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 角と秘薬 2






 研究室には薬品の匂いがこもっている。ボロウェは窓を開けた。あまり大きく開かないようにされている窓だが、廊下側の扉も開ければ風は通る。日干ししていた薬草がカサカサ動いた。研究室をそのままにして、ボロウェは寝室に入り上着を脱ぐ。
「おやすみ」
エトラの村民がくれた、掌くらいの丸っこい人形に言った。様々な色の糸を使った手織りの布を、何枚か繋ぎ合わせ綿を入れたものだ。村では遠出をする者に魔除けになるよう持たせていた。ボロウェはいつも寝る前に、このコロコロとした人形を撫でて仲間のことを思い出した。これがあるから帝国の宮殿でも怯まずに生きていられる。
 まだ外は明るかったがベッドに寝た。この数日、毎日五十人以上の患者を診ていた。動いている時はがむしゃらで平気だが、研究室に帰ると瞼が重くて仕事にならない。
「あの男のせいだ……」
朧になっていく意識の中で、アネスの顔を思い出した。



 皇帝の前で戦の賞罰の会議が行われていた。議論の矛先は副官にして将軍のアネスである。敗戦の責任を取らせるか、あの状況で皇太子を逃がしたことを評価するか、意見は割れていた。数日前まで死罪にほとんど傾いていたが、皇太子が回復し事態は好転することとなる。アネスはまたボロウェに借りができた。
 身分を将軍から士に落とすことで落ち着こうとしたが、強硬に反対する者がいる。庶民出身でありながら将軍にまで駆け上ったアネスを妬んでいる者だ。皇帝は面白半分で彼らが主張した黥刑を採用した。高位の者には滅多になされない入れ墨を刻む刑だ。

 顔に包帯を巻いてボロウェの研究室の前に来た。扉が開け放されており、見渡したかぎりボロウェはいない。
「入っていいのだろうか」
 声をかけても返事が無い。見張りの兵士が言うには外出してはいないらしい。扉も開いていることだし入って探してみる。
 天井からは草花が吊るされ、棚には妖しげな色の液体が並んでいる。床にいくつも置かれている壷を避けながら、奥にある扉を開いた。暗い室内にベッドがあり、ボロウェが小柄な体を丸めて眠っていた。
「寝室か。こんなところに」
 窓はないが換気口だけある部屋なので、実験室を寝室に仕立てたのかもしれない。宮廷医師にしては粗末な私室だ。
 ベッドの横の机にお礼に持ってきた酒瓶と甘味を置いた。ふとボロウェの寝顔に目をやる。眠っていても眉間にしわがよっている。薄い上掛けごしに体の線が分かる。女子供のごとく、鹿のような手足と表現するのにふさわしい。
「一体いくつなんだろうか。有角人は皆小さいのか。そもそも魔族のように老いないということも。酒をもらって喜ぶかな。それより食事は人間と同じでいいのか」
 ブツブツと一人言する。ボロウェに興味はあるのだが、面と向かって話せないので疑問が溜まっている。
「む……」
 うるさかったのかボロウェがもぞもぞと動いた。上掛けを深くかぶって、二本の角だけがちょこんと覗いている風になった。可愛らしさに微笑むと、頬が痛んだ。
 アネスの左頬から額に掛けて、刻まれたばかりの入れ墨がある。
「おやすみ。俺はもう来ないが、バシェルアが礼に来たらよろしくな」
 そう囁いて部屋を後にしようとした。
「……アネス」
 驚いて振り向くと、ボロウェは変わらぬ格好で眠っていた。寝言だったらしい。
 眉間にはなお皺が寄っていて、アネスは落胆しつつも頬が少し火照った。





 七日後、第二王子カナーの軍が都に帰還した。前の戦で皇太子の軍に勝利した軍は追い打ちをかけようと軍を進めていた。それを撃退してきたのである。
 帝国民は胸を撫で下ろし、カナーを歓迎した。
 皇太子は怪我が治癒すると、すぐに都から遠く離れた砦の守将に任命された。次の皇帝の座から遠のいたと、誰もが噂した。

「納得いかない! カナー王子が敵を撃退したっていっても、元々帝国の力の方が上なのに、敵が欲を出して深入りして自滅したんじゃないか。それを殿下とカナー王子の能力の差のようにいいやがって」
 バシェルアは研究室にちょくちょく来るようになった。そして皇太子の擁護をする話をしていく。同僚の前だと相手がどちらの王子派かの探り合いになるため話しにくいらしい。ボロウェは興味が無い、というより、どちらの陣営でも同じだとおもっているので聞き流していた。
 だが一つ気になることがあった。
「……アネスは、皇太子についていったのか」
「いや、この都にいるぞ。何で?」
「顔を見なくなったし、お前もあいつの話をしなくなった……」
「アネスはカナー王子付きになったんだ。職場が違うと話す機会が減るから」
 ボロウェは首を傾げた。皇太子の副官をしていた者が何故。
「副官やら軍の編成は皇帝が中心に決めるから、総大将の寵臣だけの顔ぶれにはなってない。アネスは中立派で俺みたいな殿下への思い入れは前から無かったな。あいつは結構兵に人気があるから、カナー王子側はあっちに引き込もうと画策したらしい。アネスの減刑はカナー王子が言い出したそうだし。それには感謝しているが、あいつが敵側だと悲しいな」
 バシェルアはがくりと肩を落とした。
「減刑って……何」
「あ、いや、なんでもない! 休憩終わりだからいくわ。じゃ」
 バシェルアは急いで部屋を出ていった。
 どうしてアネスが刑をという思いで、ボロウェは不安になった。


 ボロウェは兵士の案内で宮殿の広大な敷地を歩いていた。本殿から三十分ほどいった場所にカナーの御殿があった。医療官にアネスが怪我をしていて自分が診ていると話すと、快くボロウェを送り出してくれた。医者がいなくて誘拐した日から一と月も経っていないのに、格段に待遇がよくなっている。
 ボロウェは誰が次の皇帝になるのか知らないが、カナーの機嫌は損ねないようにと心に刻んだ。

 アネスの職場に入ったが、アネスの部下と思われる人間に彼は出かけていると言われソファで待った。彼らは角をじろじろ見てきたが気にせぬ体でいた。
 扉の開く音に目をやると男が入ってきた。貴族らしい高級感溢れる服装で、颯爽とした立ち姿に甘い顔立ちをしていた。
「はじめまして、有角の医者だね。私はアネスの上司で、皇帝陛下の第二子カナーだ。アネスが世話になったようで礼を言うよ」
 ソファに座っているボロウェを見下ろしながらカナーは挨拶した。ボロウェは立ち上がって挨拶を返す。
「アネスが帰るまで暇だろう? そうだね、庭でも案内しよう。来なさい」
 カナーはさっさと歩きはじめた。ボロウェは仕方なく続く。
 人気のある王子だと聞いていたが、どこか刺々しい態度だ。ボロウェは皇太子とあまり会話はしなかったが、彼の無害な人柄に比べて、カナーは苦手の範疇に入る。

 カナーの後ろに従ってテラスから広い庭に出た。方形の池には四隅に彫刻が施され、緑の花壇は刺繍のように意図を持って刈られている。
 カナーは噴水を背にしてボロウェに向き直った。
「君は皇太子殿下を治した医者だったよね。兄を助けてくれてありがとう」
 カナーはにこやかに微笑んだが、ボロウェを見据える目は冷淡なままだ。
 第二王子は皇太子に助かってほしくなかったのか、と悟った。
 ボロウェは暗澹としながらも、腹を立てる。怪我人を前にしたら治して何が悪い。だが次期皇帝に最も近い男の不興を買っているのはまずい。体から血の気が引いていく。

 アネスはボロウェが自分を訪ねてきたと聞き、急いで庭に出て彼の姿を探す。ボロウェが会いにきてくれたことに胸を締め付けられるような感覚がある。
 ボロウェとカナーを見つけ声をかけた。二人共アネスを見る。
 カナーの後ろでこちらを見たボロウェが縋るような目をしていて、アネスは目を見張った。だが今度はボロウェがアネスの顔を見て驚いた。
「やあ、アネス。貴殿は彼に治療を受けているそうだね。知らなかったよ。傷とは入れ墨のことかな。大事はないかい」
 カナーはアネスの肩に手を置き、痛ましげに顔を見る。
「私の口添えでは極刑から免れさすことで精一杯で、本当にすまないことをした」
「いえ、今私の命があるのは殿下のおかげです」
 カナーはアネスの手を両手で包んで微笑んだ。
「そう言ってくれると嬉しい。それじゃあ、傷を大事にね」
 と言ってカナーは屋内に一足先に戻る。残されたボロウェは少しホッとした。


 アネスの私室に通される。
―その傷はどうした」
「敗戦の罰だ。貴方こそどうしてここに来た」
「傷の様子を確認しに」
 ボロウェはそれっきり黙った。アネスと会話するのをまだ嫌がっているように見えるのに、わざわざ診察に来る気がしれない。
 アネスは溜息をついて、傷の経過を見せるため服を脱ぎ肩を晒した。ボロウェの手がその肌を撫で、真剣な眼差しを傷に向けている。綺麗だな、とアネスはその表情にぼんやりと見とれていた。
 その時、ボロウェの視線が上がって目が合い、アネスの胸は高鳴った。
 左頬から額にかけての傷を見ようとしたボロウェも、アネスと目が合い混乱する。この男に被せていた非情な帝国兵の仮面が落ち、見たことのない優しい目でボロウェを見る。
「あちらを向いていろ」
「え、と、分かった」
 ボロウェはつい裏返った声でアネスの視線を遠ざけた。アネスも少し赤くなりながら左頬を見せて横を向く。

 顔の傷は消すことはできなそうだ。
「帝国は……異民族はおろか自国の兵までこんな扱いをするのか。愚劣な」
 アネスは何も言わなかった。ボロウェはその姿に苛立つ。
「お前は! お前ら帝国兵は皇帝の命令なら何されてもいいのか!」
「この程度、戦場で死んでいった者たちの無念に比べたらものの内にも入らない」
 アネスは沈痛な表情で言った。
「戦争を仕掛けているのは帝国の方ではないか。そんな奴らが死んでも同情できん」
「……彼らに戦わせて、死に追いやったのは俺のような将だ。俺は、彼らを悼まなければならない……」
「ならはじめから戦など行わなければいいのだ。勝って敵の首を大量に取った時は軍を称え、負けて自国の兵が死んだ時は泣き言か。馬鹿馬鹿しい! ―他人の生活を散々踏みにじっておいて」
 アネスは目を見開いてボロウェを見た。唇を噛み拳は震えている。
 ボロウェが帝国人―自分達を憎む気持ちが分かった気がする。
「すまない。それでも彼らは、大切な仲間だったんだ……」
 お互いが大切に思うものが対立していることによって、アネスとボロウェの間には埋まらない溝がある。


 アネスがボロウェを門まで送ると、カナーと出くわした。
「アネスの傷は?」
「痕は消えないでしょうが、もう心配ございません」
「そうか。君にそう言ってもらえれば安心だね。次はいつ診に来るの」
「いえ……、治療は終わりましたからもう参りません」
 アネスは切ない思いを顔に出さぬようグッと堪えた。
 今日自分のボロウェに対する思いを確信した。愛おしさを自覚する、と同時に彼の心は自分には傾かないことも承知してしまった。
 そこへカナーは思いもよらぬことを言った。
「では今度から私の担当医してくれ」
―殿下は、どこか具合が悪いのですか」
「健康体だが、大事な体だから定期的な診断を心掛けている。君ほど優秀な医者が付いていてくれたら心強い」
 ボロウェは逡巡した。帝国人には珍しく、カナーの言葉からは有角人への侮蔑は感じられない。だが皇太子の話で垣間見た冷たさがボロウェには恐かった。
 アネスはボロウェの戸惑いに気づいた。一瞬自分がいるこの御殿に来るのが嫌なのかと思ったが、先程の庭での縋るような目を思い出し、ボロウェがカナーを苦手としていることを推測した。
「殿下。彼は皇帝陛下に指示された研究を預かっているのです。あまりそのような時間は……」
「君のことは治療しにきたというのに。アネスは特別なの?」
「違います!」
 ボロウェはつい大声をあげた。
―すみません。……医療官と話を通していただければどなたでも診ます。担当医のことは彼らに相談してください」
「では近いうちに。アネス、本殿まで送ってやってもらえるか」
 ボロウェは断ろうとしたがカナーに押し通された。

 アネスの背に掴まって馬に乗り、本殿に帰る。緩やかな馬の足並みに揺れるボロウェの表情は暗い。
「嫌なら、どうにかする」
 アネスの言葉にボロウェは顔を上げる。
「理由は知らないが、殿下とあまり関わりたくないのだろう。皇帝陛下のための研究を優先したいと奏上すれば……」
「避けていても良いことはなく、後々厄介になる可能性の方が高い。だからいいのだ。―お前は、自分の主の望みを邪魔してどうする」
「主にも従うが、お前のことも大切だ」
 ボロウェはふいに黙った。アネスは不思議に思って後ろを振り返ろうとしたが、ボロウェは下を向いてその視線を避けた。また彼の心象に触ることをしたかと、アネスは落ち込む。

 お前のことも大切だ、と言われボロウェは泣きたくなった。情けない。エトラを離れてから誰も言ってくれなかった言葉をかけられて、胸が締め付けられた。
 ボロウェはアネスが仲間を大切にする姿を見てきている。そのボロウェが憎む帝国人らしからぬ姿をこれまで無視してきたが、自分があの優しさを少しでも向けられていることに切なさが込み上げてくる。
 都に来てから一年、こんなにも自分が弱って優しい言葉を渇望している。惨めさで振り向いたアネスの視線から逃げた。


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