ダムシアン城――先の大戦では、有史上初めて飛空艇による爆撃に晒された建造物である。左右の前面奥面合わせて四本ずつ、中央部に主となる三本の塔を備えた城の外観は、多少形こそ崩したもののかつての偉容を損なってはいない。 
 城門をくぐったところで近衛兵らと別れたギルバートは、やや歩みを緩め後続に視線を返した。 
「強引にお誘いしてすみません。お話したいことがありまして……」 
 伏しがちの翠瞳とかち合い、パロムは慌てて未修繕箇所の指折りを止める。次いで、半端に指を立てた右手をさっと背中に隠した。 
「久しぶりだね、パロム君、ポロムちゃん。」 
 苦笑を微笑に塗り替えたギルバートは軽い会釈で顔見知りの双子に向き合う。 
「オッス、ナヨ兄ちゃん!」 
「こらパロム!」 
 直球玉な呼び名に少女の拳が振り上がった。その小さな拳骨に繊細な指先がふわりと乗る。 
 幼い教育係を宥めた吟遊詩人は、帽子の羽根を緩やかに揺らし腰を折った。 
「僕はギルバートって言うんだ。よろしくね。」 
 パロムと握手を交わし、傍らに立つ保護者その1に向き直る。大仰に肩を竦める仕草に、遠国の王にらしからぬ気さくな人柄が滲んだ。 
「セシル君の婚礼の時お会いした以来ですね、エドワード王。お目にかかれて光栄です。」 
「堅っ苦しいのは苦手でよ。エッジって呼んでくんな。」 
 丁重な礼を不要と払うエッジに了承を返したギルバートは、残る一人の前に立つ。酒場の乱闘を納めた功労者でありながら、手柄を誇るでもなくただ沈黙を通す者。頭髪に冠した金とのコントラストが映える切れ上がりの蒼眼は、反らされることなく気配に向いた。 
「カイン君、ですね? こうしてお会いするのは初めてですね……セシル君からお話は聞いていました。」 
 静かな微笑を交える言葉に、竜騎士の唇が躊躇う。 
「貴方が恋人を失ったことに対して……」 
 恐らくは、自分が酒場に現れた時から心に繰り返されたのだろう咎の糾明。審問官の言葉を自らの声で再現する男に、ギルバートは首を振ってみせた。 
「そうですね……憎くないと言えば嘘になります。」 
 目を閉じ、記憶を反芻する。目の前で消えていった愛しい命。嘲笑うように太陽を塗り込める忌まわしい船影。 
 しかし。どれほど永劫に闇が続くように思えても、目を開けば再び世界が光に充たされるように―― 
「けれど怒りはありません。今こうして貴方に会えて良かったと、僕は心からそう思います。……初めまして、カイン君。」 
 幾たびの朝を迎え光を浴びて、笑顔と歌声を曇らせた悲しみが晴れつつあるように。伸べた手は確かな温もりを掴む。 
「ダムシアンへようこそ!」 
 声高に歓迎を謳ったギルバートは、四人を大広間に案内した。急な来客であったにも関わらず、給仕たちは手際よく宴卓を皿で埋めていく。 
 
 ささやかながら趣を懲らした風土料理のもてなしを受けた一行は、寝所にと宛われた客室で旅装と緊張を解いた。 
 すっかりくつろぎムードに突入した面々は、着替えを済ませた順にぽんぽんぽんとベッドに身を投げていく。小さなお子様二名と、大きなお子様一匹が盛大に舞い上げた埃に顔をしかめつつ、カインは窓際の椅子に腰掛けた。 
 物憂げに沈んで映る仏頂面を透かして、開きかけた貝の中身が輝いているのが見える。格子窓の限られた枠から見下ろす町並みは、城の両翼に聳える三対の塔を引き幕と従える舞台のようだ。 
 慣れない砂漠に疲れた足から昇る疲れが、宵闇にぼんやり浮かぶ灯火を一つ一つと眠りに誘う。 
 いつの間にやら椅子に深く姿勢を崩していたカインは、肩を揺すられ飛び起きた。 
「よぅ、王様が部屋に来てくれってよ。」 
 袖無し薄着にズボンという軽装のエッジが、欠伸を噛み殺しなしな半開きの扉を指す。肘掛けに手を付き腰を浮かせたカインは、ふと灯りの落ちた部屋を見回した。 
「俺はどれくらい眠っていた?」 
「さぁ知らね。俺もうたた寝っちまったかんな……ま、とにかく行こうや。」 
 子供達の寝息を残して扉を閉める。燭台を手に提げたギルバートは、寝ぼけ眼の二人に頭を下げ詫びた。 
「お疲れのところすみません。」 
「いえ、こちらこそ申し訳ない。」 
 物腰穏やかに先手を打たれ、カインの頭から眠気がきれいに拭われる。呼びにきてもらわなければ、危うく朝まで呑気な客人気分を満喫してしまうところだった。 
 ギルバートの先導で、城の中央三塔を繋ぐ渡り廊下を経由し主塔最上階を占める王の部屋に通される。 
「どうぞ、そこの卓に――」 
 室内灯籠に燭台の火を移し夜闇を拭った主は、掌で示した先の惨状に声を奪われた。 
「うわぁっあの、今片付けますから!」 
 夜着の裾をばたばたと翻し、五人掛け円卓を埋め尽くす楽琴の部品を両腕に抱える。 
「いや、その、お構いなく……。」 
 机の上を片すという第一目標こそ果たせたものの、そこから先へさっぱり進めず途方に暮れる吟遊詩人を見かね、カインが声を掛けた。 
「す、すみません、手入れの途中で呼ばれたもので……」 
 消え入らんばかりに肩身を狭くしたギルバートは、腕の荷を元あった場所に戻す。占有領地の取り上げにあった楽琴は、ぴよんと間抜けた音を響かせた。 
「あ、では、どうぞ掛けて下さい。香茶を煎れますね、お好みは?」 
「俺はそのまま、こいつは砂糖抜きミルク入り〜。」 
 カインが謙遜する手間を省き、エッジはがたがたと椅子を引く。 
「足崩して構わねぇか?」 
 注文を承ったギルバートの背に声を投げた忍者は、答が返らぬ内から胡座を組んだ。 
「しかしお前ら、よくこんなん固ぇ場所に座ってられるよなあ。※ラグが懐かしいぜ〜」 
 目一杯傾げられた椅子の脚に踏まれ床板が鳴る。安楽椅子げた動きを自作する忍者を横目に、カインも椅子を引いた。浅く腰掛け、机縁に立て掛かったエッジの膝を注視する。 
「……一つ聞きたいんだが、お前のそういう態度は、お前の国の”礼儀”に相当するものなのか?」 
「あ? んな訳ねぇだろ――」 
 確認を取ったカインは、遠慮なくエッジの頭に拳を落とした。 
「いっ痛……何なんだよ!?」 
「本国流で構わんから礼儀正しくしろ。」 
「楽にして下さって構いませんよ」 
 にこやかに無礼講を述べ、ギルバートも席に着く。色の違う香茶をそれぞれの前に置き、改めて客人に向かった。 
「お会いできて光栄です。事前に通達していただければお迎えに上がったのに。」 
「いや、来るつもりではなかったので……」 
「内情を見られたくなかったってぇのが本音か? 随分と荒れてるようじゃねえ?」 
 相も変わらず安楽椅子の忍者は手にした茶碗に息を吹き込む。ギルバートは俯け顔に苦笑を塗った。 
「参ったな……。エッジ、さんが仰った、その通りです。皆疲れているんです……すみません、お客人にこんな愚痴をお聞かせするなんて。」 
「いや、続けてくれ。我々で何か力になれないだろうか?」 
 勢い体を乗り出すカインに、エッジの笑みが被った。 
「っとまぁ、回りくどい言い方してっと、この竜騎士様が気を揉んじまうワケだ。さくさく行こうや、本題へさ。」 
 香茶を一息に飲み干し会話の先を促す。無躾を咎めかけたカインは、喉に引っかかりを感じ言葉を呑んだ。 
「ありがとうございます。」 
 独壇場を作ってくれた男に微笑し、ギルバートは香茶を少量含んだ。喉を湿らせ、声の滑りを整える。 
「まず、こちらの内情からお話しさせて下さい。……お二人が乗り合わせた船で出逢った砂虫ですが、少し前から目撃情報と被害報告がありました。それで、幾度か討伐隊を派遣しているんですが、会えなかったり返り討ちにあったりと芳しくない結果ばかりで……。定期航路を通る船ばかりでなく、独自のルートを辿る商団の被害報告もあり、……」 
 整然淡々の口調が不自然に途切れた。失った民や兵への悼み、己の無力さに対する憤り、繊細な貌は幾つもの想いを見た目に読ませる。 
「……すみません。えぇと……流通の難化に加えて、国内の状況も明るくありません。バロンの国境封鎖による影響は大きいです。※市場の食料品価格高騰が深刻化して……城の備蓄を切り崩さなければならなくなるのも時間の問題でしょう」 
 両掌に抱えられた茶碗から最後の湯気が立ち上った。 
「※セシル君にはセシル君の、のっぴきならない事情があったのだろう※……そう納得してみようと思ってはみたものの、※ですが、砂虫の凶暴化とバロンの国境封鎖、あまりに時期が近すぎる。教えて下さい。今、この星で何が起こっているんでしょう。そして、僕に何か出来ませんか?」 
 自国から出ることの叶わぬ吟遊詩人の真摯な瞳に、旅人二人は目線を交わした。 
「つーか、……俺らもそれを調査中、なんだよな? 確か。」 
「何故確信が無いんだお前は。」 
 あやふやな同意を求める相棒に溜め息を吐いたカインは、これまでの道中を簡単にかいつまみ話した。 
 ミシディアに訪れたバロンの飛空艇。その乗員に巣喰っていた魔物。長老の頼みを受け赴いたバロンで目の当たりにしたセシルの変貌。地下水路で魚に寄生していた魔物。渡砂船を襲った魔物――。 
 謎が謎を呼ぶばかりな感は否めないが、ともかく持てる情報の全てを明かし、カインは手つかずのまま冷めた香茶を胃に落とす。同じく冷めた香茶を啜るギルバートは、思案顔に柔握りの五指を当てた。 
「そうなんですか……では、船を襲う砂虫は……」 
「きちんと確認したわけじゃねぇし、出来ればしたくもねぇが、ステュクスの成体に間違いねぇだろな。」 
 椅子を床に落ち着けたエッジが、昼の記憶を脳裏で反芻する。太陽をすら呑む程に巨大な赤い体躯。その形状は、飛空艇の動力炉で出逢ったそれと酷似していた。 
「二千年前の生物…………ちょっと待って下さい、ステュクスの成体というのはサンドウォームに酷似しているんですね?」 
「ああ。体色が赤で、通常のサンドウォームより遙かに巨大だが。」 
 問いの答を得たギルバートは、何事かめまぐるしく回る思考をぶつぶつと掌に乗せる。 
「……もしかしたら、その、ステュクスに関しての情報をお知らせ出来るかもしれません。もしそうなら……。ああ、明日発たれる際には声を掛けて下さい、ホブス山の麓までお送りしますね。」 
 閃きが消えぬうちにと空き茶碗を片すギルバートに背を押され、エッジとカインは席を立つ。 
「お送りってぇ……ホバーだろ? お前さんが運転すんのかぁ?」 
「一応、王族ですから。」 
 エッジの怪訝な視線に晒されたギルバートは、頼りないのだか頼もしいのだか今ひとつ判別の付かない笑みを返した。 
 客間までの見送りを断り、渡り廊下を歩く二対の足に影が纏わる。砂の色をした月は、宵闇に冴えをいや増した。 
 
 水平線より現れた太陽が、砂の海に金色を振りまく。 
 皆の寝息を歌代わりに体操を終えたカインは、物音を立てぬようそっとベッドに腰掛けた。仮括りの紐を解き、髪を高く結わえ直す。 
 許される限り疲労回復に務めるつもりが、結局いつもの時刻に目を覚ましてしまった。かなりの強行軍で砂漠を渡ってきた上、山越えを控えた今日、他の皆まで起こすのは躊躇われる。厚布のカーテンが作る暖かい薄闇の中、カインは天井を仰いだ。 
 静寂に集中すると、恐ろしいほど正確な体内時計の秒針が動く音を錯覚する。行軍の指揮を担う男は今後の予定を瞼裏に描いた。出来れば、日の上がっている内に山を越え、夕刻にはファブールに着きたい。そこで今日を消化し、翌日に船を出してもらうことができれば、三日後の昼過ぎにはミシディアの土を踏める。 
 出発してから随分経ったように思うが、実際には月の一巡すらも見ていない。歩みを進めているときは見えない景色が、こうして足を止めた瞬間渦を巻いて押し寄せてくる。バロン城、地下水路、ミスト、カイポ、そしてここ、ダムシアン。 
 知らず、ため息が漏れた。向かいのベッドで眠る小さな二つの命に目を留める。彼らは、ミシディアから寄せられた信頼の証に他ならない。この肩に掛けられた想いを、二度と失ってはならない――。 
 木々の緑と空の色とに縁取られて流れる邂逅に、木製の堅い音が割り込んだ。考えの絡まり糸を座った跡に残し、カインは光の薄壁を横切る。押し開ける扉から溢れた光線が瞳を射抜いた。 
「おはようございます。」 
 翳した指の隙間から、穏やかな挨拶の声が通る。真白いショールに朝を纏ったギルバートは、慣れぬ目を瞬く男に弱笑を向けた。 
 右左と交互に瞼を下ろして余剰な光を削ぎ、カインは改めてノブを引く。半分開いた扉から放たれた光が、主を無くしたベッドの足下に伸びた。 
「昨夜は良くお休みになれましたか?」 
 一行の睡眠状況を気遣うギルバート自身、その目の下にしっかり寝不足の跡を描いている。あれから一睡もしていないのだと言葉より雄弁に語る風体の王は、銀の埃避けをわずか持ち上げ中身を示した。 
「朝食を持ってきましたから、ご一緒させて下さいね。」 
 つくづく世話回りな彼に面くらいつつ、扉に木を噛ませて保持したカインは、窓に寄りカーテンを開ける。四つ仕切の窓に、貝殻を抱く砂漠の景色が拓けた。 
 空に満ちて溢れる陽光が室内の暗がりを一掃する。眠る肩を強烈に揺らされ、パロムが飛び上がった。 
「うわーっ! 火事だっ!」 
「落ち着け、朝だ。」 
 瞼裏を走る血の色を炎と勘違ったか、毛布に絡まりベッドから転げる少年をカインが抱き留める。すっぽりと掛布を被った巨大枕はもぞもぞと蠢き、両手と頭を外へ突き出した。 
 巨大枕から巨大芋虫への変型を終えたパロムは、違和感にきょろりと視線を巡らせる。そこには果たして、未だ膨らんだままの二つのベッドがあった。 
「もしかしてもしかして、オイラが一番早起きした?」 
「……まぁ、そう、言えないこともなぃ痛っ」 
 腹を蹴られたカインは、暴れ芋虫をそっと床に転がす。シーツの繭を破り羽化したパロムは、足音を忍ばせ向かって左のベッドにそろそろと近付いた。 
「起きろポローっ!」 
 自然に目が覚めるまでは寝かせておいてやれ――と思う暇すらなく、電光石火の早業でポロムの毛布が引き剥がされる。 
「きゃーっ! 火事ですわーっ!」 
「へへんっ、ポロ、寝ぼけてやんのっ!」 
 得意顔で胸を張ったパロムは、いつものお返しとばかりに姉の頭をこづく。一撃で寝惚け眼を覚ましたポロムは、起き抜けに発した自らの第一声に赤面し、縮こまった。 
 双子の姉をまんまと餌食にかけた悪戯怪獣は、次なる獲物にそろそろと近付く――と、ベッドの脇まで寄ったところで毛布が独りでに跳ね上がった。 
「うるせぇぞパロムぅぅーーー!」 
「きゃあああーーーっ!!」 
 ベッドから降ってきた元祖悪戯大怪獣に押し潰され、パロムが悲鳴を上げる。 
「爽やかなお目覚めを邪魔しやってこの、くすぐったるァー!」 
「あひゃあはは、ご、めんなさひ、ごめっへへ、っんなさひっごめんなさいっ」 
 げひゃげひゃと断末魔の笑い声が室内にこだまする。悪戯怪獣はこのまま大怪獣に屈してしまうのか――頑張れ僕らの悪戯怪獣! 大逆転だ悪戯怪獣! 
 などと遠い空から聞こえる世迷い言を振り払い、茫然から立ち直ったカインは、骨肉の争いを繰り広げる二者間に割り入った。 
「オイこら止せ、泣くまでやる馬鹿があるか!」 
 諫めの言葉と共に笑いと涙でぐちゃぐちゃになった子供を救出する。保護者にしがみついたパロムはうぇうぇと本格的にぐずり始めた。 
「ひどいよひどいよ隊長、オイラごめんなさいしたのにひどいよ!」 
「う……お、悪い、もうしねぇから許してくんな、この通りっ!」 
 ベッドで土下座芸を披露するエッジに盛大な溜め息を浴びせ、カインは背後を振り仰ぐ。 
「……お騒がせして本当に申し訳ない。」 
「いえそんな! 旅の楽団に居た頃を思い出しました。賑やかなのは楽しいことです。」 
 いつの間にかしっかり安全圏に運ばれていたカートの傍らで、ギルバートがにっこりと笑う。 
「そう言って頂けると救われます……。」 
 何故か世界の広大さを肌で感じたカインは、ぐずるパロムをエッジに任せ朝食の場作りに取りかかった。 
 
 窓際のテーブルをベッドの中央に移動し、足りない椅子をベッドで補う。思い思いに腰掛けた一行は、それぞれの行儀に則った感謝を捧げて朝の糧にありついた。 
 普段はカインが座る位置に代わったギルバートが、主に二方向から寄せられる小皿の処理を担う。鶏肉と野菜の甘辛煮のお代わりを求め腕を突きだしたパロムは、大皿からの取り分け作業をじっと見つめた。 
「……ナヨ兄ちゃんて、王様だろ? 王様はさー、玉座でえっへんしてなきゃいけないんだぜー?」 
「うーん、本当はそうなのかもしれないけど、……やろうと思ったことをやらせてもらえなかったりすると何だか寂しくて。」 
 率直な意見に、ギルバートは言葉と裏腹の笑みを浮かべる。 
「さっすが、諸国漫遊王子様!」 
 取り分け処理の中断を見たエッジが、手前勝手に大皿へと手を伸ばした。 
「うわぁ、耳が痛いなあ。」 
「そぉ〜だろ、俺も言ってて耳痛ぇのよ。そんで、ステュクスの調べはついたのか?」 
 食事に口の大半を割り当てているにも関わらず、彼の喋りの流暢さが損なわれることはない。カインは妙な感心を覚えつつ、手を休めて話の行方に注意を向けた。盛り付け用の大型フォークを握りしめたギルバートは、エッジの問いに大きく頷く。 
「昨夜あれから調べて、確信に近いところへは辿り着けました。この国のサンドウォーム被害の歴史を纏めた書物に、『言霊の夜』を描いた叙事詩が引用されているんですが、そこにステュクスと思しき記述が頻出するんです。皆さんをお送りしたら、叙事詩の原典を当たろうと思うんですが……報告はどちらに?」 
「ミシディアの長老に宛てていただけると助かります。」 
 言って、カインは一口分のサラダを残した皿に目線を落とした。一国を預かる重責の身でありながら、これほどまで尽力してくれるギルバートに対し、自分は何を返せるだろう。少しでも早く前へ、と思う心ばかりが宙に浮き、肝心の足はぬかるみを掻き分けている。 
 めまぐるしく思考運動にいそしむカインを横目に、エッジは肩を竦めた。この様子では、手にした皿が空くのはいつのことになるやら……と、揶揄が喉元まで上がったところで、 
「カイン君、殴りましょうか?」 
「は?!」 
 余程驚いたのか、竜騎士の声がひっくり返った。 
「気持ちが沈んでいる時に効くんですよ。ただ……困ったな、人を殴るの初めてなんですよね。うまく行くかな……」 
 不安を口にしつつ、ギルバートは優拳を握りしめる。呆気にとられる男の脇腹をエッジの肘が鋭く突いた。衝撃で我に返ったカインは慌てて首を振る。 
「っあ、いや、いい、遠慮する!」 
「それは良かった。殴ってくれと言われたらどうしようかと思いました。」 
 胸を撫で下ろした吟遊詩人は、穏やかに口元を解いた。 
「落ち込んだ時は言って下さいね。いつでもセシル君直伝のパンチをお見舞いしますから。」 
「……セシル……」 
 固めた拳を上下させるギルバートの口から飛び出た親友の名。乾いた笑みを浮かべる以外の選択肢を無くしたカインは、皿に残った最後の一口を噛まずに飲み込んだ。 
 
 白陽を掲げた空に、黄砂が舞い上がる。ホバー独特の浮遊感に揺られながら、カインは遠ざかる砂漠の城に目を向けた。強烈な光と影のコントラストに彩られた円形ドームに、旅行案内書に見られる水彩絵のような趣はない。 
 烈光と真影の二色からなるインク画は、やがて頭上からするすると降りてきた日除けに遮られた。 
「すみません、眩しかったですよね。気が付かなくて……」 
「いや……気を使わせて申し訳ない。」 
 運転席からの気遣いに苦笑を返す。はしゃぐ子供たちを両脇に抱え直して車内に目を戻すと、助手席に座るエッジがこちらを振り向き肩を竦めてみせた。さすがの軽口大王も毒気を抜かれた風だ。 
 橙に染め抜かれた天布に、光輪を殺がれた太陽が揺れる。喧嘩防止として間に陣取ったのが意外なほどに功を奏したか、やんちゃ盛りの双子も今日は大人しい。たった一枚の布を隔てただけで穏やかな表情に変じた陽光に包まれ、二人の神妙な顔つきが転寝に変わるのにそう時間はかからないだろう。 
――そう、このまま、何事も起こらなければ。 
「……静かだな。」 
 カインが感じた予兆を代弁するかのように、エッジがぽつりと口を開いた。 
「退屈されましたか? ……じゃあ、歌でも一つ、如何でしょう?」 
 ハンドルの微動を押さえるために腕を固定し、砂漠の王が十八番の披露を持ちかける。 
「おっ、いいねぇ! 是非聞きてぇな、ゆっくり足伸ばせるとこで。」 
 朗らかに応じたエッジは、背もたれの括れに肘を付き、胸を張り出した。 
「折角の歌も中断されちゃっちゃ風情がねぇからな――で、この最短ルートでの遭遇確率はどンくらいよ?」 
 気休め無用と投げられた言葉に、ギルバートの表情が一瞬凍る。 
「すみません……隠していたわけではないんですが。」 
 身分を隠蔽し諸国を歩いた吟遊詩人の声から、虚偽の音色が聞こえることはない。 
「……現状、ファブールまでの輸送経路を確固たるものとすることができません。無事に辿り着ける可能性が半分では、あまりに危険な賭けですから……。ですが、」 
 万民の耳を傾けさせる魔力を秘めた声音の奏でる言楽は不意に途切れた。船を覆った天布をびりびりと震わせる余韻が、操縦を担う一対を除いた全ての視線を一所に集める。 
 天空より降り下る鮮血の奔流――船の真後ろに現れたそれは、今にもホバーを押し流してしまいそうだ。 
 カインとエッジの瞳に焼き付いた深紅は、真直に流れ落ちて近砂に畝を為す。畝から広がる波紋を見たカインは、思考の木霊裏に何故の答を見付けた。 
 ――肌理細かく汚れの無い砂の溜まりは、砂の海との異名通り、実際に水と同じなのだ。走る船は水面を波立て進む。波紋は同心円を描いて広まり、近くに餌の在る事を知らせてくれる。 
「……この前のものより」 
「更にでけぇな……」 
 後方に向かい二つ並んだ呆然顔が、座席の背もたれに揃って押し付けられた。 
「しっかり掴まっていて下さい。大丈夫です、この船なら振り切れます!」 
 確信を以て安全を請け負い、ギルバートはギヤを切り替えた。民間用とは違い、王家専用ホバーの最大速は時速三十キロメートルを超える。渡砂船での経験からして、紅砂蟲の追走速度は最大でもおよそ時速十五キロメートル。運転手の言う通り、振り切るのは容易い事だろう。 
――しかし。 
「アレを倒さなければダムシアンに戻れないだろう。」 
 このホバーは、王を玉座へ返さねばならないのだ。 
「子供達を頼む!」 
「カインさん!?」 
 縋る先を失くし、少女が悲鳴じみた声で名を叫ぶ。 
「合図すっから拾いに来てくんなー」 
「隊長っ!」 
 寸置かず、助手席からも気配が飛び失せた。 
 最高速で走る船の操縦に気を取られていた男は、声を上げる暇すら無かっただろう。視界の届かぬ場所へ矢よりも迅く飛び去るホバーを横目に、カインは笑みを浮かべる。 
 十分とは言えないかもしれないが、休息を得た子供達ならば、ホブス山を越えファブールへ辿り着くのは造作も無い筈だ。ファブールに着きさえすれば、ミシディアまで戻るのに苦は無い。また、吟遊詩人の王も、己が持てる最大の助力を惜しみはしないだろう。そして――えっちらおっちらといった風体で隣に着いたもう一人が背中を支えてくれる。今、自分は一人ではない――それだけの事実が、敗北の二文字を遠ざけてくれる。 
 この期に及んで他者を拠り所とする自分の弱さに溜息を吐く間も無く、カインは目の前に迫る現実に引き戻された。 
「……さて――」 
 目前まで潜行してきた砂蟲は、とりあえずと得物を構えた二人の前にその巨体を現した。 
「どーすんだこりゃあ……」 
 呆然と開いた口に舞い降りた砂粒が入り込む。こうして見下ろされてしまうと、一体どちらが『虫』なのやら。 
「来るぞ!」 
 警告を発すると同時に飛びすさる。ややもせず、砂地に残った靴の跡を、成人の胴回り程もある触手が深く貫いた。 
「喰らえ火遁!」 
 鞣皮よりも丈夫な表皮に包まれた砂蟲に、黒色火薬の炎は温さすら思わせはしないだろう。剥がれるようにかき消える炎を隠れ蓑と、カインは触手の僅かな瘤起を足がかりに駆け上がった。 
 まず狙うべきは一点。体躯による不利を補うためには、相手の索敵能力を削がねばならない。 
 柔軟な足場で直立を果たした竜騎士は、得物を振り大顎の付け根に並んだ複眼の一つを突いた。真銀の穂先が抉った傷から、苔生した煉瓦のような色をした体液が噴出する。返す刃で二つ目の複眼をと槍を担えたカインの目の端に、先ほど割った傷が跡形もなく癒着する様が映った。 
「再生……!?」 
 驚愕が声となり漏れる。 
「カイン、こいつにゃ再生能力がよ――」 
 竜騎士の呟きに知らず応じてか、霞むほど遙かに見える下界から相棒の暢気な声が飛んだ。 
「先に言っておいてくれ!」 
 表皮をくすぐる小虫を振り払わんと、触手が大きく波打った。砂漠の虫が持つ強いぬめりの表皮に傾斜が加われば、靴の滑り止めなど何の気休めにもならない。 
 考えるより早く腕が動き、槍穂を足下に突き立てた。塊突とした触手を縦一文字に切り開き、その抵抗で滑落の速度を殺す。 
「ちっとぁ弱れこの、雷迅!」 
 雲を掠めて蜻蛉を切った竜騎士の肩越しに、二条の雷光が閃く。痺撃を受け、どこから発声しているのか見当も付かない濁った咆哮を上げた砂蟲は、ずるずると砂中に体を埋め始めた。 
「お、逃げるか……?」 
楽天思考が口を付く――が。 
 全長のおよそ三分の二ほどを砂中に戻した砂蟲は、頭頂に空いた口腔部の、唇にあたる部分をべろりとめくり返した。表皮に比べ若干色深みを増した内皮が触手の根本を覆った様は、肉食花に似ている。 
「どうやら、逃げる気は毛頭無いようだな……。」 
 砂漠に咲いた醜い大華は、その茎にあたる体をぶぅんと捻った。巨大な触手がふわりと持ち上がり、鞭のように撓る。 
「飛空艇ではどう倒したんだ!」 
 踏んだ先から崩れる砂地は、思い通りの跳躍を許してはくれない。目前に薄した触手を、カインは穂先の広い面で掬うようにして軌道を逸らす。 
「動力炉の爆発で燃えてよ――火遁!」 
 のんびりと詠いつつ、深紅の巨壁に小火を起こしてみせたエッジの頭上を軟槌が薙ぎ払った。一瞬脳裏に描かれた相棒の無惨な姿に、ひやりと背中を伝った汗の乾く暇もなく、跳ねる踵下が浚われる。 
「そんな火力、ここには無いぞ!」 
 斜様に飛んできた触手を、上体反らしでやり過ごす。遠心力を伴って回る触手は、一本ならばまだ対処もできようが、兵学校時代に使った訓練道具 ――幾つもの枝を突き出した回転する鉄柱で、動体視力と反射神経を養うために用いる――のごとくこうも次々寄越されては堪らない。一本切り落とした次の瞬間には、頭を潰されるか、足を潰されるか、あるいは原型すら留めぬただの肉塊となって宙を舞うだろう。 
「お前、自爆してみねぇ?」 
 本体に近づくことさえ叶わず、命がけの縄跳びに甘んじる忍者の一言。カインは危うく己で描いた悲惨な想像通りになりかけた。 
「……ッ出来るかバカモノ!! お前には緊張感というものが――」 
 小言の中途で触手が視界を塞ぎ、エッジの体が消えた。 
 頭から爪先へと血液が逆流する。走って行ったのでは間に合わない――判断と同時に、カインの両足は砂地を離れ、真横に訪れた触手の表皮に乗った。爪先がめりこむような感触の後、頭から押し潰されるような圧力に弾かれる。 
 エッジの後方で派手に砂を削ったカインは、眩暈と戦う相棒の体をざっと眺めた。目立つ外傷はなく、おかしな具合に捻れた部位も無い。 
「お前には、緊張感というものが無いのか。」 
「おいおい、小言聞かせにカッ飛んで来たんかよ?」 
 自ら掘った砂丘を崩し、エッジは立ち上がる。敵との距離はおおよそ十メートル。随分と飛ばされたものだ。咄嗟に受け身を取ったとはいえ、下が砂でなければ確実に重度の擦過傷は免れなかっただろう。 
「……で、振り出しに戻る、ってか。」 
 二人の視線の先で、深紅の蟲が砂を巻き上げた。 
 
 一方その頃――。 
「君たちはここを動かないでね。僕は二人を助けに行って来る。」 
 かつてはアントリオンの巣と呼ばれた洞窟の入り口に子供を降ろし、ギルバートは再びホバーのハンドルを握った。 
「私たちも行きます!」 
 固い決意と共に、座席に飛び乗ろうと構える少女を止める間に、また別の声が上がる。 
「あんな芋虫、オイラ達の魔法でズバンとやっつけちゃうぜ!」 
 双方向から運転席に乗り込みをかける子供達を相手に、砂漠の王はただ笑みを浮かべた。 
「大丈夫、砂虫の退治法なら心当たりがあるんだ。」 
 柔和な容貌には不釣り合いな程の力強い言葉が、子供達の動きを止める。 
「ポロムちゃん、弓を借りるよ。」 
 助手席に積んだままの荷を目で示し、吟遊詩人の王は片目を瞑ってみせた。 
「ちょっ、待ってよナヨ兄ちゃん!」 
「……ギルバート、だよ。」 
 エンジンがひときわ高くうなりを上げ、その名を遠く運び去った。 
 
 砂の波紋様を描いて流れるさまを見ていると、幼い頃に父と出掛けたバロン東海岸の砂浜の様子が意識に被る。 
 それは、高波の悪戯であろう砂浜に打ち上げられた小さな魚の姿。幼かった自分にとって、丸い口を緩慢に動かし鰭をばたつかせるその姿はとても不思議な光景だった。魚は陸地で生きられない。なのになぜ、海へ戻らないのだろう。すぐそこにあるのに―― 
「このバカヤロウ様が!」 
 横からどつかれ、カインは見事に転倒した。さっきまで自分の立っていた場所に、捕食者の放った捕縛縄が横たわる。相棒の手になる斬撃により、いくばくかの苦痛を得たらしいそれは、解けるように砂を浚い元の場所へ戻っていった。元の場所――そう、砂蟲の頭部に深く開いた彼岸の入り口へと。 
 さきほど去来した幼い日の邂逅はまさか、走馬燈と呼ばれるものではあるまいか。 
 穂先を砂面に付く程深く構えを取り、カインは改めて今この場にある現実と真っ向から向き合う。 
 頭上から注ぐ灼熱線が大地のいのちを干上げ、灰と化した土が迷い込んだ者の希望を奪う、砂漠はまさに、人間の住める世界ではない。そう、この地理にあって、自分たちは陸地に打ち上げられた魚も同然だ。 
「……あの棘の筒はどうした。」 
 弾む呼吸の下に、問いかけを絞り出す。 
 むろん、答えは分かり切っているのだ。期に及んで有効な手段を出し惜しみするような男ではない。 
「んなモン、勿論品切れに決まってらぁな。」 
「役に立たん奴め……。」 
「なっ……お前考え無しに降りたんかよ?!」 
 賑やかにやり返してくる忍者の声に、自然口元が解れる。 
※バロン東海岸の光景 今と同じ、一面の砂 あの小さな魚にとって、砂浜はこの砂漠にも等しかったろう あの瑠璃の魚は、結局どうなったのだったか―― 
 悠然と獲物の死を待つ砂蟲の眼を見据えつ、カインは邂逅の続きを手繰ったその時。 
「お待たせしました! もう大丈夫です。」 
 一陣の砂煙にやおら視界を塞がれる。自然、腕を翳し訪れた闇の中に、澄んだ声が打ち響いた。 
「おい!? 何戻って……!」 
 同じく砂に煙られたのであろう忍者の声が、カインのそれを制して上がる。 
「昔、僕の先祖は砂漠に巣くう砂虫をこうして退治したそうです。」 
 後部座席に積んだままの荷から、彼は手早く弓を手に取った。凛とした美しい女性の横顔を、華奢な指がしっかりと握り込む。上下リブの延びて張りつめる音が、敏と空気を打った。 
――それは、静寂の大音声。 
 天空を射落とさんばかりの勇ましい姿勢で構えたギルバートを中心に、全ての音が薙ぎ払われる。 
 カインが目を向けた先に、エッジの見開かれた眼が映る。エッジもやはり驚いたのだろう――当然だ。おそらく、こんな音はかつて誰も耳にしたことはない。 
 音? 
 己の選択した語句に、カインは疑問を覚える。 
 耳で捉えることの出来ない現象を、音と定義することは果たして正しいのだろうか? 
 吟遊詩人の指は繊細に動き、緩み無く張られた弓弦を震わせる。しかし、そこから生じる旋律は、決して耳に届かない。 
 砂の流れる音、風の吹きすさぶ音、この空間に存在する全ての音を打ち消し響く、無の音色。聴覚のみならず、全ての感覚が失われたような不安を覚える。 
「口の中央に中枢神経があります!」 
 奇妙な闇の中に、ふと異なる振動が入り混じった。その意味を解することが出来なければ、それは、ただ不快なだけの雑音でしかないだろう。暗号のようなものだ。暗号は、送信受信双方の装置が揃わなければ意味が無い。 
「エッジ!」 
 考えるより先に口が廻った。聴覚に伴い、視覚や思考、様々な感覚のざわめきが五体に戻り充ちる。 
「おぅよ! こいつを使え!」 
 忍者から投げられたミスリル刀を手に、肺の奥底から一呼吸を絞り出す。砂を蹴り、次いで触手の表皮を蹴って、舞う空の下虚ろに開いた深淵。泡立ち煮えたぎる深紅の中央、虚ろに開いた闇の奥底から、数多の赤い筋に包まれた塊がせり上がってくる。 
 真っ直ぐに太陽の炎の流れ落ちるミスリルの刃は、数多の命の墓標足り得るだろうか? 
 カインの手を離れた鋭光は、狙い過たず塊を貫いた。 
 
 砂と同化し形を崩す丘陵に抱かれ、黄砂の間近に光を見る。 
 あの瑠璃の魚は、結局どうなったのだったか――砂の崩れる音がカインの脳裏に邂逅の続きを呼び起こす。傍らに歩み寄った父の声。 
――海へ戻してあげなさい 
 父の言いつけに従うために必要だったのは、ほんの小さな、労力とすら呼べないほどのものだった。砂をかき寄せ、小さな生き物の体を波へと押し出す。※海に戻った魚は、朝日に輝く波間に消える前、大きく一度跳ねた まるでありがとうと告げるかのように ささやかな英雄行為 とてもいい気分・嬉しかった 
「カイン!」 
※相棒の声が砂から自分を掘り出す 楕円の陰が嵩を成して目映さを削いだ。 
「大丈夫ですか? お二人とも。」 
 やや遅れ、おっとりとした声が降ってくる。差し出された手を取ると、滑りを帯びた暖かい感触を覚えた。 
※かつて砂蟲だった、今は砂丘に立ち上がったカインは、思い出の余韻を残した己の掌を見る。 
「ほれ、手ェ!」」 
 横から延びた手が、ギルバートの腕を掴んだ。 
「お前さん、ツラに似合わず度胸据わってやがんじゃねぇか。」 
 吟遊詩人の掌を裂いた幾条もの傷口を手早く覆い、エッジは改めて向き直る。 
「助かったぜ。……ありがとよ。」 
 おそらくはエブラーナ式の最上礼なのだろう。エッジは腿の前面上部に指を揃え、深々と頭を下げた。 
「あ、いえ、そんな、お礼なんて……」 
 おろおろと両手に言葉を惑わせた吟遊詩人は、しかし、強い日差しの元に胸を張った。 
「お礼なんていりませんよ。僕は、僕に出来ることをしただけです。」 
 面を上げたエッジに笑いかけ、自らの発した言葉を反芻する。 
 そう、自分に出来ることをする、ただそれだけなのだ。出来ない事をしようとするから足が竦んでしまう。 
 彼女が敵の凶刃に身を呈してくれたあの時――ただ、彼女の手を引いて、敵に背を向け、逃げれば良かったのだ。敵を倒す、そればかり考え、身が竦み、結果として、大切なものを失ってしまった。 
 剣でもって敵をうち倒すなど、自分には到底出来るはずもない。己の不可能と真摯に向き合い、その上で可能性をより広く持つために努めること。それが、勇気――輪廻の歩みを止めてまで、彼女はそれを自分に教えてくれた。 
「さあ、こんな場所に長居は無用です。パロム君もポロムちゃんも、きっと待ちくたびれてますよ?」 
 言って、ギルバートは後部座席の扉を開いた。一行は砂を払い、ホバーに乗り込む。 
 見事な蜻蛉返りで助手席に乗り込んだエッジと、不自由な利き手をハンドルに置き倦ねるギルバートの間に、カインは後部席から身を乗り出した。 
「王、その手で運転は――」 
「へっへ、俺様にお任せ!」 
 言い終わらぬ矢先の電光石火、座席を入れ替わったエッジは、踏み抜かんばかりの勢いでアクセルを蹴りつけた。 
「止せえぇぇえ!!」 
 カインの叫びが空しく砂塵に消える。 
 
 急ブレーキを掛けられたホバーが宙を華麗に舞った後、草地にその鼻面を突き刺し、どうにか岩への激突を免れた時ほど、カインが大いなる光の慈悲に感謝したことはない。 
「心配しましたわーーーっ!」 
 半泣きで飛びついて来たポロムを宥めつつ、ホバーを草地から解放する作業を手伝う。駆動系に異常こそ無かったものの、王家専用の美しい塗装は見るも無惨な有様だ。 
「まぁ、塗り直せば良いですし……。」 
 魂が半分くらいは留守になってしまったのではないかと思われるような風貌で、吟遊詩人は力無く笑う。 
「ホブス山の西登山口は、昼夜の温度差によって出来る氷の壁に覆われています。」 
「そんなの、オイラのファイアでぱぱっと溶かしちゃうぜ!」 
 荷の中から掘り出した飴を両頬いっぱいにほおばる少年は、えへんと胸を張った。ギルバートは穏やかな笑みで表情を飾る。 
「頼もしいなあ。お願いしますね、パロム君。……それと、もし定期船が無いようでしたら、この手紙をファブール王に渡して下さい。」 
「何から何まで本当に……すまない。」 
 王家の押印に封された書状を両手で受け取り、荷に仕舞う。 
「一年前、共に戦えたことは僕の誇りです。」 
 静かな、しかし、確かに響く明朗な声が、竜騎士の瞼と顔を押し上げた。 
「これからもずっと僕たちは仲間なのだと、僕はそう信じています。」 
 枯れ果てた砂の大地を潤し沸き立つ水と、力強く息吹く草の混ざり合う瞳が、鮮やかな空に交わり光を頌える。 
 張りつめた糸がするりと解けるように、カインは微笑を返した。 
「それでは、道中お気を付けて。」 
「お前さんもな、帰り気ィ付けろよ!」 
「ありがとうございます、ギルバート様!」 
 それぞれの旅路の無事を祈る声が交わされる。 
「じゃあね、ギルバート兄ちゃん!」 
 少年の小さな手が、力一杯に空を扇ぐ。 
 やがて凪いだ風が、吟遊詩人の残した砂塵を巻いて吹き払った。 




LastModify : April/14/2015.