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毒女山(どくのめやま)


昔々のことです。
毒女山の洞窟に巨大な怪物が住み着き、周囲に住まう人々を苦しめておりました。

怪物は太陽が5つ昇るごとに、イケニエとして村一番の美女を要求し、その両手に酒を持ってこさせるよういいました。
断わればただではすみません、何しろ怪物の皮膚は鉄でできていて、腕を振るえば大木をひと薙ぎ。その口は人間を丸々一人飲み込んでしまうほど巨大です。

幾人もの戦士達が、怪物の牙の前に倒れました。
やむなく乙女達が怪物へと差しだされ、そして二度と戻ることはありませんでした。



ここにヒノメと呼ばれる村一番の美女がいます。
天女と見まごうばかりの美貌で、春先に芽吹く花々のような香りがする。彼女が生まれた時などは、村中が蜜のにおいに包まれて、鳥や動物達がそのにおいに誘われて祝福にやってきたといいます。

彼女は村の長老の娘であり、気立てがよく、誰もが彼女を心から好いていたので、どうにか今日まで怪物の餌食となることを逃れていたのです。

しかしもうダメでした。怪物は名指しでヒノメを差しだすことを要求したのです。
そうしなければ村を滅ぼす。どうやら、イケニエの娘の一人が、拷問の末ヒノメのことを話してしまったのでしょう。

長老は悩みました。彼女をなくしてしまっては生きている意味もない。村の誰もが同じ気持ちでした。



ヒノメにはヤツヒコという弟がいます。

聡明な顔立ちで、知恵と勇気があり、やはりヒノメ同様、村中の人々から愛されていましたし、彼も彼等を愛していました。
特に姉に対する思いは人一倍で、イケニエにやるなどということは考えられぬこと。
平時から溜りに溜まった怒りが、この時ばかりは爆発しました。

――父上。私が姉上の代わりに怪物の元へと参ります。
――なんと。確かにお前は、変装すれば娘と見まごう姿かたちをしているが…しかし無駄なことだ、ヤツはお主を喰らい、すぐまたヒノメを差しだせといってくるだろう。私から血の繋がった子供を2人も奪わないでくれ。
――いいえ父上。ヤツは私を喰らう前に持参した酒を飲むでしょう、その酒に毒を盛ってゆきます。屍肉にたかる毒虫を煮詰めた汁。一口でも口にすればたちまち血をめぐり、ヤツの命を奪うでしょう。

止めても無駄でした。
その意志の強さに人々はうたれ、彼の勇気に村中の願いが託されました。

出発を控えた夜。

――ヤツヒコ。まだ起きているの?
――姉さん?姉さんこそ、眠れないの?
――当たり前じゃないの。大事な弟ともう会えないというのに、どうして他人事のように眠っていられるの?
――やだなあ姉さん。奇跡を信じてはくれないのかい?
――信じていたわ。でもそれを信じた私の友達は、みんな食べられてしまったのもの。
――大丈夫だよ姉さん、ボクは大丈夫だ……
――……指をだして
――ん?
――指よ。小指。
――これは?
――おまじないよ。ヒノメの花。私と同じにおいのする花。怪物は鼻が利くというもの、アナタが男だとばれたら大変だわ。
――なんだか女の子みたいだなあ。
――そうね。私の子供の頃そっくり。
――そんなに笑わなくてもいいのに
――ふふ、だって、食べちゃいたいくらいにかわいいんだもの

そうして姉弟は日が昇るまで語り合いました。自然と、安らかな気持ちになりました。
2人には、この先に悲劇が待ち受けるなど、どうしても信じることができませんでした。
ヒノメは、涙一つこぼさず弟を見送ることができました。

ヤツヒコは、山の中へと消えてゆきます。



怪物はやってきた少女態のヤツヒコを見て、たいそう気にいりました。

恐怖に震えるその姿。髪の艶。なるほど、たちのぼる花の香りは、うわさにたがわぬヒノメの花のにおいです。
怪物は上機嫌で、おずおずと差しだされた酒の入れ物を口に寄せます。そこで、異常を嗅ぎ分けました。

――うぬう、貴様毒を入れたな?このワシがそんな手にかかるとでも思ったのか!?
――く!これまでか!
――貴様男か!?おのれこしゃくな!ええい男の肉などまずくて口に合わん、ならばこの酒を貴様が飲め!!
――ああ!姉さん!姉さん……!!



怪物はその日のうちに、今度こそ本物のヒノメを差しだすよう、村人達を脅しつけました。
絶望が村を覆いました。誰一人、まともに立ち上がることすらできませんでした。ただ、ヒノメを除いて。

ヒノメは静かに、故郷に別れを告げました。全ての人が、天を仰いで涙しました。


――おうおう、気丈にも一人でやってきたかヒノメよ。村を捨てて逃げるかとも思ったが…よしよし。やはり本物は違うのう。
――私を食べる前にヤツヒコに会わせて。それ以上は望みません。
――いいだろう。ワシにも一片の慈悲というものはある。半刻やろう、奥の牢に転がっておるぞ。
――……ありがとう。


ヤツヒコは既に腐り始めていました。湿り気の多い空気、肉をめぐる毒が、腐敗を促進しているのです。恐怖にひきつった顔。懸命に命を乞うたでしょう、その瞳にはもはや聡明さの欠片もなく、ただ、死という事実だけが彼の勇気をあざ笑っていました。
虫が、場違いな白い手に驚いて、暗がりの方に逃げていきます。見れば似たような死体が、他にいくらでも積んでありました。

死の中にただよう、花のにおい。それに気づいたヒノメは、何を思うたでしょうか。

――ヤツヒコ
――ヤツヒコ
――つらかったねヤツヒコ、苦しかったねヤツヒコ

――ヤツヒコはがんばったよ
――お姉ちゃんがカタキをとるから
――決して、一人でいかせたりなんかしないから



約束の時。

牢を訪れた怪物は、生まれて初めてちっぽけな人間に圧倒されました。

漆黒の黒髪。凄絶なまでに白い肌。娘は流れ込む死の気配の中で静かに座り、ごうも動じず怪物を見つめます。
逃げようと思ったのは、もしかしたら怪物の方かもしれません。まとわりつく、花の香り。

怪物はまるで、子供が虫を追っ払うようなやりくちで、ヒノメの身体を一呑みにしました。
そうすれば、きっと泣き叫ぶ少女の姿を、腹の中に見ることができると思ったのです。
そうすれば、きっと脅かされた己の自負心を回復できると考えたのです。

ところがヒノメは、胃の腑にあってまで身じろぎ一つせず、胎児のように、死を待ちました。
臓腑の汁が、己を溶かすのを待ちました。

泣いたのは怪物の方でした。
許しを乞うたのは、怪物の方でした。


また一つ日が昇るころには、怪物は狂ったように叫びながら洞窟を出て、村の前で死にました。


村人達がその腹を割くと、中にはただ、一輪のヒノメの花と、その香りだけが残っていました。



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