奥さんの言った通り、あの人は二階の一番奥の部屋にいた。気配は感じるけど、物音は全くと言っていいほどしない。一体何をしてるんだろうか。もしかしたら寝てるんじゃないだろうか。だったら今声をかけるのは間違っている気がする。だけどこのままにしておくのもいけないと思う。だって私の性格からして、後回しにしていくと結局お礼も何もできないままになりそうだから。
「オイ」
「ひィッ」
「………ひィって、オイ…」
「…なに見てんだよ」
「…あ、いえッ、その…助けて貰った、お礼が言いたくて」
「別に、そんなつもりで助けたわけじゃねェよ」
 そう言って彼は部屋の奥へと戻って行った。見惚れるほどに、格好良い。だけど一目惚れとは少し感じが違う。だってこの人は私の命の恩人だから。
「何突っ立ってんだ」
「え?」
「入りな」
 部屋の奥、机の上前に坐っていたその人が、こっちに来いと言うように手招きをした。それにびっくりして固まって、怪訝そうな顔をされて仕方なく、その手に誘われるように部屋の中に足を踏み入れた。
 机の上には出しっ放しの硯と筆と、巻物が広げられていた。字が、達筆過ぎて読めない。草書体は私には読めない。その机の前に敷かれた座布団に、彼はどっかりと坐って胡坐を掻いた。筆を持って字を綴る。
「あの、」
「あん?」
「助けてくれて、ありがとうございました。あのままだったら私、死んでました」
 軽くお辞儀をする。

「死にたかった?」
 硯の淵にに筆を置いて、こちらを向き直った。え?と言った言葉は喉につっかえた。何を言ってるんだ、この人。でもその瞳は一点の曇りもなかった。何を、考えてる?死にたかった?などと彼は口にする。
「…なに、を」
「この世の終わりって顔してただろ」
「そりゃ…、そう思いましたけど」
「じゃァ、助けなかった方が良かったか」
 また机に向って筆を取った。
 
運命のうた 肆