Ordinary World

 週明けの早朝、青木は都内のホテルの一室でシャワーを浴びていた。するとバスルームの扉がノックされた。彼はシャワーを止めて「はい」と返事をする。
「もう出るけど、そっちはゆっくりしてて。見送りはいらないから」
「えっ、出るって、もう行っちゃうんですか? だってまだ全然時間は……」
「……それが、今日はちょっと用事があって」
「あ、ちょっ、ちょっと待ってください。今出ます」
 青木は急いで体を拭き、バスローブを羽織る。髪がまだ濡れていたが、そんなことに構っていられなかった。
 扉を開けると、案の定相手が身支度を整えた状態でいた。コートを着て、手には鞄も持っている。青木が浴室を出なかったら、このまま顔も合わせないで行ってしまうつもりだったのだろう。
「本当にもう行っちゃうんですか?」
「……ん」
「朝食は? ここの料理結構うまいらしいんですよ。せめてそれだけでも……」
 最後まで言い終える前に首を振られて、青木は口をつぐむ。本当に時間がないのだろう。青木が急いで支度をすると言っても、待ってもらえそうにない。
「じゃあ、最後にこれだけ……」
 青木が腕を伸ばすと、仕方ないなというようにハグに応じてくれた。細い腰を抱きしめて、唇に軽いキスを落とす。
「久しぶりに一緒に過ごせて楽しかったです」
「私も……」
 どうやら名残を惜しんでいるのは自分だけらしい。こうして見つめ合っていても、相手は心ここにあらずのようだ。大方用事とやらのことでも考えているのだろう。
 青木がふてくされた目で見ると、さすがに申し訳なく思ったようで、「ごめん……」と耳元で囁かれた。そんなことをされたら、こちらとしては大人しく引き下がるしかない。
 渋々手を放すと、最後に頬を一撫でされた。それがまるで駄々っ子を宥めすかすやり方のようで、彼は余計に複雑な気持ちになった。
「……じゃあ、また後で」
 そう言って、扉は閉じた。青木は部屋の中に戻り、ベッドに腰かけた。後ろ手をついて天井を見上げる。
 そうそうのんびりしている暇はない。今日もこれから仕事がある。さっさと朝食を済ませて、出発の準備をしなければ。頭ではそう分かっているのに、ベッドから立ち上がる気になれなかった。ホテルご自慢の朝食バイキングも、一人でテーブルにつくことを思うと、食欲が湧いてこない。
 昨夜は久々のデートだった。といっても夕方からほんの少し会えただけだ。このところお互いの予定がかみ合わなくて、なかなか時間を作れずにいる。今日も平日だからゆっくりできないことは分かっていたが、もう少し一緒にいられると思っていたのに。

 ──いや、仕方ないか。

 青木は自分に言い聞かせる。お互い責任を持った社会人だ。わがままを言って相手を困らせたくはない。そうでなくても、先ほどのように年下扱いを受けることが少なくないというのに。
 それに時間の許す限りまで一緒にいられたとしても、どうせ手を繋いでチェックアウトすることはできないのだ。それを思えば、一緒に朝食を取れないことぐらいたいしたことではない。
 皺の寄っていない隣のベッドを見つめながら、彼はひっそりとため息をついた。


 駅のホームに降りるやいなや、後ろから声をかけられた。
「おい、青木!」
「あ、今井さん。おはようございます」
 振り返ると、少し離れたところに職場の先輩の顔が見えた。青木は足を止めて、彼が追いつくのを待った。
「おはよう。今日は早いんだな」
「今井さんこそ、随分早いじゃないですか。」
「先週残業できなかったから、その分早めに出ることにしたんだ。そっちこそどうしたんだ? つか、お前ってこっちの沿線だったっけ?」
「いえ、違いますけど、昨日友達のところに泊まったんで」
「ああ、女か」
 今井が当たり前のように言う。どうして分かったのだろうと驚きながら、青木は慌てて否定する。
「そういうんじゃないですよ。ただの大学時代の友人です。昨夜一緒に飲んで、終電逃したから泊めてもらったんですよ」
 咄嗟にそれらしい言い訳を捻り出すと、今井は「ふうん」と呟いて、それ以上追及しようとはしなかった。もしかしたらこちらの嘘に気づいていて、あえて見逃してくれたのかもしれなかった。
「なんでもいいけど、ちゃんと寝られたのか? 仕事中に居眠りでもしたら薪さんにどやされるぞ。気をつけろよ」
「大丈夫ですよ。仕事で徹夜にも慣れてますし、一晩ぐらい平気です」
「まあ確かに顔色はよさそうだな。いい血色してる」
「でしょう?」
 今井が「いいねえ、若者は」と茶化してくる。若者といっても、今井とそう年が離れているわけではない。だが、こうして同僚から若造扱いされるのもいつものことだったので、青木はそれ以上言い返すことはせず、曖昧に笑い返した。
 二人はそのまま他愛もない話を続けながら、彼らの職場である科学警察研究所へと向かった。
 途中、青木がふと空を見上げると、街路樹の枝葉の隙間から木漏れ日がきらきらと輝いていた。

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