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 黒い街 1






 稲妻が鳴った。
 雨は激しく、木々の下を移動しても、ボタボタと大きな雨粒が身を打つ。泥を被った赤い外套がずしりと重い。濡れた靴の中、爪先が凍るように寒い。いや、全身が寒い。
 ぬかるみに足を取られて、青年は倒れた。
 跳ねた泥が口の中に入った。それを吐き出す気力もない。茶色い髪が暗灰色の水たまりをたゆたう。
(ついに、ここで終わりか)

 青年の名はカイン。ここから遥か東に行った場所にある王国の、貴族だった。心地よい水音の響く、豊かで美しい都。心の底から、王国に忠誠を捧げていた。
 ある日、別の貴族が王に対し不忠を働いていることを知った。それを王に訴えようとしたが、逆にいつのまにか自分に罪が降りかかっていた。
 何故だろう。国を追われてしまった。
 道なき道を進むこと十日。青年は、ついに助からなかった。


「泥の中で眠るのが趣味なのか?」
 気を失いそうになる直前、声を聞いた。豪雨の中でも不思議に通る男の声。
「人……?」
「いいや」
 目の前に真っ白な靴。見上げると誰かが立っていた。意識が朦朧としていて相手の顔がよく見えない。稲妻が光り、目のある位置に赤い光が一つだけ反射した。
「どこか一番近くの町に……」
 連れて行ってくれ、と言いたいのに、冷たい空気に喉が悲鳴を上げそうだ。雨が当たって上手く開かない目で、助けてくれと訴えた。
「一番近くか」
 相手が笑ったのを感じた。
「このまままっすぐ進むといい。崖の下に洞穴がある。そこの内部の壁をこの玉で叩けば、街に出る」
 コン、と目の前に橙色の宝石が放られた。顔を上げたとき、そこには誰もいなかった。
 重くなった服を引きずりながら進んだ。泥だらけになって、ボロボロで。街についても、こんな者を上げてくれる宿があるだろうか。だが今は何も考えず、声の教えてくれた方向へ進んだ。

 崖の下、確かに洞穴があった。中に入る。雨風の外と比べて暖かいかと思ったら、中はさらに寒かった。頭が当たりそうな高さの入口から少し進むと、空洞にでた。
 そこは、とんでもない広さだった。天井は故郷の大国の城の塔よりも高い。奥が暗闇に霞んで見えない。なんて広さ。奥に行く気力がもうなく、洞穴の広さに絶望して崩れるように膝を折った。その場で、ほとんど諦めた表情で懐から玉を取り出し、すぐそこの壁を、トントンと軽く叩いた。
 そして倒れた。玉を握る手の力もなくなり、コーン、コンと手を離れた玉は転がった。

 その時、急に床の黒っぽい岩が変化した。白いレンガになる。その変化は周りにも広がる。何もないところに建物が現れ、広大な空間は街並みで埋め尽くされた。だが街は明かり一つ点いてなく、暗い。人一人おらず、静かだ。そして寒い。周りに物が増えたのに、急激に寒くなった。カインは歯をガチガチさせて震えた。
「誰だ、お前は」
 声が聞こえた気がした。だがもうカインには震えることしかできない。すぐそこに、人影があることに気付かなかった。
 そこに立っていたのは、黒い上等の服装の黒髪の男だった。貴族のような仕立ての服だが、黒と白のみで華やかさがない。肌の色も、死人のように白い。美男ではあった。
 地に伏したままのカインを、黒髪の男は見下ろした。声に反応しないカインに苛立ち、彼の腕を掴んで引き揚げた。黒髪は大して身長に差のないカインを片腕で支えている。
「お前は人間だな。何故この玉を持っている」
 目前で話しかけたのに、カインの目は虚ろで、やはり声が届いてないようだ。寒さで唇が震えている。
「……あたた、か…い……」
 カインの腕を握る黒髪の手に、カインはもう一方の手を添えた。温度を求めるように、その腕を触り伝っていき、カインの手は男の肩、首に触れた。カインは力を入れて、黒髪にしがみついた。
「何をするか」
 黒髪はカインを離そうとするが、カインは必死で黒髪の首に手を回し、離さない。
「嫌だ……! 離さないでくれ……。寒いんだ。寒い……」
 カインは自分が何に抱きついているか分かっていない。頭がもうそんなことも考えられないのだ。
 体全てで目の前の何かの温度を感じようと、抱きついている。二つの頬を合わせ、胸板を押し付け、足の間に足を入れた。男に触れていない部分は凍るように寒くて、男に触れた部分は幸福で仕方がないくらい暖かい。
「寒い……、まだ寒い……」
 泥道を来たカインにまとわりつかれ、黒髪の綺麗な服も汚れ、崩れていた。男は全く自分の言葉を聞いていないカインに、溜息をつく。カインは、その温かい吐息に反応した。黒髪の口に自分の口をつける。そこから漏れる暖かい空気を、冷たい空気に痛む肺に入れようとした。
「!」
 黒髪は一瞬驚いたが、今のカインが正気でないことを理解して、やりたいようにさせた。
 ただ、この体でわずかな暖を取るだけではどうせ死ぬ。
 黒髪はカインの体を抱きかかえ、歩きだした。
 カサカサになったカインの唇にまとわりつかれ、けれども黒髪の男の整った顔は、平静そのものだった。冷たい空気の間を、靴音が響く。視界は、カインに塞がれていたが、慣れた道につまずくはずはなかった。
 男と同じで、黒と白のみの色のない、灰色の街を進んだ。行く先には、王城のように壮麗な屋敷があった。


(暖かい……)
 全身に暖かさを感じて、カインの強張った体は緩んだ。さっきまで、男に触れられない背中や足先はどうしても冷たかったが、そこも満たされる。
 閉じた瞼の外に、ゆらゆらとした光を感じる。蝋燭の灯りだろうか。それならここは人の住む場所。
 カインは目を開けた。
「……気がついたか」
 目の前には美しい顔があった。彼の淡く柔らかい色の差した黒髪に、水滴が伝わる様に目を奪われた。その雫は髪を揺らして、ポトンと水面に落ちた。
(ここは…湯の中か……)
 カインはバッと男から離れた。辺りを見回すと、湯気が立っている。王宮の中庭並の広さの、白いつややかな石でできた室内。中庭の池並の広さの浴槽の中で、カインはこの黒髪の男に抱きついていたのだ。―裸で。
「やっと離れたか」
 カインから解放されると、黒髪は立ち上がって浴槽を出ていった。整った裸体を隠そうともしない男に、カインは真っ赤になる。引き締まった筋肉だが、色が灰白くてあまり健康的には見えない。それがどこか背徳的な色気を醸し出している。
「温まったらここにある服を適当に着るがいい」
 黒髪は浴室の端にある一段高い場所で、そこにあったタオルを取り、体を拭いていた。
「え、あの、私の服は」
「燃やした。お前が私に張り付いて脱がせられなかったので」
「え?」
 脱がさないまま燃やす。そんなことができるのだろうか。
 黒髪は置いてあった白いシャツを着て、その上に黒い上下を纏った。風呂上りにも楽な格好をせず、かっちりとした服だ。貴族だったカインからみても上等の服に見える。
 タイを締めると黒髪は扉を開けて、浴室を出てしまった。慌ててカインも湯を出て、タオルで全身をさっと拭き、棚に置かれていた服を適当に着て、彼を追いかけた。
 扉の外は真っ暗で、彼の姿が見えなかった。戸惑ってきょろきょろしていると、ボッと灯りが点った。左の方向に次々と燭台の火が点く。明るくなって、ここが長い廊下なのだと気がついた。周りには誰もいない。誰が蝋燭を灯したのだろう。疑問に思いながら、蝋燭の灯りがある方へと歩く。


 着いた場所は、王との謁見の間を思い出させる、広く天井の高い空間だった。正面奥の白い石造りの椅子に、黒髪の男は座っていた。ここだけは色があった。部屋を飾る金細工やくすんだ宝石の色。
 この町は元から色がないのではないようだ。長い時間放置されて、塗が剥がれ、埃を被って錆びたのだろう。
 屋敷の造りも、大らかで、言い方を変えれば素朴だ。もしかして何百年も前の意匠ではないだろうか。
「助けていただき、ありがとうございました。私はカインと申します」
 奥の椅子に座った黒髪に近づき、その前に片膝をついて礼を述べた。貴族らしいその優雅な動作を、黒髪は何の感情もない目で観察していた。
 カインも黒髪の目をじっと見ていた。吸い込まれるような不思議な魅力のある目に、見惚れていた。ハッと顔を赤くして、視線を下にやる。彼の座る椅子には石の肌のままで何も敷いていない。
(冷たくないのだろうか)
 この館の中は異常に寒い。服を着たとき焦っていたため、カインは薄着で、少し震えた。
 ギギッ、と背後で音がした。ビクッとして振り返ると、部屋の扉が開きだしている。
(誰か来たのか)
 先程から黒髪以外誰もいないのが、不気味だったので、他にも人がいると思ってホッとした。
 だが、扉が開ききってカインは背筋が凍った。誰もいなかったのだ。ひとりでに開いた扉。だが、その向こうの廊下を何かが通った。
「なっ」
 廊下を揺れていたのは、血のように赤いコート。誰かが来ているのではない。宙に、浮いているのだ。それは部屋の前で止まると、勢いよく入ってきた。そしてカインに被さってくる。
「……!」
 カインは声もあげられず、身を強張らせた。
 だが、コートがふわりと肩にかかって、カインは温かさを感じた。血の色に見えたコートはもう一度見るとくすんでいて、カインが旅路に着ていた外套のような落ち着いた赤だった。
「それを着ろ。また寒さで正気を失われてはかなわん」
 カインは驚いた顔で黒髪を見た。
「これは、貴方が? 浮いていたのは……」
「……私のことをまだ理解していないのか」
 カインは恐る恐る窓の外に目をやった。天が黒い。夜に出た雲の色ではなく、町の天井を覆う岩だった。岩の下の広大な空間にできた、不思議な街。
「私は魔族。そしてこの町は私が他の魔族に預かっているものだ」


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