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再び世界は色付いた

「おはよう、亜久津君!」
 かけられた声に亜久津の肩が少し動く。姿を見なくても誰だかすぐに分かった。亜久津は渋い顔をしながら振り返り、それでも返事をするように頷いて見せる。ぱあっと明るい笑顔を見せた河村がそこにはいた。

 二人が同じ道場に通うようになって、既にいくつかの季節が過ぎていた。誰にも馴染まない孤高の狼であった亜久津も、牙を引っ込めて河村に対してだけだが心を開くようになっていた。
 いままではずっと一人でいて、何の不都合も無かった。むしろ諸々の面倒を考えると一人がよかった。けれど今は違う。亜久津の姿を見るや否や笑って声をかけてくる河村がいる。彼は亜久津の固く閉ざされた扉を時間をかけて開き、暖かな光を差し込ませてくれたのだ。
 ぽっかりと空いていた穴が満たされていく。河村と共にいる間にそんな感覚を亜久津は覚えていた。悪くはない、むしろ心地よいものだ。
 そんなことあるわけないと最初こそ亜久津は自分の変化を否定していた。しかし河村と会うことを心待ちにしている己に気付き、何度か抗ったものの結果として自分の感情を受け入れた。河村の存在が己の中で大きくなっているということを。
 ただ同時に心地よさだけではない感情を、河村は亜久津にもたらした。それは嫉妬だ。河村は気の優しい少年だ。それは亜久津に対してだけではない、他の誰かにだってそうだ。河村は亜久津に向ける笑顔を誰にだって向ける。河村の性分なのだ。そんな河村だから人々の輪の中に入っていることが多い。亜久津と一緒にいる時もそうだが、一人になることがあまりないようだった。亜久津と付き合いがあるため、河村も遠巻きにされそうなものだが、そんなことはないようだ。
 そんな時、亜久津は苛立ちを覚える。輪の中にはいることも出来ず、また河村を呼びつける事もできない。河村にとって自分は沢山居る友達の中の一人に過ぎないのだと、亜久津は理解していた。それが酷く苛立たしい、けれど口に出せない。
 仲良しの友達をとられたようで悔しいのよ、仁。不意の話の流れで愚痴をついた亜久津に、母は言って笑って見せた。
 そんなもんじゃない、俺は悔しいわけじゃない。口に出して否定してみても、やっぱり苛立ちは消えないし、河村と一緒に居る時間は心地よい。ただ時折、他の子たちとの間を取り持とうとすることは余計だった。仲の良い友達は沢山いたほうが楽しい、それが河村の考えなのだろう。亜久津は否定しないが同意はしない。
 友達として河村を受け入れている、けれど嫉妬なんてあるわけがない。その部分だけはどうしても受け入れきれぬまま、亜久津は新しい年を迎えた。

「そういえばさ、亜久津君ってテニスしてたんだよね」
 白い雪のちらつく頃。マフラーに赤い鼻先を埋めた河村が、思い出したように尋ねた。冷風に吹かれた耳が赤く染まり寒そうだ。
 二人の会話は基本、河村が彼自身のことを喋る事が多く、亜久津は相槌を打つばかりであまり自分のことを話さない。その僅かばかりに亜久津が零し話したことの一つがテニスに関してだ。ただその話をしたのは大分前のこと。その時の河村はテニスがボールを打ち合うスポーツとの知識しかなかった。よく知っていたのは野球くらいだった。今更何を話すというのだろうか。
「昨日さ、テニスの試合をテレビで見ててなんか凄かったんだ。ボール凄く早いよね! 亜久津君も試合とかしたの?」
 いささか興奮した口調で河村は言い、あたかもラケットを持ちボールを打つように手を振った。
 そう言うことかと亜久津は腑に落ちる。面白くもない記憶を口にすると河村は瞳を輝かせた。
「大人の人にも勝つなんて、やっぱり凄いね亜久津君、空手も上手なのにテニスも上手だったんだ」
 ねえねえ、テニスって難しいの? 俺にも出来るかな? 亜久津君はもうしないの? それらの問いかけにはさあなの一言を返すに留めた。
 テレビでテニスの試合を見たこと、亜久津が一時期クラブに通っていたこと、それらは河村の興味をひくのに十分の要素だったようだ。
「空手以外に習い事を増やすのは難しいけど……中学なら学校の部活にあるよね。テニス部に入ろうかな?」
 河村はまだ数年先のことを既に決めようとする。
「お前はまず空手の上達を頑張るべきだろ」
「それは、そうだけど……だって面白そうだし、俺テニスしてみたいんだ」
 未来に胸躍らしている河村に対して、亜久津は意地悪のように指摘をする。河村は決まり悪そうにしつつも、その瞳は好奇心に輝いていた。これ以上は何を言っても聞かないなと判断した亜久津は、呆れてこっそり溜息をついた。もう勝手にすればいい。

 桜が満開となり、風に吹かれた桃色の花弁が吹雪となって舞い上がる頃。稽古の休憩中にもうすぐ誕生日だよねと河村が話しかけてきた。亜久津は興味なさげにだったらなんだと答えた。
「それでね、あの」
 なぜか続く言葉が出てこないようだ。ちらちらと亜久津のことを窺っている。
 河村の言いたいことを察した亜久津は面倒だと思う。お祝いがしたいな、できれば亜久津宅でそんなところだ。今まで何度か河村宅には行ったことがある。全て河村の誘いで、亜久津から行きたいと申し出たことはない。逆に河村が亜久津宅に来たことはない。亜久津が誘うことは勿論、河村が遊びに行きたいと言わなかったからだ。ただ河村が行ってみたいなと思っているだろうことは感じていた。でも亜久津は誘おうとしない、今まで誰も招いたことがないので勝手が分からなかったわけだ。
 面倒だと思う、それは事実だ。同時に嬉しく感じたのも事実だ。
「何が言いたいんだ、はっきり言えよ」
「その、お祝いできないかなって。出来れば亜久津君の家で……駄目?」
 本心でいえば気は進まない。祝われても嬉しい年ではない。でも、河村の気持ちが嬉しいのは事実であり、また断った場合に悲しい顔をすることが分かっていた。あの一件以降、亜久津は罪悪感からか河村を悲しませたり傷つけたりしたくなかった。隣にいるときは笑っていて欲しい。
 でもだからといって素直な言葉を伝えることは難しい。勝手にしろ、結局言えたのはそれくらいだ。
「うん、俺勝手にする。勝手にお祝いするね」
 言って河村は笑った。亜久津が拒絶していないことを読み取っての言葉だ。

 面倒くさいことになるので母親には黙っておこうとの目論見は、脆くも崩れ去った。誕生日の数日前からそわそわしている息子にぴんと来た母親は、息子の誕生日に休みを組み込むと久しぶりにお祝いしましょとのたまった。今更そんなもんいらねぇ、いいじゃないすったもんだをしている間にインターホンが鳴る。しまったと思ったときにはとき既に遅く。優紀と河村は初対面を果たしたのであった。
 息子が初めて家に招待した友達で、しかも誕生日を祝いに。優紀は心の底から喜んだ。息子との会話の端々から親しい子がいる雰囲気は感じ取っていたものの、詳しく話してくれることはなかった。その相手の子が目の前にいる、優紀は満面の笑みで矢継ぎ早に話しかけてしまう。
 とうの河村は、亜久津しかないと聞いていたところに彼の母親がいることに驚いて、更に一方的に話しかけられ言葉もない。しかも、予想以上に若いお母さんだったからなおのことだ。置物のように硬直してしまう。
 その場を収めたのは当然ながら亜久津だった。軽く切れて突っ走る母親を押さえ込み、玄関に立ちすくむ河村を家に上がるよう促した。
「あ、あのすみません、俺河村隆っていいます。亜久津君の、その友達で」
 亜久津の母親とは初対面なのに挨拶をしていないと思い出した河村は、慌てて頭を下げた。

「またね、亜久津君」
 言って手を振った河村に対して、手を振り返えしたのは優紀のほうだった。亜久津は視線を逸らしている。
 河村がいる間中、優紀はずっと嬉しそうだった。息子が友達を招待した事が嬉しかったからであり、河村がとても良い子だったからだ。準備ができておらず河村に出せるものがないからちょっと買い物に行ってくるわといって、河村を慌てさせた。河村は両親からちらし寿司を持たされていた。
「仁、あの子は大切にしなさいよ」
 河村を見送った後の母親の呟きに、亜久津は頷きもしなかった。百も承知だったからだ。この心地よい関係を手放したくなかった。

 敵が多いということ、亜久津を陥れたいと望む存在がいることは分かっていた。そんなもの恐れる亜久津ではない。
 鋭い眼差しで周囲を見渡す孤高の狼でなくなったから。その悪意がひっそりと亜久津へと忍び寄っていたことに気付いていなかった。

 新緑の道を歩き道場に向かった。けれど道場に河村の姿はなかった。河村がいない日は誰も亜久津に寄ってこず、遠巻きにしてはこそこそ話す。見えない檻の中に入れられているようで不快だ。亜久津は舌打ちすると踵を返し帰ることにした。
 それから一週間、河村はやはりいなかった。三日目には気になって名も知らない門下生を捕まえると問質す。ひいと震え上がった少年は怯えながらも知らないと首を振った。
 二週目、三週目、亜久津の足は道場から遠退いていった。もともと空手が面白かったからではない、河村がいたから通えていたくらいだから当然だった。その間、河村からの連絡は何もない。心がささくれだって荒んでいく、自分でもよく分かった。水で満たされた瓶が干上がり、空っぽになるような感覚だった。
 河村の姿を探して何度か訪れた彼の家の近くにまで行った。窺っていると空気が重く慌しいように感じられた、営業時間中だろうにすし屋の暖簾は外されている。家族に何かあったということなのだろう、だから道場に顔を出さない。出せないのだろうと推測された。ならば仕方のないことなのだろう、河村が道場にこれないことも、亜久津に何の連絡もないことも。そんな心の余裕すらないのかもしれない。
 亜久津は少なくとも同年よりは落ち着いて物事を見ることができると自負していた。感情だけで喚き散らし突っ走るなんてガキだと見下していた。けれど亜久津も所詮小学生だった。
 稽古に出ている時、河村は自然と亜久津の傍にいた。誰かと一緒にいても亜久津の姿を見るとすぐに移動してくる。亜久津を優先するようになったのだ、その事実は亜久津を驚くほど満たした。その頃になると己の嫉妬心は認めるしかなかった。初めてできた友達、河村は特別な存在になっていた。同時に河村にとっても自分は特別な友達になっていたのだと思い込んでいた。それが嬉しかったのだ。
 しかし今の自分はどうだ、道場の連中と同じ立ち位置にしかいない。河村に何があって、どうして道場に姿を見せなくなったのか予想はつくが本当のところは分からない。俺には一言くらい、何かあってもいいんじゃないか。来れなくなる理由の一言くらい。それくらい近い存在になっていたはずだと、思っていた。でも、違ったのだ。どれだけ待っても連絡は来ないし、河村は姿を見せない。
 それが苦しくて悲しくて、同時にそうやって感じてしまう自分に苛立った。河村が悪いわけではないと百も承知だが、責める気持ちは止まらない。こんな自分が情けなく心底嫌だ。
 この時亜久津がもう少し大人だったならば、それら全てが河村の努力によるものであり、亜久津自身は少し歩み寄った程度だと気付いたはずだ。だからこれしきのことで怒りを覚えるのはお門違いなのだが、今の亜久津には分かりようもない。
 四週目になると亜久津は道場に行くことを止めた。母親にも空手はもう辞めると言った。何か言いたそうにしていたものの、そんな隙は与えない。
 これ以上自分の感情に振り回されたくなかった。うんざりしたのだ。だからもう、いらない。友達なんていらない。

「亜久津君」
 河村を最後に見てから約二ヶ月。自宅の玄関前に河村を見つけ、亜久津は立ち止まった。すうっと瞳を細めると睨みつけた。河村が息を呑む音が聞こえる。
「一昨日道場に行ったら、亜久津君が辞めたって聞いて」
「邪魔だ、退けよ」
 冷たく突き放す声で言えば、河村の表情が強張る。少しだけ亜久津の心は揺れたものの、心は決めていた。
「俺は道場を辞めた身だ、家にまで押しかけられて迷惑なんだよ。帰れ、俺とお前はもう何の繋がりもないそうだろ」
 傷つけるのを承知の上で、鋭利な言葉を放つ。
 どうして? そんな言葉が聞えてきそうな表情を見せる河村は動く様子もない。亜久津は苛立たしく舌打ちすると、河村を押しやって鍵を開けると部屋に入った。始終、河村の視線が背を追いかけていることを自覚しながら、最後には振り向きもせず扉を閉める。
 まるで、これで終わりだと知らしめるよう、ゆっくりと。
「あくつ……!」
 扉が閉まる直前、河村の声が閉めないで欲しいと懇願するように名を呼んだけれど、亜久津は反応もせずに閉めて鍵をかけた。同時に開かれていた心も閉ざされ、封がなされた。
 色付いた世界が、再びモノクロームへと変わっていく。

 二人の関係はあっけなく終わった。亜久津の拒絶が酷く堪えたようで、あの日を境に河村からのコンタクトは何もなくなった。
 ああ終わったのだと、思う亜久津の瞼の裏には河村が最後に見せた表情が焼きついていた。再びさせてしまった傷ついた顔、不思議と罪悪感はなかった。もう二度と会うこともない相手だからだろう。
 亜久津は驚くほど落ち着いていた。河村と親しくしていた間に体験した多くの感情が、すっぽりなくなっていた。俺はこうあるべきだったのだと理解した。多々な感情に左右され悩んだり焦ったり喜んだり。
 これでいい、これでよかったのだと胸中で何度となく繰り返し、己を納得させた。
「これで本当にいいの、仁」
 空手の道場を急に辞め、落ち着きを取り戻していた息子が再び荒れ始めた頃。母親は悲しそうな表情で聞いてきた。
「うっせぇな、ババアには関係ねぇんだよ」
 いって亜久津は家を飛び出した。

 小学校業後、仕方なく中学校に進学した。
 出席率は最低限、授業に出ても教科書なんて開きもしない。それでも教師が注意しないのは、中学入学と共に広がった悪評を知っているからだ。一部の先輩グループから目を付けられたのは、入学して間もなく。いきがっている後輩に指導という名の暴力を与えるつもりが、呼び出された亜久津がたった一人で十名ほどの上級生を叩き潰し病院送りにしたのである。その光景を不幸にも目にしてしまった生徒は、心底楽しそうに笑いながら目を覆いたくなるような暴力を振るっていた亜久津を、まさに悪魔の化身だと恐怖に震えながら言った。
 深入りしてはいけない生徒だ。教員は瞬時に察して、卒業まで極力関わらざるべきだと話し合った。指導で矯正できる範囲を軽く超えてしまっている、手におえる相手ではない、皆の見解だった。
 酒も煙草も女も、この間に覚えた。悪い仲間とつるむ事も多く、家にも寄り付かなくなった。名前も知らない女の隣で目覚めることが日常茶飯事になっていた。
 そうやって自由に生きていけばいくほど、亜久津の心は乾いていく。荒んでいく。瞳に熱はなく、極寒の地に一人取り残されたかのようにいつも冷えていた。あまりのことに見かねた母親が苦言を呈するけれど、どこ吹く風だ。

 三年に進級した後、ひょんなことから伴田に出会いテニス部に勧誘された。やる気はあまりなかったものの、才能のない相手を叩き潰しボロボロにするのはそれなりに面白い。数ヶ月だけだが暇つぶしに付き合ってもいいかと、亜久津は久しぶりのラケットを握り締めながら思う。ブランクがあっても亜久津の強さは変わらない。 
 そんな最中、亜久津は銀華中のコートで小生意気そうな少年を見かけた。少年はコート上の誰よりも上手い、一目で分かった。不意に千石の言葉が脳裏を過ぎる、青学の一年レギュラー。帽子を被った小さな一年。そうか、あいつが千石の言っていた奴か、理解すると同時にぞくっとした。
 青学、青春学園中等部。名前に聞き覚えがあった。今は何の繋がりもない河村が進学した学校だ。何の因果かテニス部に所属しており、今はレギュラーとして大会に出場しているということは知っていた。数ヶ月だけの在籍だが、そういった情報は耳に入ってくるのだ。
 青学は順調に都大会を勝ち進んでおり、このまま行けば決勝で山吹と戦うになる。
 二度と会うことはないと思っていた、会いたくないと思っていた。けれどこのまま行けば間違いなく対戦となる。叩き潰したいと思った、河村諸共青学を完膚なきまでに。見せ付けてやりたい、己の能力を。亜久津はにやりと笑った。
 青学に乗り込みをかけた際に河村は見当たらなかった。己の名を聞けばいの一番にでも飛んできそうなものなのに、つまらない。思いながらも見つけた越前とのやり取りに、沸き立つものを感じていた。暴力をぶつけても怯むことなく向けられる真っ向の闘志、面白くなりそうだと思った。こてんぱんに叩き潰してやりたいと思った。
「今すぐに、○○に来て!」
 有無を言わせない母親からの呼び出しがあったのは、青学に乗り込んだ日。自宅に帰って来いではない点にもしかしてと思いつつ、亜久津は素直に従った。
 その横顔を視界に入れたとき、数年前の記憶が蘇ってきた。正面に座ってみても、顔つきが少し大人びたくらいで、面白いほどに変わり映えがない。
 河村は記憶どおりに優しく、笑いたくなるほどお人よしで仲間思いだった。手ひどい拒絶をうけた亜久津に会い辛かっただろうに、仲間のことが心配なのだ。不意に苛立たしさが込み上げてくる。挑発をかけても拳一つさえ飛んでこず、呆然としているようだ。無意味な暴力を嫌っていたから当然だろう。
 母親の声を無視して、その場を後にした。これ以上話すこともなければ、相手をする気もなかった。

「……てめぇ、なんでいるんだ」
 茜色に染まる夕暮れ時。母親のいない時間を見計らって帰宅した亜久津は、不意に立ち止まる。あの日と同じように河村が玄関前にいた。座り込み俯いていた河村は、亜久津の声に顔を上げ立ち上がった。昼間の続きとでも言うのだろうか。相手をする気も起きず、亜久津は舌打ちするとUターンを決める。
「待ってくれ亜久津、話が、話がしたいんだ」
「お前の都合なんて俺には関係ない」
 不意に腕を掴まれる。触るな、振り払おうとする前に離されて拍子抜けする。どうやら、亜久津の足を止めることが目的だったようだ。河村は亜久津の進行方向に回りこんでいた。
 こんなに必死になるほど、今の仲間が大切なのだろう。昼間の苛立ちが復活する。
「昼間のことなら」
「違うよ、そうじゃないんだ。三年前のことを、話したいんだ」
 今更何を話すというんだ、もう何の関係もないはずだ。口から出掛かった言葉は結局音にはならない。必死な眼差しと声。どうしてか突き放すことができなかった。

 亜久津は河村を部屋に上げた。日は完全に落ちている時間帯、他の誰が聞くわけもないけれど外で話すのは嫌だと感じた。
「亜久津が道場辞めたって聞いて、俺悲しかった。だから道場に戻ってきてよって話に来たけど、その亜久津が凄く怒っていて俺を突き放そうとしている拒絶していることに気付いて、どうすればいいかわかんなくなった。仲良くなる前、話しかけても亜久津に壁を作られてて悲しいなって思ってたけど、それでも亜久津と仲良くなりたいって思いが強かったし、本当に拒絶するなら道場自体に来なくなるかなって思ってたから。亜久津が道場に来る間は大丈夫だと思って声をかけ続けてた。でも、空手道場っていう繋がりが消えて、関係ないとまで言われて、俺本当に亜久津に嫌われたんだと実感した。……分かったらさ、会いに行くことも出来なくなってた。また手ひどく拒絶されるんだろうなって、怖かった」
 正座する河村の足の上、握られている拳に力がはいる。
「じゃあ、何でのこのこ会いに来た?」
 最もな疑問だった。そのまま悲しい過去として置いておけばいい。自分で傷口を抉るような行動の理由が分からない。
「……あの時からずっと、聞きたかったことがあったんだ。亜久津が俺を嫌いになった理由。今更、友達に戻りたいなんていわないよ、ただ理由が知りたい。俺が傷つけたのならば謝りたいんだ」
 河村は曇りのない真っ直ぐな瞳で、亜久津のことを見つめる。思わず背を見せて逃げてしまいたくなるような、まっさらな眼。
 お人よしも極まりだな。手ひどい拒絶の理由に、相手を責めることをせずに己が悪かった可能性を考えるなんて。それをずっと気にかけていたわけだ。亜久津は呆れた。同時に開放してやりたいと思う。苛立ちは消えていた。
「別に、お前が何かしたわけじゃねぇ。ただ道場が嫌になって、思い起こさせる奴ら誰とも縁を切りたくなった、それだけだ」
 少しの真実を嘘で包む。本当の言葉はきっと言えやしない。己が情けなさを曝け出すなんて到底無理だ。
 亜久津の言葉に、河村は瞬いた。
「……待って亜久津。俺の事が嫌いになったんじゃなかったの。相手をするのが面倒とか、うっとおしいとか」
 動揺を見せる河村に、亜久津は疑問を抱く。そういった感情を抱いたことは確かにあるが、それは友達になる前だ。
「どういうことだ」
 河村曰く。久しぶりに道場に顔を出した時、亜久津は道場を辞めてしまったこと、友達ごっこを続ける河村に嫌気が差していたこと、戻ってきてまた寄ってこられても困るのでこの際に辞めたこと、二度と顔を見せるなと言っていたこと。他の門下生から聞いたという。最初河村は信じられなくて、とりあえず話をしたいと亜久津宅を訪れたところ激しい拒絶を受けて、嫌われていたとの言葉が嘘ではないのだと思った、とのことだ。
 なんだこれは、どういうことなんだ。亜久津は眉間に深い皺を刻んだ。
「俺は言っていない」
「え」
 河村は目を見開いた。
「お前以外に俺が口をきく奴が道場にいたか」
 問えば河村は困り顔で首を振った。道場で亜久津とまともに話せた人間は河村しかいなかった。河村本人も分かっていたはずだ。だから、そんな話を河村が門下生から聞くことはありえない。
「じゃあ、嘘? でもどうして……」
 理由が分からない河村とは逆に、亜久津には容易に分かった。
「俺を辞めさせたかったんだろう」
 亜久津はこともなげに言った。
 道場の門下生は河村以外亜久津を嫌っていた。辞めて欲しいと思うものの、真正面から言う勇気も無ければ追い出す力もない。亜久津自身、道場に通っていたのは空手がおもしろいからではなく河村がいるからであり、また辞めろと視線で訴えてくる門下生に対しての嫌がらせでもあった。
 何とか辞めさせる手立てはないものか、いじめるにしたって返り討ちにあうことは目に見えていた。報復も怖い。どうすればいい。そんな最中だ、河村が長期間道場に来れなくなったのは。
 道場には幅広い年齢層の門下生がいた。その中の誰かが亜久津と河村が親しいこと、亜久津の居ない日に河村が居る事はあっても逆は決してないこと、それらを把握して使えると思い、嘘をついた可能性がある。となると、一つ。
「河村、お前が二ヶ月ほど道場を休んだのは身内に何かあったからか」
「叔父さんが交通事故に遭って重体だから、父さんと母さんが暫く付き添ってたんだ。俺もよく知っている叔父さんだからショックで、付き添いだったり妹の面倒を見たり家のことをしなきゃいけなかったりで、道場に行くだけの余裕がなかった。……だから俺、しばらくは道場を休みますって報告に行って、その時、本当は直接伝えたかったけど亜久津居なかったから、伝えて欲しいって言付けたんだけど……亜久津、伝わってなかった?」
 亜久津は険しい表情で歯噛みする。頷いた。
「ああ、誰もしらねぇの一点張りだ」
 そんな、河村がそう呟いて沈黙する。
 腹の底から怒りが込み上げてくる。決定的だった。
 誰が先導したのかは分からないが、そいつの思惑通りに動いてしまったわけだ。河村が不在、しかも理由も分からず長期間となると、亜久津は道場に来なくなる。居場所がないからだ。そこで辞めるかどうかまでは予測できなかっただろうが、確率は高いとふんでいたはずだ。そこで望みどおり亜久津が辞めたので、後は戻ってこないようにするだけ。そこで河村に亜久津が嫌っていたと吹き込んだ。
 計画としては杜撰であり二人の行動によっては失敗の可能性も大いにあった。けれど、結局は二人とも思惑通りに動いてしまった。
「っ、クソが!!」
 亜久津は吼えると共に拳を床に叩きつけた。強烈な痛みが腕を伝い身体に響いたが、燃え滾る怒りの前には些細なことだ。
 怒りのままに道場まで乗り込んでしまいそうなほどの亜久津を止めたのは河村だった。
「……亜久津は俺が嫌いになったわけじゃないんだよね? だったら」
 友達に戻れないかな。
「……は?」
 あまりのことに気が抜け、同時に怒りも抜けてしまう。この状況下で言うことか、それは。昼間なんて手酷い仕打ちを受けたというのに、本当に人がよすぎる。亜久津は内心で突っ込んだ。
 ただ亜久津自身も満更ではない。元々、亜久津にとって河村は初めてとも言える友達だった。特別といってもいいくらい。第三者の悪意がなければ、きっと今も友達として付き合っていただろう。
 だから、河村が望むのならば頷いてもよかった。けれど。
「断る」
 一刀両断する。亜久津が頷いてくれると期待していたのだろう河村は、意気消沈してしまう。
「そ、そうだよね……虫が良すぎるよね。会える距離に居たのに、会いにもこなかったし」
「河村、俺はあくまでも過去と同じ関係に戻ることを断っただけだ」
「それって、どういう意味……?」
 続いた言葉に河村は困惑した表情を見せた。当然の反応であったが、それがどういった関係なのかは亜久津にも分かっていない。ただ、昔のような友達の関係だけでは足りないと感じていた。
 昼間のことを思い出す。偶然居合わせたのか、それともつけていたのか、亜久津に敵を向き出しにした青学テニス部の面々。様子から見て河村は慕われているようだった。河村の性格を考えれば理解できる事だし、学校には部活以外でも親しい友が居るに違いなかった。
 過去と同じ関係という事は、その部活だったり学校だったりの親しい友人と同じ位置というわけだ。それが我慢ならなかった。自分にとって河村は特別な存在であるのに、彼にとっては友人の中の一人に過ぎないだなんて。
 もっと別の、河村の中で特別な存在でありたい。それがどういった関係性になるのか、亜久津に分からない。なんと呼べば良いのかも分からない。だから。
「分かるまでは、友達に戻ってやるよ」

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