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 角と秘薬 3






 二か月が経った。
 相変わらずボロウェは薬を作り続けている。その間何度か皇帝に薬を献上したが、効果は低い。有角人の秘薬は、怪我や病気には効果があるが老いには弱く、有角人の寿命は戦争のせいもあるが、人間以上に短い。
 だが皇帝やその側近は、ボロウェがわざと作らないのではないかと疑い、非難した。

「なんのために有角人などを宮殿に住まわしてやっていると思っている。いつまで待たせる。仲間を斬られたいか」
「必ずお作りします……。ですからエトラの者達には御慈悲を……」
 役人の言葉に、ボロウェは頭を下げるしかない。ボロウェは寝る間を惜しんで研究に没頭しているが、どうしても進まない。魔族の生態に関する書物を漁り、魔族の死骸や抜け落ちた毛などを解析しているが、帝国をもってしても必要な数が手に入らない。その上魔力のことに関してボロウェは門外漢なので、そこに長寿の秘訣があったら研究は絶望的だ。
 皇帝は最近殊にやつれ、焦りが生じている。皇帝が医療官を叱責し、それが役人からボロウェへの圧力につながる。暴力や脅しが行われることが頻繁になった。

 だが意外にも、ある男がそれを救ってくれるようになっていた。
「私の主治医に何をしているんだい」
「王子……、いえ、上からの命令を伝えただけです。失礼しました!」
 役人が出ていくと、暗い研究室には不釣り合いな明眸のカナーと、壁に背をもたれうつむいたボロウェが残った。袖の下に覗くボロウェの腕にはいくつかの痣がみえる。
「ありがとうございます……」
「いや、王族としてあのような所行が許せなかっただけだ。顔を出しにきて良かったよ。怪我はどう」
「大丈夫です。殿下、何の御用でここに」
「近くを通ったから来ただけだよ。有角人の研究室ってどのようなものか興味があってね」
 ボロウェの意向も聞かずにカナーは部屋の中を歩き回った。おかしな匂いを発する壷を覗いたり、木製の製薬機をいじってみたり、好奇心に溢れた顔をする。すり鉢の中に入っていた橙色の作りかけの薬を指にとって舐めてみようとする。
「わ、おやめください!舌が壊れますよ」
「そんなに酷い味なのか。綺麗な色なのに」
 そう言って笑った顔は柔らかい光がこぼれる様で、もしボロウェが帝国民なら見惚れていただろう。
 しばらくしてカナーは帰ると言った。ボロウェはその間彼の突飛な行動を追って疲れていた。だが役人と会話していた時の暗い気持ちは軽くなる。
「ボロウェ、何かあったら私かアネスに言いなさい。研究室をここから私の館に移すよう頼んでもいいしね」
「……お気遣い感謝します。ですが、このままでいいです」


 出会ったばかりの頃、カナーはボロウェに冷淡な感情があったが、医術の腕を知っていくうちにそれは改まる。心の棘は取れていき、会った時は気軽に話しかけるようになった。
 この日も診断に来たボロウェをつかまえて雑談に興じていた。
「庭園にピアニの花が咲いたんだ。見に行かないか」
「それなら薬草園にありますからいいですよ」
「薬草園の花とは違うぞ。よし、来い」
 カナーはボロウェの腕を取ってテラスに出た。この明るくも強引な王子にボロウェは未だ慣れない。
「そうだ、最近の皇帝陛下の容態はどうだい」
「……思わしくございません」
「そうか。ボロウェ、皇帝や側近に責付かれても無理するな。有角人も人間も歳に勝てないのは仕方ない。何かあったら私に言えば力になる」
 カナーはそう言ってにこやかに笑った。ボロウェを励まそうとしたのかもしれない。
 しかしカナーの笑顔にはどうしても皇帝の死を喜ぶ心が見え隠れする。今が皇太子から次代の座を奪う好機なのだから仕方ないといえばそうなのだが。
 ボロウェはカナーのいつもの笑顔が嫌いではなかったため淋しかった。やはりまだこの男も苦手だ。

 アネスは執務室から庭を見下ろすと、ボロウェとカナーの姿を見つけた。またボロウェが困惑した顔だったので、窓を開けて声をかける。
「殿下、医師との面会の時間は過ぎています。仕事に戻ってください」
「ああ。じゃあボロウェ、またね」
 カナーは屋内に戻っていった。
 アネスの部屋に風が吹き込んで書類が飛ぶ。すぐに窓を閉めたアネスの姿を見上げて、ボロウェはチクリと胸の痛みを感じたが首を振って出口に向かった。

だが門ではアネスが馬を用意して待っていた。
「乗れ」
「また殿下に送るように命令されたのか」
「いや、違う」
 ボロウェの肩がピクリと動く。
「本殿に用がある。ちょうどいいから一緒に乗っていくといい」
 その言葉に落胆する自分を感じ、ボロウェは狼狽した。アネスが己の意思で自分に構ってくれないかという望みが頭をちらつくのだ。
 馬の上からアネスが差し伸べた手は取らず、自分で馬に登った。
「掴まっていろ」
 こんなに近くで声を聞くと耳が赤くなる。ボロウェはアネスの背中を見つめ、彼のベルトだけをそっと掴んだ。
 馬がゆっくりと歩き出す。ちゃんと掴まらないボロウェを気づかって、アネスは慎重に馬を操る。前から吹く風はふわりと後ろに流れていく。ボロウェはアネスの空気に包まれている様なこそばゆい気持ちになった。彼の戦士らしく広い背中に身を寄せたくなる。しかしそのような思いを心の中で叱りつけた。
(男で、異形の私に触れられても迷惑だろう)
 それにこれ以上帝国人に心を許したくない。
 人間にも数は少ないが有角人を尊重する者がいる。だがやはり人間にとって有角人は異質な存在だ。アネスも、カナーやバシェルアと自分、どちらが大事かと言われればカナーやバシェルアを取るだろう。ボロウェも同じで、アネスよりもエトラの仲間を取る。脈々とつながる同族の意識と、一時触れただけの優しさでは比べようがない。

「ボロウェ」
 ぼんやりしていたボロウェにアネスが声をかけた。
「もう少し強く掴まっていてくれないか。……俺に触るのが嫌なのは分かるが、それでは落ちそうで気が気でない」
 アネスは少し肩を落として言った。ボロウェはハッとして、ついアネスの服を掴んで否定した。
「嫌などではない! ―あ、……別に、好ましくもないが」
 こんな必死に否定したら、好意を抱いていると言ったようなものではないか。アネスは驚いて振り返った。
「今の言葉……」
「前を向いていろ!」
 ボロウェは赤くなった顔を隠す為に、グッとアネスを押して前を向かせようとする。

 そのとき、前から人を乗せた三頭の馬が走ってきた。馬上の男達は焦った風で、アネスに礼もとらず横を駆け抜けた。
 ボロウェがアネスを押したのと、鼻の先を馬が駆け抜けた揺れが重なり、ボロウェはバランスを崩し横に振り落とされそうになった。咄嗟にアネスの腰にしがみつき、アネスもがっしりとボロウェの腕を掴んだ。ボロウェは馬の背からほとんどずり落ちていた。地面に叩き付けられなかったことにほっとした。
「怪我はないか。今引き上げる」
 アネスはボロウェを自分の後ろにもう一度座らせるのには体勢が苦しかったので、前側に引き上げた。ボロウェはアネスの腕の間で横を向いて座らされた。
「い、一度、降ろせ!乗りにくい」
「大丈夫だ。本殿まであと少しだし、俺が支えるから」
 アネスは手綱を片手で持ちもう一方の手でボロウェの腰を抱いた。二人の体が密着して熱が伝わる。その暖かさに骨抜きになりそうだ。
「頼むから、離してくれ……」
 ボロウェはか細い声で懇願した。恥ずかしい。この男といると何故自分はこんなにも情けない姿をみせてしまうのだろう。
アネスはボロウェの言葉に一瞬躊躇してから尋ねた。
―ボロウェ、俺のことどう思っている」
 ボロウェはビクッとした。必死で返す言葉を探す。
 どう思っているか自分でもよく分からない。嫌いではなくなったことは確かだ。だが今、アネスを思って熱くなる気持ちはなんなのだろう。
 迷うボロウェより先にアネスが言った。
「俺はお前のことが、……好きだ」
 ボロウェは息を詰めてアネスを見た。アネスの眼差しには切なさがあった。
「お前のことが好きだが、お前が俺を嫌だというならもう関わらないようにする。だが俺のこと嫌いではないなら、側にいさせてくれないか」
 ボロウェの腰を抱く手の力が強まる。
「アネス……」
 そのときまた、馬蹄の音が鳴り響いた。

「ボロウェ!まだこんなところにいたのか。皇帝陛下のお呼びだ。来い!」
 先程彼らが通り過ぎた時はなかった馬車に、カナーが乗っていた。アネスの腕の中にいたボロウェの手を引いて馬車に乗せる。
「何があったのですか」
「皇帝の容態が悪化した。王子の私も呼び出されるような状態のようだな」
 相続者を呼ぶ―死がさし迫っているということか。

 
 皇帝の寝室には限られた臣と医者が集まっていた。中心の皇帝は血の気が失せ、切れ切れの呼吸を繰り返している。寿命だった。
 カナーが側に寄り彼の手を取る。
「陛下、カナーです。分かりますか」
 皇帝はヒュッと妙な呼吸音を鳴らすだけだ。
「お可哀想に。もう手の施しようがないのか」
 主治医が答える。ボロウェは皇帝を診る時はこの主治医の下で動いていた。
「残念ながら。最期の時に殿下に立ち会っていただけたことだけが幸いです。皇太子殿下はお戻りになれませんでしょうから」
 カナーに続いてボロウェも皇帝に近づき胸元を触った。
―いえ、まだ持ちこたえるかもしれません。筋力が若干残っている。薬を投与すれば答えるでしょう。皇太子が帰るまでの時間は……」
「必要ございません。陛下のご負担になります」
 主治医が鋭い声で言った。ボロウェは上官である主治医の言葉に疑問を持った。だが反論できる立場にないので、この場で最も影響力のあるカナーに指示を仰ごうとする。

 だが浴びせられたカナーの声は冷ややかだった。
「私も反対だな。数日寿命が延びるだけなのだろう。その為にこれ以上陛下が苦しめるわけにはいかない」
 周りの朝臣は揃ってカナーの言を支持した。呆然とするボロウェに主治医が耳打ちする。
「皇太子がいない今なら、誰の文句もなく第二王子殿下が皇帝陛下の座を継げる。お前も殿下に気に入られているんだ。話を合わせた方が得だぞ」
「ですが命を……」
「有角の仲間の待遇にも関わるぞ」
 ボロウェは言葉を飲んだ。
 カナーは異民族にも大らかだ。彼が帝国を継いでくれれば有角人の風当たりもよくなるかもしれない。だがここで自分が機嫌を損ねたらどうなるか。カナーの気に入らないものは何よりも皇帝の座を争う兄と兄を助ける者達だ。
 ボロウェは目の前の痩せ細った老人―皇帝を見た。延ばしてもたった数日の命。この男の最期に息子に会わせてやる為などに、有角の次代を危険に晒すわけにはいかない。医者としての拳が震えながらもボロウェは黙り込んだ。
 周りは白い目でボロウェを見ていたが、彼が黙るとまた皇帝に哀しみの言葉をかけている。
 薄ら寒い。
 これが、有角の村々を無情に踏みにじったトネロワスン帝国の長の死か。皇帝の死を嘆く者はこの中に一人もいない。
 帝国では、誰の命にも価値はないのか。
 ボロウェは涙をこぼした。目の前の老人は憎き帝国の皇帝なのだが、憎しみ以上に、自分の患者の命があまりにも卑小なことへの哀しみが大きかった。

 一瞬、皇帝の口が開いた。
「誰か……泣いているのか……」
 医者は驚いた。まだ言葉を発する力があったのか。皇帝は首をそろそろと動かしボロウェの方を見た。
「明るい髪の色……太子かな。泣いてくれるのか……、嬉しい、ものだな……」
 ボロウェの方を向いたまま、皇帝は事切れた。

 朝臣達は動き始めた。前々から役割を決めていたらしく行動に迷いがない。
「皇帝陛下は亡くなられた。後継者にはカナー殿下を指名されたと市民に知らせよ」
「街道を封鎖し第一王子の兵の襲来に備えろ。相手も黙ってはおるまい」
 医者達は葬儀を行う典官に引き継ぎをしている。
 カナーとボロウェだけが動かなかった。
「……最期まで、兄しか目に入らぬか」
 カナーはそう呟くと握っていた手を捨てて、王宮内の掌握の為に部屋を後にした。



 本殿の一室で仕事をしていたアネスにも皇帝崩御の知らせが入った。
「ボロウェでも救えなかったか」
 彼は敵国の皇帝だからといって治療に手を抜く男じゃない。皇帝の死は逆らえない天命だったのだろうとアネスは思った。
 カナーからの伝言も預かる。軍の掌握を助けにいけということだった。剣を佩き部屋を出ようとする。
 だがアネスがノブに手をかける前に扉が開いた。
「バシェルア……」
―お前はもちろん皇太子殿下につくよな」


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