七番目の正直


 


 不機嫌な顔をした荒北と再び会ったのは数時間後だった。
 大学からアパートに戻ってくつろいでいると、インターホンが鳴った。
 ドアを開けて見ると荒北が立っていた。
 その雰囲気から何かあった事を察した金城は彼を部屋へ招き入れる。するとそれまで無言を貫いてきた荒北が無愛想に彼の携帯を鞄から取り出して、金城に見せた。
「もうすぐアイツから着信が掛かってくる」
「アイツ?」
 ちょうどその時、携帯が震えた。荒北はさっと携帯に触れる。どうやらスピーカーモードにしたようだ。相手の声が聴こえる。
「荒北、それに金城。どうやらこの美形の助けが必要のようだな」
「東堂?」
 元箱学エースクライマー東堂尽八だった。
「バァーカ。助けが必要なのはオレじゃねェよ」
 荒北が醒めた口調で言う。
「そうだったか? まぁいい。オレに任せておけば万事うまくいく」
 なんてたって天はオレに三物を与えた。
 いつもの口上を述べる東堂に金城は荒北を見た。荒北は我慢しろという顔をしていた。額に青筋が立ってながらなのであまり説得力はない。
 そんなことは当然お構いなしに東堂は喋り続ける。これがトークの才能ならば確かに彼にはそれがあると言える。
「久しぶりだ、東堂。金城だ。助けとはどういう意味だ?」
 タイミングを見計らって金城は話しかけた。既に頭の中は疑問でいっぱいだった。
「何だ。荒北から聞いていないのか」
 東堂は高らかに笑った。
「荒北とそれと隼人からお前たちの現状を聞いた。その時、オレはとある話を思い出したのだ。まず話しておくとオレのご先祖の非情に物好きな人物がいた」
 古今東西、あらゆる場所に赴いては怪しき話を書にしたためていたという人物。
「怪しいと言っても変な意味ではないぞ。言うなれば怪異、怪談と言ってもいいのかもしれないな」
「んな事はどうでもいいんだヨ。オメェはその本の中で見たんだろう。今回の福ちゃんと金城と似たような話を」
 痺れを切らした荒北が口を挟む。
「焦るな、荒北。蔵にあったそれをオレは読んだことがあってな。今回と似た話もその中にあった」
「どんな内容なんだ」
「一連の話は“呪いのようなもの”という風に纏められていた」
 呪い。金城は口の中で呟いた。
「あいにく呪いをかけられるような心当たりはない」
「そう言うな。その前に状況を今一度整理しようじゃないか」
 よどみなく東堂は喋り続ける。
「まず隼人から聞いた話だ。フクは眠るのが怖いらしい。全くらしくない話だ」
「その理由はわかったのか」
「あぁ。隼人が根気強く訊いてくれた」
 夢が怖いそうだ。あっさりと東堂は言った。
「夢、か」
 やはり彼も自分と同じ夢をみているのだろうか。
「そうだ。だが、勘違いするなよ。フクは夢の内容を覚えていないらしい」
「覚えていない?」
「漠然と恐ろしい事はわかる。だが、詳しいことは何も覚えていない」
「すると、オレの見ている夢と福富が見ている夢は別物なのか?」
 金城は唸る。福富の夢と金城の夢が無関係ならば、どうすることもできない。
「それがそうとも言い切れん。お前たちは同時に恐ろしい夢をみるようになった。あまりにもタイミングが良過ぎるだろう?」
 それは金城も思った事だ。だが、ただの偶然という方が可能性は捨てきれない。
「東堂、もったいつけんな」
「わかった、わかった。全くうるさいギャラリーだ」
「んだと」
 拳を固める荒北。妙に迫力があったが、東堂は見れないので意味はない。
「オレが読んだ話はこうだ。ある村に一組の夫婦がいた」
 東堂は滔々と語る。
 その夫は毎晩、とある夢に悩まされていた。愛する妻に殺される夢だ。
「殺され方は様々だったが、共通点があった。夫を殺した後、必ず妻は夫に謝る」
 一緒だ。金城は夢の中の福富を思い返す。
「夫は妻にそのことを話した。すると、妻は蒼い顔をした」
――私も恐ろしい夢をみるのです。
 驚いたことに夫が悪夢をみるようになった同じ日に彼女も夢をみるようになったそうだ。どんな夢だと夫は尋ねた。しかし、妻は「覚えていない」と首を振るばかりだ。ただ漠然と恐ろしいことだけわかるらしい。
「それからその夫婦はどうなったんだ」
「あぁ。夢をみてから八日目の朝。つまり夢を七回みた次に朝だ」
 夫は死んだ。原因はわからない。布団の中で眠るように亡くなっていた。その傍で妻は首を吊って自害していた。
「東堂、それ」
 笑えねェよ。荒北がぽつりと言った。
「あぁ。そうだな」
 やるせない話だと東堂は柔らかい声を出した。
「オレの先祖はこの話をとある神社の神主から聞いたそうだ。神主が言うには妻が夫に負い目があるせいでこの悲劇は起きたそうだ」
「負い目?」
 金城の背筋を冷たいものが通り過ぎる。
「そうだ。妻は一度、過ちを犯した」
 甘い言葉に騙されて夫以外の男に金を貢ぎ身体を開いた。夫を捨て、いつか一緒になろうとまで約束をした。
 だけども、それは嘘だった。事が明るみになった時、男は逃げ妻はひとり取り残された。
 そんな妻を夫は許した。妻はそんな夫に自分が誰を一番愛しているかに気が付いた。泣いて謝る妻を夫は抱きしめた。
 それから、二人は元通り暮らし始めた。
「だが、心の中まではそうはいかない」
 皮肉げに東堂は言った。唇を歪める姿が見えるようだ。
「妻は自らの行いを恥じ、非常に悔いていた。日に日にその罪悪感は彼女の心を押しつぶしていく」
 何故、あんな事をしてしまったのか。なかった事にしてしまいたい。
 なかったことに。全部なかったことに。そうすれば、あの人を傷つけることもなかった。
「強すぎる人の感情は時として人ならざるモノを生み出す」
 罪を憎む負の感情は蠢きながらゆっくりとナニカへと変質していった。
「あの書ではそれを呪神と書いていた」
 それは彼女の願いを叶える為に生まれた。
 罪を消したい。この世から。
 彼女にとって最も罪を意識させる存在は何か。それは最愛の夫だった。
「夫を殺す夢をみせることで彼女の負の感情を煽り、呪神が力を得た」
 奴に人を殺す程のちからは最初はないらしい。できる事は人に夢をみせること。人と人の夢を繋ぐこと。だから、死ぬまで七日かかる。
「あくまでもこれは神主の推測だがな」
 妻が自殺したのはおそらく自分のせいで夫が死んだと悟ったせいだろうな。東堂は静かに言った。
「待ってくれ」
 金城は声を上げた。
「何だ」
「悪いが、オレたちにはその話は当てはまらない」
 金城の脳裏に三年のインターハイの光景が甦る。ようやく笑えると涙を流していた福富。彼はあの時、全てを吹っ切ったはずだ。
「福富は自分を罪をなかった事にしたいと思う人間ではない」
 むしろ逆だ。彼は自分の罪を受け入れて、それでも前に進むことを止めなかった。千葉まで来て頭を下げた彼の姿を金城はありありと思い出すことができる。
「そうだな。フクは強い」
 だが、フクも人間だ。
 東堂は諭すように優しく言った。
「無意識に思ったり、傷ついていることもあるだろう」
 金城は言葉に詰まった。そうなのだろうか。彼も心の何処かで金城の存在を苦痛に思っていたのだろうか。
 無意識に握りしめていた手を開く。その掌は汗でじっとりと湿っていた。
「で、オレたちはどうすればいいんだ?」
 荒北が気まずそうに頬を掻いた。
「よくぞ、聞いてくれた。荒北」
「ウッゼ。とっとと話せ、このカチューシャが」
「何だその言い草は」
 東堂は咳払いをひとつした。
「で、この呪いを解く方法なんだが……。流石の美形でもそこまで記憶していなくてだな」
「ハァ?」
 歯茎を剥き出しにして荒北が吠える。
「おい、話は最後まで聞け。だから、姉にその書をスキャンして送ってもらう事にした。解決法がわかったら連絡しよう」
 それでは、またな。
 そう言って一方的に通話は切られた。
「だってよ」
 げっそりと疲れた表情をして荒北が振り返った。
「荒北はあの話を信じるのか?」
「あぁ。信じられねェだろうけど、この類のアイツの話だけは信用できる」
 経験上な。
 荒北はそう言って自分の身体を抱きしめた。一体、箱学時代に何を体験したのだろうか。
 そんな荒北に金城は首を振ってみせる。
「オレはまだ信じられない」
 荒北が目を瞬せる。案外素直なその姿に金城は口の端を上げた。
「今日は良い夢をみるかもしれないだろう?」
 そうなればあの話と自分たちは無関係だ。
 金城の言葉に荒北は呆れたように言った。
「諦めが悪いねェ」
「よく言われる」
 こればっかりは性分だ。

 視点がやけに低い。
 金城は冷たいコンクリートの床に寝転がされていた。
 ここは何処だろうか。暗くてよくわからない。おまけに手足は縄のようなもので縛られて、動かすこともままならない。
「誰か」
 声が反響する。その速さからあまり広い部屋ではないようだ。
 シュッと何かを擦る音がする。
 同時に暗闇から福富の顔が浮かび上がった。手にはマッチ棒を持っている。どうやらさっきの音はこれに火をつけた音だったようだ。
 金城は恋人の顔をまじまじと見つめる。炎による弱い光のせいで影ができ、いつになく疲れているように見えた。
 何かあったのだろうか。
「福富」
 呼びかけると福富は目を閉じて首を振る。迷いを捨て去るようなそんな仕草だった。
 彼が何故、そんな表情をするのか金城にはわからない。
 福富が再び目を開いた時、顔の影はより色濃くなっていた。別人かと見間違えるほどに。
 一歩前へ福富が踏み出す。マッチ棒を握っていた手を突き出し、ゆっくりと開いた。
 重力に従ってマッチが棒落ちる。金城の目にはそれはスローモーションのように映った。
 上から下に灯りが落ちきった時、小さな水音がした。そして、一気に金城の周囲の床に炎が燃え広がる。まるで壁のように。
 床に灯油かガソリンが撒かれていたのだろう。
 熱い。金城は炎から逃れようとのたうち回りながら、炎の向こう側にいる男を見た。
 福富は顔色ひとつ変えずに金城を熱心にを眺めている。
「何故だ」
 足に痛烈な熱を感じた。肉の焼ける臭いがする。
「福富」
 もはや自分が何を求めているかもわからないまま金城は叫び続けた。
 そレに応えるように福富は唇を震わせる。
 すまない。
 確かに彼はそう言った。
 そして、金城は大きな炎の一部となった。

 大学に行く気になれず、金城は一日の大半を部屋で過ごした。
 襲ってくる眠気を打ち消す為にコーヒーを何杯も飲んだ。夢の中で死んだのはこれで五回目だ。東堂の話が真実ならばあと二度眠るだけで、金城はこの世から去ることになる。
 嘘みたいな話だ。これこそ夢であるべきだ。
 両親に電話するべきなのだろうか。日の沈んだ薄暗い部屋で金城は携帯電話を見つめていた。しかし、何と言えば良いのだろうか。数日後には死んでいるかもしれない? 無用な心配をかけるだけだ。
 金城が悩んでいると勝手に携帯が震えた。
 こんな時に誰だろうか。
 金城はディスプレイを睨んだ。
 しかし、それに表示された懐かしい名を見て、金城はすぐに通話ボタンに触れた。
「もしもし」
「久しぶりだな。金城」
 豪快に笑う声はあの頃と少しも変わっていない。
「田所」
「元気にしてるか」
「……あぁ」
 嘘だ。
「それにしても珍しいな。何かあったのか?」
「まぁな。ちょっと変な話を聞いたもんだからよ」
「変な話?」
「いや、お前が元気ならいいんだ」
 田所が言葉を濁す。その態度が妙に気になった。
「何故、オレが元気なら構わないんだ?」
「いや、ちょっとな」
「田所。一体何を聞いたんだ」
 語気を強めると田所が電話の向こうでぐっと言葉に詰まる気配がした。
「その、聞いたんだよ。巻島経由で」
 お前が良くねェ夢をみてるらしいって。
 小声で彼は言った。
「また“あの夢”をみてんだろう?」
 全身の血が凍りつく音がする。
「田所」
 ぽきんぽきんと血管を折りながらどうにか唇を動かした。
「今、オレを困らせている夢は“その夢”とは違うんだ」
「そうなのか? でも、お前三年の時の合宿でもまだ」
「田所、オレは大丈夫だ」
 冷静に金城は言った。その声色から何かを察したのか田所は「そうかよ」と呟いた。
「何か困ったことがあったらいつでも言えよ」
「あぁ。ありがとう」
 余計な詮索をしない友人の気遣いに感謝しながら金城は通話を切った。
――あの夢か。
 金城はベッドに歩み寄ると携帯を放り投げた。続けて、自身の身体もそこへ投げ出す。酷く疲れていた。
 夢というものは脳に残った記憶を使って創りだされているらしい。
 それが喩え本人にとって思い出したくないものでも、強烈な記憶ほど脳は強固に記憶している。痛みもそのひとつだ。
 金城にはよく見る夢がひとつあった。
 広島のインターハイ二日目、ジャージを引かれる夢。
 そのことを強く意識したことなどないのに。福富を恨んでなどいないのに。
 身体はいつまでもあの時の痛みを忘れてくれない。
 夢の中で金城はいつも無様に転がり落ちる。
 合宿の時もそのせいでうなされて、巻島と田所に心配をかけてしまった。
「それは今もか」
 金城は皮肉げに笑う。
 福富と付き合うようになってもその夢は消えなかった。
 それこそ呪いのようにいつまでも金城にまとわりついてて離れない。
 あぁ、そうだと金城は思い出す。
 福富に殺される最初の夢をみた日に彼と電話で交わした会話を。
――時々うなされているが、何の夢をみているんだ?」
 前から聞こうと思っていた。付け足すように福富は言った。
「知っていたのか」
 後ろめたさに指先が冷たくなっていく。本当の事なんて言えるはずがない。福富は何も悪くない。悪いのはいつまでも女々しく夢を見続ける自分だ。
「金城、すまない。言いたくないのならばいいんだ」
「違う」
 謝る福富に金城は慌てて言い繕った。
「大した夢じゃない。入試で一点足りなくて大学を落ちる夢なんだ」
 笑えるだろう。白々しく金城は言った。
「受かったのにそんな夢をみるのか」
「だから、言いたくなかったんだ」
 最後まで金城は本当の事を言わなかった。そして、話題はいつも通りロードの話になり二人はおやすみと挨拶をして電話を切った。
 思えば、福富は金城が何の夢をみているのかなどとっくに察していたに違いない。
「引き金を引いたのはオレか」
 東堂の話を思い出す。
 夫は妻の不貞を許したというが、何も思わなかったはずがない。気付かぬ内に夫は言っていたのではないだろうか。彼女の罪悪感を煽る言葉を。日常的に。
 その夫婦は共に暮らしていて幸せだったのだろうか。そして、自分たちは。
 無機質な振動でベッドが僅かに揺れた。
 いつの間にかうつらうつらしていた意識を振り払って、金城は携帯を手に取る。
「もしもし」
 突き抜けるような明るい声が滑らかにスピーカーから流れた。
「待たせたな。助かる方法がわかったぞ」

 大きな鏡の前にいた。
 金城はじっくりとそこに映る己の姿を見る。地味な作業着を着て、小さな台の上に立っている。首には天井からぶら下げられた縄がかけられていた。周囲は暗いが、金城だけスポットライトを浴びせられているように明るい。まるでサーカスで見世物にされている動物になった気分だ。
 うんざりしていると鏡の端から福富が歩いて来るのが見えた。彼は直立して金城の横に並ぶ。
 ますます見世物じみてくる。
「観客はどこだ」
 金城は愉快な気分になって福富に尋ねた。
「全てが終わったら来る」
 全て?
 疑問に思う間もなかった。福富が金城の足下の台を蹴飛ばした。
 足が宙に浮く。みしりと首の骨が軋む音がした。
 耐え難い息苦しさに金城は首を掻き毟る。鏡に映る左右に揺れる自分はまるで振り子のようだ。
「すまない」
 福富が頭を下げる。一斉に照明が消えた。
 幕引きだった。

「すまない。失敗した」
 携帯電話を耳に当てながら金城は歩いていた。
「状況を把握する前に死んでしまった」
「そうか。やはり難しいか」
 電話越しで東堂が唸る。
 昨夜、東堂が教えてくれた方法とは夢の中で一度でも殺されないというものだった。東堂の祖先の文書によれば、それで助かった者は以降夢で殺されることはなかったらしい。理屈はわからないが、今はそれに縋るしかない。
 だが、それはなかなか難儀な事だ。今までの夢を思い返す。レールの上に乗せられた列車のように金城はただ殺されてきた。抵抗することさえできなかった。
 そんな金城に東堂は昨夜ひとつの助言をした。
「夢の中にいると強く意識してみたらどうだ」
 呪われた夢だろうがそこは金城の夢だ。夢とわかれば自由に動けるに違いない。東堂はそう言った。
 そして挑んだ六度目の夢だったが、結果は虚しいものだった。
「一度みた夢ならば、すぐ夢だと気付いて動けると思うのだがな」
「そんな都合のいい事などないサ」
 金城は苦笑する。角を曲がると肩に下げたカバンが揺れた。ずしりとした重さを感じる。
「どうするんだ。今日で七日目だぞ」
 矢継ぎ早に東堂は言葉を重ねる。
「策はあるのか。お前に死なれたら巻ちゃんに会わせる顔がない」
「はっきり言って見当もつかない」
 金城はクリーム色をした外観のマンションに入った。エントランスホールに自分の足音が響く。
「そのわりには余裕だな」 
 エレベータに乗り込み、目的の階のボタンを押す。すぐにエレベーターは動き始めた。
「そうか?」
「ところでお前はどこにいるんだ。荒北が見つからないと騒いでいる」
 エレベータの振動が止まる。軽快な音と共に扉が開いた。
「それでは世話になった。後は……どうにかする」
「おい?」
 叫び東堂に金城は構わず電源ボタンを押した。そして、カバンに携帯を押し込む。
 通路を真っ直ぐに進んで目的の部屋の前に立った。
 金城は躊躇せずインターホンを押した。
 しかし、しばらく待っても反応はない。 
 金城はもう指を押し付けた。
 ここまで来て帰るわけにはいかない。
 金城の願いが届いたのか、音を立ててドアが開いた。
 顔を出した相手は金城を見て息を呑んだ。金城は頭を掻く。再会の台詞を考えるのを忘れていた。結局、口から出たのは平凡な挨拶だった。
「久しぶり、だな。福富」
「金城。どうして」
 心臓が止まったような顔をしている。福富は呆然と金城を見つめていた。その顔は酷かった。濃い隈に、頬が痩けている。最も金城もそう変わらない風貌に違いない。
「金城」
 それ以外の言葉を忘れてしまったように呟く福富の肩を金城は抱いた。
 助かる術はわからない。それならば、最後は恋人と過ごしたい。
 金城の最後の望みだった。

 久しぶりに二人で夕食を食べた。
 コーヒーばかり飲んでいた福富の冷蔵庫にはあまり食材はなかったが、残り物で野菜炒めを作った。それをおかずに福富の炊いてくれたご飯を食べた。
 美味しかった。夢をみ始めてから初めてそう思えた。 
 それから、シャワーを浴びて一緒に海外のレースのDVDを観た。前から観ようと約束していたものだ。
 金城は彼にたくさん触れて、キスをした。多分、一生分くらい。
 途中から福富が困って眉を下げていたが、気付かないふりをした。福富も止めなかった。
 夜も更ける頃、隣に座っていた福富の頭が揺れ始めた。瞼が重そうに下がってきている。
「もうベッドに行くか」
「いや、いい」
 福富は目を擦る。
「寝たくないんだ。眠ると酷い夢をみる」
「そうか」
 誰も教えなかったのか、福富は金城の身に起こっていることを知らないようだった。金城もあえて伝えなかった。無駄に心配させる必要はない。金城はまだ諦めてはいなかった。
「眠りたくないんだ。それなのにいつの間に眠ってしまっているんだ。オレは眠りたくない。あんな想いはもうしたくない」
「どんな夢なんだ?」
 答えを知りつつも金城は尋ねた。すると福富の瞳が不安そうに揺れた。
「わからない。覚えていないんだ」
 少しの沈黙を挟んで福富は静かに言った。彼にしては珍しく金城から目を逸らしながら。
 金城は彼の頬に手を添えた。日焼けしてカサついた肌を愛おしく思う。
「福富。怖い夢をみると言うことは悪い事だけじゃないサ」
 無垢な瞳が金城を見つめている。言い聞かせるように金城は言った。
「目を覚ました時に思うだろう?――夢で良かった」
「金城」
「今日はきっと良い夢だ。隣にオレがいるんだ」
 ベッドに行こう。
 再びそう尋ねると福富は目を彷徨わせた後、しっかりと頷いた。

 福富の大きなベッドでも体格の良い自分たちが横になると少し狭い。
 金城が横を向くと福富はまだ緊張しているようだった。
「眠れそうか?」
「大丈夫だ。オレは強い」
 彼の口癖も今となっては懐かしい。金城は布団の中を探って福富の手を探り当てた。体温の高い福富の手は暖かい。
「き、金城?」
「繋いで寝てもいいか?」
「構わないが……」
 何故と問いたげな視線に金城は応える。
「怖いんだ」
 何がとは金城は言わなかった。福富も訊かなかった。
 その代わり「もし、」と福富は躊躇いがちに囁く。
「オレの右手でもお前が安心できるのならば、嬉しい」
 そう言いながら福富は金城の手から逃れようとするかのようだった。金城は強く福富の手を握る。
「当然だ」
「そうか」
 そう言う福富の顔を見つめているうちに横たえた身体から徐々に力が抜けていった。疲労が蓄積した身体は休息を求めている。金城は瞳を閉じた。恐怖はない。手に宿る暖かさに満たされる想いがした。
 金城の意識は霞がかかったように遠くなっていく。薄ぼんやりとした意識の中、声が聴こえた。
「すまない。オレはお前にひとつ嘘をついた」
 その音は震えていた。
「覚えているんだ。夢の内容を。全部」
 そこで意識は途切れた。

 灼熱の太陽が背中を焦がす。そこの流れる風。通り過ぎる景色。全身を駆け巡る血。躍動。
 すぐに金城にはこれが何の夢だかわかった。
――よりにもよって。
 ペダルを回しながら金城は空を仰ぐ。突き抜けるような青空が出迎えてくれた。
 この色を金城は知っている。忘れるわけがない。
 高校二年のインターハイ二日目の空の色。
 前を向く。箱学のジャージを着た福富が走っているのが見える。
 この夢でも彼は金城のジャージを掴むのだろうか。そして、金城の死体の傍らで謝り続けるのだろうか。
 そんなことはさせない。
 金城は右手の人差し指を伸ばしてみる。動いた。自由に身体が動かせる。当然だ。この夢を何度みたかわからない。
 顔を上げる。もうすぐ福富を追い抜いた地点だ。 ペダルを力の限り踏む。
 金城の中に既に迷いはなかった。
 慎重に見極めながらペダルを回す。
 額から流れた汗が頬を伝って顎から落ちた。
 ――今だ。
 金城はケイデンスを上げて飛び出す。あの時と寸分違わぬタイミングで、速さで、コースで。福富の隣に並び、追い抜かす。
 心臓の音がカウントするように速いペースで時を刻む。駆け抜ける風の音がびゅうびゅうとうるさい。
 あともう少し。ぐいぐいと自転車が前へと進んでいく。
 金城は待った。それは一瞬にも永遠にも感じられた。
 黄色い総北のジャージが福富から遠ざかっていく。完全に金城は福富を追い抜いていた。
 金城は大きく。息を吐いた。
 ついにその瞬間は訪れなかった。
 ゆっくりと後ろを振り返れば、福富が呆然と自らの右手を見つめていた。金城の視線に気が付いたのか彼は赤い目でこちらを睨んだ。
「何故」
 風が耳元で鳴っているにも関わらず、彼の声はよく聞き取れた。
「何故、避けようとしなかった」
 動けるんだろう。と彼は怒ったように言った。
 思った通り福富も自由に動けるようだ。おそらく彼も何度もこの夢をみたのだろう。
「信じていたからだ」
 金城は笑った。
「お前は強い」
 二度と同じ過ちを繰り返さない。
 金城の言葉が風に乗って流れていく。
「お前は馬鹿だ」
 福富は目を見開いた後、右手で目を覆った。頬を透明な雫が伝う。
「まだ勝負は終わっていないぞ、福富」
 金城は真っ直ぐに前を指差す。
 走ろうじゃないか。最後まで。
 想いを込めて金城は福富を見つめる。それに応えるように福富は顔を覆っていた手をどかした。
 充血した目に光が灯る。
「そうだな」
 口元に笑みを湛えて福富は言った。取り巻く空気が変わる。
 そのプレッシャーに金城はハンドルを強く握り直す。
「オレは負けない」
 力強く福富は言い放った。負けじと金城は言い返す。
「望むところだ」
 金城は前を向いた。厚い水の膜越しに見える空はどこまでも遠くへ広がっている。その景色はあの日見られなかったもの。
 だが、そんな感傷に浸っている暇はない。後ろから迫るプレッシャーに金城はペダルを踏む脚に力を込める。
 勝負の行方はまだわからない。
 だが、ひとつだけ確信していることがある。
 呪いは―― 今、解けた。

【七番目の正直】

2015/10/31