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◇◆ Safe house 2 ◇◆
 深く柔らかい、ずっと求め続けていた夢を見た。
 スーツ姿で現れた若行は、嬉しいのか悲しいのか、何一つ量れない表情で私を見下ろしている。
 それでも私は、逢えたことの喜びに包まれ、彼に向かって懸命に腕を伸ばした。

 躊躇うことなく、若行が無表情のままゆっくりと近づいてくる。
 忘れることが出来なかった彼の香りと温もりを、間近に感じてしがみついた。
 フワフワと身体が宙を舞う。見上げた彼の顔は機械のようで、それがたまらなく怖かった。

 薄々は感じていた。これはいつもと同じ、ただの夢なのだと。
 それでもいつもの若行は、私を見て笑ってくれた。こんな感情のないロボットではない。
 お願い、夢の中まで私を拒絶しないで……

 次の場面で、私はベッドに横たわっていた。
 腕に感じていた若行の温もりが消えかけて、彼が去っていく足音が小さく響く。
 何度味わえば気が済むのだろう。何度私の前から消えるのだろう。
 起き上がり、彼の背中に向かっていつものように錯乱しながら泣き叫ぶ。
 何を叫んだのかは覚えていない。けれどここからが、いつもと違う夢になる。

 若行は去らなかった。振り向いた顔は無表情が崩れ、ひどく苦しそうに歪んでいた。
 その表情を目にして、鋭く息を吸い込むと同時に、彼の元へと引き寄せられた。
 押さえつけられた私の頬は、彼の力で上を向き、そこからは咽るほどの激しいキスを繰り返す。
 若行の髪に、両手を差し込み握り締める。口元を擦る髭の痛みさえ狂おしい。
 溢れ止むことのない涙を拭うことなく、本能のまま、求めるままに深まるキスは、 私の涙と、知らない煙草の味がした。

 片方の耳は若行の心音を聴き、両手は彼のシャツを逃がすものかとばかりに握り締めたまま、 ゆっくりと重い瞼が閉じられて行く。
 煙草の香りが染み付いた指先で、私の髪を梳きながら、子守唄のように何度も何度も若行が囁き続けた。
「愛してる……」
 私がもっと深い眠りにつくまでずっと。呪文のようにそっと……
 そこで夢は終わる。そこから先は、深い暗闇の中をただ静かに沈んで行った。

 起きたくない。夢から覚めたくない。
 どんなに強く心が懇願しても、身体は無常にも目覚めを告げる。
 そして私は目を開けて、見慣れない部屋と、若行のいない孤独に咽び泣く――

 心が弱ったときに限って、私は若行の夢を見る。
 自分が今置かれている状況は、ありがちな日常でも、極普通なことでもない。
 だからこそこんな夢を見てしまったのだと自分に言い聞かせ、伸ばした袖を掴み、必要以上に顔を擦った。
 そのおかげで、夢よりも現実のほうが色濃くなり、現状を把握しようと試み始めた。

 見慣れぬ部屋は、ちょっとしたリゾートホテルのような造りで、 ダブルサイズのベッドが置かれた寝室と、刺繍の施された布張りのソファーが並ぶリビングに、 卓上コンロが設置された、小さなキッチンが備わっていた。
 リビングのテーブルに、自分の鞄が置かれていることに気がつき、駆け寄って鞄を持ち上げると、 そのままひっくり返して中身の全てを床にばら撒く。
 何一つ無くなっているものはなかったけれど、一番肝心な携帯電話の電波は圏外で、 振っても、場所を変えても、電波が現れることはなかった。
 部屋のドアは、外から鍵が掛かっているようで、何度試しても開くことはなく、 ドアに耳を押し当てて外の様子を伺うけれど、自分の呼吸の音だけが空しく響いた。
 ドアがだめなら窓だと、部屋を横切り厚手の遮光カーテンを開き、陽の光に目を細めながら外を眺めれば、 背の高い木々に四方を囲まれた、鮮やかな緑の芝生で覆われた庭園が広がっている。
 けれど窓に鍵はなく、音すらも吸収してしまうその窓は、叩いても拳が弾かれるだけで、 どうやら自分は、完全に閉じ込められたのだと諦めてその場にへたり込む。
 数分間そのまま途方に暮れ、このままこうして座り込んでいても、 状況は何一つ変わらないと思い直してようやく重い腰を上げた。

 顔を洗うために洗面所を探し当て、鏡に映る腫れ上がった目を見て、ひどい顔だと鼻で笑う。
 蛇口を捻り、勢いよく流れる水を手ですくってそのまま顔に当てると、なぜか口元がヒリヒリと痛んだ。
 傷みの原因を探そうと鏡に顔を寄せれば、無数の小さな引っかき傷が口元にできている。
 夢の中の光景が目の前に広がった。若行の髭の感触を思い出し
「夢じゃなかったの?」
 傷を指でそっと触りながら、鏡の中の自分に向かって問いかけた。
 驚きで目を見開く鏡の中の自分は、傷ではなく唇をなぞっている。
 記憶が揺れる。どこまでが夢で、どこまでが現実なのだろう……

 突然のチャイムの音に、ビクンと体が硬直する。
 身構えながら洗面所から出て、ドアの様子を伺うけれど、先程と変わらずドアは開かない。
 けれどドアに広がる影が動き、後方に誰かの気配を感じて振り向いた。
 振り向いた先の窓の外に、黒縁の眼鏡をかけた小柄な男性が立っていて、しきりに部屋の中の何かを指差している。
 男性が指差す方向を見れば、壁の側面に赤いランプが点灯するスイッチを見つけ、そのスイッチの元に走り寄り
「これを押せばいいのですか?」
 聞こえるはずがないと知りつつも、できる限りの大声で叫び、スイッチを指差した。
 男性は何度も頷き、人差し指を突き立てて、スイッチを押す動作を繰り返している。
 少し躊躇った後、赤く光るスイッチを押すと、どこにでもある自動ドアのように、 真ん中から両脇へとガラスがスライドしはじめた。
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photo by ©Four seasons