目次へ



 7. 魔獣の戦士






 ―オーラリオに向かう、アージュとフィルドの目的を知りたい。

 リューの質問に、フィルドは黙った。
「あの、駄目なら」
「ああ、いえ。意外だっただけです。陛下と私の目的ねえ。それを訊いてどうしようと?」
「アージュ様にとって大切な意味があるようだったから。ただ、知りたいだけです。……アージュ様のこと」
「…………」
 何か考えているのか、答えに少し間があった。
「ガグルエ王のお考えを引き出すのに、薬草と引き換えというのも……」
「あの! 教えてくれるなら何でもします!」
「うんうん、良い返事です。では……」
 フィルドはリューに一つ頼み事をした。リューは真剣に耳を傾ける。

 聞き終わって、リューは首を傾げた。
「それは一体……?」
「陛下にとって悪いことではないから大丈夫ですよ。陛下が戻ったら、お願いしますね」
「はい!」
 よく分からないが、アージュが信頼しているフィルドの言うことなら大丈夫だろう。

 フィルドが立て掛けてあった床几を使うよう勧めてくれる。いよいよ話してくれるようだ。リューは床几を開き、膝を揃えて座った。

「オーラリオという国について、どのくらい知っていますか」
 簡易机の上に丸まっていた地図を、フィルドが広げた。
 リューは地図を覗きこむ。地名を読めないでいるとフィルドが指を立て、越えてきたばかりのオールディーク山脈の場所をなぞって教えてくれた。
「真珠や毛皮が獲れる国だと聞きました。学んだことがないので、あまり知らないんです。隣の国なので、少しは噂を耳にするのですが」
「真珠……、そう。この国の南東の端に、入り江があるんですよ。昔はとても澄んでいて、魚人族しか知らない、神秘的な場所だった」
「昔……?」
「オーラリオの王軍が、その入り江を制圧し、抵抗する者たちを皆殺しにした……、その日まで……」
(皆殺し―)
 リューは息を飲んだ。
「君は陛下のことを知りたいのでしたね。申し訳ないですが、陛下自身はオーラリオに興味ありませんよ」
 机に置いたフィルドの手が、拳を握った。
「オーラリオを目指したのは私です。そして陛下は、私の悲願に付き合ってくれると約束した」


---


 種族の統一されていないガグルエは、故郷を失った魚人のフィルドにとって、入り込みやすい国だった。
 青春時代の全てを、オーラリオとの戦闘に費やしたフィルドは、すぐに兵として頭角を現した。大国ガグルエの軍でそれなりの働きをしていれば、金には困らない。ガグルエに根を下ろすのは、存外簡単だった。
「また砂嵐か」
 荒々しい自然。フィルドの故郷とは似ても似つかない国。
 無機質なこの国の風がどれほど荒々しく吹いても、フィルドの心は波立たなかった。

「……アッ……ぐ……」
 眠るたびに響く波音。
 気持ちはいまだ、あの入り江にある。
 夜を迎えるたびに、澄んだ青が赤く染まった。

 そんな日々の中、フィルドはある男に気を留めるようになった。
 魔力、剣技、指揮、全てにおいて他を圧倒する力を持つ。
 それなのに皆、その男を遠巻きにして近づかない。
 ―魔獣族の戦士アージュは、いつも一人でいた。



「助かったよ……」
 敵に囲まれたところを、アージュが駆けつけてくれた。アージュは敵兵を蹴散らし、礼を言うフィルドを一瞥する。
「……ッ」
 その目に、フィルドは全身が竦んだ。四つ目の容姿のせいだけではない。魔力をほとんど使えないフィルドは、魔力を感知したことはなかった。そのフィルドの体が、本能的に怯えを感じているのだ。
 アージュはフィルドの反応に気づいたか気づいていないのか。すぐに他の首を探して駆けていった。
「あれが、魔獣の王子……」
 一騎だけだというのに、彼の行く手は、まるで大軍の鋒矢に突かれたように、血に染まり、散り散りになっていく。
 フィルドは呆然とその姿を見送った。





 魔獣族は容姿、魔力の差が大きい。
 その中でも、アージュは魔の力を濃く宿して生まれてきたそうだ。
 おぞましい姿に、先代は失望したが、その膨大な魔力は惜しく、戦士として育てられた。
 一歩間違えれば暴走する魔力で、側にいた者を幾人も黄泉へ送った。魔力を自力で掌握できるようになってからも、アージュはいつも一人でいた。
 戦地から戦地を渡り歩き、王都には近づかない。王族という地位からは、転落したも同然だった。



「くっ。無茶な指揮して……」
 フィルドのいる隊は突出し、敵陣の真っただ中だった。
 幸い、アージュが近くにいる。彼の側を離れないよう立ち回れば、死ぬことはないだろう。
「今回の私たちの大将、君の兄なのだろう。随分とお粗末な指揮だな」
 剣を構え敵を警戒しながら、アージュに話しかけた。
「兄と言われても、話したこともない」
「君が指揮をした方が良さそうに感じるが」
 助けられて以来、時折、フィルドはアージュに話しかけている。歓迎はされないが、邪険にもされない。アージュに足手纏いとは思われていないのだろう。

 指揮能力について、アージュは高い能力を持っているように感じる。
 アージュは中央の権力闘争から除外されている観があり、軍団の大将になることは少ない。一兵士や小さな隊の長として、戦場を自由に走り回っていることが多い。
 しかし、辺境や危険地帯に行けば、末端とはいえ王子より高い格を持つ者はいなくなる。結果として、アージュは何度か大将を務めることになった。
 彼は連戦負けなしだった。

「今回だって、適切に動けばこんな劣勢……」
「口を動かす余裕はあるようだが。いつものように良い首を探しにいってはどうだ。そこにも転がっている」
「君が倒した敵を、首だけ獲る気はしない」
「それは悪かったな。だが私は手を止める気はない。お前の戦功はお前自身で確保しろ」
「分かっているよ」
 そう言いつつ、フィルドはアージュから離れない。この敵の猛攻に気圧されない者など、アージュくらいだ。もう少し敵が弱るのを待たなくては。

 王族のことや、出世のこととなると、話題を逸らされている気がする。
 アージュからは地位への執着をまるで感じない。手を伸ばせば、掴むだけの能力はありそうなのに。
「君は……王になりたくはないのか」
「なっても誰もついてこないだろう」
 アージュは自嘲するでもなく、淡々と言った。
(そうだろうか)
 今、フィルドはアージュに背を預けている。
 揺るぎない信頼を寄せて。



 アージュを知れば知るほど、その才覚の底知れなさに、フィルドは唸った。
 しかも、普段の能力に比べ、軍が危機に直面した時の能力が桁外れに高い。普段は手を抜いていることが見てとれる。
 ―あれほどの猛者がいれば、我々の一族は……。
 涼しい顔をしたアージュを見るたび、フィルドは苛立ちを感じるようになった。

(……違う)
 フィルドは気づいた。
(涼しい顔なんて……、他者を放っておいてなどいない)
 アージュは、自由に行動しているように見えて、危機に陥った隊にばかり向かっている。そこに名高い首がいようといまいと関係ない。
 そこにはいつも、味方が助けたいと思うような男がいた。能力のある者、懸命な者―誰かのために戦う者。
 ただただ救い、颯爽と去る。
 圧倒的な力を持つとはいえ、怪我をしないわけではない。疲れないはずはない。それでもアージュは、淡々と戦場を駆け、敵を屠っていった。

 ガグルエ以上の国力を持つ国を知らない。
 ―それ以上に……。
 アージュ以上に王にふさわしい男を知らない。


 そんな男が―。


 劣勢の戦場。
 今まさに剣戟の音が響いているというのに、アージュは味方と距離を取り、作戦地点を離れようとしていた。

「どこに行く」
 フィルドが咎めると、アージュは仕方ないといった表情で答える。
「王が病に倒れた」
「何だと……」
「まだ箝口令が敷かれているが、王宮にいる人が情報を流してくれた」
「味方がいるのか」
「一度助けたことがあるだけだ」
 それが誰だかは、アージュは口にしない。アージュの味方をしたことが、他の者に知れると、今後その人が不利になるからだろう。
「王子の一人が、私を捕縛するための軍を差し向けてきた」
 王子……つまり兄か。
「従順にしていたつもりだが、それでも生きることを許さないらしい」
 アージュは淡々と伝えた。
(馬鹿な……。ガグルエ軍の宝だぞ……)
 アージュが時折する”手抜き”は、兄王子のくだらない嫉妬を躱すために、気を使った結果だ。その嫉妬を抑え、アージュに思う存分戦功を上げさせていれば、どれだけガグルエの領土拡大に役立ったか。
 そして、兄王子はいまだ不満があり、アージュを排除しようというのか。
「王子の軍がこの戦場に乱入してきては厄介だ」
 この軍は、王子の軍と敵国の軍、両方と対することになる。
「私が他国に逃げることを示すため、街道方面の敵を派手に蹴散らす。その後軍を抜け西に向かう」
「どうしてあんたが逃げなくてはいけないんだ」
「別に……、王になりたい者がなればいい。敵を差し向けられてまで、この国に残る理由はない」
「理由……」
「……じゃあな」
 アージュは背を向けて、街道方面に向かおうとした。

(……静かに消えることもできるだろうに……)
 派手に暴れて、この軍にアージュがいなくなったことを示そうとしている。
 この軍が兄王子の軍に襲われないように。
 こんな時まで、他者のことを考えている。

「なあ……」
 どうしたらこの男を引き留められるだろう。生まれた国にも、王の座にも興味を持たないこの男を。
「その力、必要としている者がいたらどうだ」
 フィルドの呟きに、アージュは足を止めた。ただ、こちらに振り向こうとはしない。
「私がお前に協力する義理は……」
「賭けをしよう。どちらが先に敵総大将の首を落とせるか。それに勝った者は、相手にどんなことでも要求できる」
「それに私が負けるとでも?」
「あんたの力を手に入れるためには、奇跡を起こすしかない」
 アージュは敵の布陣を見渡す。総大将の旗は、奥の方。
「……それで気が済むならな」
 アージュならともかく、他の者が単騎で飛び出して討てるわけがない。途中で歩を止めると思ったのだろう。
 フィルドもそう思っている。
 けれど、
(一度は死んだ身だ)
 あの波の音を振り払うこともできず、ただ生きながらえていることに、フィルド自身も疲れ果てていたのかもしれない。

 フィルドはまっすぐに総大将を目指した。
 アージュと違い、フィルドには途中の敵全てを倒す力はない。敵の間を縫って、気づかれないように、追われないように、けれど全速力で進む。
 アージュはすぐ後ろをついてきていた。フィルドを観察するように、少し遅れて。けれどフィルドが孤立しないよう距離が開かないように保って。
「……どこまで行く気だ……!」
 アージュの声が少し遠くなった。この人数だと、さすがに思うようには進めないらしい。
 幾筋もの剣が、槍がフィルドを襲う。フィルドは猛者ではあるが、アージュのような圧倒的な力はない。どれだけ返り討ちにしても、前を塞ぐ敵兵。
 真っ赤に染まる視界。
(ああ……)
 赤い世界が消え、青に染まっていく。あの入り江の美しき……。
「馬鹿野郎……!」
 アージュの怒鳴り声と共に、フィルドの体は浮き上がった。
 そこに多数の剣が、ガシャンと、音を立ててぶつかった。
「……っ」
 避けていなければ、八方から刺されていた。アージュに引き寄せられていなければ。
(号令とかの大声ではなく、感情的に怒鳴るの、初めて聞いた……)

 フィルドは周りを見て、気がついた。
 目の前には、敵軍のひと際大きい青い旗が風に翻っている。
 少し視線をずらせば、総大将は目の前だった。
「こんな……」
 自分がこんなところまで来たのか。自分で賭けを持ち出しておいて、信じられなかった。
(死ぬ気というのは、これほど……。いや、違う。心のどこかで、アージュが来てくれれば、無事辿りつくと信じていた)
 フィルドの無謀な突進を、アージュが”守るべきもの”と判断してくれれば。
(来てくれた)
 アージュはきっと、フィルドの賭けに興味を持ったのだ。
(あと、少し……)
 フィルドは傷ついた体を起こす。
「総大将の首は私のものだ」
 青い旗を見上げる視界が、やがて白く霞んでいく。足は重く、剣を杖にして進む。
「勝負……だ……。アージュ……」
 敵兵が正面から剣を振りかぶる。フィルドは剣を持ちなおそうとして、手が滑った。足も崩れ落ちる。
(迎え……撃たなくては……)
 その敵兵が目の前で胴を寸断される。血飛沫が、フィルドの視界を塞いだ。
「見捨てれば勝つ賭けなど……私の負けでいい。ここまで来た時点で、お前の勝ちだ」
 暗闇で聞こえた、戦場に似つかわしくない、穏やかな声。
 その真意を訊き返す間もなく、フィルドの意識は、暗闇の中に落ちていった。





 目覚めた時、敵国の軍も、兄王子の軍も蹴散らされた後だった。

 そして、軍病院のベッドに横たわるフィルドを、アージュが訪ねてきた。
「他国へ、行ったんじゃ……」
「お前の願いを聞く前に、ガグルエを離れるわけにはいかないだろう」
「私は、勝ったのか……?」
「ああ」
 敵国の総大将の首を上げたのは、フィルドということになっていた。フィルドは記憶を手繰り寄せようとするが、まだ頭がずきずきする。
(敵総大将に、会った覚えもないのだが、本当に?)
 頭を抱えるフィルドに構わず、アージュは訊く。
「それで? 私への要求は何だ」
 彼の赤い目に見つめられる。ぞくりとする暗い魔力の波動が、フィルドにあの日の絶望を思い起こさせた。
「私の悲願……。この大陸の東の端に置き忘れた、あの美しい故郷を取り返してくれ。ガグルエの力を手に入れて……」
「いいだろう」
 悪魔のような容姿でありながら、アージュは穏やかに笑った。





 即位式の日。新しき王の前に、臣下が一堂に集まる。

 まだ痛む全身。立っているのもやっとのフィルドの目の前で、アージュが玉座への階を上った。
 そしてフィルド一人の足では決して届かなかった場所へ―ガグルエは東への遠征を開始する。

 アージュを動かすために、失った体の機能。ボロボロになったフィルドの体は、以前のようには動かなくなった。
「……お前は頭がいいから、大丈夫だろう」
 アージュはぽんっとフィルドの頭を叩いた。
(陛下……)
 このころには、もう思い出していた。
 フィルドはあの日、敵国の総大将の前に辿りつく前に倒れたのだ。あそこにいた味方はアージュだけ。総大将を倒したとしたら、アージュしかいない。



 そして、フィルドが政治を学んでいる間、軍中にありながら、アージュはガグルエ国政も回してくれた。荒く対処療法的なところはあるが、アージュはそれを対応の素早さで補っていた。己の欲望に忠実な今までの王と比べると、アージュは私欲が無く、国政も優れている。最初はフィルドの方が彼のやり方を盗んでいた。

(……陛下、貴方にとって、王になることは、ただの重荷かもしれない。他国に行った方が、よほど自由に生きられた)
 罪悪感が、ちくりと心を刺す。
(けれど私は、貴方を主に戴けて……。ガグルエが好きになれそうです)
 ついていきたい。
 例え最初に方向を指し示したのがフィルドであったとしても。
 アージュが歩き出した道こそ、フィルドの行く道だ。


目次