとり、自分の躰に回した。
「こうだ」
「…………」
その偉そうな言い方にかちんときたが、ナタリーは柔らかな襞を抉られてイヴァンの思惑通りその躰にしがみついた。
「あっ…!」
「ん…ああ」
はぁ、とイヴァンが熱風のような息を彼女の肩に吐いつけた。
「そんなに、…締め付けるな」
そう言われても、彼女にはどうしようもない。
痛いし、怖いし、なのに反面自分が彼との行為に馴れつつあるという現実が恐ろしい。
痛みを逃そうとして、少しでも滑らかに滑るように腰を調節してしまう。
彼に協力するように、脚をその躰に沿わせてしまう。
イヴァンの動きのままに彼女の洞の奥は甘くぬめりながら忠実に複雑にかたちを変え、ナタリーは滲みあがるもやもやとした鮮明でない快感と悔しさで喘ぎ続けた。
彼女の声が舌に絡むようにかすれ始めた頃、イヴァンは顔をあげた。汗びっしょりだった。
彼は背を反らして喘いだ。
「やめろ、だめだナタリー」
なにもしてない、と熱い塊に蹂躙されながらナタリーは、とろけそうな顔のイヴァンを睨んだ。
──つもりだったが、その刹那おろされたイヴァンの視線からは、睨まれているといった不快感は微塵も窺えない。
自分がどんな顔をしているのかとてつもなく不安になった。



「ん…」

イヴァンが小さく呟いた。
背を丸め、彼女の躰を抱きすくめた。
「くそ。出すぞ」
びくん、としてナタリーは現実に戻った。
「…だめっ!」
イヴァンの肩を抑えて腕を突っ張ろうとしたが、その躯はもちろんびくともしなかった。
「きゃ……!」
「ナタリー……」
深く挿し入れられているものが弾けたのがわかった。
これほど厭がっているのに彼が自分の中に性懲りもなく射精したこともだが、それがわかった事に彼女は怯えた。
「いや、あ…あ、あ…」
情けなくて、しっかり抱きすくめられたまま、彼女は力無く躯をよじった。
イヴァンが呻く。
その腕に身を挟まれ、彼の躯から伝わる動悸の激しさや快楽の震えを否応なく味わわされるのがナタリーは大嫌いだ。
「ああ……あ……」
浅く早い、乱れた呼吸音が聞こえた。
イヴァンのかと思っていたが、よく聞いてみると自分の喉からも同じような音が出ている。
彼女は赤くなった。

「………………あーー……」

やっとイヴァンが顔をあげた。
ナタリーの目にぼんやりと視線を絡める。
「──良かったぞ」
到底返事をする気になれない賛辞である。ナタリーは顔を逸らした。
「待て」
イヴァンはひどくだるそうに身じろぎをし、彼女の頬を片手でおさえ、口づけをした。
「……よし」
解放して、イヴァンは彼女の傍らに躯をずらした。
ナタリーは思わず息をつき、たっぷりと潤んだ股間を気にしながらわずかに男から離れた。
その腕を掴み、イヴァンは彼女の耳に囁いた。
「あとで湯をつかって綺麗にしてやるからな」
「それより早く出て行ってください」

「…い、や、だ」

イヴァンは深い溜め息をついた。
マ烽熾マわらず幸福そうだった。
その満足げな顔を眺めていると自然と眉がよっていく。
彼は目をあげ、微笑した。
「おやすみ、ナタリー」
返事をせずに彼女は、狭い寝台で彼にくるりと背を向けた。
背後から腕が廻されたが──たぶん、当分は──不埒な事はされないかもしれないと現実的な事を考えて、ナタリーは疲れた吐息をかみ殺す。
「ナタリー」
彼女は再び目を開いた。今度は何だろう。
耳元に彼は囁いた。
「目が覚めたら移る準備だ。──これからは刺客じゃなくて愛人なんだからな。そう厭がらずにオレに優しくしろよ」
「………………………………」
なぜこの男の言い草はいちいちひっかかるのだろうかとナタリーはうんざりしながら考えた。

だがとにかくこの塔からは出られるらしい。
イヴァンの離宮がどんなところかは知らないが、そしてどんな扱いになるのかはわからないがここよりははるかにましのはずだ。
従者も侍女もいることだろうし、彼がここまで入り浸ることもないだろう。
この男と二人きりでいるのはひどく疲れる。
ナタリーは力つきたように長い睫を伏せた。
あっというまにイヴァンの腕の温もりも、寄り添われている不快も振り払って彼女は、眠りの中に逃げ込んだ。





静かで穏やかな寝息がする。
腕の中の彼女の、生きている柔らかな証だ。
眠ると彼女は別人のように愛らしい。
金褐色の髪にキスをして、イヴァンもようやく目を閉じた。
彼女と一緒にいるのは愉しい。
一人の女に溺れるのも悪くない。


塔の外は夜明けの光の渦が押し寄せる一歩前の涼やかな時刻だった。
ひどく静かなその黎明は毎年きちんと訪れるこの国の早い秋の気配を知らせていた。





おわり


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