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■ HOME(Sherlock S/J)2020.12. 6

S4以降の話そのA。
221Bを出て行こうとする助手とハドソン夫人の話。
S→JがS→←Jになったかなくらいです。

***

 控えめなノック音。ハドソン夫人は気持ちよく口ずさんでいた鼻歌をぴたりと止めた。予定にない来訪者に視線を玄関に向けると、見慣れたシルエットがドアのガラス越しに見える。
「入っていらっしゃい、あらロージーも一緒なの。そう事件なのね、今日は外出の予定もないから預かりは大丈夫よ」
 ジョンがロザムンドを連れハドソン夫人を訪ねる時は、決まって娘を預かって欲しいと申し訳なさそうに頼みの言葉を口にする。221Bに戻ってくる前は、預ける頻度は多いもののハドソン夫人の予定も考えジョンは事前に連絡をいれていた。戻ってきてからは頻度は少なくなったものの逆に突発的に預けることが多くなっていた。一重にシャーロックの存在が変化の理由だった。勤務医であるジョンと違い日中はシャーロックが在宅であることが多く、彼は率先してロザムンドの面倒を見てくれている。ただし事件ともなるとそうはいかない。不意に舞い込んできた事件をシャーロックが請け負うことになればどうしたってフラットを不在にすることが多くなる。仕事や事件で面倒を見る人がいない時、急遽ロザムンドの受け入れ先となるのがハドソン夫人の部屋だった。
 娘を抱いているジョンを目にし、心得ているとばかりにハドソン夫人は頷いて見せた。ハウスキーパーではないけれど、可愛いロザムンドの相手をすることはハドソン夫人にとって手を焼くもののとても楽しい時間だ。
 さあこちらにいらっしゃいと、ガラス玉のように澄んだくりくりな瞳を見せるロザムンドに向けて両手を差し出したハドソン夫人に、ジョンは違うんですと首を振った。
「その、ハドソンさんに相談したいことがあって。シャーロックも外に出ていていないし、後で外出の予定があるから連れてきたんです」
 ジョンが私に相談したいだなんて、どんな事なのかしら。考えると同時に一つの可能性がハドソン夫人の頭を掠めた。ああもしかして、とうとうそうなの? 微かな期待にハドソン夫人の胸がうら若き乙女のように高鳴る。ハドソン夫人は唇に楽し気な笑みをのせた。
「ジョン座って、お茶を飲みながらゆっくり話しましょう?」
「待ってくださいハドソンさん、そんなに長居する予定はないんです。ロージーの新しい靴を買いにいこうと思ってるんで。立ったままでいいです」
 部屋の隅に置いてあるロザムンド用の椅子をいそいそと移動させようとしていたハドソン夫人は拍子抜けた表情で、ドアを背にし再び首を振ったジョンを見た。喜ばしい報告かと思ったのに違ったのかしら。
 そこでようやくハドソン夫人はジョンが困惑した表情を浮かべていることに気付いた。持ち上げようとしていた椅子から手を離す。そもそもジョンは相談といったのだから、困りごとがあるに違いない。ハドソン夫人の望む報告は、どうもまだのようだった。
「その、最近のシャーロックはハドソンさんから見てどうです?」
 優しくて大好きなハドソン夫人の方に行きたいと、小さな両手を精一杯に伸ばしてぐずりはじめたロザムンドの背を、落ち着かせるように心音のテンポでぽんぽん叩きながらジョンは問いかけた。
 ジョンが何を話したいのか分からないけれど、ハドソン夫人は頬に右手をあてると少し考えてみせた。
「どうって……以前よりかは奇行は減ったわね。暇だと喚いて壁に銃弾で穴を空けたり、キッチンによく分からない実験道具や気味が悪い液体なんかを放置することもなくなったわ。そうそう、あなたが仕事で出ている時、よくバイオリンが聞えてくるわね。それも明るくて元気だったり、穏やかで優しいものが多いわ。以前の、何ていうのかしら苛立ちや悲哀が交じったものは減ったわね……」
 眉を顰めつつ指折りながらシャーロックの所業を数えていたハドソン夫人は、そうよ、不意にそういって開いた両手を胸の前でパンッと打ち合わせた。
「ロージーに向けて弾いてるんだわ、お昼寝の子守唄代わりだったり、ご機嫌斜めでぐずった時にね。おやつを持っていった時にあなたのソファで眠っているロージーを何度か見たことがあるの、決まってシャーロックのバイオリンの音色が聞えていたわね」
 ロザムンドはシャーロックのバイオリンが大好きで、癇癪を起こした時だって旋律を聞かせてあやしてやれば、機嫌は回復する。シャーロックもバイオリンを聞かせることによってロザムンドがご機嫌になることから、頻繁に弾くようになった。特に彼女の機嫌が悪いときは。以前の自分の気の赴くままに奏でていた型にはまらない感情むき出しの旋律とは違い、相手に聞かせるための思いやりに満ちた穏やかで優しい、包み込むような音楽に変わっていた。階下で耳したハドソン夫人が心温かな気持ちになるような聞き惚れる音へと。
 時々、どれだけシャーロックが頭を働かせ手を尽くしても、ロザムンドの機嫌が一向に回復しないこともある。そんな時シャーロックはハドソン夫人に助けを求め、階段を駆け下りてくる。食事も与えオムツも新しいものに替えているのに全く泣き止まない、お手上げだと探偵にはあるまじき情けない表情で。彼にとってロザムンドの頬を濡らす涙の訳は、どんな難事件よりもすこぶる難解な問題だったようだ。結局はオムツがずれていて気持ち悪かったから、ほんの些細な理由だったが、簡単に見抜いて早々に解決したハドソン夫人をシャーロックは真剣な面持ちで素晴らしいと称えた。無類の名探偵からの褒め言葉に、ハドソン夫人はちょっとだけ鼻高々になる。無論、その後のシャーロックは同じ失敗は二度と繰り返さなかったし、ロザムンドの反応をマインドパレスの中にきっちとおさめていた。
「今のシャーロックは良いパパをしていると思うわ。勿論、不十分なところもあるけれど、それでも凄く頑張って見えるの。……ジョン、シャーロックはまたあなたと一緒に暮せて嬉しいのよ。だから、あなたたちとの生活が長く続くように、破綻しないように努力して気を使っているんだわ。まるでパートナーのようにね」
 言い切ったハドソン夫人は、まっすぐな視線をジョンへ向けた。彼の反応が気になっていた。
 口を出しすぎかしらと微かに不安を抱きながら、けれどシャーロックの思いを知っているハドソン夫人は言わずにはいられなかった。シャーロックはこの件に関してハドソン夫人に相談はしたものの助言以外の協力は求めないときっぱり言った。シャーロックから打ち明けられた思いに、色々と手助けする気満々で気分を高揚させていたハドソン夫人はすぐに落胆した。残念だと感じると同時に、それも当然ねと221Bに居ない相手のことを心から深く思う、シャーロックの端正な顔を見上げながら思い直した。お節介の焼きすぎは、シャーロックの意思を尊重するうえで厳禁だった。
 シャーロックとのやり取りからもうすぐ一年経とうとしている。言われていた以上、ハドソン夫人はシャーロックに対する助言以上の行動は起こさなかったが、ここ数ヶ月はずっと焦れったかった。再び一緒に暮すようになって心の底から喜んで、きっと秒読みねと期待に胸躍らせて嬉しい報せを待ってたものの、彼ら二人の関係に大きな変化を感じられなかった。並ぶ後ろ姿からうかがえるのは心からの大切な親友。ジョンの両手はロザムンドを抱えるために埋まっているが、シャーロックの自由な両手は並び立つ相手の背を彷徨いながらも、触れることが叶わず彼の後ろで組まれている。ハドソン夫人は、もどかしくて焦れったくて仕方なかった。伝える気はあるとの素振りは見せていたというのに。何度か視線でシャーロックに問いかけたこともあったが、彼はそ知らぬふりでハドソン夫人を躱してしまう。
 少しだけ背中を押したって悪くはないわよね。面白がってではない、ハドソン夫人は心から二人を思っていた。
「……」
 ハドソン夫人の期待に反して、ジョンの表情は浮かない。引き結ばれた唇は何かを堪えるように、少し震えた。眉間には深い皺が刻まれる。ジョンが見せる反応の理由が分からないハドソン夫人は困惑し、小さな不安が胸の中に生まれ淡い期待を掻き消した。ジョンは大人しくなった我が子を抱きなおすと、丸い頭をゆるりと撫でる。表情を苦笑いへと変えたジョンは、引き結んでいた唇を綻ばせた。
「僕らここを一旦出ようと思ってるんです。でも間違いなくシャーロックは反対するだろうから、彼を説得するのにハドソンさんの協力を仰ぎたいと思って」
 ジョンはちょっと困ったことで、手助けをお願いしたい程度の軽い口調で言う。深刻な問題ではないというように。
 ハドソン夫人はまずは聞き間違えではないかと己の両耳を疑った。先ほどまで何ら問題なく会話が成立していたので、耳がおかしいわけではない。次にこれはもしかして夢なのかしらと思い、手の甲を抓ってみたが当然のように痛い、現実だと思い知らされる。最後に疑ったのは目の前のジョンだ。
「ここを出て行くって、何かの冗談なのジョン。それともシャーロックと喧嘩でも?」
「いえ、冗談じゃないんですハドソンさん。それに喧嘩だってしていない、彼との関係は良好です」
 かすかに震える声で問いかけるハドソン夫人とは対照的に、ジョンの口調は落ち着いていた。怒りや苛立ちは見えない。
 冗談ではなかったのだ、ハドソン夫人は驚愕に目を見開くと、キッとジョンを睨みつける。
「椅子に座ってテーブルに着きなさいジョン・ワトソン! こんな大切な話、立ち話で終えられないわ! さあロージーはこっちよ!」
 ハドソン夫人の剣幕になすすべもなくジョンは立ち尽くす。ジョンの手からロザムンドを取り上げると、ハドソン夫人の横に移動させていた彼女用の椅子に座らせた。小さな手にすかさず小さなぬいぐるみを握らせて、ロザムンドの興味をそちらに向けさせる。戸惑いながらも椅子に座るジョンを横目に、ハドソン夫人は傍らのキッチンに立ってお茶の準備を始めた。憤りも露わながら丁寧な手さばきでカチャカチャと陶器を鳴らしセットを終えたハドソン夫人は、不意に思いついたようにエプロンのポケットからモバイルを取り出してサッと操作する。
「ジョン、あなたが何を考えてここを出て行きたいなんて言い出すのか私にはさっぱり分からないし、正直賛成できない。でもあなたがここを出て行く理由を、包み隠さない思いを教えてくれて、なおかつ私が納得できるものであるならば、あなたに協力しても構わないわ。あなたが協力を仰ぐ以上私には知る権利が発生するのよ。ただし、漠然とした理由なんて受け付けませんからね!」
 モバイルを蒸らし中のポットの横に置きざま、ハドソン夫人はジョンに向き直ると厳しい瞳で彼を見つめる。こうなることを少しは予想していたのだろうジョンは、曖昧な表情を見せながら頷いた。
「この紅茶は少し特殊で蒸らしに時間がかかるの、あなたが沢山喋って喉が乾く頃にはできあがるでしょうから。さあ話してもらうわよ、ジョン」
 ジョンの向かいに座ったハドソン夫人は、両肘をつき顔の前で両手を組むと、強暴に見える笑顔を彼に向けた。



「ねぇジョン、私はあなたが再びここに戻ってきた理由を知っているのよ。だからシャーロックと喧嘩しようが、顔も見たくないほどの怒りや不満を抱えようが、同居を解消することはできないって思っていた。ロージーのことを思えばね。その問題は解決しているの?」
「いえ、そうでは……」
 ジョンは歯切れ悪く答える。
 シャーロックがジョンに戻ってくればいいと提案し、一度は断られたことをハドソン夫人は知っていた。そもそもシャーロックから相談されていたのだ、ジョンに戻って来て欲しいがどうすればいいのだろうかと、同時にシャーロックが抱く思いも。ジョンが一人で子育てに奮闘していることは周知の事実だったし、壊れかけた友情も回復している。メアリーが亡くなって数か月程。もう少し時間を置いて、シャーロックあなたから話をしてみたらいいんじゃないかしら。一度出て行ったジョンからは言い出しにくいことでしょうから。ハドソン夫人の助言をシャーロックは真面目な顔で聞いていた。
 きっぱり断られたシャーロックは、ジョンの前では始終平静を保っていた。その後、ワトソン親子と一緒に彼らの家に行き有言実行して221Bに戻ってきたシャーロックは、出迎えたハドソン夫人を目の前にしゅんと項垂れた。シャーロックはジョンが”分かった戻るよ”と快諾してくれると信じて疑わなかった。理由だってちゃんと伝えた。だから首を振られてショックを受けた。ただ、それを表に出さずに平静を装ったのはジョンを必要以上に苦しませたくなかったからだ。本当だったら、もっとジョンに言いたいことがあったのだろう。理論尽くめでジョンの主張を論破することだってシャーロックには可能だったし、今までのシャーロックならばそうしていたに違いない。ジョンの意見も尊重したい、過去のシャーロックにはなかった姿勢だ。
 ハドソン夫人はシャーロックの成長を喜びながらも、悲しげな表情で突っ立つ彼を軽くハグして、ホットミルクをいれてあげることしかできなかった。
 ジョンは意地を張っているだけかもしれない、いろいろあった二人だから。シャーロックに素直に話せないだけなのかも。ハドソン夫人はシャーロックへの言葉がジョンの本心なのか確認したいと探りを入れたが、やはり戻る予定はないと言って彼女を落胆させた。ただジョンの表情にかすかな憂いがあったのは見逃さなかった。
 しばらくは平行線のままかしら、ハドソン夫人は”戻って来て欲しい”と”戻って来たい”を素直に言えない二人を、ため息交じりに眺めるだけだった。
 二つの線が不意に交わった時、ハドソン夫人は心から喜んだものの、シャーロックが語った内容は褒められるものではなかった。犯罪ではないが心証は良くない。ジョンが知ったら、僕は君の掌の上だったのかと腹を立てるだろう。シャーロックの話を困り顔で聞き終えたハドソン夫人は、二人の間で共有した真実を闇に葬り去ることに決めた。だって彼はシャーロック・ホームズだ、世間一般の善悪を説いてもどこ吹く風だ。
 ハドソン夫人の望みは、ただ彼ら三人が一緒にあることだけだった。
「解決していないのよね。だったらなぜ、あなたは出ていきたいなんていうの? その問題を無視してでも出ていかなければいけない理由なんて」
 いったい何があるというの、続くはずだった言葉をハドソン夫人は飲み込んだ。ロザムンドを見えない悪意から守る、ジョンの優先順位の上位にある事項を押さえるほどの理由とは。
 不意に浮かんだ考えにハドソン夫人の表情がこわばる。ハドソン夫人は途切れがちな声で喘ぐようにジョンに尋ねた。
「……ジョン、あなたもしかして、新しい恋人が?」
 ジョンは何も言わず顔を傾け視線をテーブルに落としている。
 シャーロックから相談されてこちら、ハドソン夫人は彼から思いを告げられた場合ジョンは迷いなく受け入れると信じていた。初めて二人を揃って目にした時から、まるで一揃いであるように違和感なく二人はぴったりはまって見えて、ああそうなのだろうと確信していたといってもいい。ジョンはことあるごとに否定していたから今すぐにではなく、これから築かれていく未来のどこかできっと二人はハドソン夫人が想像する関係になるのだろうと。流石にジョンが結婚した時は自分の観察眼に首を傾げたけれど、傍らに誰か別の人がいたとしても、互いに向ける愛情は誰よりも深いものだろうと思っていた。その後、幾多の不運が続き一時は絆も途切れたかのように見えた。傷つき苦しみながら乗り越え受け入れ合い、二人はかつての親友へと戻った。
 元に戻った二人。自覚して受け入れたシャーロックに、頻度は少ないけれど時間を見つけては221Bを訪れて昔と同じ表情を見せるジョン。ああ今なのねとハドソン夫人は理解した、だからシャーロックに相談を受けた時、大丈夫よと応援したというのに。
 ハドソン夫人は唇をかんだ。
「そうなのねジョン……ああ分かっているわ、メアリーが亡くなって一年以上は経ってるもの。あなたが彼女を愛していることは知っているけれど、死んだ人に義理立てし続けなければなんて私は、いえ誰も言えないわ。あなたが新しい誰かを愛するようになる、それは素晴らしいことだし、責められることじゃないわ。本当ならおめでとうって言わなきゃいけない。でも、でもねジョン」
 それ以上は言葉にならなくて、ハドソン夫人は口をつぐんだ。
 ハドソン夫人の知らない誰かと再び恋に落ちるジョン。可能性を失念していた。だって第一印象からシャーロックとジョンはお似合いだったのだから。
 ああどうすればいいの、叶うと思ってシャーロックの背中を押してしまったというのに、無責任にも。ハドソン夫人に大きな罪悪感がのしかかる。同時にジョンへの批判の言葉が込み上げてきた。
 なぜなのジョン、シャーロックの思いを、ひたすらに向けられる思いを全く気付いていなかったの。微笑ましくなるほど真っすぐで、泣きたくなるほど純粋な思いに。ジョンを問い詰めたい衝動に駆られながら、そんな資格はないのだとハドソン夫人は分かっていた。
「……ッ、そうじゃない、そうじゃないんですハドソンさん」
 悲しみを滲ませたハドソン夫人に、ジョンは顔を上げた。表情は苦し気に歪んでいる。二人の間に漂う不穏な空気を敏感に感じ取ったロザムンドがぐずり始めた。幼い顔がぐしゃりと不安げに歪む。
 立ち上がったジョンはロザムンドをひょいと抱きあげ、あやすように背中を優しく撫でながら再び椅子に座った。優しい父親の顔をしている。
 ジョンは娘が落ち着いたのを確認すると、ゆっくりとハドソン夫人へ視線を戻した。先ほどまでの様子をがらりと変え、ジョンはどきっとするくらい穏やかな表情をしていた。
「新しい恋人なんていません、少し前はロージーとの生活で手一杯だったし、今はシャーロックと一緒で彼も手伝ってくれるから少しはゆとりもできたけど、恋愛する予定なんてありません。たぶん、これから先ずっと」
「そう、なのね……」
 否定されてハドソン夫人はほっと胸をなでおろす。ただジョンが言った”恋愛をする予定がない”との言葉が胸に引っかかった。
「だから、僕はこれからシャーロックと同居を続けていけないんです」
 二人の会話だけ聞いていれば、ジョンが続けた言葉に違和感しかないだろう。恋愛は今後しない、ならば同居になんの問題があるのか。あるいはジョンの言葉は何かの暗喩なのか。
 ある事実を知っているハドソン夫人には、このジョンの言葉が暗喩でもないそのままの意味だと分かった。同時にそれはもう一つの事実をハドソン夫人に知らしめる。ハドソン夫人の瞳が驚愕に見開かれていく。
「シャーロックは、何かあなたに言ったのかしら。その、あなたをどう思っているとか……」
 言葉を選びながらハドソン夫人は慎重に問いかける。ジョンは首筋に頭を摺り寄せるロザムンドの柔らかな髪を梳きながら、シャーロックからは何も聞いてませんよと言う。
「……ただ、そう気づいたんです。シャーロックが僕に向けている思いってやつに。やっぱりハドソンさんは知っていたんですね。もしかして彼に相談されたり?」
 最後は少しのからかいを含んだ口調で尋ねられる。頷きそうになったものの口止めされている以上、ハドソン夫人は曖昧な笑みを見せることしかできない。ただそれは肯定してるも同じ反応だった。ジョンはハドソン夫人の反応に、変わらず穏やかな笑みを浮かべている。
「僕が気付いたのはつい最近です。221Bでまた暮らすようになってからシャーロックは凄く協力的でした。まあ事件が絡めばやっぱり今までのシャーロックでしたけど。さっきハドソンさんも言ってましたよね、僕らの生活が破綻しないようにって、僕らと一緒にいることを望んでくれてるんだ、とても嬉しかった。ただ唐突に気づいたんです、彼の瞳の中にある思いが友情だけじゃないって。それがいつからかなんて分からないけれど、再び同居を始めるときにはそうだったんじゃないかなって思います。あの頃から彼はすごく優しいし、僕ら親子に気を使ってくれていたから。不確定要素もあったんですが、さっきのハドソンさんの話が決定打になりました。ああ、そうなんだなって」
「シャーロックの思いに気づいたから、同居を続けていけないってことなの? ……彼の思いを、受け入れられないから?」
「……はい」
 ジョンはちゃんとハドソン夫人と視線を合わせ、肯定の意思表示をした。
「ただ、シャーロックの思いを否定したいわけじゃないんです。個人的には彼が今まで向き合うことのなかった感情を身をもって知ることは好ましいと思っています。ただ、どうせならば僕以外の人だったら良かったのにって。そうしたら間違いなく彼は恋を実らせてるでしょう、シャーロックは付き合いにくいところもあるけど、僕の知るなかで最も賢くかっこいい男で、何より良い奴ですから」
「ジョン、あなた本当にそんなことを思っているの……? あなた以上に彼が心を割いて深く愛している人はいないし、これから先も決して現れたりしないわ、絶対」
 ハドソン夫人はジョンよりシャーロックとの付き合いが長い。だから彼女には分かる、他者の感情を置き去り傍若無人な振る舞いで事件を解決していた探偵は、彼の唯一の助手を得て変わっていったのだと。自分を犠牲にしても優先させる大切なものができ、相手を思いやる心を知って、最後には生涯唯一の恋に落ちた。さながら感情のない優秀な人型ロボットが、一人の人間との出会いで生身の肉体を得てハートを手に入れる、おとぎ話のような。
 ハドソン夫人の言葉に、ジョンはハッと息を飲むと顔を歪ませた。先ほどまでは努めて冷静であろうと意識していたようだが、彼の被る笑顔の仮面はハドソン夫人の鋭い指摘に脆くも崩れようとしていた。
 無意識に手に力が入っていたのだろう、ロザムンドが痛がるように言葉にならない声を上げた。
「ロージーをこちらへ、ジョン」
 強制的にハドソン夫人の横にロザムンドは移動させると、まるで彼女が手の中にいたから冷静であれたのだというように、ジョンから落ち着きが無くなっていた。
「ねえジョン、あなたがシャーロックの思いを受け入れられないことを責めるつもりはないわ。世の中のすべての片思いが叶うわけないのだし、あなたが彼に友情しか抱けないのに、そこに恋愛感情を持ち込むのは間違ってる。でも、どうして221Bを出て行くってことになるの? シャーロックに応えられないから、申し訳ないから? だったらそれをちゃんとシャーロックに言うべきよ、あなたの口から。シャーロックが納得するか……私には判断できないけれど、彼は何よりもあなたたちと一緒に暮らせることを望んでいるわ。だからきっと、どこかで妥協点を見つけてここを出ていくなんてことにはならないと思うの」
 間違いなく初恋であろうシャーロックには辛いことだろう、同時に直感で裏付けしたただけの確信で背中を押してしまったハドソン夫人は申し訳なく思う。きっと、この恋が破れてしまえばシャーロックは二度と誰かを愛することはないだろう、だから成就して欲しかったけれど、ジョンの思いを蔑ろにしてはいけない。
 シャーロックがどんな反応を見せるのか、想像しようとしてハドソン夫人は止めた。何より二人には話す時間が必要だ、自分が間に入る必要はない。立ち上がろうとしたハドソン夫人を、ジョンが引き止める。
「いや、違うんです、それも違うんですハドソンさん! 僕はここを出ていきたいんです、出ていかなきゃいけないんですッ!!」
 唐突な叫びにハドソン夫人は弾かれたように視線をジョンに向けると、彼は両手で頭を抱えていた。いら立つように髪をぐしゃぐしゃに掻きまわしている。ジョンがなぜここまで221Bを出ていくことに固執しているのか、ハドソン夫人にはさっぱり分からない。それでも急激な変貌に、心配になったハドソン夫人はジョンに駆け寄るとその肩を労わるように擦った。
「ジョン、ジョン、落ち着いてロージーが驚いてるわ。……ねえ、あなたはどうして出ていくことばかりしか口にしないの。シャーロックと一緒に暮らしていくことが嫌なの?」
「嫌だったら、こんなに苦しくないんだ!!」
「ジョン!!」
 ガタンっと激しい音が響く。ロザムンドの表情はかんばしくなく、抱きあげてやりたかったが優先されるのはジョンだった。感情も露わに叫ぶジョンが気がかりで仕方ない。ハドソン夫人はロザムンドの様子を伺いながら、ジョンに顔を上げるように促した。
 ジョンはのろのろと顔を上げる。泣きそうに歪んだ顔に、ハドソン夫人の胸が痛む。
「今のあなたはとても苦しそうで、見ていて私も心が痛いわ。暴れそうな感情を無理やりに自分の中に押し込めているみたい。……ジョン、私言ったわよね? 包み隠さない思いを教えてって。私が納得できるものならば協力するって。ジョン、あなたまだ隠していることがあるんでしょ? それがあなたを苦しめているんでしょう? 教えてジョン、吐き出した方が少しは楽になると思うの」
 不意にロザムンドの泣き声が響き渡る。慌ててハドソン夫人はロザムンドに駆け寄ると、彼女を抱え上げて涙の滲んだ眦を、指先で軽く拭ってやる。ハドソン夫人は落ち着けるように背中をぽんぽんと一定のテンポで叩き続けた。
「……すみませんハドソンさん、取り乱してしまって……」
 ロザムンドをあやすうちにジョンの方も落ち着きを取り戻していた。表情は暗く、申し訳ないように身体を小さくしている。向かいの椅子に戻ったハドソン夫人は、抱えたロザムンドの滑らかな頬を撫でながら良いのよと首を振る。
「それでジョン、あなたがあれほど感情を爆発させて隠していることを教えてちょうだい。……あなたは”嫌だったら、これほど苦しくない”って言っていたわ。あなたの本心はシャーロックとの同居を続けたいと願っている、でもできない理由があなたの中にある、だから苦しい決断だけど出ていかなきゃいけないと思っている、そういうことなのね。その理由が、あなたが隠し続けていることなんでしょう?」
「……はい」
 自分でぼさぼさにしてしまった髪もそのままに、ジョンは視線をウロウロさせる。前髪の下りたジョンは、その仕草も相まって迷子の子供のようだ。よほど言いにくいことなのだろう、定まらないジョンの視線にハドソン夫人は辛抱強く待った。
「……僕も気づいたからなんです」
 テーブルの上に視線を落としたジョンは、向かいに座るハドソン夫人にやっと届くくらいの小さな声で呟いた。
「彼を、愛しているってことに」
 震える声。聞き間違えることはなかったものの、咄嗟にジョンの言葉を上手く理解できず、ハドソン夫人は固まってしまう。
 愛している? 誰が誰を? ハドソン夫人が知っているのは相談してきたシャーロックがジョンへ向ける愛情だ。けれど、今ジョンが口にした愛はそれとは違う、矢印の向く方向が違うのだ。ジョンがいう愛は、間違いでなければジョンからシャーロックに向けられているものだ。
 身体を小さくして頭垂れているジョンを、ハドソン夫人の見開かれた瞳が凝視する。
「……ジョン、確認させてちょうだい? シャーロックはあなたを愛している、それはいいわね」
「……はい」
「そして今あなたは、あなた自身もシャーロックを愛しているのだと言ったわ」
「…………間違いありません」
「私が考えるに、いえ誰だってあなたたちは思いあっていると言われる状況よ。祝福を言いくらいだわ。それなのに、あなたはフラットを出ていきたい、出ていかなければいけないと主張し続けている、それはなぜなのジョン」
 お互いに愛しているのならば一緒にいたいと思うのが自然だとハドソン夫人は思う。傍にいて、触れて、抱き合って、異なる体温を共有し合うのだ。なのにどうしてジョンは真逆の行動をとろうとしているのか。
「僕は、彼にふさわしくないからです」
「ふさわしくない? どうして」
 ジョンは深呼吸を繰り返すと、しばしの沈黙の後にゆっくりと顔を上げた。ひたすら隠していた思いを吐露し踏ん切りがついたのだろう、ジョンはいっそ清々しい顔をしていた。髪も乱れ眉間の皺もないため、ジョンは実年齢よりもぐっと幼く見えた。
「僕はクソ野郎なんです、特にここ数年は。シャーロックを酷く苦しめて傷つけた」
「あの頃はあなただって辛かったでしょうし」
「だからと言って殴る蹴るの暴行をしてもいいと? 死にかけの彼を放っておいても許されると? あの後、彼に謝罪して僕が苦しめた分とで相殺だと言われたけれど、僕は僕自身をどうしたって許せない。彼に対する罪悪感はずっと僕の心の底に溜まってるんです。それに本当はシャーロックでなく、悪いのは僕なんです。メアリーのこともそうだし、シャーロックが死にかけたのだって僕のためだった。結局、僕は彼を苦しめるだけのクソ野郎だったんです。だからロージーの件がなければ、ここに戻ってくるつもりはありませんでした、彼に甘える資格なんて僕にはないのだから。本当は完璧に離れた方が良いのかもしれないけど……僕たちは互いを何度も失いかけて、再び失うことを恐れて離れられないんです。だから僕はおこがましくも彼の親友の地位に縋り付いているんです。そんな僕が彼からの愛を、きっとまだ誰にも捧げられていない綺麗な純愛を貰う? どう考えてもおかしい、間違ってる。彼の恋心はもっと別の、誰かふさわしい相手が受け取るべきなんです。僕なんかが与えられていいものじゃない。僕が彼の思いに気づかなければ、僕も僕自身の思いに気づかなかったと思います。でも僕は気づいてしまった、成就させてはいけない愛に。気づいてしまってから、シャーロックの一挙一動に目を惹かれて仕方がなかった。今まで分からなかったのが馬鹿みたいに、彼の言葉や振る舞いの多くから僕へ向けられる深い愛情が感じられて、僕は愛しくてたまらなかった。このまま一緒に暮らしていけばどこかで必ずボロが出る。シャーロックを抱きしめたくて、愛していると言いたくてたまらなくなる。衝動は都度抑え込んでいますが、正直シャーロック相手にいつまでも隠し通せる自信はありません。日々彼への思いは増していくばかりだし。もしシャーロックに知られたら……僕はそれが恐ろしいんです、僕は決して関係の変化を望んでいないのに。だから一日でも早く僕はここを出ていきたいんです、シャーロックが気づいてしまう前に」
 今までずっと心に溜め込んでいたのだろう思いを、ジョンは滑らかに言葉へと変換していく。ハドソン夫人は真剣な表情で唇を引き結ぶと、決して口を挟まずジョンが一息つくまでひたすら聞き手に徹していた。
「……ジョン、それがあなたの隠しごとのない本音なのね」
 ジョンが口を一旦閉じて沈黙したのを確認すると、ハドソン夫人は尋ねた。ジョンは笑顔さえ見せて頷く。ただ儚さの感じられる笑顔だった。
「ええ、そうです。シャーロックはこれが初恋だろうから、今は初めての経験に舞い上がっているだけです。距離を置いて会う機会を減らしていけば、今は激しく燃え上がる炎のように高い熱も必ず冷めるでしょう。今のシャーロックは出会ったころよりかは人当たりも良くなったし、精神的に大人になった。今まで出会った人、もしくはこれから出会う人の中に好意を抱く相手がいるかもしれない。いや現れるはずです、彼は愛を知ったのだから、僕よりもっと素敵な人を見つけて愛せると思います。彼の存在は否応無しに人を引き付けるから。ハドソンさんは現れるわけがないと言ったけれど、そもそもシャーロックが愛を知ったこと自体が奇跡なのだから、これからの未来に対して同様の奇跡が再び起こり得ないなんて誰も言いきれないでしょう? 彼がその愛を捧げる伴侶を見つけた、その暁には僕は心から彼を祝福する親友でありたい。……きっと、そのころになれば僕の恋心だって燃え尽きてしまっているでしょうから」
 熱っぽく語るジョンを前に、ハドソン夫人の表情は変わらない。
「今あなたが語ったことは、シャーロックには伝える気はないのね?」
「勿論です。シャーロックはきっと納得しないでしょうし、話が拗れるだけです。僕がこのフラットを出ていく、その事実だけを押しとおすつもりです。理由が必要なら適当にでっち上げてもいい。でも、ハドソンさんは何がシャーロックにとって一番幸せにつながるのか、分かりますよね? 僕は間違ったことを言っていない」
 ジョンはきっぱりと言い切った。一切の迷いも感じられない。自分の選択が間違いではないと確信しているのだ。
「ロージーの件は? 解決していないんでしょう?」
「……僕はシャーロックを頼り安易な道を選びました。僕には難しい可能性も高いけれど、他に方法が無いわけじゃない。ちょっとばかし生活が苦しくなっても仕方がないことです。それでハドソンさん、再度お願いします、シャーロックを説得するのに協力を仰いでも?」
 ハドソン夫人は落ち着いたロザムンドを椅子に戻すと、彼女の額から頬にかけてを指先で撫でていた。
「ねえジョン、あなた自分勝手じゃない? あなたの語った中に、シャーロックの思いへの配慮は全くなかったわ。あなたを愛するシャーロックの心を、あなたは蔑ろにするのね。いつかは冷めるだろうなんて勝手に決めつけて。いくらシャーロックのことを思って、彼の幸せを願ってなんていっても結局は自分のためじゃない。笑わせないで、そんなこと協力できるわけないじゃない」
 ジョンに同情を一切見せないハドソン夫人の言葉は、確実にジョンの心を抉った。けれど自分に傷つく資格などないと思っているジョンは、鋭い針に覆われたハドソン夫人の言葉を黙って飲み下した。
「だったら、どうすれば協力してくれます?」
 どうしてもハドソン夫人の協力を得ておきたかったジョンは、食い下がる。ハドソン夫人は無言で立ち上がると、キッチンに立った。そこで不意にアラームが聞こえなかったなと、ジョンは思った。特殊な紅茶で蒸らしに時間がかかると言っていたから、モバイルでタイマーをセットしていたのだろうと思っていたのだ。話し始めて30分は経っているというのに、まだ出来上がっていないのだろうか。
「なんといわれても私は協力しないわ、これは私が間に入っていい話じゃないもの。だから、二人っきりで決着がつくまで存分に話し合うべきね」
 ハドソン夫人はモバイルを手に取ると、何の操作もせずに耳にあてた。
「あなたもそう思うでしょう、シャーロック」
「……え」
 耳にモバイルをあてたままハドソン夫人は玄関に向かう。思わず目線で追いかけたジョンは、ドアのガラス越しに知った長身のシルエットを確認すると、一瞬の内に凍りついた。
「ずっと立たせたままでごめんなさいシャーロック」
 言いながらドアを開けた先には、言葉通りシャーロックが立っていた。彼は耳からモバイルを外しコートのポケットに仕舞うと、促されるまま部屋に入る。表情は非常に険しく、振り返ったままの姿勢で硬直しているジョンを底冷えのする鋭利な瞳でぎろりと睨み付けた。
「ジョン、君は常々馬鹿だと思っていたが、これほどだとは思ってもみなかった!! なんだ、あの自分勝手な言葉の羅列は! あと10秒でも長く話していたら、ふざけるなと怒鳴り込むところだった!」
「シャーロック、ここでは駄目よ、ロージーがいるんだから。ジョンに言いたいことがたっぷりあるんでしょうけど、部屋に戻ってから存分に言ってちょうだい」
 放っておけば憤りのままに喚き続けるだろうシャーロックを、ハドソン夫人はため息交じりに窘めた。流石のシャーロックも、ハドソン夫人には弱い。彼は不満げな表情を隠しもせず、不承不承の態で口を噤んだ。
「……いつから?」
 どうにか口だけは動くようになったジョンは、呆然とした口調で独り言のように呟いた。無論聞き逃さないシャーロックは、ふんと鼻を鳴らすと当然のように答える。
「ハドソンさんが紅茶の準備を完了し、僕が部屋に入る直前までだ。ハドソンさんがずっと君たちの会話を中継してくれていたからな」
 瞬間、ジョンの顔から血の気が一気に引いていく。ジョンがシャーロックに一番隠したかった事は全て、綺麗に聞かれてしまっているわけだ。あまりのことに声も出ない。
「私は謝りませんからねジョン。あなたたちが話し合うために必要な材料はこれで揃ったでしょう? 今からロージーは私が預かるわ、だからあなたたちは二人きりでじっくりと話し合いなさい。一晩かかってでもいいから、双方納得できる結論を出すこと。できなかったら三人とも追い出しちゃうわよ?」
 チャーミングな笑みでさらりと爆弾発言をするハドソン夫人に、シャーロックは神妙な顔で頷く。
「いつまで固まっているつもりだジョン、さっさと部屋に戻るぞ。君に言いたいことが僕には山ほどあるんだ!」
 会話の一部始終を聞かれていた事実に即刻この場から逃げ出したいと心底思っていたジョンだが、レベル7以上の事件が複数個飛び込んでこない限り無理だろうと悟った。いや、それすら蹴散らしてシャーロックはジョンを選ぶだろう。それくらいシャーロックからは今までにないほどの憤怒が感じられた。
 声をかけたが立ち上がる様子をみせないジョンに焦れたシャーロックは、彼の腕を掴むと強引に立たせる。身体がうまく動かない状況で急に引っ張られ、ジョンはバランスを崩してしまう。転倒しそうになったジョンを、シャーロックの腕が迷わず抱きとめた。小さな身体はシャーロックの腕の中にすっぽりと入ってしまう。
 激しい感情も露わなシャーロックの、ジョンを支える手は口調と裏腹にずいぶんと優し気だ。ハドソン夫人は目の前の光景にふふっと笑った。
「ねえジョン、あなたはシャーロックの幸せのためにって言ってたわよね? 思うんだけどシャーロックの幸せの中にはあなたの幸せも含まれているんじゃないかしら、あなたが幸せじゃないとシャーロックだって幸せじゃない。となると同居を解消することは、ジョンにとって幸せじゃなくなることだからシャーロックだって当然そうなるのよ、そうよねシャーロック」
「その通りです。むしろ君はなぜ自分の幸せからは目をそらしていたんだジョン、僕はそれが一番許せない、君が君自身を蔑ろにしていることが!」
 頭の天辺を見せるジョンの顎を大きな手でとらえ引き上げたシャーロックは、いまだ混乱の最中にいる真ん円に見開かれた瞳を至近距離から覗き込むと、あらん限りの声で吠えかけた。
「僕は君とまた一緒に暮らせることに心からの幸せを感じていた! 今までの君の反応を思いだせば、僕の思いを必ずしも君が受け入れてくれるとは思えなかったし、君たち親子が幸せそうに見えたから、伝えぬままにずっと一緒に暮らせていければいいと思っていたというのに!! 僕の思いに気づいていて、君も僕を愛していただと?! それが理由でここから出ていくだなんて、ふざけるな!!!」
 まるで火山の噴火を髣髴とさせるシャーロックの怒りを、真っ向からぶつけられたジョンは反射的に震えあがる。ジョンは言い返すことはおろか、シャーロックの腕から逃げることもできない。
「シャーロック! ここでこれ以上の話はなしよ! さあ今すぐに出ていってお二人さん!!」
 このまま話し合いもしくは一方的な怒鳴りつけに突入しそうな雰囲気を察したハドソン夫人は、二人の背中を問答無用で追いだした。
 シャーロックに引きずられていく最中、ハドソン夫人を一瞥したジョンの顔は絶望一色で、心から彼女の助けを乞うていた。
 そんなもの知らないわ。なにも話さないままにいようだなんて、シャーロックが激怒するのも当然なのよ。彼の震えるほどの憤りと胸を締め付けられるような悲哀、その中核にある深い愛に向き合ってちゃんと受け止めるべきなのよ。
 ハドソン夫人はジョンの救いを求める眼差しを撥ねつけるように、ドアをぴしゃりと閉めた。
 階段を上っていくどたどたと激しい足音と、憤りを感じさせる容赦のないドアの開閉音が頭上から聞こえてくる。
 ハドソン夫人は今からでもロージーと一緒にお友達の所に避難した方がいいかしらと考えながら、蒸らし過ぎて美味しさの損なわれた紅茶を仕方なしに一口飲む。やっぱりあまり美味しくなくてハドソン夫人はしかめっ面になった。
 一方的に捲し立てているのだろうシャーロックの声が、何を喋っているかは不明だが聞こえてくる。今のところジョンの声は全く聞こえないが、それも時間の問題かもしれない。そうなるともっと騒がしくなることは予想に容易い。
「……全く、本当に手のかかる二人なんだから、ね、ロージー?」
 ハドソン夫人が溜息とともに零した言葉は呆れ切っていたけれど、その声は彼らに向ける愛情を感じさせるようなたっぷりとした温かみに溢れていた。