終わりにしよう。
 列車に揺られながら幾度となく考えた結末を思い浮かべる。
 あの男の息の根を止める。もう二度と目の前に姿を現さないように。完膚なきまでに。
 数年越しの夢がやっと叶う。
 まさしく蛇だな。高校時代につけられた二つ名を思い出して自嘲する。
 どこまでも執念深く獲物を追いたてる。
 真綿でくるむように絡みついて。締め上げた。準備は整った。
 後は、獲物の喉元に牙を立てるだけ。
 明日で全てが終わる。ようやく。

 金城は窓へと視線を向ける。
 夜の漆黒に塗りつぶされたそこには硬い表情の男が映っていた。


◇◆◇◆◇

 福富寿一を知った日のことはよく覚えている。

 その日、金城は祖父に連れられてジュニア向けのロードレースの観戦にきていた。
 本当は金城も出場したかったのだが、ロードバイクの乗り始めたばかりだったためその要望は大人たちに却下されたのだった。それを不憫に思ったのか、祖父は朝やってくるなり「行くぞ」と言って幼い金城を連れ出した。
 祖父はあまりロードレースに詳しくない。ゴールで待機すると言う彼に金城は首を振った。
「選手が走っているところが観たいんです」
 その言葉は正確ではないかもしれない。ゴール前も選手は走っている。最後の力を振り絞って。
 しかし、金城はゴール前のスプリントよりも選手同士の駆け引きが観たかった。
 ロードレースというスポーツは経験による差が大きい。とっさの判断が大きく順位へと影響する。まだ集団で走ったことのない金城は生でその雰囲気を感じてみたかった。頭の中でコースを思い浮かべ、選手が集団からちょうど飛び出しそうな最後の山岳地点を祖父に告げる。
 祖父は一瞬、気難しい顔をしたが、すぐに笑顔になって金城の頭を撫でた。

 この大会はワンデーレースであり、選手登録は個人ごとだ。普通のロードレースと違い、個人競技の側面が大きく、アシストなしの己の足のみで勝利を掴まなければならない。脚質の差で戦略が大きく変わる。
 今日の選手の中にクライマー寄りの選手がいればここで必ず勝負を仕掛けるはずだ。と山岳の中程の位置に着いた金城は険しい顔で目の前の道を見つめる。斜度はそこまできつくはない。
 その周辺には他の観戦客が数人いた。思っていたより多い。ジュニアの大会なのだから、観戦にくるのは選手の家族か近所の人間か金城のようなロードレースファンくらいである。有名人でも来ているのだろうか。金城は心の中で首を傾げた。
 その頬を春の暖かい風が撫でる。今日が暖かくて良かった。金城は隣にいる祖父の横顔を盗み見る。
 寒いと関節が痛む。と時々祖父が愚痴っているのを金城は知っていた。
「どうした」
 祖父が不思議そうに金城を見る。
「今日は暖かい」
 思ったことを正直に述べると、祖父は頷いた。
「もう春だからな」
 見てみぃ。そう言って祖父は足元は示した。見慣れた黄色の花が風に揺れている。
「雑草が生えとる」
「それは雑草ではなくて」
 たんぽぽ……と言い終える前に周囲がざわめき始めた。

「アタックだ」

 誰かが山岳の下方を指さす。遠くで先頭集団からひとりの選手が飛び出したのが見えた。金城も興奮して身を乗り出す。
 飛び出した少年はぐんぐん前へと進んでいく。集団も彼を捉えようと必死で追い上げる。しかし、彼はそれを軽やかにかわしていく。坂道であるとは思えない。圧倒的な王者のような走りだった。
 そして、遂に金城の目の前を通り過ぎる。
――はやい。
 風のようだった。気付いた時は、少年の背中を遥か遠くにあった。
 しかし、その姿は金城の網膜にはしっかりと焼き付いていた。
 青と緑が交じり合ったような美しい色の車体。ヘルメットからのぞく目立つ金色。そして、なによりもあの力強い走り。
「速いのぅ」
 祖父の呟きに金城は我に返った。
 無意識に握りしめた手をゆっくりと開く。その手は汗でしっとりと湿っていた。
「流石だよな、福富選手の子どもだろ?」「あぁ。福富、寿一くんだっけ。やっぱり違うねぇ」感心する大人たちの会話が聞こえる。
――ふくとみ、じゅいち。
 後続の選手が前を通っていることも気付かず、金城は一生懸命にその名を心に刻みつけたのだった。
 
 後から思えば刷り込みだったのかもしれない。練習を重ねて周りから認められる実力がついても、目を閉じれば目蓋の裏にあの日の福富の走りが浮かぶ。
 まだだ。金城は苛立ちのような焦りを感じながら、ペダルを回し続けた。
 福富に早く追いつきたかった。そして、彼と並んで競い走りたい、正々堂々戦って勝っても負けても彼に自分の名を知ってもらいたい。ライバルとして。
 いつしかそんな思いを金城は抱くようになっていた。
 
 だからこそ、高校二年の時に金城は部室で喜びで打ち震えた。
「おい、金城どうしたんだよ」
「なんか嬉しそうっショ」
 同じく部室にいた田所と巻島が不思議そうにしている。金城は持っていた雑誌を見せた。
「インハイ出場校のメンバーが載ってるぞ、オレ達もだ」
 田所が金城から雑誌を奪い取る。開かれていたページを見て声を上げる。
「本当か? ってなんだ。これ、箱学の特集じゃねーか」
「仕方ねーっショ。注目度が違うんだからヨ」
 オレたちは後ろのページ。皮肉げに指をさす巻島。
 だが、そこに卑屈さはない。金城には巻島の瞳が静かな闘志で燃えていることが見て取れた。三年の先輩方に、巻島、田所、古賀。総北高校レギュラーメンバー達。
――まだ、オレ一人の力ではお前に及ばないかもしれない。
 雑誌で唯一の二年として紹介されていた福富を思い浮かべる。
――だが、オレの、オレ達のチームは優勝できるチームだ。負けはしない。
 ようやく戦えるな、福富寿一。金城は密かに口角を吊り上げたのだった。

 インターハイ広島。ぎらぎらと日光が照りつける。何もしなくても汗が吹き出てくる。
「あちーっショ」
「全くだ」
 金城はスタート地点へと愛車を押して巻島、田所たちと歩いていた。レース前の緊張と高揚感。暑いと愚痴りながらも、巻島も田所もどこか楽しげだ。金城も会話に混ざろうとしたところで、視界の隅に金色が映った。福富だ。
「すまない。二人とも先に行っててくれ」
「おい、金城」
 田所の制止も待たずに金城は歩き始めた。
 箱根学園伝統の白と青のサイクルジャージを身に纏った福富は、自身のロードバイクを押して一人で歩いている。周りに他の箱学の選手はいない。好都合だった。
「おはよう」
「……おはよう」
 福富は金城を一瞥すると視線を前と戻した。構わず金城は福富の横へと並ぶ。その際に、福富の愛車へと目を走らせる。あの美しいチェレステカラーでないことに、知ってはいたが、少しだけ落胆する。
 彼は高校に入ってビアンキからジャイアントへと愛車を変えていた。
 記憶に残ったままの彼と戦いたかった。無理なことだと知りながら、金城はそう思わずにはいられなかった。
「何か用があるのか」
 金城を見ずに福富は淡々とした口調で尋ねる。
「すまない。オレは千葉の総北高校二年、金城だ」
「……箱根学園二年、福富だ」
 律儀に自己紹介を返す福富。知っている。と言いかけたが、止めた。
「今日は宜しく」
「あぁ」
 聞いているのか。いないのか。福富は金城を見ない。お前など眼中にない、と言外に告げているようだ。金城の中で闘志が燃える。
「インターハイ、オレは楽しみにしていた」
 お前と戦えることを。金城は心の中で付け足す。
「……楽しみ、か」
 素っ気なく福富は言うと前方を指さした。
「あいつらはお前のチームか?」
 つられて前を見ると少し離れた場所から巻島と田所がちらちらとこちらを窺っている。
「そうだ。二年の巻島と田所だ」
 そうか。と訊いておいて福富は関心なさそうに返事をした。構わずに続ける。
「うちは層が薄いからな。箱学とは違って二年でも」
 言いながら、思い出す。そういえば、福富と同じ中学で速いスプリンターがいたはずだ。その男は確か、箱根学園へと入ったはずだ。名は――
「新開」
「……っ」
 福富の瞳が揺れる。
「そうだ。新開はどうして選ばれていないんだ?」
 箱根学園二年の新開隼人。彼も福富と同様に数々のレースで入賞している実力者だ。いくら箱根学園の選手層が厚いとはいえ、彼がいないのはおかしい。なによりも、福富の先ほどの反応が気になる。
「怪我でもしたのか」
「どうだっていいだろう」
 どこか投げやりな様子で福富は応えた。
「あいつは、新開は。いや、お前には関係がなかったな」
 一瞬だけ語気を強めた福富だったが、すぐに元の無表情へと戻る。金城が何か言う前に福富は「失礼する」と告げ、足早に去って行ってしまった。
 残された金城は仕方なく巻島達と合流した。
「箱学の野郎と何してたんだよ」
 戻ってきた金城を田所が呆れたように出迎える。
「いや、少し気を悪くさせてしまったみたいだ」
 苦笑いをする金城に巻島が声をかける。
「気にすんなヨ、金城。あいつ“福富”だろ」
「なんか知ってんのか、巻島」
 胡散臭そうに田所は巻島を見る。
「オレさ、周囲と浮いてる奴がなんとなくわかっちまうっていうか」
「福富がそうだと言うのか?」
 彼は箱根学園レギュラーで唯一の二年だ。他のレギュラー陣とは馴染めないこともあるだろう。だが、そんなことを気にする人間には見えなかった。話した時の彼の様子を思い返す。
 納得できないという顔をする金城に巻島は続ける。
「あいつ何で一人で歩いていたのか、知ってるか」
「巻島ァ、もったいつけんなよ」
 焦れた田所が急かす。片耳を塞いで巻島は静かに行った。
「落ち着くっショ、田所っち。あいつ、一人だけインタビュー受けてたんだヨ」
「インタビュー?」
「そっ。あの福富選手の息子だ、注目されないわけがねェっショ」
 あいつ一人だけ記者に呼び止められた時の箱学連中の顔といったら。と巻島は陰鬱に続けた。
「おい、それってイジメとか」
「だから、落ち着くっショ。そんなんじゃねェ。ただ箱学連中にとってあいつは」
「腫れ物といったところか」
 巻島の言葉を継いだ金城に巻島は頷く。
「そーゆー空気ってさ、案外気にしないつもりでも気になるもんっショ」
 しかも、今はインハイのプレッシャー付き。巻島は口の端を上げる。
「そういうもんか?」
 田所があっけらかんと言うと巻島は口を尖らせた。
「田所っちはもう少し繊細になるべきっショ」
「なんだと」
 レース前だというのに楽しそうに言い争う二人を眺めながら、金城はゆるく頭を振った。妙な胸騒ぎを振り払うために。

 広島で行われたインターハイは、金城にとって忘れらない大会となった。
 二日目に福富と競いその背を追い越した瞬間に感じたあの熱狂。きっと生涯もう味わうことはないだろう。あの時、金城は感じたことのない高揚感の中にいた。そのジャージが掴まれるまでは。そして、すべてが終わった。

 心が凍ったようだ。と金城は思った。あちこちに血が滲む自分の身体を他人事のように眺める。
 怒りも憎しみも湧かない。頭だけが奇妙に冴えていた。やるべきことが淡々と浮かぶ。
 金城は顔を上げた。
 田所に胸ぐらを掴まれ涙を流す福富が目に映る。その涙の意味は何だ。
 金城は凍える胸の内で問いかける。

――知っているか、福富。

人間は自分の為にしか泣けない。 

2015/02/16