灰色で濁った空の下を金城は歩いていた。
 道の両側には今日のレースに出場するチームのテントが並ぶ。
 よその大学のマネージャーたちだろうか。
「レインコートの準備を」と叫んで走っている。その中を金城は悠々と歩く。明早大学のテントを目指して。
『福富さんならテントにいますよ』
 入り口付近で会った顔見知りの明早大学のスタッフの顔を思い浮かべる。彼は金城の顔を見た途端、苦笑いしてそう告げた。
 不用心にもほどがあるな。目の前の人間にどんな悪意があるかわかったものではない。自虐的に金城は笑った。

 歩く金城の目に同じ色のジャージを来た集団が映る。緊張する後輩を先輩らしき選手が背中を叩いて励ましている。
 良いチームだ。金城はその光景に広島のインターハイのことを思い出す。
 初日スタート前。先輩が金城の背中を叩いた。困惑して、先輩を見ると彼はにやりとした。その顔を見て、金城は初めて己が緊張していることに気が付いた。エースの重圧。金城自身も気付かないことがどうしてわかったのか、その時は不思議だった。だが、彼の無言の激励はどんな励ましよりも心に響いた。
 その様子を見ていたもうひとりの先輩が。続いて田所が、巻島が。古賀まで。金城の背中を叩く。痛いぞと睨むが皆、素知らぬ顔で笑う。金城も笑った。頬が熱い。今だったら、きっと誰よりも速く走れる。どこまでも、どこまでも。そう思えた。
 本当に良いチームだった。良いチームだったんだ。
 胸が熱く震える。
『裏切り者』
 蛇の言葉を思い出す。
 思い出せば「違う」と叫びたくなる。裏切ってなどいない。“共犯者”ではない。オレは福富を許せない、憎んでいる。言い聞かせるように何度も繰り返す。だから、ここまで来ることができた。
 一歩、また一歩。金城は進んでいく。重く垂れこめた雲から今にも水滴が落ちてきそうだ。
 やがて明早大学のテントの前に着いた。大きく息を吸う。
 その金城の頬を湿った風が撫でる。その冷たさに確信する。
 今日のレースは荒れる。

 テントの中は福富ひとりだった。明早大学のジャージを身に纏った福富は入ってきた金城を見ると、僅かに目を開いた。
「出るのか?」
 挨拶をすっ飛ばして福富は問う。相変わらずロードレースのことで頭がいっぱいのようだ。
「いや、今日は応援に」
 引退したと告げたはずだが、と福富を見る。
「洋南は今日エントリーしていないはずだ」
 怪訝とした顔で福富は言った。
「いや、お前の走りを見に来た」
 そう金城が答えた途端、福富ははっきりその顔に戸惑いの色を浮かべた。
「そんなことでこんな遠くまできたのか」
「そんな言い方をするな。大事なレースなんだろう?」
 すごいじゃないか。目を細める金城に福富は不満そうに応える。
「お前もリストに上がっていたと聞いた。もし引退しなければ」
「それでも、選ばれたのはお前だ。福富」
 金城の言葉に福富は首を振った。
「まだ決まっていない」
 そうだな。己の目的を思い出して、金城は心の中で冷たく頷いた。今日のレースの出来が悪ければ全て白紙だ。
「しかし、金城。お前が応援に来るなんて」
 俯いて話し続ける福富へ金城は手を広げて近寄る。その身体を腕の中に収めて笑う。
「心外だな」
「っ金城」
 福富が慌てて金城の胸を押すが、金城は離さない。
「少し、痩せたか?」
「痩せていない」
 金城に離れる気がないと悟ったのか、福富は抵抗をやめた。肌に朱がうっすらと差す。
「本当にどうしたんだ、金城」
 金城の首に福富の息がかかって暖かい。その生々しい感覚に金城は身体を硬くする。
 生きている。と思った。生きて、心を持った相手を今から傷つける。その禍々しい行為に金城は吐き気がした。
 早く、早く言ってしまえ。用意した言葉が頭の中を駆けめぐる。

『オレはあの時のことを許した覚えはない』
『許すつもりもない』
『お前など最初から愛してない』

 不愉快な不協和音ががんがん頭の中で鳴り響く。
 酷い頭痛に耐えて金城はようやく口を開く。だか、その唇からは思わぬ言葉が紡がれた。
「福富。お前はなんの為に走る」
 何故――告げた瞬間、金城自身が驚いた。
 それに気付いているのか、気付いていないのか。福富は軽く首を傾げた。
 そして、当たり前のように言った。
「強くなる為だ」
 凛とした揺るぎない響きだった。
 それを聞いた瞬間、金城の頭に懐かしい風景が甦った。あっと息を呑む。
 チェレステカラーの自転車に乗った少年が山を駆け登る。もう長い間、思い出せなかったその光景。ビアンキに乗った幼い福富が金城の目の前を通り過ぎていく。新緑の匂いが混じったその風を金城は確かに感じた。
 福富を抱く腕に力が入る。既に幻覚は消えていた。
「金城?」
 不思議そうにする福富を金城は見つめる。
 その頭からは煩かったノイズが消え、台風が去った後の空のように思考が澄んでいた。
「福富」
 金城は福富の耳元に口を寄せる。
 今日のレース。そう言い始めた瞬間、金城の心は決まった。

「大丈夫だ、お前は強い」
 力強く告げ、
 そして、おまけのように愛していると付け足した。

「金城」腕の中の福富が小さく震える。金城はその肩にそっと顎を置いた。
 まだ、早い。
 復讐はいずれ行う。だが、それは今日ではない。
 気付かれないように詰めていた息を吐く。
 福富は今ここで妨害したところで、いずれもっと大きな舞台へと飛び立つ。
 そうだ、こんな所で終わるような選手では絶対にない。
 だから、その日まで離れるわけにはいかない。長い道のりになりそうだ。と金城は苦々しく微笑む。
 だが、決して諦めはしない。なにせ、オレは石道の蛇なのだから――


 蛇は夢見る。
 獅子の喉に牙を突き立てる日を。
 その牙がとうに丸くなっていることを。
 蛇は知らない。
 先に搦め捕られていたのは本当はどちらか。
 蛇は知らない。

【蛇】

2015/02/16