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 黒躍る 1






 夏の陽が照りつける真昼、濃紺の着物の見知らぬ男が、城下町で黒毛の馬を歩かせていた。
 そして町の北、権門荒木家の館の前で立ち止まる。入口にいた家人に声をかける。
「この家の主人へ手紙を預かっているんだが。重要な物なので、誰か偉い御人に取り次いでくれ」
 三十歳くらいだろうか。飄々とした態度だが、きっちりとした着物は身分の低い者ではないと思い、使用人は中に人を呼びにいった。
 出てきたのは二十歳になったかも覚束ない男だった。若者らしい高めの身長で、しっかりと伸びた背筋が好印象だ。
「夏波佐一郎と申します」
 荒木の家臣で、他の側近が留守だったので、まだ若い彼が出てきた。
 客はにっこりと笑い、佐一郎に、縦にいくつか折られた手紙を渡した。佐一郎は受け取って、表に書いてあった差出人の名前を確認した。
『帆野善十郎』
 佐一郎の胸は高鳴った。上質の清く白い紙の上を、雄豪とはしる墨の黒。まるで竜が飛び交うようだ。
(なんと、力ある筆だろう。)
 佐一郎はこの名を知らない。だが一目で、手紙の主に会いたくなった。
「あっ」
 手紙に見蕩れているうちに、客は忽然と消えていた。とっさに道に出て、辺りを見回したが男の姿はなかった。
(帆野善十郎様……。どんな方だろう。帆野という名は少し聞き覚えがあるが)
 荒木の主人は城に出仕していた。佐一郎は文を懐に大事にしまいながら、勝手に開けて中の字も見てしまいたい、という想いと葛藤しながら帰りを待った。


 主人に手紙を渡せたのは夜中になった。この国の大名は幼く、実質政治を切り盛りしているのは荒木家だ。直接渡す時間があっただけで運が良かった。
 彼は異国眼鏡をかけて、手紙を開く。佐一郎は正面に座してその様子を見ていた。墨が紙の裏にほんの少し透けているが、形はわからない。蝋燭の灯りで、主人の顔のしわの影が揺らめく。
「ふむ……。加瀬を呼んでこい。佐一郎は下がってよい」
 結局文を見られず、佐一郎はがっかりした。
「そうだ。文を届けた使者、どのような者だった」
「貴人のように見えましたが名乗らなかったので……。歳は三十の前後で、愛想の良い方でした。背は私と同じくらいか、少し高かったと思います」
「やはり彼奴かな……。いや、わかった。ご苦労」
 佐一郎は一礼して部屋を出た。


 荒木家の門を出ると、同じく主人に仕えている父に遭遇した。彼も仕事が遅くなったらしく、共に夜道を歩いた。
「父上、帆野善十郎様を知っていますか」
「帆野家は、最近たまに話題にのぼるな。この国に東隣する国の領主で、お家騒動で酷い状態になっているらしい」
「善十郎様はその家の方なのですか」
「先代が亡くなって、跡継ぎと主張する者が二人いるらしい。それで家が真っ二つに分裂しているんだが、その一方の頭が確かそんな名前だったような……」
(お家騒動のごたごた……、それにしては悠然と構えた筆使いだったな)
 別国の大名が、この国の権門に何の用だろう。


---


 風が涼しくなり、秋が訪れる。
 帆野家の跡継ぎ争いは激しさを増しているようで、人死にの話も聞く。佐一郎は噂が耳に入るたび、善十郎の身を案じた。
 あの後、佐一郎が見る限り、荒木家と帆野家は接触していない。
(手紙の内容が、協力の要請だったとしたら、主は断ってしまったのだろうか)
 心が暗くなるのを禁じ得ない。


 佐一郎が馬の調練で郊外に行き、町に帰ってきた時だった。
「佐一郎殿じゃないか」
 ぽんと肩を叩かれた。振り返ろうとする前に、相手がぐいっと顔を覗き込んできた。
「帆野様の……!」
「夏に会って以来だな」
 二た月ぶりだ。手紙の使者は、今回は少し緑のかかった墨色の袴を着ている。初めて会ったときと変わらず、朗らかに笑っていた。
(善十郎様の陣営は、意外と明るいのかな)
 佐一郎はほっとした。
「また主を訪ねてきたのですか」
「ああ。今日は直接会いたいのだが、都合はどうだ」
「わかりません。荒木家に戻って、加瀬様にお聞きしてみます」
「そうか。ならば共に参ろう、佐一郎殿」
 そう言うと、佐一郎の肩を組み、道の真ん中を歩き出した。佐一郎は恥ずかしく、照れ笑いしながらその腕から逃れた。
(人懐こい方だ。会って二度目なのに、下の名前で呼んでくるし。直してもらった方がいいのかな。呼ばれるのは嫌じゃないけど)


 加瀬は荒木の一番の近臣で、おそらくあの手紙を読んだはずだ。訪ねてきた男の顔を見て、驚いた様子だ。
「……! ようこそいらっしゃいました。いま主をお呼びいたすが、時間がかかるかもしれません。申し訳ないが客間でお待ちください。佐一郎、案内を」
「前触れもなく来てすみませんねえ。ゆっくりで構いませんよ。あ、ただ待つのも暇なんで、話し相手に、佐一郎殿、彼を借りてもいいですか」
「はあ。……佐一郎、今日は休暇だったはずだが、良いか」
「え、はい。大丈夫です」
「そうか! よし、案内してくれ」
 何故自分を、と佐一郎は少し戸惑ったが、男が嬉しそうな顔をするので、(まあいいか)と付き合った。


 庭に楓の見える部屋に案内した。まだ色づいてはいない。
「お名前を伺ってもよろしいですか」
「ああ、言ってなかったか。芳把(ほうは)だ。芳顔の芳に把握の把」
「御僧侶であらせられますか」
「いや、一年前まで帆野領内の寺にいたが、還俗したんだ。僧名のまま。帆野家が先代の死の枕の横で、面白い権力争いを繰り広げているじゃないか。そのうち善十郎方につくよう乞われて、今に至る」
 芳把は楽しそうに笑った。
「芳把様……」
 佐一郎は眉をひそめた。
(貴方の主はその争いに負ければ、殺されるのは確実だろうに。こんな方が善十郎様の下についているのか……)
「別に隣国のことなのだから、気にすることあるまい。佐一郎殿は生真面目だな。俺の周りの同僚達にそっくりだ」
「芳把様お一人が、不真面目なのでは」
 つい嫌みを言った。だが、芳把は大笑する。
「その通りだ。なにしろ善十郎へ忠心なんてこれっぽちもない」
 そう言い、出された茶を飲んでいる。佐一郎は呆れはてた。

 そのとき、肩を揺らした芳把の襟の合わせ目に、白い紙が見えた。佐一郎はどきりとした。
(また善十郎様の文を持っていらしたのか)
 自分は読むことはないと知りながら、ついちらちらと見てしまう。調練していた馬のことなど雑談していたが、芳把の目を見て話そうとしても、ふと胸元に視線がいく。芳把も佐一郎の様子に気づいた。
「佐一郎殿」
「……え? はい」
「つれない人だと思っていたのに……、嬉しいな、その熱い眼差し」
「は?」
 芳把は、優しく佐一郎の腰を抱き寄せ、その顎を柔らかく掴み、自分の方に向かせた。
「貴方を一目会った時から気に入っていたが、今日、二た目に会って恋をしてしまったようだ」
「いえ、あの」
 やんわりと離れようとするが、動きを見通しているかのように手が追ってくる。体格の差はそれほどないのに、甘い微笑みを浮かべた芳把の腕から逃れられない。
「恥ずかしがるな、お互い想い合っているんだから。ね、私がここにいるうちに契りを交わそう」
 ぐいと唇を寄せられる。

「いやいやいや、誤解です! 私はただ貴方の懐の手紙を見ていただけで―」
「……手紙? ……ああ、これ。なんだ」
 芳把の腕の力が抜けた。佐一郎はさっと彼から離れる。
「見たいなら勝手に見ていいよ。はい」
 すっかり不機嫌になり、そっぽを向きながら手紙を佐一郎の方に放った。
「いいんですか。重要な手紙なのでは」
「どうせ、『敵方に城を囲まれた。すぐにでも救援をお願いしたい』って書かれているだけだ」
「そんな」
 佐一郎は思わず手紙を引っ掴んで読んだ。芳把の言った通りのことが書かれてある。
「平気平気。言っただろ、『ゆっくりで構いません』ってね。善十郎は先代に堅牢な城をもらっているんだ。敵の帆野直己方じゃすぐに落とせないだろ」
「もう少し心配なさったらどうです! 貴方の主でしょう」
「違うな。俺は客分。あいつの下についている気はさらさらない」
 佐一郎はカッとなって手を振り挙げた。だが芳把に受けとめられる。冷たい目で佐一郎を見た。
「何故そう善十郎を気にするかは知らないが、人には事情というものがある。俺は善十郎に敵する気はないが、味方する気もない」
 すうっと戸が開いた。
―叔父のお前がそれなのに、荒木家が骨を折る道理はなさそうだな」
「! 荒木殿……」
「旦那様。え、叔父」
「佐一郎、下がっていなさい」
 荒木の後ろに控えていた加瀬が、一緒に来るよう促す。戸惑いながらも、佐一郎は部屋を出ていった。

「救援には、来ないのか」
「前の手紙をもらってから、半々の気持ちだったのだがな。今の言葉を聞いたら、行きたくなくなった」
「意地が悪い……」
「根性の曲がったお前に言われたくはないさ」
 にんまりと笑う荒木に、芳把は溜息をついた。


「佐一郎、顔が青いぞ」
「加瀬様……帆野の跡目争いに荒木は関わらないのですか」
 加瀬は黙った。
 人払いをした部屋に通される。
「主は、先程まで兵を送るつもりだったのだが」
「では芳把様のせいで……。―あの方は何者なのですか」
「帆野の先代の弟で、善十郎殿の叔父だ。ついでにいうと善十郎殿の敵方、直己殿も先代の弟で、彼とは兄弟になる」
「芳把様も直己殿も、善十郎様の叔父なのですね」
「ああ。帆野家は先代も跡継ぎ問題で苦労してな。兄弟で殺し合い、世嗣の座を勝ち取った先代と、出家して難を逃れた芳把殿、他国に逃げた直己殿だけが生き残った。生き残った二人も先代に恨みを持っていたと聞いた。それで先代の死にあたって、直己殿は国元に帰り善十郎殿に敵対したのだろう」
「芳把様は恨みを持って、善十郎様の下に」
「どうだろう。主は個人的なご友人の芳把殿を『根性曲がり』と呼んでいるが、そのようなことするほど腹黒いお人ではないと思うのだが」
 佐一郎は芳把の冷たい目を思い出した。
(現に彼のせいで旦那様の不興を買って、城を囲まれた善十郎様は……)


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