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 降りそそぐ花 2






 店の裏にある小さな庭で、ユメルが手塩にかけて育てたバラが咲いた。
 見事に真っ赤な花の中から特に美しいものを選ぶ。
(派手すぎるのは好きじゃないよね)
 真っ赤なのは一輪だけ。緑や薄褐色の花を添えて、野にひっそりと咲く孤高の花―というイメージで束ねる。道々に二件ほど配達をこなし、ザークの宿舎に向かった。

 五度目の訪問になるが、忙しいザークとは会えずじまいで、毎回ハウスキーパーに鍵を開けてもらい、一人で生け替えた。それでも、いつもメッセージカードが花瓶の側に置かれており、それを読むだけで幸せな気持ちになる。
 飾り気のない彼の部屋は、自然と奥の窓辺に目が留まる。ザークもいつもこの光景を見ているのかと思うと、生ける手に気合いが入る。
 部屋に余計なものはなく、棚の上に装飾鍔と、黒い小さな石が置いてあるくらい。なんだろうと思うが、客の部屋だ。近づいて確かめたことはない。

 宿舎に到着し、玄関でハウスキーパーに声をかける。ここでいつも通りなら、”ザークは職務で外出しているので二階に勝手に上がるように”と伝えられるのだが、
「いらっしゃるんですか!」
 ユメルが喜ぶと、人間のハウスキーパーは変わり者を見る表情で驚く。
 足早に彼の部屋に向かい、扉を叩く。
 中からどたどたと音がしたかと思ったら、ばっと扉が開いた。ドアノブが低くて上体を曲げた彼が、ユメルの視界いっぱいに映る。
「入ってくれ」
「……!」
 ザークが一瞬微笑んだのを、彼を見つめていたユメルは見逃さなかった。柔らかい笑みだった。体中が熱ってしまう。
「失礼します」
 と中に入る。
「頼む」
 ザークは花瓶の斜めの位置に立ち、ユメルを招いた。花を載せたトレイを脇に置き、ユメルが前の花に手をかけると、
「いい香りだった」
 と短い言葉をかけられた。メッセージカードで伝えられたことのある言葉だ。けれど、こんな―低く、甘い声なんて想像していなかった。
「き……、気にいっていただけて嬉しいです」
 そう答えるのが精一杯だ。どきどきしながら、生けるのだけはしっかりやらなければ、と気合いを入れるが、
「見ていてもいいか」
 とザークにぴったりと横に張りつかれては、熱が引きそうにない。
(私を見ているんじゃなくて、花を見ているんだし)
 落ち着こうとするが、
「華奢だな」
 と言われ、
(茎のことかな)
 と思ったが、
「ちゃんと食べているのか」
 とユメルの体を見て言う。
(う、花を見ているんじゃ……ないの?)
 心の中でパニックになりながら、
「御陰様で、モンスターが増える前と同じくらいまで、市場の品が回復しましたから」
「ならばいい」
 大きな手が、ユメルの肩に載せられる。
「困ったことがあれば、何でも言え」
「は、はい」
 どうしてこんなに優しくされるようになったのか分からない。
(すごく……すごく嬉しいけど)
 都合の良い夢を見ているようだ。
 どうにか生け終える。
「綺麗だ」
「あ、ありがとうございます」
 無愛想だった声が、どうしてこんなに甘く変わったのだろう。
 こんな声で褒められて、自分が花だったら蕩けてしまうと思った。
 我が子が褒められて得意になるはずなのに、胸の鼓動が邪魔をする。
「この後、用はあるか」
「いえ、店に帰るだけです」
「夕飯を一緒にどうだ」
「えっ」
「……気が乗らないならいいんだが」
「いえっ、ご一緒したいです!」
 思わずザークの手を取る。
「…………」
 ザークはじっとユメルと繋がった手を見る。
「あ、その、ごめんなさい」
 慌てて手を離す。赤くなった顔を背けた。
「じゃあ、通りのレストランに行こうか」
「はい!」
 今日はザークさんに会えた上に、食事の時間も一緒にいられるなんて。
 嬉しくて、頬がむずむずしてしまう。

 荷物をまとめ、二人で並んで宿舎を出る。
「おっ、隊長。綺麗なの連れてどうした」
「外で飯だ」
 入口で赤い肌の鬼人族たちとすれ違った。
(綺麗……、ああ、回収した花を持っているから)
「部下だ」
 ユメルに向かって、ザークが相手のことを簡潔に教えてくれた。ユメルからも、出入りの花屋だと、部下の鬼人族に挨拶する。
 興味を引かれた様子の部下をかわし、ザークはユメルの肩に手を添え、歩き出した。
「明日非番だろう。帰ってこなくても、構わねえぞー」
 と後ろから声を投げかけられた。
 以前、助けてもらった時に一緒にいた人とは別の人だけど、どちらとも気安い関係のようだ。
「失礼なことを言うな」
 ザークが少し厳しい口調で言い返す。
 あれ、やっぱり気安すぎるのは怒るのかな。


 空は薄っすらと赤みが差し、家路を行く人々が行きかう。
 この辺りの人は鬼人族に大分慣れたのか、ザークに過度に反応することはない。
 ただ、その隣に花を抱えた優男がいると、また目立ってしまうようだ。
 何人かじろじろと見てくる。
 可憐な花を売る仕事柄、ユメルは女性が話しかけやすいよう小奇麗な格好を心掛けている。……なよなよしていると、言われたことがないわけではない。
 逞しいザークと並ぶと……。
(考えないようにしよう。そうだ。ザークさんの部屋から回収した花、まだ自分の家に飾る分には綺麗だから持って帰りたいけど、レストランには邪魔かな)
 よく捨てさせてもらっている、農家の野菜くず用の穴がそこにあるけど……。
 ユメルは一度目をやってから、そのまま通り過ぎた。
(ザークさんと食事した日の花)
 なんてことない花が、ザークがいると違って見える。
(ザークさんに、大切にしてもらった子)
 隣にいるせいか、ひたすらザークのことばかり考えてしまう。
 花に顔を埋めて、薄くなった香りをかぎながら、ザークの横顔を盗み見る。
 ぼーっと見蕩れていたら、こちらを向いたザークと目が合った。
「ユメル?」
「……っ」
 不意に名前を呼ばれ、体温が簡単に上がる。
「え、あ……な、何を食べましょうか」
「ユメルが入りやすいところだと、市場の西口にある店ぐらいだな。それとも政庁の辺りまで行くか」
「そのお店、お客として入ったことはないですが、花を届けたことはあります。行ってみたいです。綺麗な雰囲気のお店でした」
 ザークが頷いた。それと同時に微笑んでくれて、ユメルは嬉しくなった。
 けれど、少し疑問だ。
 この辺り、飲食店はそれなりの数がある。
 ユメルの家からは離れているが、配達の帰りに寄ったことは何軒かあり、どこもガヤガヤしていて、一人身の男が入るにはちょうどいい雰囲気の店だった。
 これから行く店は、この辺りでは唯一といっていい高級店。一応出せる値段ではあるが、気軽に入れる額ではない。
(そんなに私が高給取りに見える? うーん、それはないよね。小さな花屋と知っているし)
 とりあえず財布の中身を確認する。よし、大丈夫だ。
「いいよ。俺が出すから」
 片手でこそっと財布を開いただけだが、ザークに見つかってしまった。
「いいえ。高いお店ですし、半分ずつで」
「誘うからには俺が出すつもりだよ。もちろん」
(男同士なのに? 都ではそういうマナーなのかな。鬼人族の考え方とか?)
 それとも……。
(……友人として誘ってくれたと思っていたけど、ただの出入りの花屋と思われているのかな。チップでも渡すつもりで。うん……、鬼人部隊なんて精鋭の隊長だし、収入の差は大きそうだけど)
 ユメルはうつむいた。花がユメルの表情を隠す。
(ううん。誘ってくれたってことは仲良くなるチャンスだ)
「じゃあ今日はご馳走になります。そのかわり、こ、今度」
 自然と言いたかったのに、緊張で声が震えてしまった。
「私から誘ったら、来てください」
「…………」
 うう……。微妙に強要するような言い方になってしまった。
 ザークの返事はない。
「え、えっとっ、お店は結構知っているんです。お客で入ったことは少ないですけど……、おすすめの店いっぱい見つけます!」
 話せば話すほど、焦ってしまう。恐る恐る、ザークを見上げる。
「だから、貴方ともっと……」
 ザークはじっとユメルを見ていた。見つめ合って、ユメルの言葉が止まる。
(私は、何を言おうと……!)
 まずい。焦るとまずい。言ってはいけないことを言うところだった。
「あ、あの、よく混んでいる店なので、早く行きましょう」
 通りへの方向に向き直って、進もうとした。その腕を、大きな手が掴んだ。
「ユメル」
 ザークの、とても優しい声。
「もっと……?」
 耳に近くで囁かれた。
「…………!」
「言いかけたこと、教えてくれ」
「あ……」
 ザークさんの声って、心地良いのに……、胸がざわついて体が震えてしまう。
「もっと……、……親しくなりたいです」
 頬に彼の手が添えられた。そっと、上を向かされる。
「俺もだ」
 正面から彼の微笑みを向けられて、ユメルは息を詰めて固まってしまった。


 レストランの料理はとても美味しかった。
「この野菜、見たことないな」
「今の季節よく採れますよ。さっぱりしていて美味しいんです。あ、でもよく採れるわりに植物図鑑に載っていることが少ないから、この地域独特のものなのかもしれません」
「へえ。……うん、美味しい。今度生えているところに案内してくれると嬉しいな」
「は、はい……」
 二人の間は言葉少なくて、けれど一つ一つが優しい。
(胸が熱い……)
 弱いからと、少なめに注いでもらったワインを、まだ飲み干していないのに。ザークの声が、表情が、ユメルの体をぽかぽかさせる。

 ふわふわとした気持ちのまま店を出た。
「遅くまで付きあわせてしまったな。送る」
 夕食を終え、街の灯りが消え始める頃だ。
 暗く晴れ渡った空に、月がくっきりと見える。
「そんな、私の家に寄ったら、ザークさんが帰るのが遅くなってしまいます」
「明日は非番だから構わない」
「せっかくのお休みなら、なおさらご自身の時間を大切にしてください」
「ユメルの側にいたいだけだ」
「……ッ」
 ユメルの言葉が詰まったのをいいことに、ザークはユメルの家の方角へ歩き出した。

 街灯が、道に影を作る。角が生えた巨大な影。
(ザークさんだ)
 ユメルは自分の額の上で、人差し指を立ててみた。ちょっと細くて小さいが、角が生えたお揃いの影ができる。
 えへへ……、と頬を緩めていたら、ザークの視線がこちらに向いていることに気づいた。
(う……)
 ザークさんの隣で何をやっているんだ、自分は。
 お酒、やめておけばよかった。
 ザークの視線がふわっと緩み、
「ユメル、可愛い」
 声色が、いつも以上に優しくて、”甘い”と感じるほどだった。
 この声だけで、酔ってしまいそうだ。

 並んで歩いていると、手が軽くぶつかった。
 とっさに離れようとして、足がもつれる。
「大丈夫か」
 彼の手が肩を掴み、傾いた体を彼の方へ引き寄せられる。
「ッはい……」
 その手のひらの熱にどぎまぎしていると、彼が代わりにユメルの重心を起こしてくれた。
「……ごめんなさい」
 駄目なところを連続で見せて、ユメルはへこんだ。
(ザークさんといられるチャンスだったのに、今日、良いところ何も見せていない……)
「いや、飲ませすぎたようだな。こっちこそ気が利かなくて悪かった」
「謝らないでください。美味しくて、飲み過ぎたのは私です」
 ―ザークといる緊張で、つい飲み過ぎてしまった。過剰な反応を、お酒のせいとごまかせたのは良かったが。
「”次”はユメルは水にしてもらうぞ」
 ―次。
「はい!」
 ユメルの元気な返事に、
「ただの水に、なんでそんなに嬉しそうな声なんだ」
 ザークは声を立てて笑った。
 気になる人と一緒の時間こそ、なによりのご褒美だ。
 彼の笑顔を見逃すまいと、目を皿のようにして見つめ、
「ここにも花屋があるな。ライバル店か?」
「うわ、っと、と。ここです」
 自分の家を通り過ぎそうになった。

「看板と鉢だけ片づけさせてください。ザークさんはどうぞ入っていてください。あ、お茶入れますね」
 配達前に簡単な戸締りはしていたので、すぐだ。
「いや、夜だというのに邪魔するわけには……」
(帰っちゃう)
「えっと。あ! この鉢、重くて動かせない! 室内に入れるの、手伝ってくれませんか」
 ザークは少し困った顔をしたが、すぐに手を差しだしてくれた。
(よし、意外と私の演技通じるな)
 一緒に運ぼうとしたが、
「ユメルはもっと小さいのを頼む」
 と言って、ザークが一人で軽々と持ち上げた。
 あの鉢、ユメルはほとんど引きずって移動しているのに。

 手を洗って、ヤカンに水を入れ、火にかける。
「粗末な家ですが、お茶は揃っていますよ。植物採取をしていると、色々交換してくれる知り合いができるんです」
 夜だから、眠りを邪魔しないお茶にしよう。
 茶葉をポットに入れ、カップを並べても、お湯はまだ沸かない。
 水回りをさっと片すと、鼻歌まじりに持ち帰った花を広げた。
「一人で暮らしているのか」
 花を生けるユメルの様子を見つめながら、椅子に座ったザークが聞いた。
「はい。前の店主が故郷に隠居する時、住み込みの店員だった私に譲ってくれたんです。ちょうど成人祝いだと。それ以来一人ですね」
「血縁ではないのか」
「ええ、親兄弟はもっと王都寄りの街にいます。兄弟が多くて、手習い塾を出てからは、すぐに独り立ちさせられて、こちらに」
 休業するほどの用もないので、数年会っていないが、手紙のやりとりはたまにある。

 話しているうちにお湯が沸いた。お茶を入れて、ザークにカップを差し出して、ユメルも座る
「すっきりしていて、好きな味だ」
 良かった。ユメルも好んで飲むお茶だ。味覚が合うことを密かに喜んだ。
「明日は何かご予定でもあるんですか」
「特に決めていないな。ユメルは仕事だろう」
「仕事と言えば仕事ですが、店は閉めて、北の湿地に採取に行きます」
 早朝に出て、昼には帰り、採取した植物の後処理に没頭する。
 気が向けば、帰りの客を狙って夕方だけ店を開く。
 ユメルが採取好きなため、この店は注文販売に偏りがちで、店は閉まっていることが多い。
「一人で?」
「はい」
 ユメルの答えに、ザークはなにやら考えこんでいる。
「良かったら、俺もついていっていいか」
「え」
「北の湿地は比較的安全だったが、つい最近魔物の目撃情報があった。今は討伐が頻繁に行われているため、魔物の棲家が変わりやすくてな。……心配なんだ」
「な、なるほど。では行かない方がいいのでしょうか」
「いや、街の側なら群れは作っていないから、遭遇しても俺一人で対処できる。俺がいる時は普段通りで問題ない」
 それってまさに住民の護衛では。非番なのに。
「それでも、付き合わせるのは悪いです。私にとってもちろん採取は大事な仕事ですが、もっと状況が悪い中でも、代替えを探して、店を続けてこれました。だから……」
 ユメルの手の上に、ザークの手が置かれた。
「一緒に過ごしたいんだが、だめか?」
 凛々しい眉が、少し自信なさげに寄せられて、くらっとくる。
「だめじゃ……ありません」
 嬉しくて、たまらない。
 なんだろう、この気持ちは。
 ザークさんに優しい言葉を掛けてもらうと、嬉しくて温かいのに、胸が締めつけられる。
 思わず目を閉じて身を縮めてしまう。
「ユメル、じゃあ明日」
 立ち上がった彼の手が、ユメルの頬に添えられ、上を向かせる。
 反対の頬に、彼の吐息と体温を感じた。
「おやすみ」
 柔らかい感触が、彼の唇だと気づいて、体が熱くなる。
(私、私は……)
 自分に向けられた優しい微笑みから、目が離せない。
(彼に触れられて、ずっと見つめ合っていたい)
 ―彼がほしい。

「お茶、ありがとう」
 名残惜しそうにゆっくりと、ザークの手が離れ、そのまま扉の方へ向かう。
「泊まっていったらどうですか?」
 広いザークの背中。その服の裾を、少し引っ張る。
「北門にいくなら、うちからの方がずっと近いです」
 どきどきと、心臓が鳴る。
(これが、恋慕……?)
 誰かと深い仲になるどころか、こんなに誰かを想うことが初めてのユメルには、感じたことのない種類の恐怖心。
 異性に送る花を買いにきたお客さんたちは、皆こんな緊張感を抱いていたのだろうか。
「…………」
 沈黙が重い。
(何か言わないと……)
 男の家に、明日の用事のために泊まるだけだ。何を戸惑うことがあるだろう。
 ―沈黙すればするほど、そこに意味が生まれてしまう。
「宿舎の方では……、部下の方がザークさんが誰と外出したか分かっていますし、何でしたら心付けがあれば夜間でも小間使いしてくれる人がいますから、知らせてもらいましょう」
 必死に引きとめるが、
「泊まるのはだめだ」
 ザークの声は硬い。
「……ッ」
 息が詰まり、ユメルは胸を抑える。不安が顔に出てしまったのか、ザークはユメルを見て少し戸惑い、また柔らかく微笑んだ。
「君に酒が入っていなければ……、誘われていたさ」
(お酒……?)
「明日、楽しみにしている。あと、ちゃんと戸締りしろよ」
「……はい。おやすみなさい」
 ザークが出ていって、ユメルはしばらく立ちつくしていたが、やがてのっそりと手を伸ばし、戸に鍵を掛けた。
 そのすぐ後、戸の外で階段を降りるかすかな音が響いた。ザークはユメルが鍵を掛けるまで、見守っていてくれたようだ。
 それだけのことで、また胸が苦しくなる。
(どうして、泊まってくれなかったんだろう)
 お酒がどうとか……、そんなに酒癖が悪かったかなあ。
 今日の自分を思い浮かべ、落ちこむ。
(それとも……)
 目の前が暗くなる。
(ちゃんと男友達のふりをできていなかった?)
 ずっと彼に見蕩れていた気がする。……こんなのの家に泊まったら、もっとベタベタされると思われたら。
「……う―……」
 明日、来てくれるよね……。


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