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■ Get out(Sherlock S/J)2020.10. 2

BBC「Sherlock」を元にしています。

S4以降、助手親子が221Bに戻るとしたらの、ゆるい妄想話です。
S/JというよりS→Jくらいで淡々としています。

***

 ジョンの暮らしは多忙を極めていた。子育てと仕事、周囲の協力は得ているが、それでもメアリーとともに暮らしていた時とは比べ物にならないくらい。
 シャーロックが戻って来てから助手として同行した数は、フラットシェアをしていた頃より減っているが、今よりは格段に多かった。今は一月に一度あれば良い方で、誘いの大半は断ってばかりだ。
 断る確率が高いと分かっていながらもシャーロックはよくよくジョンに声をかける。都合はどうだ? と。何度も口にした謝罪を伝えると、ならば次に会った時にでも話そう、そんなやり取りを何度も続けていると流石にジョンも申し訳ないと感じた。
 思いをストレートに伝えてしばらくは助手業を休業した方が、せめて娘との二人暮らしを安定して送れるようになるまで。なんて言ってみても、シャーロックはそんな必要はない、君の都合が悪ければ断られるのは当然だ。優先すべき家庭があるのだから。申し訳ないと思う理由がどこにある? 気にするなと言ってのけた。
 だからジョンは一つ、自分の中に取り決めを作った。


 二人で暮らすようになって数か月。少しずつ慣れはじめたある日の正午過ぎ。ジョンはご機嫌なロザムンドを抱えて221Bのドアをくぐる。部屋の奥から顔を覗かせたハドソン夫人は、訪問者が待っていたワトソン親子だと知ると目じりに皺を寄せ優しく笑んだ。今日行くからとシャーロックに送ったメッセージはハドソン夫人にも伝わっていたようだ。
「いらっしゃいジョン。さあロージーは私が預かるわ、今回は一ヶ月ぶりよね? もう一人の子どもが寂しがってるわよ」
「僕の子どもはロージーだけのはずなんですがね」
 あんな大きな子ども、僕の手に負えませんよ。苦笑いを浮かべたジョンはハドソン夫人の手に娘を託すと、慣れ親しんだ階段を鳴らしながらのぼっていく。
「声をかけなくて正解だジョン、くだらない話など聞くに堪えない」
 居間へ一歩足を踏み入れると同時に放たれた言葉。咄嗟には意味を掴みかねたジョンは眉を顰めたが、すぐに理解すると力を抜いた。
 シャーロックは、ジョンが221Bのドアを開ける直前まで、一人の女性がそこに佇んでいたことを知っていた。無論、依頼人かと思ったジョンが声をかける間もなく女性が立ち去った事も。窓際に立って眺めていたのだ。
「まあ、あの思いつめた表情は大方恋愛がらみだとは思うけどさ」
 横顔から見ても綺麗な女性だったな、今のジョンは誰かに恋愛感情を抱くことはないけれど、勿体無いと感じた。でも、下らんとシャーロックに冷たく切り捨てられ傷つけられることを回避できて良かったんじゃないだろうかとも思う。
「そんなことよりもジョン」
 立ち去った人間に興味のないシャーロックはすぐに話題を切り替える。
 シャーロックの瞳がジョンに向けられた。頭から足先まで滑り降りた視線は、ジョンの顔に戻ると観察から一転し不機嫌になる。やっぱり隠し通せなかったと、全てを見透かす真っ直ぐな瞳がかの口をもって言い出す前に、ジョンは先手を打つ。
「医者の不養生って言いたいんだろ、そのままの意味でね。でもハドソンさんは何も言わなかったよ、小さな変化にも君が気にしすぎなんだ」
 顔色は悪くないだろ、言って自分の頬に人差し指を当ててみせる。
「ハドソンさんはロージーに夢中だから君にまで気が回らないのは当然だ。それに経験上、彼女の中で無茶をするのは僕だと決めつけがある。ジョンは医者だから自己管理だって大丈夫だ、そう思い込んでいる。一ヶ月前よりも君の体重は6ポンドは落ちているというのに」
 事実、ジョンは疲れていた。二人暮らしに慣れたといっても無理をして慣らしているだけであり、余裕なんてない。日中の仕事に自宅での慣れない家事と育児、休日があったとしても完璧にフリーになる時間は無い。今日だって午前中は溜まっていた洗濯物と掃除に時間を費やし、昼食で一息入れてシャーロックを訪れた。
 正直言えばロザムンドと共に昼寝がしたいと思った。ここしばらく、身体の中心には鉛のようなだるさが消えずに残っている。たっぷりの休養は必要だと、自分でも理解していた。しかしこの一ヶ月、シャーロックと顔を合わせてゆっくり話す時間がとれていない。ロザムンドを預かってもらう際に顔を合わせるが、それも短時間。ジョンのソファに座り、時間をかけて話す暇などなかった。
 ジョンには一つ取り決めたことがある。一ヶ月に最低でも一度、シャーロックとこの部屋で話す時間を持つか、彼の探偵業に助手として付き添うこと。後者は事件や依頼が舞い込むタイミングがジョンの動けるタイミングと合致しないと難しい。必然的に前者となることが多い。
 必要に応じて連絡は取り合っているし、週に何度かは短時間といえ顔を合わせているのだから無理に時間を作る必要はない。現状をしる第三者は言うだろうが、そんな考えをジョンは即座に否定する。
 ジョンの脳裏には、薬漬けになった探偵の姿がいまだ色濃く残っている。当時は自分の人生を底なし沼に落とし込もうとしているシャーロックに対して、怒りと悲しみしか感じなかった。もともと理解しきれない相手ではあったが、この時ばかりはシャーロックが何を考えているのか全く分からなくなった。
 その後明らかになった真相は、ジョンに重く圧し掛かった。同時にシャーロックが己に向けてくれている思いの深さを知って、少し泣きたくなった。
 それがシャーロックとの時間を必ず持とうとした理由だった。それにシャーロックもジョンに体調管理がなっていないだの無理をしているだの指摘するものの、無理に会いに来るなとは決して言わない。シャーロックとてジョンと過ごす時間を好ましく思っているのだ、手放したくない。

「君たち二人の生活はまだ始ったばかりだというのに、今後どうするつもりなんだ? 君はメアリーがいない分もロザムンドに愛を注ぎ育てようとしている。僕たちは協力を惜しまないが、それでも君の生活に余裕ができるとは思わない、今のままでは」
 窓際から足を進め己がソファにシャーロックが身を沈めると、ジョンも向かい合うソファに腰を下ろす。今日はまだ話が続くらしい、それだけ自分の状態が宜しくなかったのかとジョンは考えるものの、いや前回とさほど変わりないはずだと判断した。さっきも言ったが顔色は悪くないはずだ。精々、体重の減りが前回よりちょっとばかし多いくらい。医者だからそれくらいわかる。
「そこで提案だ、ここに戻ってこないかジョン。そうすれば君の生活は今より楽になる、僕もハドソンさんもいる」
 さらりと放たれたシャーロックの言葉にジョンは目を瞬いた。先ほどまでの会話は、この言葉への布石だったわけだ。ジョンは、己に向けられるシャーロックの思いを嬉しく思いながら、けれど困ったように笑うと首を振る。
「そりゃもう一度戻ってきたかったよ、でもそれは僕が独身だったらね。……僕は一度、娘のことを放っておいて逃げた弱くて酷い父親だ、だからこれからは彼女をちゃんと守り育てなきゃいけない。誠実に関わらなくちゃいけないんだ。自分だけじゃどうしようもない事、仕事中の世話とかは協力してもらわないと僕たちは暮していけないけど、これ以上の協力は僕を甘やかす事にしかならない。君の気持はありがたいけどね。今はまだ余裕もないし正直きついと思うこともある、でも父親として頑張らなきゃ。何でもかんでも頼って甘えたくないんだ。極力、ロージーの世話は自分自身でしたい。まあ本当にやばくなったら、ちゃんとヘルプは出すよ。その時はぜひ助けてくれシャーロック」
「わかった、ただしどこかで勝手に倒れるのは止めてくれ。連絡が取れないのもだ」
 シャーロックの発言にジョンは内心笑ってしまう。過去、どちらかと言えばジョンがシャーロックに向けて発言する言葉だったからだ。立場が逆転して自分が言われるようになるなんて考えもしなかったから、おかしくて仕方がない。けれどシャーロックの言葉は一理ある。だからジョンは頷いた。
「了解だ。と、この話はここまでにしよう」
 ジョンは持っていたバッグに手を伸ばし、ラップトップ代わりの小さなノートとペンを取り出した。少し前のめりになって見せる。
「一週間前、君が誘ってくれた事件があっただろ? 聞いた時はわくわくして、でも断らなきゃいけなくて酷く残念だったんだ。君は最高の諮問探偵だ。勿論、解決してるよな? 顛末を教えてくれ。僕のブログにコメントが沢山来ててさ、早く新しい事件の話が読みたいって言ってる。皆飢えてるんだよ、君の話に」
 勿論、僕だってそうだけどね、さあ存分に語ってくれシャーロック。言ってジョンは瞳を輝かせた。


「ありがとう、この中のいくつかはブログに載せるよ。最初に話してくれた事件は必ずね」
 ジョンの知らないいくつかの事件を、シャーロックはいつもの調子で話してくれた。二人とも表情は非常に満足げだ。手慣れたジョンはうまい具合にシャーロックを誘導して事件についての詳細を引き出すと、鮮やかな推理に何度だって惜しみない賛辞をおくる。すると気分が乗ったシャーロックが、彼からすればつまらないのだろう他の事件に関しても話し始めて、数時間があっと言う間に経過していた。
 いくつかの事件が書きこまれたノートをジョンが片付けたタイミングを計ったように、階下が騒がしくなる。間違いないロザムンドの泣き声だ。慌てたジョンが立ち上がると、階段をバタバタと駆けのぼってくる音が響く。迎え入れるためにドアを開いた途端、ハドソン夫人の困り顔が部屋をのぞきこんだ。
「ああジョン、替えのオムツを持ってきてるかしら? 預かってた分がもう無いのよ」
「すみません、こっちの荷物に!」
 失念していたとバッグを引っ掴んだジョンは、ハドソン夫人と共に階段を駆け下りていく。シャーロックは2人が階段を下り切ったと同時に立ちあがると、慌てる様子もなく彼らを追いかけた。


 ジョンは手慣れたものだった。てきぱきとロザムンドの汚れを綺麗にしてオムツを履き替えさせたジョンに、傍らで見ていたシャーロックは上手くなったものだと評価を下す。シャーロック自身はいまだロザムンドのオムツを替えたことはない。こうやってジョンやハドソン夫人が取り替えているのを何度か見学しただけだ。
 そもそも、シャーロックがロザムンドと一緒にいる時は基本ハドソン夫人がいて、彼は話しかけたりあやす程度だ。二人きりはいまだない。ジョンがシャーロックを信頼していないわけではないけれど、ジョンでさえも最初は手を焼いている幼子の世話だ、子育てはもとより子供との接触が限りなくゼロに近いシャーロックに任せてしまうのは、教父を頼んでいるが少し不安がある。それに申し訳なさもあった。
「次は明後日だったわね? だったらいくつかオムツを預かっておいてもいいかしら?」
「ええお願いします」
 汚れ物を片付けたジョンは、バッグの中から出した真新しいオムツをいくつかハドソン夫人に渡した。その時、腕時計が目に留まったのだろうジョンは、ああもうこんな時間なんだと呟いた。
「もう帰らないと、ロージーにご飯を食べさせて風呂にいれてあげなきゃ」
「ジョン、今日は自分の車で来ていないな?」
 ハドソン夫人に抱きかかえられていた我が子を受け取りながら、ジョンはシャーロックの言葉に頷く。
「うん、最初はそのつもりだったけど、ちょっと不安だったからタクシーだよ」
 運転中に居眠りでもしたら危ないし、ロージーがいるから尚更さ。ぱたぱたと帰り支度を始めたジョンの手から、綺麗になりすっきりして眠くなったのだろう瞼を下ろしウトウトしだしたロザムンドをシャーロックがひょいと取り上げた。
「シャーロック?」
「ならば僕も一緒に君の家に行こう」
「え」
「後学のために彼女を風呂にいれたい。その後、君たちが食事をするのを見届けて僕は帰ろう、いやむしろ寝かしつけもしてみたい」
「そういう時はねシャーロック、手伝いがしたいと言うのよ」
 頬に手をあててため息交じりにハドソン夫人が補足する。ジョンもシャーロックの言いたいことくらいは分かっていたけれど、それがあまりにも唐突で面食らってしまう。けれど気遣ってくれていると察してすぐにジョンは破顔した。
「あー、そうだね、お願いしようかな。ただし、絶対に逃げるなよ。こんな小さな身体でも、それはもう凄いんだから」
 ジョンの忠告はからかいを含んでいるけれど、可愛らしいロザムンドに振り回されてぐったりとした夫婦のかつての姿を見知っているシャーロックは珍しく神妙な顔をして頷く。
「勿論、大丈夫だ承知している。ジョン、ロージーは僕が運ぼう、君はキャブをつかまえてくれ」
 それから大人2人と夢の国に向かい始めた幼子は、ベイカーストリートで拾ったキャブに乗り、ワトソン親子の家へと向かったのだった。




 それから数か月後、シャーロックがロザムンドを預かることも増えた。ナニーの都合が合わなかったりハドソン夫人やモリーに頼めない時などが主ではあるが、ジョンは心から感謝した。初めて預けるとき、ジョンに不安は無かった、なぜならシャーロックが実施で学ぶ姿を傍らで見ていたからだ。教師はハドソン夫人だったりジョンだったり、シャーロックは全く言葉の通じない幼子に酷く苦戦している様子だったが、決して声を荒げたり投げ出したりしなかった。ジョンが驚くほど、シャーロックは辛抱強かった。
「シャーロックは、あなたの役に立ちたいのよ」
 今日は天気もいいからフラット付近を散歩してくる。お昼寝終わりで元気いっぱいなロザムンドとシャーロックを見送った後。ハドソン夫人はジョンに紅茶を出しながら楽し気に囁いた。
「それに私の勝手な予想だけど、あなたがフラットに戻って来る時のことも考えているんじゃないかしら? もちろんロージーも一緒にね」
「……かも、しれません。でも今のところ予定はないですよ」
 戻ってくればいいとの言葉は、あの一度きりだ。けれどその思いは消えていないだろうことが、シャーロックの行動の端々から感じられていた。
 仕事が押して迎えが遅くなった時、食事とお風呂を済ませて安心しきった顔で眠るロザムンドを抱えたシャーロックは、君も疲れているだろうからこのまま泊まっていけばいい、3階はいつだって使える状態にしてあるからと、労わるように言ったのだ。シャーロックが。その言葉に甘えたいと一瞬思ったけれど、ジョンは礼を言って愛娘とともに自宅へ戻った。ここで頼ってしまうと同じことを繰り返すだろうことが、目に見えていたからだ。ジョンは頑なだった。
「あらそうなの。でも覚えていてジョン、あなたたち親子なら私はいつだって歓迎するわ、勿論シャーロックだってそうよ」
 そういって優しく微笑むハドソン夫人に、すっかり記憶の彼方に消えてしまった母親の姿を見るようで、ジョンは胸に込み上げてくるものを感じた。





 そんなある日の午前中。外出しようとしていたシャーロックに、話したいことがあるんだ、今日時間はあるかい? できれば今から。そんな連絡がジョンから入った。どこか暗いジョンの声に大丈夫だと返事をすれば、ロージーの準備があるから一時間後に行くと言って電話は切れた。
 バーツへの用事は一時間もあれば済む、判断したシャーロックは予定通り外出を決めると、階段を駆け下りた。

 シャーロックが221Bに帰り着いた時、待ち人の姿はフラットになかった。幼子相手だと予定も上手く遂行できないものだ、ここ数か月の内にシャーロックが知った事実の一つだ。
「帰ってきたのねシャーロック、お客さんがお待ちよ? 約束があったみたいだから部屋に通して待ってもらっているわ。あなたが出て少し経ってたから、結構待ってるわ」
 ドアの開閉音にハドソン夫人が顔を見せた。シャーロックの姿を確認すると、上階を指さしながら教えてくれた。
「約束? 僕は今日、ジョン以外に会う約束はないんですが、いったい誰を通したんですか、ハドソンさん」
「え、そうなの? あなたの依頼人として話を聞いてもらう約束があるからって……綺麗なお嬢さんだったわ」
 困ったように頬に手をあてるハドソン夫人をそのままに、シャーロックは無言で階段をのぼり居間へのドアを開け放つ。部屋はシャーロックが出て行ったそのままで、無人だった。
「あら居ないの? 待ち時間が長くて帰ってしまったのかしら」
 シャーロックに続いて部屋に入ったハドソン夫人は、きょろきょろと見回して通したという女性を探す。しかし無論、二人以外に人の気配はない。
「……ああそう、思いだした。依頼人との約束があったんでした、でも居ないのならば仕方ない。僕を待ってまで話したい依頼ではなかったんでしょう」
 部屋に入り一言もなく周囲を見回していたシャーロックは、不意にそう言って振り返った。
「だからジョン、君の話を今から聞こう。そういうわけでハドソンさん、僕はジョンと話しがあるのでしばらくは訪問者があっても声をかけないでください、お願いします。終わったら声をかけますから」




 何か大切な話があるみたいだから、ロージーは私が預かるわね。挨拶もそこそこにハドソン夫人はロザムンドを抱えて降りていく。
 シャーロックが自分のソファに座っても、ジョンは浮かない顔で立ったまま、依頼人が座るために用意している椅子にちらりと視線をやった。どこか迷いが見える。
「ジョン、君はこちらだろう?」
 シャーロックは自分の向かいの空いたソファを指さして、ジョンを誘導して座らせる。
「それで、君は手紙を書いた犯人捜しを僕に依頼したいのか。内容は想像に容易い、僕とフラットシェアをしている時、同じようなものを何度か受け取っているはずだ。手紙だけではなく公開しているブログ経由でもね。その内容に関して君は今まで一度だって僕に話したことはない、話す必要なんてないと判断していたんだ。けれど今回ばかりは気にかかることがあって僕に相談を持ちかけようとしている、そんなところだろう。今の僕に確実にわかるのは犯人が君の家のポストに手紙を直接投下したことくらいだ。持ってきているんだろう? とりあえず内容を確認させてくれ」
 そこまで言い終えた後、シャーロックは右手をジョンに差し出した。ジョンは目を見開いて息を飲んだ後、ふうと深い溜息をついて片手で顔を覆った。気付いていたんだな……そう呟きながら、小さく首を振る。
「君の前で躊躇する時間なんて無駄だったな」
 ジョンはジャケットのポケットからほんの僅かに覗いている封筒を取り出し、差し出された手の上に載せた。ごくありふれた封筒の中には、僅かばかりの文字が印刷された紙が一枚、折畳まれて入っていた。
 ――再び舞い戻った崇高な存在に、お前は相応しくはない。あろうことか子の世話をさせるなど、万死に値する。これ以上彼にまとわりつき苦しめるというのであれば、貴様ら親子に必ずや天罰が下るだろう。
 ありきたりで面白みも特にない、お手本のような脅迫状だった。顎に手を当て目を通していたシャーロックの眉間に皺が微かに寄ったのは、あまりにもつまらないものだったからだ。
「君を熱狂的支持する、もうカルトといってもいいくらいのファンが今でも居るだろ。崇高なる存在、孤高の天才なんて、君を神聖化しているようなファンが。そう言う人たちにとって僕が君の助手として一緒に行動していることが酷く苦痛で絶望だったみたいで、君とフラットシェアしている間は同じような内容の手紙やメールを何度か受け取ったことがあった。君がいなくなった時はしばらくして納まっていたけれど……またこうやって復活したみたいだ。その大半は悪戯や口先ばかりで実害は無かったから君に相談する必要もないと思って、放置していたんだ」
「大半? 八割の間違いだろう、残りの二割は実力行使に出たものの、君の能力値を小柄な見た目から想定し軽んじていた愚か者ばかり。結果、君は見事全部を返り討ちにしてしまった。そうだな」
 まるで見ていたかのようにシャーロックは断言する。ジョンは溜息と共にそうだと言って、頷いた。視線はシャーロックから逸らされている。
「君は見た目に反して強暴であり、射撃の腕前だって優れている。だから、このような幼稚な内容の手紙など、今まで同様に気に留める必要などない。結局口先だけだろう、こんなもの真に受けるだけ馬鹿だ。けれど君は、昨晩一睡もできないほど悩み続け、結果青白い顔と目の下の隈を隠しもせず僕の元へとやってきた。それは何故か? 答えは簡単だ、犯人の標的は君だけじゃない、ロージーも含まれているからだ」
 ジョンの表情が歪む。引き結ばれた唇を噛み、足の上で重ね合わせている両手にグッと力が入る。それはジョンの中に渦巻く怒りと不安を如実に表していた。
「その通りさ、シャーロック。狙われるのが僕だけならば、こんな手紙なんて笑って捨ててやるよ、一晩中悩む必要なんてない。接触して来ようものなら自分の馬鹿げた行動を後悔させてやるつもりだった。でも、脅迫の矛先はロージーにも向いている。僕は、それが心底恐ろしいんだ。……君が言うとおりこんなものを真に受けるのは馬鹿げている、悪戯か口先ばかりに過ぎない。今までの経験上、その確率が高い。分かっている、分かっているんだ。でも僕は、万が一を考えてしまう。万が一、この手紙の差出人が今までの奴らと違っていたら? 本当に僕らに、ロージーに、手を下すことを厭わない奴だったら? 僕は守りたいんだ、娘を、ロザムンドを。四六時中彼女の一番傍にいて、守りたいんだ」
 俯いたジョンは両手を胸にあて、痛みを堪えるように掻き毟っていた。
 心臓の奥、心の中に深く残る傷がじくじくと痛むのだろう。メアリーを守れなかったと、彼女を裏切っていたと、己を責めたててつけた深い傷が。どろりとした血が、掻き毟る爪先が作った傷から滲み出ている。シャーロックには、ありもしないその傷がはっきりと見えた。幻想だと一笑できない。
 ジョンは二度も、愛する人の触れることのない脈を指先で確認したのだ。一度目は勿論シャーロックであり、二度目はメアリー。シャーロックは仕掛けがなされた偽りであったが、ジョンは二度の絶望を味わったことには違いない。その一端をシャーロックは担ってしまっていた。
 だからシャーロックには分かる、ジョンの胸に走るいくつもの傷が、滴り落ちていく血液が見えるのだ。
「ジョン」
「短期間なら可能だ、でも娘と生活していくにはどうしたってお金が必要で、僕は働かなきゃいけない。そうすると、傍にはいられないんだ、守れないんだ。僕の心配が過剰だって思うだろ? でもメアリーはもう居ないんだ、ロージーを守れるのは僕だけなんだ!」
 感情の高ぶりのため、最後には悲鳴にも似た叫びがジョンの口から迸る。苦しげに肩で息を繰り返した。それだけ、この手紙がジョンに巨大な恐怖を与えたのだ。
 感情をむき出すジョンとは対照的に、シャーロックは波紋のおこらない水面のように静かだった。ただ、その瞳には狂おしい感情が渦巻いていたけれど、蹲るジョンは気付かない。シャーロックは一度瞬いて、その感情を奥にひそめた。
「ジョン、君はどうしたいんだ」
 シャーロックはゆっくりした口調で尋ねる。
「働かずに四六時中ロージーの傍にいる? そんなの現実的ではない。では犯人を探し出す? 僕にならば容易なことだが、それも一時しのぎにしかならない。君の心を占めている恐れを解消する、根本的解決には繋がらないだろう。僕と同居していた時にも受け取っていたならば分かるはずだ、この手紙の一件を解決したとしても、同様の脅迫が今後もないとは言い切れない。いや、間違いなく今後も同様の脅迫は、犯人を変えて続いていくだろう。……僕と縁を切らない限りね」
「!」
 弾かれたようにジョンは顔を上げた。先ほどまでの怒りと恐れが入り混じった歪みは消え、酷く強張っていた。カッと見開かれた瞳が、シャーロックを食い入るように見つめる。
「だってそうだろう? この脅迫の根本的原因は、僕が君と一緒に居るからだ。それを解消してしまえば、今後君は恐怖を覚え、愛娘をどう守ろうかと眠れぬ夜を過ごす必要はない。それが一番じゃないか? ……仮に、君が僕から離れられるのであればだが。ジョン、僕には分かっている、君は僕から離れられないし、逆に僕も君から離れられない、二度とね。そうだろう、ジョン。僕らはお互いを失うことを、心底恐れているんだ」
「シャー、ロック」
 シャーロックは座ったままでは縮まらない距離を、立ち上がって数歩進むことによって詰め、ジョンの前に屈みこむと片膝をついた。そして、今も胸に突き立てられている指先を掬い上げた。胸元を真っ赤に染めていた血が、傷の消失と共に消えていく。そのままシャーロックは両手でジョンの一回りは小さな手を包み込んだ。
 触れ合った他者から伝わる体温に対して、シャーロックが特別な何かを感じたことはなかった。たった一人の例外を除いて。今触れているジョンの少し高い体温は、じわりと染み渡り心地よさと安心感をもたらしてくれた。あの時だってそうだった、涙を零すジョンを抱き締めた時も。腕の中にすっぽりと入り込んでしまう程に小柄だったのだと、気付いたあの時。
 きっと、ジョンも同じはずだとシャーロックは思う。じわりと交わる熱がきっと、高ぶる彼の心を落ち着けてくれるはずだと。
「だったら、どうすればいい? 答えは簡単だ、ここに戻ってくれば良い」
 言ってシャーロックはにっこり笑う。
「まず君の家のセキュリティーには分かるだけで12の問題があるが、このフラットならば完璧に僕の掌握下にある。君の家のセキュリティーを改善した場合より遙かに高セキュリティーにできる。それに君が仕事に出る時は僕がロージーを見るし、二人とも不在の際はハドソンさんに頼もう。他のイレギュラーは、その都度対応していけば良い。勿論、同様の脅迫状が来た時はすぐに僕に知らせてくれ、悪戯だろうが何だろうが全て相手を明らかにしておこう。返事でも送ってやれば大半の相手は尻尾を巻いて逃げる、その程度の奴らだ。ああ、君はロージーを今後ナーサリーに預ける予定だろう? 守られてばかりでは彼女の世界は狭いものになってしまう。人格の育成に他者は必要不可欠だろう。そこで僕はロージーに護身術を教えようと思う。まずは逃げ方、次いで万が一の場合に身を守るために。君とメアリーの子だ、優秀に違いない」
 推理を披露する際の流れるような相手を圧倒する喋りではなく、ジョンに伝わるようゆっくりと丁寧に話した。
 互いの体温が馴染んだのを感じながら、シャーロックは強張りの抜けたジョンの手を名残惜しげに解放すると、ソファに戻る。
 ジョンはすっかり落ち着きを取り戻していたが、シャーロックを見る瞳は困惑の色が濃い。
「君の提案は凄くありがたいけど、君の負担ばかりが大きくなるんじゃ」
「なぜ? これが現時点での最善だ。それにジョン、君はロージーを守りたいと、守れるのは君だけだと言っていたが、それは間違っている。僕だって彼女を可愛く思っている、君と同じく守りたいと思っている。……僕は君たち家族を守ると誓ったけれど、結局は守れなかった。それが君を酷く傷つけたことを知っている」
「シャーロック、それなら僕だって君に身勝手にも罪を押し付けて、傷つけて苦しめた。それにメアリーは……君を守ったんだ、君が守れなかったわけじゃない」
「そうだとしてもだ、僕は君に誓った。けれど彼女を死なせてしまった、誓いを破ってしまったことに変わりない。……メアリーの死は君を酷く傷つけたことに変わりないんだ。だからジョン、僕は再び君に誓わせて欲しい、君たち親子を守ると。そして君には、戻ってきて欲しい。このフラットは僕一人では少し広すぎるんだ」
 守れなかったこと、拒絶して罪を押し付けたこと、お互いの心に残るしこり。消し去ることは難しいかもしれないが少しでも軽くできればいい。
「経済面と家事育児の面で君の負担が減って、君の働き方も変えられるはずだ。そうすれば、君は助手業を増やせる。君にだってメリットばかりだろう?」
「……君、一緒に住んでいた時どれだけ家事をしていたって言うんだい」
「人には向き不向きがある。コップくらいは自分で洗っていた」
「……」
「ジョン、以前に君に戻ってこないかといった時のことを覚えているか? あの時の君は甘えたくないと言って首を横に振った。しかしそれは間違っている、君たち親子と一緒に住むことは、僕の誓いを守るためでもある。必要なことなんだ、ジョン。決して甘えなどではない」
「待ってくれシャーロック、少し待ってくれ」
 言葉を重ねるシャーロックを前に、ジョンは両手で顔を覆ってしまうと沈黙した。
「……シャーロック、僕は君を一杯傷つけた。だから可能な限り、君の希望を受け入れたいと思っている」
「ジョン」
「だから、君が望んでいるからを、理由としても良い?」
「! 勿論だ」
 ジョンは両手を下ろし、今日初めて表情を綻ばせた。ホッとしているようだ。そしてゆっくりと頷く。
「もう一度このフラットで君と一緒に暮したい、娘と一緒に。ただ少し時間はかかるから」
「完璧に引越しを終えてしまうことを急ぐ必要はないが、今日から、いや今からでも、こちらに住居の拠点を移したほうがいいだろう。そもそも、3階はいつでも使えるようにしてある。それが手っ取り早く君の睡眠不足を断ち切ることになるだろう? 僕が同じフラットに居る、だったら君も安心して眠れる」
 シャーロックの優しい視線がジョンの隈をなぞる。
「……」
「今からでもいい、最低限の荷物をとってくるんだ、ジョン。ああ無論、この手紙の主は僕が調べておく」
 ただ、ジョンを思っての言葉ばかりを紡ぐシャーロックに、ジョンは言葉を失う。それがシャーロック特有の演技ではない本心なのだと、分かってしまうからだ。以前のシャーロックからは考えられない変化、その原因は。眼差し、言葉、仕草、それら全てに含まれている感情。それは。ジョンは唇をきゅっと結んだ。
「……シャーロック、君は本当に変わったね、勿論いい意味で。うん、君の言う通り今日から娘と一緒にお世話になるよ。荷物取ってくる」
 ジョンは早口で言い終えると、ぱたぱたと部屋を出て行ってしまった。
 シャーロックは主が消えた目の前のソファをしばらく眺める。二人がフラットシェアしていた期間は毎日のように使用されていたソファは、ここ数年あまり使われていない。気がつけば薄っすら埃を被っている始末。
 けれど、今日からは違う。このソファにぴったり合う身体の持ち主が、戻ってくるのだから。
 これからの日々を思い描いたシャーロックは、滅多にないとろけるような笑みを浮かべた。



「シャーロック、今いいかしら? ほら今日来てたって言った依頼人の方、戻って来たみたいなの、下で待ってもらってるわ」
 それと良かったわね、ロザムンドを抱えて来客を報せに来たハドソン夫人は、最後に一言付け加えると花が咲いたように笑う。
「ええ、ありがとうございます、ハドソンさん」
 立ち上がったシャーロックは、小さな何かを眉を顰めて眺めていた。しかしすぐに手のひらの中に隠すと、ロザムンドごとハドソン夫人を軽くハグした。
「伝えられそう?」
 小首を傾げて問いかけてくるハドソン夫人に、シャーロックはちょっと困ったように首を振る。
「それにはまだ、時間がかかりそうです」
「ふふ、そう。焦らずゆっくりとね、きっと大丈夫だから。じゃあ、依頼人を呼んでくるわ」



 迷いの見える足音が階段をのぼってくる。現れたのはハドソン夫人が言っていたように綺麗な女性だった。どこか不安げなのは、依頼人として当然だ。
 シャーロックは心底楽し気ににたりと笑う。
「やはり僕の推理通りだったな」
「え」
「座る必要はない、そこで止まって聞くんだ。すぐに帰ることになるから、分かっていることだろうが」
 歩み寄りながら言ったシャーロックは、ジョンから預かったままだった封筒を眼下の女性につきつける。封筒は紙以外の何かが入っているようで、膨らんで歪な形になっていた。
「ああそれと一緒に返しておこう、今日来た時に忘れていったんだろう?」
 突きつけた封筒を開き逆さにすると、膨らみの正体が紙と共に落下していく。コトっと音を立てて転がったのは、先ほどシャーロックが観察していた何かの機械のようなものだ。
「ひッ……」
 両手で口を覆い悲鳴をかろうじて飲み込んだ女性は、両目を眦が切れるほど見開いて落ちた機械を凝視する。カタカタと身体が震え始めた。頬から血の気が引いて真っ青だ。
「どうした、なぜ受け取らない。どちらも君のものだろうに」
 落ちた機械と紙を拾い上げ再び封筒に入れると、シャーロックは女性の眼前まで差し出して、強引に受け取らせた。
「あ、わ、わたし」
「何も言う必要はない、君からの言葉など一切不要だ。僕からはそうだな、ありがとう。君が出したその手紙が、彼が戻ってくる切欠となった。聞いていたのだから知っているだろうが。だからありがとう、君は僕の予想通りに動いてくれた」
 ただ一つだけ、彼の反応の程度が僕の予想と食い違い、必要以上に彼を悩ませた事実は反省点だが。後半は独り言のように呟く。
 女性は病人のように不安定な呼吸を繰り返し、恐怖に染まる顔は断罪を待つ咎人のようだった。
「さあ、もう用は済んだだろう? 僕は手紙の犯人を突き止めることをジョンから依頼されている。ただ、僕は君の手紙を利用し望む結果を得たのだから、この件で君を追い詰めることはしない。ジョンには悪戯だったと報告しておこう。ただし、これ以上の行動を起こそうものならば――分かっているだろうが、容赦はしない」
 シャーロックは笑みを絶やさない。ただ、熱を全く帯びず、凍り付きそうなほどに冷たい瞳が、女性をひたりと見据えた。
「理解したか? ならばお帰り願おう、ジョンが戻ってくるのだから。少しくらいは部屋を片付けておかないと怒られる、全く、そんなに散らかっている訳ではないのに。彼も別段綺麗好きではないんだがな、どうしてか片付けさせようとするんだ。まあロージーも一緒になるんだ、実験道具や薬品は少し考える必要はあるが……。? どうした、なぜ動かない。恐怖で動けないのか、愚かな。僕は別に君を攻撃する気はない、君が何もしなければな。おや、ハドソンさんの声がする……さてはロージーが何か仕出かしたな、行かないと。聞いての通り君の相手をする暇はない。さあ、このフラットから出て行け、今すぐに!」