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■ My Dear(Sherlock S/J)2020.12.29

S4以降の話そのB。ラストです。
S→←JからS/Jになった2人の話。
SとJに関わった女性も名前だけですが出てきます。

***

 最後の患者を見送ったジョンは、深い溜息を吐きながら椅子に体重をかける。予約の患者の人数がいつもより多かったわけではない、今日はどうしても定時で職場を後にしたい用事があったから、少々詰め込みすぎた。約束の時間までゆとりがあることを確認すると、ジョンは疲労で痛む目頭を解すように揉む。少し休憩したって大丈夫だろう、そう思って。
「お疲れ様です、ワトソン先生」
 ノック音と共に診察室のドアを開き、声をかけてきたのは若い女性看護師。彼女はアナイスと言い、ジョンとは娘と言えるほど歳が離れている。世代の差に話題も合わないように思える二人だったが、よく会話を交わしていた。二人の話題の中心は決まっていて、今日の天気だの趣味だのではない。
 可愛らしい笑顔を見せる両頬が、少し赤く色づいている。化粧の色合いではない。視線を向けたジョンがアナイスの状況を確認すると同時に、目下年齢の離れた二人の話題の中心人物が彼女の後ろから顔を覗かせた。
 ジョンの眉間に皺が寄る。
「シャーロック、君待ち合わせより先に迎えに来るなって言っただろ? 迎えに来られたんじゃ待ち合わせ場所を決める意味もない。しかも前回より早くなってるし」
「その分、君も前回より早く仕事を終えているから丁度いいじゃないか」
「今日はちゃんと外で待ち合わせしたかったんだよ僕は」
 だからいつもより仕事を詰めたというのに。言った通り待ち合わせの意味がない。
「僕は君が医師として働く姿を垣間見て、流石僕の主治医だと尊敬しなおしたぞ。ただ同時に君が一番生き生きとしているのは、やはり僕の助手をしている時だと改めて実感したがな」
 踏ん反り返るシャーロックを前に、違うと否定できないジョンは小さく唸る。医者の仕事に無論やりがいはあるが、シャーロックの助手業が楽しいのは間違いないからだ。同行できる回数が出会った頃より減っているから尚更、現場に一緒に向かう時には自ずと高揚してしまう。
「あの、ワトソン先生。残務処理はこちらでもできますので、今日はもう上がってください。お迎えに来てるってことは……」
 背後のシャーロックをちらりと見上げたあと、ジョンに視線を向けたアナイスは、蕩けるほどに美味しいスイーツを口にして幸福に頬を緩めている人に似た表情を見せた。
「今からお二人でデートなんでしょう?」
「ああそうだ」
 うっとりするアナイスの横をすり抜け診察室に入り込んだシャーロックは、座るジョンに向けて片手を差し出した。何だとジョンは訝しげな視線を向ける。
「お手をどうぞ、My Dear?」
 愛情がたっぷり含まれた声と眼差しが、ジョンにだけ注がれた。
 シャーロックの後ろから押し殺した悲鳴が聞える。恐怖や絶望ではない歓喜に震える悲鳴だ。確かに、今のシャーロックは彼が意図して見せているからか、ジョンから見ても素直に格好が良い。シャーロックのファンであり、彼繋がりでジョンと親しくしているアナイスが悲鳴をあげるのも当然だが、眼差しはシャーロックに見惚れているわけではない。夢見る乙女のように潤む瞳は、シャーロックとジョンのやり取りを熱心に見つめている。それはテレビドラマで流れるラブストーリーに憧れながら、見入っている視聴者のようだ。
 シャーロックの芝居がかった行動に合点がいったジョンは、呆れながらもその手を取った。


「アナイスをいつの間に買収してるんだ君は。彼女に聞いたんだろ、僕の診察がもう終わりそうだって」
 でなければタイミングよく現れないはずだ。職場を後にしたジョンは、シャーロックと並んで歩きながら文句垂れた。
「そんなことはしていない。彼女は親切心で僕に教えてくれていただけだ」
 心外だとシャーロックはコートに包まれた肩をすくめた。
「じゃあ何だよさっきのは」
「まあ彼女の親切心に対するささやかなお返しだ。初対面時の彼女の反応を思い起こせば、彼女は僕のファンであると同時に僕らの関係性を喜んでいたようだから。”お似合いです””やっぱりそうだったんですね”そんなことを言っていたな」
 約一ヶ月前、時間より早く待ち合わせ場所についていたシャーロックが、折角だから迎えに行こうとジョンの職場に顔を出した。一方的にジョンの居場所を問質す、患者とも思えず名乗りもしない黒ずくめの男。受付はシャーロックを知らず不審者かと困惑していたが、偶然通りかかったアナイスはすぐに男がシャーロックだと気付いた。同時にジョンに会いに来たのだと察して、自ら声をかけるとシャーロックをジョンの診察室まで案内した。
 その時は何か事件なの? だから相棒のワトソン先生を迎えに来たのね! なんてはしゃいでいたアナイスだったが、事件を否定してデートだと訂正したシャーロックに当然ながら戸惑った。アナイスはジョンのブログからシャーロックを知りファンになった一人であり、紆余曲折を経た後にワトソン親子が221Bに戻ったことまで知っていた。その後、ジョンが困り顔ながらにデートを否定しなかったので、アナイスは二人が驚くほどに感激した。
「そのせいで、次の日出勤したら病院全体に広がってたんだけどね……本当、あの時は憤死するかと思ったよ」
 思い出しそうになったジョンは脳内から追いやりたいと言うように、頭を振る。一日中居た堪れない思いで、ずっと診察室に引きこもっていたジョンだ。今日の待ち合わせは前回の二の舞にならないように仕事をしたというのに。結局、診察室を後にし病院を出るまでにすれ違った職員からは、今からデートなんでしょうとの眼差しやら声をかけられてしまった。
「でも君は否定しなかった、さっきだってそうだ。散々周囲から祝福の言葉を贈られてもな」
「……まあね。その話はもう止めよう、僕はくたびれてお腹が空いてるんだ、シャーロック。今日はどこに連れて行ってくれるんだい」
 挑戦的な瞳で見上げるジョンに対して、シャーロックはにんまり笑う。
「期待してくれてもいいぞジョン、なんと言っても一か月ぶりの二人きりのデートだからな。僕に抜かりなどありはしない」
 尊大とも取れるシャーロックの言葉を、例えば他の誰かが口にした場合、ジョンは期待を半分程度に抑えるだろう。無闇に期待値を高めすぎて裏切られた事は何度だってある。ただ相手がシャーロック・ホームズであるならば話は変わって来る。
「分かった、前回を越えるものを期待してるよ」
「素晴らしくも最高の夜になると約束する」
 メロドラマ張りの台詞を躊躇なく口にするシャーロックは、自信に満ち溢れている。今日はディナーだけのはずなんだけど、何かサプライズでも仕込んでるのかな。そんなことを考えながらジョンはシャーロックが停めたタクシーに乗り込んだ。


 二人が221Bに帰り着いた時、時計の長針は天辺に近づいていたが、追い越してはいない。フラットの玄関前に下り立ったジョンは、ほろ酔いで高揚した気分のまま踊りだしたいくらいだった。離れていくエンジン音をBGMに足を踏み鳴らそうしたジョンを、ドアを開けたシャーロックが手招く。
「あれ、ハドソンさんは?」
 二人が外で待ち合わせてゆっくりと外食する時は、決まってロージーはハドソン夫人に頼んで、帰宅と同時に引き取るようにしていた。だから持ち帰りのできる焼き菓子を買ってきたのだが、ハドソン夫人の部屋はガラス越しに見ても真っ暗だった。物音一つ聞えない。予定の帰宅時間から少し過ぎてはいるが、遅すぎるわけではない。どうしたんだろうかと首を捻るジョンの疑問を、先に階段へ足をかけたシャーロックが解決する。
「ロージーのことを気に入っている友達がいるとかで、今日は一緒に泊まりに行くといっていた。帰宅は明日の午前中になるそうだ」
「そっか」
 満たされて幸福な気分のままに、彼の幸せを象徴する娘をぎゅっと抱き締めたかったジョンは意味もなく両手を広げたり閉じたりしながらシャーロックに続いて階段をのぼる。お土産はキッチンのテーブルに置いて、所定の位置に座ったシャーロックに声をかけた。
「シャーロック今日は本当にありがとう、君の言っていた通り本当に素晴らしかったよ。ちゃんと前回を超えていたしね。あ、シャワー先に使わせてもらうから」
「ジョン、君に話しておきたいことがある」
 シャーロックは向かいのソファに視線をやったまま言う。座れと言うことなのだろう、瞬いたジョンは無言でジャケットを脱ぐと指示のままにシャーロックの向かいに座った。
 シャーロックの視線がすいと上がり、ジョンの視線と合わせる。その絡んだ瞬間に、ジョンはシャーロックが何を言うか理解していた。ジョンは心もち背を伸ばすと、逸らすことなく澄んだ瞳を見つめ返した。
「今日で四ヶ月目だ、頃合だと思わないかジョン。実験の結果を確認しても?」
 シャーロックの指先が肘掛部分をトントンと叩いた。
「そうだね」
 ジョンはしっかり頷く。では先に僕からとシャーロックが口火を切る。
「僕はこの四ヶ月間、幸せだった。四ヶ月前と比べてみると間違いなく幸福度は増している。残念ながら明確な数値で示すことは困難だが、四ヶ月前より僕の体重は1ポンド増えている。1ポンドもだ、デートは勿論のこと君たち親子と食卓を囲む機会が増えたからだ。人はこれを幸せ太りというのだろう、ジョン」
 嬉々として報告するシャーロックに、それが太ったうちに入るのか君の腹についているのは掴めない筋肉だろうにとジョンは内心思うけれど、指摘する気はなかった。今、大切なのはそこではないことくらい、分かっている。
「僕の報告は以上だ。それではジョン、君の報告を貰っても?」
 両膝の上に肘をつき、前かがみになったシャーロックの瞳はずっとジョンを見つめている。ジョンに本心を吐露するように強いて、万が一にも偽りを口にしようものならば糾弾する用意があると主張している。しかし不思議なことに暖かさと優しさを器用に併せ持っており、それは四ヶ月前と同じだった。



 ハドソン夫人の協力も得られず、引き摺られるようにして部屋に戻されたジョンはソファに押し込まれた。冷ややかに見下ろしてくるシャーロックから打ち込まれる言葉の弾丸は容赦ない。ジョンは遮る傘もない丸腰の状態で浴び続けた。無論、ジョンには反論どころか言葉を挟む事すらできない。
「今までの君の恋愛を見ていればわかることだが、君は自分の魅力を十分に理解して相手に提示しながら対話を楽しんでいた。受け身にならずに自分から進んでいき、好感触であれば突き進んでいく。相手が引けば様子を見て、受け入れてくれるまでじっと待つ。君は、脈のない相手にはフレンドリーにいわば友達感覚になり、反応がある相手には互いの距離感を図りつつ駆け引きを楽しみながら恋愛を発展させていた。そんな君が今更恋愛に臆病になって尻込みするなど考えられない。君は心底恋愛を楽しんでいた。僕に向ける思いも同じだろう? なのになぜ、僕への感情を君は手放そうとする逃げようとする。それに君が僕にふさわしくない? だからここを出ていくなど、僕には全くもって理解不可能だ。そもそも君が判断することではない、基準は僕にある。君に僕のをこと決められる筋合いはない」
 身体を丸め俯くジョンの周囲を歩くシャーロックからは、渦巻く怒りと威圧感が発せられている。一定の速度を保つ足音が、時おりぶれて早くなるのは、シャーロックの苛立ちが高まったからだろう。
「君以外の誰かを愛するようになるだと? そんなことあるわけがない、僕が生涯唯一愛するのは君だけだ。君は僕が出会った中で一番の理解者であり、君もそれを自覚しているはずだ。そんな君がなぜ分からない? どうして? さっきも言ったが、僕は君が散々ゲイではないと言っていたことを忘れていないため、思いを打ち明けた場合、君に拒絶される可能性が高いことを理解していた。僕は君たち親子との生活が何よりもかけがえのないものであり、君が以前のように傍にいて、一緒に現場に向かうことのできる日々がとても大切だった。そんな日々が僕の一言で脆くも壊れてしまう危険を孕んでいる、僕は悩んだ結果安寧の日々を選択し親友としての関係を望んだ。それが君にも僕にも最善だと思った。しかし、そんな日々を破壊しようとしているのは僕ではなく君だ、ジョン。僕は僕の大切なものを奪おうとする君に怒りすら覚えた」
 まるで推理の最中のように、シャーロックは途切れることなく喋り続ける。ただ一つ違うのは、時おり彼の感情の高ぶりを表わすよう、その口調が荒くなり声が大きくなることだろう。
 どれだけ時間が経ったのだろう、最初は追い詰められた小動物のように恐慌状態にあったジョンだったが、逆に落ち着きを取り戻していた。一方的に聞く立場だったからだろう、言い争いだったら頭はずっと沸騰したままだったに違いない。
 どうしよう、これじゃ計画が台無しだ。隠しておきたい事まで全て知られているなんて、どうすればいい、どうすれば。
 最初こそ頭をぐるぐる回っていた考えも、端に追いやられている。今、ジョンの胸中を占めているのは、シャーロックの中の己と言う存在は、これほどまでに大きくなっているという事実だ。シャーロックが見せた執着と数々の行動を思い起こせば、当然のこと。シャーロックの弱みはジョンなのだ。
 改めて思い知らされたジョンは、底知れぬ喜びを感じていた。シャーロックから数多の弾丸を受けながらも、彼の執着と深い感情は己にだけ向けられているのだと。それはジョンを雁字搦めにしながらも、歓喜と優越感を与えた。愛するのは生涯に君だけ、その言葉のなんと甘美なことか。このまま流されてしまえば、シャーロックも言っているのだから。分かったよ、頷くだけでいいはずだ。そんな思いが頭を掠め、受け入れようとしていたジョンが顔を上げると、宝石のような瞳に射抜かれる。
 本心を求めるシャーロックの瞳に、ふらふらしたジョンの思いはあっけなく打ち砕かれた。ハッとしたジョンは瞬くと視界にかかった曇りを払い除ける。流されては駄目だと思いなおした。
「シャーロック」
 名を呼ぶとジョンの意図を瞬時に読み取ったシャーロックは、まだ続くはずだった言葉を飲み込む。そして視線はジョンにやったまま、向かいのソファに腰を下ろした。
「シャーロック、僕は君のことが好きだよ。愛しているんだ」
 ジョンの口から直接、告白の言葉を聞けると思っていなかったシャーロックは純粋に嬉しいようだった。ただ、この状況で素直に喜びを表に出せず、姿勢を崩さずに口をもごもごさせた。それでも唇の端は笑みを形作ることを止められないようだった。
「愛しているからこそ、僕じゃ駄目なんだ。君を思うのならば」
「なぜだジョン。いままで幾多の女性と付き合ってきた君は、そんなしおらしいことは言わなかったはずだ。どうしてそんなにも臆病ともとれる態度になる」
「だって君が相手だからだ。今までの誰とも違う」
「同性だから? 僕は気にしない。僕は同性異性関係なく、君だから愛したんだ。ジョン、君は何かを恐れているのか?」
 こんな状況でなければ流石名探偵だと賞賛するところだが、見透かされたジョンは逃げたい衝動に駆られたが、懸命に堪えた。ちゃんと伝えなければいけないと、己を奮い立たせる。ただ、視線は床へと落とした。
「君も言った通り今までの僕は恋愛を楽しんでいた。魅力的な女性と楽しい会話をして遊んで時々セックスして、恋愛っていう一種のゲームを楽しんでいた。勿論、相手もお遊びだと承知している女性ばかりだったよ。だから心から愛したとか、ずっと傍にいたいと思う相手はいなかった、結婚したい思ったことはなかった。…君の助手業に勤しんでいた時は特に、だって独身の方が自由に動けたからね。……メアリーはボロボロだった僕を包み込んで愛してくれた、僕はその温かさに甘えてずっとそばにいて欲しいと願った、だから結婚した。……そんな彼女たちと君は違うんだ」
「……」
「言い方は悪いけど過去の彼女たちとは終わりを見据えながらも付き合っていた、結婚したメアリーは別だけど。でも、君とは終わりを考えたくない、一緒にいたいずっと。二度と君を失いたくないんだと心が悲鳴を上げている。だから、遊びのような感覚じゃいられない。君に対する思いの底なんて全く分からないくらいなんだ。……それだけ重くなるとね、僕が望むのは君との恋愛じゃない君の幸せだけなんだ。僕の中には君への罪悪感がずっと残っているからなおさら。君の思いと僕の思いに気づいたと同時に、僕じゃないと思った。僕相手では君の幸せは望めない。僕は君を苦しめたクソ野郎だし、年上のくたびれたおっさんだし、手のかかる幼い子供だっている。さっきも言ったけど多くの女性と一杯遊んできた。その場限りの刹那的な恋愛を何度だって。……親友なら、僕も受け入れられた。でもそれ以上は駄目だ、僕なんかじゃ駄目だ。復活してからも君ファンレター貰ってるだろ? 開けもせずにゴミ箱に突っ込まれてるけどさ。君は人を惹きつけるんだ、君を魅力的に思っている人はいっぱいいるんだ。僕よりも若く聡明で君の横に並びたてる、お似合いの相手がいるはずなんだ。僕じゃない」
 不意にあの女のことを思い出して、ジョンは胸の痛みを覚える。生きていると知れた聡明で魅力的な女。シャーロックを説得するためと言え、自分が惨めに思えてならなかった。でも、間違っていないとジョンは確信している。
「お互いの感情を知っている以上、君とこれから一緒に暮らしていくことは苦痛なんだ。だから、僕はここを出て行きたい、君と距離をおきたいんだ。今後の人生を君と親友であり続けるために、お互い頭を冷やそうシャーロック」
 己の伝えるべき言葉は出し切ったと思ったジョンは、唇を閉じてシャーロックの様子を窺った。途中から発言せずに聞きに徹していたシャーロックは、ジョンが話し終えて数秒後、首を傾げた。
「君の言い分は以上か、ジョン」
 無表情で平坦な声に、シャーロックの感情が読めない。
「え、ああ、うん」
 問いかけに頷けば、シャーロックは息を深く吸い込んだ後、眉間にくっきりと皺を寄せた。
「君の理解力が低いことは承知しているつもりだったが、今回はあまりにも酷すぎる。僕は散々言った、僕が愛しているのは生涯、君だけだと。君が受け入れないのであれば僕の思いはこの身体が朽ち果てるまで消えることなく、僕と共にあり続けるだろう。これからの人生、君以外に誰も愛せないことが分かっているからだ。だと言うのに、なぜ君は僕を他者と恋愛させようとする? ありもしない恋人と巡り会うなんて空想をするんだ、君の耳はついているだけの飾り物かジョン! お粗末な脳は考えることを放棄しているのか!」
 再び感情を爆発させて吐き捨てるように言ったシャーロックに、ジョンは唇を噛み締めると反論をする。
「未来は誰にも分からない。現実に君は誰かを愛するなんて予想できなかった未来に到達しただろ? だからありえないとは言い切れないはずだ!」
 ハドソン夫人がここにいて二人の主張を聞けば、間違いなくシャーロックに賛同するだろう。ジョンの主張は、苦し紛れに発したものでしかなかった。
「君が僕のことを勝手に決め付けるなと何度言えば分かるんだ!! それに幸せになれない理由として君が提示した要素だが、全く理由になっていない。君がクソ野郎? そんなの僕だって同じだ。偽装した死からの帰還の時、君が見せた怒りを僕は決して忘れなどしない。年上で子持ち、それに女性と遊んでいた過去がある? その事実のどこに不幸になる要素があるんだ、説明してくれないかジョン。今までの関係が変化することによって不幸になるとでもいうのか君は。僕をちゃんと納得させるんだ、でなければ君の主張は全て取り下げだ!!」
「ッ、でも、僕はなんと言われようとも、ここを出て行く!」
 シャーロックを納得させる理由なんて考え付かないけれど、221Bを出て行くことだけはジョンの中で決定事項だった。精神的に追い詰められていたジョンはせめてもと立ち上がってシャーロックを見下ろした。背の高いシャーロックを物理的に見下ろすことにより、自分が上にいるという精神の安定を保とうとしたのだ。癇癪を起こした幼子のようなジョンの態度に、シャーロックは顔を歪めると溜息をついた。流石のシャーロックも、子どもじみたジョンに自分までも感情的になると話が終わらないと悟ったようだ。
 組んだ足の上に重ねた両手を置いたシャーロックの瞳が、不意にきらめく。
「このまま話していても平行線で決着はつかない。そこでジョン、どちらの主張が正しいのかを確認するため一つ実験を行なう。君に拒否権はない、いいな」
「実験?」
「そうだ、君が散々主張している幸せになれないのか? についての実験だ。これからしばらく、僕たちは疑似の恋人同士として暮していく、それで本当に僕は不幸になるのか? それを検証したいと思う。僕は不幸になるわけがないとの根拠となるいくつかの事実を提示できるが、君は馬鹿のようにただ幸せになれないと主張するだけだ。僕がいくら第三者も納得する理由を突きつけたとしても、君は頑なに耳を閉ざし自分の主張を曲げないだろう。……だったら、実際に検証するしかない。そうすれば君は否が応にも理解するはずだ、どちらが正しいのかを。僕が正しかった暁には、僕の思いから逃げずに向きあってもらう」
「そんなの」
「君が断固として拒否するのであれば、君たち親子がこのフラットから出て行くことを許可しない。それにジョン、君は探偵である僕の助手だ、探偵の実験に付き合うのは助手の務めだろう?」
 見下ろしているのはジョンのはずなのに、座るシャーロックから威圧感を受けていた。これ以上、シャーロックを納得させるだけの理由など見つかるはずもなく、ごり押ししていくことも不可能だった。
「君ってやつは……なぜ分からない!」
「その言葉は、そっくりそのまま君に返すぞ、ジョン。これはあくまでも実験だ。結果は現段階で分からない。もしかしたら、君の言う結果になるかもしれない。その場合、僕は素直に君たちをこのフラットから送り出そう。ただし、そうなったとしても、僕は君以外を恋人として迎え入れる気は全くないから、その点だけは君の理想通りにはいかないがな。僕の感情は僕のものでしかない」
 悪い話ではないだろう? 言ってのけたシャーロックは余裕の表情を見せて楽し気に笑う。
 ジョンは己がシャーロックの手の内にあって、どう足掻いても逃げられないことをようやく悟った。だって、いくらフラットを出ていくためといえ、ジョンがすすんでシャーロックを不幸にできるわけがない。本末転倒にもほどがある。シャーロックはジョンをよく理解して、実験をするなんて言い出したのだ。結果が分かりきった実験を。
 追い詰められて言葉もないジョンは、唇を噛み締め立ち尽くす。再び頭を掻きむしり絶叫したい気分だった。もしくはこのままフラットから逃げ出してしまいたいとすら思った。
「ジョン、僕から逃げようなんて愚かなことは考えるな。僕はどこまでだって君を追いかけて必ず捕まえる、決して逃しはしない。それくらいは分かっているだろう」 
 駄目押しで釘を刺され、退路を全て絶たれた。前に見える道はシャーロックが提示したものしか残されていない。ジョンは最後の悪あがきとばかりにシャーロックを睨み付けた。
「分かった、君の言う実験に付き合う。……本当に馬鹿だよ君、不幸になったって知らないからな!」
「そんな事態に陥る可能性は限りなくゼロに近いが、忠告は素直に受け取っておくよジョン」
 ジョンの苦し紛れの捨て台詞に、シャーロックは律儀に返事をする。精神的疲労のピークに達していたジョンは、ふら付いた後にソファに座りこんで項垂れた。
「これでハドソンさんに追い出されずに済むなジョン。まあ万が一追い出されても君から離れるつもりはなかったが」
 今更ながらに思いだした心配事だが、ジョンには気にする余裕もなかった。
「それより、実験の期限はいつまでなんだ」
「僕が実験を終えるというまでだ。まあそんなに時間はかからないだろうがな」
 平然と宣うシャーロックの予想を否定できるはずもないジョンは、苦し気に唸った。

 ジョンがようやく気を取り直した頃には、外はすでに真っ暗になっていた。シャーロックは向かいに座ったままジョンをずっと待っていたらしい。急かしもせず、声も掛けず。ただジョンを見つめながら。
「ジョン、食事に行こう。すでにロージーと食事をとっている時間を過ぎている、その時間に順応している君の身体はちょうど空腹のはずだ。ハドソンさんたちは一時間前には僕らの言い争いを恐れて避難して不在だ。ああ、君はまず乱れた髪をどうにかした方が良い」
 言って立ち上がったシャーロックは、呆気にとられた表情のジョンを見下ろすと口の端に笑みをのせた。
「いや違うな、デートだ。僕たちは今から疑似ながら恋人同士だ。イコールお互いを好き合っているのだから正真正銘のデートだ。そうだろうジョン」
「あー……?」
 シャーロックの言い回しに含みを感じたジョンは、フラットシェアを開始して日も浅いころ、デートに関してシャーロックと交わした会話を思いだした。当時のシャーロックには無意味な会話だっただろうに、マインドパレスのどこに納められていたのだろう。
「そうか、そうなるねシャーロック」
 ジョンが思わず肯定するとシャーロックはにっこりと笑顔を見せた。まるで子供のような無邪気な笑顔は、喜びを叫んでいる。難事件が持ち込まれた時とも、解決の糸口を見つけたときとも違う笑みは、今後のことを考えて不安に揺らめくジョンの心を、大丈夫だと抱きしめてくれるようだった。



「この四ヶ月間、君と疑似の恋人同士になって……」
 ジョンの脳裏にここ四ヶ月の記憶が映像のように流れる。いつも通りの日常だった、あくまでも疑似なのでキスは勿論、抱き合ったりもしていない。したことと言ったら、待ち合わせてのデートを何度かだ。あとは日々の会話が少しだけ変わった、主に愛情を伝える言葉が増えた、その程度だ。
 最初がシャーロックからだったからか、以降もデートの誘いかけは彼からだった。ジョンの仕事終わりが基本なので夕食だけだったが、シャーロックの気遣いが要所でみられた。完璧なエスコートをされた時は、彼の育ちの良さを思いだしたくらいだ。
 思いだされる映像の中の三人は、みんな揃って笑顔だった。喧嘩もしたし悲しくなったこともあるけれど、不幸だと感じたことは一度だってなかった。
 四ヶ月前から分かりきっていた言葉、それ以外の答えは見つからなくて、ジョンは困り顔で続けるしかなかった。
「僕も君と同じだよシャーロック。幸せだった」
「君は3ポンドは増えたからな」
「うるさいよ、今言わなくていいだろ? ……だから、君の主張が正しかった、僕が間違っていた認めるよシャーロック」
 ジョンの答えにシャーロックは満足げに頷く。
「僕が正しかった場合、こちらの思いから逃げずに向きあうと約束していたな。流石に君だろうが、四ヶ月前の話を覚えていないとは言わせないぞ」
「分かっている」
「ならばジョン、君の素直な思いを教えてくれ。僕が生涯通して愛するのは君だけだジョン。君も僕を愛していると言った、ならば僕の思いを受け入れて欲しい」
 偽りも演技もない、シャーロックの本心からの言葉。もう逃げられない。覚悟を決めたジョンはソファから立つと、シャーロックの足元に膝立する。膝に両肘をつき前かがみになっていたシャーロックは驚いて背を仰け反らせ、ジョンはちょっと笑うと彼の膝に両手をついた。そして驚きに見開かれた瞳を、近い距離で見上げた。
「まずは謝らせてほしい、ごめんシャーロック。君の思いを最初に知った時、僕は本当は嬉しくてたまらなかった。君を愛し愛されるなんて、なんて幸せなんだろうって。でも、同時に君のことを思えば僕じゃ駄目だと思った。人に話せないような過去もあるし、生まれて間もない君の愛する心を僕のような爛れきったやつが貰うなんて駄目だって思った。だから親友のままでいたかったけど、思いを知ってしまい愛しさに苦しくなって傍にいられないと思った。…でも、本当は君の隣に僕以外の人が立つのも嫌で、誰かが見つかるだろうなんてのも本心じゃなかった。君がこれから誰かを愛する可能性は低いだろうし、僕が突き放せば君は意地になって誰か別の人をなんて言わないだろうと思ったんだ、卑怯だろ? 君のことになると僕の心は狭くなるし、愚かになる。……なあシャーロック、君はこんな僕でもいいのか?」
 ジョンは自分の醜いと思っている部分を曝け出す。実験が終わる時には伝えなければいけないと思っていた。これでシャーロックが拒絶するならそれでいいとも。数秒間、至近距離で見つめあった後、シャーロックは膝に置かれているジョンの両手に、自分の手を静かに重ねた。すっぽり覆われてしまう。
「どんな君でも構わない、だジョン。僕が愛するのは君だけだ」
 シャーロックの手に少しだけ力がこもる。
「……ありがとうシャーロック。僕も君を愛している」



「さてジョン、僕らは晴れて疑似から本物の恋人へとなったのだが、そこで一つ確認しておきたいことがある」
 告白劇の後、数々の場を踏んできたジョンに言わせればキスの一つでもしそうな雰囲気をシャーロックは簡単に打ち壊す。呆気にとられたジョンだったが、相手は恋愛経験ゼロ、色恋沙汰も事件発生の要素だととらえるシャーロックだと思い出し、さもありなんだと理解する。ただ、流石にこの姿勢のまま話す気にはなれず、ジョンは苦笑すると自分のソファに戻っていた。シャーロックはジョンが離れたことに不満気味だったが、視線で促せば話を続ける。
「一か月ほど前から考えていた、僕たちの間に性的交渉は必要なのかどうか。極めて重要な問題だ。メアリーと結婚前の君は、頻繁ではないが恋人関係になった相手とは性交渉を持っていた。君は分かりやすかったからな、指摘したことはないが。メアリーが亡くなって今日まで君に恋人はいなかったし、欲求を解消するためだけの関係を持つ相手もいなかっただろう。仕事と育児に忙しく欲が湧かなかったのではないかと僕は推測しているが、違ってはいないだろう。そのため、先ほど僕たちは正式な恋人となったと当時に、性行為が必要となるか考える必要が発生した。僕としては今のままで一向に構わないと思っていたが、君の過去を見れば性行為が必要とも考えられる。ただ、僕も君も男であり、お互いに未経験の領域のため考える必要がある。僕はてっとりばやくいくつかの映像を見ることによって、共通してみられる必要物品や手順を理解した結果、同性同士の性行為に対応しうる状況にある。ただ、根本的なもの、君に性的欲求を感じるのか、の問題にぶち当たった。現在のところ……分からない、それが僕の答えだ。僕は今まで誰かに対して欲求を感じたことがない。ポルノを見ても手順の確認でしかなく、役者がどれだけ声を上げても興奮など全く感じなかった。君を愛していると理解した後も、僕は君に性的な衝動を感じたことはない。君とのセックスを想像できないからかと思い、一時保存しておいた映像に、君と僕の顔を合成し再生してみようとしたが上手くいかなかった。君の情報は他の誰よりも僕が一番保有しているが、よく考えてみれば性的なものは一切ない。見たことがないのだから当然なのだろう。そこで今までのデータをもとに、君のベッドの上での表情や振る舞いをイメージとして作り出そうとしたが上手くいかない。例えば、君が快楽に浸る表情など、ポルノを下敷きにし君の表情と混ぜ作り出そうとしたが、分からないデータにないとエラーが発生してしまう。不本意であるが分からないことだらけであり、必要なのかどうかの判断材料が不足している。だから君に尋ねたいジョン、君はどうしたい。君は性交渉が必要だと思うか?」
「……」
 誰よりもシャーロックの奇行に慣れたジョンであっても、流石に何も言えず絶句した。お互いに思いを伝え合い受け入れて恋人になったばかりだというのに、これはあんまりではないかとジョンは真顔のシャーロックを前に頭を抱えたくなった。若い恋人同士のような甘ったるさやロマンチックが自分たちに不釣り合いなのは分かっているが、それにしたって酷い。今のセリフをジョンが過去の女性に言ったならば、間違いなく引っぱたかれたのちに即時破局だ。同時に周囲に吹聴され大炎上待ったなし。それが普通なのだが、シャーロックに普通は通じないと来ている。冗談や揶揄いは一切見えず、彼の表情は真剣そのものだ。真剣にジョンとの性行為が必要なのか、彼にとっては前例のない難題に立ち向かっているのだ。
 それもジョンの今まで行動を理解しての発言なのだ。ジョンを思いやり彼の希望に添おうとするシャーロックに涙が出そうなほど嬉しいが、それにしたってストレートすぎる。
「……一つ聞きたいんだけどシャーロック」
「なんだ」
「君、性的衝動にかられたことがないって言ったけど……あの、ジャニーンとの濃厚な絡みですら、興奮もしなかったのかい。そのたったりだとか」
 目の前で繰り広げられていた濃厚で情熱的な口付け。絡み合う二人の肢体。後に取り入るための演技だったと分かったけれど、見せつけられたジョンは熱にあてられて少し頬が熱くなったくらいだ。
「しなかった。触れても口付けても全く、頭はずっと冷静だったからな」
「そう……」
 あれで興奮しないとなると、女性が愛せないか、誰に対しても性的欲求を感じない不能ではないか。例え演技であろうとも世の男性ならば間違いなく興奮する、自分も含めてだ。ジョンがそんなことを考えていると、少し強めの声で名前を呼ばれる。
「ジョン、僕が女性相手に興奮しようがしまいが今は関係ない。大切なのは僕らに関してだ」
 真面目くさった顔でジョンの返事を待つシャーロック。ジョンは零れ出そうになる溜息を飲み込むと、真剣に向き合おうと心に決めた。確かに恋人同士になる以上、どうすべきか考える必要のある問題だった。
「確かに、君の言う通り僕は恋愛の一要素としてセックスを楽しんでいたよ。抱き合うのは気持ちよかったし女性の豊満で柔らかな身体も好きだった。……ただ、今の僕にはそういった性的な欲求が全くないんだ。ごっそりと削り取られたみたいに」
「僕の推測通りか」
「仕事と育児に忙しい、それもそうなんだけど……あー、うん、そのシェリンフォードの一件でね、まあそのなんだ、僕に魅力を感じての偶然じゃなくて陥れるために必然的に声をかけられて、その後もずっと観察され続けてたんだなってことを、騙されていたんだってことを知ってからね……その、駄目になったみたいなんだ」
 視線を泳がせ酷く言いにくそうにしながら、ジョンは答えた。全く予想になかったジョンの答えに、シャーロックは目を見開き固まってしまう。
「いや、彼女が悪いわけでは……その、罪を犯した意味では悪いんだけど、この件に関しては僕に非があるんだ。普通に考えてこんなくたびれた平凡な中年男に、しかも結婚している相手に声をかけるなんてリスキーだし、裏があって当たり前なんだよ、例えばお金や情報とかね。諮問探偵の助手である僕は、疑ってしかるべきだった。それに気づかずに浮かれていた僕が馬鹿だったんだ……。僕だってまだいけるんだ、声をかけたくなるくらいの魅力があるんだなんて良い気になって、浮気でしかないのに。だから駄目になったのも自業自得なんだ、この件に関しては」
「ジョン、僕には君の感覚がよく分からないのだが、その君は十分魅力的だと」
 ジョンが大ダメージを受けている理由を理解できないシャーロックだが、不器用ながらにフォローを入れようとする。君が僕と同じ悩みを抱えることなんてないんだろうなと思いながら、ジョンは笑ってシャーロックの言葉を遮った。
「シャーロック、気にしないでくれ。もう終わったことだし言いたいのは、今の僕に性的欲求は全くないってことなんだ。そういった気が全く起こらないし、自分でも信じられなくてポルノを見たけどやっぱり駄目で。……でも、だからと言って拒絶する気はないよ。僕はどちらでも良い、君が求めるなら応えたいし君が不要だというならこのままで良い。今の段階で君はどうしたいのか分からないんだろ、だったら今急いで判断せずに、しばらく保留にすればいいんじゃないかな」
「ジョン、それでは僕の問いの回答になっていないぞ。僕は君に委ねたんだ。それを僕に戻してどうする」
「そうかな? じゃあ僕の答えも分からないにする。それでゆっくり二人で考えていこうシャーロック、急いで答えを出す必要のあるものでもないし。これからずっと一緒にいるつもりだから、時間はたっぷりあるんだ」
 それでいいだろ? シャーロックは意見をさらりと変えたジョンに納得しかねる様子ではあったが、それでも分かったと頷いた。
 ジョン自身、本音としては不必要に傾いていた。今のままの時々デートして思いを伝え合って、それくらいでいいと思っていた。
 ただ今後、恋人同士として過ごす間にシャーロックが性的欲求を感じる可能性は大いにある。なんといってもシャーロックは恋愛初心者であり、必要かどうか考えている段階でニ人は本当の恋人ではなかった。実際の恋人同士になってからの日々は、シャーロックにとっていわば未知の領域だ。そこで心境が変化して触れ合いたいと思うようになるかもしれない、その可能性をジョンは摘み取りたくなかった。きっと、今必要ないと言ってしまえばシャーロックはそれを貫き通すだろう。沸き起こる性的欲求があったとしても必要ないと無意識に消し去ることだってわけない筈だ。ジョンはそんなことをさせたくなかったし、もしシャーロックが欲求を抱いたのであればちゃんと受け入れたいと考えていた。
 ジョンにとってシャーロックが最後の恋人になるのは間違いない。同時にシャーロックにとってジョンは初めての恋人だ。もしかしたら最初で最後になるかもしれない。だからジョンはシャーロックの希望に寄り添いたいと思うのだ。


「シャーロック質問だけど、僕と抱きしめ合いたいとかキスしたいとか思ったことはあるか?」
 話は一段落ついたけれど、今後のことを考えて現状を確認しておこうとジョンは思った。セックスなどの性的欲求はなくても触れ合いたいとの考えはあるのか。ジョンの問いかけに何事か考え込んでいたシャーロックは見開いた瞳を瞬かせる。
「君たちが戻って来てから何度か、抱きしめたいと思ったことがある。実行には移さなかった」
「それってどういうタイミングで?」
「眠そうに背中を丸めた君がロージーの朝食を準備しようとキッチンに立っている後姿を見た時や、冬場に帰宅した時の君の両頬が赤く染まりとても寒そうにしている時だった。その時は君に思いを伝える予定はなかった以上、抱きしめることはできなかった。……泣いている君を抱きしめた時の僕は正真正銘の友情であり、慰める以上の感情は無かった。ただその後には君への愛を自覚していたから、友情以上の感情が混じる抱擁をして君に悟られ、拒絶されることが恐ろしかった。キス、キスは……」
 言って押し黙ったシャーロックの視線は、ジョンへ注がれる。彼の唇に。
「……君、ちょっと怖いよ」
 穴が空くほど凝視され、ジョンも流石に居心地の悪さを感じ身を竦める。
「君の唇の形状やどれだけ開閉が可能なのか、または気温による色味の変化などは分かっているが、肌触りや柔らかさ、熱量など視覚からでは分からない。だから触れてみたいと思う」
「それってキスじゃないだろ。触らないと分からない僕のデータが欲しいていってるみたいだな」
 冗談交じりに笑うジョンにシャーロックは頷く。
「ああそうだ、君の顔を見た時間は僕の中でトップクラスに多く、出会った頃と今で皺がどれだけ増えたかもはっきりわかる。ただそれらは全て視覚から得られた情報であり、触れて得ている情報はあまり多くない。唇は勿論、僕は君の身体の大半に触れたことがないから当然であるが、僕にはそれが我慢ならない。僕は君の全部を知りたいし、知る必要があると思う。だから君の身体を余すところなく触れたいし、それだけでは分からない、知らない君を知りたいと考える」
 至極真面目な顔でいうシャーロック。ジョンは呆然としてしまう。
 そうだ相手はシャーロックだったと、繰り返しジョンは実感した。愛情は根底にあるのだろうが、それを凌駕してしまう相手を知りたい欲からくる抱擁やキス。
 シャーロックが望んでいることと、今の僕にできること。苦笑いを浮かべたジョンは立ち上がるとシャーロックの前に屈み込んだ。そして座るシャーロックの首に両手をまわし抱きついた。
「ほら、君も抱き返してくれよ。僕の背中に手をまわして」
 ジョンは腕の中で意味が分からずきょとんとしているシャーロックに笑いかけて、回している手にちょっと力を足した。
 言われるままにジョンの背中から腰のラインに両手をまわしたシャーロックは、くっと引き寄せて身体を近づけてみた。ジョンが立ったままである所為か二人の隙間は埋まりきらず、シャーロックの中にもどかしさが沸き起こる。もっと密着させたいと思ったシャーロックは、腰に手を滑らせてジョンを強く引き寄せた。
 ジョンは抗わず、シャーロックの引くままに彼の膝の上に乗り上げた。隙間が埋まりぴたりと密着する。ニ人の間にあるのは衣類だけで、少しすれば相手の熱がじわりと伝わった。
 お互いの肩に顎を乗せ、抱き合った体勢のまま、静かな時間が過ぎていく。心地良さに自然と瞳を閉じていたシャーロックは、密着している胸のあたりにジョンの鼓動を微かに感じた。もっと近くに感じたくてシャーロックは反射的に腕の力を強めてしまう。
 流石に強すぎたらしくジョンは呻き声を上げると首を仰け反らせた。やりすぎたと理解したシャーロックは抱擁を解く。腕は支えるだけに留めると、慌ててジョンの顔を覗き込んだ。
「シャーロック」
 ジョンは痛みに眉をひそめたもののすぐに笑顔を見せた。彼は痛かったとも言わずに優しい声で名前を呼ぶと、触れるだけのキスをした。キスを受けたシャーロックは固まってしまう。
「ジョ、ン」
 珍しく動揺を見せるシャーロックからひらりと身を離したジョンは、不思議そうに首を傾げる。
「君が望んだとおりのハグとキスをしたってのに、どうしてそんなに動揺してるんだよ。僕とは初めてだけど、経験はあるだろうに」
 まあ、恋愛初心者だし、慣れてないからなんだろうけどね。言葉を綴る笑んだ唇に、シャーロックの視線が吸い寄せられる。ふわりと柔らかな感触を残していった唇は、ほんの一瞬だったというのに、驚くほど心地良かった。
 動揺を鎮めたシャーロックは、しかし腹の底から沸き起こる衝動に喉の奥で唸った。
「ジョン、もう一度キスがしたい。軽く触れるだけではない、もっと深いものを。ちゃんと確かめたいんだ、知りたいんだ」
 もっと長く触れ合ったら、もっと深く口付けあったらどうなるのか。知りたくなった。触れたくなった。ひたすら貪欲に。シャーロックはジョンの腕をとらえると引き寄せようとする。
「OKシャーロック、君が望むなら僕は応えるつもりだ。けど、うーん……ちょっと待ってくれ」
 性急な態度に驚きながらも静止をかけたジョンは、見上げてくるシャーロックの瞳の中に揺らめく小さな炎を見た。
 燃え上がる手前の炎は、ともすれば瞬く間に炎火になりうる可能性を秘めている。ああこれはもしかしてと思ったジョンが小さく喉を鳴らすと、シャーロックが焦れたように掴む力を強くする。
「ジョン!」
 強い口調で名前を呼ばれたジョンは内心では痛みに眉を顰めたものの、拒絶の意思はないのだと表ではにっこり笑って見せた。
「君の望むままに応えるつもりだけど、その前にシャワー浴びてもいい? 君さっき”僕の知らないことを知りたい”って言っただろ。僕からのキスで君はまず僕の唇の感触を知った、それからもっと知りたくなって深いキスがしたいという。君は知れば知るほどもっと知りたいと思うようだから、深いキスをしちゃえば知りたい欲がさらに膨れ上がって、次いで知らないところ、例えば僕の身体って言い出す可能性も高い。僕は君が望むのならば応えるから、触れられることに抵抗はないけれど……正直、一日仕事をして汗をかいた身体に触れられるのはちょっと嫌なんだ。だからシャワーを浴びたいんだけど、いいよね?」
 切羽詰まっていたように見えたシャーロックの表情が、ジョンの言葉を聞くうちに真剣なものへと変わっていく。
「……ジョン、確かに僕は君に触れるだけのキスをされてもっと知りたいと願った。それ以上のことは何も考えていなかった……先ほどまでは」
 シャーロックは掴んでいた手を強引に引っ張り、倒れ込んできたジョンを抱きとめた。
「君に言われて分かった、君に触れられて僕は高ぶりを感じ始めている。そしてその高ぶりに煽られるように、もっと君に触れたいと願っている。キスをしたいし、君が受け入れてくれるのであれば、もしかしたらそれ以上も……なぜだ、なぜなんだジョン。君との性行為に関してを想像したときは興奮しなかったというのに、今の僕はこんなにも……」
 ジョンの耳元で苦しげな声で言うシャーロックは、酷く困惑しているようだった。彼は未知の領域に足を踏み入れているのだ、しかも自分で制御できず振り回されそうになり、怯えているようでもあった。
 理性を蹴散らそうとする欲望が、シャーロックの中で生まれ始めているのだろう。その相手が自分であることに喜びを感じたジョンは、穏やかな口調でシャーロックに教えた。
「それはねシャーロック、僕らの思いが通じ合ったからなんだよ。お互い愛し合っているから抱き合うだけでも心地良いし、軽いキスでも煽られたんだ。そしてもっと触れてみたくて、相手が欲しくてたまらなくなる。かく言う僕も、君にこうやって抱きしめられていると……ちょっとね、君の匂いとか体温とか結構くるんだ。欲は無くなったって言ったくせにね」
 再び触れるだけのキスをしたジョンは、無意識に引き寄せようとするシャーロックの腕を掻い潜って逃げた。立ち上がり追いかけてこようとしたシャーロックに、ジョンはストップと左手を突き出す。
「ジョン!」
「僕はシャワーが浴びたいんだよシャーロック。その後、君の部屋に行くから、続きはそこでだ」
 手慣れたジョンの様子に、シャーロックは経験の差を思い知らされた。無性に腹立たしくなったものの、恋愛に関しての経験不足はどうしたって埋めようがない。それに、ジョンの申し出はシャーロックにとってあまりにも魅力的だった。自分のベッドの上、ジョンと深いキスを交わしてそれから。想像すると、今まで知らなかった熱が腹の奥でじわりと渦巻いた。
「君は僕の望みに応えたいと言ってくれたが、本当にいいのか? ゆっくり時間をかけてと君は言っていただろう」
 自分の興奮をはっきり自覚したシャーロックは、生まれる欲求がどこまで行くか想像できない。分からなくて困惑してしまう。マインドパレスの奥にこっそりしまってあるポルノと同じようなことまで、もしかしたら求めてしまうかもしれない。それはジョンの許容を超えてしまうのではないか、シャーロックは不安を覚えた。
 ジョンはシャーロックの顔をじっと見つめた後、そうじゃないよと首を振る。
「それは君が分からないと言ったからだよ、だから急ぐ必要はないとも言っただろ? でも今の君は分かりだしたようだからね、だったら僕は言った通り君の望みに応えるだけだ。さあシャーロック、君は部屋でいい子にして待っていてくれ。僕もシャワーを浴びたら行くから。君が誘ってくれた今夜のデートは本当に素晴らしかったからね、僕も君に最高の夜をプレゼントするつもりさ、シャーロック」