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 黒い街 2






 カインは息を飲んだ。
 魔族。人間が絶望するしかないほど強大な力を持つ者。
 自分を助けてくれた、この美しい男性が?
(ああ、でも……)
 カインの胸を震わせる黒髪の美しさは、魔性のものであるといわれた方が納得できる。
(魔族とはこんなに美しいのか)
 今のカインは、獅子の前に放り出された兎よりも絶望的な状況にあるというのに、この男に見蕩れることができるのは、むしろ幸運な気がした。
「訊きたいことがある」
 黒髪は手を差し出した。その中には橙色の宝石がある。
「この玉を渡したのは誰だ。これはこの町に入るための鍵。人間が持っていていいものではない」
 ほとんど意識がなくこの町まで来たので、よく覚えてはいない。
「分かりません。雨で視界が酷くて。確か……稲妻が光ったとき、その人の目が赤く光った気がしました。……片目だけ」
「赤い片目……、レトラアノーか」
 黒髪は溜息をついた。
「相変わらず何がしたいのか分からない……」
 黒髪の呟きにカインは、あの人影のことを知っているのか、と口にしようとした。

「呼んだかい、バシュレザークフィアー」
「わ!」
 天井を飾る窓に人影が。カインは驚いて腰を抜かした。尻もちをついて、近くにあった、黒髪の男の足。その裾に震えながらつかまった。
 窓から、人影が下りてきた。飛び降りるのではなく、浮遊した羽がゆっくりと落ちてくるように。間近で見て、もう一度カインは驚いた。
 彼の顔は、右片方が無かった。右の頬から、目、額、頭とあるべきものがない。
 恐怖で黒髪の足にしがみついた。戦場で火薬壺に吹っ飛ばされてああいう状態になった者は見たことはあるが、その者達は全て死体になっていた。そうだ。脳が半分吹っ飛ばされて生きていられるはずがない。
 片方だけの赤い目がカインを見る。怯えるカイン。その頭に、ポン、と黒髪の手が置かれた。優しい感触だった。黒髪の顔を見上げると、変わらない無表情のまま、赤い眼の来訪者を見ていた。
「彼は貴方が案内したようだな。理由を訊きたい」
「案内も何も、そいつが一番近い町に行きたいと言ったから教えてやっただけだよ」
「二つしかないこの町の鍵を渡してか」
「ああ、そうだ。玉を返してもらいにきたんだ」
 レトラアノーは飄々と手を差し出した。黒髪が玉を放ると、それを受け取る。
「それでは。またしばらく旅に出るから、アグラムにはそう言っておいてくれ」
「この者はどうすれば」
「さあ。お前を困らせたいだけだったからなあ。戸惑いながら風呂にまで入れてしまうお前は楽しかったよ。私は満足したから、あとは好きにするがいい」
 そう言って、レトラアノーは黒い霧になって、消えた。

 カインが唖然としていると、黒髪がその顔を覗き込んで、ドキッとした。
「お前はどうしたい」
 もしかして殺されてしまうのではないか。そう思っていたのに、黒髪のこちらを見つめる目は、相変わらず何の感情もないものだった。殺意はない。だが心地よい香のような魔性がある。少し、気分が落ち着いた。
「私は東の、キシトラーム王国に仕えておりましたが、国を追われていて、行くところがなく旅をしていました」
 簡単に身の上話をした。魔族ならば人間の王国の犯罪者でも関係ないだろう。
「ここに置いていただけませんか。ここなら追手が来ることもないですから……」
 魔族相手に馬鹿なことを言う、とカインは冷静な頭の片隅で思った。だが頭のほとんどは、黒髪を見つめて、沸いていた。
「よかろう」
 意外な答えに、カインは驚いて黒髪を見上げた。
「レトラアノーが暇つぶしでお前をここに導いたように……、私も退屈しているのだよ」
 呆けた顔で黒髪を見つめるカインの顎を、黒髪の灰白い指が掴んだ。そして優しく撫でる。飼い猫を撫でるような、自然で、近い距離に、カインの胸は高鳴った。
「ありがとうございます。バシュレ…ザーク、フィアー様?」
 レトラアノーが呼んでいた名前を言ってみた。一度聞いただけで合っているか、不安げに語尾を上げると、
「合っている。言いにくければフィアーでいい」
 と答えてくれた。
「フィアー様……」
 うっとりとその名を口にする。
「カイン。屋敷と町を案内しよう。ついてくるといい」


 屋敷のテラスに出た。町全体を見下ろせる場所だった。
 室内と外は気温の差がなかった。どちらもコートがあるとはいえ肌寒い。
「寒いなら私に抱きついていればいい」
 フィアーの言葉にぎょっとして赤くなった。
「な、何をおっしゃって……」
 嬉しい申し出だったが、カインは恥ずかしくて顔を伏せた。
「私の体は暖かいのだろう。先刻までしがみついて離さなかったではないか」
「あの時は、正気じゃなかったのです……」
「ではもう一枚服を」
 テラスに通じる部屋から、臙脂色のコートを魔力で引き寄せ、手に受け取った。
「カイン」
 フィアーは両手を広げた。片手にはコート、もう一方には何もない。
「どちらがいい?」
 フィアーかコートか。問われた意味を理解して、カインは迷った。だが足が勝手にふらふらと進み、カインはフィアーの胸に飛び込んで、彼の背に手を回した。
 フィアーは両手でコートを広げ、カインの肩にかけた。そしてコートごとカインを優しく抱きしめる。背中も胸も温かい。結局カインは両手にあったものをもらえて、フィアーの胸の中で赤くなる。
 残酷な種族と云われる魔族とは思えない。甘く、優しい人。
(私の胸を幸福でいっぱいにしてから、喰らうつもりだろうか)
 少女と少年に甘いお菓子をふるまった、遠い国の童話の、お菓子の家に住む魔女のように。それくらい現実よりも夢に近い幸福。
「温まったか?」
「はい」
 このまま腹を裂かれて煮られても、私からは幸福の味がするだろう、とぼんやり考えて、カインは微笑んだ。

 テラスの縁に近づく。下を見るとかなりの高さがあった。
「この町の鍵は、町の所有者のレトラアノーと、それを預かっている私しか持っていない。外に出ると戻れない可能性があるから注意しろ」
 そう言って、ここから眺められる町の出入り口を指差した。片手はカインの腰に添えたまま。そこに岩山の穴があるらしい。
「不思議な町ですね。魔族が造った町なのですか」
「人間が造った。町を覆う黒い岩だけは、魔族の契約者が造ったものだ」
「魔族の契約者……」
 魔族は人間などの異なる種族と契約することで、魔力を分けてやることができる。
 祖国でカインは契約者討伐の命を受けたことがある。たった一人の契約者のために、兵二千を失った。契約者自体は幼い人間の少女だったというのに。あの力の恐怖は今でも覚えている。
「元は普通に外にあったのですか。どうして空に蓋をするような真似を」
「領主の息子が、他の領に婿に行くことになり、契約者はそれを嫌がったからだ」
「一人の男を留めるために、町全体を閉じ込めたのですか。何故そんな……」
「さあ。レトラアノーが話したのはそれだけだ。私は興味がない」
「あ、その契約した魔族とはレトラアノーさんなのですか」
「そうだ」
 空を覆う黒い天井を見上げる。
「これだけ強い力を授けるとなると、どれだけの代償を必要とするのでしょう」
「魔族に詳しいのか」
 カインが“契約者”のことも“代償”のことも知っているとは思わなかった。
「キシトラーム王国は何故か昔から魔族や契約者に関わることが多かったのです。とはいえ、十年に一度くらいですが」
「そうか。あの辺りには魔界への道があるんだ」
「魔界? そんな場所が本当にあったのですか」
 魔族の研究者の間でその存在が仮説として立てられていることは知っているが。
「あるよ。興味があるなら今度連れていってあげよう」

 フィアーは魔族のことを、カインに話した。

 この世界の大地の下に、もう一つ大地がある。そこが魔族の生まれる場所《魔界》。
 地上で生まれた欲望や叶わぬ夢が、地に捨てられた時、大地で濾され、地下の魔界に落ちていく。
 それが魔力。叶わぬものない不思議な力。
 その結晶が魔族。強い力。美しい容貌。永遠の命。人が欲しいと思うものを全て持つ。

「でも、レトラアノーさんは……」
「ああ、彼は……」

 あまりに濃い魔力の結晶『魔族』は、歪みを持って生まれてくる。
 ある者は醜く、ある者はあるべきものが欠けて。
 魔王の腹心であるレトラアノーは、右の顔が欠けている。
 時を止める力を持つという魔族の隠者。彼は魔族でありながら、老いの苦しみを味わう。
 魔王の最大の敵、鏡の王と呼ばれるデディアメレジュート。彼もまた醜い姿で、より力が強い分、レトラアノーよりさらに大きく歪んでいる。
 そしてレトラアノーと私の主である、魔王アグラムは……。

 フィアーは口をつぐんだ。
「そう、この町に生まれた契約者の、代償のことを訊いていたな。答えは無しだ」
「え、代償を取らないというのですか」
 カインは聞き間違いかと思った。

 魔族は人間などの異なる種族と契約することで、魔力を分けてやることができる。その力には永遠の命さえも含まれている。
 与える者、与えられる者。それだけではない。人間も当然何かを魔族に与えねばならない。だが、人間が手に入れることができるもので、魔族が手に入れられないものはない。
 だから代償とは、「絶望的な取引」と同じ意味。魔族が捨てるように転がした魔力の粒を、人間が身も心も擲って買い求める。

「契約者に力を分けると、ごく僅かだが相手の魔族の力は落ちる」
 フィアーはそれだけ言って黙った。
 カインはその言葉の意味することは分かった。力が落ち続ければ、レトラアノーの歪みも小さくなるのだろう。だから一つの町を滅ぼせるほどの力を、惜しげもなく分けられるのだろう。
「フィアー様は、その、歪みは……」
「私にはない。歪みができるほど強い力を持つ者はごく少数だ。アグラムの属人では、レトラアノーとあと一人だけだ」
「魔王というからにはアグラム―様は全ての魔族を統率しているのではないのですか。その中で二人だけ?」
「アグラムはあまり他人を近づけない。それでも彼に近づきたい者は多い。私もその一人だが。彼に直接の属人になることを許された者は約百人だ。その属人がさらに属人を囲っているから、アグラムの一声で動く者は十万は下らないだろう。
 アグラムの勢力は魔界で一番大きいものだ。だが少数勢力なら他にいくらでもあり、私達が把握できない魔族は何百万といる」
 何百万……。地上に出現する魔族は、ほんとにそのほんの一部なのか。
「フィアー様の属人は?」
「一人だけだ」
「どういう方なんですか」
 フィアーは、つんとカインの鼻に指で触れた。
「私、ですか? 私は人間ですが……」
「関係ない。私が側に置いてもいいと思っている者こそ、私の属人だ」
 その言葉に期待して、フィアーを、熱のこもった瞳で見つめてしまう。
「何故他に属人をとらないのですか」
「私の心はアグラムを崇拝することのみに使われている。それ以外の者に近づかれるのは面倒だ」
 ヒュッと、背中を絶望が滑り落ちた気がした。

「どうした。寒いのか」
 カインは涙をこらえるような顔をしている。その背を、フィアーは暖めるように撫でた。
「アグラム様が……フィアー様が一番大切に思う方、ですか」
 震えた声で訊いてしまう。
「大切か……。それは違うかな。私があの方をどう思おうと、あの方はどんな困難でも越えていってしまう。あんなに大きな歪みを持ちながら、それに全く劣等感情を抱かない。私を含め、手下も勢力も全く必要としない、あの強さを、眺めているのが好きなんだ。―誰にも触れられない神聖。崇めるべき私の神。それがアグラムだ」
 熱くフィアーは語った。主の神聖さを謳う彼こそ、邪を厭う清廉さを瞳に宿していた。
(ああ……、だから)
 盲目的に主を崇める、魔性でありながら清廉な光の宿る彼の瞳。その瞳に惹かれた。かつてカインもそれと同じものを持っていて、今は無くしてしまった。
(だから、私はこの方に惹かれるんだろう)
「何故私を側に置いてもいいと思ったのですか」
 カインはトン、とフィアーの胸を押して、彼と離れた。町を見下ろすテラスで、向かい合う。
 古びて薄汚れたこの黒い街。その実、誰も寄せつけたくないフィアーの潔癖さと鏡映しだ。
 きっと彼はアグラムにも近づきたくないのだろう。眺められる距離。それが今の主従関係。幸せな距離。
「何故私を、抱きしめてくれるのですか」
 単純に疑問だった。一介の人間にすぎない自分が何故、こんなにフィアーの近くにいるのだろう。
「お前は……」
 カインが離れた距離を、フィアーが一歩踏み込んで縮める。
「私を初めて抱きしめた者だから」
「……」
 カインは口をぽかんと開けてしまった。
「それが、温かかったんだ。きっと、お前が無理やり抱きついてこなければ、永遠に知ることはなかったから。だからお前は私のたった一人の相手だ」


 黒い天井の街。その最奥にそびえる王宮のような館。
 そのテラスで、黒髪の男と赤いコートの旅人が抱きしめあっていた。
「ずっとこうしていたい。永遠に、貴方の温かさを感じていたい」
「契約でもするか」
 フィアーは、人間にとって絶望的な欲望と喪失をともなう取引を、とても簡単なことのように口にした。カインは微笑んだ。
「どちらでも構いません。私の望みは貴方の傍にいることです。死する時まで、貴方を最後の主としたい。どういう形にするかは、貴方がお決めください」
「では」
 フィアーは手を差し伸べた。
「契約を―」
 カインはその手を取った。


 魔族の命は永遠。魔族の契約者の命も永遠。
 悪魔に心を奪われた青年は、ついに人の世界に戻ることはなかった。

〈終〉