第一話

序章 ”男爵株式会社”
 男爵株式会社本社ビル。
 夕日を映してぎらぎら輝く正面玄関に、今、一人の男が到着した。
 男の名は葉日瀬知。”赤い翼”販促部営業課々長である。
 容姿端麗にしてスーパーエリート、泣かせた女は多分2、3人。
 この物語は、明日無き不況の世を生きる全てのサラリーマンに送る、夢のようなサクセスストーリーである。
 長旅から帰った瀬知を、秘書室長・米岩が迎えた。
「長期出張ご苦労さまでした。お疲れでしょうが、社長がお待ちです。」
 旅行用品を収めたトランクを片手に、瀬知は米岩に先導されるまま社長室へ向かった。エレベーターを降り、社長室の扉を目前にしたところで米岩は振り返る。
「葉日課長、例の書類を。」
「ああ……」
 例の書類――家電製品の御大、見志泥亜社の新プロジェクトの全容を記した極秘書類の事だ。今回の出張の目的は、表向き市場調査と言うことになっているが、実は企業スパイを行うことであった。後味の悪い任務を、葛藤と戦いながらも忠実にこなした瀬知は、突き出された手に大判の茶封筒を渡す。
 茶封筒の中身を引き出し2、3枚にさっと目を通した米岩は、書類を元通り収め脇に挟んだ。
「確かに。では、少々お待ちを。」
 瀬知をその場に残し、米岩は社長室に消えた。
 僅かな時間。瀬知は思い出すまま出張の日々を回想する。出発の日の朝、恋人である総務課々長・晴薔子にいってらっしゃいのキッスを受けた辺りで、社長室の扉が再び開いた。
「お待たせしました。どうぞ。」
 半分ほど開いた扉の影から米岩が手で招く。
「失礼します。」
 瀬知は一礼し、社長の前まで進み出た。
「出張ご苦労だった。」
 誰もが焦がれるトップの座を独占する初老の男は、椅子を回し、若手きっての出世頭と向き合う。社長は出張土産の茶封筒を指で叩き、老いて尚精悍な顔に笑い皺を深く刻んだ。
「よくやってくれた。これからも頼むぞ。期待しているからな。」
 それだけ言うと再び椅子を回す。暗に退室をほのめかす態度に、瀬知は一礼して踵を返した。
 だが、ノブを下げた瞬間、出張の間ずっと胸に渦巻いていた疑問が雷光のように頭を駆け抜ける。瀬知は180度ターンを決め、社長の前に引き返した。
「社長! お話が御座います!」
 机に両手をつき、身を乗り出す。社長は背もたれの影から斜めの睥睨を覗かせた。
「何と失礼な!」
 気色ばむ米岩が止めに入るのを制し、社長は顎をしゃくる。
「続けなさい。」
 瀬知は身を退き、両手を体側させた。
「はい。今回の任務について失礼ながら意見を申し上げます。企業スパイという行為は、質実剛健・真実一路という我が社の社訓に反するものではないでしょうか? 正直者ではこの不況の世の中生き残れないのは分かっていますが、突然の方針変更に付いていけない現場の者達から不満が」
「……君をはじめとしてかね?」
 思ってもみなかった言葉に、瀬知は血相を変えた。
「いえ! 決してそのような」
「結構。現在のポジションが気に入らなければ降格してもらう。」
「社長……!」
 長年培ってきた業績をたった一言でふいにされた瀬知は、半ば呆然と立ちつくす。
 と、緊迫した空気を軽いノックの音が震わせた。ノックの主は社長の許可を待たずに扉を開ける。
「失礼します。社長、今季のCM製作ですが――」
 深緑のスーツを着た長身の男は、室内の異様な雰囲気に気付き、口を噤んだ。彼は企画広報課次長・高風夏印。瀬知の幼なじみであり、親子二代で男爵株式会社に勤務している。
「ちょうど良い。」
 不機嫌のオーラを纏った社長は、最悪のタイミングで入室した夏印を見やった。
「高風くん、君も葉日くんとともに販促部通信販売課へ移動だ。」
「――は?」
 事態を全く飲み込めない夏印は間抜けな声を漏らす。
「社長! 夏印には関係ありません!!」
 人事異動を終えた社長は、とばっちりを食った親友を庇う瀬知に背を向けた。
「社長!!」
 なおも声を上げる瀬知に、薄笑いを浮かべた米岩が扉を指し示す。
「ご退室を。」
 社長室を追い出された二人に、米岩が白い封筒を差し出した。受け取った瀬知が表に返すと、”三須戸村465”と宛名されている。
「社長からお二人にご命令です。この封筒を明日の午後までにこのお宅へ直に届けて下さい。」
 伝言を告げ米岩は社長室に戻っていく。二人は無言でエレベーターに乗った。
 緩やかな降下運動を続ける箱の中に、重苦しい沈黙が立ちこめる。暗い雰囲気を打破すべく、最初に口を開いたのは夏印だった。
「……出張から戻ったんだな。おかえり。」
「ああ、うん、ただいま。ペナント買い忘れたんだ、すまない。」
「いや、ペナントはもういいよ。」
「そ? でも、あそこまで集まったんだから制覇してみようって気にならない?」
「なるか!」
 再び沈黙。今度は瀬知が口を開く。
「大変なことに巻き込んでしまって……すまない。」
「ん、その事なんだが、……二人揃って通販課の平に降格ってことだよな?」
「ああ。僕はともかくお前まで……」
「いいさ。頑張って仕事をすればまた元の部署に戻れるかも知れない。」
「そうだといいけど……世の中そんなに甘くないよ。」
 三度沈黙。
「その封筒、何が入っているんだ?」
 夏印の言葉に、瀬知は封筒を照明に透かしてみた。
「手紙と、指輪だ。結構大きな石がはまってる。」
「わざわざ直に届けさせるって事はクレーム処理かな?」
「そうだね。任せるよ。」
「その手の処理は……先に言うなよ。」
 これで四度目。どうも会話を続けることが困難な二人だが、これでも大の親友である。
 瀬知が封筒を懐にしまったところでエレベーターの扉が開いた。
「どうだい? 今夜一杯。」
 瀬知の誘いに、夏印は首を振る。
「明日は朝一で新幹線に乗らないと間に合わないだろう? 今日は早めに休んで出張疲れを抜いた方がいい。」
「それもそうか。良く気が付くね。そういうところが仕事にも活かせればいいのにね。」
 瀬知に悪意はない。分かっていてもため息が漏れてしまう夏印である。
「じゃあ、明日4時にここで。」
「夏印!」
 出発時間を告げて立ち去ろうとする夏印を瀬知は呼び止めた。
「どうした?」
「夏印はどうして広報企画課に入ったんだい?」
「?? ……何故って、それは親父が」
「そっか。コネって辛いね。」
 自分で聞いておきながら瀬知は早々に会話を打ち切る。夏印の胸を疑問符の嵐が襲った。
 ――本当に瀬知と自分は親友なんだろうか。
「引き留めてすまない。じゃあ。」
 心なしかブルーになった夏印に手を振り、瀬知は社宅へ向かった。
 社宅に戻り、自室の扉に鍵を差し込んだところで瀬知は異変に気付いた。鍵が開いている。不審に思いつつ扉を開けた瀬知は、薄暗い玄関に声を投げた。
「薔子?」
 呼びかけに答えるように、真っ暗だった居間に灯りがつく。霜付きガラスの格子扉が開き、微笑を浮かべた薔子が現れた。
「おかえりなさい。」
「やっぱり君か……。」
「お夕飯、まだでしょう? もうすぐ出来るわ。」
「気持ちは嬉しいけど、困るよ、薔子……。」
 エプロンで手を拭っていた薔子は表情を凍らせる。
「……迷惑?」
「そうじゃない。ただ……」
 瀬知は慌てて取り繕った。だが、湧き出した涙は薔子の瞳を潤ませ、大粒の滴となって頬を伝う。
「明日からまた出張なんでしょう? だから今日はっ……」
「どこでそれを!?」
 あまりの情報の速さに瀬知は仰天した。薔子は涙を拭い、顔を俯ける。
「もう会社中その話で持ちきりよ。」
「嘘だぁ!!」
 瀬知は思わず叫んだ。よしんば、会社中で噂されていたにしても、この部屋で自分の帰りを待っていた薔子が、どうやってそれを知ったのか。
「絶対に変よ……帰ってきたばかりなのにまた出張だなんて! しかも三須戸村ですって? クレーム処理なんて、あなたがやる仕事じゃないわ!」
「だ、大丈夫だよ。今度は夏印も一緒だし。」
 どうしてそこまで知っているのか――とは敢えて聞かない。
 一頻り嗚咽を漏らした後、薔子は悲しみの余韻が光る瞳で真っ直ぐにセシルを見つめる。
「瀬知……気を付けてね……。」
「ああ……。」
 それだけ言うと、薔子は部屋を去った。一人になった部屋で、瀬知は中途半端に作りかけのシチューにため息を和える。
「薔子……僕は……」
 ――ちょっと君が怖いよ……

 翌早朝。日も出ないうちから起き出した瀬知は、旅行用品を詰めたトランクの取っ手をしっかと握った。届け物である封筒は懐に深くしまう。
「……出発だ。」
 男爵株式会社本社ビル正面玄関には、既に同行者の姿があった。
「さぁ、行こうか。」
「ああ。任せたよ。」
「まあ心配するな……先に言うなよ」
 この先一体どうなるのか。いつか営業課々長に戻れる日が来るのか。社長の横暴を許すな。一致団結して待遇改善を要求するんだ。
 様々な思いを胸に、二人は未来への第一歩を踏み出した。