未来の見える鏡


 


 まさかこの歳になって夜中の小学校に忍び込むことになるとは夢にも思わなかった。
 携帯のライトで長い廊下を照らしながら、金城は隣を歩く男を見る。小学校に似つかわしくない金髪をした福富はいつも通りの無表情だが、金城には嬉しそうだとわかった。
 デートか何かと勘違いしてるんじゃないだろうな。
「何だ?」
 金城の視線に気がついたのか、福富がこちらを見る。
「楽しそうだと思ってな」
 金城がそう言うと福富は「当然だろう」と応えた。
「お前が通っていた小学校なんだ。興味が湧かないわけがない」
 金城たちは今、金城の母校である小学校にいる。

 話は少し前に遡る。
 夏休みで実家に帰省していた金城は、両親が旅行中なのをよい事に実家に福富を呼んだ。前から福富は金城の実家を見てみたいと言ってた。
 別に両親がいる時に呼んだとしても二人の関係がバレることはないだろう。ただの友人にしか見えない。だが、金城はそうしなかった。後ろめたい気持ちがないとは言えなかった。
「久しぶりだな。金城」
 スーパーの袋を片手に上機嫌で福富はやって来た。
「あぁ。ところでその袋は何だ」
「カレーの材料だ」
 夕飯に一緒に作ろうと福富は微笑んだ。
 それから二人は今まで距離を埋めるように、色々話をした。
 夕食は二人で分担して作業をした。福富が米を炊いて、金城は野菜を切る。ルゥの裏のレシピを二人で見つめながら鍋の中でお玉を回す。
 出来上がったカレーはなかなか美味しくできたと思う。多少、失敗しても問題ないのがカレーの良いところだ。
 暖かい食事を終えて金城が皿洗いをしていると、金城が使っていた部屋を見ているはずの福富が「これは何だ」と薄いブルーが表紙の厚いアルバムを持ってやって来た。
「昔のオレの写真が入っているアルバムだな」
 ぱっと福富の目が輝く。
「見てもいいか?」
 その顔を見て嫌とは言えなかった。金城が頷くと福富はリビングへと駆けて行った。子どものようなその様子に金城は少し笑う。そして、皿洗いを再開した。

 リビングに戻るとソファに座った福富が熱心な顔をしてアルバムを覗き込んでいた。金城はその隣へと腰を降ろす。
「何か面白い写真でもあったか?」
「面白い写真ばかりだ。金城は小さい頃、こんな顔をしていたんだな」
 福富が指をさす。小学校の運動会での写真だ。友達とピースしている自分が写っている。
「何だか照れるな」
「何故だ?」
 福富が首を傾げる。
「恥ずかしいだろう」
「恥ずかしがる必要はない。これなんて素晴らしい」
 福富はページを遡ってひとつの写真を見せる。はにかんでいる自分のドアップの写真だ。見ていられない。金城は目を逸らす。
「今度、お前の小さい頃の写真を見せてもらうぞ」
「? 構わないが」
 仕返しに言ったつもりなのに福富にはまるで通じていないようだ。
 悔し紛れに金城はひとつの話をし始める。それは福富を少し怖がらせてやろうという軽い気持ちだった。
「そういえば、オレの小学校には生徒なら誰でも知っている噂話があってな」
「七不思議みたいなものか?」
 オレの小学校でもあったぞ。と福富は呑気にアルバムのページをめくる。
「オレの小学校ではひとつだけだ。だが、本物だ」
「本当のわけがないだろう」
「そう言うな。当時のオレにとっては真実だったんだから」
 金城の通っていた小学校の一番端の階段。そこの二階と三階の間の踊り場の壁に大きな鏡があった。
「昼間見ているもなんとなく不気味なんだ。噂はこうだ。真夜中にその鏡を覗き込むと自分に関する未来が見える」
「定番の怪談だな」
 福富が鼻を鳴らす。
「そうだ。いかにも小学生が好きそうな噂だ」
 金城は頷きながら声をひそめる。幼い金城もそう思っていた。
 だが、ある事件が起きた。
「オレが小学三年生の頃だった。六年生の先輩が自殺未遂を起こした」
 カッターナイフで手首を切ったその先輩はぎりぎり母親が発見して一命を取り留めたらしい。
「動機は何だ? いじめか?」
「病院で意識を取り戻した先輩は言ったらしい。震えながら」
――助けて。鏡が。鏡がァ。
「その先輩は夜中に例の鏡を見に行ってしまったんだ。それまで明るい子どもだったのに、それ以来引きこもりになってしまったとか」
 きっと恐ろしい未来を見てしまったのだろう。それから鏡は子供から恐れられる存在になった。
 どうだ。少しは涼しくなったか。そう思って福富を見ると福富は怖がるどころか難しい顔をしている。
「その鏡は悪い未来しか見えないのか」
「いや。元々の噂では虐められていた女子が鏡でウェディングドレス姿の自分を見て生きる希望を持つ話だった気がする。そうとは限らないと思う」
 その時、金城の脳裏を何かが掠めた。その正体を確かめようとする前に、福富が口を開く。
「他にその鏡に関する情報はあるか」
「条件が色々あったな。真夜中といってもピッタリ零時でなくても大丈夫だとか、二十歳を過ぎると見れなくなるとか」
 それなら大丈夫だな、と福富が小さな声で呟く。
「どうかしたか? 後は鏡の前ではひとりにならなければならないと言うのもあったな」
「なるほど。ところで自殺未遂した先輩はどうやって夜中の学校へと入り込んだんだ?」
「あぁ。これもウチの生徒では有名な話でな」
 一階に使われていない教室がある。そこの窓のひとつだけは鍵がかからない。
「一見、かかっているように見えるんだが押せば簡単に開く。聞いたわけではないが、おそらくそこからだろうな」
「今もそうか?」
「流石にそれはわからないな。オレがいた頃はそうだったが、卒業してから何年も経っている」
 しかし、何故そんなことを訊くのだろうか。金城には福富の質問の意味がわからない。
「それなら、試してみる価値はありそうだな」
「福富?」
 不穏な発言に金城は恋人を凝視する。しかし、福富はどこ吹く風だ。アルバムを見ながら何でもないよう言った。
「今夜、その鏡を見に行く」

 その結果がこれだ。
 静まり返った廊下に自分たちの足音だけが響く。
 当初金城は福富の提案に反対したのだが、つい好奇心に負けて最後には了承してしまった。誰もいない小学校を探検するなんて、おそらく一生体験することはないだろう。
 それにあの鏡の事が金城もやたら気になり始めた。おそらくただの噂に過ぎないと思うのだが。
 第一関門だと思われた学校への進入は例の窓が開けられた為、あっさりと突破できてしまった。あまりの呆気なさに金城は母校のセキュリティを本気で憂いた。
 とりあえず金城たちは鏡のある踊り場へ向かっている。
「こうやって見ると水道がちゃんと低くなっているんだな」
「本当だ」
「あの頃はちょうど良いと感じていたんだがな」
 教室の中を照らせば、金城が使っていたものよりも綺麗な机と椅子が並んでいる。やはり色々と変わっているのだろう。もしかしたら、あの鏡も今はないかもしれない。
 階段へと辿り着いた。足元を照らしながら慎重に登っていく。
「そういえば七不思議に階段の段数が増えるというものがあったな」
「数えてみるか?」
「いや、やめておこう。元の数も知らない」
 黙々と階段を上る。二階に着いた。金城は携帯を光を廊下に向けてみる。そこにも長い廊下が広がっている。先が見えない為、永遠に続いているように錯覚する。歳をとった今でもこの光景にはぞっとする。
「廊下に鏡がなくて良かった」
 金城が呟けば、福富も「全くだ」と頷いた。
「鏡はこの上にあるんだろう」
「あぁ。いよいよだな」
 ちょっとした緊張感を抱きながら金城たちは更に階段を進む。踊り場にはすぐに辿り着いた。壁に鏡はあった。記憶の中と変わらない長方形の縦に長い無愛想な鏡があった。
「これか?」
 コツンと福富が鏡の表面を打つ。照らして見るとあの頃よりも大分傷が増えたように思えた。
「ただの鏡にしか見えない」
「そうだ。だから、子どもにとっては恐ろしい」
 金城は携帯で時間を確認する。午後十一時五十八分。まだ、少し早い。
 ひとまず金城と福富は三階へと上る階段の一段目に腰を下ろした。すると正面にちょうど鏡が見えた。その表面は冷たい闇を映しているだけだ。
 子どもの頃は金城はこの鏡があまり好きではなかった。噂話は怖かったわけではない。
 この大きな鏡の前に立つと自分というものが見透かされているような気がいつもした。鏡の向こうの自分の背後から何者かがじぃっとこっちを覗いているような。居心地が悪かった。
 それは幼いゆえの多感さだったのだろう。成長した今の金城にはもはやただの鏡にしか見えない。
「オレがどうしてこの鏡を見たいと言ったかわかるか?」
 不意に福富が口を開いた。
「いや、」
 本来、福富は常識を弁えた人間であり、金城の知る限り夜中の学校に進入しようなどと提案する男ではない。
「わからないな」
 素直にそう言えば微かに彼が笑った気配がした。
「お前にはわからないだろうな」
「福富」
「そろそろ時間だ」
 福富に言われて携帯を見れば十二時ちょうどを示していた。
 金城は伸びるように立ち上がった。
「オレからやる」
 前へと進み出る。福富はそんな金城を座ったまま見守る。
 真っ直ぐに歩いた先。鏡の前で金城は立ち止まった。自然と身体がこわばる。万が一ということもある。
 ごくりと喉を鳴らして金城は鏡を睨んだ。じっと眼を凝らす。
 しかし、いくら待ってもそこにいるのは反射する光の眩しさに眼を細める金城だけだった。
 やはりあんな話が本当であるはずがない。
 金城はため息を吐いた。
 それをきっかけに福富が声をかけてきた。
「何か見えたか?」
 福富の位置からは金城の背に遮られて鏡が見えないのだろう。
「何もない」
「そうか」
 福富が動く気配がする。やがて鏡の中の登場人物が増えた。坊主頭の男の横に並ぶ金髪の男。
「つまらないな」
「信じていたのか?」
 福富の発言に金城は意外な気がした。こういった類のものは信用しないと福富はいつも言っている。
 すると、鏡の中の福富が横を向いた。
「お前は信じていただろう」
 金城は思わず現実の福富を見返す。その黒目には欠片も冗談の色は浮かんでいなかった。
「お前はこの鏡を恐れている」
 福富は言いたいことだけ言うと、視線を再び鏡へと戻した。
 否定するタイミングを失った金城は困惑する。
 そうなのだろうか。自分はこの鏡が怖いのだろうか。
 指先を伸ばして鏡に触れる。ひんやりと冷たい。彼もあの日こうして鏡に触れたのだろうか。
「知っていたんだ」
 気付かぬ内に金城は語り始めていた。
 あの日、学校からの帰り道。金城は昔よく遊んでもらった近所の年上の子に声をかけられた。
――金城じゃねぇか。久しぶりだな。
 彼は楽しそうに周囲を見回した。
――特別にお前にだけ教えてやるよ。
――今日、あの鏡を見にいくぜ。噂を確かめやる。
 金城はびっくりした。どうやって夜中に学校に入るつもりかと訊くと彼はあっさりと空き部屋の窓の話をしてくれた。
――そういうわけさ。じゃ、俺はもう行くぜ。ああ、それから金城。
――この事は誰にも言うなよ。
「オレはその約束を守った」
 その頃の金城にとって約束を破ることは”正しくないことだった。それに彼と久しぶりに話しかけられて嬉しかった。
 彼が本当に鏡を見たのかは知らない。だが、彼は手首を切った――
「あの時、オレが一言でも止めていれば」
 大人に話していれば。結末は変わっていたはずだ。閉じ込められたいた罪悪感が溢れだす。金城の肩が震える。
 その肩を誰かがそっと触れた。
「金城」
 福富の手だった。
「お前のせいではない」
「そうだな」
 自分のひとりの存在が他人の運命を左右するなど傲慢な妄想でしかない。
「わかっているサ」
 鏡に映る自分を見つめる。よく知っているのに見知らぬ他人のようだ。
「だが、思わずにはいられなかった」
 だから、この記憶を心の奥底へと沈めていた。
 この鏡が恐ろしかった。鏡の向こうから誰かが本当の自分を見透かすように見つめている気がして。
「オレは卑怯か」
 それは問いかけにすらなっていない独り言だった。
「いや」
 律儀に福富は頭を振る。
「お前はずっとそのことに向き合いたいと思っていた。無意識に」
 だから、今日お前は鏡の話をオレにしたんだ。と福富は囁く。
「ここに来て。過去を断ち切ろうとしたんだ」
 福富が力強く断言する。あの箱学の主将だっただけあって、そうなのだろうかと頷いてしまいたくなる響きがあった。
 しかし、金城にはそんな意識はなかった。ここにいることも含めて金城にはまるで現実感がなかった。
 鏡はただの鏡だった。手首を切った少年は鏡の見せた未来に絶望したわけではなかった。
 むしろ逆ではなかったのか。金城は思いつく。
 彼はあの時、この鏡に期待していたのではないか。
 あの頃の鏡の噂は幸せな未来が見えるという話が主流だった。
 現実に絶望していた少年は縋りつくようにこの鏡に希望を託したのではないか。
 だが、あの夜。鏡に映ったのは現実の惨めな自分だけ。暗澹たる思いがしただろう。そして、彼は手首を切り裂いた。
 金城はやるせない気持ちになった。
 もう帰ろう。
 金城がそう言おうとした時だった。
 音が聴こえた。
 いっぺんに両手でピアノの鍵盤を押し潰したような不快な不協和音。
「何だ?」
 福富が三階の方を振り返る。
「そっちには音楽室がある。行ってみよう」
 金城たちは階段を駆け上った。

「誰もいないな」
 暗い廊下を通り抜けて金城たちは音楽室へ辿り着いた。
 誰かいるものと緊張しながらドアを開けてみたものの、中にはぼんやりとした暗闇が佇んでいるだけだった。
「隠れているのかもしれない」
 慎重に金城は教室の中へと入る。
 並んだ机に壁に貼ってあるお知らせ。記憶の中と同じようで違う風景をライトで次々に照らす。
 そして、最後に大きなグランドピアノに光を向けた。
 黒々とピアノが輝く。
「下にも誰もいない」
 金城の後ろにいる福富が確認するように言う。
「待て」
 ぐるりと回って観察している途中であることに気が付いた。
 鍵盤の上に被さっているはずの重々しい蓋は上げられたままになっている。
「やはりオレたち以外に誰かがいるのか?」
 呑気な福富は呟く。それとは対照的に金城は薄ら寒さを感じる。こんな時間にいる人間。誰が。何の為に。
「ここの鏡は子どもの間では有名なんだろう?」
 金城の表情から何を読んだのか、福富は腕を組んだ。
「また子どもが鏡を見に来たというのか」
「そこでオレたちを見つけて驚かそうとしたのだろうな」
 ピアノを音を鳴らすなんて子どもの考えそうな事だ。福富がそう言った時、タイミング良くタッタッタと軽快に廊下を走る音が聴こえた。明らかに子どもの足音だ。
 福富と金城は目と目を合わせた。
「オレの推理は当たっていたようだな」
「まだわからない」
「少し見てくる。できれば保護してくる」
「福富」
「二人で行くと怖がるかもしれないからお前はここにいてくれ」
 大丈夫だ。オレは強い。いつもの調子でそう言うと福富は廊下へ出て行ってしまった。
 心配だが仕方がない。あの様子では止めても無駄だろう。
 それよりも今はピアノだ。
 金城は白い鍵盤に視線を落とす。さっきから何かが引っ掛かる。
 人差し指で鍵盤を押して見る。
 ポーンと明るい音が響く。
 金城の頭に電流が走った。
 くすくすくす。
 女の子たちの笑い声が脳裏に甦る。
 ピアノを囲む彼女たちの姿。
 そうだ。
 金城は思い出す。
 彼女たちはこうして音楽の授業の前にピアノの周りに集まっていた。
 驚いた事に過去の記憶を投影するように彼女たちの姿がぼんやり朧気な像を結んで浮かび上がってくる。気が付くと金城の周りには少女たちに囲まれていた。
――ねぇ、聞いた? あの人の話。
 髪の短い少女が嬉しそうに笑う。金城の事は見えていないようだ。過去の再現なのだから当然だろう。
 くすくすくす。
――知ってるよぉ。
――万引きしてたんでしょう。
 ひどい。サイテー。さえずるように非難の声が次々とあがる。けれど、皆その顔は笑顔だ。所詮、彼女たちにとってはテレビで流れる芸能人の話題と大差なにのだろう。
――だからなのね。
 ピアノの音がひとつだけ鳴った。すると、それまでお喋りしていた少女たちはぴたりと話すのを止めた。
 その視線の中心にはひとりピアノ椅子に腰掛けた少女がいた。長い黒髪を物憂げに弄んで彼女は言った。
――あの鏡はね。
 その黒い大きな瞳が現実の金城を見つめる。背後に誰かが通ったような生暖かい風を感じた。
――悪い子が大嫌いなの。
 くすくすくすくすくす。
 波のように笑う声が耳に押し寄せてくる。
「よせ」
 金城は手で両耳を塞ぐが、笑い声は止まない。それどころか更に酷くなる。脳髄が揺れる。
――やめろ」
 金城は咄嗟に掌を鍵盤に叩きつけた。
 派手な音が教室に鳴り響く。
 浮かんでいた少女たちは消え、金城だけが取り残された。
 今のは一体何だ。
 荒い息を吐きながら金城はピアノの蓋を下す。一体、何が起こっている。
 そういえば、福富はどうしているだろうか。
 さっきの音を聞いているはずなの戻ってくる気配がまるでない。
 金城はよろめきながら廊下へ出た。
 嫌な予感がした。

 こんなに静かだっただろうか。
 暗い廊下を光で照らしながら金城は進んでいく。そこは行きとは違い不気味な空間へと変貌していた。まるで地球とそっくりな別の世界にいるような。鏡の中にいるような。
 脳というものは容易く恐怖を作り上げる。
 並んだ教室に居座る大きな闇が今にもドアから飛び出して自分を襲ってくる気さえしてくる。小学生ような酷い妄想。だが、金城にそれを笑う余裕はなかった。
 音楽室の少女たちは金城の実際のクラスメイトたちだ。最後の現象はともかく会話は実際に交わされたものだ。あれは何を暗示しているのだろうか。
 金城は自分が何かが大事なことを見落としているような気がしてならなかった。
 気が滅入ってくる。福富を見つけて早く家に帰りたい。
 廊下の端まで来た。先ほど登ってきた階段が見える。
 今まで物音ひとつしなかった。福富は何処へ行ってしまったのだろうか。
 金城は階段へと足を踏み入れる。一段、二段、三段……。慎重に降りていく。
 半ばまで来た時、ライトが踊り場にいる誰かを照らした。その広い背に金城は安堵の息を吐く。
「福富」
 金城は早足に階段を下りる。
「何をしていたんだ。戻らないから心配した」
 つい責めるような口調になってしまった。そもそも彼が言い出さなければあんな目に遭うこともなかったのだから、仕方がない。
 自分を正当化しながら金城はさっきから黙っている福富の肩に手を置いた。
「音楽室で妙なことが――
 そこまで言って様子がおかしいことに気付く。
「福富?」
 触れた肩が小さく震えている。それにどうして福富は何も言わない。どうしてこちらを見ない。
 どうして正面ばかり見つめている。
 そこにあるものを思い出して金城はライトを真っ直ぐ前に向けた。
――あの鏡はね、
 少女の声が甦る。
――悪い子が大嫌いなの。
 金城は正面にライトを向ける。。
 そこには跳ね返る光に眉をしかめる男と蒼白な顔色した金髪の男が映っていた。

 母親という生き物は喋る内容が尽きるということがないらしい。金城はくるくる変わる話題に関心する。
 今も、昔近所に住んでいた誰それが結婚するという事を熱心に話している。良かった。自殺未遂した時は心配したけれど。彼女の舌が滑らかに動く。
 金城は適当に相槌を打ちながら、その矛先が自分へと向かないうちに別れの言葉を告げて電話を切った。
「いいのか」
 別室にいる恋人の元に戻ると彼は椅子に座って新聞を読んでいた。目を落としたまま彼は言う。
「久しぶりの電話だったんだろう。親孝行はするべきだと思う」
「そのうちにな」
 人の事など言えないくせに。
 金城は熱心に新聞を読む横顔を軽く睨んだ。
――あの鏡には何が映っていた?
 その一言を金城は言えずにいた。
 あの夜の出来事を福富は口にすることはなかった。不自然なほど。金城もあえて話題にしなかった。
 だが、ふとした拍子に尋ねてしまいたくなる。
 喩えばこんな時に。
 金城は口を開きかけたが、音を発することは叶わなかった。
 いつの間にか福富がこちらをじっと見つめていた。
「どうかしたか」
 金城が訊くと福富は寂しそうに首を振る。その仕草はどこか儚げだった。
 あの夜以来、福富は時々こんな顔をして笑う。



【未来の見える鏡】

2015/10/30