影法師の涙痕
■-1
特異性は必ずしも強さではない。弱さを実感した瞬間を思い出す度、深い無念に襲われた。
遮る手に、全てを諦めた言葉に、治療を止めてしまった。これは確かな後悔であり、無念はその先にある。
強ささえあったならば、血に沈んだ悲しみをこの手で救えたかもしれない。
『アル、遅くにごめんね。今いいかな』
夜も更け、ブランケットへ包まり眠ろうとしていたアユルスへ、ジダルドからのテレパシーが届いた。合言葉で送信を開放し、思念で応答する。
『大丈夫だよ。どうしたんだ?』
『明日、アルの仕事が終わったら一時間くらい付き合ってほしいとこがあるんだ』
現在夜である事が一致しているので、ジダルドは一階にいるようだ。その事実にアユルスは一欠片の喜びを覚えつつ応える。
『一時間くらいなら大丈夫だけど、何処に行くんだ?』
『それは着いてからのお楽しみー』
行き先を教えられないのは気になるが、少なくとも悪い話ではないのだろう。アユルスは小さく笑いを零して応えた。
『じゃあ楽しみにしてるよ』
『ありがとね。がっかりはさせないからさ』
そうして待ち合わせの場所を塔の北側にある広場に決め、テレパシーでの会話を終える。再び静かになったところで目を閉じるとすぐさま眠気を覚え、程無くしてアユルスは眠りへと落ちた。
翌日、追加の仕事も無く、滞りなく業務を終えた事にアユルスは安堵の息をつく。帰り支度を終えて同僚と挨拶を交わす中、鳥人間系モンスターの同僚が挨拶に続けて話しかけてきた。
「お疲れ様。なんか今日、いい事あった?」
期待が表に出ていたと指摘されたも同じだろう。アユルスははにかんだ笑みで答えた。
「いえ、でも……これからあるかもしれないんです」
すると鳥人間は口元に翼を添え、小声でアユルスへ尋ねる。
「もしかしてジダルドさんだったりして」
言葉にアユルスは目を見開き、同じく小声で告げた。その声音には明らかな恥じらいがある。
「なんで解ったんですか」
「ううん、ただの勘だよ。呼び止めてごめんね、いってらっしゃい」
アユルスは今一つ答えに納得がいかなかったが会話も終わってしまい、困ったように軽く眉根を寄せて頭を下げた。
「いえ……、いってきます」
その場を去るアユルスの足取りは何処か軽く、隠せない喜びの印に鳥人間は小さく笑う。そして二人へ段々と興味を持ち始めている、どうする事も出来ない自身の野次馬根性を認めた。
塔より北に位置する広場へと辿り着き、アユルスは中央にある背の高い看板近くまで歩く。様々な主要施設への方角を示す看板は広場でも特に目立ち、待ち合わせの場所としても周知されているものだ。周囲には同じく人を待っているのか、佇む人々の姿がある。其処にジダルドの姿は無く、まだ到着していないようだ。
夕焼けが照らす往来へジダルドを探すが見付からず、アユルスは何と無しに夕日の方角を見る。今日の空は多少曇りがちであり、雲は朱色と薄い青色とが混じり合う色になっていた。彩りは何処かアユルスの胸中をざわつかせ、その感覚に堪らず人混みへと目を戻した直後、アユルスは目を見開く。
視線の先には、一人の男が少女と手を繋いで歩いていた。男の姿を見た瞬間の記憶が溢れ、アユルスは胸元を押さえる。
自身を刺し殺した男の姿を、忘れようもなかった。
呼吸が乱れている事に気付いた頃、男の目がアユルスの姿を捉える。途端に表情を憎悪に歪め、男は少女の手を振りほどいてアユルスへ早足で近付いた。
アユルスは反射的に後退りしたが、それ以上足が動かない。やがて眼前に来た男は、突然拳をアユルスの頭へ叩き付ける。衝撃にアユルスはその場へ倒れるようにくずおれ、続けざまに体を強く踏み付けられた。
幾度も続く痛みの中でアユルスは蹲り、頭を腕で庇う。男は錯乱し喚いていた。
「どうしてっお前はっ、許されないんだっ死ぬべきなんだっ死ねっ」
その後ろから少女の泣き声が聞こえる。
反撃を考える思考すら恐怖に押し流され、大粒の涙だけが勝手に溢れてきた。奥底に抱えていた罪の意識が表面化し、再び絶望と自責を連れてくる。それらがあの諦念を思い出させるのに、そう時間はかからなかった。
不意に、続いていた衝撃が止まる。
「何してくれてんの、また」
深い怒りに染まった重い声を聞き、顔を上げたかったが痛む体は動いてくれなかった。意識も何処か遠く、男の返答は上手く聞き取れなかったが、聞き取りたくなかったのかもしれない。
「このヒトは俺の大切なヒトなの。大切なヒトを殺される気持ち、アンタにも今すぐ知ってもらいたいけどさ、アンタと同類なんて御免だしね」
あくまでも静かに告げる声には多大なる嫌悪感が込められている。そして同類を拒否する選択のもたらす苦痛を耐え忍ぶようでもあった。
「消えなよ、あのコの為にもさ」
言葉の後に急いた足音が聞こえ、泣き声と共に遠ざかる。
「アル」
降ってきた呼び声が温かく、凍り付いていた全てを溶かされるようだった。辛うじて顔を上げると、傍らに跪いたジダルドの姿が見える。ジダルドは困ったように微笑むと、アユルスへそっと手をかざした。手を覆う白く淡い光は、今し方治癒能力へ書き換えた特殊能力によるものだ。そうして痛みは徐々に引いていくが、同時に恐怖が濃度を増してアユルスへ襲いかかる。
ふらつきながら上体を起こしたアユルスは、消え入りそうなか細い声で呼んだ。
「……ジダルド」
ジダルドは一つ頷き、堪えるような声で告げる。
「諦めないで」
それは小さな希望であり、大いなる呪いでもあると理解し、その上で告げるしかないものだ。
やがて治癒を終えたジダルドがアユルスの体を抱き締める。温かな腕の中でアユルスは動けず、嗚咽に潰されそうな声で尋ねた。
「俺は、死ななくて、いいのかな」
ジダルドは肯定も否定も示さずに告げる。
「生きてていいか悪いかなんて誰にも決めらんないよ。決めちゃ駄目なんだよ。決めていいのは、そのヒト自身が生きよう、死のうって思う事くらいだよ。ヒトの自由ってそんなもんだからね」
アユルスの頭を慈しむように撫でる手は、思考を乱す恐怖を取り去るようだった。
「でも、アルが死にたがったら、俺は全力で止めるよ。それが俺の自由ってやつだし、そうするヒト、他にもいると思うよ」
「……うん」
絶望から引き上げられ、アユルスは確かに頷く。返答にジダルドは身を離し、アユルスが立ち上がるのを支えた。
「それじゃ、行こっか」
「うん」
普段通りのジダルドにアユルスは涙を腕で拭い、共に歩き出す。それは果てしなく重く、踏み出したいと望む一歩だった。
Next
Back