パンドラの箱をブチ開けろ


 


 夏が近いせいか日差しが強い。窓から差し込む光に荒北は目を細める。ちょうど正午を過ぎたばかりで、荒北は購買へ向かうため廊下を歩いていた。足取りが重いのは気のせいではない。昼休みの購買はちょっとした戦争だ。おそらく今の時間ではもう人でいっぱいだろう。この暑さのせいで余計に気が重い。

「才能あっても、怪我しちゃおしまいだよな」

 昼休みの喧騒の中、はっきりと聞こえた声に荒北は足を止めた。背筋が凍りつく感覚。ゆっくりと振り返ると、サッカー部の男子生徒が二人で話していた。
「もったいないよな、その一年どうしてんの?」
「あんまり学校に来てないみたいだな。あっ髪の毛真っ赤らしいぜ」
「不良かよ。中学の時に県選抜に選ばれていた選手がねぇ」
 うまく息ができない。舌打ちして荒北はその場から足早に立ち去る。忘れて久しい傷がじくりと痛んだ気がした。

――未練なんてもうねェと思っていたんだけどな。
 階段を勢いよく上がる。向かう先は購買ではなかった。無性に空が見たかった。ビアンキとはすこし色合いが異なるが日本のチェレステが。
 屋上の扉を開けると、眩しい金色が目に入った。あぁ何故。
「福ちゃん、なんで」
――なんでいんだよ。
「荒北」
 ベンチに座っている福富が名を呼ぶ。膝には色々なパンが置かれている。
「どうしたの、そのパン」
 普段通りの表情で、普段通りの口調で。荒北は福富へと歩み寄っていく。
「購買に行くと言ったら、新開と東堂がくれた」
「そりゃ、そうだよ。狙われてんだからァ」
 この王様はどこまでも自覚がないらしい。それにしても、一人で食べるにはだいぶ多い量を渡されている。
「あいつらも甘チャンだねェ」
 荒北は笑った。つもりだった。

「荒北、無理に笑わなくていい」

 意味がわからなかった。荒北は息をのむ。
「福ちゃん、なに言ってんのォ」
 喉がカラカラに乾いている。荒北の問いのにも福富は表情を変えない。
「オレ、別にムリしてなんかないからァ」
 語尾が小さくなる。バカチャンがっ。荒北は己を叱咤する。弱いところなぞ見せたくない。
「そうか」
 福富はそれだけ言った。それだけなのに、胸がいっぱいになる。
――嘘だよ。福ちゃん。ホントは気付いてくれてすっげェ嬉しい。
 たまらず手を伸ばして福富の頭に触れる。
「荒北」
 咎める福富を無視して、髪を撫でる。傷んだ金髪の感触が愛しい。
「福ちゃん、あんがとね」
 福富は何も言わない。黙って荒北の行為を許してくれている。不器用な彼の優しさ。

――アァ、福ちゃんのそういうトコ好きだよ。大好き。

 荒北の中で眠っていた感情が芽吹く。心臓のポンプが一気に動き始め、心が震える。

 オレ、福ちゃんが好きだ。

 唐突に。パズルのピースがはまるかのように。
 すとんと。その想いは荒北の心へと降ってきて。満ちた。

――え、オレ今なんて。

 嘘だろう。荒北は愕然とする。

――福ちゃんはオレの恩人でダチだ。違う。違ェ。

 必死に言い訳を繰り返す。しかし、心臓の鼓動はますます激しくなるばかりでいうことを聞かない。目の前の存在が欲しいと本能が叫ぶ。暴れる。激しい感情の嵐の中、荒北は認めざるおえなかった。

――オレ、福ちゃんのことが好きだったんだ。

 呆然とでも、どこか納得している自分がいた。

「わ、わりィ」
 急に彼に触れていることが恥ずかしくなる。慌てて手を離す。全身があつい。
「荒北?」
 福富は不思議そうな顔をする。いつもの鉄仮面より幼く見えて。かわいい。そう思った自分に戸惑う。
――どうしちゃったのォ、オレ。
 前々から彼のことを可愛いと思うことがあったが、それはペットや子どもに対するものに近かった。今は違う。胸がドキドキして痛い。ダムが決壊したかのように、感情が溢れてくる。

 かわいい。
 好きだ。
 触れたい。

 触れたい。

 もう一度手を伸ばしかける。しかし、荒北は思い留まった。
――こんな想い。福ちゃんには迷惑でしかねェ。

 またも荒北はムリヤリ口の端を上げる。
「福ちゃん。オレ、パン買えなかったから、分けてくんナァイ」
――安心して。オレは一生言わねェから。

「あぁ」
 どのパンがいい? と見せてくる福富が愛しい。
 そんな風に思ってはいけない。彼を汚している気分になる。
――ごめん。福ちゃんはオレの恩人なのに。

「このりんごのパンは福ちゃんが食べなよ」
――好きになってごめん。

 絶対に、今年の夏は表彰台の一番高い場所へ彼を連れて行く。

 それが唯一オレにできる最高で最上の愛の証だ。


◇◆◇◆◇


「どうした、靖友? 具合でも悪いのか」
 新開の声にはっとする。
「なんでもねェよ」
 荒北、新開、東堂の三人は寮の廊下を歩いていた。

 噂を流した犯人がわかった。
 新開が後輩に聞こ込みをしたところ、赤い髪をした一年が言っているところを見たという証言が多数あった。
『真波は噂すら知らなかったぞ』
 何故か得意げな東堂。
 赤い髪の一年。偶然にも昼に荒北が聞いた単語だった。すぐに昼間に話していたサッカー部員に話を聞きにいくと、あっさりと本名と寮の部屋まで教えてくれた。とりあえず、話をするために、できれば噂を取り消してもらうため、荒北と新開、東堂は赤髪の一年生の部屋へと向かっている。奴が福富に悪意を持っているかもしれないため、福富には内緒の行動である。

「しかし、そいつも可哀想な奴だ。県内選抜に選ばれるほどの実力だったのだろう」
 東堂が静かに話す。
「サッカーは詳しくないが優秀だったみたいだな」
「怪我はこわいな」
「あぁ」
 荒北は新開と東堂の会話に加わる気になれなかった。中学生の時に優秀なスポーツ選手。選手生命を絶たれる故障。どこかで聞いたような話だ。タチの悪い冗談。荒北はひとり眉を寄せた。
 一年ばかりいる廊下に居心地の悪さを感じなら、ひたすら歩く。そして、遂に目的地へとたどり着いた。
「着いたぞ」
 東堂がごくりと唾を飲む。
「よし、この美形であるオレが」
「おぉーい。チャリ部のものだけど」
 新開が軽くドアを叩く。
「隼人!」
 抗議する東堂に新開は片目を瞑る。
「まぁ、いい。それにしても反応がないな」
 耳を澄ましても、物音の一つも聞こえない。
――気配が、匂いがしねェ。
 新開を押しのけて、今度は荒北が扉の前に立つ。力任せに拳を叩きつける。
「オイ。聞こえてんのか」
「荒北、近所迷惑だぞ」
 すかさず新開が注意してくるが、知ったことではない。何回か繰り返すと隣のドアが開いた。気弱そうなメガネの少年が出てくる。その人出かけたみたいですよ。とか細い声で告げた。
「こんな時間にィ?」
「はい。よく寮を抜けだしてるみたいです」
 あんの不良野郎。と呟くと東堂と新開が背後で「元ヤン」「リーゼント」とヒソヒソ言っているが気にしないでおく。オレは前だけを見て生きてんだ。
 メガネにうるさくしたことを詫びて、荒北たちは元来た道へと引き返す。とんだ無駄足だ。
「なァ、どうすんだ」
「仕方あるまい、不在では。」
 明日は教室へ行ってみるか。顎に手を当てて東堂が思案する。
「とりあえず、はっきりしたことがわかるまで寿一には内緒だな」
 新開の言葉に頷く。相手がどういう意図で噂を流したかわからない。悪ふざけならまぁ、いい。もし悪意を持っていたら、厄介だ。福富の性格上、犯人に直接会って話がしたいと言うだろう。黙っておく方が得策だろう。
「とりあえずもう寝ようぜ」
「そうだ。睡眠は大事だぞ。なんせ」
 山神のご自慢のトークが始まりそうだったので、荒北はいち早く背を向ける。
「荒北、話を聞け!」
 怒れる東堂に右手を上げて応え、そのまま自室へと戻った。ひどく疲れていた。

 部屋のドアを開けてすぐにベッドに倒れこむ。ぎしりとスプリングが鳴った。
――福ちゃん。
 目蓋を閉じると見慣れた金髪が浮かぶ。出会ってすぐの頃の姿から今日までの彼が鮮やかに。気付いたのは今日。でも、きっとずっと前から好きだった。もしかしたら、最初に彼の背中を追いかけた時には、もう。惹かれていたのかもしれない。
――なんで、気付いちまったんだか。
 荒北はゲイではない。今まで生きてきて性欲の対象として男をみたことは決してない。でも、今は。
――福ちゃんとならキスできるかも。いや、してェ。
 末期だ。己の罪深さに荒北は腕で顔を覆った。福富がこのことを知ったらどう思うだろうか。
――キモチワルイって思うよな。

 福ちゃんにそう思われたらオレ、生きていけねェよ。

 そうだ。これ以上の何が欲しい。仲間も、目標も、福富からの信頼も全部ある。
――福ちゃんはオレにいっぱい大切なものをくれた。だから、オレはもうなんもいらない。
 世界で一番欲しいものは望まない。
 今度は彼に恩を返す時だ。インハイで優勝する。それしかない。
 差し当たっては――荒北は赤髪の一年のことを考える。
 奴は荒北の亡霊なのかもしれない。福富と出会わなかった過去の荒北。
――成仏させてやんないとな。
 福富への想いを自覚し断ち切った日に、赤髪の存在を知ったのも何かの縁なのかもしれない。
 皮肉げに笑って、荒北は涙を流さず確かに泣いた。


 荒北はビアンキに乗っていた。前にはジャイアントに乗った福富がいるが、彼はどんどん速度を上げていく。徐々にふたりの距離は開いていく。「待ってよ、福ちゃん」荒北は叫ぶが、福富は振り返りもしない。やがて十センチメートルが一メートルへ一メートルが十メートルへ。彼の背中が遠くなる。荒北も必死にペダルを回すが、及ばない。「待ってよ、待って、福ちゃん」焦ってコーナーを曲がり損ねる。バランスを崩した荒北はそのまま地面へと叩きつけられた。
 気付いたら、目の前に福富がいた。「この箱を開けてはくれないのか」福富は両手で持った箱を荒北へと差し出す。その箱には見覚えがあった。「ダメだよ、福ちゃん。その箱は開けちゃいけねェ箱だからァ」「何故だ」「開くとみィんな不幸になっちまうの」「そうか」頷くと福富は箱の蓋へと手をかけた。「ちょっ待っ」止める間もなく福富は箱を開け放った。「お前だけにつらい想いはさせない」これでオレも一緒だと彼は笑った。

「さっいあくの夢」
 夜中に目を覚ました荒北は舌打ちして再び目を閉じた。


 後から思えば、この夢は予兆だったのかもしれない。

2015/03/21