いばらの王冠


 


 周りから歓声が上がるのを荒北は何処か他人事のように聞いていた。視線の先では福富が部員たちに囲まれている。その輪に加わる事もせずに荒北はただ福富の姿を見つめていた。
まだ荒北の興奮が荒北の中で渦巻いてる。ゴール前の福富の走りは圧巻だった。
 王者のプライドをかなぐり捨てたあの気迫。ゴールしか見えていなかったのか、福富は東堂が途中で失速したのにも関わらず全力のままゴールラインを越えた。
 鳥肌が立った。
 それは他の部員たちも同じだったに違いない。福富がゴールするまでの数秒。皆が息を呑んだようにその瞬間を待っていた。
 もはや彼が主将になるのを反対する者はいないだろう。あんな走りを見せつけられたは。
 荒北の目に映る福富は難しい顔をして遅れてゴールした東堂を出迎えていた。
 勝った時ぐらい笑えばいいのに。相変わらずの鉄仮面だ。
 そうやってぼんやりと眺めていると不意に東堂と目があった。
 意味ありげに東堂が笑う。荒北は決まりが悪くなって視線を外した。
 悔しかった。自分があの場に立ちたかった。
 荒北ははしゃぐ部員たちに背を向ける。ここにいる意味はない。
 歩き出そうとしてそこで始めて呆然と立ち尽くす男の存在に気が付いた。
「嘘だ。こんな」
 茶色の髪をツンと立てた男は震えた声で呟いていた。
「アァ? おめェ、福ちゃんの走りを見てなかったのかよ」
 思わず荒北が声を荒げる。そこへ思わぬ男から制止が入った。
「見てたさ。だからこんなにショックを受けているんだ。そっとしといてやってくれないか。靖友」
 新開だった。
「来てやがったのか」
「見てたよ。全部」
 新開が遠い目をして福富たちを見る。随分、すっきり顔をしている。相変わらず何を考えているかさっぱりわからない奴だが。
 新開も新開なりに何か思うところがあったのだろう。そう結論づけて荒北は再び歩き出す。
「靖友。寿一の所に行かないのか?」
「ンな暇ねェよ」
 あの場所に立つ為に。やらなけらばならない事が山ほどある。
――三倍だろうが。四倍だろうか。やってやろうじゃナァイ。
 自然と口の端が持ち上がる。目的が困難であればあるほど人は燃え上がるものだ。
「へぇ」
 新開は納得したように頷くと荒北の横に並んで歩き始めた。
「なんだよ。付いてくんじゃねェよ」
「奇遇だな。ちょうどオレも帰ろうと思っていたんだ」
「アァ? 何しにだァ」
 荒北の問いに新開は指で作った銃を空に向ける。
「もちろん。自転車で走りに」
 そう言って太陽を撃ち抜いた。

 福富から遅れること数分。東堂は愛車を押しながらゴールした。
 怪訝とした福富に東堂は手を上げて見せる。
「パンクだ」
 ついていない。首を振りながら東堂は自転車を停める。そして、福富の前までやってくると手を差し出した。
「おめでとう。フク」
「東堂」
 福富は感謝の気持ちを込めてその手を握る。その様子に東堂は苦笑する。
「礼を言うのは早いぞ。大変なのはこれからだ。オレに譲っておけば良かったと後で思うかもしれんよ」
「大丈夫だ。それはない」
 福富は真顔のまま手を離した。訊きたい事があった。
「オレのやってしまった事を知っているな」
 広島のインターハイ二日目。福富は相手選手のジャージを掴んで落車させた。この事実を知っているのは僅か数名のみだ。
 福富は真相を大会の運営側に申告しようとしたが、顧問に止められた。総北と箱学の上の者たちで何らかの取引があったらしい。決して表沙汰にするなとキツく言い渡された。
 福富の問いに東堂は表情を消す。それが答えだった。
――許せるか」
 自転車乗りとして。福富のした事を許すことができるか。
 ずるい問いだったかもしれない。答えがどちらであっても福富はおそらく納得できない。
 しかし、東堂は静かに首を振った。
「それはオレが答えることではないな」
「東堂」
「オレが許せないと思うのは」
 目を伏せて東堂が自虐的に笑う。
「あの時にインハイに出場できなかった自分の無力さだ」
 東堂の独白が続く。
「フク。オレは酷い人間なのかもしれん」
 周囲のざわめきが遠くなっていく。東堂の声だけが耳に響いた。
「お前が苦しんでいるのは知っている。それでも、オレはフクに走って欲しい」
 ロードレースはチーム競技だ。他の五人を犠牲にしてでも、たった一枚のジャージををゴールへと運ばなければならない。
「オレがジャージを預けてもいいと思えるのはフクだけなのだよ」
 その代わり。真摯に東堂は告げた。
「お前の苦しみをオレも分かち合う。お前の罪の半分をオレも背負おう」
 思わぬ申し出に福富は視線を右手へと落とした。全ての元凶。過ちを犯した自分の手。
「フク」
 東堂の呼びかけに福富は右手を強く締める。爪が食い込むほど。その痛みを感じるのはこの世界で一人。
 この手はどうあっても己の手でしかない。
「それには及ばない。東堂」
 福富は睨むように東堂を見る。
「お前が望もうが望むまいが、オレは走り続ける」
 結局、福富にはそれしかないのだ。
 そう言うと東堂は悲しそうな顔をして笑った。
「まったく……」
 しばらく待ったがその続きが発せられる事はなかった。



 それで、まさか一人で千葉まで行ってしまうとは。
 東堂は思い出してこっそりと笑う。
 初夏の日差しは心地よく、絶好調だ。楽々と登る東堂の後ろには他のクライマーたちが集団を作って並んでいる。クライマーの合同練習中だ。
 インターハイのメンバーがまだ決まっていない中、集団内はどこかピリピリとした緊張感が漂っている。それを気にもせず東堂は走る。
 今、走っている山は以前福富と勝負した道だ。自然当時の事を思い出す。。
 総北へとは折を見て福富と正式に謝りに行くつもりだった。できれば顧問も連れて。
 総北と取引した以上、公式にペナルティが課せられる事はないだろうが。それで少しでも当事者たちの気持ちが済めばと考えていた。その為なら総北側からのどんな誹りも甘んじて受けようと思っていたのだが。
 福富は東堂に一言も相談せずに単独で総北へと乗り込んでいってしまった。そして、清々しい顔をして帰ってきた。総北で何があったのかは詳しくは知らない。だが、福富の中で何かが吹っ切れたのだろう。
 結局、福富は東堂の手を借りずとも一人で立ち直ったのだ。
 まったく、人の気も知らないで。
 東堂はため息を吐いて、あの時の苦労に思いを馳せる。
 主将決めのコースを有利にしてもらうようにこちらの意図を話して顧問に働きかけたり。荒北に睨まれるわ。不安定な新開を落ち着かせてやったりもした。
 福富一人を立ち上がらせる為にどれだけ苦労したものか。勿論、奴が腑抜けたままだったら自分が主将をやるつもりではいたが。
 うっかり広島のインターハイの真相を知ってしまったが為に、とんだ貧乏クジを引いたものだ。
 そういえば。東堂は思い出す。
 やたら福富が主将になる事を反対している奴がいた。部内でもそこそこ走れるスプリンターだったが、広島インターハイ後から急に東堂に擦り寄ってきた。
 不穏分子は把握しておくに限る。これ幸いと東堂は男に適当に話を合わせて情報を引き出した。奴は福富が起こした事故については噂レベルでしか知らないようで、東堂は心底安心した。
 その男だが何を勘違いしたのか。福富が主将に決まった後、東堂を裏切り者と罵ってきた。東堂としては初めから仲間になったつもりなど一切なかったのだが。
 その反応がより男の怒りに油を注いだようだ。
『思い知らせてやる』
 声で人が殺せるなら東堂は死んでいただろう。そんな声色だった。
『必ずオレを馬鹿にした事を後悔させてやる』
 弱いという事は哀れなものだ。あの男の不幸は自分が新開と同等の実力だと思い込んでしまった事だろう。
 その男ももういない。三年に進級してすぐに親の都合で京都へと転校したと聞く。東堂は一応それまでは男の動向を気にしていたが、流石に京都にいては何もできまい。箱学レギュラーの弱点でも知っていれば話は別だが。
 東堂はハンドルを強く握る。
 心配する事は何もない。今年も箱学が王者だ。
――いや。
 東堂は胸の内で呟く。今、箱学が被っている王冠は金色ではなくイバラで作られた偽物かもしれない。
 昨年の王者と呼ばれる度に、福富の心に深く突き刺さるその棘。
 だから、今年こそは――
 東堂は前を見据える。山頂はもうすぐだ。
 その時、風が吹いた。それに合わせて一人の選手が前へと出てくる。
「真波」
「ねぇ、東堂さん。この坂で福富さんに負けたって本当ですか?」
 信じられないな。と真波が笑った 。
「ゴール直前でパンクしてな」
 あまり触れらたくない過去を言われて、東堂は軽く真波を睨む。
「それはついていなかったですね」
 聞いているのかいないのか。真波は軽く相槌を打つと風に乗って更に加速する。
 自由で。しがらみを感じさせないその走り。東堂は目を瞠った。
――真波。お前はそれでいい。
 ごちゃごちゃ考えていたら勝てるものも勝てなくなる。
 福富と競ったあの時、ゴール前で東堂は一瞬だけ逡巡してしまった。このまま走るべきか、それとも。
 前半の平坦で福富に早く追いつく為にかなり消耗していたが、ぎりぎり余力は残っていた。
 すぐに走っていればどちらが勝っていたかはわからなかっただろう。しかし、クライマーとして山を冒涜する考えに至った東堂は報いを受ける事となった。パンクという形で。
 後にも先にも勝負中に余計な事を考えたのはあの時だけだ。
 ただ自由に走ってきたつもりでいた。だが、いつの間にか様々な重りを知らず知らずの内に背負っていたらしい。
 東堂は真波を追った。祈るよう思う。
――だから、真波。お前は自由に。
 きらめく日差しの中、その背に真っ白な翼が見えた気がした。


 喩えこの身が地獄の炎で焼かれようとも。
 この右腕はただ勝利を掴む為に。
 今はまだイバラの冠を抱いて。


【いばらの王冠】

2015/03/29