死生のロンド


 



 狭いケージの中をウサ吉がもぞもぞ動いている。落ち着かないのだろう。
「もう少しだからな」
 電車の椅子に座りケージを膝に乗せている新開は小さい声でウサ吉に語りかけた。
 空いている車内ではそれを見咎める者もいない。
 なんて自由なのだろうか。久々の開放感に新開は大きく伸びをする。
 窓の外ではのどかな風景が広がっている。
 曲がりになりにも家出をしてきたのだから、もっと緊張感をもつべきなのかもしれない。だが、既に新開は遠足に来ている子どものようにわくわくしていた。
 家出といっても今日中には帰る気でいる。あまり大事になっても問題だ。実家に連絡されるとまずい。学校側が少しだけ問題視してくれればそれでいい。あの記者を福富に近づけないようにしてくれれば。
 電車が大きく揺れて駅に止まる。
「着いたぞ」
 新開は再びウサ吉に話しかけた。ウサ吉は不思議そうな目で新開を見つめる。
 ウサ吉をここへ連れてきたのには理由があった。
 駅に着いた途端に腹が減ったので、新開は売店でおにぎりを三つ買った。
「あんた、どこ行くつもりなん?」
 人の良さそうな来店のおばちゃんに新開は行き先を告げる。
「バスが出てると思うんだけど」
 新開がそう言うとおばちゃんは「あらぁ」と声を上げた。
「今、ちょうど着く頃よ。あっち。それ逃すと次ぎは一時間後」
「ありがとうございます」
 新開は全力で走った。と言ってもゲージを極力揺らさないように慎重に走る。そのせいで走るというよりは早足だった。
 それでもどうにかバスに乗ることができた。平べったい顔をした運転手が走る新開を見つけて待っていてくれたのだ。
 新開は運転手にお礼を行ってバスに乗り込む。電車同様にこちらも乗客が少なく、小さなおばあさんが独り座っているだけだった。一番後ろ席へと新開は歩いていく。ちょうど、バスのドアが閉まる音がした。
 新開は緑色の席へと腰を下ろす。自然に身体が弛緩する。あともう少し。
 それから十数分後、新開はバスを降りた。バス停には数人の人たちがいて、新開と入れ替わりにバスへと入っていく。
「さて」
 新開は目の前の森林を眺める。樹々たちは思い思い葉を伸ばし、新開たちを歓迎するように揺れていた。とりあえず新開は傍らにハイキングコースと書かれた立て札がある道へと足を踏み入れる。コンクリートほどではないが、土が固められていて歩きやすい。逸る気持ちを抑えて新開は森の中へと入っていった。
 いくらか歩いたところで急に開けた場所にでた。野原のように草花が生い茂り、中央には小さな湖が夕日で赤く染まっていた。
「着いたぞ、ウサ吉」
 新開は片手を上げる。ここが目的地だった。
 失踪しようと思いついた時、真っ先にウサ吉をここに連れてこようと思った。
 この場所を知ったのはクラスメイトの相談に乗ったことがきっかけだ。
 そいつは動物好きの彼女とのデートに何処に行くのか迷っていた。
「はぁー動物園も水族館も行ったよ。次、どうする? 俺」
「同じ場所にまた行けばいいんじゃないのか?」
「わかってねーなー」
 男は新開にぶつくさ言うと携帯電話の画面を指で弄ぶ。
「そういえば、お前。うさぎの世話してんだよな」
 うさぎ、うさぎ。と言いながら男が画面に何やらを入力する。そして、ざっと画面を眺めると新開に見せてきた。
「おい、これ知ってる? 時々、自然のうさぎやリスが現れる湖だって」
「へぇ」
 気のない返事をする新開だったが、画面下に映った地図を見て固まる。
 その場所はウサ吉の母親を轢いた場所のすぐ近くだった。

「ウサ吉もお母さんとここに来たことがあったのかもな」
 新開は湖から一メートルほど離れた位置に座った。ゲージの入り口を開け放った。うさ吉は顔だけ外に出して鼻先で土の匂いを嗅ぐ。やがて、ケージからゆっくりと出てきた。
「この辺りがウサ吉の故郷なのかもな」
 新開はそう言ってウサ吉の頭を撫でた。気持ちよさそうにウサ吉が目を瞑る。
 しばらくそうした後、新開はバッグからお菓子を取り出した。その周りでウサ吉が元気に土を掘っている。
 新開は微笑ましい気持ちでそれを眺めた後、草の上へと寝転んだ。沈みかけた太陽の最後の光が空を彩っている。
 これからどうしようか。
 新開は考える。
 書き置きを誰かが見つけて騒ぎになるのはまだ先の事だろう。ここで夜を過ごすつもりはないが、 少しのんびりするのも悪くはない。
 生温かい風が新開の頬を撫でる。夏休みも終わったというのに、未だに暑さは衰えることを知らない。まるで夏はまだ終わっていないとでもいうようだ。
 寿一。
 新開は青と白の箱根学園のジャージを身に纏った福富を思い浮かべる。
 どうして。
 考えると胸が詰まった。
 腕で顔を覆う。責める声が胸の内より湧き上がってくる。
――どうして、オレは。
――ペダルを踏めねェんだ。
 その異変に気が付いたのは、例の事故から最初に部活に顔を出した日だった。
 眠れない夜を過ごした新開は重い気分で部活に顔を出した。その日はコース一周を部員みんなで競いながら走る部内レースの日だった。これは単純に速く走る者は有利なので、山岳さえ上手くこなせればいつも優勝争いに絡んでいた。レースの優勝を祝う後輩たちや同級生を適当にあしらいながら、新開は愛車に跨る。違和感はすぐにやってきた。
 自分が思うよりもスピードが出ない。いや、出せない。
「どうした、新開」
 新開の横を福富が怪訝そうな顔をして通り過ぎる。新開はそれを追おうとして愕然とした。脚が動かない。スピードを上げると脚が止まってしまう。何かが飛び出してきそうで。
 福富の背中はみるみるうちに遠ざかってしまった。
 それから少し間を置いて見知った声が聞こえてきた。
「ずいぶん遅いじゃナァイ」
「口が悪いぞ、荒北。隼人はレース後で疲れているんだ」
 ここは平坦だ。荒北、東堂に並ばれた事なんてない。そんなはずない。
 だが、新開の想いも虚しく彼らはやすやすと新開の横に並ぶと簡単に追い越して行った。
 追いつけ。追いつけ。
 歯を食いしばって新開はペダルを回す。鉄の味が口の中に広がったが構わない。
――オレはスプリンターだ。平坦で負けるわけにはいかねェ。
 恐怖心を忘れようとがむしゃらにペダルを漕ぐ。それは少しの間、成功した。ぐんぐんとスピードを上げ、東堂と荒北の背中が見えるまで近づけた。
 しかしその時だった。
 新開のロードバイクが“何か”を轢いた感触がした。
 うわあああ。
 新開は声を上げてブレーキをかけた。が、うまくいかずコンクリートへと自転車ごと倒れこむ。
派手な音を立てて新開は落車した。
「大丈夫ですか。新開さん」
 後ろからきた後輩たちが地面に投げ出された新開に心配そうに声をかける。
「大丈夫だ」
 新開はそう言いながらのろのろと立ち上がる。肘が痛い。見れば、ジャージが裂けてそこから血が出ていた。
 生々しい赤に新開は目を逸らす。そして、倒れたままの愛車を起こすと再び跨った。
「大丈夫だ」
 今度は自分に言い聞かせるように呟いた。
 結局その日、新開は最下位だった。
「新開」
 練習が終了し、部室へ戻ろうとする新開を福富が呼び止めた。
「何だい。寿一」
「今日はどうした。お前らしくない。手でも抜いていたのか」
「いや」
 新開は首を振るが福富はふざけていると取ったようだ。眉をきつく上げる。
「インターハイも近いんだ。このレースも選考の判断材料になる。気を抜くな」
「寿一。でも」
「何があってもペダルを踏むことを止めるな」
 福富は言いたい事だけを言うと、さっさと歩き去って行く。
 その背に新開は力なく笑った。
「わかってる。わかってるぜ、そんなこと」
 ジャージの上から心臓をきつく握った。
 それから新開は部活を休みがちになった。皆の前で走れば、自分に異常がある事がバレてしまう。 そうなれば新開がインターハイのメンバーに選ばれる事は絶望的になる。
――箱学に行って二人で天下を獲ろう。
 いつかの自分の言葉が胸に響く。福富との約束を破るわけにはいかない。
 新開は放課後にウサ吉の世話し、夜は寮を抜け出して自転車に乗った。
 暗い夜道を新開は走る。最初はゆっくりと、徐々にスピードを上げていく。誰もいない夜の道を駆け抜ける。涼しい風が頬を掠めていく。
 ここまでは問題ない。
 新開は強くペダルを踏み込む。速く。もっと速く。
 脚が重い。自転車というものはこんなにも苦しいものだっただろうか。
 無我夢中でペダルを回す。フォームが乱れるが知ったことではない。
 自分は誰よりも速くなくてはいけない。
 視野が狭くなって前しか見えなくなる。鼓動がどんどん大きくなって。新開は飢えたように口を開いた。
 鬼だ。自分の中の鬼が顔を出そうとしている。
 行ける。
 新開が更に力強くペダルを踏み込もうとして、息を呑んだ。
 自転車の進路に黒い塊が飛び出してくる。
 咄嗟に右に避けようとするが、間に合わない。
 新開は目を瞑った。ウサ吉の母親を轢いた感触を思い出して全身が冷たくなる。
 しかし、その瞬間は訪れなかった。
 新開の愛車を何に邪魔される事なく前に進んでいく。新開は目を開けて恐る恐る振り返る。暗い道路の上には何もなかった。
 夜間の練習中にそんなことが幾度もあった。
 その度に新開は自分のせいで失われた命を思い出し、苦しんだ。それでも自転車から降りなかった。
――二人で天下を獲ろうって約束したんだ。
 その日も新開は寮を抜け出して走っていた。街灯に照らさた道を駆け抜ける。新開はその日ひとつの決心をしていた。
 何があってもペダルを回す。最後まで走りきる。
 いつか福富が言っていた言葉を思い出す。
 “何があってもペダルを止まるな”
「オーケー寿一」
 ハンドルを強く握る。きっと今、自分は珍しく緊張している。
 新開は軽く笑った。そして、持てる力全てを使ってペダルを踏んだ。
 向かい風がぐんと強くなる。見える景色が目まぐるしく通り過ぎていく。
 もっと。もっとだ。
 周囲の雑音が消えて、自分の鼓動の音だけになる。
 そんな瞬間が新開は好きだった。
 曲がり角をカーブして長い直線に入る。逸る気持ちで新開は前へ前へと進んでいく。
 規則正しく並んだ街灯を数本通り過ぎた時。視界の端で“何か”が蠢いた。
 新開は見て見ぬ振りをする。
 あれは幻だ。
 この夜道で何度もあの影と遭遇したが一度だって本物だったことはない。
 あれは新開の弱った心が見せた幻覚だ。
 新開は自分を落ち着かせる為に大きく呼吸をする。
 黒い影が不意に自転車の前に飛び出して来た。
――あれは本物じゃない。
 このまま直進する。轢いてしまっても構わない。新開はペダルを踏もうと脚に力を込める。
 だが、その時。新開の心にある光景が広がった。
 それはいつもの夢で見る血まみれの道路ではなかった。
 母親の屍の傍らで自分を見上げるウサ吉の瞳だった。無垢なその目は何も知らないはずなのに。真っ直ぐに新開を見つめていた。
 新開は叫んだ。
 だが、そのまま自転車は進む。タイヤが黒い影を踏みにじる。
――無理だ。
 新開は片手で顔を覆った。
 乗り手が漕ぐことを放棄したロードバイクは緩やかに速度を落していく。
「ごめん」
 目が熱くなる。新開は必死で涙が流れるのを堪えた。
 どこで自分は間違えてしまったのだろうか。
 ロードを始めた時、本当に楽しかった。まるで風になったかのように速く走れるこの乗り物に新開はすぐに夢中になった。
 中学に進んで、福富と出会ってそれは更に楽しくなった。
 福富は今までいた新開の友人たちとは違っていた。
 新開がグランツールの話題を口にすれば、すぐに乗ってきた。休日に「遠くまで走りに行こう」と誘うと頷くどころかコースまで提案してきた。彼は新開と同じ、それ以上にロードに対して真摯だった。
 何より新開が嬉しかった事は。
 福富がそれに見合った実力の持ち主であった事だ。部内の誰も福富には敵わなかった。平坦を走る自分を除いて。
 その福富に褒められるのは心地が良かった。
「やはりお前が一番速い」
 レースが終わった後に真面目にそう言う福富に新開は何回ニヤける顔を我慢したかわからない。
 もうひとつ、嬉しい発見があった。
 中学に入るまで新開は自分が一番にゴールすることにしか興味がなかった。だから苦手な山岳のコースが多いと、少しやる気が出なかった。しかし、福富と出会って新開は誰かをゴールさせる喜びを知ることができた。正確には信頼できる誰かをゴールさせる喜びだ。
「オレたちって相性いいよな」
 ある時、新開は福富に言ったことがある。その言葉に無反応の福富に新開は続ける。
「オレは平坦、寿一は山が得意だろ。ぴったりだ」
「お前はもう少し坂を登れるようになれ」
 得意げに言う新開に呆れたように学ランを着た福富は言った。その横顔が微かに赤くなっている。その事に気が付いた新開は自分の顔も熱くなっていくのを感じた。続けようとした台詞が急に恥ずかしくなって、新開は言葉を呑み込む。代わりに頭の中だけで囁いた。
――オレたちって運命だよな。
 動力を失った自転車が大きくふらついた。新開は地面に足を下ろす。それだけで車体は安定し進むのを止めた。夜の静けさの中、ふと弟の声が耳に甦る。
「隼人くんのせいだ」
 あれは弟がまだ小学生だった頃だ。
 目を赤く充血させた弟が鳥かごを指さしている。かごの中に無数の白い羽根が散らばり、どのような惨劇が起きたかを物語っていた。
 元々、その日は二人で飼っていた小鳥のカゴを掃除をする約束だった。しかし、福富から走りに行こうと誘われて新開は弟に任せた。「わりィ。一人でも大丈夫だよな」という軽い言葉と共に。以前の新開だったら弟との約束を守ったかもしれない。福富だったから。福富と出会って誰かと共に走る楽しみを知ったから。新開は弟との約束を反故にして出かけた。
「隼人くんは自転車の方が大事なんだ」
 あの時、吐き捨てるように悠人は言った。まだ福富と面識のなかった彼は兄を自転車、というよりもそれを通じた新しい友人にとられたように感じていたのだろう。弟もロードをやっている。本心ではなかったはずだ。
 だが、その言葉は新開の心に深く突き刺さった。
 自分が走りに行かなければあんな事は起きなかった。新開は心底後悔した。
 “自転車が大事?”そんなことはない。命の方が大事に決まっている。
 こんな事になるなんて知っていたら福富と走りに行かなかった。
 新開は自己嫌悪の波に溺れないように弟の言葉にそう心の中で反論した。
 なのに。
 その時、水滴が空から落ちてきた。新開は顔を上げる。涙で滲んだ街灯の向こうに黒々とした雲が見える。
 新開は自転車のハンドルを握りしめた。
――なのに、自分は今日。うさぎを殺そうとした。
 自転車で走る為に。
 新開は口を抑えた。吐き気がする。
 あれは確かに幻かもしれない。だからといって平気で轢き殺せるものではない。
 自分はおかしい。新開は自らの頭を壁に打ち付けたい衝動に駆られた。
「たすけて」
 喘ぐように口にする。
 思い出す。ウサ吉の母親を轢いた時、なんて思った。
 “邪魔だ”
 そう思ったのは鬼ではない。現実の新開隼人だ。
 大粒の雨が堰を切ったように降り出す。暗闇の中、新開はその冷たさにただ震えた。



 後方に灯りが着く気配がして新開は身を起こした。どれくらい経過したのだろう。気がつけば空はすっかり濃紺になっており、星まで浮かんでいる。背後を振り返ればやってくる時に歩いた道に仄かな光が見える。行くときは気付かなかったが、電灯が設置されていたのだろう。
 新開はやれやれと立ち上がる。そろそろ帰った方がいいかもしれない。
「ウサ吉?」
 そこで、ようやく気がついた。
「ウサ吉ッ」
 新開の必死な声が虚空に響く。
 すぐ近くで遊んでいたはずの愛らしいうさぎの姿はどこにもなかった。
――森の中へ行っちまったのか。
 新開は視線を周囲へと走らせる。そこでふと目の前の湖に目がいった。
 湖に一つの波紋が広がっている。それは質量をもった“何か”が落ちた後のように、じわじわと大きくなっていく。
 もし。もしも、遊んでいたウサ吉がうっかり湖の縁で足を滑らせていたら。
 新開は靴を掴んで脱ぎ捨てた。そのまま駆け出す。
 考えるよりも先に身体が動いた。
 新開は暗い湖へと躊躇せずに飛び込んだ。

2015/08/15