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◇◆ Cannot forget a sweetheart ◇◆
 スウェットだけを穿き、上半身裸のまま冷蔵庫の扉を開く。
 ミネラルウォーターのペットボトルを取り出して、 バキンという音を立てながらその場でキャップを捻り開けた。
 襟足に溜まった水滴が、動くたびに舞い散り床に落ちる。
 ソファーに引っ掛けたままのタオルを手にとろうとして、 テーブルの上に置かれたノートパソコンが目に入った。

 デスクトップに開かれた小窓。
 香里はまだ、メッセンジャーに上がってきていない。
 壁に掛かった時計を見上げ、この時間に香里がどう動いているのかを計算する。
「そろそろだな」
 そんな独り言をつぶやくと同時に、香里がメッセンジャーにサインインしてきた。
 訳もなくただ単純に嬉しさがこみ上げて、待ち構えていたようにキーボードを叩く。

『香里? お疲れ様^^』
『今日の香里の一日はどうだった?』

 木下大臣から、任務を言い渡されたときに覚悟した。
 これは任務なんだと自分に言い聞かせることで、俺はそれを食い止められる自信があった。
 けれど実際は、任務だと割り切っているはずなのに、彼女を想う気持ちに負けてしまう。
 声が聴きたい、逢いたい、抱きしめたい……
 次第に激しくなるその欲求は、完全に任務を忘れて文字に表れていた。

『香里? 今日はちゃんと笑った? それとも、嘘で笑った?』
 ENTERを押した後に気づく失態。
 望月を演じなければならないのに、つい出てしまう自我。
 香里に気づかれてしまうのではないかとヒヤヒヤしながら返事を待つけれど、香里からの返事は
『正真正銘、バッチリ本気で笑いました!(笑)』

 返答までにかかった時間と文字の細部から、これが香里の嘘だとすぐに気がついた。
 細く柔らかな体を震わせて、画面の向こうで香里が泣いている光景が目に浮かぶ。
『今すぐそっちに――』
 そこまで文字を打ち込んで、慌ててそれを消す。
「どんな顔でお前に会おうと言うんだよな……」
 まだ濡れた髪を無造作にかきあげて、自分の情けなさに体が震えた。
 胸のIDタグがテーブルに当たって小さな音を立て、跳ね返った2つのタグがぶつかり片方が裏返る。

Cannot stop loving you.

 香里の前から消える時、女々しくも彫り足したその言葉。
 愛するからこそ守りたかった。
 幸せになって欲しいと願い、香里の前から消えたくせに、 いざ誰かがお前の手を取ったら、俺はそいつの腕を切り落としたくなるのだろう。
 この手でお前を幸せにしたい。
 でもこの手は、お前を幸せにしてやることができないのに――


 俺には元々父親がいない。
 横須賀の米軍基地近辺のネオン街一角に部屋を借り、物心ついた頃からずっと一人だった。
 母親は生きてはいたが部屋に寄り付くことはなく、たまに帰ってきたと思えば、 酒の臭いをプンプンさせて見知らぬ男と寄り添っていた。
「この貧乏神!」
 母親はいつも俺をそう呼んだ。
 憎むような目で睨み、自分が部屋にいるときは必ず俺を部屋から追い出した。
 幼い頃は、そんなことでもすぐ泣いたと思う。
 けれど感情を表にあらわすと、ますます母親の機嫌が悪くなることにも気がついた。
 だから必然的に、自分の感情を自分の中に閉じ込める癖がつく。
 今思えば、俺の得意な無表情の起源はこの頃からなのだろう。

 俺を哀れんだ男たちが、帰り際に数個の菓子パンを投げていく。
「ありがとな」
 そんな言葉と薄笑いを浮かべながら。
 プライドなどどこにもない。
 投げ捨てられたパンを拾い集め、生えたカビを削ぎ落としチミチミと食べ、 色とりどりに光る窓の外を眺め続けていた――

 学用品など何もないまま、厄介払いと称した小学校へ入学した。
 真新しいランドセルが輝く中、教科書をそのまま抱いて歩く。
 気の良い用務員の爺さんが、大きくなってしまった孫のものだと言って、 傷だらけだけれど綺麗に磨かれたランドセルを俺にくれた。
 鉛筆や消しゴム、図工で使うラップの芯まで俺のために用意してくれた。
 入り浸るように爺さんのところへ通い、7歳ほどの子どもなら誰もが知っていて当然なことを 爺さんから教わった。
 爺さんはいつも同じことを言った。
「いいかい? 心が折れないように、潰されないように、歯を食いしばって笑うんだよ」
 器用に俺の鉛筆をナイフで削りながら、俺を諭すように微笑んで――

 そんな爺さんが、どこかで調達してきた古ぼけた学生服を着て中学へと進む。
 学校中の誰もに後ろ指さされ、笑われながら生きていたけれど、なぜか苛められはしなかった。
「お前は、何を考えているのか解らないから余計に怖い」
 当時の担任は、俺のことをそう言った。
 だから周りの人間も、同じように思っていたのだろう。

 食べることに事欠いて横道に反れそうになった時期もあったが、 それでもなんとか義務教育までを卒業する。
 そして、勉強しながら金が貰える。タダ飯が食える。
 そんな不順な動機で、市内にある陸上自衛隊少年工科学校へ入校した。

『俺は生きている』 初めてそう思える日々だった。
 まともに食べられる、眠れる、そんな当たり前のことが、そのときの俺には 素晴らしいことに感じたから。
 初めて手にした1万円札を数枚握り締め、爺さんに心ばかりのお礼の品を送った。
 それから残った小銭で、散々迷ってから1本で3色が使えるボールペンを買った。
 何度もそれをカチカチとスライドさせて楽しみ、たったそれだけのことで頬が緩んだ。
 初めて新品と言うものを手にすることができた喜び。
 その思いは一生忘れられないだろう。

 こうして瞬く間に時は過ぎ、訓練を受けつつ通信制過程で通常科目を受講し、電子工学を学ぶ。
 そして更に、医科大へ進学するため必死で勉強を続けた。
 医者になって、金持ちになって、いつか皆を見返してやるんだ。
 それだけのために意地になっていただけの毎日。
 その意地だけが俺の支えだった――

 大学入試の試験会場で、隣に座ったのが岩間だった。
「君はちっとも緊張してないんだね。うらやましいよ」
 用もなく誰かに話しかけられたことがなかった俺は、その言葉に驚いた。
 そんな俺の顔に驚いた岩間が
「そ、それが君の緊張したときの表情だったのか!」
 口をヒクつかせて、笑いを堪えながら俺を指差した。
 それが初めてできた、友達と呼べる男との出逢いだった。

 共に無事難関を突破し、入学した宿舎の2人部屋でも一緒で、それからの何年もの時間を岩間と過ごした。
 お互い6年間の医学部を無事卒業し、岩間は医師国家試験を合格した後、幹部自衛官になった。
 そして俺はそのまま医学研究科という名の大学院へ進学し、法医学を専攻した。
 そのときの俺は岩間という友人を得て、誰かを見返すといった復讐に近い動機で生きるのではなく、 自分なりの目標を持てるほど心が穏やかになっていた。

 香里と出逢ったのは医研2年次の頃で、滅多に訪れることのない診療棟に珍しく足を運んだときのことだった。
 自分の体格とは不釣合いな大きい白衣を着て、胸に実習生という名札をつけた彼女。
 そんな彼女を、昔の自分に当てはめて微笑ましく思った。
 けれどその日の昼食でたまたま俺の隣に座った彼女は、頼んだうどんに手をつけず何度も小さな溜息を繰り返していた。
『どうしていいのか分からない』
 落ち込みながらそんな溜息をつく彼女がまた微笑ましくて、からかい半分でわざと大きな溜息を隣でついてみる。
 そこから先は予想外の出来事だった。

 椅子から崩れ落ちそうになるほど驚いて、俺を見上げる彼女。
 その顔に、体の血液が逆流するような激しい何かを感じた。
 普段では考えられないほど、しどろもどろになって彼女に言い訳を試みる。
 そんな俺の行動が、伝染したかのようにギクシャクとした会話が続く。
 実際、何を言い放ったのかすら覚えてもいない。
 赤みが差す彼女の頬が、たまらなく可愛いと想ったこと以外は。

「お疲れ様」
 用もないのに少しの暇を見つけては診療棟へ足を運び、香里とすれ違うたびに声を掛ける毎日。
 まるで10代の少年に戻った気分だった。
 今まで必要性を感じたことのない携帯を、慌てて買いに走ったりもした。
 寝る前のほんの数十秒しか続かない会話でも、香里の声が聞けただけで嬉しかった。
 ゆっくりでいい。だからずっと傍に居たい。
 時を重ねて更に育っていく感情。
 小さな仕草や纏う空気、些細な言動、そんな彼女の全てに心惹かれた。

 初めて香里を抱いた日、自分が壊れていく音を聴いた。
 どんなにどんなに繕っても、隠し切れない偽りのない自分が姿を現す。
 香里の声にならない熱い吐息が俺の体にぶつかって、それが染み渡るように全身へ広がっていく。
 真っ直ぐに俺だけを見つめて、真っ直ぐな揺ぎ無い心を俺にぶつけてくる女(ひと)。
 頼ること、弱音を吐くこと、信じること、そんな簡単なことができなかった俺が
「どこにも行かないでくれ……」
 そう縋り付いて、抱きしめて、鎖に繋いででも傍に居て欲しいと狂気染みた想いを抱かせる女。

 性欲に負けて、他の女を抱いたこともある。
 愛してないのかと詰め寄られて
「愛って何?」
 そうやって冷たく言い放ったこともある。
 なのに想うんだ。解るんだ。
 自分でも信じられないほど穏やかに微笑んで
「愛してるよ――」
 問われたわけでもないのに、そう言わずにはいられないほどに彼女が愛しかった――

 医研卒業を目前とした年、小暮内閣が発足した。
 国務大臣に木下さんが就任して、そこで俺の未来が大きく変わることになる。
 軍の病院だけに政治との密接な関わりがあるのは当然で、 法医学、つまり検視は尚更事件との関与が強かった。
 木下さんは、ちょくちょく施設に訪れては検視を見学していく国会議員だった。
 なんとなく裏の顔を持つ人なのではないかと思っていたが、 その裏の顔を本人から直に告げられてこんな俺でも動揺した。

 一握りの人間だけが知る、秘密組織の存在。
 木下さんが何を想って、何を根拠に俺を引き抜いたのかは解らない。
「弱点がない人間が欲しいんだ」
 そのとき木下さんはそう言った。
 その言葉が持つ裏の意味が今なら解る。
 15歳からの軍キャリアより、天涯孤独に近い俺の境遇が魅力だったのかも知れない。

 高等部から通算すれば、13年間もの長い間の学費を国家という大きな親に 出し続けてもらっていた俺には、その話を断る理由など見つからなかった。
 そこで俺という男の過去は全て抹消され、SIUの統括本部司令室への移動を命じられた。

 司令室は自ら動く諜報員とは異なり、作戦を考える部署だった。
 だから通常は、現場を知り尽くした諜報員が配属される。
 なのに俺は異例の配置。
 そんな俺が立てた作戦を信用してくれる諜報員など皆無に等しく、非難を浴びる毎日が続く。
 けれど当時の司令室長であった平司令官だけは、俺を認めてくれた。
「何人もの尊い命を一手に預かる仕事だ。失敗は許されないぞ」
 そう言って、厳しくもあり、共に任務の成功を喜びもしながら、司令塔の役割を徹底的に叩き込まれた。

 そんな時は、1年も経たずして突然に終わる。
 平司令官が統括した任務で、思いもよらない事故が起きた。
 初めて起用されたエージェントがパニックを起こし、民間人数名を巻き込んでしまうという失態を犯す。
 平司令官はその責任をとり辞任を申し出るが、木下大臣はそれを却下した。
「君がいなければ、SIU全てが成り立たないよ」
 そうやって何度も説得を繰り返していた。
 けれどその数週間後、平司令官は夫人とともに不自然な事故によって死亡した――

 平司令官の葬式に訪れたとき、俺が目にしたものは親族席の筆頭に香里が座っていたこと。
 考えればすぐに解る事だった。
「パパは、市役所の生活安全課ってところの課長なのよ」
 組織とは何一つ関わりがなかった頃に、香里から聞いた話。
 今の俺の身分は、その課の係長だ。

 平と源。当然俺も、本名は呉埜ではない。
 身分を偽り、氏名を偽り、全てを偽り、平司令官同様に死ぬまでそうやって生きていく。
 そこでようやく気がついたんだ。
 命よりも大事な香里が、最も危険な位置にいることを――

 何一つ知らないまま、司令官の娘として香里は生きてきた。
 司令官の父が亡くなり、その危険な位置から解放されたのに、 今度は司令官の恋人として矢面に立たされる。
 何か事があるたびにその身を危険に晒すのは俺ではなく、弱者であり俺の弱点でもある香里。
 俺さえ居なければ、人質にとられることもなく幸せに暮らすことができる。
 俺さえ姿を消せば。俺さえ傍にいなければ――
 そして俺は、半身をもぎ取られるほどの痛みを伴いながら、何も言わずに突然香里の前から姿を消した。

 なのにお前は、こうしてまた矢面に立たされている。
 俺の弱点が、未だお前だと知っている何者かによって――
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photo by ©Four seasons