夕闇には、春よりも残りの冬の気配が強かった。
新しい季節の香気濃厚な王都に比べ北の街のそれは、ほんの顔見せ、といった油断のなさを抱えている。
街の門も閉じたというのに大通りを行き交う衣装は様々で、その中には裕福そうな市民の姿が幾人も目につく。
王国の北部南に位置するここグノールは、商業の発達した交通の要衝の街だ。
*
すり減った石畳に硬く響く蹄鉄の音もさして耳にたたぬ雑然とした狭い通りだった。
駆けていく子供、荷物を抱えて急ぐ女、どこかに戻るか行くかしている、肩を並べて談笑している男たち。
彼らの一部が吸い込まれていく、灯りの漏れる、酒場を兼ねているらしき食堂、地下の厨房から漂いのぼってくる旨そうな匂い。
店じまいをしている花屋からほのかに流れる饐えた水と傷んだ花の匂い、目立たぬ路地への壁に背をもたせかけている早出の街娼らしき女たち。
たぶん、もう少しすれば饐えた酒や新鮮な吐瀉物の匂い、酔っぱらいの言い争いや歌などである意味もっと賑やかになりそうな裏通りである。
横切ってきた表通りからも、建物の厚みを抜けて人いきれと賑わいがうっすらと届いてくる。
この先に本当に宿屋があるのだろうかと訝しく思いながらも前を行く騎手にあわせて手綱を緩める。
と、ゆるい曲がりの途中に穿たれた路地の手前に、小さな灯火を出した入り口が見えた。
馬を停止させ、その背で振り向いた若い男──に、一見、みえる──がサディアスに笑いかけて来た。
「あァ、あったあった。五年たってもまだ潰れちゃいなかったぜ」
「うむ、たいした記憶力だ」
さすがに副長は頼りになる、──と考えかけてサディアスは苦笑した。
もうクロードは副長ではないし、かくいう自分とて三日前、隊長を辞してきたはずなのに長年の習慣とは根強いものだ。
北部駐屯軍連隊長を拝命した彼が、任地エデュに向かうために王都を発ったのが昨日の朝。
同じく北部の故郷サラシュの街に戻って家業を継ぐという副長と重なった衛兵長の辞任を、複雑(?)な事情を何も知らない衛兵たちはさかんに惜しんでくれた。
サディアスの推薦で新衛兵長になったジョンが、自ら都の外れまで見送ってきた。
「連隊長に、とは非常におめでたい限りなのですが──今後都でお見かけすることが少なくなると思うと、ひどく寂しくなりますよ」
その言葉とは裏腹にやる気満々に顔を輝かせるジョンの肩を、サディアスは大きな拳でこづいた。
「嘘を吐け。これで都が広くなると皆が祝杯をあげたのを、俺はちゃんと知っているのだ」
傍らの元副長はぷっと吹き出し、こづかれた当のジョンも、すかさず顔をひきしめたが口元は緩んでいた。
背の高いジョンを、サディアスはさらに上回っている。
たぶん、彼ほど巨漢の衛兵長は今後もなかなか王都には現れない事だろう。
*
馬の背から飛び降りたクロードが扉を叩いて、宿の主人とてきぱきと交渉を始めた。
「──そう、一晩だけだ。食事は──」
振り返った。
「何か特に注文したいモンあるか?衛…、じゃねえや。サディアス?」
「適当に見繕ってもらえればそれで良い」
馬から降りたサディアスを見あげ、さらにもう少しだけ見上げて、宿の主人は驚いた顔になった。
心なしかクロードへの物腰も一段丁寧なものに変化した。
元衛兵長の巨体を初めて見た大概の善良な一般市民の典型的な反応である。
いつもの事だから気にもならない。
サディアスは二頭の馬の手綱を馬繋ぎに纏め、見るともなく前金を払っているクロードを眺めた。
彼、いや彼女の横顔はきりりとしていてどう見ても若い男のはずだったが、小さな戸口の灯りに浮かび上がったその輪郭はいつもより柔らかく見えた。
正体を知っているサディアスが見るからそうなのか、それともクロードの表情そのものが穏やかになったのか。
だが、宿の主人は何の不審も感じてはいない素振りで腰の鍵束を探った。
「ではこれを──二階の階段をあがって左手の突き当たりでございます。お馬はご安心ください、裏庭の馬小屋へ──」
「水と飼葉をたっぷり頼むぜ」
クロードが念を押した。
「明日も走ってもらうんだから」
宿の食堂で野菜と肉のごった煮とパンに安いワインという簡単な食事を摂り、元衛兵の二人は部屋を出た。
階段までの狭い廊下で、食堂や外に向かうらしき商人や学生のような若い男たちにすれ違う。
あちこちの部屋の木の扉越しに声高に喋る会話の断片が響く。
小さな宿だが、なかなかはやっているらしい。
「俺が泊まった時よか繁盛してらぁ」
クロードが呟いた。
「よく子供一人だけのお前を泊めてくれたな」
サディアスが言う。家出して都に向かう五年前なら、クロードはまだ13か14のはずだ。
「金は持ってたからな──そういや、家戻ったら、親爺にあの金返さなきゃ」
彼女は笑った。
サディアスが踏む一足ごとにわずかに軋む階段をあがって行き着いた部屋は、掃除は行き届いてはいるものの、特に特徴というもののない、平凡な造りの部屋だった。
…というと少しだけ嘘になる。
部屋そのものはごくごくありふれた見栄えなのだが、奥にひとつだけ据え付けてある木製の寝台は広々とした贅沢な面積を誇っていた。
大の大人が四人一緒に寝転んでも、おそらく悠々と眠る事ができるだろう。
こういう宿に泊まる旅人は、たとえ見ず知らずでも同室になった場合は同じ寝台に眠る事を、貴族出身のサディアスでも知っている。
その事自体は常識であり、だからこんなばかでかい寝台があっても不思議でもなんでもない。
ただ───。
「……す、すごい寝台だ、クロード」
サディアスが振り向くと、入り口脇の壁の窪みに蝋燭の皿を置いていたクロードは口を尖らせた。
「代金も高かったぜ──いっとくがな、俺が頼んだんじゃねぇよ。あんたの図体見て、宿の親爺が気ィきかせたんだ」
さもあらんと納得し、サディアスはマントを外した。
衛兵の頃とは違い、漆黒の上着ではなく灰色の旅装束を着ている。
「だが。──俺と同じ部屋で良かったのか。や、やはり一応結婚前は別の部屋──」
クロードは顔を顰めた。顰めてもやはり整った顔立ちである。
「勘弁しろよ、子爵家の坊ちゃん。どう見ても男二人連れなのに、わざわざ、ンな変わった注文つけられるわけねぇだろ」
確かに、かえって怪しまれるかもしれない。
細身で白い綺麗な顔だちだが、短い黒髪の、頭のてっぺんからつま先まで男のいでたちの彼女を眺めてサディアスはまた納得した。
かつてのサディアスが全く違和感を感じなかったように、先入観というものは恐ろしいほど観察力を奪うものだから──
───いや、彼の場合はそれ以上に、個人的にも単純で鈍感という弱点を抱えているのだが。
「それも、そ、そうだな」
クロードが王都を出た今でも男の格好をしているのは、そのほうが旅がしやすいからという彼女の主張による。
双方ともに元衛兵で腕に覚えはあるものの、面倒を避けるのにはいいと思って同意したのがまずかった。
……………いや、良かったのだろうか。
昨日は初日だという事もあってついついと距離を欲張り、うっかり予定の街を過ぎて夕刻を迎えたため、次の街から閉め出されて野宿した。
一日中馬を走らせて疲れた二人はマントを躯に巻き付けるやいなや熟睡し、きちんと宿に泊まるのは今夜が最初である。
今日もよく馬を走らせ、疲れた。
疲れるには疲れたが──。
だが、
早晩ちゃんとした宿に泊まることは旅に出る前から判っていたことであり、
しかもサディアスは元副長の彼女とは二ヶ月ほど前から密かに婚約をしていることでもあり、
単純だろうが鈍感だろうがお人好しだろうが間抜けと呼ばれようが立派に男であるということもあり、
正直この宿についてから、サディアスはわくわくとしっぱなしである。
もともと、いかつい顔に感情を出さない性質の上、王室付き衛兵隊の長というお固い職についていたためなおのことその技倆には自信があった。
しかしこうして好きな女と同じ部屋に入って、おあつらえむきの寝台を目の当たりにすると早くも興奮がピークに達しそうである。
……だが、部屋に入って三分とたっていないだろうにいきなり押し倒すのも女性に対していかがなものか。
クロードだってその気だろうし、自分だってもちろんだが、あまりにもがっつくと罵られそうだし、かといって──。
でかい図体に似合わず一旦悩み始めると妙に考えこんでしまう傾向のある元衛兵長は眉をよせた。
横目で窺うと、クロードはふわふわと、あくびをしている。
「つ、疲れたか?」
「ああ、うん。一日中馬に乗ってたし。それに夕べ野宿だったろ、あちこち躯痛くてさぁ」
クロードは首を傾け、拳でとんとんと肩との境を叩いた。
マントと襟の隙間から短い黒髪のこぼれる柔らかそうな肌が覗き、それを見たサディアスはこっそりと唾を呑んだ。
…ここで、では自分が肩を叩いてやろうと申し出るのはあまりにも下心があからさまであろうか、と彼は考えた。
「あー、痛て」
知ってか知らずかクロードは反対側も同じように叩いて腕をあげ、両肩を何度も上下させた。
サディアスを見上げてにこっと笑う。
笑うといつも、いきなり花が咲いたような鮮やかな彩りが白い顔にうまれて、彼女は、実に『綺麗な娘』になる。
サディアスはまた、こっそりと唾を呑み込んだ。
「あんたも躯、痛くない?ちょっとだけ揉んでやろっか」
「う、うううう、……いや、うむ」
サディアスは顔色を変えず、重々しく頷いた。
「じゃ、その上着脱いでうつぶせになりな」
クロードが指差した先はサディアスが部屋に入った瞬間からそればかり気にしていた、ばかでかい寝台だ。
「あ、ああ。わわ、わかった」
クロードに背を向け、彼は急いで寝台に向かった。図体に比して脚も長いので部屋の奥まで数歩で到着する。
腕に巻いていたマントを放り、衛兵になる以前から持っている剣を帯ごと外し、そそくさと上着を脱いでおとなしくうつ伏せになる。
さすがは特大の寝台、彼が上に載ってもびくとも揺るがない。場違いにも少し感心する。
うつぶせということは、最初に肩を揉んでくれるのか。それとも腰か。
クロードがさっさと近づくかと思っていたが、なかなか来ない。
「クロード、ま、ままだ、こここ来ない、のか?」
「…あんたってさ」
部屋の隅からクロードの、少し疲れたような声がする。
「ほんっと、正直にその癖が出るよなぁ…」
「す、すまん…ああ、え、な、なにが?」
自分が緊張したり照れたりするとどもる癖は知っている彼だが、今現在そうである事には気付いていない。
気付く余裕がない。
「…ううん」
急にクロードの声が柔らかくなった。
「ちょっと待ってて」
部屋の隅の椅子の傍らで彼女はそっとマントを外し、上着を腕から滑らせてブラウスのボタンに手を置いた。
うつぶせたままのサディアスの背中に微笑みかけて、繊細な指でボタンを次々に外していく。
鎖骨から胸への肌が見えかけてきたその時。
扉を叩く音がした。
*
クロードはびくんとして固まった。
一旦静かになった扉は、続いて少し苛立たし気に何度も叩かれた。小さいが、間隔の狭い鋭い音だ。
彼女は急いで喉元までボタンをかけ直した。
「……だ、誰…かな?」
この街に知り合いはいないし、宿の主人ならば宿代はすでに払っている。迷惑行為もしていない。
「待て、クロード。俺が出る」
いずれにしても、強面の自分のほうが対処も楽なはずだと彼は思った。
サディアスは身軽く寝台から降り、部屋を横切ると扉を細く開けた。
わずかに開けた隙間からにゅっと、白く細い腕が差し込まれた。
床の近くには細く尖った靴のつま先が同時に割り込み、それを潰すわけにもいかなくなったサディアスが押し込まれるままに扉を開くと、そこには一目で世界最古の商いをしているとわかる女が立っていた。
脱色したと思しき渦巻く髪の襟もとをスカーフでまとめ、豊かげな胸を申し訳程度に覆っている外套。
おそらく外套の下も、布地よりは肌の露出が多いに違いない。
年はサディアスより少し下くらいか。街の女にしてはなかなかの美形だ。
女はいかつい顔の巨漢を挑発的に首を傾げて見上げると、赤く塗った唇に微笑を浮かべた。
「…まだ宵の口なのに、もうお休みかい?随分おとなしい旦那だこと」
女は片足にかけていた体重を移動させ、部屋の中に入りたげにした。
だがサディアスが微動だにしないのでそれはうまくいかなかった。
「長旅で疲れておるのだ。扉を閉めさせてくれ」
サディアスは平坦な声で言った。
何の用だとは聞かない。話がややこしくなるだけだ。
女は不満げに、濃くひいた眉をあげた。
容姿に相応しい自信があるのに、馬小屋の柱でも相手にするようなサディアスの声が気に入らないらしい。
「疲れててもやるこたできるだろ、……ああ、ほぅらね」
ちら、と視線をサディアスの股間におとし、女は余裕とわずかな蔑みの笑みを浮かべた。
ズボン越しにでもわかる徴を見つけたらしい。
ただ、これはクロードをすでに頭の中で組み伏せていたための結果に過ぎないのだが。
「その躯に似合う立派な品かどうか、あたしにゆっくり品定めさせておくれよ」
「生憎だが、それはできぬ」
サディアスは眉をしかめて大きな掌をあげ、股間へのぶしつけな視線を遮ろうとした。
「申し訳ないのだが、早々にひきとってくれ」
「なんだい、かっこつけやがって。もういいよ。ちぇ、見てくれだけの不能野郎」
唇を歪めて吐き捨てると女は伸び上がった。
部屋の中を覗こうとしている。
「邪魔だよ、どきな。もう一人の若い騎士さんはどこさ。ほら、一緒に馬できた、顔の綺麗な」
クロードのことを知っているという事は、ここに来る途中、通りにたむろしていた女たちのうちの一人らしい。
こういう裏通りの宿ではたまにこういう事がある。
客を物色し、成立次第で宿の主人に金を払う女はどの街にもいた。
「女」
サディアスは言った。
「悪いが今は──」
「出てけ」
後ろからぴんと張った糸のような声がした。
振り向くと、ブラウス姿のクロードが頬を赤くして女を睨んでいる。
腕を躯の前で組み、彼女は続けた。
「出てけよ、早く」
「な、なんだよ。つれないね」
女は少々ひきつった笑みを見せた。どうもこの部屋の男は冷たいとでも思っているのかもしれない。
クロードはかすかに顎をあげ、目を細めて微笑を浮かべた。
サディアスはこの微笑を何度も何度も見たことがある。
副長時代、使えない、もしくは気に入らない部下に皮肉を言う時、よくクロードはこんな顔をした。
「間に合ってるよ」
クロードがゆっくりと言った。
「え?」
女が瞬きをした。
クロードは、突っ立ったままの元衛兵長を目顔で指してみせた。
「今、そいつが言っただろ。……取り込み中なんだよ。わかるか?」
サディアスは天井を仰いだ。
「…………え」
女は目を丸くして、サディアスとクロードに忙しく視線を動かした。
最後に、目の前の巨漢の股間をじっと眺め、彼女は顔を赤くした。
「…………………。……邪魔したわね」
女は外套の襟をしっかりと合わせると、急いで扉の向こう側に足をひっこめた。
サディアスが閉じると、扉の向こうで小さく「変態!」と毒づく声が聞こえた。
*
念のために扉の差し込み錠を入れたサディアスが振り向くと、クロードの頬は一段と赤くなった。
「なんだよ。文句あるのかよ」
「ない。ないが……。完全に誤解をされたようにも思える」
「別にいいよ。どーでも」
クロードは腕を解き、巨漢の表情をじろじろと眺めた。
サディアスは溜め息をついた。
「それはそうだが」
「それともさ。あーゆー顔、好みかよ」
「いや」
サディアスは今の女の顔を思い出そうとしたが、なかなか美形だったという事以外は思い出せなかった。
「…覚えてない」
「嘘吐け。…………金髪だったな」
サディアスは慎重に彼女を眺めた。どうも金褐色もしくは金色の髪の女とサディアスが関わると、クロードの機嫌は微妙に悪くなる。
「あれは、おそらく脱色したもののように見えたが」
「きっちり見てやがンじゃねーかよ」
クロードは眉を吊り上げた。サディアスの視界から見えるのは女の頭が主だという点を忘れている。
サディアスのズボンに視線を落とし、クロードは視線をちょっと逸らした。
「…………ふぅーん」
はっと気付いてサディアスは慌てた。
「ち、違う。これは」
「いいんだよ。金髪の美形の、いかにも女って感じの女はいいよなぁ」
とんでもない誤解をされているような危険を、いかな鈍感なサディアスでもひしひしと身に感じる口調である。
「肩揉んでやるのやーめた」
クロードは膨れっ面で呟き、さっさと寝台に向かうと毛布を跳ね上げた。
きっ、とサディアスに向かい、反対側の端っこを指差して言い捨てる。
「俺、こっちで寝るから。あんたは向こう。絶対に近づいてくんなよな」
「ふ、服を着たまま眠るのか?」
サディアスは情けない声で言った。
クロードはじろりと彼を睨んだ。
「当たり前だろ。男同士なんだから」
そのまま毛布の中に潜ってしまったクロードの背を眺め、サディアスは股間を見下ろした。
「………………」
深い溜め息をつき、のそのそと寝台に向かう。
いっそのこと床にでもふて寝したいが、野宿の後の寝台の魅力は捨てがたい──というよりも。
クロードの気が変わる事を願いつつ、彼は寝台の端っこに図体を縮めて丸まった。
どうやら今夜は眠れそうにもなかった。