目次へ



 黒躍る 2






 芳把は庭から夜の空を見上げた。今晩は荒木家に泊まっている。
 結局荒木は言を曲げず、芳把もそれをひっくり返そうとはしなかった。
「兄上……、俺は……」
 苦しげに顔を歪める。
「芳把様」
 振り向くと佐一郎が庭に降りてきていた。
「善十郎様のために、主を説得してください。お願いです」
「貴方が口出しすることではない」
「……。文はもう、主に渡しましたか」
「これか。あいつは受け取らなかったよ」
 善十郎の書を受け取り、もう一度見た。苦境にありながら、その筆は輝きを失っていない。佐一郎の胸は熱くなる。
 死なせたくない―。
「芳把様……、お願いします。今宵、どんなご奉仕でもいたします。ですから……」
 芳把の胸に顔をうずめた。体が震えていた。
「気持ちが伴わないまましても楽しくない」
 芳把は、佐一郎を突きはなす。
「すまない。少し好みだったから、手を出しただけなんだ。今は、そんな気分じゃない」

―……一度仕えた主に忠義を尽くさない。口説いた相手とその気もない。―本当に情けない方ですね」
「……一人にしてくれ」
「いいえ」
 怪訝な顔をした芳把を、キッと睨んだ。
「善十郎様は貴方を信頼して使者に選んだのです。その役目をあんないい加減な態度で失敗させるなど恥と思わないのですか」
「信頼されたわけじゃない。荒木殿と親しかったから、この国の兵を借りるのに都合が良かっただけだよ」
「信頼していない方に存亡のときを任せるわけありません!何故そう思うのです」
 芳把は答えなかったが、佐一郎は詰問をやめない。
「善十郎様を信頼していないのは芳把様なのではありませんか」
 芳把の顔が青くなった。
「芳把様……。先代と確執があったことは知っています。ですがいまは、善十郎様御自身が貴方を必要としていることだけをお考えください」
「違う……、善十郎は俺を必要としては……」
「何故そうお考えです」
「俺に善十郎方の後援になれといったのは、死に際にあった先代だ」
 佐一郎は驚いた。善十郎方を盛り立てている近臣が頼んだと思っていたのだ。
「兄弟全員を帆野家から追い出しておきながら……、自分の子が危うくなったら、手の平返してそんな命令を下してきたんだ。そして……俺と、俺と同じ思いをしてきた直己とを争わせようとする。善十郎が大切なばっかりに……。―許せない」
「善十郎様を、許せないのですか」
「……ああ」
「貴方を苦しめたのは先代でしょう。善十郎様は関係ない」
「あいつは兄上に可愛がられて何もせずに大名の座に居座ろうとしているんだ! 関係ないはずがない」
 芳把は声を荒げた。
「俺達は遠ざけたのに……! 兄上の長男ってだけで、兄上の後を継いで、そいつを兄上は必死で守ろうと! ―」
「芳把様……」
 佐一郎は芳把を落ち着かせるように、震える両の肩にそっと手を置いた。
「芳把様が辛そうにする原因は、先代への恨みや、ましてや善十郎様でもないのではありませんか。ご自分が、“兄上”に顧みられなかったことばかりおっしゃっています。―先代に、貴方が、大切に想われたかったのでしょう」

 長い沈黙があった。芳把はやっと、重い口を開いた。
「兄上に想われたかった……。善十郎が憎くて、羨ましくて、……兄上に善十郎のことを託され、いまさらと……でも兄上の言葉を断りたくない。だけど引き受けたすぐ後、兄上は、俺を一人残して死んで……!」
 芳把は感情をこらえきれず、佐一郎の体をきつく抱いた。痛みが走ったが、佐一郎は、肩が雫に濡れるのを感じて、優しく抱き返した。
「佐一郎殿……!」
「芳把様……。……善十郎様を恨まないでください。貴方の愛した人が、大切に想っていた人を憎むのは悲しい。憎む心を捨ててください。私が―、貴方を大切に想います。お兄様のかわりにもならないかもしれませんが」
―それでも芳把様を想いたい)
 自分にすがりついてくる男に、佐一郎の胸は熱くなった。


---


「佐一郎。起きろ、戦支度だ。おい」
 朝飯の匂いがする。寝起きのいい佐一郎を、珍しく父が起こしにきた。昨夜は芳把の気の済むまで傍にいた。家に帰ったのは深夜だった。
「ん……、父上っ、すみません。え、戦……?」
「ああ、帆野領内に兵を出す。といっても跡目争いの増援だがな」
「善十郎様にお味方するのですね!」
「おや、善十郎方につくこと知っていたのか」
 佐一郎は微笑んだ。そして気を引き締め、弓の用意をする。
(芳把様は荒木様を説得して、派兵を決めてくださった。今度は私が善十郎様のために、できることをしなくては)


 荒木が指揮を務めた救援軍は、五日で帆野城下の目前に到着した。芳把は一人先に馬を走らせ、城に入り善十郎軍に事の次第を伝えているはずだ。
 山城の下で直己軍が攻めあぐねていた。救援軍の到着を聞いて、陣を構え直している。
 救援軍はすぐさま攻めかかった。数は互角。直己軍も臆しはしなかった。
―だがあらぬ方向から喊声があがり、直己軍は動揺した。構え直した陣の真横から奇襲隊が突如出撃してきたのだ。
 実は態度を決めかねていた芳把の兵は、城とは別の場所に籠っていた。直己軍の別働隊が囲み寝返りを促していたのだが、善十郎に加担することを決めた主が戻り、薄い囲みを突破して主戦場へ現れた。数こそ少ないが、急な対応を迫られて思うように動けない敵を次々薙ぎ倒す。
 そこへ城からも兵が飛び出す。直己軍は三方から攻められ、潰乱した。


「大将はどこだ!」
 芳把の軍は敵本陣に乗り込んでいた。さすがに頑強な抵抗にあう。それでも芳把自身も刀を振るい、肉薄した。
「ぐっ!」
 後ろについていた味方が倒れた。芳把は急いで構え直し、兵を斬った敵を見る。
「直己―!」
「……芳把か」
 直己は意外と落ち着いた声をしていた。体中に血を浴び、勇壮な武者姿は地獄の鬼のように変貌している。
「お前と一騎打ちか。それもいい」
 味方は芳把の危機に気づく余裕がない。それは直己方も同じだった。
「直己……、俺をここで殺しても形勢に変わりない。―逃げろ。遠国へ去るんだ! そうすれば善十郎達に追及させない」
「断る。俺は命を賭してここにいるのだ」
「お前のことも大事なんだ。斬りたくはない!」
「周りを見ろ。すでにお前の気持ちがどうのの状況ではない」
「まだ間に合う。兄上だって、お前も俺も同じように想っているはずだ。どちらに死なれても嬉しいはずがない」
「違うな。―兄が家を継いだ時、俺は国外へ逃げるしかなかった。お前は領内で僧になってのうのうと過ごし、兄上の死に際、長男の後ろ盾として選ばれ、還俗を許された。同じではない……―!」
 直己は目を怒らせ刀を振り上げた。
「直己!」
「お前も兄の亡霊だ! 消えてなくなれ!!」


---


 勝利を告げる鉦が鳴る。敵大将の首を誰かが獲ったのだろう。直己方の兵は四散していった。善十郎方の兵には追撃無用と下知される。
 荒木は自国の兵を収拾してから、善十郎の城に入った。
 佐一郎も従う。城内で芳把を探してきょろきょろしていると、後ろから声がかかった。
「佐一郎殿! 生きていたか。怪我はないか」
「芳把様の方が怪我をなさっているではないですか!」
 腹に大きく包帯が巻かれている。
「気にするな。大したことない。直己が……最後に意地を見せただけだ」
「芳―」
「善十郎が礼を言いたいそうだ。一段落したら荒木殿を広間に呼ぶ。共にそなたも来るといい」
―はい」
 兄弟のことは今は話したくなさそうだ。佐一郎はそれ以上言わなかった。


 その日一日、城を守った兵達は帆野家の犒軍を受けた。荒木と佐一郎と他の武将達は直接善十郎から犒いを受ける。通された広間で、荒木は客の席に座った。
(善十郎様は、主人の席にいるはずだが)
 佐一郎は末席からそわそわとその姿を探す。そして、広間に正式に大名となった善十郎の声が響いた。
「このたびはお助けいただきふかく感謝いたします」
「…………?」
 妙に声が高い。そして舌足らずだ。
 佐一郎はよく上座の方を見てみた。
「みなさまのおかげで帆野は平穏をとりもどせそうです。後日お礼にはまいりますが、今日はこの城でもてなさせていただきます。楽しんでください」
 がたいのいい武将の中に、ちょこんと座った、身なりいい子供が言った。

「佐一郎殿。箸が進まぬか」
 芳把が、宴席でぼーっとしている佐一郎に声をかけた。
「あの子が、善十郎様なのですか」
「ああ。先代の長男がまだ八つだったから、直己も悪心を起こしたんだろうな。さっきの口上も教えたとおり言えて、周りの奴らほっとしていたよ」
 善十郎は近臣に手を繋がれ、挨拶して回っていた。
「あ、あの文は代筆ですか」
「おう」
「一体誰が」
「芳把殿ですよね。主と行った連歌の会でご一緒したとき、あの妙筆を拝見し感嘆したものです」
 隣に座っていた加瀬が話に入ってきた。
「まあな。なにしろ善十郎は自分の名前もまだ下手だから、それで家中で一番達筆な俺が代わりに書いてやったんだ」
 芳把は自慢げに笑った。佐一郎はそれを見てカチンとくる。
「それなら主に一々手紙を渡さず、芳把様の口で言えばよかったではありませんか!」
「俺の口に任せたら勝手なこというんじゃないかって、近臣達に睨まれていたんだよ。だけど荒木殿と懇意なのは捨てがたい。で、俺が書いた文を近臣が確認して、善十郎に判だけ最後に押させるという風になったわけ」
「芳把殿の信用がないのが悪いのでしょう。初めて来たときは主に顔を見せず、名前も名乗らないで消えた方ですし。次に名前を聞いたときも“芳把”とだけ名乗って、“帆野芳把”とは教えてくださいませんでした」
「間が抜けているじゃないか、“ほのほうは”って響き。教えたくなくて」
「“ほうは”だけでも十分間が抜けています」
「う」

 芳把はがっくりと肩を落とした。加瀬が佐一郎を肘で突く。佐一郎は頭が冷め、言い過ぎたと謝ろうとしたとき、
「叔父上!」
 小さな体の善十郎が、項垂れたままの芳把に抱きついてきた。
「何だよ。皆にお礼は終わったのか」
 芳把は善十郎の頭をわしわしと撫でた。善十郎はくすぐったそうにしながら言う。
「あとは夏波佐一郎殿だけです。夏波殿、ありがとうございました」
「私などにわざわざ礼をしにこなくとも……」
「いいえ、『夏波殿に怒られたから、善十郎に少しだけ優しくしてやる』と叔父上に言われたのです。叔父上に抱きついても投げとばされないようになったから、夏波殿にどうしてもお礼したかったのです」
「こんな小さな子を投げ飛ばすなんて、どれだけ冷たく当たっていたのですか」
「あ、荒木殿! 飲もう。一緒に飲もう」
 宴席の奥の方にいる荒木に声をかけ、逃げるように去っていった。
「芳把様、腹の傷に触らないようにしてくださいね! ……まったく、書の才がなければ、どうしようもない方だ」
「夏波殿、叔父上は書がうまいのですか」
「はい、とても」
 佐一郎を見上げながら聞いてくる善十郎に答えた。
「とても素敵な字を書かれて……、私の憧れの方です」
 善十郎は叔父を褒められて嬉しそうに笑った。
 佐一郎もつられて微笑んだ。


 芳把は荒木の隣に座りながら、佐一郎と善十郎の仲良さげな様を羨ましそうに眺めていた。
「荒木殿は有能な臣に恵まれて、羨ましい限りだ」
「芳把殿を手に入れた、帆野の当主の徳には敵わん。いや、当主の方が貴方の手の内なのかな」
「ふ、率直に言わせてもらう。荒木殿の下に、是非欲しいと思う人材がいるんだ」
「はは、そう言われても大事な部下だからなあ」
「もちろん礼はする。先日、異国の商いが色々持ってきてな」
「ほう」
目を光らせた荒木に、芳把はにこりと笑った。

〈終〉