自堕落のおさそい
■-1
寒空の下、夕日が沈む帰り道を行く足取りは重い。魔法書を造本する作業自体には慣れたが、魔力を込める工程において精神力を直に消費する感覚には一向に慣れない。ベーシックタウンで仕事に就けた事や其処に至るまでの助けを思うと、そして職場の環境そのものは劣悪でない事を加味すると贅沢は言えなかった。他に出来る事といえば狩猟関係であり、それを自身が好んでいないのも転職に至らない理由としてある。何より魔法書の造本作業は嫌いではない。この重々しい疲労の始末にだけ手を焼いていた。
ふと建物の隙間に野草が力強く花を咲かせているのを目にして、下ばかり見ていたと気付く。アユルスは一つ溜め息をつくと足を止めた。建物の壁へ凭れながら花の傍らに屈み、小さな白い花弁をじっと見詰める。こうして花を愛でるような余裕が生まれたのもつい最近の事であり、感謝は尽きない。
束の間疲労を忘れていると、不意に声が降ってきた。
「アル」
アユルスを愛称で呼ぶ人物は一人しかいない。顔を上げて見えた人物は予想通りであり、アユルスは安堵の表情を浮かべた。
「ジダルド、来てたんだ」
「うん、来ちゃったー」
笑顔で手を振るジダルドに足りないものへ気付き、アユルスは首を傾げる。
「あれ、ルルムは?」
普段ならばジダルドの頭の上にいるルルムがいない。ジダルドはアユルスの隣へ腰を下ろしながら答えた。
「ナユルちゃんにお願いしてきちゃった」
預けたのが自身の義妹ならばと安心する一方で、アユルスは別の疑問を投げかける。
「それならいいんだけど、でもなんで?」
「アルに用があってね、疲れてるとこ悪いんだけどさ」
ジダルドの目が悪戯めいて細まるが、アユルスは瞳に不安を揺らした。
「……俺、なんかした?」
まず自身の非が無いかを気にする辺りへアユルスの苦い経験から形成された性格を思いながらも、ジダルドは平然として緩々とかぶりを振った。
「いーや、なんにも。ただ慰安旅行のお誘いに来ただけだよ」
「慰安旅行って、俺なんかしたっけ……」
今度は心当たりの無さに怪訝な表情をするアユルスへ、ジダルドは顔を近付けて囁く。
「嫌?」
穏やかに問われ、アユルスは困惑に眉根を寄せた。
「嫌じゃ、ないよ……」
「ふふ、決まりだねえ」
素直さの滲む答えにジダルドが満足げに笑い、アユルスの手を取る。
「じゃあ行くよ、掴まって」
その侭腕を引かれ、アユルスはジダルドの肩口に顔をうずめる形になった。テレポートする気らしい。
「えっ、今から?」
「そうだよ」
ジダルドの言葉が終わる頃には目の前の光景が書き換わる。次に見た光景はベーシックタウンの何処でもなく、一階には普及していない電灯があちこちに見えた。建物の造形も異なり、全く別の世界に来たのだと悟る。
突如現れた二人に通行人が幾人か足を止めて驚いているが、エスパーであるジダルドの姿を見て納得したのか、立ち止まっていた者も徐々に元の人混みへと戻っていった。
「此処は?」
ジダルドから身を離しながらアユルスが尋ねる。
「十二階だよ。最近活気が出てきて、すっかり町になったんだって」
十階の空中世界と似たような環境だが世界の規模は小さく、昔は無人世界だったらしい。上を見ると建物の間に星空が広がっていた。
「なんかいいにおいする……」
ふと鼻先を擽る香りに気付いたアユルスが呟く。夕食はまだ取っておらず、空腹を刺激されたようだ。
「夜の屋台が有名でさ、食いに行こっか」
「うん……あっ、でも、何も言わないで来たから……」
生真面目なアユルスの更なる不安へ、ジダルドが冗談めかして報告する。
「アルのおとうさまにもちゃんと連絡しときましたー、テレパシー使うなって怒られましたー」
アユルスの父であるルイセも了承したとあれば、迷う必要も無かった。
「そっか。じゃあ、いいかな」
漸く見えたアユルスの微笑みは、果たしてどれ程長い間無かったものなのだろうか。
屋台で料理を注文し、代金を出そうとしたアユルスの手へ、ジダルドが重ねるように手をかざして止める。
「誘ったの俺だしねえ」
無邪気な笑顔で言われてはアユルスも甘えるしかなかった。
小振りの椀に入った煮込み料理はかなり熱く、汁を啜ると体の芯から温まる。屋台の料理はいずれも小型であり、食べ歩きを意識して作られているのだろう。
物珍しいのかアユルスは周囲を見回していたが、ふとその視線が一軒の屋台に留まった。ジダルドはそれを見逃さずに尋ねる。
「あれ食いたいの?」
「うん……、いいかな」
肉や野菜に串を刺し、たれを付けて焼いたもののようだ。まだ満腹には程遠く、食べ応えを感じさせるさまが食欲をそそる。
「いいよー、美味そうなの見付けたねえ」
「有り難う、ジダルド」
礼を告げるアユルスの顔はあまりに幼く映り、ジダルドはごく僅かだが驚いた。
「見せたいのがあるんだー」
ジダルドの案内で串焼きを頬張りながら歩くアユルスは、ふと進行方向とは逆を行く人の波にぶつかる。
「あっ、と……」
流されまいと苦心して元の場所へ戻り、ジダルドの姿を探すが見付からない。土地勘のあるジダルドが見付けるのを待とうと近くの壁際に寄り、アユルスは往来を見遣った。途端に淋しさに襲われるが、その感覚には覚えがある。幼い頃に独りで十階へと辿り着き、生き抜こうと必死だった頃のものだ。ジダルドと出会ったのもその頃であり、最初こそ戦いとなり命の危機を感じたが、今や慣れ親しんだ人物である。それを思うと不思議な縁だが、縁を受け入れる事に抵抗が無いのも事実だ。
「アル」
呼ばれて初めて俯いていた事に気付き、アユルスは顔を上げた。思わず安堵の息が漏れる。
「ジダルド……良かった」
「ごめんね、はぐれちゃった」
告げながらジダルドは手を差し出した。その意味するところに多少の照れ臭さはあったが、やがて込み上げる喜びを自覚したアユルスは手を取る。記憶にも残らない遠い幼い日の温もりを重ねるのはジダルドに失礼なのかもしれないが、アユルスよりも大きな手はやはり優しかった。
屋台街を抜け、やがて広場へと差しかかったところでそれは見えた。
葉の無い木々を電飾が彩っており、周辺を黄金色に輝かせている。無機質な筈の光は冷えた空気を忘れさせるような温かみがあった。アユルスはいつの間にか足を止め、ジダルドと手を繋いだ侭で茫然と光の木々を見詰めている。
「今、ナユルちゃんの事考えてた?」
ふと傍らのジダルドに言われてアユルスは我に返り、光を見ながらやがて頷いた。
「うん。ナユルにも見せたかったなって」
「アハハ、アルはそういうコだもんねえ。……だからね」
続く言葉がいつに無く優しく、若干驚いたアユルスはジダルドを振り向く。其処にはジダルドらしからぬ、僅かに寂しさを帯びた穏やかな眼差しがアユルスを捉えているさまが見えた。
「偶には自分の事だけ大切にしてほしいかな」
「どうして……?」
黄金に照らされたアユルスの赤い瞳が、生々しい命を主張しているように見える。人間におけるその瞳は特に一階では異端とされ、何の疑問も無く処される時代もあった。今は因習とされたものの残滓によってアユルスは一度命を落としており、ジダルドが見たその瞬間の諦念は苦々しい記憶として残っている。
「アルはいっつも、他のヒトの事を一番に考えて、動いたり動けなかったりするよね。だから自分の事がいっつも後回しになってる。そんなんじゃいつか倒れちゃうよ」
繋いだアユルスの手に僅かだが力が篭もった。
「どうして、そんなに……」
赤い目が光を乱反射し始め、黄金以上の輝きを見せる。
「アルが大好きなヒト達みたいに、俺もアルの事大好きなんだよ。大好きなヒトには、うんと楽しそうにしててほしいよ」
告げられてアユルスは大いに顔を歪め、それを隠すようにジダルドはアユルスを胸に抱いた。
アユルスが他者を恨んだ事は少ないのだろう。他者を守る為に身を削り、罪を負い、生きる事を諦めるしかなかった瞬間でさえ、孤独に絶望へ落ちていった。その姿はジダルドにとって唾棄すべき贄のものだ。そしてそうあるならば、為したい事も決まっている。
「もう、なんにも諦めなくていいんだよ」
宿へ着く頃にはアユルスの目は腫れていた。それを店員から怪訝に見られたが、アユルスの弁明により問題も無く宛がわれた部屋へと辿り着く。
窓の外は明るい街並みが僅かに見えるだけだが、室内は設置された電灯で暖かな色に照らされていた。一階と比べれば眩しい夜なのだろう。
アユルスはジダルドよりも先に風呂を済ませる。重かった瞼からは多少疲労感が抜けたが、温まった体は休息を欲していた。
「次、いいよ……」
眠たげに告げながら寝台へ沈むさまにジダルドが笑う。
「疲れた?」
「うん……」
既に微睡んでいるアユルスへジダルドは歩み寄ると、その頭を優しく撫でた。
「今日はありがとね。おやすみ」
「おやすみ……」
辛うじて返事をして眠りへと落ちていくアユルスへブランケットをかけてやり、ジダルドは浴室へと歩く。自身でも意外な程に気分が良いが、鼻歌を歌っては眠りの妨げになるだろう。その自制も悪くないと思える。
そうして風呂から上がり、服を身に着けている時だった。微かな嗚咽が聞こえる。
「アル」
急ぎ部屋に戻り寝台を見ると、身を丸めて肩を震わせるアユルスがいた。
「どうしたの」
ジダルドは寝台の側に屈み、アユルスの背を撫でながら表情を窺う。やがて恐る恐る顔を上げたアユルスはか細い声で、だが確かに告げた。
「死なない、よな?」
目を見開くジダルドへ、アユルスは嗚咽に呑まれそうな声で続ける。
「母さん、みたいに、死なないよな?」
問いにジダルドは己の愚かさを知ると共に、アユルスが漸く本音を伝えられたのだと知った。
アユルスにとって全ての始まりであり、大いなる終わりである母の死は、大切に思う他者への恐怖となってアユルスを苛んでいたのだろう。だが恐怖を吐き出せる場所は何処にも無く、今まで無理に封じていたに過ぎない。
「死なないよ。俺はみんなで生きたいからね」
微笑んで告げるが、アユルスの不安は止まらなかった。大粒の涙が零れ落ちる。
「ごめん、ごめん……、こわい、ごめん……」
言葉を信じられない訳では無いが、恐怖を払うにはあまりに頼りない。そして恐怖に支配された自身の弱さを許せないのだろう。アユルスは決して強くはない。弱さを抱え込む力のみが付いてしまっただけだ。
「ねえ、アル」
アユルスの背を撫でていた手をその頬に添える。涙だけが冷たかった。
「俺はあんまり難しい事解らないからさ、生きてるって感じられる方法は気持ちいい事くらいしか知らないんだけど、それでいいなら出来るよ」
アユルスは驚きもせずに濡れた瞳でジダルドを見詰めていたが、やがて迷いがちに口を開く。
「でも……、ジダルドは、嫌じゃ、ないのか……?」
「また自分の事後回しにしてるー。アルが嫌かどうかじゃない? これで俺の事嫌いになったりしてもいいんだよ?」
問われてアユルスは面食らうが、すぐに新たな涙を滲ませた。
「だって、だって……、ジダルドの、事……、嫌いになんか、なれない、から……」
ジダルドにとって重大且つ絶大な言葉であると、アユルスは気付いていないのだろう。其処へ言及する意地の悪い事はしないでおいた。
「あのね、アル。俺だって、大好きなヒトとすると凄く楽しいんだよ」
するとアユルスは涙とは別に顔を赤らめる。
「……本当に?」
「ほんと」
ジダルドは立ち上がり、背後にあった自身の寝台へ勢い良く腰かけると両腕を広げた。
「おいで」
ゆっくりとアユルスが身を起こし、近付く。怖ず怖ずと差し出された両腕がジダルドの背を抱くまで待ってから、ジダルドはアユルスの体を抱き締めた。
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