Ordinary World

 エレベーターに乗って、四階のボタンを押す。そのとき、上の案内表示プレートが目に入った。懐かしい文字の並びを見て口元が緩みそうになるのを、彼は咳をする振りをしてごまかした。
 上司が「大丈夫かい?」と声をかけてくる。長期療養から戻ってきた部下が咳をしたのだ。それは心配もするだろう。
「大丈夫です。ちょっと埃がのどに引っかかったみたいで」
「そう、ならいいけど。最近風邪が流行ってるみたいだから、気を付けてね」
「はい。ありがとうございます」
 雑談しているうちに、四階に着いた。エレベーターを出ると目的の部屋はすぐそこだ。彼は自分の心臓が早鐘を打つのを感じた。
 元来彼は物や場所に執着するたちではない。仕事に対してはそれなりにやりがいや情熱を感じていたが、だからといって仕事場に愛着を持つということはなかった。それはただのハコにすぎないからだ。
 いや、愛着どころか実際はその真逆だった。労働基準すれすれの勤務体系で、何週間も家に帰れないことはざらだった。なのに仮眠室のベッドは硬くて狭くて、身体がちっとも休まらなかった。昼も夜も蛍光灯の下で液晶画面を見続ける生活を送っているために、引き出しに目薬が欠かせなかった。こんなに灰色の職場環境はないと、仲間内でよく嘆き合っていた。
 それが今、この場所に立ってほっとしている自分がいる。古巣に帰るとはこういう気持ちなのだなと思った。
 すると、突然上司が立ち止まった。後ろについていた彼も、自然足を止める形になる。部屋の入口まではまだ少しある。一体どうしたのだろうと思っていると、上司はこんなことを言いだした。
「君がうちに戻ってきてくれて良かったよ」
「え? それはどういう……」
「いやね、どこか余所に移ることもできただろう? あんなことがあったんだ。君から転属願を出されたら、こちらとしても受理するしかないからねえ。なのにこうして戻ってきてくれたから、本当に良かったなと思って」
 思ってもみなかったことを言われて、彼は驚いた。
「まさか、転属だなんてありえませんよ。療養中だって、ずっと復帰することしか考えてなかったんですから」
「そうか……うん。君がそう思っているのならいいんだ。つまらないことを聞いてしまったね」
「いえ……」
「彼も随分気にかけてたようだから、きっと喜ぶよ」
 その言葉を聞いて、彼ははっとなった。自分がいない間も、この人が友人のことを気にかけていてくれたことを理解した。
「さ、行こうか」
「はい」
 上司の細い目を見て頷き返す。
 そして彼は約二年ぶりに職場に足を踏み入れたのだった。

 部屋の中には知らない顔が二人いた。ここの現在の捜査員だろう。一人は髭面の屈強な男で、もう一人はすらっとスマートな、いかにもエリート然とした男だった。それまで何か話をしていたようだが、こちらを見て驚いたように立ち上がる。
 髭面の男の方が話しかけてきた。
「どうも。お疲れさまです、田城さん」
「やあ、薪君はいるかな?」
「はい、室長室にいますよ」
「そうかい。まさかと思うけど、昼寝してないよね?」
「さあ、それはどうでしょう」
 男がその強面を崩して苦笑する。それを見て、彼はおやっと思った。男の表情に話題の対象への親しみが感じられたからだ。どうやら思ったよりも彼らはうまくやっているらしい。
 フロアの中を突き進んで、奥の小部屋に行く。そこがここの責任者の個室になっているのだ。捜査員たちの前を通るとき、横顔に彼らの視線が当たるのを感じたが、彼は反応を返さなかった。彼らとは後でいくらでも紹介しあえばいい。それよりも今は、一刻も早く見たい顔があった。
「薪くん、入るよ」
 田城が一声かけて扉を開ける。入ってすぐ正面にある机は空っぽだった。だが少し奥を覗くと、部屋の隅にあるソファの上に探していた姿があった。クッションを枕代わりにして、気持ちよさそうに眠っている。それほど大きなソファではないが、身体が小柄なせいで足元まですっぽりと納まっている。
 田城が「おやまあ」というようにこちらを見る。彼は笑って答えた。
「俺が起こしますよ」
「そうだねえ……まあ、いいや。僕はもう帰るよ。今更彼に君を紹介する必要はないでしょ」
「はあ、そうですか」
「じゃあこれ、復職辞令に医療診断書に、健康診断報告書。ここに置いとくから、薪君が起きたら言っといてくれるかい」
「分かりました」
 田城はデスクの上に書類を置くと、そのまま部屋を出て行ってしまった。そっけないものだ。実にあの人らしい。もしくは自分たちの再会に水を差すまいと、彼なりに気を利かせてくれたのかもしれないが。
 部屋の様子は二年前と全く変わらなかった。戸棚には事件のファイルが、几帳面にラベリングして並べられている。机の上に置かれている物も実務的な物ばかりで、少しの装飾や小物もない。この部屋の主の性格がよく表れている。
 彼は一通り辺りを見回した後、ソファに近づき、顔を覗き込んだ。
 久しぶりに見る親友の顔は相変わらずだった。きめの細かい白い肌にバラ色の頬、赤い唇。不規則な生活を送っているだろうに、それを欠片も感じさせない。大きな目が閉じられて、色素の薄いまつ毛が縁取っている。こうしているとまるで眠り姫のようだ。そういえば、昔から何度も思ったものだ。「黙っていたら可愛いのになあ」と。
 そのうち彼は「これは起きているな」と気づいた。自分の影が顔の上に差しているにも関わらず、長い睫毛がぴくりとも動かなかったからだ。
「おい、薪。起きろ」
 試しに声をかけてみると、すぐに彼は目を開いた。やはり寝ていなかったらしい。
 薪は狸寝入りしていたことを悪びれる様子もなく、まっすぐこちらを見て、こう言った。



「遅刻だぞ、鈴木」



 彼は思わず脱力した。普通ならここは、手に手を取り合って感動の再会になるところではないだろうか。だが相手はソファの上でふんぞり返ったまま、むすっとこちらを睨んでいる。
 そのあまりにも可愛げのない態度に、鈴木はつい噴き出してしまった。
「いやいや、俺元々昼から来ることになってただろ? 午前中はいろいろ事務上の手続きがあったんだ」
「いや、遅い。大遅刻だ。ずっと待ってたのに、反省しろ」
「遅いって……」
 そして鈴木ははたと気づいた。薪の目が面白そうに輝いていることに。
 彼は心の中でほうと思った。

 ──そうか、こいつ冗談が言えるようになったのか。

「待たせて悪かったな。退屈だったか?」
「別に。お前がいなくても、やることは山ほどあったからな」
「そうかよ」
 まるで昨日別れたばかりのように、自然に会話ができる。鈴木がにやりと笑うと、彼も無邪気そうに微笑んだ。その顔を見て思う。

 ──ああ、やっぱり黙ってたら可愛いんだけどな。

 会いたかったとか心配していたとか、そんな殊勝な台詞は元より期待していない。だがこうして自分を迎えてくれるこの笑顔が、何よりの「おかえり」だった。
 鈴木が右手を差し伸べると、薪はソファから起き上がってその手を取った。そして彼らはしばらくの間、無言で握手を交わしたのだった。

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