Flu*
夢か現か
マンションの駐車場に車を止め、サイドブレーキをかける。後ろを振り返ると、薪は目を閉じていた。
「薪さん、着きましたよ」
声をかけてみるが、やはり薪は眠っているようだった。運転席を降りて、後部座席のドアを開ける。そっと肩を揺らすと、彼はすぐに目を開けた。しかし寝ぼけているのか、視線がぼんやりとしている。
青木はしゃがみ込んで、彼の顔を覗き込む。
「薪さん、ご自宅です」
青木の言葉に薪は返事をせず、ただ頷いた。表情が不機嫌そうで、青木は腹の底がヒヤリとなるのを感じた。やはり自分を泊めるのは本意ではないのだろう。
むすっとした様子で車を降り、マンションに入っていく彼の後を、青木は黙って追いかけた。
いつも送迎するのはマンションの前までだった。だから彼と一緒にエレベーターに乗りこんだ時は、高くなっていく視界につられるように気分も高揚していった。
薪が鍵を取り出して自宅の扉を開けた時が、最高潮だった。
これまでに、職場で同僚達と薪のことを噂したことがある。しかし大抵は憶測の域を出なかった。彼の私生活について詳しく知る者がいなかったからだ。唯一の例外は岡部で、薪を家の中まで送ったことがあるという。だが彼の口は貝のように固く、薪についての情報を一片も漏らすことはなかった。
それが今日、自分は中に入るどころか、泊まらせてもらえるという。これこそまさにトップシークレットだ。第九で一番の新入りである自分が、室長の最もプライベートな空間に立ち入らせてもらえるだなんて、なんて幸運なのだろう。岡部に感謝したい。よくぞ間違えて酒を飲んでくれた。
青木は大学時代から薪剛という人間に強い憧れを抱いていた。それはアイドルに向ける崇拝の念にも似た気持ちで、彼は今、憧れている芸能人の自宅に入る一般人のごとき心境だった。
ところがその偶像は、青木の目の前ですげなく扉を閉めようとした。
「ま、薪さん!?」
青木は慌ててドアを押さえた。
扉の隙間から顔を出すが、薪は振り返らず、さっさと中に入って行ってしまった。青木はドアに手をかけたまま、その場に立ち尽くした。
危うく締め出しを食らうのかと思った。鍵をかけなかったのだから、入っていいということだろうが、何もあんなに冷たい態度を取らなくても。青木は打ちひしがれる。さっきまでのわくわくした気持ちに、冷水を浴びせられたような気分だった。
こうして廊下に居続けるのも、不審者のようで居心地が悪い。青木はこそこそと、まるで泥棒が忍び入るように、ドアの中に滑り込んだ。
それから青木は玄関先でしばらく待っていた。向こうにすれば、急に客を迎えることになったのだ。部屋の片づけなど、ある程度支度が必要なのだろうと、先ほどの薪の行動を彼はそう解釈した。
そのうち廊下の奥から、彼が現れた。ジャケットを脱いでワイシャツ姿になっている。
「あ、薪さん。俺……」
青木はほっとして話しかけるが、薪は彼を無視して、手前のドアの中に入ってしまった。少しして、壁の向こう側から水音が聞こえてくる。どうやらシャワーを使っているらしい。
薪は入浴に一体どのぐらい時間をかけるのだろう。烏の行水なのか、一時間以上かけてゆっくり入るタイプなのか。青木には見当もつかなかったが、もし後者だったら、自分の立場が相当物悲しいことになる。
薪に怒られることも含め、幾通りものパターンを頭の中で想定した後、彼は腹をくくって靴を脱いだ。
──何も、あんなに迷惑そうにしなくたって。
恐る恐る入ったリビングの片隅で、青木は床に正座しながら項垂れていた。
普通はソファに座るものなのだろうが、ここは初めて招かれた家で、まして彼は自分の上司だ。プライベートでもさほど親しくないのに、勝手に座るのは躊躇われた。
やることもなく漫然と廊下の奥を眺めていると、不意にそちらの方角から大きな音がした。何か大きなものが落ちたような音だった。青木は急いでバスルームに向かった。
「薪さん? 大丈夫ですか?」
浴室の中に向かって声をかける。だが返事は返ってこなかった。摺りガラスの奥に、薪らしき人影は見える。シャワーも流れ続けていた。
青木は少し逡巡した後、そっと浴室の扉を開けた。
「失礼しま……あっ、薪さん!」
薪は浴槽の縁にしがみつくようにして、しゃがみ込んでいた。バランスを崩して倒れたのだと一目で分かった。
「大丈夫ですか、薪さん!?」
青木はすぐさまシャワーを止め、バスタオルを広げた。薪の体にかけようとして、彼の白い肌が目に入り、手が止まる。
──これは……俺が触っていい物なのか?
なぜそんな考えが頭に浮かんだのか、自分でも分からなかった。だがその時青木は、薪の体に触れることが訳もなく躊躇われた。こうして見ていることすら悪いことのような気がしてきて、ぱっと視線を逸らす。
「あの……薪さん、立ち上がれそう、です、か?」
どうしてこんなに自分は委縮しているのだろう。風呂場で倒れた上司を助けようとしているだけなのに。こんな遠慮している場合ではないのに。
薪は目を瞑ったまま答えない。
青木はできるだけ彼の姿を視界に入れないようにして、タオルを肩にかけた。そして腕を取って、ゆっくりと立ち上がらせる。
薪は大人しく青木の腕に掴まり、胸元に頭をもたせかけた。
「ええ、と……じゃあ、風呂場を、出ます……」
青木はぎくしゃくしながら彼の肩を抱き寄せ、共に浴室を出た。
脱衣所に着くと、薪が棚に掴まりながら、ずるずると崩れ落ちた。かなり気分が悪そうだ。青木はこの非常事態に、彼の裸に悠長に動転していた己を恥じた。
ひとまず水を汲んで、彼に飲ませる。ゆっくりとコップの角度を傾け、間を挟みながら、少しずつ水分補給させる。
水を飲み終えてからも、薪は青木の腕の中でぐったりとしていた。ひょっとして、ただの湯あたりではないのだろうか。
もしかしたら終始無口だったのも、青木に対して不機嫌だったのではなく、気分が悪かっただけなのかもしれない。しかし岡部は一言も、薪の体調が悪いとは言わなかった。食事の最中に、間違って酒を口にしたのだとしか聞いていない。もしかしたら、自分の運転が下手なせいで車酔いしてしまったのだろうか。もしそうだとしたら、非常に申し訳ない。
青木はタオルで体の水気を取り、その場にあった下着とパジャマを身に着けさせた。そして彼を抱き上げて移動し、リビングのソファの上に寝かせた。
部屋の中に団扇のようなものが見当たらなかったので、その辺にあったクリアファイルを拝借して、顔を仰ぐ。
「薪さん、水もう少し飲みますか?」
青木が尋ねても、薪は「ううう」と苦しそうに喘ぐだけだ。うっすら冷や汗もかいている。
夜間の病院に連れて行くべきだろうか。それとも大事にしない方がいいのだろうか。
青木は考えあぐねた結果、とりあえず彼をベッドに休ませて、様子を見ることにした。
「薪さん、寝室に行きますよ。いいですね?」
そう言って体の下に手を差し入れようとした時、ようやく薪が目を開けた。
「大丈夫ですか、薪さん」
「…………」
薪はぼうっと天井を見上げている。そのうち自力で体を起こし、訝しそうに青木を見た。
「青木……なんでお前がここにいる」
「えっ? なんでってそりゃ……さっき、薪さんが泊めてくれるって言ったからですが……」
「泊める? お前を? 僕が?」
薪は「まさか」とでも言いたげな顔をしている。しかしよく見ると、頭がかすかにふらついていた。まだ意識がはっきりしていないのかもしれない。
「薪さん、俺のことはいいですから、早く横になってください。ご気分が良くないのでしょう?」
「…………」
青木の声が聞こえていないように、薪は視線を宙に彷徨わせたまま、じっとしている。やがて彼は立ち上がり、リビングの隣の部屋に入ってしまった。青木が後を追おうにも、鼻先で扉が閉められる。
そのうち薪は敷き布団を抱えて戻ってきた。それを床の上に置くと、再び奥の部屋に入り、今度は掛布団と枕を持ってきた。つまり、青木の寝床を用意してくれているらしい。だが今はそんな場合ではない。
「そんなこと俺がしますから、早く横にならないと……薪さん、今倒れたばっかなのに……」
必死に言い募る青木の言葉もどこ吹く風と、薪は寝具を整え、やがてリビングの隅に一組の布団が敷かれた。
「うん、これでいいな」
薪は満足げに呟くと、自分がその布団の中に入ってしまった。うつ伏せになって、枕に顔を埋める。青木はその様子をぽかんと眺めていたが、慌てて彼に取りすがった。
「薪さん、寝ちゃうんですか? あ、いや、それはいいんですけど、俺のために布団敷いてくれたんじゃなかったんですか?」
「煩い」
「で、でも……寝室で寝なくていいんですか?」
すると、薪は枕に頭を伏せたまま右手を上げて、ある方角を指差した。指し示す先を見ると、一つのドアに辿りつく。中を覗くと、果たしてそこは寝室だった。
「これって、俺がここで寝ろってことなのか……?」
青木は寝室の戸口に立って、一人自問する。
答えてくれる相手は、すでに寝息を立て、夢の国の住人となっている。青木は仕方なくリビングの灯りを消して、寝室の中に入っていった。
コメント
カリンさん
これから、どうなるのか続きが楽しみです。
読んで頂いてありがとうございます〜!
飛び飛びで書いてるので完結まで恐らく時間がかかりますが
気長にお付き合いください♪
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