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暗闇と鋼鉄の向こう


「天上人様!!私はこれほどまでに武芸に優れております!!」
「天上人様!!この世にわたくしほど美しい女人はおりませぬ!!」
「天上人様!!人を笑わせることに関して、私の右にでる者はおりますまい!!」

「デハ今宵ハ、コノピエロノオッサンヲ貰ッテイコウ」



今夜もまた、天上人への貢物が決定した。
男は闇市の定食屋で、冷たくなった味噌汁をすすりながらその様子を見ていた。



男は今でも鮮明に覚えている。彼らの出現した日。それは突然の出来事で、男はまだ小さな子供だった。

地球の上空を埋め尽くす鈍色の円盤。その大群。それらはあっという間に太陽光を遮断し、地球に永遠ともいえる闇をもたらした。
円盤の材質は不明。ただ強靭で、再生能力があり、いかなる物質の干渉をも退ける、時空的な鉄壁さを備えていることだけが分かっている。それだけのことを理解するために、人類は核を乱発し、粉塵と放射能が、あっという間に世界を駄目にした。
国家は崩壊、すぐに飢餓と貧困が世界中に蔓延し、やせほそろえた大地は、人間以上のスピードで腐っていった。



彼ら天上人が、悠々と人間の家畜化を宣言する頃には、人々の中に抵抗する意思を持つ者はいなくなっていた。みなうつろな瞳で、鉄に似た絶望の空を眺めるだけだった。
人々は、神を信じる望みすら奪われることになった。祈りが、果てしない闇と、それを覆う鋼鉄の壁を越えてゆくとはとても思えなかった。



一方で、むしろ世界は平和になったという者もいる。
少なくとも人が人を殺したり、盗んだり、争ったりすることがほとんど見られなくなったからだ。

人々の服従が完成すると、それまで破滅に乗じて他者を蹂躙した者は残らず八つ裂きにされた。
天上人の千里眼は全てを見ている。嘘も方便も無意味だった。
極めて正確に、性質の悪い人間が根こそぎつまみだされ、罪に応じて罰を受けた。

天上人の施行した法は簡潔である。
汝他人を犯すなかれ。
誰しもそれを守らねばならなかったし、守りさえすれば天上人は何もいわなかった。

最低限の保障もある。
結果的に大地を腐らせた天上人は、代わりに”雨”を提供した。

必要な栄養素と、筋肉の衰えを防止する成分。それに精神を安定させる作用がある”雨”は、それを享受する人々に間違いなく100年の寿命を約束する。
ただし動いたり話したりする者は保障の対象外で、”雨”は基本的に、おとなしく寝ている者にのみ安楽を注いだ。

活発に動けば提供された養分が足りなくなる。”雨”を溜めたり、過剰に摂取することは無意味だった。”雨”の中にはとり過ぎれば毒になる成分が多量に含まれている。”雨”は、天上人が降らせた時間、降らせた分だけ、口をあけて静かに飲み込むのが正しいやり方だった。

余計なことをしなければ。それが合言葉。

なにもしなければ死にはしない。
そう、死にはしないのだ。

”雨”を受け入れた人間は大概、地中に根を張ったように、仰向けに寝そべったまま動かなくなる。
し尿を垂れ流し、話しかけても応答はない。外にでれば、まだこんなに残っていたのかと思えるほどの人間が、コケやシダに混じって生きているのが見られるだろう。

その凄絶な景観。中には根を生やしたまま天寿をまっとうした者もいる。その上にまた人間が連なる。それを繰返す。
身体を虫に食われるなんてことはザラだった。肉が穴だらけでも、”雨”が快感に変えてくれる。”雨”が、生きた虫ごと、えぐれた肉を治してくれる。



男は彼等を軽蔑していた。

”雨”を拒否した者は皆そうする。
ただ天上人の眼があるから、唾を吐きかけないに過ぎない。

彼等は歩く力があるのにそうしない。考える力があるのにそうしない。

いっそ死んでしまえばいい。
それが男の口癖だった。



陽気な電子音が、深みにはまりかけていた男の思考を中断した。
男は味噌汁の、最期の雫をのどに通す。”雨”を拒否した者は、自力で恵みを獲得しなければならない。闇市もそうした人々の手段の一つだ。

この味噌汁を獲得するのに、一体どれだけの労力を費やさねばならないか。そうまでして、自分はなぜ”雨”を拒否するのか。
その答えの一つが、定食屋の隅に置かれたブラウン管に映しだされている。



――こちらは楽園温泉です。七色の温泉が、心も身体も癒してくれます――
――この楽園美術館には古今東西あらゆる美術品が集められており――
――楽園公園には今はなき緑があります。水が、魚が、四季折々の花々が――



それは空を埋める円盤の向こうの、天国の景色だった。
何もかも満たされた世界。地上から失われたものが、そのまま残っている世界。
そしてそこで人生を謳歌しているのは、紛れもなく男と同じ人間達だ。

彼等は選ばれたのだ。

深い知識や、高い運動能力を持つ者。一芸に長けた者、美しい者。
彼等はコレクションとして召し上げられ、手厚い保護と手入れを受けながら、望むがままに充実した生涯を送ることができる。
そうした道楽行為は天上人の習性であり、彼らの目的でもあった。まさしくそのために、この星は滅ぼされたのだ。

「薄気味悪ぃ世界だぜ。オレぁごめんだな、天国なんてよ」
「まったくだ、こんなトコで生きてるやつらの気が知れねぇぜ」
「見ろよこの人間、ぶっさいくな顔してやがる。脳みそがねぇんだな」

店の奥で、ガラの悪い連中がうそぶいている。
酷く神経に障る声だった。歯の間に詰まったよごれのにおいが、酒に混じって漂っている気がする。
男にとっては、彼等も”雨”待ちの人間も、たいした差はない。

彼等はいう。天上人に尻を振るなんてごめんだ。俺達は人間らしく生き、人間らしく死ぬ。

威勢はいい。だが実際、天上人が彼等にチャンスを与えたなら、彼等は尻の穴でも舐めるだろう。
彼等は所詮、懲罰を受けない程度に鬱憤晴らしをしているだけだ。
本当に勇気のある者、強い意思をもった者は、既に死んでいるか、天国に召し上げられてしまった。

「おいそこのニーチャン、なんか文句あるのか?」
「ひひ、こいつ舌打ちしたぜ」
「やるか? やるかおい?」

男は金を置いて席を立った。
店の出口まで一歩、二歩。次の瞬間、扉のガラスに頭を打ちつけられていた。

チカチカと火花が散る。体中が熱くなり、痛みより先に、重たい痺れが頭蓋に残る。
足を払われ、わき腹につま先がめりこんだ。味噌汁が逆流する。すべて吐いた。

男は反射的に右腕を庇い、天上人に助けを求めていた。
こんな所業を、天上人が黙って見過ごすはずがない。しかし男を殴り倒したゴロツキは、平然としながら店をでて行く。
男は眩暈を感じていた。憤りで、脳の血管が詰まったように感じられた。

「お客さん、あんた勘定足りないよ」

ああ、と、男は呻く。
ゴロツキの暴力は、食い逃げ犯への正当な罰として認められたのだ。

彼等ゴロツキはそういうやり方を心得ている。
天上人に許されるギリギリのラインを渡り歩くことに長けている。

敗北を認めるしかなかった。
所詮天上人は母親ではない。この痛みを苦しいと思うなら、ただ口をあけて”雨”を待てばいいのだ。


・・・・・・。


男は絵描きだった。

誰かに認められたわけではない、自らそう吹聴して回っているわけでもない。ただ、心に決めていた。それ以外に自分を表しようがないと知っていた。
この時代に、わざわざ模様や紙切れに金を払う者はいない。そんなものに価値を見出すくらいなら、札束でもって尻の穴を吹いたほうが合理的。
実際男が成人を迎える頃には、職業としての絵描きなどとっくに消滅していた。

思い浮かぶのは、光に満ちていた地上の風景。その色や風の音が男の頭に始終渦巻いて、男の筆をキャンパスへ向かわせるのだ。
絵を描いている時間は、無心になることができた。現世の苦しみや、わずらわしい騒音は、浸みでるように消えていった。

それは祈りにも似た、幸福な時間だった。
男に望みがあるとすれば、何者にも邪魔されずに、ただ絵だけを描いていたいということ。それだけ。

そして男はその願いゆえに、円盤の向こうの天国へいきたかった。それは恋にも似た渇望だった。

地上では、まず白い紙が無い。平坦な壁が無い。
絶え間の無い”雨”は、地面すら男に与えてはくれないのだ。

それでも始めの5年、男は石で壁画を刻むことに夢中だった。明かりは無い。時には壁の凹凸を利用し、己の中で爆発する激流を、吐き出すように壁に叩きつけた。

天上人は、男の作品になんら興味を示さなかった。
代わりにカエルの鳴き真似が達者な女が連れていかれた。男に不満は無かった。まだできることが残っていた。



次の5年を、男は道具を作ることに費やした。
石は所詮石。爪が石の代わりになりえぬように、ただの石では筆や黒鉛には遠く及ばない。

既に男は、そこらへんの石と壁によって可能な表現は、あまさず己のものとして習得していた。ただその次に開けた世界があまりに魅力的で、もはや男の中では、石での表現は留まるに値しないものに成り下がっていた。
もう十分に、その技術だけでも天上人を喜ばせることはできるだろうとも思えたが、後戻りは不可能だった。何人もの、男と似たような境遇の者が、面白半分で天国に連れて行かれて、棄てられた。魅力の無い玩具に価値は無い。そうしたデモドリは往々にして、地上に生きる者たちに嬲り者にされた。彼等は”雨”を待つだけの人間からも笑われた。

男は耳を閉じ、石を削る。
引きたい線が引けぬことが、何より腹立たしい。常人には計り知れぬ僅かな差異に、無限の可能性があった。石の成分を理解し、硬さや、墨の代わりになるものを考える。運よく繊維の塊が手に入れば、1本1本ほぐしてから、用途に合わせて纏めていった。

いくつかの顔料は毒素を含んでいたが、男はそれを宝物のように保管した。絵の具に目が眩んで盗みを働き、天上人に左腕を折られたこともあった。男はその時ほど彼等に感謝したことはない。

天上人はやはり、男の作品に見向きもしなかった。そこにあることすら気づかなかった。
代わりに、男とは別の壁画描きが連れて行かれた。彼の壁画は見栄えのするものだった。天上人はさかんに彼を褒め称えた。
だが男には、彼の作品が味気なく映った。
自分が試行錯誤する過程で、つまらないからと捨てていった技術を、彼は持っていた。



次の5年は、体力を作ることに費やされた。

男の目は、もうほとんど見えていなかった。
足が萎え、指先が、意思とは無関係に痙攣する。

常に眩暈がつきまとい、気を抜くと膝を折ったまましばらく立ち上がれないような日々が続いた。
耳鳴りよりも、吐き気が酷かった。肩が上がらず、眠ることすらできない日があった。

ある日男は意識を失った。

雨の中で気がついたとき、既に世界は3ヶ月もの時が流れて、男を絶望的な気分にさせた。
右腕が自由に動くまで、さらに一週間が費やされた。男にとって最も苦痛で、希望の無い日々だった。
ようやく指先が自由になり、横になったまま絵を描いた時、男は歓喜のあまり涙した。

このことで男が学んだのは、作品に意思や情熱は無関係だということだ。
信仰は甘えに過ぎなかった。彼が作品を描く過程で、どれだけの忍耐を要したなどということは、決して色や線に表すことはできない。

重要なのは見る者の想像力を喚起すること、それも見るものの内側から呼び起こすことであって、直接与えたり、強引に見せつけるような真似をしてはならないのだ。
男にそれを理解させたのは、単純に自分と同等の経験を積んだものがこの世にいないという自負からであった。この世には誰も、男の痛みを真に共有できる者など居はしない。ならば自分は、見る者に合わせて、見る者の痛みに合わせて、作品を施してやらなければならない。

男がたどり着いた主義主張が、正しいものであるかどうかは、きっと誰にも決めることはできないだろう。
ひょっとしたら男は、とっくの昔に気が狂っていたのかもしれなかった。しかしそのことを、常に己に問うだけの自覚はあった。

男は食事や睡眠を大切にした。これまでは度々、”雨”を無視して作品に没頭することがあったが、そんな純潔がなんの役にも立たないと知った今では、他の人々に合わせるように、あるいは自ら率先して外にでて、天を仰いで口を開いた。

肉体を壊すことが、男には一番恐ろしかった。
絵も描けずに死に近づくあの時間は、もう二度と訪れて欲しくはなかった。

この期間、男は天上人に見せるような作品を作り上げることができなかった。
天上人にも流行はある。この頃は、自分の身体を改造して、自分自身を見世物とする手合いがよく天国へと連れて行かれた。
別にうらやましいとも思わなかった。しかし学ぶべきこともある。



次の5年、男は自分を殺すことに努めた。

手っ取り早く金を稼ぐために、男は汚物の塊のような好事家に抱かれた。
売春はある意味で、最も安全で効率的な商売だといえた。この世界では、強制や暴力は天上人が監視している。互いの利益が一致してさえいれば、天上人は干渉しない。人間が作り上げてきた倫理や道徳などは、彼等には無意味なのだ。

だがそれゆえに、薬物中毒者には常に警戒を怠らなかった。
天上人は、行為の結果に対する罰しか行わない。人を傷つける恐れがあるからといって、天上人が麻薬を取り締まることはしなかった。人が殺されて初めて、天上人は動きだす。ただしその際に、麻薬を売りさばいた者も処罰されるから、それらが醜く蔓延することだけは防がれていた。

男が最も困難を要したのは、死肉を食うことに慣れることであった。
腐らない死体は、そこら中に落ちている。”雨”の中に、腐敗を防止する成分が含まれているのだ。

この世界で最も効率的にエネルギーを摂取するのは、それらを口にすること。
もっともそのあたりの倫理観は、既に人々の間から薄れだしていて、一部の人間の間では極々日常的な行為となっていた。

一日を使って体力を稼ぎ、翌日に全て使い切る。

時間、身の回りのこと、容貌、他人との関わり、そうした物事への感覚がどんどん薄れていって、代わりに、かつて聞いた風の音、小川のせせらぎ、日の沈む海の色などが、後から後から脳髄に湧きだして、止まらなかった。

いつしか男は、無限のキャンパスに、ありとあらゆるものを描くことができるようになっていた。
男の腕は、神に等しき力を持っていた。



男は、下界を冷やかしにきた天上人の前でも、それを実践して見せた。
ただ要求に応えるだけでなく、見るものの進むべき道を掲示してくれるような――それは男が自ら否定したはずの――この世ならざる筆の演舞であった。

もはや男に足りないものなど無い。
唯一つ望むとすれば、男はただ、絵を描きたかった。描き続けたかった。
そのために彼は、そのためだけに彼は、天国へ行きたかった。

その思いは、それまで以上に強くなっていた。
脳髄の風景を全て吐きだし、自らの目で再びかつての地上に対面するまでは、決して死ぬことはできぬという思いが、男を動かしていた。



「スバラシイ!! オ前ノ腕ハ魔法ノ腕ダ!!」
「スバラシイ!! スバラシイ!!」
「ソレデハ今宵ハ、オ前ノ腕を貰イウケヨウ!!」



天上人は男の右腕をレタスの芯のようにもぎり取ると、円盤の向こうへ消えていった。
決して祈りの届くことがない、暗闇と鋼鉄の向こうへ。




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