きみのゆうわくのめ


■-1

 もう眠らなければいよいよ明日に響く。アユルスは読んでいた本を閉じて片付けると、ブランケットへと潜り込んだ。まだ寒い時期であり、冷えきった寝具に震えながら身を丸める。
 部屋で一人の時間を過ごしていたが夜更かしが過ぎてしまい、父のルイセも義妹のナユルも別室でとうの昔に眠りに就いているだろう。多少の後悔がアユルスを襲ったが、今日は何故かあまりに眠れぬ夜であり、読み耽っていた筈の本の内容もあまり頭に残っていなかった。
 普段ならば心地良く眠りへ落ちるが、今夜は居心地が悪く何度も寝返りを打つ。その中でふと窓の外を見ると、青白い月光がやけに眩しく見えた。見ている内に先日目にした黄金の光を思い出す。それを大層美しく感じた思い出が先へ進み、ジダルドとのひと時を脳裏に映した途端に身の奥が疼き出した。最初は気の所為かと思う程度に僅かなものだったが、徐々に落ち着きが無くなるのを自覚した頃には耐え難いものへと変貌する。どうすべきかを考えたが、思い当たる一つ以外にどうする事も出来なかった。
 体を横たえた侭で手を上着の下に差し入れる。胸元を数回撫でてから先端に指を当て、潰すように撫でてみると体が小さく跳ねた。
「ん……ふ……」
 声は出せないが、滲むように這い上がる疼きを止められない。過る記憶には悦んでいる自身がおり、そうさせるジダルドの姿がある。やがて声には出さずジダルドを愛称で呼びながら、アユルスは行為に耽った。宿り始める熱は思考を白く染め上げるようで、丁度その時に似ている。続く記憶は激しさを増し、現実が物足りなくなった頃だった。
『――アル』
 想像の中で呼ばれたにしては明瞭な声に、アユルスはいつの間にか閉じていた目を開ける。熱を帯び始めた目には窓の外の月影が一瞬揺れたように見えた。
「はぁ……」
 感覚に詰まりそうな息を吐くと、また声が聞こえる。
『アル……、ごめんね』
 それがテレパシーだと気付いた瞬間、アユルスの背筋に悪寒が走った。アユルスが凍り付いた侭で何も出来ずにいると、思念の声が続ける。
『ただ元気かなって思っただけだったんだけど、これじゃ言い訳にもならないよね。趣味悪い覗きになっちゃった』
『……ごめん』
 アユルスが思考で謝ってみると、ジダルドの反応があった。
『なんでアルが謝るかな……。もうそっち行っていい?』
『うん……』
 答えてからアユルスは再度寝返りを打ち、其処に見えた姿に目を見開く。一瞬の内にこの場へテレポートしたジダルドは、淋しさを湛えた顔でいた。その見慣れなさにアユルスが何も言えずにいると、ジダルドは徐に寝台へ歩み寄る。そうして傍らへ跪いたジダルドは、そっとアユルスの頭を撫でた。途端にアユルスの表情が歪み、涙が次々に零れ落ちる。止め処無く溢れる涙にジダルドは薄くだが漸く微笑みを浮かべ、別室へ漏れないよう小さな声で語りかけた。
「俺もね、馬鹿みたいに淋しかったんだ。だからこんな時間にテレパシーなんて送っちゃったんだよ。そしたらこんな事になっちゃってさ。ごめんね」
 アユルスは涙を拭いも出来ず、小さくかぶりを振る。
「いいよ……。ジダルド、今一階にいたんだな」
 塔は階によって時の流れが一定しておらず、各階の時を正確に計る時計の製作もまだ難しいとされている。此処一階が深夜であると正確に知るには一階にいるしかない。前回の慰安旅行の際に十二階が一階と近い時刻だった事や、翌日のかなり早かった起床時刻についてはジダルドがテレポートを駆使して予め確認していたのだろうが、それも若干の賭けだった。
「うん、鎧の城下町にね。最近は低層階にいるよ」
「低層階のギルドは報酬が安いって言ってなかったっけ……」
 ジダルドの主な収入源は各階に存在するアドベンチャーズギルドに寄せられる依頼であり、中でも戦闘関連のものを多く選んでいた。命懸けの仕事にわざわざ低報酬を選んでいては割に合わないだろう。
「まあねえ。でも生活は困んないし、何よりさ」
 ジダルドは表情を隠すように寝台へ顔を伏せた。
「俺がアルよりもっと早く死んだり、俺より先にアルが死んだら、やだなって思ってさ」
 ジダルドはアユルスよりもやや年上であり、順当にいけば少し先に寿命を迎えるだろうが、上層階程に激しくなる時の流れの違いはそれをも狂わせてしまう。その事実を悲しみ、執着しているジダルドの心根を見て、アユルスはまた涙が滲むのを止められなかった。
「駄目だよ……、俺に合わせたら、ジダルドが窮屈になるだけだ……」
 自由気侭に生きていたジダルドは、今やアユルスの存在に縛られすらしているのだろう。それがジダルドの望みであったとしても、アユルスは何処かに引け目を感じてしまい喜べずにいた。
 ジダルドが少し顔を上げ、目が合う。優しく頭を撫でる手はやはり温かかった。
「アル。俺はね、とっても幸せだよ。そういう風に俺の事心配してくれて。前みたいにその辺ぶらぶらしてたら、絶対こうなってなかった。だから最初、アルに危ない事しか出来なかったんだと思う」
 一歩間違えれば即死だったジダルドの攻撃を受けきったのは、強い魔力を持つ人間というアユルスの特異性による全くの偶然でしかない。結果として無事だったとはいえ、ジダルドはあの瞬間を強く後悔していた。
「前は好き勝手生きて、適当に死ねばそれでいいやって思ってた。でもね、それじゃ多分駄目なんだよ。今ははっきり、死にたくないなって思えてる。それもアルのお陰なんだよ」
 涙に濡れたアユルスの赤い瞳を覗き込むように、ジダルドは顔を寄せて囁く。
「だからね、アルもうんと淋しいって思ってほしいな」
 そうしてジダルドから短く触れるだけの口付けをされ、アユルスは涙声で訴えた。
「一緒にいていい?」
 伸ばされたアユルスの腕がジダルドの背に回る。ジダルドは微笑み、また囁いた。
「じゃあ、攫っていい?」
 アユルスの頷きを確認してから、ジダルドはアユルスの体を抱き上げる。あまりに軽い手応えはアユルスが何ら特別な存在ではなく、その脆弱性も他の生物と変わらないのだと改めて示すようだった。



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