この世はわからないことばかり


 


 これが夢だとすぐわかった。

 顔面に吹き付ける風も、流れる汗も全て過去のこと。
 今、追っている目の前の背中も。
 心ではわかっているのに、夢の中の自分はいつも必死だ。
 懸命にペダルを踏む。それがこの世に生まれた義務のように。
 今、夢を俯瞰的に見つめる自分とは別に夢の中の自分が考えている。
 どこのコースで走れば、追いつくか、追い抜けるか。
 たったひとつの正解を探している。
 ゴールは近い。一秒も無駄にできない。
 そして、オレは勝負に出た。頭に描いた勝利への道筋を辿っていく。
 勝てる。オレは強い。
 遂に追っていた選手と並んだ。勝利を確信した瞬間、道路に白いものが見えた。
 蛇だ。白い蛇が進む道の上にいた。
 驚いたが、すぐに冷静になる。今、並走している相手をすぐに追い抜いて避ければいい。相手は疲れていて簡単だと思えた。
 だが、現実は違った。
 福富の全力のケイデンスに喰らいついてくる。インターハイという大舞台が彼に実力以上の力を引き出していた。
 気がつけば、蛇は目前だった。避けようにもすぐ隣に選手がいてはできない。
 この時、選べた選択肢は二つだけだ。止まるか、進むか。
 オレは――

 ぐにゃりと車輪越しに嫌な感触がした。


 福富はゆっくりと瞼を押し上げる。
 飛び込んできたのは真っ白い天井。保健室か。そう思って気を失う前の事を思い出す。
 慌てて身を起こして、気がつく。もう毒は抜けているようだ。
 今泉を助けにいかなければ。幸い、金城の妖気の痕跡が色濃く残っている。これならば、福富でも辿って行ける。
 福富はベッドから出て、カーテンを開けた。
 先ほどの戦いで無残に散らかったはずだった保健室は、綺麗に片付けられていた。
 そして、おそらくそれをやったであろう人物が椅子に座ってこちらを見ていた。
「おう、目ェ覚ましたか。福富」
「石垣」
「なんや、今日は厄日やなァ。養護の先生もお前も貧血で倒れるなんて」
 寝ている間にそういうことになっていたらしい。養護の先生はもう帰られたわ。言いながら、石垣は読んでいた雑誌を閉じる。
「だから、代わりに『石垣先生が福富先生見て下さい』って言われて」
 下っ端は辛いな。と笑う石垣を横目に福富は窓を見る。西日が差している。思ったより眠っていたようだ。
「とりあえず、福富はもう帰り。自転車競技部の方はオレが見といたる」
「できるのか?」
「おい、オレもロード走っとったの忘れたんか。インハイ、一緒に戦ったライバルや」
「覚えている」
 福富は腕を組んだまま頷く。
「お前は、実直な良い走りをしていた」
 石垣と目が合うと、彼はすぐに逸らした。
「ま、まぁ。覚えとるんならええわ」
 口の中で誤魔化ように呟くとオマケのように付け足す。
「それに、自転車競技部にはウチの御堂筋も世話になっとるしな」
 お安い御用や。そう言って石垣は立ち上がる。窓から伸びた光が石垣の顔をオレンジ色に染める。
「早う行け」
 そう言った石垣の顔があまりにも真剣な表情だったので、福富は言葉を失った。
「やらなきゃならんことが、お前にはあるんやろ」
「石垣」
 福富は石垣に自分の能力について話したことは一切ない。それでも何を察したのか。彼は黙って保健室を片付けて、福富を送り出そうとしてくれている。何も訊かずに。
「アホ。そないな顔すんな」
 困った時はお互い様や。照れた様に頬を掻くと石垣は黒い手袋を差し出す。
「ほら、これ。床に落ちてたで」
 そこでやっと福富は己の右手の状態に思い出した。何もない右手も見ても、動じない石垣は本当に大物なのかもしれない。
「すまない」
 頭を下げる福富に石垣は苦笑する。
「こういう時はありがとうでええよ」



 実際問題、福富が金城に勝てるかどうかはわからない。
 ざくざくと音を立てて山道を歩きながら福富は考える。
 保健室で戦った感触としては互角に戦えるとは思うが、金城はまだ何か隠しているのかもしれない。
 やはり鍵になるのは新開だ。彼を瓶から救い出さなければ。福富は右手を見る。
 手袋をしていると普通の人の手と変わらない。実在はしているのだ。この世の者には見えないだけで。その証拠に新開や荒北には見えているようだ。そして、あの男もおそらく。
 色濃く残された彼の妖気を感じながら、福富は金城について考える。

 高校二年生のインターハイで福富は一匹の白い蛇を轢いた。
 一分一秒を争うロードレースの争いで、自転車を止めるという選択肢は頭になかった。いや、それはただの言い訳に過ぎない。福富は瞬時に選んだんだ。優勝の為に蛇を轢くことを。
 事実、福富はあの時、蛇に乗り上げた衝撃で落車しないことに神経を注いでいた。無事に後輪が地面に降りた時、ほっとした。だから、反応が遅れた。
 並走して男の自転車が大きくふらついていていた。体力の限界だったのだろう。
 男と福富の自転車が接触する。激しい衝突音が聞こえ、地面がぐるりと回った。自転車から投げ出されたのだ。
 痛みに呻く福富だったが、ふと目の前の男が声も上げていない事に気付く。慌てて見ると、うつ伏せに倒れたまま微動だにしない。まさか。心臓の奥底から全身が一気に冷える。
 死んでいるのか。嘘だ。そんな。オレのせいなのだろうか。最悪の想像が福富の中でどんどん更新されていく。
 どうすれば。どうすれば。
 縋る思いで福富は手を伸ばした。

 結論を言えばその選手は生きていた。
 脳震盪で気を失っていただけだったらしい。その後、男は大会運営の車で運ばれて行った。福富は、近かったので自転車を押してゴールまで歩いた。全身の痛みは元より目の前で人が死んでいたかもしれないという衝撃で自転車に乗る気になれなかった。
 ぼんやりとゴールへと辿り着いた福富を、インハイに出場できなかった先輩が出迎える。彼は福富を見て顔をしかめた。「お前何を持ってんだよ」「え?」福富は右手を見て、言葉を失う。自分の指がしっかりとあの蛇を握り締めていた。

 彼はあの時の蛇なのだろうか。もしそうだとすれば。自分はどうすべきなのか。答えがでないまま、福富は立ち止まった。目の前には自然にできたと思われる洞穴が広がっている。妖気はその奥へと続いていた。
 洞穴の中は暗く、化物の口のように不気味だった。一呼吸して、福富は中へと踏み出していく。今泉がいる以上、行かなければなるまい。
 さて、鬼が出るか蛇がでるか。
 そのどちらもが中にいる事を思い出して福富は口の端を上げた。

 霊力で作りだした光の玉を頼りに、福富は進んでいく。
 先の見えない細長い一本道をひたすら歩く。洞窟の内部は静かで福富の足音だけが聞こえていた。
 代わり映えのしない風景にうんざりとした頃、視線の先に灯りが見えた。咄嗟に光の玉を消す。
 灯りを睨みながら、慎重に近づく。どうやらこの先は大広間のようになっているようだ。壁に背を貼り付けて、中を覗き込む。
 天井の中央には先ほど福富が作り出したものと似た光の球体が輝いてる。その真下に法衣を来た男、金城の背中とそのすぐ傍に平べったい大きな石が見えた。その上には今泉が横になっており、また新開を封じた瓶も置いてあった。
 今泉は気を失っているらしい。ぴくりとも動かない。
 さて、どうするべきか。
 金城に気付かれずに今泉を助ける事は難しい。新開を解放する事もだ。奇襲を仕掛けるには距離が遠い。
 可能性を端から潰していき、福富は目を閉じて息を吐いた。
 結局、正攻法しかない。
 目を開き、意を決して光の中へ踏み込んだ。

「邪魔をするなら容赦しないと言ったはずだが?」
 一歩、二歩進んだ所で低い声が響いた。金城が緩やかに振り返る。
「今泉を返してくれ」
 無言で首を横に振る金城。
「そこまでして人になりたいか」
 それは何の為だ。お前を傷つけた人間に復讐するためか。
 福富は語気を強める。金城はその気迫を苦笑いして返す。
「オレは自由に生きたいだけだ」
「どういう事だ」
「誰も傷つけたくはない」
 金城は静かに語り始めた。

 昔、ロードバイクにその身を轢かれた後。
 気が付いた時、金城は草むらの中で倒れていた。
 意識を失う寸前までの激痛は跡形もなく、そよいだ風が身体に当たるのが心地よい。
 目を開く。なんだこれは。
 世界が知らない色で染められていた。
 驚いて身体が動く。思ってよりも大きく周囲の草が揺れて、そこで初めて己の身体を見た。
 前足、いや、人間の手があった。 
 ああああああ。
 デタラメな音が口から漏れる。金城は人間になっていた。

「その後、オレは寺の和尚に拾われた」
 食事を与え、言葉を教え。素性の知れない金城を訝ることなく和尚は人間の世界を教えてくれた。
 どんどん広がる世界に夢中になって、金城は知識を吸収していった。
 知る度に金城の心は幸福感で満たされた。何年もそうやって山奥の寺で過ごした。
 金城の話に福富は首を振る。
「話を聞いているとお前はもう人間だ。人化の術など必要ないようだが」
 福富の問いに金城は淋しそうに微笑んだ。
「確かにオレは気配こそ蛇だが身体は人間だ。だが、普通の人間ではない」
「そういう事だ」
「他の人間の生命を喰らわなければ生きていられない」
 そう言うと金城は錫杖を前へと突き出した。棒の部分から蔦の触手が何本も生える。それは素早くこちらに伸びてきた。福富は霊力を込めた手で振り払うが間に合わない。あっという間に搦め囚われ身体が宙に浮く。
「どういうつもりだ」
「容赦はしないと言ったはずだが」
 金城は涼しい顔で言った。
「それにお前こそ攻撃しようとしていただろう」
 バレていたか。話の最中に福富はこっそり霊気を貯めていた。金城を攻撃する為ではなく、新開の封印された瓶を割る為にだが。
「それで、他者の命が必要とはどういう事だ」
 何事もなかったかのように福富は訊いた。
「そうだな。折角だから聞いていく」
 冥土の土産だ。不吉な事を言って金城は淡々と話を続けた。
 寺での生活を続ける内に妙な事に気が付いた。自分と接した人間がどんどん衰弱していく。自分を拾ってくれた和尚を除いて、皆どんどん倒れていく。
 最初はそれが自分のせいだとは夢にも思わなかった。和尚に「お前、夜中になにやってんの」と言われても首を傾げるだけだった。だが、ある日金城は気が着いたら村の者の家にいた。外は暗く夜中であることがわかった。
 何故。金城は部屋の主へと目を向ける。布団で寝ている男は金城の事を気に入り、可愛がってくれていた男だ。最近は謎の病気で寝たきりになっていたが。
「金城」男が呻くように名を呼ぶ。「金城」もう一度。男が布団から弱々しくその手を出した。金城は咄嗟にその手を取る。それは反射に近かった。暖かい気が体内に流れ込む。それがなんだかわかって金城は目を剥く。
――オレがこの人の生気を奪っていたのか。
 そこまで話すと金城は言葉を切った。
「どうした? 福富、顔色が悪い」
「気にするな。続けてくれ」
 声が震えるのがばれないように福富は短く応えた。身体の中が脳のてっぺんから小指の神経までが冷えていく。今の話で確信していた。金城があの時の蛇であることを。
 福富を怪訝な顔で見ていたが金城は話を再開させる。
「そして、オレが自分が何者であるかを考えるようになった」
 それまで金城は自分の事を記憶喪失の人間だと考えていた。それが一番辻褄が合うだろうし、和尚もそう言っていた。蛇であった頃の記憶はあったがあまり気にしていなかった。
 だが、生気を奪う者が人間であるはずがない。
「オレは妖怪なのか?」
 金城は自問する。死にかけの生き物が恨みなどで妖怪化する事があると本に書いてあった。確かに蛇である己に最期は死にかけた記憶だ。
「どこから見ても妖怪ッショ」
 声が聞こえた。見ると緑の長髪の男が呆れたように自分を見ていた。彼は蜘蛛の妖怪で、金城に妖怪の事について随分詳しく教えてくれた。妖力の使い方、仲間の見分け方、敵の霊能力者たちについても。そんな彼も金城が人間の生気を吸ってしまう理由がわからなかった。
「精気なら夢魔なんだが……。一度我慢してみたらどうだ。案外、平気かもしんねェぜ」
 金城はその言葉に頷いた。元よりそうするつもりだった。
 それから金城は毎晩、眠らずに過ごした。眠ると無意識に村の者の所へ行ってしまうからだ。
 数日後、金城は酷い飢餓感に襲われた。気が狂いそうになる空腹に布団から立ち上がる事もできない。
「どうした、金城」
 寝坊か? 和尚が呑気にふすまを開けた。
 来ないで下さい。そう声を出すこともできない。和尚はずかずかと部屋に入ると金城の顔を覗きこみ、心配そうにその頬に触れた。その瞬間、暖かいものが金城へと流れ込む。その美味しさに金城は酔いしれた。
 しかし、床に人が倒れる音に金城は凍りついた。和尚が崩れ落ちている。
 もう傍にいられない。金城は和尚に息があることを確認して、布団に横たわらせると彼の妹に連絡をした。
 そして、金城は山奥の寺から去った。二度と人と関わらないと決意して。
「それからずっと生気を奪わない方法を探していた」
「それで人化の術か」
「そうだ。完全に人になれば、もう生気は必要ないはずだ」
 そうに違いないと訴える真摯な瞳に福富の胸が痛む。それを耐え唸るように言った。
「お前の気持ちはわかった。だが、今泉は無関係だ」
 どうして今泉が犠牲にならなければならない。犠牲になるべきは――
 そんな福富の心情を知らない金城は冷たく笑う。
「オレが妖怪になったのは人間のせいだ」
「それは今泉のせいではない」
 そうだな。と金城は目を細めた。
「それでも、オレはやらなけらばならない」
 金城が錫杖を振る。それを合図に蔦が激しく動き始めた。
――させるか。
 炎で蔦を焼き払うべく福富は口を開く。それを待っていたのか野太い蔦が一斉に口内へと侵入してきた。
 ぐっ。と福富はその青臭さに息を詰める。反射的にきつく噛んだ。すると、蔦からなにやら汁のようなものが分泌された。蜜のように甘い。
 飲み込まないように息を止める。
 しかし、ワイシャツの下から入り込んだ触手が直接肌にひやりと触れた時、びくりと身体が震え。甘い蜜が喉を通り過ぎる。
「飲んでしまったか」
 金城が独り言のように呟くと眼鏡を外した。その意味を福富は身をもって知ることになる。

 熱い。
 はぁ。と福富は熱を逃がすように呼吸を繰り返す。
 今の自分の状態を深く考えたくない。
 肩からずり落ちそうな白いシャツ。下着ごと下ろされたズボンは中途半端に足首に留まっている。
 腕は一括りにされ後ろで固定され、満足に動かすこともできない。そして。
――ッ」
 蔦が肌を這いまわる感触に福富はきつく目を瞑る。敏感になった身体は、蔦の表面の繊毛に撫でられるだけでも意思に反して反応してしまう。
 声を上げるのだけは必死で耐える。頬の内側を血が滲むほど強く噛む。そんな福富の抵抗を嘲笑うように触手が福富の前に触れた。
 福富は目を見開く。既に緩く勃ち上がっていたそこが生温かいものに包まれる。先端が口のように開いた触手がそこを飲み込んでいた。
「やめっ」
 拒絶の言葉は最後まで言えなかった。うねるように触手がそこを強く吸う。
「ンッ」
 再び目を瞑る。やめろ。やめろやめろやめろ。譫言のように何度も繰り返す。そうしている間に、触手の吸う力が弱まる。
「あ」
 思わず零れた己の声に福富は愕然した。物欲しそうなみっともない声色。
「ち……がう」
 身体を蔦が這いまわる。胸の先端を掠めて福富は震えた。熱い身体は正直に訴える。
 こんなものでは足りない。もっと欲しい。もっと。
「ちがうッ――アッ」
 叫んだと同時に休んでいた触手が急にキツク吸った。強い刺激に頭が真っ白になる。意味をなさない音が口から漏れ出る。その事にすら気付いていなかった。やがて、大きく身体を震わせ精を放った。
 触手はそれを吸い尽くすように飲み込んでいく。
 その感触に再び身体が熱くなっていくのを感じて福富は呆然とした。
 うそだ。
 そんな福富に金城がふわりと近づいてきた。
「大丈夫か」
 その言葉の無神経さに思わず金城を睨む。どういうつもりだ。
 それを勘違いしたのか。金城は福富の頭を撫でる。
「安心しろ。殺すつもりはない。ただ」
「ただ? なんだ」
 吐息混じりに福富は訊く。敏感になった身体は撫でられるだけでも感じてしまう。
「しばらく動けないように、極限まで生気を奪うだけだ」
 その為には性行為が手っ取り早い。と金城は言った。
 性行為? 福富はその不毛さを鼻で笑う。
「馬鹿か。男同士でそんなことできるわけ――ッ」
 ない。そう言おうとした福富の脚が触手により無理やり大きく広げられる。誰にも見せた事がないような奥まった所まで金城の視線に晒される。
「あ――見る……な」
 羞恥で身が焼かれる思いだった。そして、一本の細い粘液を纏った蔦が見えた時、言葉を失った。まさか。
「試してみるか?」
 からかうように金城は言った。触手が後ろへとあてがわれる。福富の返事も待たずにぐっと中へと入り込んできた。
「やめろっやめ、あぁ」
 未知の感触に声を抑えることも忘れて福富は叫ぶ。痛みはないが、奥へ奥へと進んでいく異物。自然と涙が出た。
「入ってる、中に、入って」
「そうだな」
 金城は福富の顎を掴んだ。そして、見せつけるようにゆっくりと頬を流れる水分を舐めとった。「あ」福富が身体を震わせる。
「可愛いらしいな」
 その反応に満足気に金城は言った。
「お前を見ていると胸がざわつく」
 こんな事は初めてだ。そう告げる金城の言葉は「ひっ」という福富の短い悲鳴に邪魔された。イイ所に当たったらしい。
「面白くないな」
 呟くと金城は福富の唇に口を寄せて、そのまま合わせた。
「んっんん」
 触手とは違った血の通った相手に福富の身体は煽られる。無意識に恋人のように舌を絡める。その間にも後ろはぐちょぐちょと卑猥な音がしている。
「ハァ、いや、だ」
 キスの合間に漏れた福富の言葉金城が拾う。
「慣らさないと入らない」
 首を福富は横に振った。いやだ。いやだ。
 それをどう受け取ったのか金城が再び問う。
「蔦が嫌なのか」
 こくりと頷く。熱で浮かされた頭では半分も理解できていない。ただ間近で透ける緑の瞳に縋る。。
 福富の反応に金城は戸惑ったようだ。しばし考えると囁いた。福富は身体を震わす。耳に当たる吐息すら、今の福富には毒だ。
「ちゃんと言ってみてくれ」
「ちゃんと?」
 傾げる福富に金城は再び囁いた。その台詞の淫猥さに卑猥さを考えるほどの思考力は福富には残って居なかった。早く終わらせたい。その一心で言葉をなぞる。
――して、欲しい」
「福富」
「金城に、犯し、て欲しいっ――
 後ろから触手がじゅぽんと勢い良く抜ける。その感触に福富は声にならない悲鳴を上げた。

「ったく。手ェ出すなって言ったじゃナァイ」

 懐かしい声が洞窟に響いた。

 暗闇に一条の光が差す。
「あ、らきた」
 必死で首を動かせば、今泉の眠る石の傍に荒北が立っていた。新開が封印された琥珀浄瓶を頭上に掲げて。
「福ちゃん、後でお仕置きだからァ」
 荒北が耳と尻尾を針金のように立てて福富を睨む。
「待て」
 金城が静止しようと手を伸ばす。荒北はその姿に口角を上げる。
「それと、てめェもだっ。このダメ鬼ッ」
 思いっきり瓶を叩きつける。陶器の割れる音が鳴り響き、そこから黒い煙が舞い上がる。激しい稲光が青白く光る。
「しまった」
金城は触手を消す。福富は地面へと投げ出された。それを一瞥もせず金城はそのまま煙いやもはや雲のようになった塊へと走りだす。それと入れ替わるように、今泉を背負った荒北がこちらに向かっているのが見える。
 今泉が無事なことに安堵しつつ、今度は違う不安が浮かぶ。まだうまく働かない頭で福富は祈るような気持ちで黒い雲を見つめる。
「新開」
 名を呼ぶ。それに応じるように雲が割れた。圧倒的な妖力に空気が震撼する。
 その中心に黒い着物がはてめかせて鬼が立っていた。
 爛々と目をむき出し、舌を垂らして。
 新開隼人が立っていた。

 自由の身となった福富は気怠さを堪えて、散らばった服を集めて身に着ける。聞こえてくる戦闘音に耳を澄ませながら。
「福ちゃん」
 今泉を背負った荒北が息せ切って駆け込んで来る。
「なんだヨ、ありゃ」
 振り返る視線の先に新開と金城が戦っている。
「どうしちまったんだァ、アイツ」
 意味のなさない言葉を唸りながら、金城に向かって行く新開。そこに理性の色はなく、ここに来る途中に荒北も何度も本気で攻撃された。ただ圧倒的な力をぶつけてくる破壊の化身。
「あれが本来の鬼だ」
 新開が恐れ、封印を願ったもの。福富は右手を握る。黒い手袋に皺が寄った。
「荒北はここで今泉を見ていてくれ。オレは新開を止める」
「福ちゃん」
 非難するような荒北の声に無視して、足を踏み出す。しかし、力がうまく入らずその場にしゃがみ込んでしまう。まだ先ほどの毒が抜けていない。
「言わんこっちゃねェ」
 荒北は今泉を地面に下ろすと、福富へと走り寄ってきた。
「……大丈夫だ」
「嘘つけ。鉄仮面、崩れてんぜ」
 そうだろうか。自分の顔を触ってみるがよくわからない。
 そんな福富に荒北はため息をつくと、自身もしゃがみ込んで福富と目線を合わせた。
「マジであの石垣って奴から話を聞いた時は心臓が止まるかと思った」
 福富は学校を出て行く前に、石垣に伝言を頼んでいた。どうやら、正解だったようだ。
「これ」
 荒北は懐から小さな黒い粒を取り出した。
「即効性の解毒薬。蛇と戦うんなら必要だと思ったからァ」
 知り合いのうぜェ天狗に作りにもらいに行ってた。と荒北は苦い顔をする。
「すまない、荒北」
 礼を言って受け取ろうとすると、荒北が素早く手を引っ込めた。
 どうしたのか。首を傾げる福富。一方、荒北はじっと手の中の薬を見つめると、意を決したように口に入れた。
「荒北」
 驚きに大きく目を開く。
 何故。そう告げるはずが、続かなかった。すぐ目の前に荒北の顔があった。
 唇を重ねられる。
「んっ」
 荒北の舌と共に錠剤が口内へと転がり込む。福富の喉が動いたのを確認すると荒北は離れた。
「これで許してやっから」
 真っ赤な顔を背けて荒北が呟く。
「早く行けよ」
「すまない」
 福富は頭を下げる。そして、駆け出した。

 洞窟には激しい闘いの跡がそこかしこに残されていた。地面が壁が大きく抉られている。それを胸が痛む思い見つめて福富は走り抜ける。身体が軽い。荒北の言う通り薬はすぐに効いたようだ。
 新開と金城はすぐに見つかった。
 あるるるる。言葉にならない唸り声を上げて、新開が金城に飛びかかっている。力で無理やり押し潰すように滅茶苦茶に棍棒を振り回す。金城も錫杖で凌いでいるが、防戦一方なのは明らかだ。
 それでも金城は隙をついて、棍棒を弾き飛ばした。棍棒は回りながら放物線を描いて壁にぶつかる。
 相手は武器を失った。その安堵が金城の一瞬の隙になった。
 新開が地面を蹴る。頭ごと金城の腹に突っ込んだ。
「金城ッ」
 吹っ飛ばされた金城へ福富は駆け寄る。
「福富か」
 仰向けに倒れたまま金城が呻く。白かった法衣は煤けていた。
「話に聞いた以上だな。鬼というものは」
「ああ」
 福富は御札を構える。
「だが、止めてみせる」
「いいのか。結果的にオレを助けることになるぞ」
 金城の端正な顔が皮肉げに歪む。
「構わない」
 福富は新開から目を離さずに応える。鬼は遊びに行くような軽やかさでこちらに向かって来ている。それは獲物をなぶるような残酷さを帯びていた。
 その姿を見て、昏い目をして膝を抱えていた新開が脳裏に浮かぶ。
――もう二度とあんな想いはさせない。
「オレは新開との約束を果たすまでだ」
 新開の目が光った。同時に脚の筋肉が盛り上がる。
「来るぞ」
 上半身を起こした金城が叫ぶ。
 福富は一直線に向かってくる新開を睨む。地面を削り取るように駆ける鬼に向かって連続して札を飛ばす。
 札は弾丸のように新開へと向かっていき、その周囲を取り囲んだ。 
 新開が不機嫌そうにそれらを掴もうとした瞬間、印を結んで福富は霊力を解き放った。
 札から新開へ青白い光が放たれる。
 新開が苦悶の表情を浮かべて膝をつく。だが、これで終わりではない。
 圧倒的なプレッシャーが福富に襲いかかる。福富の霊力を跳ね除けようとする新開の力が逆流している。
 押し潰そうとするその力はあまりに強く、福富の額に汗が浮かぶ。
 まるで象と蟻だ。
 印を結ぶ手が力に耐え切れずに震える。
「オレは、強いッ」
 鼓舞するように吠える。今、印を崩してしまえば新開を抑える術は失われる。
 だが。
 あるるるるうるる。新開も必死だ。光の呪縛から逃れようともがき、暴れる。妖力が更に増していく。
 福富は歯を噛み締めて耐えるが、津波の様に押し寄せる力の奔流に手が動く。
――まずい。
 福富は新開の妖力に飲み込まれるのを覚悟して目を瞑る。
 しかし、その瞬間は来なかった。
 感じたのは手を包み込む暖かさだった。
 福富は目を開ける。
 自分の手の上に大きな手が重ねられていた。福富は視線をその手から腕へとを上げて息を呑む。
「金城」
「オレの力を使え、福富」
 金城の妖力が注ぎ込まれ、新開の妖力と拮抗する。
「いいのか」
 金城はこの隙に逃げることもできる。二人で力を合わせたところでこの怒り狂った鬼を封じられるかわからない。
 言葉少なく覚悟を問う福富に金城は口の端を上げた。
「福富、オレは――
 絶対に諦めない男だ。
 金城の妖力が上がる。それに引かれるようにとっくに限界だと思っていた福富の霊力も上がっていく。
 二つの力が合わさって、徐々に新開の力を押し返していく。
「もう少しだ、福富」
 励ますように金城が福富の手を握る。それだけで、どんな困難も乗り越えられてしまう気がした。
「あぁ。金城」
 福富は頷く。
――オレたちは強い。
 ひときわ輝く閃光が発せられる。それを正面から受けた新開がその場に倒れ込んだ。がくんと新開の妖力が落ちる。
「新開」
 急いで印を解き。福富は金城を残して新開へと駆け寄る。
 うつ伏せになった新開は近寄る足音に顔を上げる。その着物の色が黒から白へ移り変わっていく。
「……寿一」
「新開」
 新開の瞳に福富が移ると、くしゃりと笑う。
「腹、減った」
 そう言って新開は目を閉じた。


2015/02/07