ハッピーエンドを願っている


 


 故郷といいうものはいいもんだ。
 仗助はカフェ・ドゥ・マゴのテラスでコーヒーを飲んでいた。
 街の風景はあの頃よりも変わっているが、樹々の青々とした生命力の強さは変わっていないように思えた。このコーヒーの味も苦いままだ。仗助は懐かしさに目を細める。ただミルクと 砂糖の入れる量は減った。仗助自身も昔のままではいられない。
 歩いていく人々を見ながら思い出す。昔、仲間たちとこの街を守ったこと。実の父親と会ったこと。思い出の中で白いコートがはためく。緑がかった瞳を思い出して。その人が滅多に見せない微笑み。瞳の奥にある優しさ。どれも鮮明に思い出せる。懐かしいなどと生ぬるい感情は持てない。今でも仗助は数年前に会ったきりの甥を。
「仗助くん」
 手を振る億泰と康一に手を上げる。高校を卒業してからも三人で時々会っていた。
 気の置けない仲間と会うのは楽しい。三人は途切れることなく話して続けた。
 「そういえば、由花子さんが」
 康一の口からその名が出る度に高校時代から二人の関係を知る仗助は羨ましいやら微笑ましい気持ちになった。心の中が暖かくなるような。
 しかし、億泰がトイレに行っている間に康一の口から飛び出した言葉に仗助は冷水を浴びせかけられたような気分になった。
「承太郎さんはもう大丈夫そうかな」
「はあ? 承太郎さん? 大丈夫に決まっているだろ。承太郎さんだぜ」
 その名に心臓が跳ねたが、仗助は何でもないように振る舞った。
「知っているけど、やっぱり離婚て大変そうだし」
 仗助は固まった。承太郎さんが離婚。ぐるぐると単語が脳内を駆け巡る。康一の言っている事が理解できない。
「強いと言っても承太郎さんも人間だし。まあ、ぼくが心配するのもおこがましいけど――って仗助くん?」
 黙ったままの仗助にサッと康一の顔から血の気が引く。
「まさか」
 慌てる康一に仗助は低い声で応える。
「悪いな、康一。オレ、ちぃっと用事ができちまった。億泰にも言っておいてくれ」
 そう言って、財布から札を抜き取ると机の上に置いた。そして、呆然とする康一を残して走り出した。

「仗助くん」
「ジジイ、何で黙ってやがった」
「仗助くん。落ち着いて」
 ジョセフののんびりした声に仗助は我に返る。周りを気にして仗助は多少声を落とした。
 一九九九年の事件の時、仗助はジョセフに繋がるプライベートな番号を教えられていた。滅多に使うことのなかった番号を自分の携帯電話からかけている。といっても実は別件で二週間前に使っていたりする。だからこそ余計に腹立たしい。
「承太郎さんのことだ」
 努めて感情を抑えて言うと受話器の向こうからため息が聞こえた。たっぷりと間を取ってジョセフは言った。
「承太郎に口止めされてたんじゃ」
「何でだよ」
 親戚なのに。そんな大事なことも教えられないのか。仗助の落ち込む気配を察したのか。ジョセフは優しく言った。
「承太郎もワシの孫なんじゃよ」
「ハァ? そんなこと――
「格好つけたかったんじゃろ。お前の前では」
 仗助は言葉を失った。
 そんなことしなくてもあんたはいつでもカッピョ良いくせに。
 そう言いたい相手は目の前にはいない。
 仗助はジョセフに謝り通話を切った。
 ベビーカーを押した女性が仗助の横を通り過ぎる。赤ん坊の柔らかそうな頬を見ながら仗助は承太郎が既婚者だと知った日のことを思い出していた。
 静、と後に名づけられた透明な赤ちゃんをジョセフが助けた日のことだった。
「上手っスね。承太郎さん」
 シャワーを借りた後、部屋に戻った仗助は意外な光景を目撃した。承太郎が抱っこしていたのだ。心地良いのか赤ん坊は眠そうにしている。
「そうじゃろう。承太郎も経験者じゃ」
 ジョセフの言葉に仗助は目を見開いた。
「えっ。もしかして承太郎さんて子持ち、」
 承太郎が黙って頷くのを見て仗助の口から思わず声が出た。
「ウッソ」
 強くて男らしい承太郎に家庭的という言葉は全然似合いように思えた。
 ジョセフが目を細めて承太郎に尋ねる。
「静と同じ女の子じゃよ。な、承太郎」
 承太郎はそれには応えず帽子のツバを下に下げた。照れてんだ。と思った瞬間、承太郎の可愛い一面にぐっときったことを覚えている。思えばその頃にはもう承太郎の事が好きだったのかもしれない。
――離婚か。
 ちょうど青信号になった横断歩道を渡りながら考える。
 承太郎が結婚していることについて、つらいだとか悲しいだとかは考えたことはなかった。むしろ良いとさえ思っていた。既婚者だという事が自分の歯止めになると思った。何より承太郎が幸せであるならばそれで良かった。万に一つも仗助の想いは叶うことはないのだから。
 そう思っていたはずなのに。
 道端に転がる小石を思い切って蹴る。小石は勢いよく飛び、電柱にぶつかって地面に落ちた。仗助は舌打ちをした。
 正体のわからない焦りのようなものを感じていた。
「今更、どうしろって言うんだよ」
 仗助は呟き、足早にその場を去った。 

 無機質な電子音が鳴り響く。
 部屋に帰った仗助はどうせ億泰か康一だろうとろくに番号を確認しないままテーブルに置かれた携帯電話を取った。
「もしもし」
しばしの沈黙の後、その声は確かに仗助の耳に届いた。
「……仗助か」
「承太郎さん」
 身体中の血液が一気に頭へと昇ったように熱くなる。どれほどこの声を待っていただろうか。聞きたいと願っていただろうか。
 仗助は胸を押える。そして、一言も聞き漏らすまいと意識を耳に集中させた。
「久しぶりだな」
 元気か、と問う声はあの頃と変わらず低く魅力的だ。
「承太郎さんは忙しそうっスね」
「すまない」
「いやいや、いいっスよ。言いますよね。便りがねーのは良い知らせって」
 仗助は何度か承太郎宛てに手紙を出していた。返事がきたことは一度としてない。
 本音を言えば会いたかった。電話したかった。だが、忙しい承太郎の迷惑になるような真似はしたくなかった。
 手紙を一方的に送ることで仗助は承太郎とまだ繋がっているのだと自分に良いきかせていたのかもしれない。
 そんなことは知らない承太郎はそうか、と言うと続けて言った。
「お前、何か欲しい物はあるか」
「え?」
 欲しい物はいっぱいある。それこそ両手だけでは足らず足の指さえ必要な程。
「買ってやる」
 素っ気なく言う承太郎に仗助は戸惑う。
「何でですか」
「わからないのか」
「わかりません」
 そこで承太郎は少し黙った。言うのを躊躇っているようだ。珍しいと仗助は思った。
「もうすぐ誕生日だろう」
「え」
「二十歳になるだろう」
 電話の向こうで不敵に笑う承太郎の姿が目に浮かんだ。
 仗助の頭の中であらゆる事象が繋がっていく。
「祝って、くれるんスか」
 思わず大きな声が出た。
「当然だ。何でも送ってやる」
「何でも」
 欲しいもの。心の奥にしまいこんだ緑の光。今も昔も欲しいものはひとつしかない。
「承太郎さん」
「仗助?」
「承太郎さんに、会いてえ」
言ってしまってからしまったと思った。これではまるきり子供みたいだ。
 仗助は黙ったままの受話器の向こう側をうかがう。二人の間にピンと張り詰めた緊張が漂う。
 それを先に崩したのは承太郎だった。
「そんなのでいいのか」
 柔らかい口調で彼は言った。
「それがいいっス」
 承太郎しかいらないとまでは言えなかった。それから仗助は誕生日の一日前の土曜日の夜に二人で会う約束を取り付けたのだった。
 通話を切った仗助はため息をつく。
 結局、離婚のことを訊くことはできなかった。

 ぷつんという音とともに通話が切れた瞬間、全身の筋肉が弛緩したように感じた。知らず知らずのうちに緊張していたらしい。
 やれやれだぜ、と承太郎は帽子をかぶり直した。
 仗助が成人となる誕生日にプレゼントを送ることは前から決めていた。楽しみにしていた。彼の気持ちを知るまでは。
 彼の真実を知った時、承太郎は彼とはしばらく会わないことを、連絡を取らないことを決めた。仗助の想いは思春期によくある気の迷いで、時間が経てば消えてなくなるだろうと思っていた。
 会いたいと言った仗助の声を思い出して承太郎は壁にもたれかかった。



2017/07/15