あの騒動よりひと月、魔法都市は雨季を抜け初夏を迎えていた。
仰ぎ見る空はどこまでも青く澄み、白く大きな雲がゆっくりと流れゆく様子は夏の気配をつよく感じさせる。
ストレイキャットの邸宅にある小さな庭では、ステアが一足先に涼をとるため水音を立てながら足を冷やしていた。
「ひー、たまらん!」
大きめのたらいに入れられたたっぷりの氷水は、からからと心地良い音を立ててステアの足を撫でるように揺らぐ。
ユグが手入れをしている小さな庭は自然に溢れ過ごしやすく、ギルドメンバーそれぞれからも愛されている庭だ。
日除けのための蔓性植物はうまく自然風を通して心地よく、軒先から雨水を受ける水瓶には小さな睡蓮の葉が浮かんでおり、その下にはメダカ達の楽園が築かれている。
よく日差しがあたる一画には、今日もユグが干した洗濯物が風になびいていた。
ステアが洗い立ての真っ白なシーツを見つめていると、気を遣ったユグが麦茶を準備して隣に腰を下ろす。
「麦茶を淹れてきたけど、どう?」
「お、いただきっ!」
断る理由などないステアはグラスを受け取ると、喉を鳴らしながらあっという間に飲み干してしまった。
グラスに残された氷は涼しげな音を立て、射し込む陽光を反射する姿は宝石のよう。
「ステア、あんまり身体を冷やしてお腹壊さないでね?今夜なんだよ?」
「分かってるさ、時間もそろそろだしミカの所で着付けてもらうかぁ…」
そう呟きながら冷たい水を手で掬うと、ユグの顔に浴びせる。
「ひゃ!つめたっ!!」
投げられた水はぱしゃりと音を立てて命中し、思った通りとなったユグの反応にステアは満足そうな「にしし!」と悪戯な笑い声を上げ、支度を済ませた二人は目的地であるトゥエラーシュ家を目指し、ゆっくりと溜まり場を後にした。
ミカの屋敷であるトゥエラーシュ家。
そこの一室にてメイド達に囲まれたナルは、ちょうどコルセットを装着されている最中であった。
「く、くるしい…っ」
手加減無用とばかりに締め上げる紐からは窮屈そうな音がギシギシと鳴り、思わず口から弱音が漏れてしまう。
「我慢なさって下さい、もう半分ですよ!」
「まだ、半分…っ!?」
このままでは押し上げられた内臓が口から出てきてしまうのではないかと錯覚するほどなのに、メイド達に手を休める様子はとんと感じられない。
特にナルへコルセットをつける為に指示をする年配のメイドは手慣れている様子で、迷う事なく紐を締め上げ、美しくなだらかな曲線を作り上げていく。
(私の腰とお腹、こんなに細くなるの…)
自らに起きている人体の変化に戸惑いつつ、息も絶え絶えにされるがままでいると部屋の扉が開かれた。
鏡ごしに入ってきた人物を確認すれば、黄色のパーティードレスに身を包んだミカが顔をのぞかせる。
「どう?進んでるかしら?」
そしてナルの身支度をしているメイドを見ると返事を待たず、表情を途端に青くさせた。
「まぁ!アンナにコルセットを任せるなんて、ナルでは死んでしまうわ!」
今にも倒れそうなナルは返事をすることも出来ず、浅く呼吸を繰り返してミカに助けを求めるように瞳を揺らす。
「お嬢さま、何を仰いますか!主役の方の身支度、これは私めの出番です!」
アンナと呼ばれた年配のメイドはウインクをしてみせるが、ミカはただ気の毒そうにため息をつく。
「…アンナ、あなたがあんまり張り切り過ぎるから、ナルは今にも倒れそうよ?」
「あら、まぁ…!」
確かにナルの顔色を見れば良いとはいえぬもので、むしろとても苦しそうな表情を浮かべているではないか。
「あなたの締め上げは私でも窮屈ですもの…!」
ミカの言葉にナルは眩暈を覚え始め、もはや立っているのも限界を迎えていた。
「ミ、ミカ…たすけて…」
必死に絞り出した言葉にミカは頷き、待機していたメイドたちへ早急に指示を出す。
「ここから支度は他の方に任せるわ、まずはコルセットを緩めて差し上げて?」
ミカの采配にメイド達は担当を瞬時に変更し、あれほど前線に出ていたアンナですらすんなり役を交代した。
どんどん緩まるコルセットに身体が喜ぶように酸素を求め、ようやく解放されたナルは重苦しいため息を吐き出す。
「はぁ…!死んじゃうかと思った…!」
ナルの言葉に笑ったミカはドレスを崩すことなく、傍の椅子に優雅に腰掛ける。
「ナルが着るのはマーメイドドレスだから、そんなに締め上げなくていいのに…」
「お嬢さま!美しいウエストラインは淑女の証!その為のコルセットです!」
声を荒げるアンナを「はいはい」と軽く流したミカの元に新たに入室してきたメイドが耳打ちすると、頷いたミカは笑顔を浮かべ「いいわよ、通して」と返答する。
すると今度はステアがメイドに連れられ部屋を訪れ、慌ただしくも丁寧に支度を進める様子に目を細めた。
「お、やってんなー?ミカもいいじゃないか、似合ってるぞ」
「ありがとう、ステアのドレスも用意してあるわよ…ねぇ、アンナ?」
ミカのウインクにアンナは頷き、ステアのカジュアルな服を脱がしにかかる。
「うお、ちょ、自分で脱げるって!」
「お時間がございません!お急ぎください、このアンナに全てお任せ下さいな!」
今度はステアがあの地獄を味合わされるのだと思うと、ナルの身体は恐怖で震え、思い出したくもない苦痛に瞳はきつく閉じられた。
窓の外では陽が少しずつ西に向かい始め、夕方の気配を漂わせている。
ミカが壁に掛けられた大きな古いアンティークの時計を見て、待ちに待ったこれより執り行われる祭事に心を馳せながら呟く。
「ああ、式まであと二時間もないわね、楽しみだわ!」
うっとりと瞳を細めて微笑む姿は、人形のように美しかった。
「ミカ、その…師匠とか他のみんなは?」
若いメイドたちに身支度を任せるナルは、おずおずとミカに尋ねる。
「男性陣は準備万端よ、影なんかワイン一本空けてるわ?」
「うわぁ…影さま…!」
言葉を失ったナルの青い髪を器用に結いあげたメイドたちは、手際良くメイクをも施し始める。
「大丈夫よ、なにも心配することはないわ、ナルは支度を済ませるまでここに居ればいいの」
「う、うん…」
ナルは不安そうに、師であるファルの顔を思い浮かべた。
プリーストの正装に似たデザインのフォーマルなスーツに身を包んだ影丞が、ためらう事なく新たなワインに手を掛ける。
手慣れた様子でコルクを抜き、グラスへ空気と馴染むように注げば深く濃厚な赤色が満ち溢れ、芳醇なぶどうの香りが鼻をくすぐる。
「これまたいいワインだなぁ!」
上品な香りごと口に含めば、期待を裏切ることのない重厚な味わいを楽しむことができた。
「うん、うまい!こっちもうまい!」
後のことなど考えず、ただひたすらにワインを傾け続ける影丞の様子を、もはやこの世の終わりだと言わんばかりに顔を引きつらせた寿が呟く。
「あわわ…式が始まる前に酒で潰れるでござるよ…!」
「いや、大丈夫だって!まじで!」
とても既に一本ボトルを空けたようには見えない素振りで、影丞はふたたびグラスを傾ける。
「ええ!?もう既に酔っ払いとか、いったいどういう事さ!?」
さらにワインを楽しもうとする影丞を止めたのは、ようやく到着したユグであった。
これ以上は許せないといった風に、慌ててグラスとボトルを取り上げるが、影丞は心の底から不満そうな表情を浮かべ下唇を突き出す。
「ユグは頭が堅すぎるんだよぉ!こうなったら一生毛玉に悩めばいいんだ、この狸めっ!」
「毛玉とか大敵!スモーキーを目の前にしてなんて事言うんだ!野生の動物をなめるなよ!?」
そんな二人のやり取りを楽しげに見つめていたのは真白のタキシードに身を包んだファルで、その傍に心底疲れ切った表情の寿が腰を降ろす。
「もうやだ!酔っ払いこわすぎるっ!」
「あはは、あとちょっとの辛抱だよ」
時計を視線を向けつつ、ファルは着飾っているタキシードの燕尾を気にする素振りを見せる。
何の事か予め理解している寿は頷き、とても小さな声で「大丈夫、外からは見えてない」と教えてくれ、その言葉にファルが安心したタイミングでタイミングよくメイドが現れ、続くようにして知った顔触れの老人たちが部屋へと案内されてきた。
プロンテラ大聖堂のマルシス神父に大司教、それにナルの出身元であるカピトリーナ寺院を治めるマシアス僧である。
「ファル!今日はおめでとう!」
マルシス神父はそれは嬉しそうにファルの手を握りしめ、何度も頷いてくれた。
「弟子であるナルと結婚すると聞いた時は、ほんとうに驚きましたよ!」
「ふふ、大聖堂も混乱しましたか?」
ファルの答えにマルシス神父は笑った。
「それはもちろん!あなたは有名な退魔師ですからね、噂は瞬く間に広まりましたよ」
師弟間での婚姻。
それは大聖堂では禁止されてこそないが、やはり職業柄か厳しい規律を守る聖職者同士ということもあり、いい顔をしない者も一定数いるのだ。
結婚を決めたとナルと共に報告したときのマルシス神父の顔は、もはや忘れることが出来ないほどの驚き様であった。
「ナルがアコライトの頃から世話をしていましたからね、快く思わない人もいたでしょう…」
つまり周囲には職権濫用したと思われたのだろうと容易に当たりがつき、耐え切れず苦笑したファルに大司教が言葉を掛ける。
「何をおっしゃいますか…だからこそ長い時間を掛けて愛を育んだのでしょう、素晴らしい事です」
大司教の言葉に感謝の言葉を返したファルは、緊張した面持ちのマシアス僧に深く頭を下げた。
「マシアス僧…いえ、ナルの父君…、この度はカピトリーナよりご足労くださりありがとうございます」
あまりの丁寧さにマシアス僧は慌てふためき、まずは顔を上げてもらうべく大きな身体には似合わない、どこまでも謙虚な態度を示す。
「やめてくれ、ファル君!今回はナルから父親役に抜擢されただけじゃないか…!どうか顔を上げてくれ!」
「しかし妻になる女性が父と仰ぐのですから、それはつまり私の父でもあります」
そう言い切ったファルは、満足そうに笑顔を浮かべた。
今夜はファルとナルの結婚式。
所縁の深い人々が二人を祝う為、今夜ここに集まっている。
式を行う場所はプロンテラの大聖堂ではなく、二人の助力を多くしたトゥエラーシュ家の敷地内にある教会が選ばれ、今まさに式に向け着々と準備が進められている最中。
トゥエラーシュ家が関わったおかげで、ナルが着るウェディングドレスのデザイン選択は最初から最後までミカに振り回されてしまったが、あの慌ただしくも幸せな準備期間は楽しいものだったとファルは思う。
「今夜は雲一つない満月ですから、どうぞ月明かりに映える妻を見て下さい」
「ああ、娘の晴れ姿、楽しみにしているよ」
マシアスはにっこりと微笑みを浮かべた。
その笑顔はナルの記憶を探していた時とは別人のような穏やかさと優しさに溢れ、ファルは表情に出すことなく心当たりを思う。
(…やはりあの時は情報を与えるよう、指示されていたみたいだな…)
忘れもしないレッケンベル関連のあれこれを思い浮かべたが、これから行われるのは愛する弟子であるナルとの結婚式であり、もはや過ぎた過去に囚われるなど意味がないと、未来への幸せに意識を切り替える。
まだしばし時間に猶予もあるため、それぞれ他愛のない話に花を咲かせていれば扉が控え目にノックされ、返事をすれば一人のメイドが顔を覗かせると深くお辞儀をしてファルへ声を掛けた。
「ファル様お待たせしました、ナル様の支度が整いましたがお連れ致しますか?」
「ええ!今すぐにでもお願いします!」
もう待ちきれない様子のファルの答えに、メイドは笑顔を浮かべると深く頭を下げ、穏やかな所作で退室してゆく。
新婦の姿となった弟子を今かと今かと心待ちにしていると、ゆっくり開かれた扉から純白のマーメイドドレスを纏ったナルが連れられてきた。
「お待たせ、師匠…」
はにかみながら上目遣いで自分を見る弟子の姿はとても美しいもので、息をするのも忘れるほどにファルは見惚れていた。
「ど、どうかな…?似合ってる?」
反応薄い師に不安を覚えつつ、つい甘ったれた声を出すと、それまで時を止めていたかのようなファルは何度も頷き、ナルの絹の手袋に包まれた手を取ると空色の瞳を揺らした。
「ああ!もちろんだとも、すごく似合っているよ!」
「ほんとう?」
「あれ?ぼくが嘘ついたこと、今まであったっけ?」
おどけながらも信頼できるファルの言葉には、今までの師弟としての積み重ねがあり、ナルは疑う余地などなく落ち着いた顔付きで首を横に振る。
「それなら自信をもって、ぼくの隣に立ってほしいな…?」
ファルこそ自信たっぷりに言い切り、その言葉に頬を染めたナルは小さく「ありがとう」と呟くのが、恥ずかしくて精一杯だった。
そんな師弟の微笑ましいやり取りのなか、遅れてきたステアが借りてきた猫のように静かに入室した。
紫色のチャイナ風のパーティードレスを着こなしているが、なにやら具合悪そうに部屋の片隅にあるソファに静かに腰を下ろし、そのあまりの顔色に気付いたユグが声を掛ける。
「な、なに…?どうしたの、ステア?」
「…内臓、口から出てきそう…」
ステアの言葉に尻尾がスーツから飛び出しそうになったが、共に入ってきたミカの「コルセット」という言葉にステアを襲っている地獄の正体を理解した。
とうとう式に参列する人間達が勢揃いし、待ちに待った二人の結婚式が幕を開ける。
月明かりのなか、運命を告げる定刻は訪れた。
各々は教会へと場所を移し、ストレイキャットたちは先に参列席へと案内され、ファルは祭壇にて牧師と共に父親役のマシアスとナルが入場してくるのを待ち侘びていた。
コルセットの締め付けに耐え切れなくなったステアは独断で早々に外しており、血の気の良くなった顔付きでミカに耳打ちする。
「んで、ナルはいつになるんだ?」
ミカが人差し指を口に当てがいながら「静かにして」というアクションをした瞬間、教会内に荘厳なパイプオルガンの音が鳴り響く。
秘密の花園が紐解かれるようにして開かれた扉から、マシアスと腕を組んだ純白色のウェディングドレスをまとったナルがゆっくりと入ってきた。
「おー、すごいな!」
「もうステアったら!ちゃんと静かにして!」
ぐいぐいとミカに押されて身を縮めるステアが遠目でもしっかり見え、ナルは思わず笑みを浮かべた。
(ステア様ったら、もう…しょうがないんだから…!)
赤いバージンロードに、白いドレスはとてもよく映える。
ファルと牧師が控える祭壇、その先に広がる満月の光をたっぷりと受ける大きなステンドグラスは柔らかな月光を教会内へと導き、夜の幻想的な結婚式の雰囲気をさらに高めている。
ちょうどステア達の並びまで来たマシアスとナルは足を止め、二人は組んでいたその腕を名残惜しそうに外した。
「ナル、幸せにおなり…」
マシアスの優しい声にナルは頷く。
「はい、マシアス様…ありがとうございます…」
震える声で心の底から笑顔を浮かべる仮の娘の姿はなんとも儚く、この式はまるで永遠の別れのようにも思えてしまい、感極まった目頭に熱い物が込み上げる。
紺碧の瞳に光を湛えたナルは視線をファルへと向け、彼女はたった一人で彼の元へと続くバージンロードを再び歩き出す。
去り行くナルの後ろ姿は月明かりに導かれた神話の姫のようであり、その美しさたるや今にも消えてしまいそうな儚さを放つものだから、とうとう我慢の限界を迎えたマシアスは大粒の涙をボロボロと零し始めてしまった。
「ちょ!おっさん泣いちゃったぜ!」
「そういう事言うな、影!俺も泣けてくるから!」
影丞と寿のやり取りにユグが頭を痛めている間にナルはすっかりファルの元へと辿り着いており、エスコートをする師の手を取る弟子の手は恥ずかしそうに揺らいでいた。
見つめ合う二人の準備が整ったのを見計らった牧師は一度咳払いをし、ファルに向かって聖書を片手に穏やかな声を発した。
「汝、ファル・スカイに問う…」
名前を呼ばれたファルは背筋を伸ばす。
「健やかなる時も病める時も、ナルを愛し敬い慰め助け、その命ある限り心を尽くす事を誓いますか?」
「誓います」
ファルの凛とした返答に満足そうに頷いた牧師はナルに向かって同じ問いをし、ナルもまた迷うことなく「誓います」と真剣な眼差しを以て答えてくれた。
二人の誓いに頷いた牧師は祭壇よりガラスで作られたトレイを手に取り、その中で絹のクッションに丁寧に乗せられたプラチナの指輪を差し出す。
「さあ、指輪の交換を…」
ファルがサイズの小さな指輪を手に取り、純白の手袋にて隠されていた左手を顕にする。
華奢なその薬指へ婚姻の証である指輪を嵌めれば、それに倣うようにナルもファルへ指輪を嵌めるため手を取る。
ナルはファルの手が大好きだ。
ファルの大きな手に触れているだけで安らかに過ごすことができたし、それは今この瞬間ですら例外ではなく、自分をここまで引っ張ってくれた手に見惚れながら、愛おしむようにゆっくり指輪を嵌める。
二人の指輪の交換を確認した牧師は、胸元のロザリオを握り締めると最後の誓いを告げた。
「それでは、神に誓って口付けを」
ファルは丁寧に編み込まれた淡雪のようなケープをゆっくりと持ち上げ、その際、目が合ったナルといえば、目を伏せがちに早熟の桃のように頬を染めていた。
あれほど愛をささやき、これからもそれを誓うと告げたばかりであるのに、慣れることなく恥ずかしがるその様子はどこまでも微笑ましく、ファルは気遣うように小さく声を掛けた。
「ふふ…!さあ少し顔をあげて、目を閉じて…あとはぼくに任せて…?」
甘い声のまま言われた通り、ナルは瞳を閉じる。
師であるファルの顔がまぶたにより遮られた、その時…。
教会内にするどい馬の嘶きが響き渡った。
それと同時、二人を月明かりで照らしていたステンドグラスは大きな音を立て崩れ落ち、その破片からナルを庇ったファルは周囲を警戒する。
「なんだ!?」
ステアの声を合図に、割れたステンドグラスの先にある原因たるナニかを見定めようとそれぞれが視線を向ければ、そこにはナイトメアの群れを従えた一人の剣士の青年が佇んでいた。
何事かと騒然とする式場内に、その剣士の声が凛と響き渡る。
「我にも誓わせてくれ…憎き退魔師、ファル・スカイの息の根を止める、と…!」
それはかつてゲフェニアを陥落させた恐ろしい悪魔、ドッペルゲンガーであった。
「あいつ、こんな所まで…!」
ファルは奥歯を噛み締め鋭い視線を向ければ、相手もその紫電の瞳でファルを睨み付けている。
二人の愛の証人である牧師は腰こそ抜かしているが、この状況下でも冷静な寿が安全な場所へ避難させるため手を引いているのがファルの目に写る。
腕に抱くナルといえば、今はしがみつきながら突然のことに慌てふためいていた。
「…ぼくの結婚式をジャマするなんて、ゲフェニアの悪魔も不粋だね?」
冷静に答えるファルが気に食わないようで、ゲフェニアの悪魔は音を鳴らすほどに歯を食いしばる。
「黙れ!二度とその口、開かぬようにしてやろう!」
ツヴァイハンダーを握りしめ、悪魔はファルへと斬りかかった。
「ステアさん、ナルを!」
瞬時にナルを抱き上げれば当然の如く悲鳴を上げたが、そんな事はお構いなしにステアたちが待機する席に花嫁を放り投げると、ファルはタキシードの燕尾に隠していたカタールで受け止めた。
(くっ!なんて重い一撃なんだ!)
ドッペルゲンガーの太刀筋をまともに受けては己が持たないと判断したファルは、カタールの湾曲をうまく利用する事でいなすような動きを実現し、相手の荒い剣撃を受け流す。
力を流されることになったドッペルゲンガーは体勢をすこし崩し、ファルはそのわずかな隙に祭壇に供えられていた聖杯を手に取ると、中身の聖水をカタールに振り掛けた。
「神の刃に聖なる力を!アスペルシオ!」
ファルのカタールが強い光に包まれ、祝福を受けた聖武器へと変わる。
「そんな物で、我が止められるものか!」
激昂している様子の悪魔の剣は重く、目が回るような手数から繰り出される一閃の数々がファルを襲う。
「阿修羅覇王拳!」
二人の間に入り込む形でマシアス僧の渾身の一撃が放たれた。
しかし一撃必殺の拳は無惨にも空を切り、マシアス僧の阿修羅覇王拳を難なく避けたドッペルゲンガーは一層その眼光を強くした。
「遅い!ジャマをするなッ!」
戦いに水を刺されたことでさらに怒りを露わにしたドッペルゲンガーは、マシアスの巨体など関係無いように派手に蹴り飛ばした。
「マシアス様!」
控え席の椅子は崩れた瓦礫となり、響くナルの悲鳴。
しかし、マシアスが作ってくれた千載一遇の好機を見逃すファルではなかった。
わずかな隙に詠唱が終わり、退魔魔法が完成するのは必然だった。
「悪しき者に神の制裁を!マグヌスエクソシズム!」
「く、しまった…!」
ドッペルゲンガーの足元に巨大な魔法陣が顕現し、十字に浮かび上がった聖なる光は惜しげもなく悪魔を照らすと焼けるような熱をもたらし、流石にゲフェニアの悪魔も堪らず苦悶の表情を浮かべた。
しかし、焼かれることなど構わぬ様子の悪魔は、憎しみを以て再びファルに斬りかかった。
「これしきの退魔術で、我を止められると思うたか!」
武器で戦うストレイキャットの面々は、まさか結婚式にて襲撃があるとは想定していなかったため手ぶらであり、出来ることと言えば唯一準備をしていたファルを見守るしかなかった。
「ユグ!ミカ!なんとかならないのか!?」
ステアに呼ばれた魔法職の二人は悔しそうな表情を浮かべ、それぞれ首を横に振る。
「ムリだよ!」
「私たちだって、やれるならやってるわ!」
ユグもミカも魔法でファルを助けたい気持ちは一緒であった。
しかし、こうも密着して刃を交えていると魔法自体がファルに当たる可能性が高く、魔法の命中精度に絶対の自信を持っていたとしても、彼等の動きの速さに合わせるのは至難の業。
ましてや、相手は阿修羅覇王拳を避ける程の身体能力を持っているため、迂闊に手を出す訳にはいかない。
その時、一際甲高い金属音が響き渡る。
それはファルのカタールの片方がツヴァイハンダーにより叩き割られた音で、勝負の明暗を決定的にするものであった。
「なんだって…!?」
アスペルシオで強化をした武器を破壊するなど、ゲフェニアの悪魔の剣技はファルの予想を超えていた。
武器の破損による動揺は避ける角度を見誤らせ、左の腹部を悪魔の一閃が掠めれば、ファルの真白のタキシードは薔薇のような鮮血で赤く染め上げられる。
「師匠!」
ナルの悲痛な叫びは己の敗戦を告げるように響き、痛みで顔を歪ませるファルの視線は弱々しく弟子へと投げ掛けられた。
「ナル…だめだ、逃げて…っ!」
ファルの視線の先、ウェディングドレスに身を包んだナルを認識したゲフェニアの悪魔は口元を吊り上げ、納得した様子で剣を納めた。
「…そうか、あれが貴様の伴侶、か…」
紫電の瞳は生気なくナルを映す。
どろりと絡みつくような悪意を込められた視線に、ナルは喉を鳴らして身体を震わせる。
しかし、紺碧の瞳は決して屈することのない強さを湛えており、彼女が持つ退魔師の妻に相応しい素質を匂わせた。
「ナル下がって!ファイアーウォール!」
狙いが変わった事に気付いたミカがナルの前に炎の壁を打ち立てたが、それは少しばかり遅かった。
音も立てずに瞬時に移動したドッペルゲンガーはナルの目の前にすでに佇んでおり、その腕を掴むと強引に立ち上がらせる。
「やだっ!痛い!離して!」
「ナルッ!!」
今なお床に伏せながらも焦るファルの声色に、ドッペルゲンガーは嬉しそうにナルを乱暴に抱き寄せる。
「ふふ、貴様には散々と苦汁を飲まされているからな、このまま殺すだけではつまらぬ、この女…さらわせてもらおう…」
悪魔の言葉にファルは戦慄した。
出血も相まり、顔色はみるみると青褪め、呼吸は荒げる。
「やめろ、ナルは関係無い!狙いはぼくだろうッ?!」
冷静さを欠いたファルの様子に、ゲフェニアの悪魔は満足そうに微笑む。
「ふふ!退魔師よ、とくと悔い改めるがいい!」
ナイトメアを呼び寄せたドッペルゲンガーはナルを乱暴に抱えたまま飛び乗り、勝ち誇った表情でファルを見下ろす。
「たすけて、師匠!師匠…っ!!」
「うるさい女だ、黙れ」
思わぬ戦利品となったナルの口を塞ぎ、ドッペルゲンガーはファルに告げた。
「この女、返してほしくばゲフェニアまで追ってくるがいい…!」
自分の攻撃をさんざん受け止め続けたファルが手負いとなり、もはや限界であると分かった上での挑発は効果的面で、口元を塞がれて叫び声も上げられずに涙を浮かべる弟子の姿は、ファルの目にこれでもかと焼き付く。
「やめてくれ、頼む!ナルだけは…っ!」
「ああ…だからこそ、貴様から奪うのだ…」
ファルの懇願する言葉へ満足そうに答えたゲフェニアの悪魔は、絶望を残しナイトメアと共に闇夜へ姿を消した。
出血により限界を迎え、とうとう意識を手離したファルはそれを最後に気を失ってしまった。
「ファル!しっかりしろ!」
寿を筆頭にストレイキャットのメンバーがファルの元に走り寄り、マルシス神父は震える膝で立ち上がると神に祈った。
「神よ…どうか、どうか…!ナルをお護り下さい!」
ドッペルゲンガーに連れ去られたナルは、ゲフェニア遺跡へと来ていた。
先にナイトメアから降りたドッペルゲンガーは、ナルが間違って落ちることが無いよう手を取ると、ゆっくりと地面に降ろしてやる。
「…師匠、大丈夫なのかな…」
ぽつりと呟かれたファルを案じる言葉に、ドッペルゲンガーは眉をひそめる。
「腹の傷か?あれは浅く斬っただけだ、回復魔法でなんとでもなろう」
「でもシオン、ちょっとやり過ぎだよ…師匠…」
ドッペルゲンガーをシオンと呼びながらも、瞳を揺らす姿は心の底からファルを案じているのが伝わり、シオンはたまらず不機嫌そうな顔を浮かべた。
「カタールまで折らなくてもよかったのに…」
すっかり気落ちしたナルの左手をとり、その薬指に嵌められた指輪を外しながらシオンは告げた。
「いいか?あのまま演技を続けていたら、誓いの口付けをされていたんだぞ?」
「そ、そんな…!」
言われてみれば、もう鼻の頭が付くほどに師の唇が迫っていたような気もする。
「でも!ちゃんと予定通り、シオンは間に合ったでしょ!」
ナルのこういった鈍感な所に、シオンは頭が痛くなる。
ステンドグラス越しに、あのまま本当に愛を誓う口付けをしてしまうのではと焦っていた自分は一体なんだったのだろうか。
(まったく、己の身の危険には、てんで頭が回らないというのは困りものだな…)
シオンは苛立ちを抑えるため、瞳を閉じて深呼吸をした。
今回の退魔師弟の結婚式。
ファルとナルで挙式をあげるが、それは本来の意味を持つ婚姻ではなかった。
彼女を二度とレッケンベルのような輩に狙われぬよう、その地位を正式に、かつ確固たる物にすべく、その為に名の知れた者に嫁ぐのが一番であると、ミカ発案のもと決まった作戦であった。
俗世にはナルが魔王の娘という事は決して知られてはならず、その傍には有名な「退魔師」が師として付いている。
ミカの「この好条件、見逃す訳にはいかないわ!」という言葉には、確かに有無を言わさない力があった。
退魔師ファルといえば、教会に関わる人間ならば一度はその名を耳にしたことがある人物であり、上層部の人間になるほどにファルの地位、その強さの意味は桁違いとなり、さらにその妻となれば、それこそ害を加えるような真似はできない。
そして、挙式中に悪魔にさらわれるというアクシデントを起こせば師弟の結婚はさらに話題となり、ファルにより奪還されたナルが晴れて夫婦となれば地位は安泰、という話である。
不老になってしまった事も、さらわれている間に何かあったのだと有耶無耶に出来る都合の良い政略結婚なのだ。
「しかし、ファル…あいつは本気で式に臨んでいたな…」
あのステンドグラスを割る寸前の口付け。
あれは確実に間違いなく、ナルの唇を掠め盗ろうとしていたのが見てとれた。
(なにが人間の夫だ、ばかばかしい…!)
シオン自らナルとの関係性を「人間の婚姻とは違う」と言ったものの、今ではそれをひどく後悔し、あの時の自分に対する怒りを腹に飼い慣らしていた。
主従である自分の方こそ絆が強いと思っていたが、この婚姻の話が進むほどそうは思えなくなっていた。
「タキシード姿の師匠もかっこよかったなぁ…」
肝心のナルといえば相も変わらずで、さらに頭痛の種が増える。
(…夫が二人いるようなものであるのに、はたして理解してるのか…?)
しかしナルのドレス姿は悪くなく、むしろ甘美なものに見えてしまうのだから、自分に潜む甘さの海はどこまでも深いのだと自覚した。
「ファルが終えたのだから、次は我の番だろうな?」
「え…!シオンとも式を挙げるの…?」
突然の言葉に急に相手を意識したナルは、恥ずかしそうに頬を染めた。
「我はナルの主であるゆえ、あの儀式も見合うべき必要な対価ではないか?」
「でも師匠、ぼくは魂をもらってない分、しっかり別のものをもらうからねって言ってたよ?」
(あいつ…!)
聖職者にあるまじき欲深さに、シオンは口を噤んで奥歯を噛みしめる。
ナルの穏やかさは自分を不安にさせる時もあるが眷族ゆえに何処かにいってしまうことはなく、ふらつくのであれば捕まえておけばいいと悟り、これからはひたすらに彼女を追い続けることに決めた。
それは不安に思い悩むよりも、ずっと心が軽かった。
「ねえシオン、ゲフェニアには何日くらい居たらいいの?」
「そうだな…三日も居れば大丈夫だろうが、ステアから連絡を待つべきだな」
「えー、三日も!…新婚旅行はいつになるのかなぁ…」
ナルの言葉に、奪還後に行われるジャワイ島への新婚旅行の予定を思い出す。
(…ああ、そんなものもあったな…)
浮かれてあれこれ話してくるファルを思い出し、シオンは苦虫を噛み潰したような気持ちになった。
あくまで政略結婚とはいえ、想いを寄せつつ隙あらばと虎視眈々としているファルと二人っきりにさせるなど許し難い。
「…ゲフェニアへ旅行に来れば、思う存分ジャマが出来るのに…」
「え?何か言った?」
思わず考えが口に出ていたようで、シオンは「なんでもない」と首を振りながらナルのケープを外す。
整えられた髪にコサージュが添えられている様は、なんとも可憐で心を揺さぶられる。
「…ナル、ずっとここにいていいのだぞ?」
朽ち果てたゲフェニアに咲いた一輪の花のような眷族。
それを手折ってしまわぬよう、優しく抱き締めた。
「もしかして、心配してるの?」
ナルの言葉に隠し事はできないと諦め、シオンは苦笑した。
「ああ、退魔師に祓われてしまうのではと、冷や冷やしている」
「お師匠様に?」
「ああ、お前を取られてしまいそうだと、そう案じているよ」
素直に出てきたシオンの想いに、ナルは頷いて答える。
「そうだったのね…でも心配しないで、私の主様」
耳を掠めるように呟かれた言葉は甘く優しく、これから悠久の時を共に過ごしてゆくことを、彼女の主となった悪魔は思う。
(なんのことはない、これは始まりなのだな…)
ゲフェニアの悪魔と魔王の娘は、ようやく始まりの地に足をつけたのだ。
「そうだな、そなたは何処までも我と共にあるのだ」
「うん、主様…!」
繋がれた手は決意の証。
孤独を抱えた二人は寄り添いながら、未来へ向けて歩き出したのだった。