マッチ坊


 


それから金城は自分に家に福富は招くことを控えるようになった。
「ワイの事は気にせんでいいのになぁ」
 机の上でテレビを眺めていたマッチ坊が思い出したように言った。
「そういうわけにもいかないサ」
 その同じ机で金城は課題のレポートを仕上げていた。古風な教授で手書き以外認めてくれないから困ったものだ。
「ワイが寝てる時やったら大丈夫やろ?」
 生物学的に眠るというのはおかしいかもしれないが、マッチ坊はたまに死んだように眠る。そういう時は、何をしても起きない。ただのマッチ棒そのものになる。
「でも、それはコントロールできるものじゃないだろう」
「そうやな。いつも勝手に眠くなるし」
 マッチ坊は赤い頭を俯ける。その様子に金城は眉を下げた。
「そんなに気にするな。別に家以外にも二人になれる場所はたくさんある」
 それに。
「お前だろうが、恋人の声を聞かせたくない」
 金城は視線を紙に戻す。何気なく言ったつもりだが顔が熱い。
 マッチ坊が「へえ」と嬉しそうに呟く。
「兄ちゃんは本当にアイツのことが好きなんやな」
「そうだな」
 一般的に禁忌とされる恋だ。通常ならばこんな風にのろける事はない。できない。だが、マッチ坊の前でなら本音を話しても許される気がした。
「愛している」
 金城、と微笑む彼の顔が頭に浮かぶ。その強さも脆さも全てが愛おしい。
「ええなぁ。熱い熱い」
 マッチ坊が跳ね回る。
「コラ。レポート用紙の上に乗るな」
 照れ隠しを含めて怒ってみるもマッチ坊は聞いていない。きゃっきゃっと囃し立てる。
「そんなに興奮していると火が点くぞ」
 金城がそう嘯けばマッチ坊はぴたりと動きを止めた。
「イヤや。ワイは空を制覇するまで死ぬわけにはいかへん」
「やっぱり火がつくと死ぬのか?」
 金城はマッチ棒が普段入っている箱を横目で見る。あれは家にギロチンがあるようなものなのか。
 マッチ棒は迷うように金城とマッチ箱を見比べると彼にしては神妙な口調で話し始めた。
「ワイたちはマッチや。燃える為に生まれてきた。だから、炎に焼かれて死ねることは名誉なことや。だけど、ワイは擦って火が点いて捨てられる。そんな人生は御免や」
 煙草に火を点ける為。暖炉に火を点ける為。命を燃やす兄弟たち。バースデーケーキのロウソクに火を点ける役割だけちょっとだけ羨ましい。
「ワイは自分の生まれた意味を知りたい。ワイがこうして兄弟の中で最後まで生き残ったこと、喋れるようになったこと、動けるようになったことに何か意味があるような気がするんや」
「マッチ坊」
「ま、そんなことより今は空を制する方法や」
 マッチ坊はテレビに頭を向ける。
 そして、このアニメの兄ちゃん見たく空を飛べればなーとぼやいた。
 生まれた意味か。
 金城は顎に手を置く。思春期の頃に自分も考えたことがある。だが、そんな悩みもペダルを思いっきり回せば忘れた。
 金城は自転車に乗れない友人を心底不憫に思った。

 それから季節は流れた。街に生えるイチョウの葉が黄色に変わってもマッチ坊は相変わらず金城の家に居候していた。
「何かワイ、眠くなってきた」
 ワイドショーを嬉しそうに観ていたマッチ坊がふらふらと頭を振る。テレビの中ではコメンテーターが「怖いですねぇ」と最近静岡県で起きた強盗傷害事件について語っている。現場は金城の住んでいるところからそう離れていない。犯人は逃走を続けているらしい。
 ふぁー。マッチ坊は欠伸をするとマッチ箱に入る。「おやすみ」金城はそっと箱を閉めてやる。これでしばらく静かだろう。今から集中してレポートを仕上げてしまおう。
 金城はテレビを消して、ノートパソコンの電源を入れた。お馴染みの画面が立ち上がる。
 その時、インターホンが鳴った。
 誰だろうか。
 金城はモニターの時計を見る。午後四時過ぎ。誰とも約束している覚えはない。が、大学の友人たちがアポなしで訪れることはよくある。特に荒北。
金城はやれやれと立ち上がって玄関へと向かった。

「福富」
 しかし、予想に反してドア外に立っていたのは東京にいるはずの恋人だった。目を白黒させる金城を福富は一瞥すると無言で部屋の中へ入っていく。 金城は驚いて部屋へと引き返した。
「おい」
 福富はトイレから浴槽まで部屋の隅々を見てまわる。
 金城が呆然としているとようやく満足したらしい福富が居間へと戻ってきた。
「どうやらいないようだな」
「何がだ」
 未だ上着を脱いでいない恋人にハンガー片手に金城はは手を差し出す。短くない付き合いから福富の顔が強張っていることがわかる。
「決まっているだろう」
 薄いブラウンのジャケットを脱ぎながら福富は淡々と言った。
「お前の浮気相手だ」
「な、」
 ほら、と福富がジャケットを突き出す。それを受け取るのも忘れて金城は絶句した。
「どういう事だ」
 浮気なんてしていない。するつもりもない。
「自分の胸に手を当てて考えてみろ」
 固まる金城の手から福富はハンガーをもぎ取る。
「近頃のお前はおかしい。自分の家にオレを一切入れたがらない」
「それは」
「理由を考えてみた。家に人を入れたくないわけなど、ひとつしかない。」
 福富は丁寧にジャケットをハンガーに通すと金城を睨んだ。
「見られたくない“何か”がある」
「それでオレが浮気していると」
「恋人に見られたら一番困るだろう」
 福富は寂しそうに微笑んだ。
「それとも、オレの方が浮気か」
「違う」
 金城はその顔を見て、ここ最近の振る舞いを後悔した。大丈夫だと自分勝手に自惚れて恋人を不安にしていたことに気付きもしなかった。 
 福富は強い人間だ。だが、金城に対してだけは時々ひどく臆病だ。それは過去の因縁のせいなのだが、金城にとっては信頼されていないようで歯痒い。
「家に入れないのは悪かった。だが、浮気は絶対にしていない」
「何故だ」
「部屋が汚い……では納得してくれないな」
 金城が確認のように言えば福富は黙って頷く。現に金城の部屋は男の一人暮らしにしては片付いている。これも部屋の中で動き回るマッチ坊に配慮しての事だった。
 金城はぐっと拳を握る。これ以上、嘘を言っても福富を傷つけるだけだろう。
「これを見てくれ」
 金城は机の上のマッチ箱を無造作に掴んだ。引き出しを押し出す。
「マッチ棒?」
 からんと転がるマッチ坊に、懐かしいなと福富が呟く。
「信じられないかもしれないが、このマッチは喋るんだ」
 それに動く。金城は早口で付け足した。恐ろしくて福富の顔は見れない。
「金城」
 案の定福富は呆れたような声を出す。
「誤魔化そうとするな」
「冗談じゃない。オレは本気だ」
 今度こそ金城は福富を正面から見た。冷ややかな目線に怯みそうになるが、言葉を続ける。
「いいか。これは嘘じゃない。それに、オレは正気だ。このマッチは喋る。動く」
「オレの目にはただのマッチにしか見えない」
「今は眠っているんだ」
 全くタイミングが悪い。
 福富はマッチ坊の声は聴こえないようだが、流石に目の前で動くのを見れば信じるだろうに。
「金城」
 冷たかった視線に暖かさ混じる。どことなく気遣わしげに。
「病院なら間に合っている」
 その先の言葉を見越して金城は言った。
「信じられないのはわかる。オレだって逆の立場だったら信じない」
「だったら」
「残念だが、こればかりは本当なんだ」
 お前ならわかってくれると思う。祈りを込めて金城は言った。
 これまで二人はこの世の常識とはかけ離れた不思議な出来事に巻き込まれた事が度々あった。今更、ありえないなど言い張ることはできないはずだ。
 金城の言葉に福富は考えるように眉間に皺を寄せた。そして、ぼそりと呟く。
「つまり。そのマッチは付喪神のようなものか?」
 付喪神。確か、長い時を経て物に魂が宿った妖怪の事だ。
「そういわれてみればそうだな」
 マッチ坊は長い年月を過ごす内に言葉が喋れるようになったと言っていた。
「金城。もしお前が言っている事が真実ならばだ」
「オレは嘘をついていない」
「そうだな」
 福富は躊躇うように少し間を開けて言った。
「それならば、お祓いに行った方がいい」
「何」
「妖怪……なんだろう?」
 とんでもない。金城は手に持っていたマッチ箱を机に置いた。マッチ坊には聞かせたくない。
「妖怪かもしれないが、悪い奴じゃない。友達なんだ」
「お前の言う通りかもしれない。だが、そいつは得体の知れない存在だ。オレたちがおいそれと良い悪い判断できる相手ではない」
「だが、」
「荒北から聞いたんだ」 
 反論しようとする金城を福富は遮る。
「最近のお前はおかしいと言っていた。課題を忘れたり、講義に遅刻してきたり」
「それは」
 確かにマッチ坊と真夜中に遊んで次の日に寝坊することもあった。だが、それは大した事ではない。他の大学生もしていることだ。そう言うと福富は更に険しい表情をした。
「目を覚ませ。お前はそんな事を言う男ではない」
 それこそそのマッチに取り憑かれている証拠だと福富は言う。
「デタラメを言うな」
「聞け。オレにはそのマッチがお前に良い影響を与えているとは思えない」
――何も。何も知らないくせに。
 頭のてっぺんに血が昇る。それと比例していくように身体の末端が冷えていく。
 金城は口を開きかけて止める。このままでは何を言ってしまうかわからない。大仰に金城は福富に背を向けた。
「金城」
「……少し頭を冷やしてくる」
 金城は後ろを振り返らずに出て行った。

 上着を羽織ってくるべきだった。
 吹き付ける風の冷たさに金城は後悔する。特に行くあてもなかった金城はアパートから近い小さな公園に来ていた。
 薄暗い公園には誰もいない。さっきまで遊んでいた子どもたちも日が沈むといなくなっていた。小さなブランコに座りながら金城はぼんやりと宙を見つめていた。
 家を出てくる前の衝動的な怒りは収まりつつある。
 冷静な頭で考えれば福富の言う事も最もだ。恋人が得体の知れない物に傾倒しているのだ。心配しない方が薄情だと言うものだろう。
 そもそも最初から福富にちゃんと打ち明けるべきだったのかもしれない。信じてもらえないからと言い訳して金城はその機会から逃げていた。相手を信頼していなかったのは自分の方かもしれない。
「謝ろう」
 そして、もう一度しっかりと話し合おう。そうすれば福富もわかってくれるに違いない。金城は立ち上がった。反動でブランコが揺れる。
 その時、けたたましいサイレンを鳴らしながらパトカーが公園の前を通り過ぎた。ぞくっと意味もなく肌が粟立つ。
――怖いですねぇ。まだ犯人は逃走しているのでしょう?
 テレビで話すコメンテーターの声が甦る。
 同時に鍵をかけないで出てきた事を思い出す。おそらく福富はその後に鍵をかけたりはしない。
 金城はパトカーを追いかけるように駆け出した。
 妙な胸騒ぎがする。

 自分のアパートの前に着くと入り口の前に人が大勢集まっていた。
「ニュースでやっていた強盗だってね」
「ここまで来てたなんて」
 囁く人々を何台もあるパトカーの赤い光が照らす。金城は血の気が引く想いで人垣を掻き分けて進んでいく。
「住人なんです。入れて下さい」
 アパートの玄関で仁王立ちする警官に金城は身分証を見せながら訴える。警官は金城の部屋番号を確認すると気の毒そうに言った。
「案内しますから着いてきて下さい」
 警官と共にエレベーターに乗る。
「何があったんですか」
「現場で警部がお話します」
「オレの部屋に強盗が入ったんですか」
 人を刺した犯人が。
 警官は金城の問いに静かに頷いた。そして、これ以上詳しいことは言えないとも言った。
 どくんどくんと鼓動が金城の全身に鳴り響く。最後に見た福富の顔を思い出す。悲しそうなその姿。
 大丈夫だ。大丈夫だ。必死に自分に言い聞かせる。
 そのうちに軽快な音を立ててエレベーターのドアが開いた。金城は居ても立っていられず、制止擦る警官を無視して走りだした。通路に数人の警官が立っている。その横を駆け抜け家の前まで来た。金城の部屋のドアは大きく開け広げられていた。
「福富ッ」
張り巡らされた黄色いテープを潜り抜けて玄関へと飛び込む。靴を玄関で放り捨てて部屋に入る。
「……金城?」
 奥の部屋から福富が顔を出した。
 その瞬間、金城の全身から力が抜ける。
――福富」
 金城は駆け寄ってその身体を抱きしめる。伝わる暖かさに彼が生きていることを実感する。
「良かった。本当にッ」
「金城」
「どこも怪我していないな」
「あ、あぁ」
 ぎこちなく福富が頷く。目の焦点がぼんやりとしか合っていないようだ。
「君がこの部屋の住人か?」
 抱き合う二人に声をかける者がいた。髭を生やした恰幅の良い男性だ。どうやら彼が警官が言っていた警部のようだ。
「はい」
 金城は福富から身体を離して頷いた。
「知っての通り君の部屋に強盗が入った。後で君にも事情聴取がしたい。協力してくれるか?」
「はい」
 素直に金城は頷く。すると隣にいた福富が口を挟んだ。
「警部さん。少し二人だけで話しがしたいのですが」
「あぁ。構わない。ここで話していてくれ。我々にはまだやることがある」
 それにしてもお手柄だったな。警部はそう福富に言うと部屋から出て行った。
「お手柄?」」
「犯人を取り押さえた」
 すごいじゃないか。金城がそう言うと福富は「違う。違うんだ」と弱々しい声で応えた。
 様子がおかしい。
 首を捻る金城に福富は語り始める。この部屋で起こった出来事を。

 暗くなり始めた部屋に福富は電気も点けずに座り込んでいた。すぐに追いかけるべきだったと悔やみながら。
 そして、金城の気持ちを顧みずに意見を押し付けた自分を所業にも反省していた。金城が帰ってきたらもう一度話を聞こう。そう思いながら金城を待っていた。
 玄関の開く音が聞こえた時、金城が戻ってきたのだと思った。
「金城、すまなかった」
 謝りながら玄関へ向かう。息を呑んだ。そこにいたのは見知らぬ人間だった。
「動くな」
 血走った目をした男は血のついた包丁を福富に向ける。福富は再び部屋までずるずると後退る。
「ついてねぇ。また人がいやがった」
 男は靴のまま部屋の中に上がり込む。そして、福富を追い詰めるように対峙する。
「動くんじゃねぇよ。てめぇもぶっ刺すぞ」
 ドスのきいた声が響く。
 福富は冷や汗をかきながら、必死で頭を働かせる。
 おそらく男は報道されている人を刺して逃げた強盗だろう。ここまで逃げてきたのか。
 福富は向かい合う男を睨む。充血した目をギョロギョロと動かす様は相当焦燥していることがうかがえる。こういう相手は厄介だ。何をしでかすかわからない。
 福富は包丁を奪い取る隙を必死で探す。いつまでもこうしているわけにはいかない。金城が戻ってくる。その時に、相手が自棄になって金城に刃を向けるとも限らない。
 自分の想像に手が震える。落ち着けと福富は息を深く吐く。
 それだけは絶対に避けなければならない。それこそ自分の命を懸けても。
 じりじりとした焦燥感が福富の心を焼く。
 しかし、男は中々隙を見せない。
――一か八か、動くしかない。
 福富が覚悟を決めたその時、視界の端で光が動いた。火だ。
 それは机の上から男の腕へと飛びつく。
「何だ?」
 男が反応できずにいる内に火は腕から肩へ登っていく。そして、その無防備な首へと火がを押し当てられる。
「アチッ。何だよ、これは」
 男が包丁を持っていない手で火を振り払おうとする。それを華麗にかわして火を更に顔へ登る。
「やめろッ」
 文字通り目の前に現れた火に男は叫んだ。完全に男は福富から視線を外していた。
 福富は一気に男との距離を詰めた。包丁を持つ手を思い切り蹴り飛ばす。「イテェ」男が包丁を手放す。その勢いのまま、男の腹を殴る。潰された蛙のような声を上げながら、男が崩れ落ちた。同時に男から小さくなった火が落ちる。
 福富は男から手を離してその場に近寄った。床からは薄っすらと煙が上がっている。
「これは」
 福富は声を失う。そこには先から端まで焼け焦げたマッチ棒が落ちていた。

 すまない。
 全てを話した福富は押し殺した声で謝った。
「そんな」
 呆然と金城は呟いた。勿論、福富を責めるつもりはない。ただ胸に大きな穴が空いてしまったようで、やりきれない。
「アイツは今、どこに」
 金城がやっとそれだけを言うと福富は近くの床を指した。金城はそこへ行ってしゃがみ込んだ。
「マッチ坊」
 物言わぬ黒い塊に金城は呼びかけた。金城にはわかった。これが彼だと。
 彼の亡骸をそっと手で掬いあげる。するとその瞬間、それまで形を保っていた塊はぽろぽろと崩れていく。
 どんな想いで彼はその頭をやするに擦り付けたのだろう。あんなに燃える事を嫌がっていたのに。
――ありがとう、シンゴ。
――ワイ、お前に出会えて良かった。
 いつかの彼の声が鼓膜を震わす。
 目が熱い。
 金城は無言で立ち上がった。窓へと近づく。
「金城」
 心配そうな福富の声を背に金城は窓を開け放った。
 ベランダへと出る。夜の闇を家々の灯りが照らしているのが見えた。
 包んでいた手を広げる。
 強い北風が吹いて、灰が空へと巻き上がっていく。
 何処までも遠く自由に。
 空へと溶けこでいくそれを金城はいつまでも見守った。

 こうして夢のような日々は終わりを告げ。金城は自由で孤独なひとり暮らしに戻った。
 だが、時折思うのだ。いつかまた彼がひょっこり現れるのではないかと。
 こう言いながら。
――ワイはマッチ坊。七つの海と一つの空を制覇した偉大なマッチ棒……


【マッチ坊】

2015/10/29