No.10

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跳ねる鼓動
 悟飯が自分と名前の違いに驚いている時、一方で名前も驚いていた。
 むしろ悟飯よりも心拍数は上がっている。何しろ今二人がいるのは空の上なのだ。
 グレートサイヤマンは空を飛ぶとは聞いていたが、実際に目の当たりにするとなると別である。
 人は飛べない。これは名前が一六年間生きてきて培った常識である。
「とっとっとっととんとんととと飛んでるぞ!?」
 足元は出来る限り見ない。目の前に見えるマンションの階数は五階。落ちれば確実に即死の高度である。しかし一歩進めば本当に死んでいたかもしれない先ほどまでと違って多少の余裕はある。
 グレートサイヤマンと言えば正義の味方。人を傷付けるようなことはしないだろう。名前を支える腕は離すまいとしっかり固定されているし、名前もがっしりしがみ付いている。
 ……はしたないだろうか、とちょっと思った。グレートサイヤマンと名乗っているからには男であろうし、名前は一応女である。これでもし女だったら土下座でもするのだが、どう見ても女には見えない。
「大丈夫ですよ、ちゃんと支えてますから」
 笑い混じりの声が聞こえる。名前はその声にはて、と首を傾げた。さっきから思っていたのだが、どうにも聞き覚えがある。というか、悟飯にそっくりである。
 実際はそっくりどころか本人なのであるが、そんなこと名前は知らない。
「あの」
「は、はい」
 静かに呼ばれ、名前は固い声で返事をした。やっぱり空の上はちょっと怖い。
「怪我は……本当に、怪我はありませんか?」
「怪我……は、無いです。する前に助けてもらっ……あぁ!!」
「えぇ!? やっぱりどこか」
「ありがとうございます」
「怪我を……はい?」
 急に大きな声を出した名前にもしやと慌てるが、次に言われた言葉に悟飯は目を丸くした。
「助けて頂いて、ありがとうございました」
 ぺこりと頭を下げる。抱きかかえられたままなので幾分不自然なお辞儀だったけれど。
 どんな状況でもお礼は忘れないらしい。肝が据わっているのか何なのか。
 新たな一面を見た気がして、悟飯はくすりと笑った。泣き顔を見てしまった時にはどうしようかと思ったが、無事で何よりである。
 この場合で救われたのは名前ではなく銀行強盗であった。これでもし名前に怪我でもさせていたのなら、命の保障は警察に縋り付きでもしなければ無かっただろう。正義の味方も所詮一六歳の少年なのだ。
「そんな、僕は当然のことをしただけで……名前さんが無事で本当によかったです」
「……?」
 名前は首をかしげた。
 グレートサイヤマンは当たり前のように名前の名前を口にしたが、名乗ってなどいないはずだ。断言できる。情けないながらも、名乗る余裕などなかったのだから。
 なら何故。
「……そん……?」
 ここで知り合いと繋げないのは余程鈍い人間であろう。
 ぽつりと零れた名前に、グレートサイヤマンの身体がびくりと跳ねる。……怪しいことこの上ない。
「……孫悟飯……」
 びくびくっ。更に跳ねる。
「……の親戚かなんかですか」
 ほ――――――――っ、と。一気に脱力したのを感じた。
 だから怪しいというに。名前は思うが、口には出さない。命の恩人であることだし。
「えぇまあ、そんなもんです」
「……まあ……正義の味方は正体不明ってのがセオリーですしね」
 怪しいけど、とは言わないでおく。すると正体不明の正義の味方は心底安心したように笑ってみせた。口元しか見えないけれど。
 しかしこの正直な反応。やっぱり悟飯に似ている。
 そういうことが分かる程には、悟飯のことを理解出来ていると自負していた。それだけ普段からかっているとも言えるのだが。主にからかっているのは勿論司書ではあるけれど。
 目の前のどこかとぼけた正義の味方のお陰で、次の瞬間死ぬかもしれないという恐怖に受けたショックも少しだけ和らいだ。緊張を解いて支えてくれている腕に身体を預ける。
 その様子を見て取り、悟飯は頬をほんのり赤らめた。名前からは見えないけれど。
 人が集まってきたので慌てて飛び出したが、そういえばこれはお姫様抱っことかいうやつではないだろうか。しかも名前を攫って逃げたような格好である。明日の新聞がちょっと怖い。
 しかし名前は気付いていないようで、いつしか浮遊感を楽しんでいるように見える。こういう時は女性の方が逞しいのかもしれない、と悟飯は思った。
 もうすぐ日が落ちる。かなり近い位置にある名前の顔を夕日が赤く染め上げる。黒い目が緋色に揺らめいて悟飯を映す。映った顔の上半分はヘルメットに覆われているけれど。
 吸い込まれるかもしれない。
 そんなことを考える。有り得ないことだと理解はしているけれど。名前の目を見ていると何となくそう感じた。
 静かに見つめられて、悟飯は居心地が悪くなった。
 何だか落ち着かない。背筋がむずむずして、大声で叫んで走り回りたいような気持ちになる。
「あの、宜しければ家まで送って行きますよ」
 このままではいられない、と悟飯は名前に提案する。一刻も早く名前と離れなければ自分がおかしくなるような気がした。
「いいんですか?」
 悟飯の考えなど知らない名前は単純に有り難いことだと目を輝かせる。
「はい。また危険なことが無いとも限りませんから」
「……怖いこと言わないでもらえます……」
「へあっ、ご、ごめんなさい!」
 結構無神経な台詞に名前はじっとりとグレートサイヤマンを見つめる。しかし慌てて一生懸命謝る姿につい「まあいいか」と笑ってしまった。
 至近距離でのその笑顔に、悟飯は心臓が跳ね上がるのを感じた。
 無闇矢鱈と早鐘を打つ心臓を宥めようにも、一旦意識してしまった以上はどうしようもない。手袋越しに触れる名前の身体の柔らかさを改めて感じてしまい、一瞬にして正義の味方の蒸し焼き完成である。
 今が夕方で良かった、と悟飯は心から思った。
 そのお陰で赤くなった頬を誤魔化す手間が省けた。
「家……家、何処ですか? 空からだとすぐですよ」
「えーと……あのビルの向こうの、青い屋根の家の向かいです」
 悟飯は頷いて、名前の指差す方へとゆっくり向かう。身体を揺らして名前を怖がらせないように。少しだけこうしていられる時間が長引くように。
 勝手なものだ、と思った。さっきは早く離れなければと思っていたのに、今は別れてしまうのが勿体無い。
 甘い香りが鼻をくすぐる。少しシナモンの混じったそれは、今日のパウンドケーキと同じ匂い。それだけのことなのに、絶叫してしまいたいような気持ちになる。
「あ、あの家です」
 名前がそう言ってくれなかったら、本当に叫びだしていたかもしれない。名前の示した家にゆっくりと降り立った。
 電気は点いていない。まだ両親は帰っていないようだ。
 グレートサイヤマンに降ろしてもらい、名前はもう一度改めて頭を下げた。
「本当にありがとうございました」
「いえ、僕は……」
「こういうとき、正義の味方は『どういたしまして』って言えばいいんですよ」
「ええと……じゃあ、どういたしまして」
 律儀に名前の言ったことに従う。素直すぎるだろう、と名前は思ったが、この微笑ましさはやっぱり身近で感じたことがあった。
 今度確かめてみよう。そう決意する。まさか当人ではないだろうが、関わりがあることは間違いないだろうと目星をつける。
 そのまさかなのだとは、この時点では気付かない。
 当然である。
 某極東の島国に比べたら宜しいとは言えないまでも悪いと言うほどのものでもないこの町の治安。毎日毎日どこかで起こる事件にも慣れていたそんな中、まさか自分が巻き込まれるハメになるなんて予想すらしなかったというのに。
 増してやその中心に知り合いが関わってこようなどとミトコンドリアの爪の先ほども思わない。ミトコンドリアに爪があるのかという話はさておき。
「それじゃあ僕はこれで失礼します」
「はい、気をつけて。飛行機なんかにぶつからないように」
 グレートサイヤマンは頷いて、片手を挙げてすい、と飛び去っていった。
 その後姿を見送り、名前は鍵を開けて家に入る。
 そこで漸く気付いた。
「……めし……」
 何のために自分は外に出て行ったのか。
 しかし今から出かけるだけの気力も体力もない。それに、人のいる場所に行くのは少し怖い。もしまた凶暴な考えを持った人間がいたら、と思う。自分は何も出来ないということを思い知ったばかりなのに。
「あー……情けねー……」
 がっくりと項垂れる。誰もいない家で、グレートサイヤマンの前で被っていた強がりの仮面を脱ぎ捨てた途端に襲う脱力感。居間までとぼとぼと歩いてソファに身体を投げ出す。もう動きたくない。
 普通の反応だったと我ながら思う。力に怯えて、何も出来ず、震えるだけ。
 あの状況で銃も恐れず立ち向かえるのなんて同じ高校生ではビーデルくらいだろう。
 だけど。
 公衆の面前に泣き顔まで晒して、穴があったら入りたいとはこのことだ。
 学校に行きたくない、と思った。きっと明日には話は広まっている。さっさと空へ飛び出したから、カメラには映っていないはず。だけどTVに映らなくたって、人の口に戸は立てられないのだから、あそこにいた野次馬から伝わるはずだ。何せ野次馬の中に近所の知った顔がちらほら見えたのだから。
 良いところだけを見せたい相手というのは誰にだっているものだ。
 名前の場合、それは悟飯だった。いつの間にか、そうなっていた。弱い部分なんて知られたくない。見目の良い部分だけ見て欲しい。駄目な奴だなんて思って欲しくない。
 だというのに。
 何たる失態。
 名前は目を閉じる。涙の所為で目が痛い。このまま眠って、目が覚めたらいっそ全て夢だったなら嬉しいのだけれど。
 時計がポーンと大きく鳴る。
 その聞きなれた音にすら怯える心臓なんてえぐり出してしまいたい。こんな弱っちい自分、どこかに捨ててこれたなら――。
 
 分かっている。そんなこと不可能だ。
 明日はまた朝起きてご飯を食べて学校に行って勉強する。そんな当たり前の生活にもぐりこまなければならない。生きている以上は何かに属していないと不安なのだ。
 でも。
「やっぱ学校行きたくねぇよ……」
「じゃあ明日休む?」
 独り言に返事があると言うのは心臓に悪い。名前はたった今思い知った。
「ただいまー」
「……お帰りなさいおかあさま……」
 何か普通に挨拶をする母親に、名前もつられて挨拶を。スーツ姿の母親は帰ってきたばかりなのだろう。その手にはビニール袋が握られている。
「ぽっかぽか弁当買ってきたわよー。料理どころじゃないでしょ」
 知っているらしい。その気持ちは嬉しいが、名前は小さく首を振った。
「料理どころじゃないって言うか……飯あんま食いたくないっていうか」
「食べるの」
「はい……」
 どえりゃー迫力だがや。
 名前は真顔で詰め寄る母親に神妙な顔で頷いた。
 普段目付きが悪いだの黙っていると怖いだの言われる名前であるが、母親ほどではないだろう、と思う。父親は何がよくてこの母と結婚したのか(恋愛結婚だと聞いている)。人間顔じゃないと言われても、この母親を見ていると父親を脅しでもしたのではないかと疑ってしまう。
「腹が減ってると碌な考え浮かんでこないのよ。名前、ヒーター着けなさい寒いでしょ」
「へーい」
「お父さんもすぐ帰ってくるって」
「へーい」
「あんた自分が格好悪いって思ってるでしょ」
「……へーい」
 痛いトコをつく、と適当に返事をする。
 しかし母親はさっさと着替えると名前の首根っこを摘まみ上げ、しっかりとその目を見据えた。
「お母さんに似て見栄っ張りだからね」
 よく分かってるじゃないか、と思った。出来る限り物事をそつなくこなしたいのは母親譲りだ。
 でもね、と続ける。
「死んでたかもしれないとこ、生きてるのよあんた」
 それって、と母は言った。
「最高に格好良いのよ」
 抱きしめられて、目の端からほんのちょこっとだけ涙が出た。すぐに母の服に滲みこんだけれど。
 生きててよかった、ときつくきつく抱きしめられる。その腕が震えているのに気付いた。
 母も怖かったのかもしれない、と名前は漸く思い至った。会社でニュースを見て、慌てて帰ってきたのかもしれない。そういえば母の努める会社から家までは車で三〇分かかるはずだ。遅れると告げられた時間よりも今は一時間早い。どれだけ車を飛ばしてきたのだろうか。
 なるほど見栄っ張りだ。名前とそっくりで。
 怖かったのにそんな素振り見せないで。何でもお見通しというような振りをして、その実焦ってセーターの前後を間違えてる。
 流石は私の母親だ、と名前は思った。その時。
 がしゃん。ごん。どたどた。ぽきっ。ごいん。がこん。
名前名前名前名前!!」
「……おかえり」
 嫌な感じの音をさせて、父親が居間に飛び込んでくる。結構いいシーンだったと思うのだが、何だか色々と台無しだ。
「怪我は!? グレートサイヤマンは!? あああぁぁあああ腕が赤くなってる!!」
「五月蝿い耳元で叫ぶな! 何でグレートサイヤマンが出てくるんだ!!」
「だ、だって、グレートサイヤマンに助けてもらったんだろ? テレビに出てた」
「は!? 映った!?」
「え、いや、名前が行った時間に銀行が襲われたって聞いてびっくりしてたら、グレートサイヤマンが助けてくれた……ってもしかして人質って名前だったのか!?」
 何てこったい! とムンクが見たら慌てて描き直しをするかもしれない父の叫びっぷりに、名前は意識が遠くなりかけた。無駄に声がでかい。
「少し黙りなさい。晩御飯食べるわよ」
「はい」
 やっぱりこの夫婦、何で結婚したのか分からない、と名前は思った。従順にも程があるだろう。
「でもその前に」
 父親は母親ごと名前を抱きしめた。生きていることを確かめるように。その体温を感じて安心するために。
 が。
「うわおっさんくさ」
 年頃の娘なんてこんなもんだ。
 照れ隠しではなしに呟かれ、父はがっくり項垂れる。
名前~~~~」
「あーもううざい。名前はいいから離しなさい」
「え、私もやだ」
「……酷い……」
 父と夫に対してはクールになるらしい母娘に、あううと男泣き。そんな父親は無視して名前は食卓に座った。
 いつも通り情けない父親を見ていると食欲が湧いてきた。
 そんな娘に母は隠れて笑う。過去のラブロマンスを思い出す。母にだって麗しき恋物語の一つや二つ、六つや七つどーんとある。その最後を彩ってくれたのは目の前でしょんぼりしている冴えないおじさんだけれども、そんな彼に幾度も支えられてきた。
 今だって冴えないおじさんのお陰で名前がいつもの調子を取り戻した。
 流石は私の旦那様、というやつである。
「お吸い物くらいは作れるから、あなたもさっさと座りなさい。ていうか早く着替えろ」
「はいぃぃ~」
 情けない声を出す旦那を尻目に一人さっさと弁当の蓋を開けて箸をつける愛娘にお茶を出してやる。
 明日はきっと学校に行くのだろう。クールぶりたがるくせに負けず嫌いなんて難儀な娘の性格はよく知っている。強がって何でもないふりで登校するに決まってる。
名前
「んー?」
「休みたくなったら言うのよ」
「へーい」
 その返事には気負いがなく。自分は抱きしめるしか出来なかったのに、と偉大な旦那を少し敬い。
 こんな時は母親と謂えども無力なものなのか、と八つ当たり気味に夫の湯飲みにうんと熱いお茶を注いでやった。

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