風邪っ引きラプソディ

 悲しいかな、一番下っ端の彼が休んでも、第九の日常業務にはなんら支障は出なかった。総員を上げてとりかかるような立て込んだ案件もなかったし、特捜のように振り替えの利かない任務を青木が負っていることもなかった。全く持って適切な時期に倒れてくれたものである。これが平日でなく土日であれば、なお良かったのだが。
 上司としては些か不適切なことを考えながら、薪はつつがなく職務を全うした。
 その日、職員たちは全員定時に帰宅することができた。一人欠員が出たにもかかわらずである。恐らく室長の仕事の割り振りが良かったのだろう。その室長はと言えば、岡部が車で送ろうと申し出るのを断って、最後に部屋を出た。
 最寄りのスーパーで買い物をした後、大通りでタクシーを捕まえる。運転手に告げた住所は自宅ではなく、今日休んだ部下のマンションだった。

 一度チャイムを鳴らすと、彼はキーケースから鍵を取り出した。合鍵を渡されたはいいが、使うことはないだろうと自分では思っていた。結果的にこうして役立っている。
 人生何が起こるか分からないと、年寄りじみたことを考えながら、ドアを開ける。すると、廊下の先からパジャマ姿の男がふらふらと出てきた。
「あ、薪さん……来てくれたんですか……」
 青木が自分を見て嬉しそうに微笑む。薪はふんと肩をそびやかした。
「お前が仕事を休んだりするから、僕がここまで来る羽目になったんだ。ったく、社会人なら体調管理ぐらいしっかりしろ」
「はい……すいません」
 会った早々に叱られて、青木は申し訳なさそうに肩をすぼめる。薪はその横を通り過ぎ、キッチンのダイニングテーブルに買い物袋を下ろした。買ってきた食料を取り出して、冷蔵庫の中に移す。
「具合はどうだ。熱はあるのか」
「ええと……熱がまだちょっとあります。でも気分はそんなに悪くないんですよ。寝ているにのも飽きちゃったぐらいなんです」
 薪は手を伸ばして彼の額に触れる。確かに熱があるようだ。
「すぐ来られなくて悪かったな」
「いいえ、そんな。薪さん忙しいから、こんな風に来てもらえるなんて思ってなくて、すごく嬉しいで……けほ、けほ」
 青木が口元を手で隠しながら、咳をする。
「すいません、薪さんの前なのに。マスクしないと……」
「いいからお前は気にせず寝てろ。食欲はどうだ。ちゃんと食事は取ったんだろうな」
「それが、あまり腹が減らなくて」
「まさか何も食べてないのか?」
 薪の非難めいた視線を受けて、青木が慌てて弁解する。
「いえ、食べなきゃだめってのはさすがに分かってたんで、昼にカロリーメイトを食いました。ポカリもずっと飲んでましたし」
「それがお前のちゃんとした食事なのか……」
 薪は肩を落とした。
 考えてみれば仕方がない。青木は十八で一人暮らしするまでは、親許で何不自由なく暮らしていたのだ。大学時代は多少自炊していたようだが、警察に入庁してからは激務が続いて、家には寝に帰るだけの日も少なくなかった。まだ二十そこそこの彼が、料理の腕を磨く機会があったはずもない。
「今はどうだ。何か食べられそうか」
「そうですね。言われたら確かに、腹減ってるような気がしてきました」
 一九〇を超える大男が腹に手を当て、小首を傾げる。そんな仕草が可愛く見えてしまう自分も、大概熱があるのかもしれない。
「とりあえず何か作ってやる。お粥でいいか?」
「はい」
 青木は嬉しそうに答えたが、途中で何かを考えるような表情になった。そして口を開いたかと思ったら、またすぐに閉じ、結局笑顔に戻る。
 今の一連の表情の意味するところを察するに、食事を作ってもらえるのはありがたいが、メニューがお粥なのはあまり嬉しくない。どうせならもっと美味しいものが食べたいな……いやいや、せっかくあの薪が自分のために料理をしてくれるのだ。あれこれ注文を付けるようなことはせず、素直に喜ぼう──と言ったところか。
 ──本当に分かりやすい……単純な奴。
 捜査員がそんなに表情を読みとられやすくていいのか。そう思いながらも、薪はむずむずと口元が緩むのを抑えられなかった。

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