死生のロンド


 


「よう新開。アイツについて新しい情報がわかったぜ」
 寮の廊下でばったり出会った今井はそう言うと、話があるから談話室に行こうと新開を誘った。
 あれから新開は福富に落車の事を訊けずにいた。まるで福富を疑っているようで訊く行為自体が酷い侮辱に思えた。そもそも尋ねる必要なんてどこに存在する。福富はやっていない。
 そう思っているはずなのに新開の気分は梅雨の空のように晴れない。おかげであまり夜眠れていなかった。
 じりじりとした気持ちで今井の後ろを歩き、談話室へと足を踏み入れる。室内にはテーブルに集まって携帯ゲーム機で遊ぶ奴らが数人いるだけだった。今井と新開は空いているソファに座る。
 正面に設置されたテレビから感情のこもらないアナウンサーの声が流れている。話題は連日世間を騒がせていた中学生失踪事件だった。確か、昨日に無事に保護されている。
「これ、いじめられて自殺するって置き手紙してた子だろ」
 今井が呟いた。
「良かったなァ」
 うんうんと今井は一人で言って一人で頷いた。テレビの中の学校関係者がイジメについて事実関係を改めて確認すると発言している。
「こんな騒動が起こったら学校も動かざるおえないよな」
「で、話って?」
 このままだと世間話で終わってしまうと判断して新開は今井を促した。すると今井は意味ありげに周囲見回す。
「ちょっと待って。余計に怪しまれる」
「そうか?」
 とぼけた顔でそう言うと今井はさりげなくテレビのボリュームを上げた。よほど聞かれたくない話らしい。それならば自分たちの部屋で話せば良かった。
「今からでも部屋に行くか?」
 新開がそう言うと今井は顔をしかめる。
「そういうのっていかにも秘密の話みたいで嫌なんだよ」
 よく理解できないが、今井なりにポリシーがあるらしい。
「わかった。それでアイツってあん時の記者のことだよな」
「そうそう。ソイツ」
 今井は首を縦に振る。
「あいつさァ、度々ウチに取材の申し込みしてんの? 知ってる?」
「へぇ」
 新開は平静さを装う。心の中で不安が広がる。男が福富に妙な事を訊いていないだろうか。
「まー、代替わりの大事な時期だからって断ってるらしいけど」
 軽い口調で続けられた言葉に新開は息を吐く。
 だが、続けられて今井の言葉に新開は心臓が止まるかと思った。
「というのもな。福富がいるからなんだ」
「寿一が」
 喉が急速にカラカラに乾いていく。
「おい、声がでけェよ」
 今井の注意を無視して新開は両手を伸ばす。がっしりと今井の肩を掴むと新開は相手の目を覗きこんだ。
「それってやっぱりインハイの――
「ハァ? 突然どうしたんだよ」
 本気で何を言っているのかわからないという顔をして今井は身を捩る。
「落ち着けよ、新開。ウチの先生があいつからの取材を断るのはな、昔揉めたからだ」
「どういう事だ?」
 新開は今井を掴んでいた手を離す。自由の身となった今井は人差し指を自慢気に立てた。
「聞いて驚くなよ」
 そう言ってもう一度周囲を見回し、少しだけ顔を新開の方へと寄せる。
「 福富って兄貴いるじゃん」
 新開は頷く。福富と同じく箱根学園入学してロードで輝かしい成績を数々残した。その証であるトロフィーやらを福富の家で見たことがある。
「その兄ちゃんがチャリ部で主将やってた時に、アイツを “出禁”にしたらしいんだよ」
「出禁?」
「出・入・り・禁・止」
 得意そうに今井はいうとソファに背を投げ出した。
「アイツさァ、福富の兄貴に取材する時に態度最悪だったらしいんだよ」
 ロードを小馬鹿にしたような言葉の数々。
“たかが自転車” “ただ走るだけでつまらない” “ドーピングが多い恥ずかしいスポーツ”
「それで怒って主将権限で取材拒否。優勝校に取材できない記者なんて惨めなもんだよな」
 ざまあ見ろと言わんばかり今井は笑った。それから、急に表情を引き締めた。
「でも、アイツ学校に猛抗議してな。学校側も板挟みで苦しかったらしいぜ」
 だから、同じ事が起こらないようにその雑誌社の取材はある程度学校側が制限しているらしい。
「その出禁って、もうなくなったのか?」
「そりゃ福富の兄貴が卒業したらチャラだろ。元々、学校で出した正式なもんじゃねェし」
 その上卒業後は担当は別の人間に変わっていたので特に問題視する必要もなかった。
「それが、何で急に戻ってきたんだ?」
 新開の呟きに今井は手を挙げる。その姿は自信満々な小学生のようだった。
「妙に思うだろ。だからオレ、前の担当の人に電話したんだ」
「え」
 驚く新開に今井は「これだから素人は」と首を振る。
「一年の頃に名刺を貰っただろ」
 そう言われても覚えていない。貰ったようなないような。そもそも相手の顔すらわからない。
「すごいな」
 素直にため息が出る。
「広報担当をなめんなよっ」
 今井は得意気に腕を組んで笑った。その情熱の四分の一でもロードに回せば、レギャラ―ジャージも夢ではないと新開は思うのだが。
「で、聞いてみたんだ。なんで急に担当が変わったのか」
 今井は太めの眉をぐっと真ん中に寄せる。
「なんかこの前のインハイ後、急にまた高校生のロードの特集をやりたいって申し出たらしいぜ」
 驚きはなかった。そんな気はしていた。
 力の抜けた新開の横で今井が独り話し続ける。
「アイツあんなんでも社内じゃ結構実力があるらしくってさ。そんだけ言うなら面白いからやらせてみようって話になったらしい。ほら、あれから数年経ってるからさ」
 記事自体はあの頃もそこそこ評判だったらしい。
 なんか世の中不公平だよな。今井が唇を尖らす。
 それらの言葉が耳の表面を上滑っていく。新開は既に違うことを考えていた。
――寿一。
 天井に金髪の友人の姿が思い描く。
 どうやらあの男は“福富”に恨みがあるらしい。あの男の言っていた事は全部デタラメだ。
――そうだよな。寿一。
 新開は想像上の友に呼びかける。険しい顔をした友に。インターハイから帰ってきてから、福富は時々こんな顔をしていた。
 福富と話をしなければならない。
 新開は白い天井を黙って睨んだ。

 そう。インターハイから戻った後、確かに福富の様子は少しおかしかった。
 優勝すると新開に宣言したにも関わらず、福富は一度も新開にインターハイの話をしなかった。 新開が「優勝、おめでとう」と祝っても「あぁ」と目を逸らすのだ。照れているのかとも思ったが、その顔は赤くなるどころか青ざめて見えた。
 変だとは思っていた。
 新開が悪夢にうなされて目を覚ました時のことだった。眠れずに気分転換でもしようかと廊下に出ると福富と会った。やつれて生気のない目でこちらを見る姿はまるで幽霊ようだった。
「寿一も眠れないのか」
 新開がそう尋ねると福富はぼんやりとした声で言った。
――今夜“も”夢見が悪い。
 新開は「そうか」と言って部屋に戻った。居心地の悪い違和感を覚えたが深く考える事はしなかった。
「福ちゃん、大丈夫かなァ」
 食堂で一緒になった荒北がそう漏らした時も、新開はその発言について問う事はしなかった。すぐに「何でもねェ」と誤魔化す荒北に忙しい奴だと笑ってうどんをすすった。
「あれでは潰れてしまうぞ」
 合同体育で一緒になった東堂が真面目な顔で呟いても、新開は空を見ていた。突き抜けるような青空に想いを馳せていた。
 自分には資格がないのだと思った。
 ロードに乗れない自分に何か言う権利などないと思えた。あの日、インターハイを辞退して日から。いや、もっと前だ。ウサ吉の母親を轢いた日から新開はそれまでの全てを失った。
 目に映るもの全部がくすんで見えた。灰色の風景で唯一、インターハイを辞退したあの日。薄い水の膜越しに見た福富の金色の髪だけがはっきりと輝いて見えた。その光が希望だった。大丈夫、また自分は走ることができる。そう思えた。
――寿一。インハイで何があった。
 その一言がどうしても言えなかった。怖かった。恐ろしかった。もし「お前に話す必要などない」なんて言われたら。あの光が消えてしまう気がした。
だから、他の誰かが、時間が解決してくれるのを願った。
「後悔先になんちゃら、かな」
 新開はそう呟いてこちらを見上げるウサ吉にキャベツを差し出した。小屋の中にいるウサ吉は嬉しそうに瑞々しいキャベツを頬張る。
 あの記者が言うような卑怯な真似を福富がしたとは新開には絶対に思えない。だが、福富の様子から鑑みるにただの落車ではなかったのかもしれない。先に聞いておけばあの記者にはっきり反論できたのに。新開は頭を掻く。
 インハイでの落車がただの事故だと思えない理由はもう一つある。
 新開が人づてから福富の話を聞かされた時に一緒に思わぬ名前も聞かされた。
「総北の田所って奴に殴られたんだよ、福富の奴」
「迅くんが……?」
 総北の田所迅とは同じ学年で同じスプリンターで新開はよく大会で顔を合わせていた。
 田所は豪快に笑う気持ちの良い男だ。意味もなく暴力を振るうような人物とは思えない。総北の金城が落車に巻き込まれた事が許せなかったのだろうか。
 でも、田所はやはりそんな心の狭い人間には思えない。居ても立ってもいられず新開はその日の夜、田所へ電話をかけた。
「もしもし、迅くん」
「おう、久しぶりだな。新開」
 電話に出た田所はレースで会う時と変わらない調子だった。新開は少しほっとした。しかし、話題が福富のことになると途端に田所の口が重くなった。
「謝んねェぞ。オレは」
 苦々しく田所は言った。新開は力なく「うん」と応えた。
「でも、迅くん。どうして」
――オレたちは箱学みてェに強いチームじゃねェ」
 あの場所に辿りつくまでどれだけ。どれほどの想いで。
 絞り出すように田所は言い、口を噤んだ。そして、何も言えないでいる新開に「わりィ」と謝った。
「お前に言ってもしょうがねェよな」
「寿一は何をしたんだ」
 思い切って新開は尋ねた。その問いに田所は考え込むように再び黙る。沈黙の中、時計の秒針が進み音だけが部屋に響く。単調なその音が新開の気持ちを更に焦らせる。
「迅くん」
「お前が聞いたことが真実だ」
 堪らず声を発した新開に田所は静かに言った。それから、反論しようとする新開を制し「宿題やんなきゃいけねェから、そろそろ切るぞ」と告げた。
 訊きたい事は山ほどあった。だが、この様子では田所が話してくれることはないだろう。
「新開。忘れろ」
 田所はそう言って最後に小さく呟いた。
「殴って悪かった」
 ぷつんと通話が切れる。
「結局、謝ってるじゃないか」
 新開は泣き出しそうな想いで聞く者もいない携帯電話に囁いた。
 それでも、新開は見て見ぬ振りをし続けた。両目を、両耳を塞ぎ続けていれば、それは存在していない事になる。少なくとも新開の中では。
 だけど、それは間違いだった。
 ウサ吉がキャベツを食むのを止めて顔を上げた。耳をピンと立て、ある方角を見つめる。 新開はゆっくりと立ち上がった。背後から人が近づく気配がする。
「忙しいとこ、呼び出して悪ィな。寿一」
「構わない」
 新開は振り返る。そこには制服を風になびかせて福富が立っていた。

 決心していたはずなのにいざ福富を目の前にすると新開の心はみるみるうちにしぼんでいった。
「副部長は東堂がやる事になった」
「へぇ」
 二人は小屋の前に立って他愛もない話をした。部活のころ。ロードのこと。
 こんなに二人だけで話したのはいつ以来だろうか。ぽつりぽつりと語る福富を新開は眩しい気持ちで見つめる。
 後ろめたい新開の心とは裏腹に、夏の気配を残した青空からはきらきらと太陽の光が降り注ぎ二人を照らす。いつもだったらとっくに福富はロードに跨っている頃だろう。
「どうかしたか」
 見つめてばかりいたら福富が不思議そうに言った。慌てて新開は視線を逸らす。
「そういえばさっきウサ吉の奴、オレが気付く前に寿一が来たってわかったぜ。きっと寿一の匂いを覚えてたんだな」
 新開の言葉に「その通り」というようにウサ吉が頭を上げる。ピクピクと動く鼻が愛おしい。
「ウサ吉は賢い」
 福富はそう感心した後、躊躇うように少し間を空けて言った。
「新開。お前がしたい話とはそれか」
 そうではないだろう。言外に否定を滲ませて福富は新開の目を見る。それを新開は懐かしい気持ちで見返した。いつだって福富は相手の目を真っ直ぐに見る。
 新開は大きく息を吸った。
「寿一」
 信じてる。
 新開は心を決めた。
「広島のインハイでワザと相手を巻き込んで落車したってのは嘘だよな」
 それまで樹々を揺らしていた風がぴたりと収まった。遠くで聞こえていた喧騒もいつの間に止み、完全な沈黙がその場を支配した。
 福富は何も言わない。
 息を潜めて新開はただ待った。
――馬鹿な事を言うな。そんなことするはずがない。あれは事故だった。
 どんな口上だって良い。福富がはっきりと否定するのを新開は待った。
 縋る想いで福富を見つめる。
 だが、福富は逡巡の混じる瞳で新開を見返し、うさぎ小屋へと視線を向けた。
「お前がインターハイを辞退した理由を話してくれたのもこの場所だったな」
「寿一?」
 新開は福富の言葉の意味を図りかねる。それを無視して静かに福富は告げた。
「広島のインターハイでオレは総北の金城のジャージを掴んで落車させた」
 視線の先ではウサ吉が幸福そうに長い耳を毛繕いしていた。

 ドクンドクンと心臓が脈打つ音がする。喉が乾いて唾を飲み込もうとするが上手くいかない。
――え」
 小さな声。風に揺れる樹々のざわめきに掻き消されてしまいそうな声で新開は呟いた。
「嘘だろ」
 暑いのに身体が指先から凍っていく感覚がする。それは脳も同じで。思考が鈍い。まるで鉛にでもなったようだ。
 不意に新開は笑った。
「冗談が下手だな。寿一は」
 ぎこちなく口元の筋肉を動かす。虚しい笑い声だけが響き渡る。
 福富は笑わない。黙ったままうさぎ小屋を見ている。
「寿一」
「金城に抜かれた時」
 新開の想いとは裏腹に福富は青白い顔で続ける。
「咄嗟に手が出てしまった。気付いたら金城のジャージを掴んで――
「オレを騙そうたってそうはいかねェよ」
 新開はぎこちなく首を振った。笑顔を貼り付けて。
 そんな新開の両肩を福富は掴む。強引に福富と向き直される。
「聞いてくれ、新開」
 福富の顔が苦しげに歪む。どんな過酷なレースでもそんな顔を見たことはなかった。
「この事は事情も訊かれずに事故として処理された」
 あの日、酷暑のせいでリタイアや落車が続出していた。大会運営は箱学側に簡単に話を聞き他と同じよう事故と判断した。総北は抗議しなかった。
「オレは事情を話す機会すら与えられなかった」
 いや。福富の声が僅かに震える。
「声を上げようと思えばいつでも上げる事はできた。だが、オレは」
 反則に問われれば、処分は福富の失格だけでは済まないかもしれない。箱学自体が出場停止になる恐れもある。次のインターハイまでも。
 新開の肩を掴む手に痛いくらい力が込められる。
「オレはロードレーサーとして許されない事をした」
 新開の脳裏にいつもの光景が浮かぶ。コンクリートを染める赤。罪の色。
「嘘だ」
 乾いた喉から無理に声を絞り出す。
 新開は福富の腕を振り払う。呆気無く福富の手が外れた。唇を引き結んで何も言わない福富の胸に新開は縋る。
「嘘だって言えよ」
 福富は身動きひとつしない。
「言ってくれ、寿一」
 力なくそう言って新開は俯いた。ぐるぐると視界が回る。足元が崩れていく感覚がする。
どこまでも深く沈んでいく。
 まずい。そう思った時、既に身体は自由を失っていた。
「新開。おい、しっかりしろ」
 福富の声を遠くに聞きながら、新開は意識を手放した。

 目が覚ますと寮の自分のベッドで眠っていた。
 新開はだるい身体をゆっくりと起こす。普段と変わらない部屋の様子にほっと息を吐く。
 傍らの机を見ると、メモと林檎が乗っていた。
 新開はメモを手にとって目を通す。
 “ただの寝不足だと言われたから、眠っていろ”
 差出人の名前は書いてなかったが、しっかりしたと筆跡には見覚えがあった。
 新開はベッドに身を投げ出す。
 目を閉じてさっきまで見ていた夢を思い浮かべる。
 血に染まる黄色が見えた。

 身についた習慣は意識しなくても反射で行うことができる。
 うさぎ小屋で倒れてから数日。新開は何もかもが意識の外だった。朝起きて顔を洗うことから始まり、学校で授業を受け、歯を磨いて眠る。それをただ繰り返していく。何を食べて誰とどんな話をしたから新開は覚えていない。心はいつも別のところにあった。
 あれから福富とは一度も会っていない。
 避けられているのか。それとも、自分が無意識に避けているのか。
 クラスが違う為、部活に行かなければ数日顔を合わせないことは決して珍しいことではない。それでも、新開は思わずにはいられなかった。
 そもそも福富と会いたいのか。会いたくないのか。
 纏まらない思考を抱えたまま新開はぼんやりと暗い廊下を歩いていた。前方に人はいない。図書室へと続くこの廊下を放課後に通る生徒はあまりいない。この周辺にある空き教室を使う部活がないのも原因のひとつだろう。おそらく図書室で静かに本が読めるようにとの配慮の結果だ。
「新開くん」
 静かな空間に聞き覚えのある声が響いた。
 新開は無言で足を止める。
「こんなところで会うとはね」
 背後から近づく声に新開は緩慢に振り返る。あの記者がニヤニヤと笑いながら立っていた。
「元気かい? あれ、酷い顔をしている」
「今日は」
「もちろん、自転車競技部への取材だよ。やっと許可してもらえた」
「え――
 息を呑む。危険を知らせるように総毛が立った。
「この前、世代交代したんだろう。新生箱学ってことで有力選手の取材だよ」
 男が意味ありげに口の端を上げる。当然、この男は福富にもインタビューするつもりだろう。広島のインターハイのことも。
――寿一。寿一を守らないと。
 そう思った瞬間、新開は記者の腕を掴んでいた。
「おじさん」
 新開の突然の行動に男は口を開ける。
「オレが部活を休んでいる理由。話してもいいよ」
 そう言って微笑んでみせる。駄目だと思った。この男と福富を会わせてはいけないと直感的に思った。
「……本当か?」
 たっぷりと間を開けて男は言う。疑いの目で新開を見つめる。
 その眼差しを何食わぬ顔で受け止めて新開は条件を出した。
「その代わり、今日のチャリ部への取材はなしにして下さい」
「どうして」
 間髪入れずに問いが飛んでくる。
「せっかくおじさんだけに話すのに、他の選手のオマケなんて」
「後日、君だけに取材に行くよ」
 妥協点を提案する相手に新開は首を振った。
「今日がダメなら別の記者さんに話すことにします」
 掴んでいた記者の腕を話す。すると、記者が慌てたように今度は新開の手を掴む。
「待て」
 わかった。と男が頷く。記者の性分だろう。どんなネタも同業者に渡すのは許せないようだ。
「今日の箱学への取材は中止にする」
「わかりました」
 この男が期待するような部内での虐めなどありはしない。あるのは自分の醜い罪だけだ。
新開は一瞬だけ暗い顔をした後に、ニッコリと無理やり笑顔を作る。
「じゃ、ここで話しましょう。滅多に人が来ない」
 新開を身近にあった空き教室のドアを開き、その薄暗い中へと進んで足を踏み入れた。

 今度、写真も撮らせてよ。話が終わると男は上機嫌でそう言い、教室を出て行った。
 独り残された新開はぐったりと椅子にもたれかかった。
 教室の窓から青空が目に入る。窓の端から端までひこうき雲が綺麗に伸びている。
 不意に昔の記憶が甦る。
「新開、ひこうき雲だ」
 それは中学生の頃だった。山の上まで登り切って二人で休憩していた時に、福富が空を指さした。
「本当だ」
 新開も空を仰ぐ。青の中に白い線が引かれてた。
「ひこうき雲、好きなの?」
 意外なような気がして訊いてみた。福富は自転車意外に興味がないようにみえたからだ。
「いや、」
 すると福富は口ごもった。こちらを窺うようなその仕草に新開は察する。おそらく、ひこうき雲が好きだなんて格好悪いんじゃないかと思っているのだろう。弟が最近する表情によく似ていて新開はおかしくなった。
「オレは好きだぜ、ひこうき雲」
 頭の後ろに手を回して新開が笑うと福富も微かに笑った。
「オレもだ」
 そうして二人は空を眺めた。
 心が軋む音がする。
 自分たちはどこで間違えてしまったのだろうか。
 ぼんやりと新開はひこうき雲を目で辿る。きっとどこまでもそれは真っ直ぐに続いているに違いない。
 何故か涙が出そうになって新開は焦って目を拭った。
 泣いている暇なんてない。
 新開は無理矢理に思考を切り替える。
 今日は防げたが、あの記者はまたやってくるに違いない。福富の苦しみも知らず、その傷を抉ろうとヨダレを垂らしている。
 あの男の取材を断る権限は新開にはない。学校は余程の事がなければ動いてくれないだろうし。
 “余程の事?”
 頭の奥で何かが引っ掛かる。最近、学校に関係する大きな事件がなかったか。新開は俯いた。規則正しく並んだ木目が目に入る。それは何かの枠のように見えた。新開の頭に談話室で見たテレビが思い浮かぶ。
――失踪していた少年が無事に保護されました。少年は学校でいじめを受けており、自殺しようと山に入ったそうです。学校側はこの事件を受け、いじめの実態について今後調査を行うということです。では次のニュースは……
 いつか聞いたアナウンサーの声が耳の奥で流れてくる。
「これだ」
 新開は椅子を蹴倒して立ち上がった。派手な衝撃音が教室に響いた。

 “ウサ吉と旅に出ます。探さないで下さい”
 白いメモに丁寧に字を綴っていく。寮の自室に戻った新開は早速、失踪する準備をしていた。
 私服に着替え、ナップザックにお菓子と有り金全部入った財布を詰め込んだ。今は、失踪において重大な書き置きを書いている。
「これじゃ、インパクトがねェな」
 新開は紙を丸めてくずかごへと放り込む。それは縁に当たって床へと落ちた。
 肩を竦めると新開はすぐにペンを取る。少しだけ躊躇って文字を書いた。
 “無理矢理取材されて傷ついた”
 “死にたい”
 そこまで書いてペンを置く。
 嘘つきは泥棒の始まり。
 自然とため息が出た。
「っと。ぼんやりしている場合じゃねェな」
 部活が終わって寮にみんなが戻ってくる前に出ていかなければならない。新開は立ち上がる。
 肩にナップザックを引っ掛けて、並べて置いてあった小型のゲージを手に取る。ウサ吉を獣医に見せに行く時に使っているものだ。
「行ってきます」
 新開は居心地の自分の部屋に別れを告げた。

 うさぎ小屋に寄ってウサ吉を迎えに行ってから裏門から出ていこう。新開は人目を避けてこそこそと動く。ちょうど体育館の裏側を通った時、見覚えのある女の子が新開の目に入った。新開に勧誘の事で謝ってくれたクラスメイトの演劇部の子だ。
 彼女は二リットルのペットボトルがいくつもの入っているビニール袋を重そうに持ちながら歩いていた。
 手伝おうと声をかけようとしたが、彼女はすぐに体育館へと入ってしまった。
 演劇部は今日は体育館で稽古をしているようだ。普段、彼らは部室か空き教室で練習している。
 そういえば見学に誘ってくれたのに一度も行っていない事を新開は思い出した。
 なんとなく興味本位で新開は体育館の出入口に手をかけた。少し入れると扉はあっさりと動く。僅かに開いた隙間から体育館の中を覗きこんだ。
 いつもはバスケ部やバレーボール部で煩い空間がしんと鎮まり返っている。
 その中、舞台の中央に独りの人物が立っていた。図書室で会った演劇部の部長だ。
 彼は前に進み出て朗々と台詞を読み上げる。苦悩と哀愁を秘めたその言葉が新開にまで届く。
――生きるべきか、死ぬべきか。それが問題だ。
 その時、舞台下にいた先ほどペットボトルを運んでいた彼女がこちらを見た気がした。新開はそっと扉を閉める。
 行かなくちゃ。
 新開は加速していく心臓の音に合わせて駆け出した。


2015/08/15