この世はわからないことばかり


 


まず新開が動いた。棍棒を荒北へ振り下ろす。風のように素早いその一撃を荒北はぎりぎりのところで避ける。その反動を利用して荒北が飛びかかる。鋭い爪を新開の喉へと伸ばすが、なんなく棍棒で受け止められる。高い金属音が響く。
「結構やるじゃナァイ」
「そっちもな」
 視線を合わせて笑う。仲の良い友人同士がじゃれ合っているかのようだ。だが、間違いなく二人の間にあるものは殺気だ。
 新開が棍棒を押して、荒北を跳ね除ける。チッ。舌打ちをして荒北が後ろへ跳躍する。そこへ新開が仕掛ける。棍棒を先端を突き立てて突進してくる。その速さは人をとうに超えている。荒北も負けてはいない。地に片足が着いた瞬間、また飛ぶ。荒北がいた場所へ棍棒が突っ込む。盛大に土煙が舞い上がった。
「これだから鬼って奴は」
 荒北は呆れる。土のせいで視界が一気に悪くなった。耳をそばだて、鬼の気配を探す。微かに二つ咳をする音が聞こえた。あぁ、忘れていた。荒北は声のする方角へと駆ける。
 すぐに標的は見つかった。赤い髪と眼鏡をかけた人間が背中を丸めてむせている。荒北は背後からこっそりと忍び寄る。
 そして、その腹へと腕を回して二人を持ち上げた。
「なんやっ」
「お、おばけ」
 突然に空中に浮かんだ彼らは口々に騒ぎ始める。吊り上がっていた荒北の眉が一層吊り上がる。
「ッセ。てめェら、大人しくしやがれ」
「いややっ」
 真っ先に赤い髪が反応する。バタバタと闇雲に手足を動かす。
「てめェ」
 キレる荒北の背に強力なプレッシャーがかかる。鬼だ。チッ。荒北は舌打ちすると二人を青々とした茂みへと放り出す。
 ぎゃ。とかなんとか二人が悲鳴を上げる。
「邪魔だァ。失せな」
 言うと荒北は正面へと向き直った。徐々に視界が晴れていく。見えてきたものに荒北は目を細める。
「どうしたの、福ちゃん」
 怖い顔しちゃって。視線の先には鬼を従えた金髪の男が立っていた。その手には決意の現れだろうか、強力な呪符が握りしめられていた。

 福富は剣呑な表情をしている荒北を眺める。
 もし、あの頃の自分だったらどうしていただろうか。幼い荒北と過ごした日々を思い浮かべる。どれも懐かしく、胸に迫るものがあった。もう二度と会えないと知った時の自分の悲しみをこの狼は知っているのだろうか。
 荒北は大切な友人だ。家族にだってなってやりたかった。
 だが、もう福富は無責任な子どもではない。教師だった。守らなければいけないものがある。
 札を持つ左手に力を入る。
「荒北」
 普段よりも堅い声で名を呼ぶ。
「オレの生徒に手を出すようなら」
 荒北が信じられないと目を大きく開けても、福富は続ける。
「お前でも容赦はしない」
 言い放って札を掲げる。本気だとわかるように。
 荒北は呆然とその姿を眺めていた。縋るような視線を払いのけて福富は睨む。しばし、そのまま見つめあう。
 新開も、小野田もうるさい鳴子さえも黙って成り行きを見守っていた。
「福ちゃん」
 不意に荒北の顔が歪んだ。
「オレはァ福ちゃんだけには――
 その先を荒北は言わなかった。すぐに表情を変え、面倒くさそうに頭を掻く。そして、その場にいるものいるもの達へ背を向けた。
「荒北」
「悪かった」
 静寂に声が響く。そして、いつかと同じように荒北が歩き出す。月明かりに照らされた後ろ姿は心なしか小さく見えた。
「待て」
 福富はその背に声を投げかける。
 思い出した事があった。
 あの夏合宿日帰りの事だ。箱根へと帰るバスに乗り込んだ時、福富は憶えのある妖気を感じた。慌てて最後部に座って窓を覗きこむ。人型の荒北が立っているのが見えた。歯を喰いしばって何かに耐えるような顔をしている。
 何をやっているんだ。また人間に見つかったらどうする。
 福富の心配をよそに荒北はその場を去ろうとはしない。逆に福富を見つけると懸命に口を動かし始めた。
 荒北は何かを伝えたい事があるのか?
 考えてみれば、狼の姿でも構わないにも関わらず荒北は人の姿で現れた。福富に読み取って欲しいことがあるのかもしれない。
 しかし、福富も読心術の心得があるわけでもない。さっぱりわからない。そうこうする内にバスが動き始める。
 荒北もバスを追いかけ始める。口を動かしながら。
 無茶だ。いくら荒北の足が早くてもバスには勝てない。見る間に距離は開いていく。それでも、荒北は懸命に追ってくる。
 その姿が痛い。針のように心を刺される。荒北の伝えたい事がどうしてわかってやれない。
 苛立ちながら、もう一度注意深く口元を見る。
 最初は、おそらく『む』だ。次は『あ』か? 次は『え』だな。次は。
 そこでようやく気付いた。まず驚きが。後からじんわりと胸に暖かいものが広がっていく荒北の伝えたい言葉。それは。
――迎えにいく。
 福富は頷いた。返答代わりに窓越しに親指を立てた。それを見て荒北が破顔する。
 また来年、会いに行こうと思った。合宿地がこの場所にならなくても、荒北に会いに行こう。その頃には、荒北もビアンキに乗れるかもしれない。教えたい事がいっぱいあった。こんな気持ちは初めてだった。

「オレの最初の生徒はお前だった」
 プロへの道を諦めた時、福富は絶望の暗闇へと放り出された。ずっと心に掲げていた目標をなくして、生き方すらわからなくなった。そんな頃、やたら荒北の事を思い出した。人に物を教える楽しさや嬉しさ。それは一筋の光だった。
 いつしか福富は考えるようになっていた。教師になりたい。
――オレが前を向く事ができたのはお前のお陰なんだ、荒北。
 彼が居なかったら未だに暗闇の中で膝を抱えていたかもしれない。
「だから、いつでも顔を見せろ」
 荒北が立ち止まる。その表情は見えない。
「いいのかよ」
 背を向けたまま、荒北が掠れた声で言う。
「オレは福ちゃんの生徒を傷つけるかもしれねェぜ」
「なんやと」 
 脅すような言葉に鳴子が気色ばむ。
「あの、荒北さん」
 それを遮るように声があがる。緊張しているのか少々上ずっている。小野田だ。
「さっき、僕たちを助けてくれようとしましたよね」
 荒北の獣の耳がぴくりと動いた。
「ほんまか?」
 鳴子が驚く。
「うん。巻き込まれないように逃がそうとしたんだと思う」
 荒北は否定も肯定もしない。
 だって。小野田がそれを良いことに続ける。
「あの視界の悪い状況で動けるのなら、真っ先に新開さんを襲えばいいのに」
 小野田は「ごめんなさい」と新開に謝った。流石の鬼も苦笑する。
「でも荒北さんは」
「違ェ」
 小野田の言葉を荒北が遮った。ぶっきらぼうな言い様にぎくりと小野田が身体を強張らせる。
「全然違ェ」
 背を向けたまま、荒北は嗤う。
「オレはおめェらを人質にしてやろうとしただけだ」

「あなたはそんな人じゃない」
「お前はそんな奴ではない」

 綺麗に声が重なって。福富は小野田と顔を見合わせた。
「だってさ、靖友くん」
 からかうように新開が言う。
 愛されているね。
 その言葉に荒北の尻尾が揺れた。それを誤魔化すように荒北は頭を激しく掻き乱す。
「まったく、どいつもこいつも」
 甘ちゃんしかいねェ。悪態をついて、一瞬だけ福富の方へ振り返る。その唇が動く。
「荒北」
 次の瞬間、荒北は狼となってしなやかに駆けて行った。
「これで一件落着?」
 その姿を見送りながら新開が呟く。
「あぁ」
 応えながら、振り向いた荒北の顔を思い出す。
『福ちゃん、またね』
 月光に照らされたその顔は確かに微笑んでいた。



「まったくスカシは人騒がせやな」
 あのタイミングで風邪ひきますかー。廊下で鳴子が大声で騒ぐ。その隣に小野田と今泉が並びその後ろを福富が歩いている。あの件から数日後の昼休み。四人は購買部に向かっていた。
「うるさい、鳴子。廊下は静かに歩け」
 大体。と今泉が鳴子を睨む。
「あれくらいの事で学校を休むわけないだろう」
 妖怪と出会った事をあれくらいと言ってしまうのはどうだろうか。これも自分の影響か。と福富は内心考える。
「お前じゃあるまいし」
「なんやと」
 考えている間にいつもの口喧嘩が始まった。福富はため息をつく。
「お前たち、」
 そこまで言って不自然な事に気付いた。いつも真っ先に仲裁に入る小野田が黙っている。
 視線を向けると小野田は微笑んでいた。
「良かったー。鳴子くんが元気になって」
 朗らかに小野田が爆弾を落とす。。
「今泉くんが休んでいる間、鳴子くん淋しそうだったから」
「え」
 口をぽかんと開ける今泉と、落っこちそうなほど大きく目を開く鳴子。珍しい光景に頭の中から笑い声がした。
『大物だな、寿一』
『期待の新人だ』
 小野田の可能性は計り知れない。本当に今年の一年たちは将来が楽しみだ。福富は微かに口の端を上げる。
 そして、困ったように今泉と鳴子を交互に見つめる小野田の肩を叩く。
「行くぞ。パンがなくなる」

 購買部に着くとそこは既に戦場と化していた。パンを求める人、人、人。
「早く行って来い」
 福富はその勢いに怖気づいている三人の背を押す。今日の昼は先日のお詫びとして三人にパンを奢ることになっていた。
『羨ましいな。迅くんのパン』
『……後で買ってやる』
 ただし三つまでだ。と言えば新開は口を尖らせる。この鬼の食欲に合わせたら、パン屋まるごと買い取る事になりかねない。
 そうこうしているうちに、小野田たちは覚悟を決めたようだ。
「行くで、小野田くん、スカシ」
「おい、勝手に進むな」
「待ってよ、みんな」
 三人は口々に言いながら、喧騒の中に消えていく。
 その背をを見送りながら、福富は腕を組んだ。この分では人気のあるパンはもう売り切れているだろう。新開の好きなチョコレートのパンは残っているだろうか。
 諦めに似た気持ちで人混みと眺めていると、見覚えのある青白い背中が見えた。いつか教室で見た浮遊霊だ。まだ校内を彷徨っていたらしい。相変わらず下を向いている。
 やはり成仏させてやるべきか。近づこうとする福富。その目の前にいきなりアップルパイが差し出された。
「ぼやっとしてると売り切れちまうぜ。お客サマ」
 福富は慌てて振り返る。何故。どうしてここに。
「荒北っ」
 青いエプロンを着けた荒北は福富と目が合うと二ッと笑った。
「久しぶりィ」
「何故」
 言葉を失う福富に荒北はエプロンの端を摘む。
「ここのパン屋で働かせてもらうことになった」
 オレ、この町に住むことにしたからァ。さらりと荒北は重大な事を言った。
「なに」
 聞いていない。愕然とする福富。
「だって、いつでも顔見せろって福ちゃんが」
「確かに言ったが」
 頭を整理するからちょっと待ってくれ。福富は頭を抑える。
 しかし、荒北はそれを許さない。福富のネクタイを掴むとぐっと顔を寄せる。
「福ちゃん。オレ、諦めねェから」
――ッ」
 低く甘く発せられた声に肌が粟立つ。
 荒北はそれだけ言うと満足したのかネクタイから手を離した。代わりに福富の手に無理やりアップルパイを渡す。
「じゃ、オレ仕事中だからァ」
 荒北はすっきりした顔で踵を返す。そのまま生徒たちが団子になっている箇所で歩いていく。
「オイ、ボケナスどもっ。ちゃんと並べ」
 荒北の妙に手慣れた怒鳴り声が響く。その前を浮遊霊が横切った。
「おめェも並べヨ」
 平然と荒北はカノジョにも言い放った。はっとカノジョが顔を上げる。
「昨日もいただろ。パン食いたいならちゃんと並べよ」
 幽霊だろうとなんだろうと売ってやっから。何でもない事に様に言って荒北は売り場に戻っていく。
 カノジョは大きな目を開いてしばらくそれを見つめるとくしゃっと顔を歪めた。
 ありがとう。
 その口が確かにそう動いた。
『寿一ってさ、変な奴に好かれるよな』
 新開がしみじみと言った。この場合の変とは好意的な意味なのだろう。
『そうか』
 首を傾げる福富の耳に小野田、今泉、鳴子の「あーー」と驚く声が届く。荒北を見つけたのだろう。
 ため息が出る。
 
 今日からまた騒がしくなりそうだ。


【恐怖!? 黄昏に走るビアンキ】

2015/02/07